聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

江戸時代に印刷された叡福寺の聖徳太子墓の宣伝チラシ:伊藤純「聖徳太子墓の新史料」

2024年07月25日 | 聖徳太子信仰の歴史

 聖徳太子の墓とされる磯長の叡福寺北古墳については、このブログでもたびたび取り上げてきました(こちらや、こちらほか。疑う立場は、こちらなど)。その是非はどうであれ、江戸時代には内部の様子を細かく描いた図が印刷されて配られていました。それを紹介したのが、こちらです。

伊藤純『歴史探訪のおもしろさ―近世の人々の歴史観―』「2 聖徳太子墓の新史料」
(和泉署員、2017年)

 伊藤氏については、以前も太子の肖像画その他に関する論文を何度か紹介したことがあります(たとえば、こちら)。

 今回の論文では、伊藤氏は、近年になって大阪歴史博物館の所蔵となった「河内国上ノ太子磯長山御廟開扉正面絵図・同窟中三廟秘図」(以下、「御廟図」と呼びます)について紹介しています。

 この図は1枚ものの刷り物であって、右半分に霊屋の正面が描かれていますが、現在あるような扉はなく、石敷の通路の左右に形の異なる二対の灯籠が置かれています。伊藤氏は、形から見て手前の大きな灯籠は石製、奧のものは金属製と推測します。

 通路には薦が敷かれており、突き当たりは石積みの塀で閉じられているようであって、塀の中央に四角い穴のようなのがあるのは、石室の内部を見るためののぞき穴らしく、その手前には机が置かれ、上に焼香用の香炉が二つ乗っています。ここまで入れて中をのぞくことができたんでしょうね。

 そして、石室への入り口は石積みになっていて中に入れないようでありながら、「御廟図」の左半分には、石室内部の様子がかなり詳細に描かれています。つまり、石室の手前右に大きな「皇太子御棺」、その左に「皇妃御棺」の左に〇の中に「井」と記されており、さらに左には井戸の印があります。

 奧には大きな御母后棺があって、その上に一対の黄金獅子が向き合うように置かれており、その左には「鏡」、さらにその左には小さな文字が書かれた石碑のようなものが描かれています。

 図の下には文字の説明があり、それぞれの棺の大きさが「長七尺二寸、横巾三尺」などと記されていますが、伊藤氏は、描かれているのは棺ではなく、それを載せる棺台であると述べ、どの棺台にも奧に四角い切り穴があるのは、水抜きの穴と推定します。

 鏡については説明には「御鏡一尺余」とあり、井戸については、「井水底敷白石澄如鏡 水味甘」などと書かれています。井戸の底には白い石が敷き詰めてあり、澄んでいて鏡のように反射するというのは、石室を明るくしないと分からないことのはずです。水の味が甘いというのは、実際に飲んでみたのか……。

 左端の石碑のようなものについては、「立石 弘法大師記文」とあって、「人皇六十一代 一條天皇御宇正暦五年……」に。聖徳太子に馬でお仕えしたとされる調子麿の末孫である法隆寺の康仁大徳が窟の中に入って拝見し、天皇に報告した、と説明されています。

 これによれば、「御廟図」は九九四年に康仁が観察した記録によって石室内部の情報を記したことになります。実際、叡福寺所蔵の『慶長五年旧記』と記載内容が重なる部分があります。

 しかし、1600年の『慶長五年旧記』では、康仁大徳が廟に入って拝見した際は、御母公の御棺には炭灰と御骨があったものの、御妃の棺には灰だけがあって骨が無かったのは、「化生ノ人」であるためだと記されており、こうした記述は「御廟図」にはないため、『慶長五年旧記』に基づいて略出したことが推測されるとします。

 確かに、正面の図では石室の入り口は石積の塀のようになっていて入れないわけですので、のぞき穴から見たとしても、強力なサーチライトなどがないと中は分からないはずだし、外からのぞいただけでは、棺台の大きさなどは記録できないはずです。中に入って記録したものが元でしょう。

 実は、石室内部を描いた絵図は、正徳6年(1716)の「法隆寺年会目次記」に引かれている「聖徳太子御廟窟絵記」があります。絵は似ていますが、こちらでは、井戸は手前ではなく、鏡と「大慈大悲……」と記された石の間に描かれているなどの違いがあります。宝暦5年(1755)に叡福寺東福院の僧の玄俊が書写した「太子御廟図」でも、井戸はその位置に描かれています。

 これによって、伊藤氏は、元の図から次々に転写されていったことが分かるとし、今回の「御廟図」は別系統のものと説きます。

 今回の絵図については、奧のくずれた結界石と手前の整然とした結界石の描き方から見て、新たに結界石が設置された享保19年(1734)以後に作成されたことが分かるとします。

 この前後の時期には、霊屋の整備が進み、叡福寺の金堂も享保17年(1732)に再建され、太子の霊場としての宣伝も盛んになっていっています。そこで伊藤氏は、金堂再建と墓域整備に合わせる形で太子墓を宣伝する「御廟図」が印刷されて配布されたものと見ます。

 この時期には、叡福寺だけでなく、法隆寺でもしばしば開帳がなされ、その内容を記した文章なども広まっていたようです。庶民の信仰の太子の寺、浄土往生の聖地として長らく人気を集めていた四天王寺に比べてあまり有名でなかった叡福寺や法隆寺は、そうした催しをすることによって知名度をあげていったのでしょう。 


蘇我氏本宗家の滅亡は蘇我氏内部の抗争が一因、そもそも「本宗」という概念があったのか:鈴木正信「蘇我氏とヤマト政権」

2024年07月20日 | 論文・研究書紹介

 江戸時代から明治の初め頃までは、聖徳太子は儒教や国学の学者たちから崇峻天皇の暗殺を黙認し、異国の仏教を導入したとして非難されていました。それに対する弁解が、いや太子は蘇我氏の横暴を押さえるために「承詔必謹」を説く「憲法十七条」を作成し、蘇我氏を代表とする豪族たちを戒めたのだ、といった主張でした。

 父方母方とも蘇我氏の血を引いている最初の天皇候補であって、蘇我氏系の推古天皇の皇女を妃とし、また蘇我馬子の娘をも妃としていた聖徳太子にとって、蘇我氏は大事な後ろ盾なのですから、「憲法十七条」によってその権勢を押さえようとするはずはありません。

 蘇我本宗家が亡びたのは、強大になりすぎた蘇我氏の内部対立も一因だと、このブログでは書いてきましたが、それと同意見の論文が出てます。

鈴木正信『日本古代の国造と地域支配』「第六章 蘇我氏とヤマト政権」
(八木書店出版部、2023年)

です。

 この論文の前半では、鈴木氏は蘇我氏の出自と台頭に関する従来の研究を紹介し、蘇我稻目が18名の皇子・皇女の外祖父となったことに注意し、『上宮聖徳法王帝説』が欽明天皇から推古天皇までは「他人を雑ふることなく、天下を治しき」と述べ、「天寿国繍帳銘」も欽明と稻目で始まる系譜をあげていることから見て、皇位継承に血縁原理が導入された時期であり、「天皇家の側も新興の蘇我氏との連携により、権力基盤の安定・強化をはかる狙いがあった」とする最近の説に賛成します。

 そして、物部氏との競争関係に触れるのですが、「渋川廃寺(大阪府八尾市渋川町)が発掘され、物部氏も仏教を受容していたことが明らかになってきた」と述べているのは、古い情報に基づく間違った解説ですね(こちら)。

 蘇我氏と物部氏の対立を仏教受容をめぐる争いとするのは、寺院側の強引な主張ですが、だからと言ってこれを全面的に否定し、仏教受容の問題は関係無いとするのも行きすぎです。

 鈴木氏は独自な説として、『日本書紀』は物部・三輪・中臣の三氏を廃仏派としているものの、三輪氏は実際には蘇我氏に近い立場をとっていたと考えられるとし、この点から見て、従来の崇仏派・廃仏派という対立図式は再考の余地があるとします。

 そして、物部氏が打倒されるとすぐに壮大な瓦葺きの伽藍を建立し始めているため、物部氏が仏教受容に反対していたことは事実ととらえ、物部氏は急速に台頭してきた蘇我氏を危惧していたという点を重視します。

 なお、崇峻天皇がこれまで違って大連を置かず、馬子大臣が合議制の頂点に立ったことに注意し、推古朝の実態は、『法王帝説』が述べているように、推古・厩戸・馬子の三人が権力の中心を構成していたと見るのが妥当とします。これは最近の主流の立場ですね。

 冠位十二階については、厩戸と馬子は与える側であり、群臣を代表する蘇我氏が王権を代行しうる立場を獲得したと言えるが、非群臣層からも高位につく者が現れたため、群臣層の政治的地位が相対的に低下したとも言え、群臣層の間に不満がたまり、蘇我氏が孤立する契機になったと見ます。

 そうした不満が高まった要因は、群臣はそれまで氏から代表を一人出していたのに、推古朝の外交儀礼には馬子に加え、子の蝦夷も参加していたうえ、蘇我倉氏や境部氏を初めとする多くの氏を蘇我氏一族から独立させて合議の構成員として送り込んだことです。

 馬子が生きているうちはそれが機能していましたが、馬子が没して蝦夷の時代になると、蘇我系一族の中で独自の動きが見られるようになり、蘇我氏に擁立された舒明天皇も、やがて蘇我氏の影響からの脱却を志向するようになったと見られると説きます。

 『日本書紀』では、蘇我本宗家が滅ぼされたのは、専横をきわめ皇位をうかがおうとしたためとしていますが、この時期は高句麗でも泉盖蘇文が栄留王を暗殺して権力を握ったほか、百済・新羅でも混乱が見られたため、倭国の外交方針をめぐって争いが生じていたと見ます。

 そうした状況で起きた乙巳の変は、古人大兄を押す蘇我氏本宗家と、軽皇子。中大兄皇子を支持するも者たちの間の皇位継承争いであり、それは同時に、稻目・馬子・蝦夷・入鹿と父子直系で権力を握っていた蘇我氏本宗家と、それに不満を持つ蘇我倉氏など同族の争いでもあったと説きます。これは私も賛成で、このブログでも境部臣をその代表とときました。

 このため、鈴木氏は、蘇我氏本宗家滅亡の要因は蘇我氏の発展過程の中に潜在していたとし、乙巳の変以後も蘇我倉氏などは大臣になっていると指摘したうえで、そもそも当時「本宗家」というのは後世の我々がそう呼んでいるにすぎないとします。確かに、どれだけ「本宗」という概念があったかは疑問ですね。

 鈴木氏は、屯倉制や国造制に蘇我氏が取り組んできたことを重視し、ヤマト政権が発展するにあたっては、蘇我氏が果たした役割が大きいと指摘してしめくくっていますが、天皇家の継承のあり方についても、蘇我本宗家の父子継承が影響を及ぼした可能性はありますね。


