聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

鎌倉幕府の「御成敗式目」五十一箇条は「十七条憲法」の三倍ではない:佐藤雄基「五十一という神話 御成敗式目と十七条憲法」

2024年06月13日 | 聖徳太子信仰の歴史

 貞永元年(1232)に出された鎌倉幕府の「御成敗式目」五十一箇条という数は、聖徳太子の「憲法十七条」の17を3倍にしたものだ、というのは良く聞く話です。しかし、確実な証拠はありません。そこで、この説について検証してみたのが、

佐藤雄基「五十一という神話 御成敗式目と十七条憲法」
(『古文書研究』第95号、2023年6月)

です。

 佐藤氏は、戦前から既にそうした説がなされていたものの、「御成敗式目」成立当初にはそうしたことを述べた記録はないとし、これを言い出したのは16世紀の「御成敗式目」の注釈書、清原宣賢の『式目抄』だと指摘します。なお、佐藤氏は「十七条憲法」という言葉を使っていますので、以下、その言い方に従います。

 『式目抄』では、「十七条憲法」の十七条に天・地・ 人の三つをかけて三倍にしたのが五十一であって、これは清原家の口伝だと述べていました。しかし、佐藤氏は、『式目抄』は式目作成者の六名を六地蔵・六観音とし、式目に付された起請文に署名した13人を「十三仏」を表すとするなど、神仏に引きつけて数字を解釈する傾向が目立つとします。

 ただ、「御成敗式目」を「十七条憲法」と結びつけて解釈することは、16世紀には広がっていたそうです。そこで古い例を探すと、永仁4年(1296)に成立したとされる斎藤唯尚の注釈、『関東御式目』では、北條泰時は大賢人であるため、五十一という数字には由来があるに違いないが不明だと書いていました。

 戦後になって佐藤進一が1965年に二段階成立説を唱えると、3倍説には批判もなされるようになりました。佐藤氏は、これらの議論は、複数の条項をまとめたり削除したりすることによって五十一という数に合わせたという見方、つまり、五十一という数字に意味があるとする前提に立つものとします。

 そして、中世の武家の式目の場合、追加されていくことは珍しくないのであって、五十一という数を重視するのは十七の三倍説に縛られたものではないかと述べます。

 ただ、「五十一箇条」と呼ばれたのはなぜかと問題提起し、当時は「一、……の事」といった形の箇条書きの文書を、「〇箇条」と呼ぶのは一般的であったと指摘します。そして、「御成敗式目」は幕府の中で条目が追加されていったものの、世間に流れ、武家の「式目」として知られたのは五十一箇条のものであったことに注意します。

 そうした中で、治世者としての北條泰時の評価が高まった結果、五十一という数字には深い意味があるはずとされるようになったのであって、その動きは13世紀末には既に始まっていたと見ます。

 そして、式目注釈をなした是円が起草メンバーとなった1336年の『建武式目』は、聖徳太子の「十七條憲法」を意識して十七箇条から成っていました。また、元の「十七条憲法」についても、文永9年(1272)に法隆寺で「談義評定」を経て注釈が造られ、弘安8年(1285)には版木で印刷されるなど、注目を集めていました。

 つまり、「十七条憲法」評価と五十一条の「御成敗式目」評価の高まりは平行していたのです。その背景には、多数の条目の法があるのは世が乱れている証拠であり、十七条とか五十一条ですんだ時代は統治が素晴らしかったのだ、という認識が鎌倉後期の知識人にあったと、佐藤氏は述べます。

 「御成敗式目」の起草者の一人とされる玄恵は、「十七条憲法」の注釈の作成者とみなされていますが、その注釈には、五十一条はもとより、十七という数字に関する説明がないことに佐藤氏は注意します。玄恵の注釈に対する注釈、『聖徳太子御憲法玄恵註抄』になると、『式目抄』の説が組み込まれるようになるのです。

 以上のことから、「御成敗式目」制定時点では、「十七条憲法」の十七条を三倍にして五十一箇条にするという意識はなかったと、佐藤氏は結論づけます。まあ、そうでしょう。ですから、古典を研究する際は、その本文の研究だけでなく、研究史の研究が必要なのです。

 なお、玄恵は「憲法十七条」だけでなく、『太平記』の作者とされるほど、いろいろな文献の作者とされた大学者でした。玄恵については、中世文学会のシンポジウムに招かれた際、その特質と伝承について発表し、論文にもしてあります(こちら)。


法隆寺再建説でも非再建説でもない自説を92歳で補強:鈴木嘉吉「白鳳時代の建物は遺存するのか」

2024年06月08日 | 論文・研究書紹介
 近代日本の美術史・建築史を発展させたのは、100年以上続いた法隆寺の再建・非再建に関する大論争でした。この論争は、昭和14年(1939)12月に始められた法隆寺西院伽藍の南東部の発掘調査により、聖徳太子が創建した法隆寺=斑鳩寺(若草伽藍)は焼失したこと、それとほぼ同規模である現在の法隆寺西院伽藍は後代の造営であることが確定しました。
 
 ところが、論争はまだ続いています。というのは、西院伽藍が当初の法隆寺ではないことは確定したものの、天智天皇9年(670)に全焼した後に現在の地で建て直したにしては、金堂の様式や本尊である釈迦三尊の様式が古すぎたからです。
 
 むろん、再建に当たっては、建物にしてもそこに安置する仏像にしても、以前の様式を受け継ごうとするでしょうが、それにしても、670年以後、8世紀初め頃までに造営された他の寺院の建物や仏像と比べて古式な点が目立つのです。非再建説が提唱されたのもそのためでした。
 
 そのため、釈迦三尊像については、火事から救出されたとする説(たとえば、こちら)があるほか、現在の金堂の本尊としては小さすぎるため、他の太子関連の寺、ないし、斑鳩宮内にあった仏堂に安置されていた仏像を再建法隆寺の本尊としたのだとする説(たとえば、こちら)などが出されました。
 
 また、金堂についても、九州王朝の寺を解体して斑鳩まで運んできて建てたなどというトンデモ説はさておき、大和の他の地域から移築したとする説も出されました(こちら)。
 
 このように諸説が乱立する中で、東大の建築科出身の建築史研究者であって、奈良文化財研究所に発足時から勤務して長年、奈良の古寺の修理に携わり、最後にはその所長も務めた鈴木嘉吉氏は、昭和61年(1986)に新説として「法隆寺新再建論」を発表しました。
 
 つまり、金堂は若草伽藍の焼失前に、聖徳太子を偲ぶ堂として造営され始めていたのであって、釈迦三尊像は斑鳩宮内の仏堂に安置されていたと主張したのです。
 
 以後、法隆寺については修理にともなって研究がさらに進み、年輪調査による木材の伐採年調査の成果なども出て議論が再び活発になりました。そうした中で、鈴木氏が最後に発表したのが、

鈴木嘉吉「白鳳時代の建物は遺存するのか」
(『仏教芸術』第8号、2022年3月)

であって、鈴木氏はこの年の12月に93歳で亡くなっています。論文が出たのが3月となると、提出はその半年ほど前でしょう。つまり、この論文は生涯をかけた研究の結論となる遺作なのです。

 この論文では、法隆寺再建非再建論争をざっと振り返り、昭和の大修理では、金堂の礎石は他から転用されたものが混じっていること、また修理工事の責任者であった竹島卓一は、まず金堂だけを独立して建て、後になって五重塔などを加えて伽藍を整備することになった結果、全体の地盤を現在の状態まで掘り下げたと指摘したことに注意します。

 そして、自分はこれらの問題を説明できる説として、昭和61年(1986)に「法隆寺新再建論」を発表したと述べます。その論文は、現在の西院伽藍の金堂は、内陣が四方吹き放しの開放的な造りであり、扉が外開きであるのも異例であるうえ、釈迦三尊像などが建物の中心より前寄りに安置されていることなどから見て、金堂は、最初は若草伽藍の西北の小高い場所、つまり現在の場所に建てられた聖徳太子を偲ぶ廟堂だったと説いた、と紹介します。釈迦三尊像は、隣接する斑鳩寺の宮のうちにあったと推定されている仏堂に置かれていたと推測したのです。

 鈴木氏は、これらは状況証拠に基づく議論だったが、平成15~16年におこなった年輪年代調査によって、西院伽藍の造営年代が分かったことにより、上記の推定が「ほぼ確実になった」と述べます。

 というのは、金堂の初重(一階部分)の天井板は、内陣・外陣部分は主に667年・668年に伐採されたものでした。つまり、670年に若草伽藍が焼ける前に準備されていたのであって、火事の時には初重は既に完成していたと見るのです。

 現在の金堂初重の内陣上方で井桁型になっている天井桁の両端には、上の部分を支える柱を据える柱盤が組みめぐらされていますが、そこには別のほぞ穴が残っており、現在の上重の切妻屋根部分をその上に載せると、玉虫厨子のような一重錣葺の屋根が作れると竹島が指摘していると述べ、鈴木氏はそれに賛成します。

 つまり、金堂は初めは単層の廟堂として建てられたのであって、670年段階ではまだ瓦を葺くには至っていなかったと見るのです。寺では、どの場合でも瓦は最後に葺かれ、それまでは木の板で覆われます。

 記録によれば、火災の後、しばらく寺地が定まらず、一部の僧侶や役人が他の寺に移ったとされていますが、鈴木氏は、これを、元の若草伽藍の地に建て直そうとした派と、初重まで造られていた現在の地の廟堂を中心として伽藍を整備しようとした派の対立を示すものと見ます。

 結局、この廟堂を中心にして再整備することに決まり、廟堂の周囲を堀り下げて伽藍の地を造成した結果、廟堂の基壇はそれまでの倍の高さの二重基壇となり、それまで一重だった廟堂の上に、当時の寺院の型式に合わせて二重目を載せて伽藍の中心となる金堂とした、と鈴木氏は推測します。

 そして、若草伽藍では中門、金堂、五重塔は南北に並んでいたものの、再建法隆寺では、最初の勅願寺となった舒明天皇の百済大寺にならい、塔は金堂の西に並べることにし、当時は地上に心礎を据えるのが普通になっていたものの、飛鳥寺や若草伽藍と同様に、地中深くに心礎を据える古い型式で塔を造営したと見ます。

 塔の二重目の西北隅肘木の年輪年代は673年であって、伐採は塔の建立年代に近いと考えられるため、670年代の後半には塔の建立も始まったものの、大化4年(648)以来与えられていた食封300戸が天武8年(679)に停止されたたため、塔の工事は中断されたと見ます。塔の心柱に風触の跡が見られるのはそのためとするのです。

 この工事が再開されたのは、持統7年(693)に法隆寺を含めた諸自院で行わせた仁王会であったと鈴木氏は推測します。『法隆寺伽藍并流記資材帳』ではこの時、持統天皇から紫の(天)盖、経台、帳などが施入されたとしており、これまではこの記事によって、少なくとも金堂はこの時期には再建されていた、と見られていました。

 鈴木氏は、平成16年の天蓋修理の際、中の間と西の間の仏像の上の重厚な金属製の箱形天蓋をつるす金具は当初のものと判定されたものの、東の間に安置された薬師如来像の頭の上に現在は使われていない吊金具、それも軽量のもの用の金具を後から付けてあることが発見されたことに注目します。

 というのは、『資材帳』で持統天皇が施入した天蓋は「紫」と記されているのは、当時流行していた軽い布製の天蓋であったことを示すのであり、それが薬師像の上に設置されたのは、薬師像の光背銘が朝廷から認められたことを示す、と鈴木氏は説きます。

 そして、これをきっかけにして伽藍整備が進み、聖徳太子を敬慕する近隣の者たちの助成もなされたと推定します。中門は大斗の年輪から700年頃から着工されたようです。

 鈴木氏は、薬師像銘については有名であるためか、内容に触れていませんが、この銘は病状が重くなった「池辺大宮治天下天皇(用明天皇)」が、「大王天皇」と「太子」に造寺造像を命じたものの、亡くなったため、「小治田大宮治天下大王天皇(推古天皇)及び東宮聖王」が遺命にしたがって建立した、と述べており、「天皇」の語が見えるため後代の偽作とされてきたものです。

 しかし、竹内理三は、「大王天皇」などと呼んでいるのは律令以前の表現である証拠としていました。今回の鈴木氏の遺作論文により、そのことが立証されることになりましたね。

 むろん、薬師像は釈迦三尊像より後の時期の作ですし、像よりさらに遅れるであろう光背銘の内容は事実ではありませんが、法隆寺を復興させようとした者たちがこれまで推測されていた7世紀後半よりも早い時期、少なくとも律令が制定される前に作成した可能性が高いということになるのです。

 鈴木氏は、ここでは紹介しませんが、法隆寺の次に、白鳳建築ないしそれに近いものとして伊勢神宮と薬師寺東西塔について検討しています。92歳だったのですから、その学問的な努力に頭が下がります。

 なお、鈴木氏については、氏に鍛えられた建築史学者の藤井恵介が、『仏教芸術』第10号(2023年3月)に「鈴木嘉吉先生を偲ぶ」という追悼文を寄せています。


逆臣の守屋が地蔵菩薩や熊野権現へと変化:伊藤純「聖徳太子と物部守屋」

2024年06月03日 | 聖徳太子信仰の歴史

  『日本書紀』の守屋合戦記事では、厩戸皇子が四天王に誓願したからこそ勝利したように描かれていますが、それ以外の部分では、名前も他の皇子たちの後に記され、少年の身であって軍勢の最後につき従っていたと書かれています。

