聖徳太子研究の最前線

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聖徳太子は「国体」を守ろうとした?:相澤宏明『聖徳太子・千四百年の真実』

2023年04月19日 | 史実を無視した日本の伝統・国体(国柄)礼賛者による聖徳太子論

 「このブログに関するお知らせ」で説明したように、新しいコーナーを始めました。最初にとりあげるのは、昨年出された、

相澤宏明『聖徳太子・千四百年の真実ー推古改革の謎に迫るー』
(展転社、2022年)

です。

 相澤氏は高校を中退した後、明治期に国家主義的な在家の日蓮主義団体(後の国柱会)を創始し、満州事変を起こした石原莞爾などに影響を与えた田中智学(1861-1931)の系統である鎌倉の獅子王学塾で日蓮学と日本国体学を学び、国家主義的な本などを出版する展転社の会長を務めています。

 田中智学の三男であって、その日本国体学をさらに推し進めた里見岸雄(1897-1974)の影響が強いようで、里見日本文化学研究所の評議員であり、日蓮教学研究会同人代表でもある由。なお、里見は石原莞爾と親しかったことで有名です。

 相澤氏は、「聖徳太子への仰慕心がある」自分の目からすると、世間に数多く出回っている聖徳太子本は物足りないという話で始めます。太子の頃は日本滅亡に至りかねない危険な時期であって、さまざまな改革を必要としており、それをなしとげたのが聖徳太子なのだ、というのが相澤氏の主張です。

 相澤氏が本書の「新しい視点」としてあげるのは、以下の四点です。

  冠位十二階は氏族の横暴を押さえ、天皇に忠誠を誓わせるための制度

  冠は菩薩の宝冠に準えていて、仏教の明かす菩薩道を重視

  十七条憲法の第一条と第二条は、現代の政教関係を原理的に先取り

  仏教の受容と活用は、日本の国体を盤石にするため

以上です。問題なのは、「天皇家vs横暴な氏族(蘇我氏)」という古い図式、また天孫降臨・神武創業以来とする「国体」なるものを大前提としたうえで、聖徳太子は氏族を抑制し、悠久な国体を守ったと主張していることです。

 これは、当時は氏族の対立、横暴がめだっており、文化が停滞していたとする日本仏教史の開拓者、辻善之助(1877-1955)の主張や、神武天皇以来の国体の意義を強調する田中智学、またこれらを受けた里見岸雄の見解、つまり、戦前の図式に基づくものですね。実際、文中でしばしば辻の『日本仏教史』や里見の『聖徳太子』の文を引いて論拠としています。

 しかし、太子が斑鳩に移住してかなり後の頃はともかく、推古朝で改革が進められた時期は、私の「憲法十七条」論文(こちら)で示しておいたように、父方母方とも蘇我氏の血を引き、馬子の娘婿でもあった太子と馬子の共同路線の時期であって、蘇我氏を抑制しようとした形跡はありません。

 また、天孫降臨・神武創業以来という国体なるものは、『日本書紀』がその図式を創りだし、江戸末期になって「国体」の語を用いて主張されるようになり、明治になって井上毅などが「教育勅語」で広めた概念であって、聖徳太子の頃には、そうした概念は全く存在していません。

 だからこそ、「憲法十七条」には「神」という語が一回も見えないのであって、江戸の国学者や神道重視の漢学者たちからは激しく非難されたのです。辻は、「敬神」は改めて言うまでもないから触れなかっただけだという苦しい解釈をしており、相澤氏もこれを受け入れています。

 また、神武天皇を仏教、それも『法華経』と結びつけたのは、セイロンの仏教活動家であったアナガーリカ・ダルマパーラ(1864-1933)が田中智学にセイロンの古伝承を伝えたことがきっかけとなり、田中智学やその同級生だった日蓮宗の清水梁山(1864-1928)などが唱えだしたことです。

 このことは、石井公成監修、近藤俊太郎・名和達宣編『近代の仏教思想と日本主義』(法藏館、2020年)冒頭の「総論 仏教と日本主義」で述べておきました。清水梁山はついには天皇こそが『法華経』の本尊だとする極端な説まで唱えるに至っており、一時期はこれが日蓮宗でも採用されたのですが、このことについては、近代仏教史研究会で発表しており、来年、『近代仏教』誌に論文を掲載する予定です。