伝説的な太子伝の記述を疑わない羊頭狗肉の素人太子論:橋本晋吉「聖徳太子の御聖業―神仏融合と”和”の精神」

2024年07月15日 | その他

 聖徳太子については、いろいろな分野での検討が進んだ結果、現在では、推古朝を聖徳太子の時代と見るような一時期の太子観は改められ、また太子の事績をすべて疑うような極端な説もむろん否定され、『法王帝説』が説いているように推古天皇・厩戸皇子・蘇我馬子の三頭体制であったとする見方が主流となっています。政務は分担したでしょうし、厩戸皇子が若い時期は、その義父であって推古の叔父であった馬子大臣の主張が基本だったでしょうが。

 ただ、学界以外では、指導要領案が聖徳太子ではなく「厩戸王」という名を標準としようとした騒動(こちら)に対する反発として、聖徳太子の役割と意義を強調する動きが目立つようになってきました。

 その中には、『日本書紀』の記述や伝説化が進んだ後代の太子伝の記述を鵜呑みにし、自分が考える理想的な聖徳太子を論じるような言説が目立ちます。その最近の一例が、

橋本晋吉「聖徳太子の御聖業―神仏融合と”和”の精神」
(『在野史論』第18号、2023年12月)

です。

 橋本氏は、歴史研究会の有志で運営しているという、この『在野史論』という雑誌に古代史の論考を多数執筆しているほか、この研究会が「在野史家の研究発表の場」として昨年刊行した『古代史の新研究』にも寄稿されています。

 この書物はホームサイトによれば、「(在野史家の)みなさまのロマンと熱意のあふれる玉稿が盛りだくさんです」とのことですが、古代史のロマンと熱情となると、珍説奇説コーナーでとりあげた梅原猛のように、空想先行の方向に行きそうで、ちょっとアブナイですね。

 研究の質は、むろん、その人が大学や研究所に属しているかどうかは関係ありません。実際、私の長年の友人であって最も畏敬する存在である彌永信美さんなどは、東洋学の出版物を出しているフランスの研究所で編集の仕事をしばらくしたことがあるだけで、大学や研究所に属さないどころか、フランス留学者を中心とした集まりである日仏東洋学会以外には、誘いを受けけてもどの学会にも入らずにきました。

 ですから、在野の研究者ということになりますが、該博な知識と鋭い批判精神によって後世に残る研究をしており、多くの研究者たちから尊敬されています。

 また逆に、有名大学の教員であっても、学力が無いのに有力教授の親戚という立場で潜り込んだり、あるいは若い頃は優秀であっても、職を得てからはまったく駄目になった人もいます。学位論文を書いた頃まではまともだったものの、本郷の某大学に就職してからは研究をしなくなり、授業では自分のかつての研究内容や思い出話などばかりし、定年でやめたのが在職中の一番の功績だと言われた某先生が思い出されます。

 ですから、在野の研究者とかプロの研究者といっても様々なのですが、在野の研究者と称する歴史マニアが書く聖徳太子論には、このブログの「珍説奇説コーナー」が示すように、九州王朝説論者を含め(こちらなど)、内容も文章も拙劣なもの、論文以前のレベルのものが多いのは事実ですね。

 橋本氏のこの論文は、題名が興味深く、33頁もある大作なので取り寄せたところ、かなりお粗末なものでした。ただ、「通説をひっくり返してやる!」といった野心に基づくトンデモ説ではなく、また、やや戦前風な太子観が見られるものの、日本の伝統・国体の優秀さを強調するような国家主義的な立場とも異なっています。

 ですから、歴史マニアが資料を並べて聖徳太子に関する自分のイメージを述べたエッセイの一種ということで、珍説奇説コーナーや「史実を無視した日本の伝統・国体(国柄)礼賛者による聖徳太子論」コーナーではなく、「その他」のコーナーに置いておくことにしました。

 この記事のタイトルに「羊頭狗肉」と記したのは、氏の論考の副題は「神仏融合と”和”の精神」となっているものの、本文では「神仏融合」の話が出てこないためです。これはひどい。なお、論文の題名にある「御聖業」といった言い方は、戦前・戦中の国家主義的な聖徳太子論に良く見られたものですね。

 橋本氏は、初めの部分で、「聖徳太子は……将来、皇位を継ぐ『皇太子』となり、同時に『摂政』に就任して、内外の政治に当たった」と書いています。歴史学の論文としては、この時点で落第です。

 律令制の皇太子に当たるような補助役についたと考えられる、といった書き方なら良いですが。また、『日本書紀』では「摂政」の語は動詞として用いられており、「摂政」という位があったわけではないことは常識中の常識です。

 要するに、『日本書紀』の記述を史実そのままと見、後世の伝説化が進んだ太子伝の記述については、伝説とみなしながら、そのように描かれる優れた人物であった、という方向で論を進めるのです。これでは歴史学の論文にはなりません。最初から太子礼賛の結論が見えているわけですし。

 当然ながら、資料の羅列となり、良く考えて書いていないため、前後がつながらない文章を書きがちです。たとえば、太子が2歳の時、東方を向いて「南無仏」と唱えたという伝説を紹介する際、「東向きに対し、『南無仏』と唱えて」などとおかしなことを書いています。

 こうした妙な書き方が内容にまで反映している例も少なくありません。たとえば、伝説化が進んだ『聖徳太子伝暦』では、父である大兄皇子(用明天皇)が、母に抱かれていた3歳の太子に向かって、桃の花と松の葉とどちらが好きかと尋ねると、桃の花は一時のものであるのに対し、松は百年の常緑樹であるため松葉の方が好きですと答えたと記していますが、橋本氏はこれについてこう述べます。

事実の認識として考えた時、太子の一生は”桃の花”の如き、香しく栄え、深く散ったのである。そこには、桃華の花やかさを実践したとみるのが自然であろう。

「事実の認識として考え」るとは、どういうことなんでしょう。「如き」は「如く」でないとおかしいですし、「深く散った」とは、地中深くに至るほど突き刺さったということなんでしょうか。それに、潔く散るというのは、平安以後の桜の花のイメージですので、桃の花とは合いません。

  副題に「”和”の精神」とあるため、詳しい説明があるはずながら、「十七条憲法」については、「概して仏教思想がその根底にあると考えられる」とし、「官人への訓誡を超え、人間の倫理として”和”の重要性を説いているのも仏教の精神そのものだからである」と断言してますが、「憲法十七条」は群臣や官人たち相手に書かれたものであり、「民」は対象になっていません。

 また「人間の倫理として”和”の重要性を説いているのも仏教の精神そのものだから」と述べていますが、どの経典がそう述べているんでしょう? 「和合」は僧団の特質とされたものですし、仏教では「六和敬」を説き、「和顔愛語」を重視することはあるものの、釈尊が一般の人に対して「和」を説いた経典を示さず(そんな経典があるのか?)に、「仏教は……」というのは、仏教に関する橋本氏の単なるイメージです。

 太子が仏教精神に基づいて「和」を尊重していたと主張するなら、三経義疏からそうした箇所を示すべきでしょう。しかし、氏が三経義疏について触れた箇所では、「現世利益」の『法華経』、「女性を対象」とした『勝鬘経』、「在家教義」の『維摩経』と書いています。

 『法華経』には観音による衆生救護を説く普門品など、現世利益の面もありますが、『法華経』全体を現世利益の経と呼ぶことはできませんし、『法華義疏』は『法華経』をそんな経典とは見ていません。

 また、『勝鬘経』は女性の勝鬘夫人が説法していますが、女性相手に語ったものではなく、『維摩経』は在家の居士である維摩詰が主人公であるものの、在家の教義を説いているわけではないうえ、維摩詰自身は別の世界の仏が仮に維摩詰として現れたものとするのが伝統的な注釈です。

 つまり、三経義疏を読んでいないどころか、三経義疏に関する学術的な論文もきちんと読んでいない証拠であって、仏教については無知なのに、「和」は仏教の精神だと説くのですね。

 こんな調子で見ていくと、一生懸命調べて資料を羅列した大学1年生の不出来なレポートを直すような作業になるため、ここらでやめておきます。とにかく、聖徳太子を無暗に持ち上げる人には、こうしたタイプが多いのは困ったことです。


遣隋使が文帝に倭王は天を兄、日を弟とすると語った背景としての天孫降臨神話の原型:舟久保大輔「天孫降臨神話の成立」

2024年07月10日 | 論文・研究書紹介

 「天皇」という言葉に関する論文の続きです(前回の馬梓豪氏の論文紹介は、こちら)。「天皇」という称号については、「天」という語が中国の漢語なのか、日本の概念を「天」という漢字で表記したのかが問題になります。この問題を考えるうえで重要なのが、遣隋使、ないしそれに準ずる使節が隋の文帝に対して、「倭王は天を以て兄とし、日を以て弟と為す」と述べたという『隋書』の記述です。

 この問題について独自の試案を示した最新の作が、

舟久保大輔『古代王権の神話と思想』「第一章 天孫降臨神話の成立」
(雄山閣、2024年)

です。舟久保氏は、駒澤大学大学・大学院で歴史学を学び、修士課程の時、単位互換制度を利用して明治大学の吉村武彦教授のゼミに2年間通った由。せっかく駒澤で学んだのですから、大学院の仏教学の講義などにも出てほしかったところです。

 私の講義には駒澤や他大学の国文学の院生はたまに来ていましたが、舟久保氏をはじめ、日本史の人は来たことがなかったのは残念。日本古代史は仏教を抜きにして理解できません。私の講義でなくても良いから、仏教文献を精密に読む訓練をしてくれる授業に出てほしかったですね。

 それはともかく、この2月に出たばかりのこの本では、この第一章が扱った天孫降臨神話を重要なテーマーとしており、有益です。舟久保氏は、天孫降臨に関するこれまでの研究史を概説し、5世紀成立説や推古朝成立説もあるほか、天武天皇頃の成立と見る説も有るが、最近では、欽明天皇の代から世襲王権が確立し、この頃に『古事記』や『日本書紀』の天孫降臨神話の元になるものが形成されたとする説が多いと述べます。

 諸説がある理由として、舟久保氏は、天孫降臨神話の定義がはっきりしないためとします。そして、『古事記』『日本書紀』の記述における同異について紹介し、『日本書紀』に様々な説が見られるのは多くの氏族が関与したためであり、共通部分があるのは、王権と諸氏族の間にある種のコンセンサスが得られたからこそ成立した神話だとする榎村寛之氏の説に賛同します。

 そこで舟久保氏は、共通部分が古くて根源的なものとする説に基づき、(1)王権の起源として天という世界が設定されている、(2)天の支配者である最高神と皇孫・天皇が系譜上(血統上)繋がっている、(3)皇孫が最高神の命を受けて地上世界の統治者として降臨する、という三点をあげ、この成立をもって天孫降臨神話の成立と見ます。

