聖徳太子研究の最前線

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伊予温湯碑が描く景観を椿のトンネルの写真から想像する

2010年06月12日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報

 伊予温湯碑については、分からないことだらけです。ともかく、典拠に注意してできるだけ正確に読むことから始めましょう。

 まず、碑文では、温泉のほとりの樹木について、「椿樹相{广<陰}而穹{穴/隆}、実想五百之張蓋(椿樹、相い{广<陰}[おほ]ひて穹{穴/隆}し、実に五百の張れる蓋[きぬがさ]を想[おも]ふ)」と述べます(本文は{广<欽}に作るが同筆の傍書によって{广<陰}に改める通説に従う)。向かい合う椿の樹々の枝葉が両側からひさしのように互いに張り出してアーチを形作っており、その様子は、五百の日傘が拡がっている様を思わせると言うのです。

 上山春平先生は、ここで言う「椿」とは、八千歳を春とし、八千歳を秋とするという『荘子』に見える長寿の霊木である「大椿」を意識したものであると述べています。「寿命の長いめでたい木が繁っている、そこで鳥が鳴いていると言ったぐあいに、觀念的に文章をつづったにちがいない」というのが上山先生の推測です。むろん、後世の人が机上ででっちあげた偽の文章だという説です(福永光司・上田正昭・上山春平『道教と古代日本の天皇制』、徳間書院、1978年)。

 そして、上山先生は、そのように高くなる「椿」は、植物学者の同定によればツバキと違って巨木になる「チャンチン(香椿)」であって日本にはないとし、湯岡碑文の記述は「『荘子』の「椿」に引っかけられた道教風の表現と言えるのではないかな」と述べています。  

 この推測が誤りであることは、拙論で指摘しておきましたが、その際は紙数の制限により詳しく論ずることが出来なかったため、今回はネット上の写真を利用させてもらいながら説明します。

  まず、チャンチンは中国では20数メートルもの高さになる例すらあるものの、枝が密生してアーチをなすという説明は見られません。そのうえ、チャンチンの花は白色ですし、葉は春には美しいピンクとなります。一方、湯岡碑文では、「丹花巻葉(而)映照、玉菓弥葩以垂井(丹花、葉を巻きて映照し、玉果、葩[はなひら]に弥[み]ちて井に垂る)」と詠っています(この訓は私の解釈によるものです)。真っ赤な花が葉に包まれて照り輝き、宝石のような実が花びら一杯に大きくなって温泉の水の上に垂れている、というのです。チャンチンとは違います。

 上の描写と一致するのは、藪椿です。藪椿は、大島の椿のトンネルや足摺岬のトンネルで有名なように、温暖な南の海辺近くの地では、巨木になって上の方で密生した枝葉がからまりあい、何十メートルと続くトンネルを作ることがあるのです。

 上原和先生は、伊豆の海辺で、高さ十数メートルもある野生の藪椿がからまりあってアーチをなしているのを見た経験から、古代の伊予には、そうした巨大な藪椿があったのだろうと推測されています(「聖徳太子「伊予湯岡碑文」の解釋をめぐって--故小島憲之博士の御説に答える--」(『學燈』96巻12号、1999年11月)。実際には、花と実は同時ではありませんが、碑文のような「椿樹」の描写は、そうした藪椿のトンネルを実際に見た人か、見た人から話を聞いた人が書いたと考えるのが自然でしょう。

  藪椿は、赤い花を守るように上と下から色濃いの葉がはさんでいます。これを「霜よけ葉」と言うそうですが、「丹花、葉を巻きて」とは、まさにそうした様子を描写したものであって、想像上の植物に関する記述ではありません。『源氏物語』に出てくることで知られ、文献に見えるものとしては日本最古の和菓子と言われる「椿餅」の写真を見てください。赤い道明寺を上下2枚のつやつやしたの葉でくるんでいます。つまり、碑文が言う「椿」は、早くから日本で親しまれてきた植物なのです。また、藪椿の実は、椿と同様、宝石のように輝く黒い実が花びらのような果皮を破るに至るほど大きくなります

  問題は、その藪椿の巨木が作るアーチが、「五百の蓋(日傘)」を思わせると言われていることです。これは従来の注釈ではきちんと説明されていませんが、真流真一氏が『維摩経』冒頭の記述に基づくことを指摘しています(「伊予湯岡碑文と聖太子の佛教(Ⅰ)」(『熊本大學教育學部紀要』26号、1977年9月)。すなわち、五百人の長者の息子たちが釈尊のところにやってきて、それぞれ宝石で出来た日傘を供養すると、釈尊は神通力によってそれらを合成して一つの日傘、それも全宇宙を覆うほど巨大な一つの日傘にし、その中に全世界が映し出され、十方諸仏が法を演説するのが見えた、とある箇所です。

