goo blog サービス終了のお知らせ 

聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

天皇号を用いた時期と避けた時期:田島公「[問題提起]「飛鳥宮」時代の特殊性―「天下」を喪失していた時代―」

2025年04月22日 | 論文・研究書紹介

 天皇号が使われ始めた時期については諸説あって決着していませんが、有力な仮説が出ました。

田島公「[問題提起]「飛鳥宮」時代の特殊性―「天下」を喪失していた時代―」
(田島公・海野聡・鶴見泰寿編『飛鳥宮の儀礼と空間構成』、八木書店出版部、2025年)

です。2月20日刊行なので、出たばかり。

 田島氏は、ほとんど注目されていないという佐立春人氏の「日本古代の「天下」と「国内」」(京都大学日本法史研究会編『法と国制の史的考察』、信山社出版、1995年)の意義を認めます。

 この論文によれば、中国の皇帝や日本の天皇が犯罪者を赦免する場合、「大赦天下」と宣言するのが普通だが、新羅では「大赦国内」とあるため、調査すると、中国の皇帝は「天下」を支配するが、皇帝から冊封された王の支配領域は「国内」と表記される由。高句麗も国王の命令文では、中国なら「天下」とあるべきところを「国内」としていたそうです。

 一方、日本では、「食国(おすくに)天下」「食国国内」「食国之内」「国内無事」などとあるため、朝鮮諸国などを配下に置く天下の帝を辞任する『日本書紀』の立ち場としては「天下」とすべきところであるのに、元の資料をそのまま貼り込んだため「国内」などの語が残ったものと佐立氏は見ます。

 そして、倭の君主は4世紀から7世紀初めにかけて、支配領域を「天下」と称したが、7世紀前半以後、8世紀初頭までは中国皇帝の意向によって「国内」と表記せざるを得ず、701年の大宝令以後、「天下」が復活し、中国皇帝の冊封を受けない、という流れである由。

 田島氏はこの説を評価し、飛鳥宮の時代は「天下」を喪失していた時代とみなします。そして、推古朝では一旦は「天皇」号を使用しますが、「天下」を喪失していた時代には「天皇」を封印し、天武・持統朝では「天皇」号を使用するための準備をし、国内での使用を再開し、大宝令以後、対外的にも「天皇」号を使うようになったと推測します。

 なお、佐立論文では、「天下」を回復しようとした時期に、「天下」と「国内」の落差を痛感し、「天」と「国」の組み合わせに異常にこだわるようになり、それが神代に関する「天神・国神」「天津罪・国津罪」など、「天」と「国」の対比が目立つ理由ではないかと述べた由。

 田島氏は、この佐立論文に言及したのは河内春人論文のみであるが、7世紀後半に船首王後墓誌や小野毛人墓誌に「天下」の語が見えることを指摘して批判しているものの、東野治之などは、墓誌は没後の作成であって追納されたとしているほか、長谷寺の「銅板法華説相図」に「治天下天皇」とあるものの、干支から見て686年、698年、722年、770年など諸説があることに注意しています。

 いずれにしても、推古朝の一時期、「天皇」が使われていたと見てよさそうですね。


倭王の跏趺坐は『古事記』の「呉床」、『日本書紀』の「胡床」の坐法と異なる:新川登亀男「「跏趺坐」する「倭王」」

2025年04月17日 | 論文・研究書紹介

 昨年刊行された新川登亀男氏の論衡紹介の都築です。今回は、

新川登亀男『創られた「天皇」号』「Ⅲ 『日本書紀』のなかの君主と「尊」(ミコト)字称:七「跏趺坐」する「倭王」」
(吉川弘文館、2024年)

の部分です。遺稿集であって、著者が念入りにチェックしていないため、繰り返しや論証不十分な面も見られますが、重要な問題ですので紹介しておきます。

 良く知られているように、『隋書』倭国伝では、倭王は「天、いまだ明けざる時に、出でて政を聴きて跏趺坐し、日出づれば便ち理務を停む」と記されています。この「跏趺坐」は仏教の「結跏趺坐」と解釈されてきましたが、新川氏は、この坐法を検討します。

 『古事記』では天皇や有力な王の座として「呉床」が登場しますが、『日本書紀』ではそうした一貫性がないとします。物部守屋が寺を破壊する際、「踞坐胡床」しており、穴穂部皇子も「踞坐胡床」してそれを守屋大連を待ち、境部摩理勢は門のところで「坐胡床」して蝦夷の襲撃兵を待ちます。

 大海皇子が内裏の仏殿の前で「踞坐胡床」して剃髮出家しているのは仏教的ですが、守屋は廃仏派なのですから、結跏趺坐するのはおかしいでしょう。

 新川氏は、いろいろな文献の記述から見て、「踞坐」はあぐらをかくことであり、「胡床」は横から見ると X の形になっていて折りたためる携帯用の坐具だと説明します。「胡」とあることが示すように西域から中国に導入されたものです。『古事記』に「呉床」と見えるのは、呉、つまり中国南朝から百済が入手したものが日本に入ったため、「呉服」などと同様に「呉~」と称されるのだとし、『日本書紀』ではこの表現が消えて「胡床」に変わったと見ます。

 いずれにしても、「呉床」も「胡床」も屋外で使う携帯用坐具である以上、倭王が「跏趺坐」するのとは異なることになります。

 新川氏は「胡床」の坐り方は、基本的には足を垂らす坐法であるものの、6世紀前半の人物埴輪には「跏趺坐」に当たる坐の形が見られるが、要するにあぐらだとします。むろん、仏教導入以前ですので、仏教由来でもないことになります。

 ということで、『隋書』は倭王の「跏趺坐」を仏教由来のものと見ているらしいものの、実態はわからず、臨時の「呉床」「胡床」とは異なり、大きな「牀」のようなもの、あるいは、敷物を重ねた「床」型の特別な坐具によるものだったろう、というのが新川氏の結論です。要するに、中国の皇帝が足を垂らす形で玉座に坐るのとは異なる坐り方だったろう、ということであって、仏教の結跏趺坐とは限らない、ということですね。 

 


三経義疏の研究法について ChatGPTに聞いてみた

2025年04月12日 | 三経義疏

 AIを人文学の研究にどう生かすかという問題が、いよいよ切実になってきました。そこで、「人文学における比較ツールであるNGSMを使って三経義疏を研究したいのですが、どの点に注意すれば良いでしょう?」と尋ねてみたところ、回答は以下のようなものでした。

==================================
ChatGPT:

NGSM(N-gram Based System for Multiple text comparison)は、人文学研究において複数のテキスト間の共通表現や特徴を抽出するための有用なツールです。『三経義疏』(『法華義疏』『勝鬘経義疏』『維摩経義疏』)の研究にNGSMを活用する際には、以下の点に注意が必要です。睡人亭+1立命館大学+1J-STAGE+3Gooブログ+3Gooブログ+3

  1. テキストの前処理:​NGSMを効果的に使用するためには、対象となるテキストのデジタル化と正確なテキストデータの準備が不可欠です。特に古典文献の場合、OCR(光学文字認識)によるデジタル化では誤認識が生じる可能性があるため、手動での校正が推奨されます。

  2. N-gramの設定:​NGSMでは、N-gramの長さ(Nの値)を設定します。短すぎると一般的な表現が多く抽出され、長すぎると共通部分が見つかりにくくなる可能性があります。研究の目的に応じて、適切なNの値を選択することが重要です。

  3. 結果の解釈:​NGSMはテキスト間の類似性を数値化しますが、その数値が示す意味を正確に解釈するためには、文脈や歴史的背景を考慮する必要があります。数値だけでなく、具体的な共通表現やその使用箇所を詳細に分析することで、より深い理解が得られます。