 そして、『隋書』東夷伝倭国条の開皇20年(600)に見える「倭王姓阿毎、字多利思比弧、号阿輩雞弥」のうち、姓と字(名)を分けたのは中国側の誤解として、「アメタリシヒコ」については「天上で満ち足りておられる方」説を退け、天から下られた方とする説に賛成します。

 というのは、『日本書紀』推古8年条に、新羅と任那が調を送った際の上表文に、「天上に神有り、地に天皇有り」とあり、『日本書紀』特有の潤色があるとはいえ、天と地が分けられ、天皇は地にいるとされているからです。そもそも倭王が天にいるという記述は記紀には見えません。

 そして、欽明天皇以後、特殊な近親結婚によって欽明の血を引く天皇が五代続くこと、病気となった欽明天皇が皇太子の敏達を呼んで後事を託していることから見て、「原則としては父子直系を目指していたと思われる」と説きます。これは、前に紹介した馬氏の説と異なっていますし、推古天皇の時から大王が後継者指名に関わるようになったとする最近の研究とも異なっていますね。

 ともかく、舟久保氏は、日本でいう「天子」は、徳のある人に天が命を下して天下を統治させるという中国の天命思想に基づくものでなく、日本の神話的世界観に基づくことを強調します。ただ、まったくの日本の独創とするのではなく、高句麗の神話に近いことに注意します。好太王碑文では高句麗の始祖の鄒牟王を「天帝の子」と呼んでいるのが一例です。

 ここからが舟久保氏の創見になるところですが、舟久保氏は高句麗の長寿王(伝:在位413-491)の時代の高句麗の名族の墓誌、「牟頭婁墓誌」では、その始祖の「鄒牟聖王」を「河伯之孫日月之子」と呼んでいることに注目します。

 『隋書』によれば、遣隋使は倭王は「以天為兄、以日為弟」と述べ、文帝に義理がなさすぎるとして叱られていました。高句麗の碑文では、始祖を「日月の子」とするのは異なっていますが、日(太陽)との血縁関係によって始祖の系譜を語ろうとしている点は共通します。

 さらに、『日本書紀』顕宗天皇3年2月条では、使者が任那に赴こうとした際、「月神」がある人に取り憑いて「我祖高皇産尊」が天地を想像したとしてお告げを述べています。これによれば、天孫降臨の際の司令神であるタカミムスヒは月神の祖先ということになり、倭王と月神はタカミムスヒを祖先神とする兄弟ということになります(原文48頁では、「月神タカミムスヒ」となっていて、「月神は」の「は」が抜けてます)。

 また、『日本書紀』顕宗天皇3年4月条には、日神もタカミムスヒを祖とする記事が見えますので、倭王・月神・日神は兄弟ということになります。これは高句麗の神話と琴なりますが、深久保氏は、それは倭国がタカミムスヒという最高神を祖先神として建てたことによると見ます。

 舟久保氏は、大化元年(645)の進調にあたって高句麗王に出した詔では「高麗の神の子」と述べており、高麗王が天帝の子であることを認めているものの、『続日本紀』宝亀3年1月己卯条では高句麗王が天孫であることを否定していることに注意します。つまり、日本の建国神話は高句麗の神話をモデルにして形成されたにもかかわらず、律令制が確立するとそれを否定するようになったのだとするのです。

 このように、倭王に関する遣隋使の妙な応答について試案が示されました。私自身は、遣隋使が倭王が「以天為兄、以日我弟」としているというのは、倭王は「天の日(太陽)を兄弟としている」といった和語の文が、「以天日為兄弟(天日を以て兄弟と為す)」などと漢訳され、後にそれを分解して「天を兄、日を弟」と改めた結果ではないかと考えています。

 英語の brother は、これだけでは兄だか弟だかわかりませんが、遣隋使の場合もそうした語り方をした可能性はあるでしょう。 いずれにしても、欽明天皇から始まる世襲王権が重要であり、それを支えたのが蘇我氏であったことが重要ですね。


斑鳩の地における聖徳太子信仰の拠点争い:高田良法「法隆寺聖霊院造立についての試論」

2024年07月05日 | 聖徳太子信仰の歴史

 前回、法隆寺東院伽藍の夢殿の本尊である救世観音像に関する論文を紹介しました。しかし、前にも触れたように、夢殿はもともとは法隆寺とは別組織でした。この問題について検討したのが、前々回紹介した高田氏の論文(こちら)の続篇である最新のこの論文です。

高田良法「法隆寺聖霊院造立についての試論」
(『奈良美術研究』第25号、2024年3月)

 法隆寺西院伽藍で聖徳太子を祀る聖霊院は、太子没後500年にあたる保安2年(1121)に法隆寺の経尋が建立したものでした。その少し前に、法隆寺の隣にあったものの別組織だった上宮王院(東院)を法隆寺の管轄下に入れたのも、この経尋なのです。

 高田氏は、天平宝字5年(761)成立の『東院資財帳』では東院の夢殿本尊について、「上宮王等身観世音菩薩木像壱躯<金薄押>」と記されていることに注意します。後に救世観世音菩薩と呼ばれるようになるこの菩薩像は、当初は金箔が貼られ、きらきら輝いていたのです。菩薩と言っても仏扱いですね。釈尊の次に仏となる弥勒は、菩薩の姿や仏の姿となった形で造像されますが、それと似た面があるのか。

 さて、太子の病気治癒を願い、実際には没後になって追善のために建立された金堂の釈迦三尊像の光背銘には「尺寸王身」とあることは有名です。つまり、法隆寺(西院伽藍)も上宮王院(東院)の夢殿も、坐像と立像の違いであって、ともに太子等身とされる像を本尊としていたことに高田氏は注意します。ここまで実は前置きであって、この論文の目的は西院伽藍の聖霊院造立に関して検討することです。

 さて、上宮王院については、奈良時代に行動力のある僧侶、行信が造立したことは有名です。『法隆寺東院縁起』では、蘇我入鹿の軍勢によって焼き討ちされた斑鳩宮の跡が荒れ果てているのを歎き、春宮坊、すなわち、皇太子であった阿部内親王(後の孝謙天皇)の担当部署、つまりは阿部内親王に奏上しました。

 すると、春宮坊が天平11年(739)に河内山贈太政大臣(藤原房前)に造らせ、八角円堂、つまり夢殿に「太子在世に造り給ふ所の御影救世観世音菩薩像を安置」した、とされています。

 この『東院縁起』については、阿部内親王が立太子した天平10年(758)より前の天平7年に(755)に春宮坊が「聖徳尊霊」と今上天皇の奉為に『法華経』を講読せしめたと記していたり、房前は天平9年(757)に亡くなっているなど、記述が合わず、信頼できないといった指摘がなされていました。

 しかし、大橋一章氏は、阿部内親王の母である光明皇后が熱心な聖徳太子信仰を有していたため、天平8年(756)2月22日の太子の忌日に、行信が法隆寺で行った『法華経』講会は、光明皇后を含め、その母であった県犬養橘三千代に連なる女性たちが経済的に支援したものであり、その時期に光明皇后の兄である房前が造立に関わったのであって、その死後は房前の息子の永手が事業を引き継いだため、上記のように記されたと説いており、高田氏もそれに賛同します。

 天平8年の講経にあたっては、行信が皇后宮の長官であった安宿倍真人らを率い、律師の道慈に『法華経』の講義をさせていますが、その講経を仕切ったとされる安宿倍真人は、光明皇后の若い頃から仕えていた股肱の臣であるため、高田氏は、これらの事業は実際には光明皇后が支援したものと見ます。

 講経の際に光明皇后とともに無漏女王も奉納していますが、無漏女王は橘三千代の娘であって房前の正室ですので、やがて立太子して天皇となる予定の阿倍内親王を表に立てての一門総出の事業だったわけですね。

 このように、太子の忌日に上宮王院の建設予定地において太子供養のための『法華経』講経がなされたのです。ただ、『東院縁起』によれば、この講会だけでなく、上宮王院そのものが一時期荒廃したと記されています。そのため、平安時代に入って貞観元年(859)に道詮によって上宮王院の堂舎が修理され、忌日法要が整備されたわけです。

 以後のあり方としては、南北朝頃の『法隆寺白拍子記』によれば、音楽の法要に続いて、『法華経』『涅槃経』『維摩経』『勝鬘経』の「妙文」が読誦され、報恩の儀礼がなされた由。

 高田氏は注記していませんが、『涅槃経』とあるのは、『法王帝説』に上宮王が『涅槃経』に通じていたと書かれていたことに関係するのでしょう。実際には、三経義疏作者は長大な『涅槃経』はきちんと読んでおらず、『法華経』や『勝鬘経』などの注釈に引かれている経文を読んだだけと思われます。

 ここから後が、この論文の中心なのですが、以後は簡単に。冒頭で述べたように、法隆寺の経尋が法隆寺の東室の南三坊を改めて聖霊院にします。聖霊院には太子の御影を安置するだけでなく、保安2年(1121)に山背大兄と殖栗王、卒末呂王の三人の像も移します。

 ただ、聖霊院が現在の姿になったのは、鎌倉時代になってからであり、鈴木嘉吉氏が指摘するように、弘安7年(1284)に建物を全面的に建て直してからのことです。そこには、太子が35歳の時に自ら描いたとする肖像画と称する画が安置され、太子の霊場として整備されてゆきます。

 江戸期に編纂された『庁中漫録』では、聖霊院について、太子が自ら三面の鏡を用いて、自らの摂政姿の像を造ったのであって、その時に用いた鏡と小刀が宝蔵に安置されていると述べたうえ、しかも太子像の体内に蓬莱山を造り、太子の胸のあたりに、インド原産の金を使って造った五寸ほどの救世観世音菩薩像を納め、『法華経』『維摩経』『勝鬘経』の三経も納めたと説くなど、伝説化が進んでいます。

 高田氏は、これらは聖霊院における太子信仰は、太子は救世観世音菩薩の化身であって三教によってこの世を濟度するというものであり、上宮王院との差別化をはかったものと推測します。

 このように、太子信仰は古代かから一貫しているものの、その内実と支持者は時代によって移り変わっているのであり、その点に注意しないといけないのです。


救世観音像は聖徳太子の生前に斑鳩宮の夢堂に安置されて礼拝されていたか:金子啓明「日本古代における秘儀と彫像」

2024年06月30日 | 論文・研究書紹介

 法隆寺については、実に様々なものが論争となってきました。こんなに論争になるのは、法隆寺には日本最初であって比較する相手がないものが多く、いつ頃のものなのか年代を定めにくい、という点が大きいでしょう。

 そうした論争の一つが、前回の記事で触れた東院伽藍の夢殿の本尊、つまり、日本最初の木彫とされる救世観音像をめぐる論争です。これについて論じた最近の論文が、

金子啓明「日本古代における秘儀と彫像―法隆寺夢殿救世観音像について―」
(『芸術学』第25号、2022年3月)