 それが実状でしょう。ところが、後代の太子伝になると、厩戸皇子自身が先陣をきって勇ましく戦ったように描かれるようになります。中には太子自身が守屋を討ち取ったとする太子伝も登場しますが、そこで問題になるのは、仏教を広めた太子が「殺生」をするのはいかがなものか、という問題です。

 この問題を解決するため、守屋が仏教導入に反対したのは、仏教を広めるためにわざとやったのであって、守屋は『法華経』の言葉を唱えながら亡くなった、と説く太子伝も造られました。

 そうした筋を、煩悩の元である無明と、真理のあり方である「法性(ほっしょう)」の戦いとして展開した『無明法性合戦物語(合戦状)』なども中世には書かれています。

 これは、前にこのブログで書いたように(こちら)、四天王寺周辺には守屋側の人間であって四天王寺に属させられた者たちがかなりいたことも関係しているかもしれません。そうした人たちは、守屋を弁護したいでしょう。

 それとは作成グループが異なるかもしれませんが、とにかく守屋を弁護しようとした試みの一つを扱ったのが、

伊藤純「聖徳太子と物部守屋―逆臣守屋から地蔵菩薩守屋へ」
(『日本文化研究』第55号、2024年3月)

です。伊藤氏については、これまでも聖徳太子の有名な肖像画、「唐本御影」は、近世には秘蔵されていなかったことを明らかにした論文などを紹介したことがあります(こちら)。

 伊藤氏はまず、『日本書紀』では跡見首赤梼が樹に登って矢を射ていた守屋を射おとして守屋とその子などを「誅」したとあって、罪ある者を殺す「誅」の語を用いていることが示すように、守屋を逆臣として描いていることに注意します。

 ところが、平安初期の『上宮聖徳太子伝補闕記』になると、太子が誓って矢を放つと守屋の胸にあたり、守屋が樹から落ちたところを、「川勝」がその頭を斬った、となっています。

 ところが、『聖徳太子伝暦』になると、太子は「守屋は生まれ代わるたびに仏教を破壊する族であった」が述べたとしつつ、仏法を興す時もつき従っており、「影と響きの如し」とします。

 それが、嘉禄3年(1227)頃の四天王寺系『太子伝古今目録抄』となると、「権者は仮に悪人を示し、衆生を化す」とあって、守屋はわざと悪人の姿を示して仏法を興隆させたとされており、四天王の一体を毎日供養するのは、「守屋の菩提の為なり」と述べており、仏法流布の仲間扱いとなってます。

 以上は四天王寺系の文献でしたが、延応元年(1239)頃の法隆寺系の『古今目録抄』でも、「太子守屋共に大権菩薩。仏法を弘めんと為し、此の如く示現す」と説くにいたっているとします(「弘めんが為に」ですね)。

 なお、守屋のイメージがこのように変化したことは、先行研究、特に松本眞輔さんの『聖徳太子伝と合戦譚』(新典社、2007年)でまとめてろんじられています。

 さて、以後も太子と守屋のイメージは代わっていきますが、応安5年(1372)の『顕真得業口決抄』では、馬子が与えた太刀で川勝が守屋の首を切ったとし、「或る説に云う」として、「守屋は地蔵の化身」と述べ、仏教が無い世界に仏教を弘めるためにその身を現わしたとしています。

 この頃から、守屋と太子の合戦は法性と無明の仮の戦だとする文保本『聖徳太子伝記』の言説が広まっていきます。

 太子信仰は地方へも広まっていきますが、応永34年(1427)頃の『善光寺縁起』では、四天王寺の北東の柱を彫って守屋の首を納め、今に至るまで「守屋柱」と名づけていると説きます。これは四天王寺の話のはずでsが、善光寺本堂には現在も「守屋柱」と呼ばれる柱がある由。

 このように、守屋は菩薩扱いされることもあったものの、寛政10年(1798)の『摂津名所図会』では、四天王寺の太子堂の後ろい守屋祠があるが、三啓客が憎んで石をなげて壊すため、寺の僧が「熊野権現」と表記した由。祭ってるのは、守屋と弓削子連、中臣勝海という排仏トリオだそうで、現在でも中心伽藍の東の境内地に「守屋祠」があると伊藤氏は述べます。上記の善光寺の守屋柱やこの四天王寺の守屋祠などは、写真が示されているのが良い点です。

 なお、伊藤氏のこの論文では、注がなく、末尾に「参考文献」として先行研究をあげおり、松本さんの論文と本も記されていますが、これではどこまでが知られていることで、どこが伊藤氏の新しい指摘か分かりません。一般向けの本の書き方ですね。近世に関してはこれまでにない報告がいくつもなされているものの、論文としては感心できません。

 「おわりに」では、『広文庫』が引く篤胤の『出定笑語』によれば、赤穂の越の浦に大酒の杜と称する守屋の祠があるとしており、通常では秦河勝を祭神としている大避(大酒)神社に守屋が結びつけられていることが報告されています。こうした近世の状況を報告している点が、この論文の意義ですね。


蘇我馬子が入手した弥勒石像は固くて光沢のある蝋石製か:山﨑雅稔「敏達紀の「弥勒石像」と朝鮮三国の弥勒信仰」

2024年05月29日 | 論文・研究書紹介

 前回、須弥山石を取り上げましたので、それに続いて石像に関する論文を紹介しましょう。

山﨑雅稔「敏達紀の「弥勒石像」と朝鮮三国の弥勒信仰」
(『国学院雑誌』第121巻第11号、2020年)

です。

 中宮寺や広隆寺の半跏思惟像は最初期の仏像として有名であり、弥勒像と見るのが一般的です。しかし、山﨑氏は、インドや中国では弥勒像を半跏思惟の形で示した明確な例がなく、美術史では擬議が提示されていると述べます。

 そして、奈良時代には弥勒信仰に関する記述がある史資料が少なからずあるのに、その奈良時代の初期の養老4年(720)に完成した『日本書紀』は弥勒にほとんど触れておらず、例外は、敏達天皇13年(584)に見える記事であって、百済からもたらされた「弥勒石像」を蘇我馬子が所有したいうものです。そこで、山﨑氏はこの点について検討します。

 氏はまず弥勒菩薩の説明から始めます。弥勒は釈迦とともに修行したとされ、現在は兜率天にいて、現在仏である釈迦の次に仏となることになっている菩薩であって、未来の仏とされており、釈迦の入滅から56億7千万年後に人間世界に下生し、龍華樹の下で3度説法し(龍華三会と呼びます)、釈尊の救済から漏れた人々を救うとされています。ですから、弥勒の像は、菩薩の姿か悟った後の仏の姿で示されます。

 こうした弥勒に対する信仰は二種類であって、一つは未来世において弥勒が下生した際、その龍華三会に値遇したいと願うもの、もう一つは、現世で死んだら弥勒のいる兜率天に昇り、弥勒が下生する際にともに下生して三会に値遇したいと願うものです。前者が下生信仰、後者が上生信仰であって、インドでまず下生信仰が生まれ、後に上昇信仰が成立したものの、東の端の日本にはこの二つが一緒に伝えられたようで、むしろ上生信仰が盛んであったとされています。

 さて、問題の『日本書紀』敏達天皇13年(583)9月条では、百済から鹿深臣が弥勒石像一躯をもたらし、佐伯連が仏像一躯をもたらし、続く是歳条では、馬子がそれを請い受け、鞍部村主司馬達等・池辺直氷田に命じて行者を探させ、播磨で還俗した高(句)麗の恵便を見つけて師とし、司馬達等の娘の嶋を尼とし……、仏殿を宅の東に造って弥勒石像を安置して、というお馴染みの記述となっており、「仏法の初め」と記されています。

 そして、敏達天皇14年(584)には、馬子が病み、理由を占わせると父の稻目の時に祭った「仏神之心」が祟ったのが原因だと言われ、天皇に言上したところ、父の神を祭れと命じられたため、勅に従って「石像を礼拝い、寿命を延ばすことを乞う」たとあります。『元興寺縁起』では、甲賀臣が百済から「石の弥勒菩薩像」をもたらしたとあり、菩薩の姿であったとする点に山﨑氏は注意しています。「甲賀」は「鹿深」です。

 問題は、馬子が弥勒菩薩像に延命を祈って礼拝したことです。これはいろいろ議論のある野中寺の金銅造半跏思惟像の台座の銘文に、中宮天皇が病気になった時に知識たちが誓願して造った弥勒の象だとあることです。馬子の場合と同様、延命が主であって、上生・下生には触れられていません。

 平安中期の史料によれば、馬子が祭った石像は本元興寺(飛鳥寺)→新元興寺→多武峯平等院に移ったとされ、後代の史料、たとえば15世紀半ばの『南都七大巡礼記』によれば、この石像は一尺ほどで日本最初の仏像とされ、百済から渡ってきた「馬瑙之弥勒像」とされ、『上宮太子拾遺記』では坐像であって「色白く、極めて固く、面貌奇麗」とされています。

 山﨑氏は、こうした記述は、韓国の扶余や公州で発見された滑石(蝋石)の仏像に似ているとします。美術史の大西修也氏の研究によれば、百済では蝋石製の仏像は6世紀中頃から末頃にかけて流行したそうですので、馬子の仏像はそれと合うことになります。

 須弥山石のような粗い石質の大きな仏像なら、百済から持ち帰るのは困難ですし、あまり有り難くなさそうですが、「蝋石 像」とか「白玉 仏像」などで画像検索してみれば分かるように、そうした貴重な材質の小ぶりな仏像なら拝む気になるでしょう。

 さて、百済があった地では、金銅・銅像・石像・摩崖像などの形で半跏思惟像が見つかっており、弥勒信仰との関わりが推定されていますが、中国の龍門石窟などでは釈迦の前身である悉達太子が半跏思惟形で表されている例があるため、弥勒とは限らない可能性があるとします。

 山﨑氏は、百済・高句麗・新羅における弥勒信仰について検討し、朝鮮三国には弥勒を半跏思惟の形で表す例が造像記から見えると指摘します。そして、弥勒像は、現世の発願者自身や結縁もののために制作される場合は、三会値遇を願うためであり、死者の供養を目的として造られる場合は死者が弥勒の浄土に往生することを願うものでした。

 また、弥勒と阿弥陀を合わせて信仰した例も複数あることに山﨑氏は注意します。ただ、辛卯年銘金銅三尊像銘では、死者のために無量寿仏(阿弥陀仏)を造り、その功徳によって残された者たちが将来、弥勒に値遇できることを願っている点から見て、浄土の区別はなされていたと見ます。

 以上のことから、山﨑氏は、馬子が入手した百済の弥勒石像は、半跏思惟像であったと推定します。そして、鹿深臣の弥勒像とは別に佐伯連の仏像が記されていることから見て、馬子は弥勒菩薩単独ではなく、阿弥陀仏ないし別な仏像と弥勒菩薩をあわせて所有し、信仰したことに『日本書紀』は意味を持たせようとしたと考えられるとします。

 ただ、高句麗や新羅などの例では、馬子や野中寺像銘のように、弥勒に祈ることによってこの世での長寿を得ようとすることは見られないとし、馬子の弥勒信仰については、インド・中国・韓国における展開、俗信との習合など、様々な面から考えなければならないと述べてしめくくっています。

 このように、『日本書紀』のちょっとした記述も、幅広い視点から検討すればいろいろなことを語ってくれることが分かりますね。また、馬子関連の仏教に関する記述は、百済などの状況を正確に反映している面と、そうでない面があることがわかります。


夷狄に服属儀礼をさせる施設でなく、文化威力を見せつける噴水か:外村中「飛鳥の須彌山石」

2024年05月24日 | 論文・研究書紹介

 以前、「スメラミコト」は推古朝において仏教との関連の中で用いられるようになった「天皇」の語の訓であって、世界の中心とされた須弥山(スメール)に基づくとする森田悌氏の説を紹介しました(こちら)。

 律令制では皇后は「こうごう」、皇太子は「こうたいし」」であって、遣唐使によって確立した当時の漢音で発音しているのに対し、「天皇」は「テンノウ」であって、「四天王(してんのう)」と同様、朝鮮経由で入ってきて仏教界で用いられた古い呉音で発音されているのは、成立が古く、仏教との関係の深さを示すという森田氏主張に私はは賛成なのですが、「スメラ」は果たして「須弥」に基づくのかどうか。

 その森田氏が、推古朝や斉明朝に建造されていたことに注目した須弥山石に関する論文が出ていますので、紹介しておきます。

外村中「飛鳥の須彌山石」
(『日本庭園学会誌』21号、2009年)

です。掲載誌を見れば分かるように、外村氏は庭園史の研究者なのですが、インドや中国の原文を読みこなす語学力があって博学であるため、関連するインド仏教の問題についても、きわめて専門的ですぐれた論文をいくつも発表しています。

 今回の論文は、日本の須彌山石(外村氏は旧字にしているため、其に従います)を扱っているものの、そうしたインド仏教に関する素養が生かされています。

 まず、明治35年(1902)に奈良の飛鳥村の石神遺跡で発見された須彌山石について、最近の古代史学界の説は、これは『日本書紀』に見える「須弥山像」であって、飛鳥の朝廷に対して地方の夷狄が服従を誓う儀礼の場に置かれ、その儀礼に用いる水と関係する噴水のできる装置、と見ているとします。そして、その儀礼は、須弥山の上の方に住む帝釈天や四天王と関連する神聖な、あるいは呪術的なものだったと見ます。