  4. 他の研究との比較:​NGSMを用いた分析結果を、既存の研究成果と照らし合わせることで、新たな知見や仮説を導き出すことが可能です。例えば、石井公成氏はNGSMを用いて『三経義疏』の類似性を分析し、重要な成果を上げています。好文出版

以上の点を踏まえ、NGSMを活用することで、『三経義疏』のテキスト間の関係性や特徴をより深く理解することが期待できます。

Favicon
Favicon
情報源
==================================
 
以上です。割とまともですね。
 
以上です。下のアイコンなどをクリックすると、そのサイトに飛びます。

壮大すぎる題名の論文は得てして……:斉藤恵美「日本仏教史における聖徳太子の位置」

2025年04月09日 | 論文・研究書紹介

 長年教員をやって卒論・修論を審査してきたため、論文の題名を見るとその出来がおおよそ判断できるようになりました。むろん、読んでみないとわからないものもあるのですが、壮大すぎる題名のものは期待できない内容であることがほとんどであるようです。

 奈良女子大学の特任助教である斉藤氏が書いた以下の題名の論文はその一例です。

斉藤恵美「日本仏教史における聖徳太子の位置」
(小路田泰直・斉藤恵美編『聖徳太子像の再構築』、敬文舎、2021年)

 こんな壮大な題名は、この道に数十年打ち込んできて権威と認められる人ならありえるでしょうが、学部の学生の卒論の題名であれば、その時点で読んでみるまでもないことは確定です。

 斉藤氏は、冒頭の「はじめに」を「私事からはじめて恐縮であるが、大学院から仏教についての研究をはじめた」という文章で始めており、この段階で卒論なみの不出来な内容であることを推測させるものでした。「私事で恐縮ですが」で始めるというのは、NHKの某アナウンサーが用い始めて広まった悪い風習です。

 しかも、「はじめに」によれば、「大学で歴史を学びはじめたころは仏教にはなんの興味もなかったのだが、それなりに研究が進み、歴史を考え構造的にみる段階になったとき」、宗教とは何か、神祇祭祀と仏教について解明する必要があると思い始めた由。

 仏教については学びはじめて間もないにもかかわらず、「それなりに研究が進」んだ結果、仏教を含めた日本宗教史の全体構造を考えるに至ったそうです。凄いですね。しかし、当然ながら、仏教学・仏教史については不勉強であって、的外れなことばかり書いています。

 たとえば、倭国の王権が仏教を受容したのは、「仏教が世界のあり方のすべてを知る、社会全体のありようを知るという全知性を獲得する教えであったためである」と断定しています。しかし、初期仏教では、煩悩制御に関わること以外の哲学論義、世界のあり方などについては知る必要はないと明言されています。

 むろん、時代が進むにつれて仏の神格化が進み、仏は「一切知者」と呼ばれるようになり、『法華経』などでもそうした表現が見られるようになりますが、古代日本の王権が「全知性を獲得する教え」として仏教を受け入れたという説は初めて見ました。病気の治癒を願うためとかじゃないんですね。

 『日本書紀』によれば、推古2年に仏法興隆の詔が出されると、氏族たちは「君親の恩の為に、競って仏舎を建立した」と記されています。「恩」とは恩恵をもたらすパワーであって、造寺造像などの功徳を君主や存命中あるいは死没した親に振り向けると、君主や親たちのパワーが増し、恩恵が増大するのです。こうした記述は中国の北朝の碑文などにも山のように見られます。斉藤氏は、そうした点は無視して「全知性」なるものを尊重するわけですね。

 推古10年に征新羅将軍に任じられた来目皇子が筑紫で病死し、その兄の当麻皇子が将軍となって播磨まで進軍したところ、妻が死んでしまったため引き返すという事態が起こります。斉藤氏はこれについて、王の決定が実行できなかったのであって、仏教帰依によっても王の絶対性が保証されなかったため、対応策として打ち出されたのが聖徳太子による「十七憲法作成だったのではないだろうか」と述べています。

 「十七憲法」というのは後代の呼び方であって感心できませんが、「仏教帰依」によっても王の絶対性が保証されなかったため、第二条で「三宝を敬え」と命じ、「それ三宝に帰せずんば、何をもって枉れるを直さん(もし三宝に帰依しないなら、何によってよこしまなものを正すことができようか!」と断言する「憲法十七条」が作成されたわけですね。

 なるほど、これはあくまでも「三宝への帰依」であって、「仏教への帰依」ではないというわけですか。第二条では、「三宝とは仏法僧なり」と述べてますが……。

 斉藤氏は、この憲法の規範は絶対的に正しいため、だから「聖」は「一〇〇〇年に一度、国を治めるために出現するとされたのだ」と説いていますが、第十四条では、「五百歳の後にして、乃ち賢に遇うも、千載にしてもって一聖を待つこと難し」と述べています。

 つまり、人々が嫉妬しあうため、賢人程度なら五百年に一度くらいは現れるとしても、聖人は千年たっても出現して活躍することが難しい、と述べて、嫉妬の害を強調しているのです。必ず聖人が現れて国を治めるとは説いてません。どうして漢文をきちんと読まないのか。先行する研究もきちんと見ておらず、思いつきで書いていることは明らかです。

 斉藤氏は、その聖人とは太子のことだと見ているようですが、第十四条は群臣たちに嫉妬するなと命じています。用明天皇の皇子であり、推古天皇の甥であって娘婿でもある聖徳太子が、群臣たちに嫉妬されるんでしょうか。他の天皇候補の皇子たちに嫉妬されるならわかりますが。

 斉藤氏は、憲法は馬子と共同でなく、太子一人によって作成されたため、仏教に帰依することは太子に帰依するのと同じことになったとしていますが、物部氏などを排除して仏教を推進したのは馬子です。『日本書紀』では、聖徳太子の薨去記事では国中が歎き悲しんだとしていますが、葬ったとあるのみでそれ以外の措置は描かれていません。

 一方、『日本書紀』は推古22年(614)に馬子が病気になった際、「大臣の為に男女并せて一千人、出家せしむ」と記しています。これは国王待遇です。馬子の姪である推古天皇と娘婿の太子が、馬子を仏教推進の最大の功績者とみなしてそうさせたのでしょう。となると、仏教に帰依することは大臣馬子の政治路線に従うことを意味する、ということになりませんか?

 また、三経義疏については、拙著に触れていてくださっているのですが、人は正しさを自分のうちに持っておらず、「「機」によって容易に変質するという人間観」といった記述は、異なった能力のことである「機」の意味を取り違えています。こうした初歩的な間違いを書く人に自分の本が引用されるのは嫌なものです。

 以下、空想説がならべられていますが、仏教の常識、また当時の仏教のあり方とは違い過ぎているため、いちいち指摘するのはやめておきます。私は仏教を学び始めて50年以上たち、『東アジア仏教史』(岩波新書)を一人で書いたことが示すように学界の中でも幅広く研究している一人のつもりですが、その私も聞いたことがなく、考えがたい仏教の珍解釈があちこちに見られます。 

 論文の最後は、「律令国家形成の過程で国家仏教とは違う形で進展した仏教のなかに、絶対的存在として聖徳太子の姿は残存していたと考える」とした後、感想が少し述べられているだけです。平安・鎌倉・室町・江戸の仏教における聖徳太子観に触れず、太子信仰と神祇信仰との関わりも詳しく示されていないのですから、「日本仏教史における聖徳太子の位置」というのは誇大広告ですね。

 冒頭で述べたように、この論文は不勉強で自信だけある学生の卒論なみの駄作でした。私は若い研究者については厳しい批判はしないようにしていますが、これはひどすぎます。どうしてこんな論文もどきを書く助教が、共編とはいえ、聖徳太子の論文集の編者となるのか。筆頭の編者であって斉藤氏のことを高く評価しているらしい奈良女子大学の小路田泰直教授の学識と見識が疑われます。


