聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

遣隋使研究の進展を示す論文集: 氣賀澤保規編『遣隋使がみた風景』

2012年04月23日 | 論文・研究書紹介
 遣隋使に関する必読の論文集が出ました。

氣賀澤保規編『遣隋使がみた風景--東アジアからの新視点--』
(八木書店、2012年4月、3800円、443頁)

です。600年の遣隋使派遣記事から1400年後となる2000年に実行できなかったため、推古15年の遣隋使から1400年となる2007年に、編者の氣賀澤氏が明治大学で開催したシンポジウム「東アジア史上の遣隋使」の発表と討論に基づいたものであって、内容は以下の通り。

冒頭:カラー写真8頁
序章「東アジアからみた遣隋使--概説と課題」:氣賀澤保規
第I部 遣隋使と国際關係
 1「『隋書』倭国伝からみた遣隋使」:氣賀澤恵教
 2「東アジアの国際關係と遣隋使」:金子修一
 3「朝鮮からみた遣隋使」:田中俊昭
 4「アジア交流しからみた遣隋使--煬帝の二度の国際フェスティバルの狭間で」:氣賀澤
第II部 遣隋使とその時代の諸相
 1「推古朝と遣隋使」:吉村岳彦
 2「遣隋使の国書」:川本芳昭
 3「遣隋使と飛鳥の諸宮」:林部 均
 4「遣隋使の『致書』国書と仏教」:河内春人
第III部 倭人と隋人がみた風景
 1「倭人がみた隋の風景」:氣賀澤保規
 2「隋人がみた倭の風景」:鐘江宏之
 3「遣隋使がもたらした文物」:池田 温
終章「遣隋使の新たな地平へ--おわりに寄せて」:氣賀澤保規
付録:氣賀澤保規ほか
 遣隋使史料集:河内春人・高瀬奈津子
 人物略伝:河内春人
 地図:高瀬奈津子
 官制図:
 年表:石見清裕
参考文献:
【コラム】:岡本公樹

 これだけの内容、それも図や写真が多くて便利この上ないのに、443頁で3800円とは信じがたい値段ですね。絶対にお買い得です。日本古代史については、東アジア全体の中で考えていくほかなくなった状況を象徴する論文集と言ってよいでしょう。

 このうち、河内論文では、当時の外交における僧侶の役割に注意し、「日出処」国書は慧慈、ないし『日本書紀』に描かれた慧慈のモデルとなったような、王権と人格的関係を結んでいた渡来系僧の起草と推測してます。

藝林会「聖徳太子をめぐる諸問題」シンポジウム内容の刊行

2012年04月15日 | 論文・研究書紹介
 このブログで紹介した昨年9月開催の聖徳太子シンポジウムの内容が活字になりました。『藝林』第61巻第1号(平成24年4月)です。内容は、以下の通り。

北  康 宏「国制史からみた聖徳太子--聖徳太子否定論の本質とその再検討--」21-42頁
石井 正敏 「『日本書紀』隋使斐世清の朝見記事について」43-76頁
武田佐知子「聖徳太子の造形--仏教文化史からみる聖徳太子--」77-109頁
石井 公成「問題提起 聖徳太子研究の諸問題」110-137頁
「聖徳太子をめぐる諸問題」相互討論(司会:所 功。パネラーは上記4名)138-152頁

 そして、北氏の発表への批判として投稿され、【研究ノート】として掲載されているのが、

上野利三「冠位十二階に関する新説について」153-164頁

です。

 発表者のうち、北・石井(正)・武田の三先生は、内容を増補して論文形式にされているのに対し、私の場合は冗談ばかり連発していたため、そうした冗談を少し削っただけで、講演の筆録に近い「です、ます」調のものとなってます。

 最初の北論文は、最近の聖徳太子否定論は、推古朝の意義を否定する戦後の日本史学の論調の上に立っていることを確認したうえで、この問題を再検討しようとする試みです。大化改新・律令国家に直接つながる改革の理念は示されていないとする意見に賛同しつつ、過小評価する傾向には反対し、推古朝には独自の方針によって王権の立て直しをはかったことを認めている。結論の末尾は、「その意味で聖徳太子はやはり実在したのである」となっています。

 石井正敏論文は、榎本淳一氏などの研究成果を踏まえつつ、隋からの使者たちの実態を検討し直したもの。『日本書紀』に見える斐世清の朝見儀式については、基本部分では「史実を反映していると考えてよいと思われる」と述べ、信頼性が高いとされる『隋書』にしても、『日本書紀』同様に政治的な色彩の濃い編纂物であることに注意すべきだと論じています。

 武田論文は、広隆寺上宮太子院の有名な太子像を中心として、着物を着せるようになっている裸の太子像群について考察しています。この像については、元永三年(1120)の紀年を持つ銘が胎内から発見されたため、制作時期が従来の通説より大幅にさかのぼることになったこと、柄杓と柄香炉を持つことによって示される王法と仏法の統合の時期もさかのぼることが注意され、現存する諸像と文献の両面から、こうした着衣の彫刻像の意味が論じられています。

 私の発表は、このブログで書いてきたことをまとめ、いくつかの新発見を報告し、今後は学際的、また国際的な研究が必要となることを論じたものです。聖徳太子については、基本文献がきちんと読めておらず、まだまだ分からないことばかりであることを強調してあります。

 「相互討論」では、発表者による講演の補足と、会場からの質問への回答がなされました。また、司会から、女帝である推古天皇登場の意義についての問いかけもあり、また発表者同士の質疑も少々なされました。

 上野論文は、冠位十二階では皇子や諸王や蘇我馬子などには冠位は授けられなかった、とする通説に反対する北説に疑問を呈したものです。『日本書紀』に見える「古冠」に関する記述に関する北氏の解釈を問うています。その中で、『日本書紀』の推古二年の記事は十三年のことと見てよいのではないかといった主張をされており、立場としては、厩戸皇子は推古10年以降は政治力を向上させ、蘇我氏の独裁的傾向を抑制した役割を果たしたという見方です。

 詳細は、また別に紹介します。なお、抜刷はないそうですので、私の分については、引用させていただいた方を含め、関わる方々にコピーをお届けできるのは、少し先になります。

今後は更新ペースは落ち、代わって変格漢文の国際研究プロジェクトが始動します

2012年04月08日 | その他

 仕事が重なり、その他にもいろいろあって、更新がとどこおっていました。他には、このブログを始める際の大きな原因の一つであった大山誠一氏・吉田一彦氏の聖徳太子虚構説が崩れてしまった、と思われたことも一因でしょうか。

 お二人の主張のうち、問題提起や重要な指摘については評価しますし、反論があればお応えしますが、お二人は今後は別な方面の研究に力を入れられるものと考えています。

 昨年までは、週に2回に近い割合で更新していましたが、今後はこのふた月くらいのようになるかどうかはともかく、更新は不定期となり、ペースも落ちる見込みです。

 代わって始動するのが、このブログで扱っている聖徳太子研究と関係深い変格漢文に関する国際研究プロジェクトです。これによって、三経義疏や『日本書紀』の聖徳太子関連記述に関する文体分析が進むことになります。

 日本のこの方面の研究者たちに加え、韓国と中国の専門家たちも加わってくれる予定であるため、幅広い視点からの研究がなされ、聖徳太子研究、『日本書紀』研究などが大幅に進むことが期待されます。

 詳細が確定した段階で、メンバーや活動内容についてご報告し、以後は、この研究チームの活動についても書いていきます。関連する論文一覧や用例のデータベースも作成しますので、整理が進めばネット上で公開していく予定です。