 外村氏はこれに反対し、まず、『日本書紀』に見える例を検討します。初出は、推古天皇20年(612)是歳条に、百済から来た者が「山岳の形を構えることができる」と述べたため、須彌山のカッチおよび呉橋を南庭に設けさせた、とある記事です。

 次は、斉明天皇3年(657)7月3日に、都貨邏の男二人と女四人が筑紫に漂着したため都に呼び寄せ、15日に須彌山像を飛鳥寺の西に作り、盂蘭盆会をおこない、日が暮れれから都貨邏人たちのために宴を催した、とあります。

 次は同じ斉明天皇5年(659)3月17日に、甘樫丘の東の川のほとりに須彌山を造り、陸奥と越の蝦夷のために宴を催したとあり、同6年(660)5月には、石上池のほとりに須彌山を造り、寺の塔のように高く、粛慎の47人のために宴を催したとあり、阿倍比羅夫の遠征の成果によるようです。
 
 斉明紀に記される三例については、同一物であろうとする説もありますが、石上遺跡で発見された須彌山石をそれと見る説も、推古朝の時のものと見る説もありますが、外村氏はそのどれかであった可能性はあるとします。現在残っている須彌山石は、上中下の三段でしが、中段と下段がうまくかみあわないため、本来はその間にもう一段あったと推定されています。

 服属儀礼だとする説の根拠は、敏達天皇10年(581)閏2月条に、蝦夷数千人が辺境に侵入したため、首領たちを呼び寄せたところ、彼らは恐れかしこまり、泊瀬川の中に下りて三諸山(三輪山)に向い、水をすすって今後は天皇に忠誠心をもってお仕えします、と誓ったとあることです。また、また、飛鳥寺の西は神聖で誓約がなされる箇所であり、須彌山石はその近くに造られたことがあげられます。
 
 しかし、外村氏は、須彌山像を用いて服属儀礼をおこなった記事がないと指摘します。また、盂蘭盆会は、死後に悪所に生まれて苦しんでいる父母などを救う儀礼であって、服属儀礼とは関係ありません。さらに都貨邏人の場合は、たまたま漂着したのであって、国を代表する使節ではないため、服属儀礼をさせる必要はないのです。
 
 そこで外村氏が注目するのが、隋の煬帝が塞外民族のために散楽(サーカス)を大々的に行わせていたことです。しかも、『隋書』によれば、既に梁代の段階で元旦の儀礼の中で、「長蹻伎」「跳鈴伎」「跳剣伎」「擲倒伎」などの間に「須彌山伎」が演じられています。これらの技は、明らかにサーカスのような技です。「長蹻伎」について外村氏は竹馬のようなものかとしていますが、これは綱渡りです。

 いずれにしても、煬帝が大がかりに行った散楽は、東突厥の首領を見せつけ、文化力を誇示するものでした。四方に噴水する装置である「須彌山石」はそれと同じ状況で利用されていますので、服従させるためのものという点は確かですが、誓約儀礼をさせるための装置とは考えられないと外村氏は説きます。

 外村氏は、須彌山石の模様を東大寺の蓮弁図に見える須彌山などと比較し、『倶舎論』などで説明される須彌山とは異なるとします。そして、須彌山石の実態は不明としたうえで、この装置を当時の人々が須彌山に見立てていた可能性はあると説いてしめくくっています。

 こうして見ると、須彌山石は、天皇の訓である「スメラミコト」を「須彌(山)のような尊い方」と見る森田説の強い根拠とはできないことになります。ただ、森田氏が「天皇」は対外的な称号とした点は、須彌山石が蝦夷や都貨邏をもてなす宴の場の施設となっていた点と共通するものがありそうです。


マヘツキミの合議に外から関与した推古朝の世襲制大臣の行方:鈴木明子「律令制形成期における合議制の展開」

2024年05月19日 | 論文・研究書紹介

 クラウタウさんの新刊書、岡田さんの論文に続き、私の研究仲間の論文が出ています。これまで、旧姓での論文を含め、その着実な研究成果をこれまでも紹介してきましたが(こちら、旧姓の宮地明子での論文はこちらこちら)、今回は、推古朝の合議体制から律令形成期の合議体制への移行について論じた論文、

鈴木明子「律令制形成期における合制の展開」
(『寧楽史苑』第69号、2024年2月)

です。

 この論文では、孝徳朝から天武朝頃のあり方が詳細に検討されていますが、ここは聖徳太子ブログですので、申し訳ないことながら、そうした時代との対比のために推古朝について補足説明している箇所を中心に見ていきます。

 鈴木さんは、貞観16年(642)成立とされる「括地志」(『翰苑』所引)が、倭国には十二等の官があり、その第一は「麻卑兜吉寐(マヘツキミ)」であって、漢語では「大徳」という、と記しているしているのは、それほど有名であった証拠と述べます。

 そして、前稿では、倭国の重要方針は大夫(マヘツキミ)たちの合議で決定されており、推古朝においては、蘇我本宗家による世襲大臣制は冠位制を超越する地位であったため、大臣は合議を主催するものの発言はせず、合議体の外から関与したと論じ、合議での決定は大夫による全会一致が原則だったとしていました。

 大王への奏宣は大夫の職掌であって、大臣はおこなっておらず、また外交面では世襲大臣が主導性を発揮していたと鈴木さんは説きます。推古18年(610)10月丁酉条の新羅および任那の使者の来朝記事では、使者が使いの旨を「四大夫」に奏し、それを「四大夫」が大臣に啓しています。

 また推古31年(623)是歳条によれば、新羅征討の群臣会議では不征討・遣使の方向で決着しておりながら、同年、新羅征討が強行されており、同年11月条では征討を主導したのは大臣であったと記されています。

 また、大夫の冠位が大小の徳冠とほぼ同格であるため、大夫の合議は氏族代表による資属間の利害調整の場としての氏族合議体の性格を色濃く残していたものの、大夫層については王権のもとに掌握されることになったとします。
 
 乙巳の変によって蘇我本宗家が亡びると、大化3年(647)に七色十三冠位が設けられ、大臣の紫冠のみならず、皇親も冠位のうちに包摂されました。また、最下位として建武の位を新設し、実務担当の百八十部に与えたため、官位制は朝廷の構成員すべてを含むことになりました。
 
 ただ、阿倍内麻呂が左大臣となり、右大臣となった蘇我氏代表の倉山田石川麻呂の上に立ったことは、群臣の上に位置した世襲大臣を否定したことになるものの、古い冠を廃止した大化4年(648)になっても左右の大臣だけは「古冠」を着したことは、大臣は群臣の上にあるという認識が保持されていたものと見ます。

 さて、推古朝までの合議では、合議内容は主に皇位継承と外交(対外戦争と仏教受容の可否)であって、これが「大事」でした。しかし、皇位継承については、大化改新により皇極が孝徳に譲位した結果、王権の自立的な継承が始まったとされます。

 この後の時期については、『日本書紀』では天皇が大夫に皇嗣選定について諮問したとする記事がありますが、名があがっているのは当時の議政官すべてではなく、また議政官でない者の名も見えているため、臨時的なものであったとします。見解を統一する合議は、内裏とは別の場でなされたのです。

 以後、中大兄皇太子が庶務を委ねられた斉明朝から天武朝に至る合議について検討されていますが、壬申の乱時に、大友皇子が群臣に諮問した例と、近江朝では左右の大臣と群臣が共に「議を定め」たと天武天皇が高市皇子に語ったという箇所を除けば、合議がおこなわれたことを示す資料はないとします。

 つまり、合議を重視しつつ、その外から関与した世襲大臣の見解が優先された推古朝は、群臣合議と世襲大臣の二元的な権力構造となっていたのであって、乙巳の変以後は、王権による自立的な皇嗣選定へと移り、世襲大臣制に代わって置かれた左右の大臣も冠位制度の中にとりこまれ、天武朝になると大臣も置かなくなって合議制そのものが解消されるようになった、というのが鈴木さんの見通しです。


【重要】『日本書紀』中で「憲法十七条」だけが重要箇所で2度用いた語法が三経義疏すべてに!:岡田高志「「憲法十七條」の表現と思索」

2024年05月15日 | 論文・研究書紹介

 「憲法十七条」と『勝鬘経義疏』が『優婆塞戒経』の利用その他の面で似ている点が多く、同じ人物によって書かれたらしいことは、私が以前指摘しました(こちら)。

 今回は、タイトルにあるように、『日本書紀』中で「憲法十七条」だけが、それも重要な箇所で2度用いている語法が、実は三経義疏すべてに見えることを指摘した画期的な論文が刊行されました。

岡田高志「「憲法十七條」の表現と思索-前漢~六朝の「詔書」・諸典籍との比較を通して」
(『古事記年報』第66号、2024年3月)

です。この発見は、数年前に古事記学会の研究会での発表で報告されたため、その論文化が期待されていたものです。私が昨年から『憲法十七条を読む』の原稿を書いておりながら、それが進んでいなかったのは、この論文が出るのを待っていたため、というのも一因です。

 その発表の後、私がリモートでやっていた『勝鬘経義疏』の読書会にも参加してくれた岡田さんは、研究を重ねて発表内容をさらに深め、この論文では、「憲法十七条」と中国の前漢から六朝時代の箇条書きの詔書と比較し、「憲法十七条」が典故に基づきつつ独自の思索をおこなっている点を検討、そして「憲法十七条」独自の語法を三経義疏と較べるという作業をしています。

 岡田さんはまず、「憲法」の語を中国の古典や史書で調べます。『国語』では賞罰を正しくおこなうことが国家の「憲法」であると述べており、また法家の『管子』では、君臣一体で統治すれば、「号令」を通じて「憲法」を明らかにすることができ、国内の風紀を正すことができる、と説いていることに注目します。これはまさに「憲法十七条」の内容と合致しますね。

 そこで、「号令」の例として、これまで「憲法十七条」との類似が指摘されてきた北周の蘇綽起草の「六条詔書」以外に、前漢の「六条詔書」、西晋の「五條詔書」についても比較します。これらは、地方の官吏を対象とし、口頭での伝達や冊書・尺牘の形で頒布されたことが知られています。

 岡田さんは、「六条詔書」の第二条が民に「仁順」を教えて「和睦せしめる」としている点が「憲法十七条」第一条の「上和下睦」と一致すること、前漢の「六条詔書」が「公」に背いて「私」に向かうことを戒めているのは、「憲法十七条」第十五条が「背私向公」を命じているのと共通すること、これらの詔書と「憲法十七条」は似ている面がかなりあること、また、「憲法十七条」は嫉妬の害を説くが中国の詔書にはそうした点はないことなどを指摘します。

 つまり、「憲法十七条」は役人あてに出された中国の箇条書きの詔書とかなり共通する面と、独自な面があるとするのです。その独自の面の一つは、「憲法十七条」がしきりに「聖」に言及してその意義を説いていることです。

 『日本書紀』では、「聖」の語は神、天皇、皇太子を指しており、官人に「聖」になるよう促すのは「憲法十七条」のみです。また、推古紀では、行路の死人を「聖」と呼び、慧慈を「聖」としていますが、これらの用法は「憲法十七条」を含めて厩戸皇子関連に限られることに岡田さんは注意します。

 このように、「憲法十七条」は『日本書紀』中で異質なのですが、その例の一つが、「憲法十七条」のが第四条では、民をおさめる根本は「要在乎礼」と述べて「礼」が根本であることを強調し、第九条では事業がうまくいくか失敗するかは「要在于信」と述べて「信」が大事であることを強調していることです。『日本書紀』ではこの二例を除いて、「~は、要は~に在り」という語法は見られません。

 岡田さんは、「の要は~に在り」といった形の用例は、法家の文献である『管子』や儒教とは異なる独自の思想を説いた『荀子』、鳩摩羅什の弟子である僧肇の『注維摩』などに見えることを指摘します。

 「憲法十七条」が法家の思想、特に『管子』に頼っていることは、山下洋平さんが指摘したことですし(こちら)、『注維摩』は、僧肇の注釈を柱として羅什その他の『維摩経』の注釈を編纂した書物であって、岡田さんは触れていませんが、『維摩経義疏』が用いた注釈ですね。

 ここで驚くことに、岡田さんは、「憲法十七条」が重要な箇所で強調するために用いている「要在~」の語法が、『勝鬘経義疏』に4例、『法華義疏』に1例、『維摩経義疏』に2例見えることを指摘します。

 つまり、『勝鬘経義疏』と「憲法十七条」が内容面で共通する点が多いことは、私が以前指摘したことですが、それが語法の面でも立証されたことになるのです。しかも、私の前回の論文では、「憲法十七条」と『勝鬘経義疏』の類似を指摘しただけだったものが、岡田論文では、「憲法十七条」が重要な箇所で用いている語法、それも『日本書紀』で「憲法十七条」だけに見えている語法が、三経義疏すべてに登場することを明らかにしたのです。

 三経義疏はいずれも語法がきわめて類似してることは、花山信勝などが戦前から論じていましたが、そうした人たちは熱烈な聖徳太子信仰を有する僧侶学者がほとんどだったため、古代史学界からは信用されない面もありました。

 それと違い、僧侶ではない一般研究者の私がNGSMシステムを用い、変革語法も含めた多くの例を示して三経義疏の語法の類似を論証しましたが(こちらなど)、今回はまた一般研究者の岡田さんよって研究がさらに進んだことになります。

 『日本書紀』における厩戸皇子の事績については、編集段階でかなり潤色されていることが指摘されていたうえ、『勝鬘経』や『法華経』の講経は記されていても三経義疏には触れられていなかったため、三経義疏は懐疑的な史学者たちによって疑われてきました。また、朝鮮の書物だとか、百済・高句麗から来た僧侶などによって書かれたとする説もありました。