倭の五王の外交に関する最新論文:田中史生「倭の五王の南朝遣使とその背景」

2025年04月04日 | 論文・研究書紹介

 推古朝における隋との外交について考えるには、それ以前の倭国の外交を確認しておく必要があります。つまり、卑弥呼と倭の五王の外交ですね。どちらについても諸説がありますが、倭の五王については、つい先日、新しい論文が刊行されました。

田中文生「倭の五王の南朝遣使とその背景」
(辻田淳一郎編『倭の五王の時代を考える―五世紀の日本と東アジア』,吉川弘文館、2025年3月)

です。

 田中氏は、その背景として、高句麗の強大化をあげます。高句麗は中国支配の根拠地であった楽浪郡と帯方郡を313年に滅ぼすと、勢力を南に伸ばし始めます。これに強く抵抗した百済は倭国と軍事的な同盟を結び、緊迫した東アジア情勢に直面した倭の首長層は、倭王を軸にして結束します。

 彼らは、軍事を含む王権の活動を支えると同時に、独自に国際交流をおこない、威信財や渡来した技術者を獲得して勢力を強めます。この時期の倭王は、倭人の外交を主導し、各地の首長層に国際交流の機会を分配する大首長だった、田中氏は説きます。この状況で登場したのが、讃・珍・済・興・武という倭の国王たちです。

 五王が外交を結んだ南朝の宋は、東晋の軍官であった劉裕が420年6月に王朝を開き、宋の武帝となると、翌月には「高句麗王」と「百済王」に除授(任官)をおこなっています。つまり、東晋が両国王に与えていた官爵を追認し、「高句麗王」についてはそれまでの「征東将軍」を「征東大将軍」に進め、「百済王」については「鎮東将軍」を「鎮東大将軍」に進めました。
 
 ただ、両国からの遣使は来ていないため、これは新王朝を自ら慶賀するための一方的な除授であったと見られています。東アジアからの最初の遣使は、翌421年に倭の讃が遣使して除授されたことであって、むしろ高句麗・百済に先行しています。
 
 それ以前に、倭国は東晋に遣使しており、これについては高句麗との共同入貢その他の説があるものの、田中氏は単独入貢と見ます。

 『宋書』倭国伝によると、倭王の讃は司馬の曽達を宋に派遣しています。魏晋以後の中国では、方面軍を指揮して征・鎮・安・平の字を冠した将軍たちに府を開くことが認められ、長史・司馬・主簿・功曹・参軍が置かれました。使者の曽達が司馬とされているのは、讃が宋に「安東将軍」の除せられたことが根拠になっています。

 ついで珍は、438年には配下の倭隋ら13人への「平西・征虜・冠軍・補弼国将軍」号の除正を宋に求めています。このうち「平西」は倭王の本拠から見て西、つまり、九州北部に派遣されて駐留した将軍と推測されています。以後も、倭王の済が23人の臣下に対する将軍号と郡太守号の除正を求めて認められています。

 その主な目的については、王が国内で地位を固め、朝鮮半島南部での軍事支配に役立てるためであったと推測されています。この時期、百済では、中国系の府官が将軍や太守などに任じられて軍事と不可分の外交を主に担当し、百済人は将軍・王・侯などの号を授与され、王権中枢部で実務を担当したと見られます。

 こうした見方については批判もありますが、田中氏は、五世紀の王権が中国の官爵を利用し、王を中心とした政治秩序を形成していたことは否定できないとします。田中氏は、百済では中国由来の姓や文化が保持されたのに対し、倭国ではそうした政策がとられなかったことに注意します。

 問題は、このようにして続いてきた中国への入貢が武以後、途絶えることです。この武については刀剣銘文にある「治天下」と言われる「ワカタケル大王」のことと見るのが通説ですが、大王という号から見て武による国内の支配体制が確立し、高句麗・百済よりの優位を示すために中国の「天下」から離脱しようとしたとする説があります。

 しかし、田中氏は、高句麗は中国への朝貢を続けておりながら5世紀前半に独自の「天下」観を形成しており、6世紀前半に独自の「天」の思想を持つようになった新羅も中国との交渉を始めていることに注意します。華北の非漢民族国家も続々と中華意識を持つようになっていたことについても考慮し、当時は「治天下」の王と称することと中国から官位を保証してもらうことは矛盾しなかったと説きます。

 武以後の倭王が朝貢しなかったのは、高句麗の勢力が強まり、遣使ルートを確保できなくなったことが大きいと見るのです。また、高句麗は北朝と南朝に遣使していましたが、北朝の勢力が増大して南まで進出するようになったこともあって、南朝への遣使は460年以後は減っているのに対し、北朝へは毎年のように遣使するようになります。

 つまり、南朝は倭国の後ろ盾となるだけの力を失いつつあったうえ、南朝と結び着いていた百済を見捨てて北朝外交に切り替えることもできなかったと見ます。朝鮮半島の混乱、それと連動する国内の首長たちの対立もあったことが、高句麗の「大王」の「天下」をモデルにした天下観をワカタケルが懐くようになった原因であり、倭王の「治天下」構想が進み、中国の官爵を貰う意味もなくなったこともあって、対中外交が途絶するようになったのだろうというのが、田中氏の結論です。

 推古朝は、その「天下観」を受け継ぎつつ、朝鮮諸国の対立がまた強まった状況のもとで、南北を統一した隋と関係を持つことになるのですね。


伊予の温湯碑が発掘されました!(4月1日限定:特別記事)

2025年04月01日 | その他

 3月31日の深夜にパソコンであれこれ検索していところ、日付が変わった瞬間に「湯岡の温湯碑発見!」というニュースがヒットしました。

 その記事の発信元は、愛媛県湯岡村教育委員会です。しかも、ほかの記事を読んだあと、もう一度、「湯岡 温湯碑」で検索すると、ヒットしませんでした。時間をおいてやってみるとたまにヒットすることもあります。

 何年も前に予約を始めておきながら出版延期を繰り返し、「出す出す詐欺」だとしてで話題になった某明日香村育委員会の古墳発掘調査本(リンク)のことを思い出し、ちょっと不安になりました。

 つまり、発表した後、何か問題があってあわてて発表を取り消し、報道を延期したものの、キャッシュがネットに残っていて、それにヒットしているように思われたのです。ともかく、その記事を読んでみました。

 それによれば、年末に松山市の道後温泉に隣接する湯岡村字伊社邇波の古湯遺跡で、巨大な石碑の破片が発見され、そこにかの温湯碑の文字が刻まれていた由。字が読めるのは一部だけだったものの、『釈日本紀』巻十四が舒明天皇の伊予温泉行の部分で引用している『伊予風土記』の逸文と良く合うそうです。

 冒頭部分の破片をつなぎあわせると、「法興六□□□□丙辰我法王大□□恵忩法師葛城□□□□村」となるとか。『釈日本紀』では、「法興六年十月、歳在丙辰、我法王大王、与恵忩法師及葛城臣逍遙夷予村」としており、法王大王、つまり聖徳太子が恵忩法師などと伊予村を訪れたとしているのに、現在の注釈などでは、高句麗の「慧慈法師」と来たはずであって「恵忩」とあるのは誤りとして字を直してしまうのですが、「恵忩」で良かったのです。

 「忩」は「聡」の略字です。つまり、聖徳太子は百済の恵聡と温泉を訪れたのですね。法興寺(飛鳥寺)の建立が開始された五九一年が法興元年だとすると、「法興六年」は五九六年となり、これは推古天皇四年にあたります。しかし、『日本書紀』によれば、慧慈が高句麗から来日したのはその前年の五月であって、来たばかりです。