 ですから、相澤氏の場合、根本となる前提が間違っているため、「第一条は、天皇を中心に置いたわが国の根源的基礎社会を説いた国体条項と言わねばなりません」(68頁)といった無理な主張が続くことになるのです。

 そもそも「憲法十七条」では「天皇」の語は用いられていませんし、第一条が説いているのは、人々は党派を作って争いがちなので「和」に努めよ、ということであって、日本の国体などにはまったく触れていません。

 相澤氏は「国史編纂こそ国体意識の昂揚」を示す(71頁)と説くのですが、太子より100年後の『日本書紀』ですら、崇峻天皇を臣下の馬子が弑逆し、その馬子が大臣、廐戸皇子が皇太子となって政治にあたったと書いています。馬子が生きている間に、その娘婿である太子がどうやって天皇絶対の国体意識を示す歴史書を編纂できるのか。

 ここら辺は、「聖徳太子はこうであってほしい」という願望以外の何ものでもありません。

 また、「憲法十七条」は役人たちに菩薩として行動するよう求めたものであり、冠位十二階の「冠」は袋状になって飾りがついていたと記されているため、菩薩の「宝冠」に似せたのだと相澤氏は推測しますが、「冠」という点が共通しているだけであって、文献や絵図などの根拠がありません。

 『勝鬘経義疏』の中国撰述説については、私を含めた何人も研究者が証拠を示して否定したのに、「詳細な資料を持ち合わせていませんが、似ているからと聖徳太子の作ではないと短絡させ、かつ断定するのは、あまりにも偏見であり、危険だと思います」(75頁)と述べています。三経義疏を読みこんでおらず、関連論文を読まずに、一般論として希望的観測を述べているだけです。不勉強ですね。

 それに、『法華義疏』は、如来常住と仏性説を強調する『涅槃経』より『法華経』を下に見る梁の光宅寺法雲の『法華義記』を「本義」としているため、その法雲を厳しく批判した天台大師の学統を継ぐ日蓮の立場からすれば認められないはずです。実際、日蓮は、太子については『法華経』を重んじたという点を尊重するのみであって、『法華義疏』の内容を賞賛したことはなく、太子を『法華経』の正系の師に入れていません。日蓮教学信奉者の相澤氏は、太子の義疏をとるのか、日蓮の教学をとるのか。

 この本の末尾には「憲法十七条」が付され、それぞれの条に対する相澤氏の和歌が載せられており、どれも相澤氏の国体論を「憲法十七条」のうちに読み込んだ内容となっています。たとえば、第二条については、

 枉(まが)れをる民らのさがをたゞすため三つのみ宝篤く敬へ(122頁)

という歌が付けられいますが、「憲法十七条」が訓誡の対象とし、「枉を直す」と述べたのは役人たちであって、民は考慮されていません。「憲法十七条」の対象に関する良い論文の例は、このブログで紹介した神崎勝氏の論文です(こちら)。

 このように、相澤氏のこの本は、文献的な根拠のない主張ばかりであって、「憲法十七条」や三経義疏の研究になっておらず、氏自らの希望をそこに読み込んだものにすぎません。

 なお、この本の末尾の著者紹介によれば、相澤氏はNPO法人 昭和の日ネットワーク前理事長、明治の日推進協議会事務局長などの職にあるそうです。そうした立場で活動しているのでしょう。法隆寺や四天王寺が、史実を無視して聖徳太子を持ち上げるこうした国体主義の人々の運動に簡単に乗っからないよう願うばかりです。

【追記:2023年4月20日】
明治期に在家の日蓮主義団体である国柱会を創始したと書きましたが、国柱会という名に改称されたのは、大正3年(1914)ですので、訂正しました。

【追記:2023年4月25日】
 里見岸雄の『聖徳太子』について、辻善之助や田中智学の解釈を承けた戦前の見解と書きました。里見の『聖徳太子』(里見日本文化学研究所、1974年)は、戦後の出版ですが、「教育勅語」の国体論に基づき、また憲法は勅命によるものである以上、「聖徳太子の憲法」というのは適当でないとした川合清丸と同意見であって、「推古憲法」「推古天皇の憲法」と呼ぶべきだと説くなど、完全に戦前の図式に基づいています。