 しかし、三経義疏は6世紀初め頃の梁の三大法師の注釈を基調としており、太子当時は、中国でも朝鮮でも時代遅れになっていたうえ、変革漢文が目立つものの、古代朝鮮の変格漢文とは違っていることも私が指摘しました(こちら)。

 今回の岡田さんの論文は、これまでのこうした指摘の決定打となるものです。聖徳太子に関する伝承には後代に創作されたり、誇張されたりしたものが多いことは事実であるものの、「憲法十七条」については、『日本書紀』編纂時の多少の潤色はあるにせよ、基本は推古朝と見てよい、というのが現在の学界では主流の見方となりつつありますが、その点はこの論文で確定すると思われます。

 また、「憲法十七条」と三経義疏については、百済や高句麗から来た僧や学者が支援したにせよ、書いているのは同じ日本人であるらしい可能性も、これで非常に高まりました。

 ただ、律令が作成された後、天孫降臨神話によって天皇の権威を説いた『日本書紀』の編者が潤色するなら、なぜ「天皇」の語や「神」の語を用いなかったのかという疑問があるうえ、守屋合戦の記述の後に付された忠犬伝承を見ても、『日本書紀』が原史料をそのまま貼り込んだ部分があることは明らかですので(こちら)、「憲法十七条」についても大幅な潤色はなかったものと私は考えています。

【追記:2024年5月19日】
雑誌の刊行を5月と書きましたが、奥付を見たら3月刊となっていたので訂正しました。実際に出たのhは5月ですが、年度内に刊行したことにするというよくある事情によるものです。


オカルト的な説を含め近代以後の偽史に基づくトンデモ聖徳太子論を学術的に分析:オリオン・クラウタウ『隠された聖徳太子』

2024年05月10日 | 聖徳太子をめぐる珍説奇説

 このブログでは、聖徳太子に関する諸分野の最新の研究成果を紹介するとともに、大山誠一の聖徳太子虚構説を詳細にわたって批判したうえ、法隆寺は聖徳太子の怨霊を鎮めるための寺と論じた梅原猛(こちら)、ノストラダムスの大予言シリーズで人気になって聖徳太子をその類の予言者とした五島勉(こちら)、日本をキリスト教国家にしようとした蘇我氏が邪魔な聖徳太子を暗殺したと妄想した田中英道の本(こちら)なども取り上げ、論評してきました。その類の「あぶない」聖徳太子論を取り上げて分析した面白い本が刊行されました。

オリオン・クラウタウ『隠された聖徳太子―近現代日本の偽史とオカルト文化』
(筑摩書店、ちくま新書1794、2024年5月)

です(クラウタウさん、有り難うございます)。

 クラウタウさんのこうした研究については、以前、このブログで論文を紹介したことがあります(こちら)。今回の本はその拡張版ですね。その時も今回も、論文や研究書紹介のコーナーでなく、【珍説奇説】コーナーでとりあげていますが、これは、そうした話題に関心を持つ人の目につきやすいようにと思っての配置です。面白い話題満載なので楽しんで読めるものの、中身はきわめて学術的な研究書です。

 現在は東北大学准教授であるクラウタウさんとは、彼がまだ龍谷大学アジア仏教文化センターの研究員をしていた頃から、近代仏教研究仲間として親しくしており、私は現在は彼が代表を務めている科研費研究「憲法作者としての聖徳太子」の共同研究者にもなっています。「あとがき」でも触れられているように、本書はこのブログについても数カ所で言及してくれています。

 内容は以下の通り。

 【目次】
 まえがき
 序   隠されたものへの視点―偽史から聖徳太子を考える

 第一章 一神教に染まる聖徳太子  
  第一節 学術界における聖徳太子とキリスト教の「事始め」
  第二節 秦氏はユダヤ教徒だった―佐伯好郎の業績によせて
  第三節 フィクションへの展開―中里介山の聖徳太子観

 第二章 乱立するマイ太子像
  第一節 池田栄とキリスト教の日本伝来
  第二節 聖徳太子と戦後日本のキリスト教
  第三節 司馬遼太郎と景教

 第三章 ユダヤ人論と怨霊説
  第一節 手島郁郎と一神教的古神道
  第二節 梅原猛と怨霊説の登場
  第三節 怨霊meets景教―梅原猛『塔』について

 第四章 オカルト太子の行方
  第一節 漫画の中のオカルト太子―山岸凉子『日出処の天子』
  第二節 予言者としての聖徳太子の再発見

 結   隠された聖徳太子の開示
 あとがき

以上です。

 「まえがき」では、現在の聖徳太子研究の状況に簡単に触れた後、太子関係の本には、隠された「秘密」を明らかにしたと称する本が多く、「隠された『真実』」が分かれば、太子の意味も、また日本の歴史全体も明らかになるとしている、と述べます。そう主張する者たちは、自分は資料調査や分析を通じ、アカデミックな研究者にはない鋭い洞察力で秘密を解いたと称するのです。

 そうした書物が1990年代の終わりから増えていくのは、古代史学者である大山誠一の聖徳太子虚構説と無縁ではなく、従来の聖徳太子観を大胆に否定した大山の主張は、陰謀説を掲げる多くの「トンデモ本」にインスピレーションを与えたとクラウタウさんは説きます。

 なお、『隠された聖徳太子』という題名は、立命館大学の哲学の教授職を辞し、筆で喰わねばならなくなったため、恐るべき「秘密」を解明したと称する非学問的でセンセーショナルな聖徳太子論を書いてベストセラーとなり、以後のトンデモ本に影響を与えた梅原猛の『隠された十字架』を踏まえたものでしょう。東北大学の美術史の教授であって現在は名誉教授の田中英道も同類ですが、クラウタウさんは大学教員などの肩書きや地位が一般社会に与える力にも注意します。

 クラウタウさんは、聖徳太子は古代以来、日本人の心を動かしたからこそ、様々な偉業をおこなったとされたのであり、太子に関わる「偽史」を含めた「異説」はそれぞれの時代の人々の願望を反映したものであるため、「異説」に秘められた意図を検討することによって、聖徳太子のもう一つの「歴史」を描きたいと述べます。

 「偽史から聖徳太子を考える」というサブタイトルがついてる「序」では、クラウタウさんは「偽史」について最近の研究状況から説明します。中国においては、正統とされる王朝が作成した史書が「正史」であり、そうでない王朝や政権が作成した史書は「偽史」と呼ばれていました。

 日本でも、明治以後になって「発見された」という形で出現した『上記(うえつふみ)』『竹内文書』『九鬼文献』などの偽書が、第二次大戦中の超国家主義的な状況の中で「偽史」として切りすてられました。ところが、それらの文献は一九七〇年代のオカルトブームの中で関心を集めるようになり、「古史古伝」とか「超古代史」と呼ばれて消費されるようになったのです。

 今日言う「偽史」は、これらの偽書を含むだけでなく、そうした偽書を真実と見て語られる言説も含みます。さらに、東大出身でプラトンやバイロンなど西洋の哲学・文学の翻訳で評価されたものの、明治の終わり頃から『古事記』『日本書紀』の記述に基づいて世界の古代文明はすべて日本が起源だと主張した木村鷹太郎(1870-1931)のように、権威ある文献に基づきつつトンデモ説を述べる書物なども含むようになっているのです。

 そうした偽史に関する最近の研究成果をまとめた小澤実の『近代日本の偽史言説』では、「チンギスハンは源義経だ」「イエス・キリストは日本で死んだ」「東北に古代王朝が存在していた」「フリーメイソンの陰謀で世界は支配されている」「ユダヤ人が世界転覆を狙っている」といった幅の広い言説が偽史の例としてあげられています。

 クラウタウさんは、さらに、学界で評価されている(ないし、世間でそうみなされている)学者の研究が偽史を生む背景となる場合もあることに注意します。つまり、まともな学者が学界で承認されない珍説を唱えるようになることもあるうえ、学問的であるものの意外な主張をした研究が世間に刺激を与え、それを材料にしてトンデモ説が生まれることもあるのであって、学問と偽史の境目ははっきりしない場合があるとするのです。

 クラウタウさんは、そうした例として、古田武彦をあげます。古田は、親鸞に関する詳細な文献研究などで評価されていたものの、1971年の『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞社)によって多くの反論を招きながらマスコミに注目されるようになりました。

 後には、古代津軽王朝の存在を説く『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』を、自説に有利な真書とみなし、その研究成果を踏まえて昭和薬科大学の教員という立場で1990年に『真実の東北王朝』を刊行し、話題になりました。『東日流外三郡誌』については、戦後の古代史ブームやオカルトのブームの影響も受けて生まれた偽書であることが論証されているにもかかわらず、今でも真書だとして信奉する者たちが残って活動しています。

 これは『先代旧事本紀大成経』の「五憲法」などの場合と同じですね。偽の古史は、従来の史書や通説に満足できず、歴史の真実は実はそうではなかったと思いたい人々の要望を充たすように作られますので、熱烈に支持する人たちが出るのは当然なのであって、そうした人たちには偽書の明らかな問題点が目に入らないか、目についても何かしらの理由をつけて弁護するのです。

 クラウタウさんはまた、1972年に聖徳太子に関する新説である『隠された十字架』(新潮社)から刊行し、古代史学界からは妄説として批判されながら毎日出版文化賞や大佛次郎賞を得て、国際日本文化研究センターの初代所長にまでなった梅原猛をとりあげます。

 クラウタウさんは、古田と梅原の両人は違う面もあるものの、共通点によって歴史と偽史の間のグレーゾーンが形成されていることに注意します。そして、学界の通説に対する対抗意識を持ちながら、学問の権威自体は否定せず、それを戦略的に利用して偽史を生みだしていった例として、大山の太子虚構説に注目します。東大史学科の出身であって古代史の専門家として承認されていた大山の説を利用し、虚構説からさらに飛躍した想像の世界を構築してゆく著作が次々に生まれたのです。

 本文の第一章は、オカルト雑誌として知られる『ムー』の2014年の「聖徳太子と失われたイスラエル10支族の謎」という特集の話で始まります。その記事を書いた久保有政(1955-)は、プロテスタントの牧師であって、古代日本にイスラエル人がやってきたと主張していました。

 久保は、大山誠一が従来の聖徳太子観は間違っていたことを明らかにしたことに力を得て、太子は実際は神道、それも八百万の神を崇拝する神道でなく、唯一の神を奉じるキリスト教的な神道を土台として活動したと論じた由。これなどは、自らの信仰に基づき、学界の新説を自分の宗教的信念に引きつけ、大真面目で強引な解釈をした典型的な例ですね。

 太子とキリスト教の関係については、明治になって最初の近代的な古代史家、久米邦武(1839-1931)が、唐代の長安にはキリスト教のネストリウス派である景教が来ていたことに注意し、太子の厩戸誕生伝説は『新訳聖書』の焼き直しと見たことが有名です。

 その背景には、東西の宗教に共通基盤を見いだそうとする久米の摸索があったことが指摘されており、そのことはこのブログでも紹介しました。クラウタウさんはさらに、この久米説に対して初期の仏教史家であった境野黄洋(1871-1933)が反論し、逆に仏教の説話がユダヤ人にまで伝わっていった例が多いと論じたことに注意します。

 境野は、釈尊のジャータカ(前世譚)が西に行ってキリストの馬槽の話になり、東に伝わって太子の厩戸誕生の話になった可能性を指摘したのです。クラウタウさんは、境野は学問だけでなく仏教改革運動もしていたため、敵対するキリスト教の影響という説は受け入れられなかったものと推測します。

 このように、クラウタウさんのこの本は、聖徳太子に関する様々な意外な説を紹介するだけでなく、そうした説が生まれた背景、世間に受け入れられた事情、反論がなされた背景などについて考察を試みるのです。

 さて、キリスト教徒であって西洋古典学に通じ、景教の歴史の研究者として知られた佐伯好郎(1871-1965)は、日本の地名とユダヤの言葉との類似から見た証拠とされるものをあげ、1908年に帰化人であった秦氏はユダヤ人だったと論じました。

 その頃、イギリスから来た仏教研究者であったゴルドン夫人は、真言宗の大日如来解釈はヘブライ系の神の概念に近く、これは空海が長安で景教に接して学んだためだとしていました。ゴルドン夫人は、高野山に西安(長安)で発見された「大唐景教流行碑」のレプリカまで建立した人物です。このように、宗教に関わる意外な説、神秘的な説は、東洋・西洋の相互影響の中で生まれ、増幅していくことも多いのです。

 この調子で紹介していくと、5回くらいの連載になってしまうため、以後は簡単にまとめます。まず、第二章では、元京都帝国大学法学部教授でイギリス政治史の研究者だった池田栄(1901-1991)をとりあげます。

 池田は、戦時中は「聖徳太子教導国家と大東亜建設」といった調子の論文を書いていました。1949年に、この年は日本最初のキリスト教宣布者であるザビエルの来日から400年になる年として各地でイベントが行われると、池田はこれに反発しました。

 池田は、佐伯説に基づいて秦氏は景教信者だったのであってその大酒神社はダビデの礼拝堂だったと推測し、ザビエル以前にキリスト教が伝わっていたと大阪の新聞上で述べたのです。この主張は米国の各地の新聞で紹介されたそうです。欧米のキリスト教徒などは、こうした情報を喜ぶのですね。