 『日本書紀』はその来日記事に続けて「則ち皇太子、之を師とす」としており、さらに「是の歳、百済僧の恵聡来たる」としているため、慧慈が尊重されており、恵聡の方が後に来ているように見えますが、「是の歳~」という表記は、何年だか分からない場合、関連する記事の最後に付けておく場合が多いのです。

 実際、崇峻天皇元年(五八七)には、「百済国、使い并びに僧の恵總・令斤・惠寔等を遣り、仏舎利を献ず」とあります。この「恵總」が湯岡碑文の「恵忩(恵聡)」であって、聖徳太子は推古朝になる前から恵聡に師事し始め始めており、親しくなっていたと思われます。

 この破片で面白いのは、『釈日本紀』の引文では、「日月照於上而不私。神井出於下無不給(日月は上に照らして私せず、神井は下に出でて給せざるなし)」とあるのに対し、破片では最後の部分が「無不整(整わざる無し)」となっていることです。

 『釈日本紀』の文によれば、この神秘的な温泉は地下から湧いて多くの人に恵みを分け与えないことがない、としていますが、破片では、「整わないことがない」としており、現代のサウナを思わせる記述になっているのですね。

 伊予の温泉は間欠泉であって蒸気も吹き出していたようですから、その蒸気を木の管などで小屋に引きこみ、サウナにしていたのでしょう。中世以前の寺の風呂は「温室」、つまり、サウナでしたので、そのはしりですね。

 聖徳太子と恵聡と葛城臣は、サウナ小屋で熱い蒸気を浴びた後、道後温泉地区だけに池に「ボッチャン」と飛び込んで体を冷やし、寝台のようなものに寝転んで「いやあ、整うなあ」「まさしく整いますね」などと語りあって、裸のつきあいをやっていたのでしょう。

 確認しようと思って、その記事を検索してみたところ、何度やってもヒットしないことが多くなってきました。その記事を読むことができるのは、本日4月1日限りかもしれません。

 それにしても、毎年、4月1日にはいろいろなことがおきますね(たとえば、こちらや、こちらや、こちらや、こちらこちらや、こちらとか)。


「出す出す詐欺」本がまたしても出版延期:明日香村教育委員会編『遺跡の発掘からみた飛鳥』

2025年03月27日 | その他

 「もうすぐ出ます、出ます」と、狼少年も驚くほどと何度も予告して楽しみにさせておりながら、発売延期を5回も6回も繰り返してきた本が、発売予定日になってまたしても延期になりました。

 しばらくしたら出るというので最初に予約したのは、注文履歴によれば、

 2021/11/09

です。3年半前ですね。ところが、出版延期、延期を繰り返し、昨年の5月には「24年6月24日に発売」という通知が来たのですが、5月末には、さらに7月29日発売予定との知らせがあり、7月4日に送られてきた通知によれば、

 2024/09/14 - 2024/09/16

の間に発売となってました。「本当に出るのか? 怪しいな」と思っていたら、先日アマゾンでこの本を見てみたところ、

 2024/9/27

となってました。さらに2週間ほど遅れるとのことですが、そんな通知を信じる私ではありません。案の定、9月4日にアマゾンから以下のようなメールが来ました。

===================================
誠に申し訳ございませんが、以下の商品の発売日が変更されました。新しいお届け日は以下の通りです。 ご迷惑をおかけしていることをお詫びいたします。 

ご注文番号#503-2812643-0722214
注文日:   2021/11/09

        遺跡の発掘からみた飛鳥
        発売元 アマゾンジャパン合同会社

            新しいお届け予定日:  2024/10/17 - 2024/10/19
===================================

以上です。「発売元 アマゾンジャパン」となってます。歴史系の出版社である雄山閣から出るはずだったけど、お詫びはアマゾンからくるのか……。

とはいえ、当然のことながら、この通知についても疑っていましたので、9月19日にアマゾンで確認したら、 

 雄山閣 (2024/11/12)
 発売日 ‏ : ‎ 2024/11/12

となってました。またしても延期ですし、雄山閣と表示されてます! 「出版社」と「発売元」は違うということなのか。ここまで来れば、11/12 という数字など信じられるはずがありません。10月24日にアマゾンで確認したところ、

 発売日 ‏ : ‎ 2024/12/12

となっており、しらっと変えてました。いつまで「出す出す詐欺」を繰り返すんでしょうか。

 ここまで読めば当然推測できるように、11月22日段階でアマゾンでの記載を見ると、発売日は、「2025/1/28」となってました。この予告という形の悪い冗談はどうもまだ続きそうだと思っていたら、やはり、ちゃんと期待に応えてくれました。12月10日アマゾンで確かめると、

  • 発売日 ‏ : ‎ 2025/2/27

となってます。11月23日には、アマゾンから「誠に申し訳ございませんが」ということで、「ご迷惑をおかけしていることをお詫びいたします。」というメールが来ましたが、今回はまだ来てません。

 10巻以上ある分厚い辞典や資料集などは、宣伝した期日より実際の出版が遅れることがたまにありますが、さほど厚くない1冊の本でここまで延期を繰り返した例は見たことがありません。もう「出す出す詐欺」と言って良いんじゃないでしょうかね。と、2024年11月21日にこの記事の下書きに書いたところ、出版日変更のメールが届きました。

            新しいお届け予定日:  2025/01/30 - 2025/02/01

となってます。むろん、どうせまた変更だろうと思っていたら、案の定、2025年1月11日にアマゾンから「お届け予定日を更新しました」というメールが届きました。

===============================
ご注文番号#503-2812643-0722214
注文日:   2021/11/09

        遺跡の発掘からみた飛鳥
        発売元 アマゾンジャパン合同会社

            新しいお届け予定日:  2025/03/29 - 2025/03/31
===============================

だそうです。4年近く遅れてますので、オリンピックだったら、次の大会になってますね。

 それからしばらくすると、アマゾンには「3月27日発売」と表示されるようになりました。しかし、直前の3月24日になっても、アマゾンでは表紙の写真が入っていないままです。気になって出版元である雄山閣のサイトに飛び、「近刊」のページを見たら、8冊の本が3月25日発売としてあげられており、これらはすべて表紙の写真が入ってますが、問題の本は写真が入ってないどころか、そもそも載ってません。

 そして25日になると、それらの8冊は販売されたため、新刊コーナーに置かれるようになり、近刊コーナーは「現在、商品はございません」と表示されています。となると……

と心配したのですが、発売日とされている27日にアマゾンのこの本のところを見てみたら、こうなってました!