です。金子氏は仏、東京国立博物館の彫刻室長などを務めた後、慶応大学文学部教授や奈良の興福寺国宝館館長などを歴任した像彫刻史の研究者です。このブログでは、以前、釈迦三尊像に関する論文を紹介しました(こちら)。

 金子氏は、救世観音像は大きな鼻も異様であり、不気味な生々しさをそなえており、眼は前方の礼拝者へのまなざしを持っているという指摘から始めます。

 そして、両手で捧げている摩尼宝珠について意味を説明します(私は以前、初期禅宗史における摩尼宝珠について論文を書いたことを思い出しました。最近は、自分で何を書いたか忘れていることが多い……)。

 救世観音像は、180センチもの長身でありながら脚部は重量感が希薄であって、逆に上に浮かび上がるような印象があり、また下半身の衣が横に広がっているため、前に向かってくるような感じがあるうえ、全身だけでなく台座も頭光も金箔であって光輝いているため、その印象が強められています。金子氏はこうした像を前にして礼拝するのは誰なのかと問いかけます。

 このようにこの像は工夫がこらされているものの、眼の作りはアーモンド形に成形された金堂の釈迦如来像よりも飛鳥寺の釈迦像の眼に近いため、金子氏はこの像の制作時期はその中間頃と推測します。そして、金色を強く意識している点で、小型の金銅仏を参考にしたと思われると説きます。

 となると、聖徳太子の没後すぐに建立された釈迦如来像以前の作ということになりますが、『法隆寺東院縁起』では、この像は太子の在世中に造立された等身の像と記していました。

 また、焼き討ちされた斑鳩宮からは若草伽藍から出た瓦よりひと回り小さい飛鳥時代の瓦が出ていることから、斑鳩宮には仏堂があったことが推定されていますので、金子氏はそこに安置され、太子が個人的に礼拝していたと見ます。

 現在の夢殿の古代の正式な名称は上宮王院ですが、鑑真の弟子である思託が書いた『上宮皇太子菩薩伝』では、太子が禅定のために一日、三日、五日と建物に籠もると、世間の人は禅定を知らないため、「太子、夢堂に入る」と言ったとあるため、8世紀後半にはそうした呼び方がなされており、それ以前から夢に関する何らかの伝承があったことが推察されると説くのです。

 古代には夢見の儀礼があり、崇神天皇紀には、沐浴斎戒して殿のうちに「神床」をしつらえ、そこで疫病の流行を鎮めるよう祈ると、大物主大神が夢に現れて託宣したとあります。金子氏は、太子はこれを救世観音像を前にしておこなったのではないかと説きます。

 さて、どうでしょう。材質の年代調査などをしないと確定はむつかしいでしょうが、仏像を見る場合、誰がどのような目的で造立し、誰によってどのような目的で礼拝されたかを考えることは確かに必要ですね。


法隆寺聖霊会は元々は『法華経』講経が中心で梅原猛が騒いだ蘇莫者など登場しない:高田良法「法隆寺聖霊会成立について」

2024年06月25日 | 聖徳太子信仰の歴史

 梅原猛が、法隆寺は怨霊となった聖徳太子のための鎮魂の寺だとするトンデモ説を発表したのは、法隆寺の聖霊会で、異様な出で立ちで荒ぶるような蘇莫者の舞楽を見、「太子の怨霊だ!」とひらめいたことがきっかけでした(こちら)。ひらめき大先生ですね。

 しかし、法隆寺における聖徳太子の忌日法要である聖霊会は、もともとは『法華経』講経が中心であって、舞楽などはおこなっていませんでした。その聖霊会について論じた最近の論文が、

高田良法「法隆寺聖霊会成立について」
(『奈良美術研究』第23号、2022年3月)

です。

 名前から推察できますが、法隆寺の管長もつとめ、法隆寺の歴史研究で知られた高田良信師のご養子である由。『奈良美術研究』は、奈良をこよなく愛した会津八一が育てた早稲田大学の美術史の研究者たちで構成されている奈良文化研究所の雑誌です。

 私は八一が好きだったので、大学時代は、八一の弟子である書道史の加藤諄先生の授業に出て、八一の思い出を聞きました。私が駒澤大学仏教学部に在職していた時に社会人入学で入ってきて、私の授業に2年間、最前列で無遅刻無欠席で出席していた萩本欽一さんが退学した際は、独自の書風で知られた八一の「游於藝(芸に遊ぶ)」という字が記されたバッグに八一の図録を入れて贈ったりしたことでした。

 それはともかく、高田氏は、現在の法隆寺の聖霊会は、東院伽藍の夢殿前から行列が出発し、西院伽藍の大講堂前まで練り歩き、そこで法会を開催することになっているのは、元禄4年(1691)に始まると述べます。しかし、聖霊会は、元々は夢殿を中心とする上宮王院(東院)で太子の忌日法要として行われていたのであって、南都楽所が出仕して舞楽や雅楽を奏するのは後代になっての型式なのです。

 その上宮王院が成立したのは、『法隆寺東院縁起』によれば、天平7年(735)の12月20日に、春宮坊(皇太子を担当する役所、実質的には皇太子)が聖徳太子および現在の天皇のために『法華経』講読の施料を寄進し、翌年の2月22日、つまり太子の忌日に法師の行信が、皇后宮職の長官、安宿部真人らを率い、道慈律師を講師に迎え、多くの僧尼を聴衆として『法華経』講経をおこなったのが起源です。

 この記述については、阿倍内親王(後の孝謙天皇)が皇太子になる前であるのに春宮坊とあるのはおかしいなどの疑義が出されていましたが、反論も出されており、高田氏は、実質としては、光明皇后が娘の阿倍内親王を表に立て、若い頃からの自分の側近である安宿部真人に指示して取り仕切らせたものと見ます。

 開催された場所については、近藤有宜氏が、資材帳などの記述から見て、天平8年の講会の際の寄進は法隆寺に、翌年の寄進は上宮王院になされていることを指摘しているため、天平は8年は法隆寺で、翌年は造営された上宮王院でもよおされたと高田氏は推測します。

 実際、『東院縁起』によれば、天平19年(743)に摂津の住吉郡と加古郡の墾田が上宮王院に施入されており、『東院資材帳』にもこれに対応する記述があるため、これらは『法華経』講会のための資財として寄進されたことが分かります。

 ただ、この『法華経』講会はやがて廃絶したようで、『東院縁起』によれば、貞観元年(859)に道詮が朝廷に働きかけ、平群郡の水田七町が講会および堂舎の修理のために施入され、講会が復活しています。

 この講会が「聖霊会」と呼ばれるようになった初出は、『法隆寺別当記』によれば、興福寺の僧であって承保2年(1075)から完治8年(1094)に亡くなるまで法隆寺別当を務めた能算の時です。この能算は後冷泉天皇・白河天皇などに祈祷などで奉仕した人物で、その褒賞として法隆寺別当となったようです。

 この能算が聖霊会を2度おこなっており、寺僧たちの反発を買ったようです。次の二代の別当の時はおこなわれておらず、その次の興福寺僧の定真が別当になっていた時期の記述に、「聖霊会料ならびに舞装束六具」が朝廷から下されたとある由。つまり、行信の頃の『法華経』講会とは異なってきたのです。

 その少し後に、経尋が法隆寺とは別組織だった上宮王院を法隆寺の管轄下に置き、また法隆寺西院伽藍に聖霊堂を建立し、聖徳太子信仰・法要の主導権を握るのですが、これについては高田氏が別の論文で扱ってますので、別に紹介します。


天皇は和語の漢字表記であって「スメラミコト」などの「スメ」は大化前代から:馬梓豪「日本律令時代初期における君主号と天皇号の性格」

2024年06月22日 | 論文・研究書紹介

 先に「天寿国繍帳」の絵柄について検討した論文を紹介しました。その「天寿国繍帳」で最も問題になるのは、銘文に「天皇」という語が見えることでした。このため、「天寿国繍帳」の成立時期をめぐって論争が続いてきたわけですが、その天皇の語について興味深い考察をしたのが、

馬梓豪「日本律令時代初期における君主号と天皇号の性格」
(『日中文化学報』第1号、2020年)

です。

 馬梓豪氏については、前にも論文を紹介しました(こちら)。今回は、日本人研究者が「天皇」という語に注意しすぎていて、他の称号について十分注意していないとし、他の称号について詳しく検討した論文であって、面白い結論を導きだしています。視点が斬新ですね。

 馬氏はまず、天皇号の研究史を概説し、推古朝説から天武天皇時代説へと移り、ついで天智天皇時に既にあったとする説が有力となり、最近では、新たな推古朝説も出てきていると説きます。

 そして、基本となる『養老令』の規定から見てゆきます。ここでは、「天子。祭祀に称する所。天皇。詔書に称する所。皇帝。華夷に称する所。陛下。上表に称する所。太上天皇。譲位の帝に称する所。乗輿。服御に称する所。車駕。行幸に称する所」と規定されています。このうち、陛下・乗輿・車駕は正式な称号ではなく、場合による敬称・美称に近いものです。

 次に、日本の律令の手本となった唐の律令は失われていますが、『唐令拾遺』に見える対応部分は、こうなっています。「皇帝・天子。華夷之を通称す。陛下。咫尺に対揚す。上表之を通称す。至尊。臣下内外之を通称す。乗輿。服御に称する所。車駕。行幸に称する所」。まさに、そのままであって、ちょっと違うだけですね。

 一方、『養老令』の官撰の注釈であって9世紀初めに成立した『令義解』では、「天子」の部分について、「謂ふ、神祇に告ぐるには天子と称す。凡そ天子より車駕に至り、皆な書記に用ふる所。風俗に称する所にいたり、別に文字に依らず。たとひ、皇御孫命(すめみまのみこと)及び須明楽美御徳(すめらみこと)の類なり」とあります。訓は古い形です。

 また、9世紀中頃に成立した私撰の注釈である『令集解』でも同じような説明がなされています。つまり、「天子」や「天皇」などは文書に書く際に用いるものであって、口頭の場合は、「スメミマノミコト」とか「スメラミコト」と呼ぶのであって、漢字に依らないとするのであり、これを文書にする場合はいろいろな漢字表記がなされた、ということです。

 ただ、『唐丞相曲江張先生文集』巻11の「勅日本国王書」では聖武天皇のことを「日本国王 主明楽美御徳」と呼んでいますし、『続日本紀』にもこの類の呼び方がかなり見えています。

 そこで、馬氏は、『養老令』の規定は建て前であって、実際には内政や外交の場でも「スメラミコト」を自称・他称として使う傾向があり、「スメミマノミコト」は『延喜式』の祝詞によく見えるため、祭祀にあたって使う傾向があったと推測します。