 日本聖公会の聖職者だった池田は、現在も生きる「景教」としてアッシリアの東方教会の総主教に書簡を送り、「景教復興」事業まで始めた由。しかも、この景教復興後援会には、秦氏の氏寺である広隆寺の住職も理事として加わったというのですから驚かされます。

 なお、この池田に出逢い、池田をモデルにした小説を書いたのは、池田の主張が掲載された「大阪時事新報」と経営者が同じで建物も同じだった「産経新聞」文化部に勤めていた記者でした。その記者は、歴史小説家に転じたのちも、秦氏と異教の関係について書き続けたのですが、その作家の筆名は「司馬遼太郎」でした。クラウタウさんのこの本は、こうした意外な事柄がたくさん記されています、

 第三章では、1970年に神戸出身のユダヤ人と自称するイザヤ・ベンダサンの『日本人とユダヤ人』(山本書店)がベストセラーになってユダヤ人に対する関心が高まった翌年、内村鑑三の弟子で無教会主義のキリスト教者であった手島郁郎(1910-1973)が、佐伯の研究を踏まえて『太秦ウズマサの神―八幡信信仰とキリスト景教について』(東京キリスト教塾)を刊行したことについて検討します。

 手島は、秦氏が奉じた八幡神は、モーセに啓示された神の名である「ヤハウェ」だと論じたのです。この主張は、彼のキリスト教改革運動と結びついていたうえ、この主張では、日本の古神道は日本的一神教であったヤハタ信仰と基本的に一致すると説いた由。

 こうした主張が乱立した1970年代初頭に出版されたのが、法隆寺は聖徳太子の怨霊を鎮撫するための寺だと論じた梅原猛の『隠された十字架』でした。クラウタウさんは、上述のキリスト教説などの影響も受けていた梅原は、日本の古代史学界の研究成果を詳細に紹介せず、この分野の研究は著しく停滞しているため、自分が独自の視点によって新説を打ち出したというイメージを読者に植え付けたと指摘します。

 そして、梅原説は従来の学説とは見方の違う新説などといったレベルのものではなく、まったくの事実誤認に基づく空想が多いことが古代史学者の反論によって示されたにもかかわらず、梅原はそうし批判は梅原説に対する本質的な反論になっていないと主張し続けたことも紹介されています。

 第四章では、1970年代以後のオカルトブームという背景のもとで、梅原の影響を受けて聖徳太子を超能力者、それもボーイズラブとして描いた山岸涼子の漫画、『日出処の天子』と、ノストラダムスの予言を日本に紹介してベストセラーとなった五島勉が、中世には預言者とされていた聖徳太子を現代の預言者として描いた状況などを説明しています。

 五島については、世界の終わりが来るという予言やその救済者などに関する記述が、複数の新興宗教に影響を与えたことを指摘します。そして、オウム真理教に直接の影響を与えたかどうかは不明であるとしつつ、麻原彰晃が逮捕の少し前に、聖徳太子が侍者を引き連れて現れて「日本をお願いします」と自分に頼んだ、と著書で述べていると指摘します。

 サリン事件の後、五島は責任を感じたようで、聖書系の終末思想が世界中で何百というカルトを生みだしたと述べ、そうした「破滅=救済=選民」の予言を超える「日本独自の指針や予言」が必要だと述べるようになったと、クラウタウさんは説きます。

 そして、「結」の「隠された聖徳太子の開示」は、コロナが流行した際、オカルト系のサイトに、聖徳太子がこれを予言していたという記事が載ったという話題で始まります。むろん、五島の影響ですが、「太子に仮託された予言書の権威を借りつつ、『未来』を語ろうとする姿勢は、令和の今日まで続いている」のです。

 ユダヤ=キリスト教影響説は、新しい教科書をつくる会の二代目会長であった東北大学の美術史の教授で、現在は名誉教授の田中英道に受け継がれています(梅原にしても田中にしても、「大発見」をしたと称するのは、大山誠一を除いては古代史の専門訓練を受けていない学者ですね)。

 田中は、最近は秦氏はフリーメーソンであって仁徳天皇陵古墳を造営したとも説いているうえ、聖徳太子は日本のキリスト教化をはかっていたユダヤ系の蘇我氏の計画に反対した結果、殺されたとしています。まさに邪悪なユダヤ人の陰謀という図式です。

 クラウタウさんは、ユダヤ系の人間が日本の「変革」をはかっていたといった言葉使いは、日本の国体の「変革」を試みたとみなされる者たちへの厳しい処罰を定めた1925年の治安維持法と表現が似ていることに注目します。発想が似ているため、表現も似てくるのでしょう。

 そうした非学問的で危険な本がかなり売れているのが現状です。つまり、学者の肩書きが利用され、出版社がそれに加担しているのです。クラウタウさんは、こうした状況の背後に、「娯楽としてのオカルトを求めるような文化が一九七〇年代にあった」ことを指摘します。

 だからこそ、梅原の本が売れ、またそれに刺激されたオカルト的な説が次々に生まれたのです。しかも、学問成果とそうしたオカルト言説の境目は曖昧であり、時に交差することにクラウタウさんは注意するのです。

 私は、三経義疏や古代の聖徳太子観、近代の国家主義的な太子観などを中心にして研究してきたため、精力的な文献調査をすることで知られるクラウタウさんのこの本については、知らないことがたくさんありました。偽史が生まれる背景やその危険さについて考えるうえでも有益ですので、一読をお勧めします。

 なお、「あとがき」では、地味な分野である近代仏教学の研究者であったクラウタウさんを、オカルト研究に導いた先学であって、惜しくも先年亡くなった吉永進一さんの思い出と感謝が述べられています。

 宗教学から東西の神秘思想研究に進んだ吉永さんは、とんでもなく博学であったうえ、気取らず、親しみやすい性格であって、仲間を集めて企画を実施するのも得意でした。

 2019年に、既に病身となっていた吉永さんを駒澤大学に招き、クラウタウさんと心理学の谷口泰富先生にもご参加いただいて、儒教やオランダ医学も学んで東大初の仏教講義を行い、駒大の前身である曹洞宗大学林の総監を務めた原坦山と、西洋の神秘主義にも通じていた禅研究者で駒大初代学長、忽滑谷快天に関するシンポジウムを開催したことを思い出します(吉永さん・クラウタウさんの写真を含む記事は、こちら)。

【付記:2024年5月29日】
この本については、詳しいインタビューが28日に公開されました(こちら)。


片岡山飢人伝説は『日本書紀』編者の創作ではない:三舟隆之「片岡山飢者説話の形成」

2024年05月06日 | 論文・研究書紹介

 聖徳太子虚構説については賛同者はおらず、この10年以上は相手にされなくなっていて批判すらされていない、とこのブログで何度か書きましたが、最近になって批判している珍しい例が、

三舟隆之『片岡山飢者説話の形成:日本書紀』『日本霊異記』『万葉集』から―」
(小林真由美・鈴木正信編『日本書紀の成立と伝来』、雄山閣、2024年)

です。

 三舟氏は、片岡山飢者説話に対する戦前からの諸説をざっと紹介した後、大山誠一氏の聖徳太子非実在説(厩戸王実在説)では聖徳太子関連の資料を片っ端から否定しており、中でも『日本書紀』の片岡山飢者の記事はフィクション性が高いとされ、道教好きの長屋王が創作したものとして簡単に扱われていると述べます。

 そして、非実在論について詳しく検討はしないが、この説に全く触れずに片岡山飢者説話について述べることはできないため、自分の見解を示すとして、聖徳太子という名は後代のものであるにせよ、経済力と政治面から見てその尊称にふさわしい人物であったとします。

 そして、石井公成が指摘するように、非実在論は考古学や美術史の成果を考慮しておらず、問題が多いと述べます(言及、有難うございます)。拙著をあげてくださったのは有り難いですが、だったら、大山氏が本名だとして強調する「厩戸王」は、戦後になって仮に想定された名であることにも触れておいてほしかったところです。

 それはともかく、三舟氏は『日本書紀』、『日本霊異記』、『万葉集』の片岡山飢者説話を比較することから始めます。

 720年成立の『日本書紀』では、聖徳太子が片岡山に遊行した際、道ばたで臥せっている飢者に出逢ったため飲食を与え、自らの服を脱いで着せ、飢者を憐れむ「しなてる片岡山~」の歌を詠み、翌日、見に行かせると死んでいたため墓に埋葬させ、後日、「真人」だろうとして使者に調べに行かせると、死骸はなく、衣服のみが棺の上に置いてあったため、太子はその衣を取り寄せて着たため、世人は「聖人は聖人を知るというのは本当だ」と感嘆した、となっています。

 奈良朝末期から平安初にかけて編纂された『日本霊異記』では、片岡の路で乞食が病気となって臥せていた。太子はともに語り、着ていた衣を脱いで病人に覆い、戻ってくると、その衣は木の枝にかけられていて乞食はいなかったため、太子は周囲が卑しい人が着て汚れていると反対したのに衣を身につけた。乞食はほかの場所で死んでいたため、法林寺の東北の山に墓を作らせ、後に使いを派遣すると、墓の入り口は開いていないのに埋葬者はいなくなっており、「鵤の富の小川の~」の歌が戸に立てかけてあったため、太子は黙然とした。誠に聖人は聖人を知り、凡人の目には見えないものだ、としめくくられています。

 8世紀中頃に編纂された『万葉集』では、上宮聖徳皇子が竹原の井に出遊した際、龍田山の死人を見て悲傷して詠んだ歌は、「家ならば妹が手まかむ草まくら旅に臥やせるこの旅人あはれ」、となっています。

 飢者の「富の小川」の歌と、憐れんだ太子の「しなてる片岡山」の歌を並べるのは、中西進が指摘したように、太子に仕えた調使・膳臣家の記録に基づくと称して神秘的な伝承を並べたてた平安初期の『上宮聖徳太子伝補闕記』が最初です。

 それ以前に成立したと推測される『上宮聖徳法王帝説』には飢者説話は収録されておらず、巨勢三杖が太子の死を悼んで詠んだ歌の中に「富の小川」の歌が見られるため、初期の法隆寺系の史料には飢者説話はなかったと思われると三舟氏は説きます。

 上記の比較が示すように、『日本書紀』と『日本霊異記』と『万葉集』は場所や登場人物や歌などが異なっており、『日本書紀』の編者が創作した逸話が広まるうちに詳しくなっていったようには見えません。

 そこで、三舟氏は片岡の地について検討します。

 まず片岡廃寺(片岡王寺跡)は、明治まで土壇が残っていて四天王寺式伽藍配置であったことが分かっており、出土する瓦から見て7世紀前半の建立があることが明らかになっています。

 西安寺跡も四天王寺式であって、若草伽藍と同笵の瓦も出ており、7世紀前半造営の可能性がある寺です。

 尼寺廃寺のうち、巨大な心礎が発見されている北廃寺は、東面する法隆寺式伽藍配置をとっており、創建期の軒丸瓦は最初期の坂田寺と同笵であって、以後、四天王寺と同笵の素弁蓮華文軒丸瓦や川原寺式の複弁蓮華文軒丸瓦が出土しており、7世紀前半の建立で、7世紀後半に川原寺式の瓦を用いて整備されたようです。

 南廃寺は、調査不十分で伽藍配置などは不明であるものの、若草伽藍と同笵の瓦が出ているため、北廃寺と同様に7世紀前半の建立の可能性があります。

 これらの寺の檀越については諸説ありますが、『法隆寺伽藍縁起并資材帳』によれば、「片岡僧寺」と見えており、瓦などから見て、上宮王家と関係が深かったことは明らかだとします。

 ここで三舟氏が注目するのが、飛鳥池遺跡北地区から出土した木簡に、「五月廿八日飢者賜大俵一/道性/六月七日飢者下俵二/受者道性女人賜一俵……」とあることです。内容から見て、天武5年(676)から翌年にかけての飢饉の際の対策のようであって、飢者や女人に食料を配給しているのですが、それを取り次いだのが道性という名の僧侶らしいことです。

 つまり、僧侶が困窮した人々に対する支援活動にあたっていたのです。三舟氏は、厩戸王や法隆寺などの僧侶もこうした活動に携わっていたものと見て、以下のような説話の進展を想定します。

 まず、7世紀前半に片岡・竜田あたりでこの説話の元となる説話が成立し、それに尸解仙説話が加わって8世紀前半頃に『日本書紀』の説話となり、加わっていない形が『万葉集』の説話となり、『日本書紀』の説話がさらに巨勢三杖の挽歌を加えて8世紀後半に『日本霊異記』の説話へと成長し、さらに9世紀前半に『日本書紀』と『日本霊異記』の説話に、「調使家記」を加えて『上宮聖徳太子伝補闕記』の説話となって定着していった、という流れです。

 聖徳太子の生前の段階でこの説話が形成されていたかどうかは分かりませんが、四天王寺が後に悲田院などの福祉事業を始めていることから見ても、聖徳太子の仏教受容が貧民支援の活動を含んでいたことはありうることです。中国でも、寺院はそうした活動をしていました。

 その結果、聖徳太子没後になって関連の寺がそうした活動をする際、元祖として太子の逸話を強調したことはありうることでしょう。三舟氏は、太子関連の伝承は後代作成のものが多いことを認めたうえで、そうした伝承の背景について考えていくことが必要だとしており、これは納得できる意見です。


中華意識を持ったアジア諸国の一つとしての倭国:川本芳昭「《日本側》七世紀の東アジア国際秩序の創成」

2024年05月01日 | 論文・研究書紹介

 中国の中華意識は有名ですが、実は、中国北地の北方遊牧民族国家や中国周辺の国家の中にも、中華意識を持っていた国はいくつもあります。そうした国々と比較しつつ、倭国について検討したのが、