 碑文の序は、「我が法王大王」がこの温泉までやって来て神秘的な効力に感嘆した、と述べています。これまでは、「法王大王」といった言い方は、まだ若い太子にはふさわしくないとする意見もありました。しかし、真流氏は触れていないものの、『維摩経』の上記の箇所のすぐ後の部分では、五百人のうちの筆頭である宝積が、偈によって釈尊をたたえ、こうした奇跡を起こした「法王の法力」の素晴らしさ、「法王の説法」の素晴らしさを賛歎したうえで、「老病死」を救う「大医王」、「大聖法王」である釈尊に帰依すべきことを説いています。

  そうした『維摩経』を考慮すれば、碑文に「椿樹、相ひ{广<陰}[おほ]ひて穹{穴/隆}し、実に五百の張蓋を想はしむ」とあるのは、高いところでアーチをなしている藪椿の様子は、宇宙を覆う巨大な一つの日傘となった『維摩経』の五百の日傘を思わせる、と述べていることが知られます。そして、碑の序の部分が太子のことを「我が法王大王」と呼んでいるのは、そうした椿がアーチをなして上空を覆っている様子を『維摩経』の奇跡に見立てたためであることが知られます。こうした奇跡のような椿のトンネルとなっているのは、「我が法王のおおきみ」の徳によるものなのだ、と称えているのです。しかも、藤原鎌足が病気になった際、新羅の尼が『維摩経』を講じたのが維摩会の起源であることが有名なように、『維摩経』は病気を現じてみせた維摩詰がテーマですので、その点も、病を治するこの神秘的な温泉と一致するところです。

 こうした碑の場合、序と碑文そのものの作者は同じ人物であるのが通例であることは、東野治之氏も指摘している通りです(「七世紀以前の金石文」、『列島の古代史 ひと・もの・こと 6』、岩波書店、2006年)。この序と碑文本体を書いたのは、仏教に通じた人、おそらくは僧侶でしょう。また、親しみをこめたこの「我が法王大王」という言い方は、「我が百済王后」がこの舎利を奉安したと述べている百済の舎利奉安記と同じ用法だと、瀬間正之さんが指摘していることは、以前の記事で触れた通りです。その舎利奉安記に、現存仏教文献中では上宮王撰と伝える『維摩経義疏』のみに見える表現と良く似た表現が見えていたことは、きわめて興味深い事柄です。

 碑文には難解とされ、誤写が疑われる部分が数カ所あり、そのうちの一つが「経過其下、可(以)優遊。豈悟洪灌霄庭」の「洪灌霄庭」です。これについては、道教と結びつける解釈もありますが、「洪灌」は多くの水があふれ流れること、「霄庭」は大空を指す美辞なのですから、椿のトンネルを考えれば容易に解釈できます。すなわち、このように密生した椿であるので、その下のトンネルをくつろぎつつ歩み楽しむことができるのだ、大空に大雨が降ろうとどうして「悟らんや(気がつくだろうか)」、いや、全く気がつかないだろう、というのです。誤写と見て字を改める必要はなく、今のテキストのままで解釈が可能です。

 少しづつ湯岡碑文が読めてきましたね。逆に言うと、これまではこうした内容が読めていない状態で、碑文の性格について、いろいろ議論してきたわけです。とはいえ、このように読めるようになってきたのは、これまでの研究者の苦労のおかげです。

 中でも日本における漢文学受容の研究で画期的な業績あげた小島憲之先生などは、その長い学者人生において、論文や著書の中で4度もこの湯岡碑文の釈読を試みて来られました。最晩年の論考、「聖徳太子団の文学--湯岡碑文記・憲法十七條を中心に--」(『學燈』95巻5号、1998年5月)では、これまで「その都度、真面目に書いたつもりではあったが、「碑文記」は余りにもむつかしく、未だ決定的な結びにまでは至らぬ私という正身[そうじみ]、我と我が身の「学」のない悲哀[あわれ]さである」と述べ、「反省は付きもの、しかしもはや今回で終わりにしよう」と述べて、第5回目の釈読を試みられました。

 84歳の時です。小島先生は原稿を執筆してまもなく急逝され、これが絶筆となりました。碑文が「余りにもむつかし」いというのは、テキストが悪く、碑文自体も倭習が目立つ拙劣な文体で書かれており、従来の注釈では、復原した本文も、句読の切り方も、また語句の解釈もすべて様々であるためです。広く読まれている新編日本古典文学全集『風土記』(小学館、1997年)にしても、その釈読は不適切な箇所が目立ちます。

 湯岡碑文については、上記以外にも、テキストそのものや従来の解釈を訂正しなければならない箇所がいくつもあります。大山誠一『聖徳太子と日本人』第七章のように、「碑文の釈読などは他書にまかすとして」という一言で片付けて偽作論議を始め、「有職故実や古典研究が盛んになった鎌倉時代に、誰かが捏造した文章と考えるのが無難というものではなかろうか」などと結論づけたりすることはせず、次回も、小島先生を手本として一字一句検討していきます。

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