 馬氏は、唐令では皇帝を天子より先に置いたのに対し、日本では天子号を優先させ、祭祀に用いるとしていることから見て、日本の「天子」号は唐とは異なる概念に基づくものと見ます。つまり、日本の天子号と、唐令には見えない「太上天皇」号は、日本独自のものとするのです。

 そして、『養老令』の「公式令詔書式条」によると、「(一)明神と御宇らす日本の天皇が詔旨らまと云ふ。咸く聞きたまへ。(二)明神と御宇らす天皇が詔……(三)明神と御大八州らす天皇が詔……(四)天皇が詔……」とあり、冒頭に置かれていて「明神御宇日本天皇」こそが最も荘重であり、「天皇」だけの場合は簡単な呼び方ということになります。

 馬氏はさらに様々な例を検討し、「天皇」というのは、日本独自の君主号の呼び方のうちの書記用の一つにすぎなかったと説きます。そして「スメ~」という語の重要性を強調し、上代文献における「皇」の字に関する白藤禮幸氏の研究では、「皇」は「王」の字の増画であって、「天皇」は日本的な漢語であったとしていることを紹介します。

 白藤氏の研究とは、「上代文字研究 各論(一)―「皇」をめぐって―」(万葉七曜会編『論集 上代文学』第一六冊、1988年)であって古いものですが、重要でありながら最近はあまり引用されていないため、このブログでも紹介したいですね。

 馬氏は、「王」の語は単独で用いられることが多いのに対し、「皇」の語は熟語で用いられる例が多く、その半分が「天皇」のような日本的漢語であるとする白藤氏の指摘に注目し、『日本書紀』では「吉備嶋皇祖母命(すめみおやのみこと)」などの用例から見て、「スメ(皇)」を含む語の成立は大化前代までさかのぼりうるとします。

 そして、「スメラミコト」は「天皇」以外の表記が多く見られることからすると、天皇号の本質は「スメラミコト」のように「スメ」をつけた語、それも書記用でない「風俗用語」にあると説きます。「風俗」とは、それぞれの土地の習慣を指す漢語であって、ここでは当時の日本のしゃべり言葉のことです。「天皇」という称号は、そうした言葉の漢字表記の一つにすぎなかったと見るのです。

 馬氏は、さらに「明神」という言葉について検討していきますが、これについては簡単に紹介するにとどめます。馬氏は、天孫神話では、天皇だけでなく他の氏族も天の神の子孫とされていたが、古代の日本では見えない存在であった「神」が、天皇が「アキツカミ」とされることにより、現実にいる神として位置づけられ、別格の存在とされたと説きます。

 つまり、「明神」とされた「天皇」は、氏族制時代の呪術的な観念を受け継ぎながら、飛躍的な神格化を達成したのであり、7世紀後半から8世紀初めにかけて成立した律令は、氏族制頃の観念と唐に学んだ律令制の両面をそなえた「過渡期的な性格があった」と結論づけるのです。

 前に触れた森田悌氏が、「天皇(てんのう)」は呉音で発音されているため、「皇后・皇太子」のように「皇」を「コウ」と漢音で発音する律令以前の成立とした際、スメラミコトを須弥山(スメール)に依るものとしたのは無理そうですが(こちら)、「スメ」の概念を重視し、「すめらみこと」としての「天皇」の語の成立は早いとするのは大事な点ですね。

 「天寿国繍帳」銘同様、律令で定められたはずの「天皇」の語が用いられているという理由で、推古天皇を「大王天皇」と呼ぶ薬師像銘も「法王大王」と記された「湯岡碑文」も後代の作と疑われてきました。しかし、竹内理三「”大王天皇”考」(『日本歴史』第51号、1952年8月)は、薬師像自体は後代の作であるにしても、「大王天皇」などという妙な呼び方をしていることこそが「天皇」の語の成立事情を示すものであるとし、推古朝の呼び方である証拠としていたことが、卓見として思い起こされますね。


カテゴリー名を変更

2024年06月20日 | このブログに関するお知らせ

 このブログでは、聖徳太子はいなかった説やトンデモ説を批判してきました。そうしたデタラメ説のうち、国家主義的な主張が目立つ主張を紹介して批判するために、「国家主義的な日本礼賛者による強引な聖徳太子論」というコーナーを新設したのですが、戦前を思わせる国家主義的な主張を強く打ち出さないものの、あるいは自分では自覚していないものの、中身は似たような議論をしている例が目立つようになってきたため、コーナー名を、

史実を無視した日本の伝統・国体(国柄)礼賛者による聖徳太子論

と変更することにしました。

 「国柄」という補足を入れたのは、戦前・戦中に猛威を振るった「国体」の語の言い換えにすぎない「国柄」の語を用いたり、用いていなくても、史実と異なることを古代以来の日本の伝統だと主張し、実質上、そうした議論をしている本や論文を含むようにするためです。

 「太子礼賛派による虚構説批判の問題点」コーナーでとりあげた論文は、今回新設したコーナーに入るべきものでですが、このコーナーは残しておきます。

 誤解されないように書いておきますが、私は日本の文学・芸能に関する論文を多数書いていることが示すように、日本の文化は大好きですし、自然な形で保たれてきた本当の伝統は尊重しています。ただ、史実を無視した形で「日本の伝統」なるものを声高に語り、誇る傾向は、自分では善意のつもりでも、危険な働きをする可能性がありますので、このコーナーで警告することにした次第です。


天寿国繍帳の神仙思想的な月像に見える古代韓国の影響:徐玉茜「天寿国繍帳と三国時代の韓半島」

2024年06月18日 | 論文・研究書紹介

 後代の作とする説もある「天寿国繍帳」の銘文は、亀の甲羅の柄に4文字づつ刺繍していっており、全部で400字となっています。前半は太子の妃である橘大郎女が、太子と自分はともに欽明天皇と蘇我稻目の娘の血を引いていることを誇る系譜です。

 ですから、残りの200字のうちに、太子の母と太子自身が亡くなったこと、橘大郎女の悲嘆ぶり、太子が往生したところが見たいという橘大郎女の願い、橘大郎女の祖母である推古天皇が気の毒に思って宮女たちに命じてこの繍帳を刺繍させたことを盛り込まねばならないため、1字でも無駄にしたくないはずです。

 しかし、銘文の末尾では、「画者東漢末賢 高麗加西溢 又漢奴加己利 令者椋部秦久麻 (画ける者は東漢末賢[やまとのあやのまけん]、高麗加世溢[こまのかせい]、又た漢奴加己利[あやのぬかこり]、令せる者は椋部秦久麻[くらべのはたのくま]なり)」となっており、作成した工人たちの名がずらずらと記されています。しかも、釈迦三尊像銘に一人だけ記された鞍作止利のような有名な人物はいません。

 聖徳太子が我々の寺にこれこれの土地を寄進したとか、太子が私の先祖を〇〇の役職に任命した、といったような文書なら、紙一枚書いて古く見せかければ良いだけです。実際、後代にそうした文書がたくさん偽作されていますが、手間暇掛けてこんな字数の無駄をした銘文を刺繍した豪華な偽物を作るはずがないと考えるのが普通でしょう。

 しかも、絵柄は漫画のようであって稚拙です。これに対して、繍仏などに見られる奈良時代の刺繍は、きわめて精緻であって見事な美術工芸品となっています。かの大山誠一氏は、兄弟たちが次々に疫病で倒れたため、太子に救いを求めようとした光明皇后が、橘大郎女という若い女性の姿を借りて自分の思いを託し、この繍帳を作らせたなどと、古代小説のような妄想をしていました。

 私が光明皇后なら、「私が作らせたなら、こんな稚拙な絵柄の刺繍はさせない!」と怒って名誉毀損で訴えたいところです。太子への思慕が強すぎると、その思いを銘文に盛り込んだりせず、工人たちの名前をずらずら並べて字数を使ってしまいたくなるんでしょうかね。

 それなのに後代作説がかなり盛んでした。古い要素があることも確かなので、東野治之氏などは、原型が推古朝にあったことを認めたうえで、現在の銘文には新しい表現と考えられる部分があるため、天武天皇の頃に文言を訂正して模作したと推定しています。これは真作説と偽作説の中間説ですね。

 その「天寿国繍帳」について、神仙思想的な絵柄の面から、中国→韓国→日本という流れを追った最新の論文が、

徐玉茜「天寿国繍帳と三国時代の韓半島―渡来系工人と日月像を中心に―」
(『奈良學研究』第26号、2024年2月)

です。徐氏は帝塚山大学大学院の博士課程に在学中であって、この論文は修士論文に基づく由。

 「天寿国繍帳」は現在は断片しか残っておらず、その銘文を記録した文献がいくつかあるだけですが、工人たちの名前は同じです。東漢末賢・高麗加西溢・漢奴加己利・椋部秦久麻ですので、秦氏、東漢氏、高麗氏、漢氏であって、すべて渡来系なのです。徐氏は最後の「令者」、つまり監督者については、繍帳の断片のうち、亀の甲羅部分がのこっている箇所に「利 令 者 椋」とあって、記録通りであることに注意します。

 徐氏は、蘇我氏は百済・伽耶の出身であるため、父母とも蘇我氏の血を引く太子は百済・伽耶系とする門脇禎二説を引きますが、蘇我氏の出自については明確な証拠がなく、諸説乱立の状況である以上、これで決まりといった引用の仕方は避けるべきですね。あと、蘇我氏は東漢氏を合併したと述べていますが、配下に置いたと記すべきでしょう。

 徐氏は、制作者として名があげられているのは、すべて渡来系である点を改めて強調したうえで、高句麗の影響もあると指摘した吉川敏子「天寿国繍帳制作の一背景」(『文化財学報』31号、2013年)をあげます。この論文については、このブログで以前紹介したことがあります(こちら)。

 さらに、大橋一章・谷口雅一『隠された聖徳太子―復元・幻の天寿国』(日本放送協会、2002年)のうち、谷口氏が、百済の故地にある韓国の国立扶余博物館館長の徐五善氏に「天寿国繍帳」を見せたところ、鐘堂の部分が百済山水山景文塼に描かれた建物に似ていること、繍帳の鳳凰の図が扶余陵山里寺院跡出土の百済金銅大香炉の頂上の鳳凰と似ていること、また、百済武寧王陵から出土した王妃の枕に描かれた鳳凰と似ていると指摘されたことを紹介します。

 谷口氏自身、王妃の枕に描かれた変化生(へんげしょう:奇跡として空中などにポンと生まれること)に似ていることを指摘しています。

 以上が前置きであって、徐氏はこれまで注目されていない月像に注意します。月像というのは月の絵であって、繍帳では、丸の中の中央に首の長い壺が描かれ、左に大きなウサギ、右に枝と花が描かれています。

 この月像については、1949年の青木茂作『天寿国曼荼羅の研究』(鵤故郷舎出版部)が既に中国の画像石や高句麗の古墳壁画などと比較して詳しく論じてています。

 月像があれば日像もあったはずですが、現在残っている繍帳の断片には見当たりません。ただ、玉虫厨子では須弥山図のうちに日像が描かれています。この日像・月像に関する最近の研究としては、西川明彦「日像・月像の変遷」(『正倉院年報』第16王、1994年)があります。