川本芳昭「《日本側》七世紀の東アジア国際秩序の創成」
(北岡伸一・歩 平編『「日中歴史共同研究」報告書 第1巻 古代・中近世史篇』、勉誠出版、2014年)

です。日本・中国・韓国は、歴史観の違いによってこれまでいろいろな問題が起きてきましたが、この本は書名が示すように、日本と中国の学者が協議してそれぞれの視点を示し、ともに認めることができる事実を明らかにしようとした試みの一つです。川本氏は、外交面などに注意している東洋史学者です。

 川本氏のこの論文の次には、王小甫「《中国側》七世紀の東アジアの国際秩序の創成」が掲載されています。このように、諸国の研究者がそれぞれの視点で意見を出し合い、協議していくことが大事ですね。聖徳太子関係を含め、トンデモ説や闇雲な日本礼賛主張者は、様々な史料をきちんと読まず、自説に有利な箇所だけを切り貼りして妄想をくりひろげるタイプばかりですので、文献派の海外の研究者からは相手にされません。

 さて、『宋書』倭国伝に見える478年の倭王武の上表文では、宋の順帝に対して自らを「臣」と称していましたが、埼玉県の稲荷山古墳から辛亥年(471)の年紀を有する鉄剣の銘文には、「治天下大王」とありました。つまり、倭国王は、「天下」を統治する皇帝を自認していた順帝に対しては「臣」と称しているものの、それより早い段階で、国内に対しては「治天下大王」と称していたのです。

 これはダブルスタンダードですが、こうした姿勢は、実は多くの国に見られるものでした。たとえば、高句麗では、漢の支配拠点であった楽浪を313年に陥落させて勢力を伸ばした結果、高句麗王は「好太王碑」が示すように、中国周辺国の「~王」との違いを示すため、「太王」の称号を用いるようになり、独自の年号まで使い始めます。

 「好太王碑」では、高句麗の由来について述べた部分では、鄒牟王は「天帝の子」であるとし、「我は是れ皇天の子」という言葉を記しています。これを漢文表記したら「天子」ですね。さらに好太王の子の長寿王時代の地方官であた牟頭婁という人物の墓誌には、「天下四方」の語も見えています。つまり、天下を統治する中国の皇帝のように、高句麗王が自分なりの「天下四方」を治めるとされていたのです。

 こうした中華意識は、やや遅れて百済や新羅にも見られるようになり、倭国もそれに続きます。さらに後に、ベトナムも同じことをやり、中国に対しては朝貢して「王」と名乗り、周辺国に対しては「皇帝」と称します。

 面白いことは、そうした傾向が中国でも見られることです。北方遊牧民族である鮮卑族が中国の山東地域に建国した南燕の王であった慕容鎮は、自分たちを「中華」と呼び、南地の漢族の王朝である東晋のことを、全身に入れ墨をして海に潜るような「南蛮」の国家とみなしていました。

 こうした意識が、遊牧民族が建国した北朝の多くの国に受け継がれました。当然ながら、南朝の国家は自分たちこそが天下を治める正統な皇帝の国であるとし、北方の国家を蕃族の国家とみなしていました。その北地の国家の一つが勢力を伸ばし、中国全土を統一したのが隋であり、その皇帝の親族が打ち立てたのが唐であったのです。

 その隋に対し、長らく南朝に「臣」として接して将軍の号をもらっていた倭国が、開皇20年(600)に久しぶりに使節を派遣します。隋の文帝が役人に命じてその使節に倭国の風俗を尋ねさせると、使節は「倭王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天がまだ明けざる時に出て政を聞き、跏趺坐す。日出づれば便ち理務を停め、我が弟に委ねんと云う」と答えたと、『隋書』倭国伝にあることは有名です。

 この説明を聞いた文帝が「はなはだ義理無し」と呆れ、改めるよう訓令したと記されているのは当然でしょう。その結果、大業3年(607)に「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや」という国書が送られるようになったわけです。

 この国書について、川本氏は、「日」は中国では皇帝そのものを指しているため、それを弟扱いしているということになるとしていますが、いくら何でも、倭国が意図的に隋を弟扱いしたとは考えられません。

 私は、「天の日を兄弟としている」といった和語を、中国側が文飾して「以天為兄、以日為弟」と対句にしたのではないかと疑っていることは、拙著で書きました。

 川本氏は、次の派遣使節が提出した国書の「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」の文は、いかに不遜に見えようとも、「天の弟」「日の兄」などと言っておらず、訓令に従って改めたと見ています。

 これを見た煬帝は不快になったものの、身分の低い裴世清を使いとして送って宣諭させたため、川本氏は、倭国は「天子」の語は用いず、煬帝を「先輩か兄に見立て」た「東天皇敬白西皇帝」で始まる国書を送ることによって、「一定の常歩を示しつつも、一貫して強い自己主張を貫いている」とします。

 つまり、こうした状況で「天皇」の語が用いられたのであって、この語はまず外交文書で使われはじめ、従来の大王あるいはオオキミと併用されながら国内でも用いられるようになり、律令において正式な称号として確立したと、川本氏は推測します。

 問題は、『旧唐書』倭国伝が貞観5年(631)のこととする記事です。唐は新州刺史の高表仁を派遣したものの、「綏遠の才無く」、つまり蛮夷を慰撫する才が無く、王子と礼を争い、朝命を宣せずして還る」とあります。「開元礼」では、皇帝の使者が蕃国を訪れた際は、使者は蕃国側の再拝の礼に答えず、皇帝の詔書を宣し、蕃国側は北面して詔書を受け取ることになっていました。

 礼を争ったとある以上、倭国側はそうした形で詔書を受け取ることを認めなかったことになりますが、そうなると、高表仁より官位が低い裴世清の時はどうだったのか、倭国王を拝するなどしたうえで、国書や言葉だけは伝えたのか、ということになります。

 奈良時代になって778年に唐の使者、趙宝英が派遣された際は、趙宝英は遭難し、部下の孫興進が来日したのですが、孫興進とともに帰国した遣唐使の小野滋野は、新羅や渤海など日本が蕃国とみなす諸国からきた国使を迎える際の礼式で対応すべきだと主張したものの、中納言石上宅嗣は、蕃主が中国皇帝の使節を迎える礼で迎えるべきだと主張した由。

 ともかく、中国で南北朝時代が終わる頃になって北朝の勢力が強まっていくと、南朝と連動、ないしその傘下にあった柔然、吐谷渾、雲南の勢力、高句麗、百済などは相次いで亡び、それらの背後にあった突厥、吐蕃、南詔、渤海、新羅、日本などが興隆してきます。

 つまり、北地の夷狄であった五胡の中から登場した北魏が、漢民族の南朝とならぶ「朝」とみなされ、その北朝を承けて隋唐が中国の正統な王朝となるという現象が起きたのであり、これが中国周辺の諸国の興亡はつながっているのです。

 倭国が遣隋使、遣唐使を派遣して国政を変革させ、白村江の敗北を経て古代律令制国家を築いていったのは、東夷であった倭国が周辺に対して中華として振る舞うようになった動きと連動しているのです。その日本の変化は、単なる国内問題、あるいは朝鮮半島の動きとの関係といった視点ではなく、中国を中心とした「天下」の動きの中でのことであった点に注意すべきだ、というのが川本氏の結論です。


最近の研究成果を踏まえた穏健な聖徳太子論であって「和」の特質を強調:頼住光子「仏教伝来と聖徳太子」

2024年04月27日 | 論文・研究書紹介

 2018年に放送大学のテキストとして末木文美士・頼住光子共編でNHK出版から刊行された『日本仏教を捉え直す』が、修正・加筆のうえ、末木文美士編著『日本仏教再入門』となって講談社文庫から10日ほど前に刊行されました。最近の研究成果を踏まえた充実した内容になっています。

 末木さんが「はじめに」「序説」と日本仏教の特質に関する諸章、頼住さんが人物を中心として古代から中世までの諸章、大谷栄一さんが近代仏教の形成・グローバル化・社会活動などの諸章を担当し、最後の第十五章「日本仏教の可能性 まとめ」は、頼住「仏教思想の観点から」、大谷「近代仏教の観点から」、末木「仏教土着の観点から」という形で三人がそれぞれの立場で語っています。従来の日本仏教史の本とは異なる視点での記述が目立ち、有益です(献本してくださった三人の著者の皆さん、有難うございます)。

 ここは聖徳太子ブログですので、この本のうち、

頼住光子「第二章 仏教伝来と聖徳太子 日本仏教の思想Ⅰ」

をとりあげます。頼住さんは、日本倫理思想史を専門とする東大の教授でしたが、道元の研究で知られているためか、私が3年前に定年退職した曹洞宗系の駒澤大学仏教学部にこの4月から移られたため、私とはすれ違いになってます。

 この第三章では頼住さんは、人間は「超越的なるもの」を見いだすことによって、「この私」を成立させ、また「この私」の延長上にある共同体を成立させたというところから話を始めます。これは、日本人にその「超越的なるもの」を教えたのは仏教だからです。

 むろん、日本には日本なの信仰があったものの、それを意識して言葉で表現することを可能にさせたのは仏教でした。神道は、土着のカミ信仰が仏教の刺激によって自覚され、形成されていったのです。

 また逆に、日本の伝統的など土壌が仏教の受容に影響を与えますし、仏教や儒教のような外来の思想同士がある時には融合し、ある時には反発しあいながら日本風な仏教や儒教が形成されていったのだと頼住さんは説きます。
 
 日本には儒教と中国化された仏教が入ってきますが、儒教と仏教の関係について、頼住さんは3つの類型をあげます。(1)対立、(2)融和、(3)包摂、です。これは、宗教的多元論に関する議論で用いられる分類ですね。「包摂」というのは、どちらかが上となって相手を取り込む関係です。
 
 そして、頼住さんは、儒教は日本においては支配層からは、統治のための教え・道徳として摩擦なく抵抗なく受容されたとします。ただ、日本は儒教を受容したものの、天皇による神々の祭祀と衝突するため、「祭天」の儀礼は取り入れなかったことに注意します。

 これは重要な指摘ですね。唐王朝は北方遊牧民族出身ながら老子を祖先と称して祀っていたためめか、日本は遣唐使を送って盛んにあれこれ学んでおりながら、老子に基づくとされる道教の導入は拒否したこととも関わるのでしょう。

 一方、仏教については、受容に際して神々の祭祀と関わるとされ、紆余曲折があったことは良く知られていますが、受容されて王権守護、祖先祭祀などの面で共同体と結びつけられてからは、日本文化の最深部にまで浸透していったとします。これは、仏教教理の専門家などはあまり注意しない視点です。

 頼住さんは、そうした状況で登場したのが聖徳太子の「十七条憲法」であったと説きます。

 なお、私の方で補足しておくと、「十七条憲法」という呼び方には注意が必要です。『日本書紀』では「憲法十七条」とありましたし、古い注釈では「十七条憲章」とか「十七条之憲法」などと称していました。やや遅れる『聖徳太子平氏伝雑勘文』では「十七条憲法」と呼んでいますが、そういう呼び方が広く用いられるようになったのは、明治になって「大日本帝国憲法」が制定され、その先蹤という意味で用いられることが増えてからのことです。

 ともあれ、著者が用いているのでここではその呼び方を用いますが、「十七条憲法」の作者とされる聖徳太子については、その実在性も含めて議論が盛んであるものの、後に聖徳太子と呼ばれる人物が推古朝に蘇我氏の協力のもとで国政にたずさわったことは確かとされている、と頼住さんは述べます。

 さらに、国語学・歴史学の側からも『日本書紀』掲載の「十七条憲法」、少なくともその原型は推古朝にさかのぼる可能性が指摘されているとします。これが最近の学界の動向ですね。

 そして、「十七条憲法」は、地方官たちに対する倫理規定である北周の「六条詔書」など、北朝の官僚に対する倫理規定と類似しており、その影響下で作成されたと言われていると述べたうえで、「和」を冒頭にかかげるのは「十七条憲法」の特徴であることに注意します。
 
 ついで、第一条が強調する「和」に関して儒教由来・仏教由来とする議論を紹介したうえで、儒教であれば「和」と結びつくはずの「礼」がここで説かれていないことを指摘します。

 また、仏教では僧伽(僧団)の平等な和合を重視し、また様々なことを共に行うべきだとする「六和敬」を説いていることに注目し、「十七条憲法」が想定する官人集団も「共にこれ凡夫」と言われている点などから見て、仏教の「和」と似た性格を持つとします。

 となると、「憲法十七条」は全体として仏教色が強いものいうことになります。こうした理解を強調したのは、日本思想史の村岡典嗣であって、その考察が優れていることは、このブログでも指摘しました(こちら)。

 ただ「六和敬」については、隋の三大法師とも称される慧遠や吉蔵などもしばしば触れていますが、具体的なあり方に関する議論はほとんどなく、また三経義疏では六和敬について説明していないことが気になります。

 また、頼住さんが重視する「憲法十七条」の「共にこれ凡夫」の「凡夫」は、仏教の「凡夫」ではなく、儒教の人性論における「並みの人間」を指すことは、拙著の『聖徳太子―実像と伝説の間―』でも書いておきました。「和」を仏教色が強いものと見る点は賛成ですが、その基盤を大乗の「自他不二」の思想に求めるのは、理想主義的すぎる見方のように思われます。

