少し前に「出す出す詐欺本」として明日香村教育委員会の古墳発掘本に触れました。今のところ6月半ば刊行の予定のままであって変更通知がないのですが、怪しいため、関連する墳墓論文を紹介しておきましょう。
坪井恒彦「大王(倭国王)陵としての前方後円墳の終焉―敏達・用明あさの墳墓変遷の背景―」
(『羽衣国宰大学現代社会学部研究紀要』第6号、2017年3月)
です。
前方後円墳は一時期は盛んに造営され、7世紀初頭まで全国で5000を超える大小の前方後円墳が造営されました。中でも大王の墓とされるものは、その巨大さで他の豪族の古墳を圧倒していました。それが普通の方墳の形に変更された後、7世紀半ばから後の天皇の高御座などに象徴される八角形に基づく八角形墳という王権独自の墓に移っていきます。
長さ100メートルを超えるものは302基、その半数近い140基は大和・河内・和泉・摂津・山城に集約されています。そうした中で、大王の最後の前方後円墳は、河内の太子西山古墳であって、敏達大王の墓と推測されています。
この古墳は、長さ93メートル、後円部の直径56メートルであるのに対し、前方部幅が70メートルもあります。後世に多少改変された可能性はあるものの、7世紀を中心とする大型の方墳や円墳が多い磯長谷古墳群を見下ろす尾根上にいちはやく造営されています。
敏達大王に続く用明天皇の墓については、『古事記』では「石寸掖上から磯長中陵」に、また『日本書紀』では「磐余池上陵から河内磯長陵」に改葬されたとされており、南河内郡太子町の春日向山古墳がそれだと推定されています。東西66メートル、南北60メートルの大型方墳です。元の墓については諸説あるものの、候補地では前方後円墳の形跡が見当たらないため、当初から方墳であった可能性が高いと坪井氏は説きます。
次の崇峻大王の陵は、『日本書紀』では「倉梯岡陵」とされ、宮内庁は桜井市倉橋金福寺跡を治定していますが、研究者は同じ倉橋の方墳である赤坂天王山古墳(一辺50メートル、高さ10メートル)とする見方が有力です。
次の推古大王については、『古事記』では、大野岡にあった竹田皇子の陵に合葬され、後に「科長(磯長)大陵」に改葬されたとされており、前者は橿原市の長方墳である植山古墳(東西40メートル、南北27メートル)が有力視され、後者は太子町の方墳である山田高塚古墳(東西66メートル、南北58メートル)でほぼ間違いないとされています。
敏達の一代前となる欽明の陵墓については、宮内庁は平田梅山古墳(長さ140メートル)を治定していますが、考古学界ではその北方にある丸山古墳、すなわち後期古墳で最澄となる318メートルを誇る橿原市の五条野丸山古墳とするのが有力です。
となると、梅山古墳の被葬者が問題となりますが、これについては敏達を埋葬するための陵だったが、放棄されたとする高橋照彦説が注目されているとします。ただ、これについては異論も出ています。
『日本書紀』崇峻紀によれば、敏達は母である石姫の「磯長陵」に葬られたとしています。となると、太子町の西山古墳は本来は欽明の皇后であった石姫の墓であって、敏達はそこに合葬されたことになります。
考古学から見ると、築造順序は、太子西山古墳→五条野丸山古墳→平田梅山古墳、ということになります。となると、平田梅山古墳が敏達のために築造されて放棄されたとしても、またそうではなかったとしても、敏達はいずれにしても前方後円墳に葬られたことになります。つまり、前方後円墳に葬られた最後の大王ということになるのです。
この点について、坪井氏は、地方出身の継体天皇以後は、畿内の皇統を次ぐため、その系統の大王の娘との婚姻を重ねたとし、敏達はそうした助警の大王の最後の存在だったことに注意します。方墳を採用した敏達以後の用明・崇峻・推古は、欽明天皇と蘇我稻目の娘たちとの間に生まれているのです。つまり、方墳は蘇我氏系の大王の陵なのです。
その方墳は、4~5世紀の百済地域に普及した高句麗系の「石基壇積み石古墳」と呼ばれるものが起源だと坪井氏は推測します。それを渡来人を配下に置いていた蘇我氏が採用したのだと見るのです。そう考えたきっかけは、明日香村坂田に位置する6世紀後半の都塚古墳です。
この古墳は最下辺が41~42メートルであってピラミッドのように石を積み上げたものです。稻目が亡くなったのは570年ですので、年代は合いますし、阪田は渡来集団が配置されていた土地です。中国南朝から百済経由で日本に渡ってきた司馬達止の一族は坂田原に住んでいました。
この一族は初期の仏教を支えた一族ですね。そして、都塚の北西400メートルの島庄には、馬子の墓とされる石舞台があります。坪井氏は、大王の最初の方墳である用明の向山古墳は、宮内庁管理であって調査できないため、都塚古墳とどのような関係にあるか不明としつつ、用明以後の方墳は、高句麗由来の百済の石塚に基づくものであり、倭国王のために独自に創設されたものと見ます。この流れは、仏教の受容の流れと一致してますね。