 徐氏はこれらの研究を承け、月像の検討を始めます。まず、中国では『楚辞』「天問」に「菟、腹に在り」という句が見えます。前漢の馬王堆漢墓1号墓から発見された帛画にはウサギとヒキガエルが月の象徴として描かれていました

 西川論文は、漢代の月像の遺品については中国中央の陝西省甘泉宮で出土しているほか、北地の中国吉林省集安、そしてそれに隣接する朝鮮の平壌に集中することに注意します。この時期は、漢が朝鮮北西部に楽浪郡を置いて北部を支配していた時期です。

 中国江蘇省では、左側に不老不死の薬をキネで搗くウサギ、右側に月桂樹を描いた5世紀後半の画像磚がでており、6世紀後半の高句麗内里1号墳壁画には、丸のうちに左側に月桂樹、根元には薬瓶の下部のようなもの、右側には動物の足のようなものが見ますす。山東省にまで広がっていたのです。

 さらに時代が下ると、不死の薬の入れ物を示す瓶や月桂樹などが描かれるようになり、唐代の鏡には中央に月桂樹、左側に飛天、右側にキネをつくウサギが描かれている例も見えるようになります。

 「天寿国繍帳」はそうした形ではないので、唐代以前の古いタイプですね。しかも、中国の伝説によれば月に生えている巨木である月桂樹のはずでありながら、ひょろっと長く伸びた1本の草花のように見えるのは、唐代の鏡などの文様を見ておらず、理解できていない証拠です。「天寿国繍帳」を後代になって作ったなら、唐の様式が反映していそうなものですが。

 このように、月像図は中国→韓半島→日本へと伝わるうちに変容し、「天寿国繍帳」の月像となったのです。月でウサギが餅を搗いているということになったのは、もっと後になってからのことです。


鎌倉幕府の「御成敗式目」五十一箇条は「十七条憲法」の三倍ではない:佐藤雄基「五十一という神話 御成敗式目と十七条憲法」

2024年06月13日 | 聖徳太子信仰の歴史

 貞永元年(1232)に出された鎌倉幕府の「御成敗式目」五十一箇条という数は、聖徳太子の「憲法十七条」の17を3倍にしたものだ、というのは良く聞く話です。しかし、確実な証拠はありません。そこで、この説について検証してみたのが、

佐藤雄基「五十一という神話 御成敗式目と十七条憲法」
(『古文書研究』第95号、2023年6月)

です。

 佐藤氏は、戦前から既にそうした説がなされていたものの、「御成敗式目」成立当初にはそうしたことを述べた記録はないとし、これを言い出したのは16世紀の「御成敗式目」の注釈書、清原宣賢の『式目抄』だと指摘します。なお、佐藤氏は「十七条憲法」という言葉を使っていますので、以下、その言い方に従います。

 『式目抄』では、「十七条憲法」の十七条に天・地・ 人の三つをかけて三倍にしたのが五十一であって、これは清原家の口伝だと述べていました。しかし、佐藤氏は、『式目抄』は式目作成者の六名を六地蔵・六観音とし、式目に付された起請文に署名した13人を「十三仏」を表すとするなど、神仏に引きつけて数字を解釈する傾向が目立つとします。

 ただ、「御成敗式目」を「十七条憲法」と結びつけて解釈することは、16世紀には広がっていたそうです。そこで古い例を探すと、永仁4年(1296)に成立したとされる斎藤唯尚の注釈、『関東御式目』では、北條泰時は大賢人であるため、五十一という数字には由来があるに違いないが不明だと書いていました。

 戦後になって佐藤進一が1965年に二段階成立説を唱えると、3倍説には批判もなされるようになりました。佐藤氏は、これらの議論は、複数の条項をまとめたり削除したりすることによって五十一という数に合わせたという見方、つまり、五十一という数字に意味があるとする前提に立つものとします。

 そして、中世の武家の式目の場合、追加されていくことは珍しくないのであって、五十一という数を重視するのは十七の三倍説に縛られたものではないかと述べます。

 ただ、「五十一箇条」と呼ばれたのはなぜかと問題提起し、当時は「一、……の事」といった形の箇条書きの文書を、「〇箇条」と呼ぶのは一般的であったと指摘します。そして、「御成敗式目」は幕府の中で条目が追加されていったものの、世間に流れ、武家の「式目」として知られたのは五十一箇条のものであったことに注意します。

 そうした中で、治世者としての北條泰時の評価が高まった結果、五十一という数字には深い意味があるはずとされるようになったのであって、その動きは13世紀末には既に始まっていたと見ます。

 そして、式目注釈をなした是円が起草メンバーとなった1336年の『建武式目』は、聖徳太子の「十七條憲法」を意識して十七箇条から成っていました。また、元の「十七条憲法」についても、文永9年(1272)に法隆寺で「談義評定」を経て注釈が造られ、弘安8年(1285)には版木で印刷されるなど、注目を集めていました。

 つまり、「十七条憲法」評価と五十一条の「御成敗式目」評価の高まりは平行していたのです。その背景には、多数の条目の法があるのは世が乱れている証拠であり、十七条とか五十一条ですんだ時代は統治が素晴らしかったのだ、という認識が鎌倉後期の知識人にあったと、佐藤氏は述べます。

 「御成敗式目」の起草者の一人とされる玄恵は、「十七条憲法」の注釈の作成者とみなされていますが、その注釈には、五十一条はもとより、十七という数字に関する説明がないことに佐藤氏は注意します。玄恵の注釈に対する注釈、『聖徳太子御憲法玄恵註抄』になると、『式目抄』の説が組み込まれるようになるのです。

 以上のことから、「御成敗式目」制定時点では、「十七条憲法」の十七条を三倍にして五十一箇条にするという意識はなかったと、佐藤氏は結論づけます。まあ、そうでしょう。ですから、古典を研究する際は、その本文の研究だけでなく、研究史の研究が必要なのです。

 なお、玄恵は「憲法十七条」だけでなく、『太平記』の作者とされるほど、いろいろな文献の作者とされた大学者でした。玄恵については、中世文学会のシンポジウムに招かれた際、その特質と伝承について発表し、論文にもしてあります(こちら)。


法隆寺再建説でも非再建説でもない自説を92歳で補強:鈴木嘉吉「白鳳時代の建物は遺存するのか」

2024年06月08日 | 論文・研究書紹介
 近代日本の美術史・建築史を発展させたのは、100年以上続いた法隆寺の再建・非再建に関する大論争でした。この論争は、昭和14年(1939)12月に始められた法隆寺西院伽藍の南東部の発掘調査により、聖徳太子が創建した法隆寺=斑鳩寺(若草伽藍)は焼失したこと、それとほぼ同規模である現在の法隆寺西院伽藍は後代の造営であることが確定しました。
 
 ところが、論争はまだ続いています。というのは、西院伽藍が当初の法隆寺ではないことは確定したものの、天智天皇9年(670)に全焼した後に現在の地で建て直したにしては、金堂の様式や本尊である釈迦三尊の様式が古すぎたからです。
 
 むろん、再建に当たっては、建物にしてもそこに安置する仏像にしても、以前の様式を受け継ごうとするでしょうが、それにしても、670年以後、8世紀初め頃までに造営された他の寺院の建物や仏像と比べて古式な点が目立つのです。非再建説が提唱されたのもそのためでした。
 
 そのため、釈迦三尊像については、火事から救出されたとする説(たとえば、こちら)があるほか、現在の金堂の本尊としては小さすぎるため、他の太子関連の寺、ないし、斑鳩宮内にあった仏堂に安置されていた仏像を再建法隆寺の本尊としたのだとする説(たとえば、こちら)などが出されました。
 
 また、金堂についても、九州王朝の寺を解体して斑鳩まで運んできて建てたなどというトンデモ説はさておき、大和の他の地域から移築したとする説も出されました(こちら)。
 
 このように諸説が乱立する中で、東大の建築科出身の建築史研究者であって、奈良文化財研究所に発足時から勤務して長年、奈良の古寺の修理に携わり、最後にはその所長も務めた鈴木嘉吉氏は、昭和61年(1986)に新説として「法隆寺新再建論」を発表しました。
 
 つまり、金堂は若草伽藍の焼失前に、聖徳太子を偲ぶ堂として造営され始めていたのであって、釈迦三尊像は斑鳩宮内の仏堂に安置されていたと主張したのです。
 
 以後、法隆寺については修理にともなって研究がさらに進み、年輪調査による木材の伐採年調査の成果なども出て議論が再び活発になりました。そうした中で、鈴木氏が最後に発表したのが、

鈴木嘉吉「白鳳時代の建物は遺存するのか」
(『仏教芸術』第8号、2022年3月)

であって、鈴木氏はこの年の12月に93歳で亡くなっています。論文が出たのが3月となると、提出はその半年ほど前でしょう。つまり、この論文は生涯をかけた研究の結論となる遺作なのです。

 この論文では、法隆寺再建非再建論争をざっと振り返り、昭和の大修理では、金堂の礎石は他から転用されたものが混じっていること、また修理工事の責任者であった竹島卓一は、まず金堂だけを独立して建て、後になって五重塔などを加えて伽藍を整備することになった結果、全体の地盤を現在の状態まで掘り下げたと指摘したことに注意します。

 そして、自分はこれらの問題を説明できる説として、昭和61年(1986)に「法隆寺新再建論」を発表したと述べます。その論文は、現在の西院伽藍の金堂は、内陣が四方吹き放しの開放的な造りであり、扉が外開きであるのも異例であるうえ、釈迦三尊像などが建物の中心より前寄りに安置されていることなどから見て、金堂は、最初は若草伽藍の西北の小高い場所、つまり現在の場所に建てられた聖徳太子を偲ぶ廟堂だったと説いた、と紹介します。釈迦三尊像は、隣接する斑鳩寺の宮のうちにあったと推定されている仏堂に置かれていたと推測したのです。

 鈴木氏は、これらは状況証拠に基づく議論だったが、平成15~16年におこなった年輪年代調査によって、西院伽藍の造営年代が分かったことにより、上記の推定が「ほぼ確実になった」と述べます。

 というのは、金堂の初重(一階部分)の天井板は、内陣・外陣部分は主に667年・668年に伐採されたものでした。つまり、670年に若草伽藍が焼ける前に準備されていたのであって、火事の時には初重は既に完成していたと見るのです。

 現在の金堂初重の内陣上方で井桁型になっている天井桁の両端には、上の部分を支える柱を据える柱盤が組みめぐらされていますが、そこには別のほぞ穴が残っており、現在の上重の切妻屋根部分をその上に載せると、玉虫厨子のような一重錣葺の屋根が作れると竹島が指摘していると述べ、鈴木氏はそれに賛成します。