 頼住さんは、拙著をこの章の参考文献としてをあげてくれているうえ、このブログも時々見てくださっているようですが、山下洋平さんが法家の影響の強さを強調したように(こちら)、「憲法十七条」はあくまでも統治の法であって、ここに仏教の道徳面を見いだそうとしすぎる点は賛成しかねます。

 「憲法十七条」の「和」については、拙著で触れたほか、古い論文でも書いたうえ(こちら)、少し前に「憲法十七条」の基盤となる仏教経典をを発見し(こちら)、「礼楽」という言葉が示すように、儒教の「礼」は「和音」を重要要素とする「楽」と結び着いているのに、「憲法十七条」では「楽」に触れず、仏教がその代役を果たしていることなどは、このブログでも報告しました(こちら)。「憲法十七条」については本を執筆中ですので、詳しいことはそちらに書きます。

 ともかく、この頼住さんによる第三章の聖徳太子論は、枚数の制限もあって簡略に書かれていますが、全体としては現在の学問成果を考慮した穏健な論述となっており、重要な視点も示した概説となっていると言えるでしょう。儒教の受容のされ方と仏教の受容のされ方の違いを指摘した点などは、大事な点です。

【追記:2024年4月28日】
頼住さんは、ネットの動画でも聖徳太子について3回の連載で解説しています(「憲法十七条」に触れた回は、こちら)。ネット上には、頼住さん以外にも聖徳太子について解説する動画がたくさんあがってますが、日本を闇雲に礼賛するサイトで予備校講師などが多くの分野について自信満々に語っている類の動画は、話題の本を数冊かじっただけの内容を受け狙いで大げさに話していることが多く、専門知識がないため初歩的な間違いをしているうえ、中には陰謀説のようなトンデモ論も混じっているものが目立ちます。ここで紹介して批判しようかと考えたこともあるのですが、その動画を見る人が増えても困るので、やめています。この手の人たちの特徴は、原文を自信をもって解説することはできないため、原文には触れないか、他の人の訳を利用して一部だけとりあげ、「要するに~ということです」などとまとめることです。「教科書では教えませんが、実は~」などと語ることも多いですね。私も大学院生時代に予備校や塾でバイトで教えていた頃は、生徒の注意を引こうとしてそうした話し方をしたこともあるため、分かるのですが、問題は上記のような人たちの中には、表現をおだやかにしてあるものの、論旨そのものは戦前の狂信的な右翼の主張や戦後のオカルト説に似ている場合が多いことです。「聖徳太子はいなかった。不比等と長屋王と道慈がでっちあげたのだ」というセンセーショナルな説もそうでしたが、陰謀説だと、すべてを簡単に説明できてしまい、聞いている側はスッキリするうえ、自分はそうした歴史の秘密を知っているのだという優越感を味わえるのですね。この点は九州王朝説も同じですね。実際の歴史は、諸要素がからみあっていて複雑であるうえ、資料不足で断定できない場合が多いわけですが。


古代日本は家族が未成立、中国と違って直系相続の意識無し:官文娜「日本古代社会における王位継承と血縁集団の構造」

2024年04月22日 | 論文・研究書紹介

 前回、日中を比較して「朝政」の検討をした馬豪さんの論文を紹介しましたので、同様に中国人研究者による日中比較の論文を紹介しておきます。

官文娜「日本古代社会における王位継承と血縁集団の構造-中国との比較において-」
(『国際日本文化研究センター紀要』28号、2004年1月)

です。20年前の論文ですが、この方面の論文は以後、あまり見かけないため、取り上げることにしました。

 官氏は、冒頭で「日本古代社会には有力豪族による大王推戴の伝統がある」と断言し、大伴氏・物部氏・蘇我氏・藤原氏らは次々に王位継承の争いに巻き込まれ、その勢力は関係深い王の交代によって増大したり衰えたりしたことに注意します。

 そして、6~8世紀には、王位継承をめぐる豪族同士の争いにおいて非業の死をとげた皇族が10数人以上におよぶのに対し、古代の中国では、王位をめぐる争いは常に統治集団内部の権力闘争だったと官氏は述べます。

 中国では、夏の時代に「父子相承」の形での直系相続が既に確立していたものの、後継ぎの子が幼い場合など、王の弟らが争って王族内に殺し合うことが多かったため、殷の時代には一時期ながら兄弟継承という形態がとられました。ただ、この混乱を避けるため、周の時代に嫡長男が王位を継承する制度が確立され、以後、これが中国の伝統となりました。

 これは兄弟姉妹が王位を継承した古代日本と違うところです。官氏は、日本の学者の一部が姉妹による継承を「中継ぎ」とみなしていることに反対します。直系相続が伝統になっていない状況では、直系相続をおこなうための臨時の中継ぎという形はありえないからです。

 女性の天皇たちについては諸説がおこなわれており、亡くなった天皇の皇后が即位することもあったものの、官氏は、皇族の女性という資格だけで即位している例もあることに注意し、当時にあっては、王位の継承者は成人(30才以上)でなければならないとする習慣の存在が大きかったと見ます。

 中国でも兄弟継承はおこなわれていましたが、これは「父子相承」の習慣が確立した後のことであり、王の子が幼いために王の弟が即位した場合、弟は自分の子を次の王にすることもありましたが、それは利己的な行為とされ、非難されたため、継承制度の主流にはならなかったと官氏は説きます。

 王の弟が即位しても、亡き王の子が成人したり、戦争などが終わって政治が安定したら、王位を前王の子に譲るのがあるべき姿とされたのです。

 一方、日本では30才以上でないと王位につけなかったうえ、譲位の習慣が無かったのですから、「中継ぎ」はありえないことになります。女性の身で即位して初めて譲位した皇極天皇は、軽皇子(孝徳天皇)に王位を譲ったわけですが、軽皇子は自分の子ではなく、前の天皇の子でもなく、自分の弟ですので兄弟姉妹継承であって、「中継ぎ」とも言えないことになります。

 しかも、古代日本の王位継承者は、有力な豪族たちの合意によって決定されていました。「皇太子」の制度は律令制からとはいえ、王を補佐し、その後継候補となる皇族はいたでしょうが、欽明天皇の嫡子であって「皇太子」となったとされる敏達天皇が亡くなり、その異母妹であった皇后の推古が天皇となると、推古は敏達と自分の間に生まれた皇子ではなく、自分の兄である用明天皇の子を「皇太子」としているのです。

 官氏は、『日本書紀』が「皇太子」としている皇族が必ずしも即位していないことに注意し、持統朝までの立太子は皇位継承者という位置づけより、天皇の補佐役となってある場合は天皇に代わって国政に参与する立場であったとする村井邦彦氏の説を紹介して賛同し、ヒツギノミコは一人とは限らなかったとする説もあることに注意します。

 そして7世紀にあっては、天皇を中心とする単位家族は成立していないため、直系相続もなかったのであって、これが変化するのは持統・元明朝からとします。持統天皇は在位中の11年(697)の春に15才だった軽皇子を太子に立て、同年8月に譲位して文武天皇とします。歴史上初の未成年の天皇の誕生です。

 しかし、文武天皇が25才で亡くなり、文武と不比等の娘の宮子の間に生まれた首皇子は僅か7才であって、天智の娘、持統の妹、草壁皇子の妃、文武の母である言天皇が即位し、首皇子が14才になった段階で皇太子としたものの、まだ幼いという理由で、自分と草壁の間の娘であって文武天皇の姉であった元正に譲位します。男子の直系相続はなされていません。

 いずれの国においても、王位の継承法はその国の血縁集団の特質と結びついており、中国の法令制度が日本に伝わっても、日本の血縁集団の構造自体は変わらないのです。持統天皇以後も、直系、あるいは嫡子相続はなされておらず、中国と違って女性たちが何人も皇位についているのです(女性を認めない儒教社会である中国において、皇位についたのは、仏教を利用して弥勒の化身と称して即位した則天武后ただ一人ですね)。

 官氏は、推古と持統は「優れた政治的能力を持った女帝」だったと評価します。お飾りでも中継ぎでもなかったのです。しかも、皇位継承をめぐる争いの中で多くの皇子たちが殺されたにもかかわらず、推古から元正に至るまでの六人、八代、計86年の間、女帝に反対して争いが起きたことはなかったと、官氏は指摘します。これは重要ですね。

 官氏は、当時は特定の天皇の単位家族は成立しておらず、近い皇族であれば男女の誰もが王位継承の資格があるとされ、皇后になっていなくても皇女であれば即位できたとし、だからこそ皇族内での極端な近親結婚が行われたのだと結論づけています。

 こうして見ると、「女帝中継ぎ論」は、儒教的な考えが広まった近世以後、明治以後の発想だったことが良くわかりますね。その国の特徴を知るには、やはり他の国と比較しなければならないということです。なお、私の『東アジア仏教史』(岩波新書)は、諸国の仏教の比較だけでなく、相互交流・相互影響という点に重点を置いて書いてあります。


朝政成立史においては推古朝が画期的:馬梓豪「日中比較からみる日本古代朝政の特色」

2024年04月17日 | 論文・研究書紹介

 まだ中国です。中国はネット規制が強いため、前の記事では次の記事は帰国後にアップすると書きました。実際、泊まっているホテルのWi-Fiではこの太子ブログにアクセスできなかったのですが、帰国する日の早朝(時差は1時間)に目が覚めてしまったため、別の経路でアップすることにしました。

 古代史は東アジアの政治情勢の中で展開していきましたので、海外からの視点から見てみることも必要です。その一つが、

馬梓豪「日中比較からみる日本古代朝政の特色」
(『国際日本研究』10号、2018年3月)

です。つくば大学の雑誌であって、この時の馬氏は大学院の博士後期課程の学生です。

 馬氏は、「朝政」という言葉の検討から始め、古代中国では、朝、臣下たちが君主にまみえたことが原義であったとし、平安時代では『源氏物語』に「朝政」を「あさのまつりごと」と呼んでいる例があるが、飛鳥時代から奈良時代にかけては、分析に足るだけの「朝政」の用例がないと述べます。

 ただ、政治がおこなわれる場所である朝堂については、7世紀には成立していたとされており、最古の遺跡は、孝徳朝の難波長柄宮と推定される前期難波宮の朝堂院です。『日本書紀』の推古紀や孝徳紀には、「庁」に関する記述が散見されるものの、朝堂の前身と推測されているだけであって、実態は不明です。

 実際、天武・持統期の飛鳥浄御原宮の遺跡では朝堂の遺跡は発見されていません。平安時代の十二朝堂は、中国の朝堂とは異なりますし、どこまで遡れるのかは明らかになっていないのです。

 とりあえず、馬氏は中国における「朝政」について、「朝」の字について検討することから始めます。諸文献に見える用例の変化を追い、馬氏は、両漢から魏晋南北朝までは、皇帝と官僚集団が相対的に独立しており、政策は各層の会議による官僚の集団意志と皇帝の裁可によって成立していたのに対し、隋唐になると、朝堂を外朝化することによって皇帝一人による一元的な「朝政」が出現したとします。

 一方、日本については、7世紀までは秦漢頃までの中国に似ており、諸豪族の連合政権であったと言えるとします。そして奈良時代の律令制は遣唐使を通じて唐の政治を取り入れたとされるものの、むしろ平安前中期の方が唐の制度に近いと述べます。律令制は、大化以前の伝統が唐制と妥協して生まれたものとするのが馬氏の見解です。

 『日本書紀』における「朝政」の初出は天武12年であって、「朝」は「みかど」と訓まれ、「朝政」が行われていた場所を指し、「政」は君臣に通じる「まつりごと」であったというのが馬氏の見解です。

 そこで、『日本書紀』における政治関連の「朝」「朝庭(廷)」の用例を検討し、「天皇・中央政府」、「宮・庭などの場所」、「天皇の治世」、「国家・国土」の4種に分けられるとして、崇神天皇紀以後の用例を分類していきますが、「天皇・中央政府」の用例が急に増えるのは、敏達朝と崇峻朝です。

 そして、「宮・庭」などの用例が急に増えるのは、推古・舒明・皇極・孝徳・斉明天皇の時であって、「朝廷」の語は推古朝に1例、孝徳朝に3例、天武朝では6例も見られます。推古朝に続く舒明朝では、「天皇の治世」「国家・国土」の例もそれぞれ1例登場します。このため、馬氏は小墾田宮が造営された推古朝を画期とみなします。

 つまり、宗教的な「まつりごと」を主としていた時代が終わり、様々な政治協議をおこなう朝堂の前身となる「庁」が設置され、複数の「庁」を包含する「ニハ(庭)」が成立したと見るのです。

 「朝廷」の語は、推古以前は中央政府を指すのが一般的であるのに対し、推古朝からは天皇を指す場合が多くなると、馬氏は指摘します。

 推古朝での変化は契機については、当然ながら、推古8年(600)の遣隋使が倭国の「まつりごと」について報告し、文帝に「おおいに義理無し」と評されたことをあげます。これをきっかけとして、一連の改革事業がなされていることは、良く知られている通りですが、「朝」の字の用例を見ても、それが裏付けられるのです。

 欽明朝あたりから政治と祭事が分離するようになり、推古朝の小墾田宮造営によって朝廷機能が変化し、伝統を反映させながら律令制を整備することによって、日本は固有のあり方から隋唐の式の朝廷・朝政へと変化していったというのが、馬氏の結論です。