6月発売だそうですよ。下の方の出版社の情報の箇所では、相変わらず、

  • 出版社 ‏ : ‎ 雄山閣 (2025/3/27)
  • 発売日 ‏ : ‎ 2025/3/27
  • 言語 ‏ : ‎ 日本語
  • 単行本 ‏ : ‎ 250ページ

となっているままです。編者・著者・出版社の間のどこかで激しい争いが生じ、恐ろしい事件まで起きて出版が遅れているのであれば、『週間文春』あたりで取材し、「血で血を洗う出版遅延事件の闇! 飛鳥の遺跡横にひそかに造られた考古学者の墓と埋められた呪物」とかいったスクープを出してほしいくらいです。

 この本が刊行されたら、「こんな状況だったんですよ」と報告したうえで内容の紹介をするつもりでしたが、この調子だと刊行は56億7千万年くらい先になるかもしれないため、現段階で一度、アップロードすることにします。


かつての『隋書』倭国伝論文の補訂版:榎本淳一「『隋書』倭国伝について」

2025年03月26日 | 論文・研究書紹介

『隋書』倭国伝の記述と『日本書紀』の隋関係の記述の不一致については、これまで何度かとりあげましたが、現時点での穏健な検討をしているのが、

榎本淳一『隋唐朝貢体制と古代日本』「第一部 朝貢体制と古代日本の国際関係」中の「補論 『隋書』倭国伝について」
(吉川弘文館、2024年)

です。榎本氏の倭国伝論については、2008年の論文を2014年に紹介したことがあります(こちら)。今回の論文は、基本はその踏襲ながら、検討が進んだ面もあるため、前回とりあげてなかった点を紹介しておきます。

 まず、倭国伝では「日出処天子」国書記事は大業3年(607)のこととされていますが、『隋書』帝紀と『冊府元亀』の朝貢の部では大業4年(608)としています。つまり、これらは異なる史料に基づいているのです。榎本氏は、『隋書』の高麗伝や赤土国伝でも、『隋書』帝紀とは年次のズレが見られると指摘しています。

 先の記事でも榎本氏が『隋書』倭国伝を5つの部分に分け、依拠した史料が違うらしいことを指摘していましたが、裴世清の記録については、貞観年代に隋の歴史の編纂をおこなった際、裴世清がまだ生きていたことは、貞観12年(638)の『貞観氏族志』において四等に位置づけられていることからも明らかとします。『隋書』を編纂した魏徴らの取材を受けた可能性はゼロではないのです。

 というのは、『魏鄭公諫録』巻四「対隋大業起居注」には、魏徴が関係者の子孫に家伝の内容を問い合わせたことが記されているからです。

 裴世清が倭国に派遣されたのと同じ頃に、東南アジアの赤土国に派遣された常駿の場合は、『赤土記』2巻が唐代に存在しており、他にもそうした例がありますが、裴世清については、そのような記録は伝えられていません。

 そして、裴世清の報告によれば、隋使たちは、倭王が派遣した「小徳の阿輩台」との従者数百人が「儀仗を設け、鼓角を鳴らし」て盛大に迎えたとしていますが、『隋書』の倭国伝では、倭王は朝会には、必ず儀仗を整え、「其の国の楽を奏す」と書かれています。

 また、倭国伝では、「楽に五弦の琴、笛有り」と記するのみで鼓角については触れていません。『日本書紀』でも裴世清を盛大に歓迎した様子が描かれているものの、鼓角には触れていません。

 この時点で鼓角が倭国に存在し、隋使の歓迎に用いられたとなると、最初の隋への使いの際、隋から与えられたということになりますが、それはなさそうですね。となると、隋使を鼓角で歓迎したとする倭国伝の記述は事実でなく、盛大な歓迎を受けたことを中国式に書いている可能性が高いということになります。

 このように、榎本氏は『隋書』倭国伝が貴重な史料であることを認めたうえで、それが反映している元史料の違い、中国風な大げさな表現などに注意すべきことを強調しています。


瓦が語る古代の仏教建築の進展:相原嘉之「初期寺院の創建―7世紀前半における仏教寺院の導入―」

2025年03月21日 | 論文・研究書紹介

瓦が語る古代史:相原嘉之「初期寺院の創建―7世紀前半における仏教寺院の導入」

 仏教考古学において早くから年代判定の際の確実な材料とされてきたのが瓦です。その観点から、最初期の寺院とそれ以前の仏教関連施設について検討したのが、

相原嘉之『飛鳥・藤原京と古代国家形成』「1 初期寺院の創建―7世紀前半における仏教寺院の導入―」
(吉川弘文館、2023年)

です。個別の論文というより、これまでの研究成果をまとめたうえで自分の見解、発見を加えたような感じであって、研究状況を知るうえでも有益です。相原氏はこの論文では、伽藍を持つ本格的な寺を「寺院」、そうでない仏教施設を「寺」と呼んで区別しています。

 相原氏は、推古2年(594)の三宝興隆の詔から30年後には「寺四十六所」と記されるようになり、さらに藤原京遷都直前の持統6年(692)には「天下の諸寺」が「およそ五百四十五寺」となったとされますが、早い時期には瓦葺きでない建物が多かったと述べます。

 そしてインド以来の仏教の展開と日本への導入を概説した後(拙著『東アジア仏教史』を利用してくださって有り難うございます)、欽明13年(552)蘇我稻目が百済王から送られた仏像を「小墾田の家に安置」したことを取り上げ、仏殿を建てたようには見えないため、邸内で仏像を祀ったものとします。

 これに続けて「向原の家を浄め捨ひて寺とす」とあるため、その仏像を向原に移し、家を改修して仏像専用の建物にしたことがうかがわれるとします。「浄め捨ひ」とありますが、「浄捨」は要するに寄付することであって、単に捨てることとは違うという意味で「浄」の語を付けたものです。「喜捨」も寄付であって「喜んで捨てる」ではないのと同じです。

 次に、敏達13年(584)になると、馬子が「仏殿を宅の東の方に経営りて、弥勒の石像を安置」したとあり、また「石川の宅にして、仏殿を修治る」とあるため、仏殿を居宅内、または隣接地に建てたことがわかる。

 相原氏は、これは仏殿と言っても礎石を据えて建物に瓦を葺いたとは限らないとします。実際、富田林市の新堂廃寺南門跡では、掘立柱の建物に瓦を葺いた跡が見つかっています。

 また、邸内で仏像を祀って儀礼をおこなった例として、玉虫厨子をあげます。高さ95センチであって建物を模しており、小さな瓦を葺いた屋根に鴟尾が載せられています。つまり、仏殿のミニチュアですが、難波宮跡では、それよりやや大きい4センのミニチュア瓦や、ミニチュア鴟尾が出土しています。つまり、王宮内に仏殿のミニチュアが置かれ、仏教儀礼がおこなわれていたのです。

 一方、九州では、6世紀末から7世紀初めの無文の軒丸瓦や陰文素弁蓮華文の軒丸瓦が発見されていますが、ごく小量しか出ておらず、那津官家などに供給されたものと推定されており、この時期の寺院の跡は見つかっていません。

 いずれにしても、伽藍創建時の瓦より前の段階の瓦が見つかっている場合、礎石を用いた本格的な寺院ができる前の仏教施設に用いられていた可能性もありますが、中には海外の使節を迎える建物に使われていた可能性も指摘されています。

 そうした中で画期となったのは、百済から寺院建設に関するいろいろな分野の工人たちが派遣され、彼らの技術によって飛鳥寺が建立されたことです。飛鳥寺は平城京に移築されて元興寺となりますが、その極楽坊の屋根には飛鳥時代の瓦が今も乗っています。

 他にも古材が多く保管されており、巻斗については年輪を計測すると590年頃と推定されており、これは、崇峻3年(589)に飛鳥寺のために「山に入りて、寺の材を取る」とある記事に対応しており、『日本書紀』の記述の正しさを裏付けています。

 面白いのは、蘇我氏系の寺は山田古道など、飛鳥の主要な道路沿いに建立されているのに対して、坂田寺など渡来系氏族の寺は飛鳥南方の丘陵などに建立され、地形に制限された形になっていることです。

 また興味深いのは、馬子の居宅とされる島庄遺跡では、方形池の中や周辺から花組瓦が出土していることです。蝦夷の居宅である豊浦家と推定されている古宮遺跡では、花組・星組・雪組の瓦が出土しており、これらが蘇我氏が建立した飛鳥寺や豊浦寺の瓦と同笵・同系であることです。蘇我氏の邸宅には、寺院で用いる瓦を葺いた建物があったのです。