 つまり、金堂は初めは単層の廟堂として建てられたのであって、670年段階ではまだ瓦を葺くには至っていなかったと見るのです。寺では、どの場合でも瓦は最後に葺かれ、それまでは木の板で覆われます。

 記録によれば、火災の後、しばらく寺地が定まらず、一部の僧侶や役人が他の寺に移ったとされていますが、鈴木氏は、これを、元の若草伽藍の地に建て直そうとした派と、初重まで造られていた現在の地の廟堂を中心として伽藍を整備しようとした派の対立を示すものと見ます。

 結局、この廟堂を中心にして再整備することに決まり、廟堂の周囲を堀り下げて伽藍の地を造成した結果、廟堂の基壇はそれまでの倍の高さの二重基壇となり、それまで一重だった廟堂の上に、当時の寺院の型式に合わせて二重目を載せて伽藍の中心となる金堂とした、と鈴木氏は推測します。

 そして、若草伽藍では中門、金堂、五重塔は南北に並んでいたものの、再建法隆寺では、最初の勅願寺となった舒明天皇の百済大寺にならい、塔は金堂の西に並べることにし、当時は地上に心礎を据えるのが普通になっていたものの、飛鳥寺や若草伽藍と同様に、地中深くに心礎を据える古い型式で塔を造営したと見ます。

 塔の二重目の西北隅肘木の年輪年代は673年であって、伐採は塔の建立年代に近いと考えられるため、670年代の後半には塔の建立も始まったものの、大化4年(648)以来与えられていた食封300戸が天武8年(679)に停止されたたため、塔の工事は中断されたと見ます。塔の心柱に風触の跡が見られるのはそのためとするのです。

 この工事が再開されたのは、持統7年(693)に法隆寺を含めた諸自院で行わせた仁王会であったと鈴木氏は推測します。『法隆寺伽藍并流記資材帳』ではこの時、持統天皇から紫の(天)盖、経台、帳などが施入されたとしており、これまではこの記事によって、少なくとも金堂はこの時期には再建されていた、と見られていました。

 鈴木氏は、平成16年の天蓋修理の際、中の間と西の間の仏像の上の重厚な金属製の箱形天蓋をつるす金具は当初のものと判定されたものの、東の間に安置された薬師如来像の頭の上に現在は使われていない吊金具、それも軽量のもの用の金具を後から付けてあることが発見されたことに注目します。

 というのは、『資材帳』で持統天皇が施入した天蓋は「紫」と記されているのは、当時流行していた軽い布製の天蓋であったことを示すのであり、それが薬師像の上に設置されたのは、薬師像の光背銘が朝廷から認められたことを示す、と鈴木氏は説きます。

 そして、これをきっかけにして伽藍整備が進み、聖徳太子を敬慕する近隣の者たちの助成もなされたと推定します。中門は大斗の年輪から700年頃から着工されたようです。

 鈴木氏は、薬師像銘については有名であるためか、内容に触れていませんが、この銘は病状が重くなった「池辺大宮治天下天皇(用明天皇)」が、「大王天皇」と「太子」に造寺造像を命じたものの、亡くなったため、「小治田大宮治天下大王天皇(推古天皇)及び東宮聖王」が遺命にしたがって建立した、と述べており、「天皇」の語が見えるため後代の偽作とされてきたものです。

 しかし、竹内理三は、「大王天皇」などと呼んでいるのは律令以前の表現である証拠としていました。今回の鈴木氏の遺作論文により、そのことが立証されることになりましたね。

 むろん、薬師像は釈迦三尊像より後の時期の作ですし、像よりさらに遅れるであろう光背銘の内容は事実ではありませんが、法隆寺を復興させようとした者たちがこれまで推測されていた7世紀後半よりも早い時期、少なくとも律令が制定される前に作成した可能性が高いということになるのです。

 鈴木氏は、ここでは紹介しませんが、法隆寺の次に、白鳳建築ないしそれに近いものとして伊勢神宮と薬師寺東西塔について検討しています。92歳だったのですから、その学問的な努力に頭が下がります。

 なお、鈴木氏については、氏に鍛えられた建築史学者の藤井恵介が、『仏教芸術』第10号(2023年3月)に「鈴木嘉吉先生を偲ぶ」という追悼文を寄せています。


逆臣の守屋が地蔵菩薩や熊野権現へと変化:伊藤純「聖徳太子と物部守屋」

2024年06月03日 | 聖徳太子信仰の歴史

  『日本書紀』の守屋合戦記事では、厩戸皇子が四天王に誓願したからこそ勝利したように描かれていますが、それ以外の部分では、名前も他の皇子たちの後に記され、少年の身であって軍勢の最後につき従っていたと書かれています。

 それが実状でしょう。ところが、後代の太子伝になると、厩戸皇子自身が先陣をきって勇ましく戦ったように描かれるようになります。中には太子自身が守屋を討ち取ったとする太子伝も登場しますが、そこで問題になるのは、仏教を広めた太子が「殺生」をするのはいかがなものか、という問題です。

 この問題を解決するため、守屋が仏教導入に反対したのは、仏教を広めるためにわざとやったのであって、守屋は『法華経』の言葉を唱えながら亡くなった、と説く太子伝も造られました。

 そうした筋を、煩悩の元である無明と、真理のあり方である「法性(ほっしょう)」の戦いとして展開した『無明法性合戦物語(合戦状)』なども中世には書かれています。

 これは、前にこのブログで書いたように(こちら)、四天王寺周辺には守屋側の人間であって四天王寺に属させられた者たちがかなりいたことも関係しているかもしれません。そうした人たちは、守屋を弁護したいでしょう。

 それとは作成グループが異なるかもしれませんが、とにかく守屋を弁護しようとした試みの一つを扱ったのが、

伊藤純「聖徳太子と物部守屋―逆臣守屋から地蔵菩薩守屋へ」
(『日本文化研究』第55号、2024年3月)

です。伊藤氏については、これまでも聖徳太子の有名な肖像画、「唐本御影」は、近世には秘蔵されていなかったことを明らかにした論文などを紹介したことがあります(こちら)。

 伊藤氏はまず、『日本書紀』では跡見首赤梼が樹に登って矢を射ていた守屋を射おとして守屋とその子などを「誅」したとあって、罪ある者を殺す「誅」の語を用いていることが示すように、守屋を逆臣として描いていることに注意します。

 ところが、平安初期の『上宮聖徳太子伝補闕記』になると、太子が誓って矢を放つと守屋の胸にあたり、守屋が樹から落ちたところを、「川勝」がその頭を斬った、となっています。

 ところが、『聖徳太子伝暦』になると、太子は「守屋は生まれ代わるたびに仏教を破壊する族であった」が述べたとしつつ、仏法を興す時もつき従っており、「影と響きの如し」とします。

 それが、嘉禄3年(1227)頃の四天王寺系『太子伝古今目録抄』となると、「権者は仮に悪人を示し、衆生を化す」とあって、守屋はわざと悪人の姿を示して仏法を興隆させたとされており、四天王の一体を毎日供養するのは、「守屋の菩提の為なり」と述べており、仏法流布の仲間扱いとなってます。

 以上は四天王寺系の文献でしたが、延応元年(1239)頃の法隆寺系の『古今目録抄』でも、「太子守屋共に大権菩薩。仏法を弘めんと為し、此の如く示現す」と説くにいたっているとします(「弘めんが為に」ですね)。

 なお、守屋のイメージがこのように変化したことは、先行研究、特に松本眞輔さんの『聖徳太子伝と合戦譚』(新典社、2007年)でまとめてろんじられています。

 さて、以後も太子と守屋のイメージは代わっていきますが、応安5年(1372)の『顕真得業口決抄』では、馬子が与えた太刀で川勝が守屋の首を切ったとし、「或る説に云う」として、「守屋は地蔵の化身」と述べ、仏教が無い世界に仏教を弘めるためにその身を現わしたとしています。

 この頃から、守屋と太子の合戦は法性と無明の仮の戦だとする文保本『聖徳太子伝記』の言説が広まっていきます。

 太子信仰は地方へも広まっていきますが、応永34年(1427)頃の『善光寺縁起』では、四天王寺の北東の柱を彫って守屋の首を納め、今に至るまで「守屋柱」と名づけていると説きます。これは四天王寺の話のはずでsが、善光寺本堂には現在も「守屋柱」と呼ばれる柱がある由。

 このように、守屋は菩薩扱いされることもあったものの、寛政10年(1798)の『摂津名所図会』では、四天王寺の太子堂の後ろい守屋祠があるが、三啓客が憎んで石をなげて壊すため、寺の僧が「熊野権現」と表記した由。祭ってるのは、守屋と弓削子連、中臣勝海という排仏トリオだそうで、現在でも中心伽藍の東の境内地に「守屋祠」があると伊藤氏は述べます。上記の善光寺の守屋柱やこの四天王寺の守屋祠などは、写真が示されているのが良い点です。

 なお、伊藤氏のこの論文では、注がなく、末尾に「参考文献」として先行研究をあげおり、松本さんの論文と本も記されていますが、これではどこまでが知られていることで、どこが伊藤氏の新しい指摘か分かりません。一般向けの本の書き方ですね。近世に関してはこれまでにない報告がいくつもなされているものの、論文としては感心できません。

 「おわりに」では、『広文庫』が引く篤胤の『出定笑語』によれば、赤穂の越の浦に大酒の杜と称する守屋の祠があるとしており、通常では秦河勝を祭神としている大避(大酒)神社に守屋が結びつけられていることが報告されています。こうした近世の状況を報告している点が、この論文の意義ですね。


蘇我馬子が入手した弥勒石像は固くて光沢のある蝋石製か:山﨑雅稔「敏達紀の「弥勒石像」と朝鮮三国の弥勒信仰」

2024年05月29日 | 論文・研究書紹介

 前回、須弥山石を取り上げましたので、それに続いて石像に関する論文を紹介しましょう。

山﨑雅稔「敏達紀の「弥勒石像」と朝鮮三国の弥勒信仰」
(『国学院雑誌』第121巻第11号、2020年)

です。

 中宮寺や広隆寺の半跏思惟像は最初期の仏像として有名であり、弥勒像と見るのが一般的です。しかし、山﨑氏は、インドや中国では弥勒像を半跏思惟の形で示した明確な例がなく、美術史では擬議が提示されていると述べます。

 そして、奈良時代には弥勒信仰に関する記述がある史資料が少なからずあるのに、その奈良時代の初期の養老4年(720)に完成した『日本書紀』は弥勒にほとんど触れておらず、例外は、敏達天皇13年(584)に見える記事であって、百済からもたらされた「弥勒石像」を蘇我馬子が所有したいうものです。そこで、山﨑氏はこの点について検討します。

