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『法華義疏』は膳臣清国のような側近が清書、訂正部分が太子の直筆:中島壌治「「法華義疏」筆者試考」

2021年09月10日 | 論文・研究書紹介
 『法華義疏』については、奈良国立博物館、ついで東京国立博物館で開催された「聖徳太子と法隆寺」特別展(こちら)で一部が展示されていました。九州国立博物館開催の「皇室の名宝ー 皇室と九州をむすぶ美ー 」でも展示された由。

 聖徳太子の真筆とされているのですが、このブログでは、2月に「『法華義疏』の画像データベースによると重要な訂正部分は別人の筆跡:飯島広子氏の博士論文」(こちら)という記事を掲載しました。題名どおりの内容であって、20年以上前の博士論文ですが、刊行されておらず、学界で注目されていないため、敢えてとりあげた次第です。

 その記事では、飯島氏の研究を高く評価しつつ、先行論文であって、しかも44頁もある力作、

中島壌治「「法華義疏」筆者試考」
(『国学院大学紀要』第20号、1982年3月)

を参照していないことを問題点としてあげました。そして、中島氏の論文を近く紹介すると書いてしめくくったものの、それきりになっていました。そこで、今回紹介することにした次第です。

 『法華義疏』は、訂正箇所が多く、しかも色の違う紙を貼って何行もあらたに加えた部分もあるため、作者自筆の草稿本と考えられてきました。

 しかし、古代の筆跡を臨模することで書道史の研究を始め、『法華義疏』についても若い頃以来、何度も臨模してきた中島氏は、その度に見事さに打たれる一面、本当に太子の筆跡かという疑いが強まっていったと述べます。

 その理由の第一は、全巻を通して筆跡・速度の練達度が高く、「あたかも文書筆写を専門の職業とする人物の筆跡のやうに思はれる」ことです。この点は、敦煌写経の専門家であって、『法華義疏』は中国の二流の注釈を遣隋使がもたらしたものと論じた藤枝晃先生も写字生の筆跡だと強調していたところです(三経義疏は変格語法が目立つため、藤枝先生の中国撰述説は成り立たないことは、たとえば、こちら。この当時は、私は中国人が書いた文章ではないという点だけを論じていましたが、その後、文章の長さなどから見て、韓国の変格漢文とは異なると説くようになりました)。

 第二は、丁寧に書くことが要求される経典の写経と違い、注釈などは乱雑に筆写されることが多く、『法華義疏』はその一例ですが、「技が見えすぎる点で、皇族・貴族の筆跡には遠く思はれる」点です。

 第三は、作者が考察を重ねつつ書き進めていった様子が見えず、「あたかも写本をするような」なめらかな筆致の流れが見えることです。

 第四は、あちこちに点在する異筆による加筆の文字の方が、「大らかで呼吸も自然であり、拙朴ではあるが、貴族的と思はれる」点です。

 こうした点については、熱烈な太子礼賛の立場に立ちつつ、文献学的にきわめて厳密な考察をおこなった花山信勝も注意していました。花山は、第一巻の終わり近くで紙を貼って訂正した3行半の部分については、内容から見て作者自身のものとするほかないにもかかわらず、後人の手による他の訂正部分と同筆であるため、これが太子の直筆なら異筆による修正はすべて太子自身のものと見ることができると述べていました。

 つまり「本文は太子の筆ではない」とは言いにくいため、そうは明言せずに、訂正箇所のうち、本文とは異なる書体で記されている部分は太子の直筆である可能性があるとだけ述べたのです。この意見を重視する中島氏は、聖徳太子を神格化した伝記の代表である平安時代の『聖徳太子伝暦』が、

舎人、近江の人。膳臣清国。能書にして寵有り。許多(多くの)経を写す。大仁の位を賜う。(原漢文)

と述べていることに注目します。「大仁」は、官位十二階の第三階で、後の正五位あたりに相当し、舎人としては高位ですね。

 膳臣については、『日本書紀』では、雄略天皇8年、新羅に抱囲された高句麗王が任那王に使いを出し、任那日本府に軍勢派遣を要請した際、そこにいた人物として膳臣斑鳩の名が見えます。また、欽明天皇6年に、膳臣巴提便が百済に使いしたとあり、同31年には高句麗からの使節を饗応するために膳臣傾子が派遣されています。

 傾子は、崇峻天皇即位前紀では、守屋合戦の際に馬子・太子側で参戦した豪族の一人であって「膳臣賀托夫(かたぶ)」と記されており、『上宮法王帝説』では「膳臣加多夫古(かたぶこ)」と記されています。太子と一日違いでなくなった最愛の妻、菩岐岐美郎女の父ですね。

 推古天皇18年には、筑紫に来た新羅・任那の使いを迎える際、荘馬(かざり馬)の長として膳臣大伴が任命されています。

 このように、膳臣一族は外交関連で活躍していたうえ、膳臣清国は「近江の人」とされているため、渡来氏族が展開していた山城や近江とつながっており、漢字に通じていたと中島氏は見ます。隋に派遣された小野妹子も近江の出身でしたね。

 では、清国はどのように『法華義疏』に関わったのか。中島氏は、三経義疏は講経の手控えであったとします。誤字などが多いのは、太子が急いで書いたためであり、そうした誤りが多くて読みにくい草稿を、清国が筆写して誤写を訂正し、それに太子がさらに訂正を加えたと、推測するのです。

 中島氏は、『法華義疏』の本文と別筆による訂正の書法の違いに注意します。漢民族の貴族・知識人が重視した正統の書法は、穂先を逆の方向から入れて折り返し、線の内側に包み込むようにして書く「蔵鋒」であって、これだと文字は重厚になるものの、速くは書けません。別筆部分は、ほとんどこの「蔵鋒」で書かれており、終筆もゆるかやかにおさまっています。

 一方、本文は反対に、鋭角的な起筆部分が見える「露筆」で始め、軽快で曲線的な字をかなりの速さで書いています。また、その書体は、中国の北朝で育った点画を守らない実用的な文字です。この書体は、僧侶や役人によって朝鮮・日本に伝えられました。

 『法華義疏』巻頭の「法華義疏第一 此是大委国上宮王私集非海彼本」という有名な部分は、本文の書体に似ているものの、北朝系の写経などに良く用いられる書体であって僧侶の筆と思われるうえ、「華」の横画が一本多いのはこの人物の癖であって他に例がないと中島氏は説いており、奈良時代の行信の可能性も認めます。

 そして、中島氏は、本文と別筆の書体の違いを詳細に検討した後、注釈とはいえ、『法華義疏』は太子の真撰となれば、最終的には楷書で正しい文字で書かれるべきだとします。そうなっていないのは、太子が稿本をいそいで作り、右筆は、用紙にへらで推して空罫を入れたうえで、細かな文字の誤りなどは訂正せず、太子の草稿をそのまま軽快な書体ですみやかに書写していったためだ、と結論づけるのです。

 第四章では、花山が指摘した箇所も含め、別筆と思われる部分を全巻にわたって抜き出し、複製本から画像を切り出して並べて示しています。

 『伝暦』は太子神格化が進んだ平安期の太子伝であるため、筆写したのが膳臣清国であるかどうかはともかく、状況は中島氏が推測している通りではないかと、私は考えています。
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