東北大学で『大成経』シンポジウム開催

2025年03月17日 | 偽作の『五憲法』と『先代旧事本紀大成経』関連

  2025年3月16日、東北大学で『大成経』シンポジウムが開催されました。日本の近代仏教研究をリードしている一人であって、このブログでも紹介したオカルト的な聖徳太子観の歴史を追いかけ『隠された聖徳太子』(リンク)を出したオリオン・クラウタウさんの企画です。

 東北大学大学院国際文化研究科の准教授であるクラウタウさんは、現在、東北大学学術資源公開センター資料館助手の曽根原理さん、そして私と科研費研究「憲法作者としての聖徳太子」に取り組んでおり、今回はその成果研究報告の一部として、『大成経』シンポジウムを東北大学の日本学研究会学術大会と連動して以下のように対面とリモートのハイブリッドで開催したわけです。

 

残念なことは、科研費の共同研究者であり、このブログでも紹介したように『大成経』研究の代表者の一人であった曽根原さん(こちら)が、闘病中の身で『大成経』関連の文献を含む、

曽根原理・W.J. ボート・M.M.E. バウンステルス『国家を守護する仏神』(『近世仏教資料叢書』第2巻、臨川書店、2025年)

をまとめ上げたものの、刊行された2月27日の前日に亡くなってしまったことです。今回のシンポジウムには参加する予定とおっしゃられていたのですが。

 今回のシンポジウムは、偽書研究の専門家であって『大成経』の版本・写本については日本で最も詳しい藤原明さん、そして『大成経』の「聖皇本紀」で修士論文を提出して現在は国学院大学大学院の博士課程1年の菊池圭祐さんが発表ということになりました。

 コメンテーターは、『偽書の精神史』(講談社、2002年)の著者でもある東北大名誉教授の佐藤弘夫さん。会場には、偽書研究で名高く、著書で『大成経』にも触れいている原田実氏(このブログでは、大山説をいじった箇所を紹介しました。こちら)や、『大成経』関連論文を発表している若手の間枝遼太郎さん(こちら)、また若手の国学研究者で近く刊行される論文で『大成経』に触れている増田友哉さんなども見えており、その面では盛況でした。原田氏はこんなシンポジウムが開かれるようになるとはと、感慨深い様子でした。

 私は、『大成経』を知らない人も多いだろうから概説をとクラウタウさんに頼まれていたため、思想史における位置と影響について面白おかしくやりました。

 かの『葉隠』を口述した山本常朝がそのためのメモみたいな文書の中で、読むべき本として『大成経』をあげており、その儒教の師である石田一鼎が『五憲法』の注釈を書いているとか、大正時代には日蓮宗の管長やその信仰仲間の佐藤海軍中将が『五憲法』を研究していたなど、影響の大きさを強調したわけです。

 藤原さんの発表は、『大成経』は続神道大系に収録されてますが、このテキストは問題だらけであること、鷦鷯本、延宝本、長野本という三つの系統の伝本の状況と、こうした三伝本があるとする伝承が形成された事情について報告されてました。

 菊池さんの発表は、『大成経』において、覚哿らしい学哿という儒者が理解不十分な存在として批判されており、これは江戸初期において仏教を攻撃した朱子学者を象徴するものだという内容でした。菊池さんはそうした論文も発表されています。

 発表の後で佐藤さんによってコメントがなされ、続いてフロアとの質疑応答となり、今後、『大成経』研究ブームが来ることが予想されるような雰囲気でした。江戸の思想史・宗教史において『大成経』の持つ意義は大きいので。


天武以前の「后」は王の唯一のキサキを意味しない:浅野咲「日本古代における皇后の地位と職能」

2025年03月13日 | 論文・研究書紹介

 この10年ほどで大后と皇后に関する研究は大幅に進展しました。この分野は女性研究者の活躍が目立ちますが、その最新の例が、

浅野咲「日本古代における皇后の地位と職能」
(『ヒストリア』第307号、2024年12月)

 浅野氏は、2024年3月に立命館大学で学位を得たばかりの新進研究者です。
 
 浅野氏は、大后を皇后の前身とする説は見直されつつあるとして、その流れを概説したのち、次期皇位継承ものとなる嫡子の地位創出の必要から皇后という地位が成立したとする遠藤みどり氏の説を妥当なものと評価します。

 そして、東アジアにおける皇后・王后の例を先行研究を踏まえつつ検討していきます。初めに古代中国では、皇后は皇帝と一体とされたものの政治的な権限はなく、唯一の支配者である皇帝によって廃立されることもある存在であり、皇帝が後継を決めないまま死去した場合に継承に関与するのであって、皇帝が亡くなって自らが皇太后となった後に権能を持ったと説きます。

 この皇后の身分の不安定さは、皇后が生んだ長子にも当てはまり、皇太子となっても廃立されることもあり、盤石ではなかったと述べます。これに対して、日本では廃太子の例は多いものの、皇后が配されたのは8世紀末の井上内親王のみであるため、日本の皇后は中国の皇后とは異なる点に注意します。

 新羅の場合、6世紀には、王は超越的な地位を得ておらず、その妻も「妃」と呼ばれるのみで「王后」と呼ばれることはありませんでした。661年に即位した文武王代になって初めて東宮が造営されており、「王后」という語も見えるようになります。つまり、太子制と王后制は近い時期に成立したのです。

 日本を考える場合、浅野氏が重視するのが「天寿国繍帳銘」です。ここには「大后」の語も見えます。ただ、堅塩媛は「大后」、妹の小姉君は「后」と表記され、施主の橘大郎女も「后」と呼ばれているため、「后」は君主の唯一のキサキだけを指す語ではなかったことが分かります。

 この銘文では、橘大郎女の父については「尾治王」ないし「尾治大王」と呼ばれ、厩戸も「大王」と呼ばれています。つまり、父や配偶者など自分と関係が深くて重視している人に「大」の字が付されているのです。

 欽明天皇以後、皇位継承者は欽明の子に限られ、それも敏達以後は蘇我氏系の者たちが続いており、王族の一系化が進みますが、これがさらに範囲が狭まったのが天武朝だと浅野氏は説きます。つまり、王への権力集中、直系継承の志向、王后制の確立は同じ動きなのです。

 ただ、その天武朝にしても、皇后となった鸕野は他のキサキや親王などより上位とされ、特別な位置づけがなされたものの、政治に関わったのは、天武が病気となってからであり、詔勅を下すなどの決定はしていません。

 高句麗や百済では、日本や新羅よりも早い時期から「王后」や「太子」の語が見られます。これらの国では、中国の冊封を受けていたため、「皇」の字は使えなかったのですが、中国風な制度の整備は進められていました。日本の場合、天皇は中国の称号そのままでないのに対し、皇后・皇太子は中国の称号そのままであることも興味深いと浅野氏は説いてしめくくっています。

 こうした議論から見て、「天寿国繍帳銘」は「后」の語を用いているから律令以後の作とは言えないことになりますね。「天皇」の語が見えているため議論になるのですが、中国の称号そのままでないことも注意すべきでしょう。このブログでたびたび触れてきたように、森田悌氏は、「天皇」は「てんわう」であって呉音であり、漢音で訓む「皇后・皇太子」と異なることを強調していました。「天皇」の語の使用は「皇后・皇太子」の使用より早いのです。


どんどん遠くまで飛ぶようになる斬られた入鹿の首:露木基勝「蘇我入鹿の首塚と伝承について」

2025年03月09日 | 論文・研究書紹介

 『日本書紀』はこれまで推測されていたよりも史実を正確に記していること、あるいはそこまでではなくても、何らかの伝承に基づいたうえで多少変えて書いてある部分が意外に多いことが知られるようになってきました。ただ、どう考えても歪めて記しているだろうと思われるのが、蘇我蝦夷と入鹿の親子に関する記述です。