 氏はまず弥勒菩薩の説明から始めます。弥勒は釈迦とともに修行したとされ、現在は兜率天にいて、現在仏である釈迦の次に仏となることになっている菩薩であって、未来の仏とされており、釈迦の入滅から56億7千万年後に人間世界に下生し、龍華樹の下で3度説法し(龍華三会と呼びます)、釈尊の救済から漏れた人々を救うとされています。ですから、弥勒の像は、菩薩の姿か悟った後の仏の姿で示されます。

 こうした弥勒に対する信仰は二種類であって、一つは未来世において弥勒が下生した際、その龍華三会に値遇したいと願うもの、もう一つは、現世で死んだら弥勒のいる兜率天に昇り、弥勒が下生する際にともに下生して三会に値遇したいと願うものです。前者が下生信仰、後者が上生信仰であって、インドでまず下生信仰が生まれ、後に上昇信仰が成立したものの、東の端の日本にはこの二つが一緒に伝えられたようで、むしろ上生信仰が盛んであったとされています。

 さて、問題の『日本書紀』敏達天皇13年(583)9月条では、百済から鹿深臣が弥勒石像一躯をもたらし、佐伯連が仏像一躯をもたらし、続く是歳条では、馬子がそれを請い受け、鞍部村主司馬達等・池辺直氷田に命じて行者を探させ、播磨で還俗した高(句)麗の恵便を見つけて師とし、司馬達等の娘の嶋を尼とし……、仏殿を宅の東に造って弥勒石像を安置して、というお馴染みの記述となっており、「仏法の初め」と記されています。

 そして、敏達天皇14年(584)には、馬子が病み、理由を占わせると父の稻目の時に祭った「仏神之心」が祟ったのが原因だと言われ、天皇に言上したところ、父の神を祭れと命じられたため、勅に従って「石像を礼拝い、寿命を延ばすことを乞う」たとあります。『元興寺縁起』では、甲賀臣が百済から「石の弥勒菩薩像」をもたらしたとあり、菩薩の姿であったとする点に山﨑氏は注意しています。「甲賀」は「鹿深」です。

 問題は、馬子が弥勒菩薩像に延命を祈って礼拝したことです。これはいろいろ議論のある野中寺の金銅造半跏思惟像の台座の銘文に、中宮天皇が病気になった時に知識たちが誓願して造った弥勒の象だとあることです。馬子の場合と同様、延命が主であって、上生・下生には触れられていません。

 平安中期の史料によれば、馬子が祭った石像は本元興寺(飛鳥寺)→新元興寺→多武峯平等院に移ったとされ、後代の史料、たとえば15世紀半ばの『南都七大巡礼記』によれば、この石像は一尺ほどで日本最初の仏像とされ、百済から渡ってきた「馬瑙之弥勒像」とされ、『上宮太子拾遺記』では坐像であって「色白く、極めて固く、面貌奇麗」とされています。

 山﨑氏は、こうした記述は、韓国の扶余や公州で発見された滑石(蝋石)の仏像に似ているとします。美術史の大西修也氏の研究によれば、百済では蝋石製の仏像は6世紀中頃から末頃にかけて流行したそうですので、馬子の仏像はそれと合うことになります。

 須弥山石のような粗い石質の大きな仏像なら、百済から持ち帰るのは困難ですし、あまり有り難くなさそうですが、「蝋石 像」とか「白玉 仏像」などで画像検索してみれば分かるように、そうした貴重な材質の小ぶりな仏像なら拝む気になるでしょう。

 さて、百済があった地では、金銅・銅像・石像・摩崖像などの形で半跏思惟像が見つかっており、弥勒信仰との関わりが推定されていますが、中国の龍門石窟などでは釈迦の前身である悉達太子が半跏思惟形で表されている例があるため、弥勒とは限らない可能性があるとします。

 山﨑氏は、百済・高句麗・新羅における弥勒信仰について検討し、朝鮮三国には弥勒を半跏思惟の形で表す例が造像記から見えると指摘します。そして、弥勒像は、現世の発願者自身や結縁もののために制作される場合は、三会値遇を願うためであり、死者の供養を目的として造られる場合は死者が弥勒の浄土に往生することを願うものでした。

 また、弥勒と阿弥陀を合わせて信仰した例も複数あることに山﨑氏は注意します。ただ、辛卯年銘金銅三尊像銘では、死者のために無量寿仏(阿弥陀仏)を造り、その功徳によって残された者たちが将来、弥勒に値遇できることを願っている点から見て、浄土の区別はなされていたと見ます。

 以上のことから、山﨑氏は、馬子が入手した百済の弥勒石像は、半跏思惟像であったと推定します。そして、鹿深臣の弥勒像とは別に佐伯連の仏像が記されていることから見て、馬子は弥勒菩薩単独ではなく、阿弥陀仏ないし別な仏像と弥勒菩薩をあわせて所有し、信仰したことに『日本書紀』は意味を持たせようとしたと考えられるとします。

 ただ、高句麗や新羅などの例では、馬子や野中寺像銘のように、弥勒に祈ることによってこの世での長寿を得ようとすることは見られないとし、馬子の弥勒信仰については、インド・中国・韓国における展開、俗信との習合など、様々な面から考えなければならないと述べてしめくくっています。

 このように、『日本書紀』のちょっとした記述も、幅広い視点から検討すればいろいろなことを語ってくれることが分かりますね。また、馬子関連の仏教に関する記述は、百済などの状況を正確に反映している面と、そうでない面があることがわかります。


夷狄に服属儀礼をさせる施設でなく、文化威力を見せつける噴水か:外村中「飛鳥の須彌山石」

2024年05月24日 | 論文・研究書紹介

 以前、「スメラミコト」は推古朝において仏教との関連の中で用いられるようになった「天皇」の語の訓であって、世界の中心とされた須弥山(スメール)に基づくとする森田悌氏の説を紹介しました(こちら)。

 律令制では皇后は「こうごう」、皇太子は「こうたいし」」であって、遣唐使によって確立した当時の漢音で発音しているのに対し、「天皇」は「テンノウ」であって、「四天王(してんのう)」と同様、朝鮮経由で入ってきて仏教界で用いられた古い呉音で発音されているのは、成立が古く、仏教との関係の深さを示すという森田氏主張に私はは賛成なのですが、「スメラ」は果たして「須弥」に基づくのかどうか。

 その森田氏が、推古朝や斉明朝に建造されていたことに注目した須弥山石に関する論文が出ていますので、紹介しておきます。

外村中「飛鳥の須彌山石」
(『日本庭園学会誌』21号、2009年)

です。掲載誌を見れば分かるように、外村氏は庭園史の研究者なのですが、インドや中国の原文を読みこなす語学力があって博学であるため、関連するインド仏教の問題についても、きわめて専門的ですぐれた論文をいくつも発表しています。

 今回の論文は、日本の須彌山石(外村氏は旧字にしているため、其に従います)を扱っているものの、そうしたインド仏教に関する素養が生かされています。

 まず、明治35年(1902)に奈良の飛鳥村の石神遺跡で発見された須彌山石について、最近の古代史学界の説は、これは『日本書紀』に見える「須弥山像」であって、飛鳥の朝廷に対して地方の夷狄が服従を誓う儀礼の場に置かれ、その儀礼に用いる水と関係する噴水のできる装置、と見ているとします。そして、その儀礼は、須弥山の上の方に住む帝釈天や四天王と関連する神聖な、あるいは呪術的なものだったと見ます。

 外村氏はこれに反対し、まず、『日本書紀』に見える例を検討します。初出は、推古天皇20年(612)是歳条に、百済から来た者が「山岳の形を構えることができる」と述べたため、須彌山のカッチおよび呉橋を南庭に設けさせた、とある記事です。

 次は、斉明天皇3年(657)7月3日に、都貨邏の男二人と女四人が筑紫に漂着したため都に呼び寄せ、15日に須彌山像を飛鳥寺の西に作り、盂蘭盆会をおこない、日が暮れれから都貨邏人たちのために宴を催した、とあります。

 次は同じ斉明天皇5年(659)3月17日に、甘樫丘の東の川のほとりに須彌山を造り、陸奥と越の蝦夷のために宴を催したとあり、同6年(660)5月には、石上池のほとりに須彌山を造り、寺の塔のように高く、粛慎の47人のために宴を催したとあり、阿倍比羅夫の遠征の成果によるようです。
 
 斉明紀に記される三例については、同一物であろうとする説もありますが、石上遺跡で発見された須彌山石をそれと見る説も、推古朝の時のものと見る説もありますが、外村氏はそのどれかであった可能性はあるとします。現在残っている須彌山石は、上中下の三段でしが、中段と下段がうまくかみあわないため、本来はその間にもう一段あったと推定されています。

 服属儀礼だとする説の根拠は、敏達天皇10年(581)閏2月条に、蝦夷数千人が辺境に侵入したため、首領たちを呼び寄せたところ、彼らは恐れかしこまり、泊瀬川の中に下りて三諸山(三輪山)に向い、水をすすって今後は天皇に忠誠心をもってお仕えします、と誓ったとあることです。また、また、飛鳥寺の西は神聖で誓約がなされる箇所であり、須彌山石はその近くに造られたことがあげられます。
 
 しかし、外村氏は、須彌山像を用いて服属儀礼をおこなった記事がないと指摘します。また、盂蘭盆会は、死後に悪所に生まれて苦しんでいる父母などを救う儀礼であって、服属儀礼とは関係ありません。さらに都貨邏人の場合は、たまたま漂着したのであって、国を代表する使節ではないため、服属儀礼をさせる必要はないのです。
 
 そこで外村氏が注目するのが、隋の煬帝が塞外民族のために散楽(サーカス)を大々的に行わせていたことです。しかも、『隋書』によれば、既に梁代の段階で元旦の儀礼の中で、「長蹻伎」「跳鈴伎」「跳剣伎」「擲倒伎」などの間に「須彌山伎」が演じられています。これらの技は、明らかにサーカスのような技です。「長蹻伎」について外村氏は竹馬のようなものかとしていますが、これは綱渡りです。

 いずれにしても、煬帝が大がかりに行った散楽は、東突厥の首領を見せつけ、文化力を誇示するものでした。四方に噴水する装置である「須彌山石」はそれと同じ状況で利用されていますので、服従させるためのものという点は確かですが、誓約儀礼をさせるための装置とは考えられないと外村氏は説きます。

 外村氏は、須彌山石の模様を東大寺の蓮弁図に見える須彌山などと比較し、『倶舎論』などで説明される須彌山とは異なるとします。そして、須彌山石の実態は不明としたうえで、この装置を当時の人々が須彌山に見立てていた可能性はあると説いてしめくくっています。

 こうして見ると、須彌山石は、天皇の訓である「スメラミコト」を「須彌(山)のような尊い方」と見る森田説の強い根拠とはできないことになります。ただ、森田氏が「天皇」は対外的な称号とした点は、須彌山石が蝦夷や都貨邏をもてなす宴の場の施設となっていた点と共通するものがありそうです。