大山誠一・吉田一彦氏に遠慮しつつ、ついに聖徳太子虚構・道慈作文説を否定:榊原史子「『日本書紀』崇峻即位前紀七月条と四天王寺の創建」

2024年04月12日 | 論文・研究書紹介

 こちらも論文集を紹介し始めたところで中断していた例です(こちら)。

榊原史子「『日本書紀』崇峻即位前紀七月条と四天王寺の創建」
(小林真由美・鈴木正信編著『日本書紀の成立と伝来』、雄山閣、2024年)

 四天王寺の研究者である榊原氏については、若い頃、大山誠一氏や吉田一彦氏に評価され、両氏が編集する論文集や雑誌の特集で論文を発表させてもらうようになった恩義があるためか、虚構説に遠慮して是非の判断を避ける書き方をしている本を以前紹介しました(こちら)。

 今回は、遠慮しつつも虚構説を否定し、注での目立たない書き方ですが、以前支持していた道慈作文説を撤回すると明記しています。

 今回の論文でも、冒頭で厩戸皇子については諸説があるとし、「近年においては、大山誠一氏によって聖徳太子虚構説が提起された」として、その説の内容を簡単に紹介します。

 そして、大山説以後も、「聖德太子をめぐっては、さまざまな説が提示されている」とし、具体的な活動については「いまだ十分に明らかになっていない」と述べるにとどめ、大山説が学界で相手にされなくなっていることには触れません。

 ここから四天王寺に関する検討に入り、若草伽藍で用いられた瓦当笵がすりへった段階で四天王寺の瓦作成に用いられたことなど、考古学の研究成果を紹介し、四天王寺の創建は若草伽藍の創建時期に近いが、それより遅かったことを再確認します。

 そして、どの程度遅れるかに関する諸説、また厩戸皇子の建立とする説と、難波吉士氏の建立であって厩戸皇子との関係は認められないとする説などを紹介します。

 ついで、文献から見て、当初、玉造に造営された寺が現在の地に移築されたとする説を紹介したのち、『日本書紀』の記事と考古学の成果から見て移築説を否定します。

 また、『四天王寺縁起』(1007年)は寺の所有として多くの土地や建物などの名をあげ、物部氏の旧領・邸宅・資材・人民が四天王寺に施入されたとしていますが、『法隆寺伽藍縁起并流記資材帳』が法隆寺のものと記している「水田」「薗地」「庄倉」は、物部氏の本拠であった渋川にも見られることに着目します。

 これらのことから、榊原氏は、四天王寺は厩戸皇子によって創建されたと考えるの妥当と結論づけます。

 ついで、創建説話については、『元興寺伽藍縁起并流記資材帳』は信じがたいとする吉田氏の説を紹介し、同様に古い『四天王寺縁起』に基づいて『日本書紀』の創建説話が書かれたとは考えるのは難しいだろうと述べます。

 しかし、『日本書紀』は厩戸皇子が登場せず、四天王寺創建にも触れない記事の部分ですら四天王寺系の資料を用いており、すべて最終段階の編者の筆と見ることはできないことは、前回の記事で示しておきました(こちら)。

 榊原氏がその部分を疑うのは、厩戸皇子が勝たせてくれたら四天王の為に寺を建てますと誓った箇所のうち、「護世四王」とある部分は、『日本書紀』完成の少し前の702~703年に西明寺で義浄が訳した(そして、聖徳太子虚構説では、それを西明寺に留学していて718年に帰国した道慈がもたらし、道慈が理想的な厩戸皇子を記述するなど、『日本書紀』の原稿を潤色する際に用いたとされる)『金光明最勝王経』に見えるからです。

 しかし、5世紀初めに訳された『金光明経』には確かに「護世四王」の語は見えないものの、この語は、597年に訳された増補版であって中国でもかなり読まれた『合部金光明経』には見えています。創建説話のその箇所には後代の潤色があるとしても、7世紀の末頃までに四天王寺で創建説話の原型ができていて不思議ではありません。

 なお、榊原氏は、『日本書紀』の編者が『金光明最勝王経』を参照しながら四天王寺創建説話を書いたことは疑いないとし、「四天王像を頭に載せるという記述は、仏像が宝冠を頭に載せていることに想を得たのではなかろうか」と述べています。

 榊原氏は、いなかった説を痛罵した石井公成さんの『聖徳太子ー実像と伝説の間ー』は読んでおられないのか、大山氏や吉田氏への遠慮もあって引用しにくいのか、まったく言及していませんが、小さな仏像をお守りにする際は髷の中に入れるのがインドの習慣であることは、本に書いておきました。あるいは、榊原氏は、絵本などに描かれる巳の刻参りや八つ墓村のような太子の姿を思い浮かべているのでしょうか。

 榊原氏は、『日本書紀』編纂の最終段階で四天王寺創建説話が書かれたことについて、新川登亀男氏の説などを紹介し、「皇太子の制度の理想型」を示すために厩戸皇子が「皇太子」と呼ばれて活躍が強調されたとし、『日本書紀』の最終編纂時期に、理想的な皇太子が『金光明最勝王経』の教えを実践していたことにするためだったと推測します。

 そして、四天王寺は、一時期、古代史学で強調されたような外敵退散のためではなく、上宮王創建の他の寺と同様、追善のためとする三船隆之氏の説を紹介し、難波、斑鳩、飛鳥を結ぶ交通網が整備されたことに注意し、斑鳩宮への移住は対外交渉の拠点づくりのためとする塚口義信氏の説を紹介します。

 そして、推古朝は推古女帝のもとに、聖德太子と蘇我馬が共同執政の形で政治をおこなったとする塚口氏の説を「妥当な見解」と評価します。塚口氏の説の追認という形ですが、太子虚構説は完全に否定されていますね。

 ここまで書いてしまった以上、曖昧な書き方は無理とあきらめたのか、榊原氏はその後で、「厩戸皇子は、実在した勢力のある王族であり、有能な人物であったと評価することができるのではないだろうか」と述べ、ついに虚構説を否定してしまいました。しかも、馬子との共同執政であったものの「外交に関しては、厩戸が主導していた」と明言しています。いやいや。

 なお、注58では、自分の旧稿では道慈が創建説話を述作した可能性があるとしたが、「現在では、具体的な人物を特定することは難しいと考えている」と述べています。読んでいて感慨深いです。いろいろと迷った末の決断でしょう。

 なお、お知らせです。本日の夜の飛行機で中国に向かい、浙江大学、浙江理工大学、杭州仏学院などで「禅宗の成立と疑偽経類」「中日仏教文化交流」その他について連日講演し、最後に1日だけ寺院や遺跡をめぐって翌日に帰国しますので、次の記事は少し遅れるかもしれません。

 杭州は、鎌倉・室町時代には日中貿易や僧侶の往来の中心地だったところであって、また私が近代中国の思想家の中で最も高く評価する章太炎の旧居と墓があるところです。10月開催の唯識学会にも呼ばれてますので、杭州にはまた行くことになります。コロナ禍がおさまり、ようやく海外の研究者を受け入れるようになったため、秋には長らく延期になっていた北京の人民大学などでの講義もありそうです。


高句麗の影響を受けた百済の石積みによる造墓技術が方墳へ:坪井恒彦「大王(倭国王)陵としての前方後円墳の終焉」

2024年04月08日 | 論文・研究書紹介

 恒例となっている4月1日限定の特別記事では、蘇我馬子の「桃原」の墓と桃つながりらしい高桃塚古墳?を紹介しました(こちら)。

 飛鳥の古墳については新たな発見が続いており、その最新成果を収めた明日香村教育委員会編『遺跡の発掘からみた飛鳥』が刊行されるはずでした。しかし、1年半くらい前に予約したのに、発売延期、延期が続き、いよいよ刊行されるはずの日程の直前になってまた「5月末に発売」という延期通知が来ました。狼少年もこんなに繰り返し「出るぞ、出るぞ」とは言ってなかったんじゃないか……。

 それはともかく、古墳は重要なので、坂田原から桃原にかけての一帯の地の古墳について論じた最近の論文を紹介しましょう。

坪井恒彦「大王(倭国王)陵としての前方後円墳の終焉-敏達・用明朝の墳墓観変遷の背景-」
(『羽衣大学現代社会学部研究紀要』第6号、2017年)

です。

 前方後円墳が造られなくなることは、以前、取り上げた半沢英一氏も画期として注目していたところです。ただ、半沢氏は、母親の古墳に合葬された敏達天皇はそれ以前の天皇たちと違い、巨大な前方後円墳を造ってもえなかったとし、守屋合戦に勝利した厩戸が仏教的な法王として即位した結果、新たな時代が始まったたとする強引な仏教革命説を繰り広げていました(こちら)。

 一方、坪井氏のこの論文は、朝鮮の造墓技術との関連に着目した考古学の立場での考察です。氏は天皇のことを「大王」と記していますので、この記事ではそれに従います。

 坪井氏は、三輪山西麓に広がる纒向の地に初めて登場した前方後円墳、つまり、墳丘280メートルもある箸墓古墳の話から始めます。この巨大な古墳が倭国王の墓であることは疑いなく、その前方後円という特異な形は、大王の墓として考案されたものでした。

 以後、7世紀初めまで、何千という古墳が造営されましたが、大王墓と見られる前方後円墳は、いずれも首長クラスの 墓とは異なり、きわだって巨大なものでした。

 ところが、6世紀後半になって、大王が一般的に見える「方墳」に葬られるようになってしまうのです。7世紀半ばになると、高御座と共通する八角形の墳墓が作られるようになり、再び王権独自の墓が造営されるようになります。

 坪井氏は、考古学では、異論はあるものの、最後の前方後円墳は、太子町奧城にある墳丘長93メートルの太子西山古墳であろうとし、敏達大王(585年没)の墓とする説が有力だとします。この墓は、大型の方墳や円墳から成る磯長谷古墳群を見下ろす尾根の上に、いちはやく営まれています。

 続く用明大王陵は、春日向山古墳と推定されており、こちらは東西66メートル、南北60メートルの方墳です。用明大王の墓は初め磐余にあり、後に磯長に改葬したとする説もあるものの、磐余近辺にも前方後円墳の遺跡は見つかっていません。

 次に倉梯岡陵と記されている崇峻大王陵は、宮内庁は桜井市倉橋金福寺跡と治定していますが、考古学では同じ倉橋にある一辺50メートルの赤坂天王山古墳の可能性が高いとしています。

 推古大王については、大野岡上にあった竹田皇子陵に合葬され、後に磯長に改葬されたとされており、前者は橿原氏の上山古墳(東西40メートル、南北27メートルの長方墳)、後者は太子町の方墳である山田高塚古墳(東西66メートル、南北58メートル)と見られています。

 これらの大王たちの祖である欽明天皇の墓について、宮内庁は平田梅山古墳を治定していますが、考古学では墳丘長318メートルという巨大さを誇る五条野丸山古墳が有力です。

 平田梅山古墳については、被葬者をめぐって諸説があり、敏達埋葬のために造られたが何かの事情でそうならなかったとする説もあるものの、坪井氏は、いずれにしても敏達の墓を前方後円墳にしようとした事実はゆるぎないとします。

 『日本書紀』によれば、敏達は母である石姫の墓に合葬されたとあります。白石太一郎氏は、継体天皇は、それ以前の大和・河内勢力によるヤマト王権と血がつながっておらず、ヤマト王権の仁賢大王の皇女である手白香との婚姻が不可欠であったとしますが、坪井氏は、その継体から敏達に至るまでの大王はすべてヤマト王権の血を引く女性を妃としており、その系統が前方後円墳と結びついていたと見ます。

 一方、用明は、敏達の弟であるとはいえ、ヤマト王権の血とはつながりのない蘇我稻目の娘、堅塩媛から生まれています。続く崇峻も推古も欽明天皇と蘇我氏の女性の間に生まれています。

 ですから、ヤマト王権の伝統である前方後円墳にこだわる必要はなかったと坪井氏は説きます。しかも、この頃には、前方後円墳は大王陵としては既に形骸化していたと推測します。

 磯長古墳群は、蘇我氏系の大王の墓が林立することで有名ですが、坪井氏は、最初は蘇我氏の血を引かない敏達大王の墓で始まっていることを重視します。つまり、これによってこの地が皇室の墓の地として格付けされ、以後、前方後円墳にこだわらず、方墳を進展させた蘇我氏の影響が発揮されたとするのです。

 そもそも方墳は、4~5世紀の百済に普及していった高句麗系の「石基壇石塚古墳」と称されるものがルーツとなっていると、坪井氏は主張します。それが、6世紀後半に蘇我氏の宗主の墓に用いられ、やがて蘇我氏系の大王の墓に用いられたとするのです。

 ここで注目されるのが、一辺が41~42メートルであって、7~8段ほどの石積みとなっている都塚古墳です。この古墳は、大きさはさほどではないものの、人の頭ほどの石を12万9千個くらい積み上げてあり、大変な労力をかけたものです。これが百済の王陵と良く似ているのです。

 都塚古墳が位置する明日香村阪田から祝戸にかけての地域は、朝鮮半島からの渡来集団が配されていた地です。中国南朝出身の司馬達等もこの辺りに棲んでいました。

 その都塚古墳の北西400メートルほどのところにあるのが、巨大な石を積み上げ、「桃原」に造営された馬子の墓とされる石舞台です。つまり、渡来人を配下に持つ蘇我氏が、高句麗系の様式による百済の石積みの造墓技術を採用して自分たちの墓に用いたのであり、それが蘇我氏系の大王の墓に用いられるようになったとするのです。

 坪井氏は、こうした古墳の型式の変遷は、朝鮮半島の状況、それと日本との関係が大きな影響を及ぼしていることに注意して論をとじています。