 この点を考えてみるうえで役に立つのが、

露木基勝「蘇我入鹿の首塚と伝承について」
(『歴史研究』第712号、2023年7月)

です。

 乙巳の変で入鹿が斬られます。『日本書紀』では斬られたと書いてあるだけですが、その場面が後に絵巻にされます。室町時代の『多武峯縁起絵巻』では、入鹿の首が切られて左側に2mほど飛んでいるように描かれています。

 これがきっかけなのか、首が飛んだという伝承が生まれます。その代表は、飛鳥寺のそばにある入鹿の首塚です。ここは飛鳥板蓋宮から600メートル以上の所にあり、乙巳の変の後、中大兄が占拠して戦に備えた飛鳥寺と蘇我氏の邸宅がある甘樫丘の中間に位置します。首を埋めたという伝説がいつ生まれ、さらに「首がここまで飛んできた」という伝説がいつ生まれたのかは不明です。

 現在そこに建てられている五輪塔は、落ち着かない形になってますが、それは下から二番目の水輪の石が上下逆さまになっているためである由。奇妙なことに、この首塚は現在ではパワースポットとして人気があるとか。

 次の首塚とされるのは、明日香村の茂古森(もうこのもり)です。この変わった名は、入鹿を殺害した中臣鎌足が入鹿の首に追いかけられてこの森に逃げ込み、「もう来ぬだろう」と言ったことによるといいます。飛鳥板蓋宮からは3キロ。ここまで来ると、かなり発展した伝承ですね。

 その次は、橿原市のオッタ屋です。ここは飛鳥板蓋宮から直線で5キロ。「さらに飛行距離はパワーアップされている」ということになります。

 ところが5キロどころでなく、奈良県を飛び越えて三重県の松坂市飯高町舟戸にも入鹿の首塚と呼ばれる五輪塔があるそうで、これだと約30キロということになります。

 露木氏は、「蘇我氏は逆賊だったのであろうか」と疑問を呈し、最近ではその功績が認められるようになりつつあると述べたうえで、敗者とされた者の中には心ある人たちによってひそかに祀られ、伝承として語り伝えられている場合が少なくないとし、入鹿の首塚もその一例だと説きます。

 確かにそうですね。このブログでも、守屋合戦の際に戦死した守屋側の武将、捕鳥部万の死骸を愛犬が守ったという『日本書紀』の逸話に注目し、守屋側の人たちが語り伝えたと論文で書いたとして、その論文を紹介したのですが(リンク)、こうした例はほかにも多いでしょう。


渡来系氏族を活用した蘇我氏による屯倉→邸→宮→寺:西本昌弘「桜井屯倉・小墾田屯倉から豊浦宮(寺)・小墾田宮(寺)へ」

2025年03月03日 | 論文・研究書紹介

 先に都と寺との関係を論じた吉川真司氏の論文を紹介しましたが(リンク)、その寺の中には宮や邸を寺に改めたものが多いことが知られています。有力な人が亡くなると、追善のためにその邸を寺にするような場合ですね。

 この問題を、天皇の宮から寺への改修について検討した最近の論文が、

西本昌弘「桜井三宅・小墾田三宅から豊浦宮(寺)・小墾田宮(寺)へ」
(『奈良県立樫原考古学研究所紀要 考古学論攷』第47冊、2023年9月)

です。

 西本氏は、安閑元年(534)に安閑天皇の妃であった巨勢氏の姉妹に対して、小墾田と桜井(向原)の屯倉が与えられたが、蘇我氏が渡来系氏族を活用して山田道沿いに開発を進め、勢力を増すにつれて蘇我氏の管轄下に置かれ、小墾田家と向原家に転化したします。

 『元興寺縁起』は後代の造作が多いものの、年代の不自然なところを訂正すれば資料として使えるとする西本氏は、『元興寺縁起』から、蘇我稻目は、欽明妃となった娘の堅塩媛のために向原邸を向原後宮とし、これを桜井に移して桜井道場(桜井寺)としたこと、向原後宮で育った推古はこの宮を伝領し、後に豊浦宮を豊浦寺としたことが読み取れるとします。

 なお、「後宮」といっても、中国の宮殿に付属する後宮ではなく、妃の邸をそのように表記していたと西本氏は説きます。これだと、隋使の裴世清が倭王の後宮には女が六七百人いると報告した理由が少し推測できますね。

 古代の日本では、皇帝のの巨大な宮殿に多数の妃たちが居住する後宮が設置された中国とは違い、宮殿も掘立柱式でさほど大きくなく、まして巨大な後宮の遺跡などは発掘されたことはありませんが、複数の妃の邸があってそれぞれに女性を中心としてお仕えする者たちがある程度いた場合、それらをひっくるめて後宮と称し、「白髪三千丈」式に大げさに表現すれば、「後宮有女六七百人」といった記述が生まれるかもしれません。

 それはともかく、推古が推古11年(604)に豊浦宮から新たに造営された小墾田宮に移り、豊浦宮を豊浦寺としたという伝承は、豊浦寺跡から出る瓦がその頃のものであることから立証されます。

 豊浦寺跡からは、石敷など宮の遺跡が発掘されており、豊浦宮跡と推定されていますが、西本氏は、そのさらに下層には桜井屯倉の遺構が埋もれている可能性があるとします。

 そして、小墾田宮は稻目の小墾田邸を改めたものであり、一般に言われるほど新しい中国式の宮殿ではなかったろうと西本氏は推測します。その小墾田宮は、推古の没後に寺に改められたのであって、その小墾田寺が現在の奥山廃寺だと西本氏は説きます。奥山廃寺からは、「小治田宮」と墨書された土器がいくつも出土してますからね。

 小墾田寺については、吉川真司氏の論文があり、大后寺と呼ばれて当時の尼寺の筆頭であったと説いていますが、実際、奥山廃寺は四天王寺式伽藍配置であって、回廊は南北66メートルほどあり、蘇我倉山田麻呂が創建した山田寺の金堂より大きく、天智天皇が母のために創建したと推定されている川原寺の中金堂に匹敵する大きさです。

 金堂の創建は、瓦の様式から見て620~630年ほどと推定されており、推古没年の628年とほぼ一致します。吉川氏は、小墾田寺は小墾田寺の付属寺院と推測していますが、西本氏は、規模の大きさなどから見て、小墾田宮の中心部分を寺にしたものと見ます。

 なお、井上主税氏は、5世紀後半の日本の初期の横穴式石室墳は、埋蔵物から見て、楽浪・帯方にいた漢人を祖先とする中国系百済人の墓だとし、飛鳥周辺のそうした墓を東漢氏を代表とする中国系百済人のものとしています。蘇我氏は、そうした渡来系氏族を配下にし、屯倉を開発していったのであり、その屯倉の地を勢力下におさめて邸を立て、それを宮とし、さらに寺としていったという流れを指摘しています。


神話化された太子伝を鵜呑みにした素人の危険な太子礼賛:橋本晋吉「聖徳太子の御聖業―神仏融合と"和"の精神」

2025年02月27日 | 史実を無視した日本の伝統・国体(国柄)礼賛者による聖徳太子論

 前に聖徳太子を日本古来の伝統なるものと結びつけて礼賛しようとする傾向の例に触れましたが(こちら)、怖いのはそれが政治と結びつくことです。その可能性がある一例が、

橋本晋吉「聖徳太子の御聖業―神仏融合と"和"の精神」
(『在野史論』第18号、2023年11月)

です。

 『在野史論』という雑誌名が示すように、専門家ではない歴史好きの人たちがやっている雑誌であって、橋本氏はこの雑誌にしばしば投稿しています。

 大学や研究所や自治体の歴史調査部門などに勤務している人であっても愚劣な論文を書く例は多く、たとえば、通説をひっくりかえしたと称して学問ごっこを楽しんでいる九州王朝論者の典型である古田史学会の事務局長氏などは、大学で実務系の授業を担当する非常勤講師のようですが、「大学講師」の肩書きで古代史関連のトンデモ説を書き散らしており、中には資料の改変や孫引きの隠蔽をしているひど論文もどきもあります(こちら)。

 また、多くの粗雑な本を出しまくっている著名な関裕二氏も、宣伝のためなのか、大学の研究所のメンバー、それもスペシャルアカデミックフェローという偉そうな肩書きを得て、論文の書き方も知らない、ひどい駄作を書いています(こちら)。スペシャルというのは、並みのアカデミックフェロー(学術研究員)とは違い過ぎるということなんでしょうか。

 逆に研究職ではなくても堅実な研究成果を発表している人も少なくありません。ただ、文献や考古資料を扱う訓練を受けていないと、文献の真偽や成立年代を無視し、想像にはしりがちな人がいることは確かであり、橋本氏のこの論文はその一例です。

 たとえば、冒頭で聖徳太子は「皇位を継ぐ「皇太子」となり、「摂政」に就任し」たと断定しています。『日本書紀』における「摂政」は動詞であって、そのような職位はなかったことはよく知られていますが、昔の常識のままです。また古代の日本では「移」は「や」と発音されていたことを知らず、「元興寺露盤銘」について触れた際、「有麻移刀」に「うまいと」とルビを振っており、これだけ見ても学術論文のレベルには遠く達していないことは明らかです。

 本書の問題点は山のようにありますが、神話化が進んだ『伝暦』の記述を史実として扱っている箇所が多く、『伝暦』の過剰な記述についても、「太子の少年期の利溌さ、聡明さをより深く洞察し、神格化されたものであろう」などと述べています。「利溌」は「利発」の誤記であるのはともかく、「より深く洞察」すると大げさな記述が可能になるとは、初めて知りました。

 引用しているのは、坂本太郎先生などの古い論文ばかりで、最近のものはありません。「(帰化人系である)馬子の専横は、朝廷内で目にあまるものとなった」などと書くなど、戦前の史観そのままです。蘇我氏が皇室を無視して専横に振る舞ったのは帰化人だからという見方ですが、父方・母方ともその蘇我氏の血を引いている聖徳太子は「帰化人系」ということになりますし、馬子の娘を妃としているため義理の息子であって、一緒に政治をし、飛鳥から斑鳩までの斜め直線道路を建設してもらっていることはどう考えるんでしょう。

 三経義疏については、「「現世利益」の『法華経』、「女性を対象」とした『勝鬘経』、「在家教義」の『維摩経』」と書くなど、古田史学会なみの仏教常識知らずです。『法華経』は成仏が目標であって「現世利益」は副次的なものですし、『勝鬘経』は勝鬘夫人が説いたものですが女性相手でありません。何かの概説をうろおぼえにして書いたのか。

 とにかくひどい内容を並べ立てたうえで、最後に「太子の御聖業は何物にも代え難い」と結んで終わっています。

 こんな素人の感想文をとりあげるのは嫌なのですが、この橋本氏をネットで検索したら、「国を護り、民を護り、国民を保守する政党」と称する「新党くにもり」にかなりの額を寄付していました。

 史実を無視して聖徳太子をやたらと持ち上げる傾向が政治と結びつくと危険なことは、戦前・戦時中の状況が示している通りです。そう言えば、「新しい教科書をつくる会」の理事氏も、『日本書紀』『古事記』に「厩戸王」の名が見えないことに気づかずに国会議員たちにレクチャーし、後でそれをごまかすエッセイを書いてましたが(リンク)。


古代における仏教の中心地としての都:吉川真司「日本古代の仏都と仏都圏」

2025年02月22日 | 論文・研究書紹介

 最近では都城制に関する研究、都と地方を結ぶネットワークの研究が盛んになっていますが、古代日本の都を「仏都」と位置づけ、その勢力圏を論じた論文が、

吉川真司「日本古代の仏都と仏都圏」
(堀裕・三上喜孝・吉田歓編『東アジアの王宮・王都と仏教』、勉誠社、2023年)

です。

 文献研究を進めるだけでなく、考古学にも通じている吉川氏は、7世紀の倭京から8世紀の平城京に至る倭・日本のミヤコは、政治・経済の中心となる王都であると同時に、王権によって交流された仏教の根拠地でもあって「仏都」と位置づけることもでき、その周辺地域も仏都の影響を受けていて他の地域と異なる特色を持っていたとします。

 平城京に至る諸地域で営まれた都も「小さな仏都」であって、仏都の最大のもののは平城京だが、長岡京は平城京の寺院が移されず、さらに平安京となると、東寺・西寺しか寺院が認められなかったため、旧都の平城京がそれを補完せねばならず、平城京は「純然たる仏都」として存続していったと見通しを語ります。

 「仏都圏」というのは、吉川市が考案した用語であって、仏都を支える社会的・経済的基盤となった地域のことです。これは、「首都圏」という言葉に示唆されたものである由。

 吉川氏は、官大寺の僧尼たちは寺と山林で活動するだけでなく、その寺と関係が深い地域を行き来し、法会をおこなっていたこと、しかも、その地域は、播磨・紀伊・陸奥・近江その他、かなり限られていたことに注意します。

 その関係性を示す一例として、吉川氏は、飛鳥・白鳳期の寺院の数とその地域の人口の比を取り上げます。寺院の数は1983年の奈良国立文化財研究書の目録によっています。これ以後、各地で寺の遺跡が発見されていますが、全国にわたる発掘状況の報告としては、今も価値があるとして使うのです。そして、最近の人口研究の成果を踏まえて作成したのが、下の図です。

 A級の国は2000人以下に1寺院、B級は2~4000人に1寺院、という具合であって、一番少ないF級は16000人以上に1寺院となっています。見れば明らかなように、A級は大和・近江・和泉・河内・山城であって、畿外であるにもかかわらず、近江が第二位になっていることが注目されます。

 B級は、紀伊・播磨・尾張・摂津・讃岐・備前・飛騨であって、畿内の摂津が入っており、順位が低くなっています。C級のうち、伊勢はB級の最下位に近いため、準B級とみなされます。また、飛騨については、飛騨匠の存在による可能性が大きいため、考察から外すとします。

 こうして見ると、九州の少なさが目立つものの、渡来人が多い豊前、国際交渉の玄関口である筑前は、さすがに多少は多くなっています。九州王朝論者によると、九州王朝は強大であって東国にまで勢力を及ぼしていたそうですが、仏教先進国であって隋と仏教外交をしたはずなのに、この結果によると、寺には興味がなくてあまり建てず、臣下であった大和王権に建築や瓦作成の最新技術を下付した、ということになります。なんと寛大な王朝なんでしょう!

 吉川氏は、尾張・讃岐・備前などを仏都圏に含めることについては異論があるだろうが、『延喜式』が「近国」としている17国に、尾張・備前は含まれています。問題は讃岐ですが、奈良時代における諸大寺の寺領を見ると、尾張・讃岐・備前は入っていると説きます。

 そして、法隆寺領と上宮王領、大安寺領と舒明・天武天皇領、興福寺領と藤原鎌足領の関係が推測されるとし、上記のような地域は、王都の強い影響下にあって社会的・経済的に王都を支えた地域だと論じます。

 なお、平安京内には東寺と西寺しか認められなかったが、都の郊外には王族・貴族の寺が乱立し、その結果、平城京と並ぶ仏教の中枢地となったと吉川氏は説き、東国などと結び着いていた延暦寺は、それまでとは異なる存在だったと述べています。