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聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

前方後円墳から方墳への移行と蘇我氏:坪井恒彦「大王(倭国王)陵としての前方後円墳の終焉」

2025年05月13日 | 論文・研究書紹介

 少し前に「出す出す詐欺本」として明日香村教育委員会の古墳発掘本に触れました。今のところ6月半ば刊行の予定のままであって変更通知がないのですが、怪しいため、関連する墳墓論文を紹介しておきましょう。

坪井恒彦「大王(倭国王)陵としての前方後円墳の終焉―敏達・用明あさの墳墓変遷の背景―」
(『羽衣国宰大学現代社会学部研究紀要』第6号、2017年3月)

です。

 前方後円墳は一時期は盛んに造営され、7世紀初頭まで全国で5000を超える大小の前方後円墳が造営されました。中でも大王の墓とされるものは、その巨大さで他の豪族の古墳を圧倒していました。それが普通の方墳の形に変更された後、7世紀半ばから後の天皇の高御座などに象徴される八角形に基づく八角形墳という王権独自の墓に移っていきます。

 長さ100メートルを超えるものは302基、その半数近い140基は大和・河内・和泉・摂津・山城に集約されています。そうした中で、大王の最後の前方後円墳は、河内の太子西山古墳であって、敏達大王の墓と推測されています。

 この古墳は、長さ93メートル、後円部の直径56メートルであるのに対し、前方部幅が70メートルもあります。後世に多少改変された可能性はあるものの、7世紀を中心とする大型の方墳や円墳が多い磯長谷古墳群を見下ろす尾根上にいちはやく造営されています。

 敏達大王に続く用明天皇の墓については、『古事記』では「石寸掖上から磯長中陵」に、また『日本書紀』では「磐余池上陵から河内磯長陵」に改葬されたとされており、南河内郡太子町の春日向山古墳がそれだと推定されています。東西66メートル、南北60メートルの大型方墳です。元の墓については諸説あるものの、候補地では前方後円墳の形跡が見当たらないため、当初から方墳であった可能性が高いと坪井氏は説きます。

 次の崇峻大王の陵は、『日本書紀』では「倉梯岡陵」とされ、宮内庁は桜井市倉橋金福寺跡を治定していますが、研究者は同じ倉橋の方墳である赤坂天王山古墳(一辺50メートル、高さ10メートル)とする見方が有力です。

 次の推古大王については、『古事記』では、大野岡にあった竹田皇子の陵に合葬され、後に「科長(磯長)大陵」に改葬されたとされており、前者は橿原市の長方墳である植山古墳(東西40メートル、南北27メートル)が有力視され、後者は太子町の方墳である山田高塚古墳(東西66メートル、南北58メートル)でほぼ間違いないとされています。

 敏達の一代前となる欽明の陵墓については、宮内庁は平田梅山古墳(長さ140メートル)を治定していますが、考古学界ではその北方にある丸山古墳、すなわち後期古墳で最澄となる318メートルを誇る橿原市の五条野丸山古墳とするのが有力です。

 となると、梅山古墳の被葬者が問題となりますが、これについては敏達を埋葬するための陵だったが、放棄されたとする高橋照彦説が注目されているとします。ただ、これについては異論も出ています。

 『日本書紀』崇峻紀によれば、敏達は母である石姫の「磯長陵」に葬られたとしています。となると、太子町の西山古墳は本来は欽明の皇后であった石姫の墓であって、敏達はそこに合葬されたことになります。

 考古学から見ると、築造順序は、太子西山古墳→五条野丸山古墳→平田梅山古墳、ということになります。となると、平田梅山古墳が敏達のために築造されて放棄されたとしても、またそうではなかったとしても、敏達はいずれにしても前方後円墳に葬られたことになります。つまり、前方後円墳に葬られた最後の大王ということになるのです。

 この点について、坪井氏は、地方出身の継体天皇以後は、畿内の皇統を次ぐため、その系統の大王の娘との婚姻を重ねたとし、敏達はそうした助警の大王の最後の存在だったことに注意します。方墳を採用した敏達以後の用明・崇峻・推古は、欽明天皇と蘇我稻目の娘たちとの間に生まれているのです。つまり、方墳は蘇我氏系の大王の陵なのです。

 その方墳は、4~5世紀の百済地域に普及した高句麗系の「石基壇積み石古墳」と呼ばれるものが起源だと坪井氏は推測します。それを渡来人を配下に置いていた蘇我氏が採用したのだと見るのです。そう考えたきっかけは、明日香村坂田に位置する6世紀後半の都塚古墳です。

 この古墳は最下辺が41~42メートルであってピラミッドのように石を積み上げたものです。稻目が亡くなったのは570年ですので、年代は合いますし、阪田は渡来集団が配置されていた土地です。中国南朝から百済経由で日本に渡ってきた司馬達止の一族は坂田原に住んでいました。

 この一族は初期の仏教を支えた一族ですね。そして、都塚の北西400メートルの島庄には、馬子の墓とされる石舞台があります。坪井氏は、大王の最初の方墳である用明の向山古墳は、宮内庁管理であって調査できないため、都塚古墳とどのような関係にあるか不明としつつ、用明以後の方墳は、高句麗由来の百済の石塚に基づくものであり、倭国王のために独自に創設されたものと見ます。この流れは、仏教の受容の流れと一致してますね。


考古学者かつ住職が自分の寺は馬子創建だとして学問的に検討:中村浩『河内龍泉寺と蘇我氏の研究』

2025年05月08日 | 論文・研究書紹介

 タイトル通りの本が今年の2月に刊行されました。

中村浩『河内龍泉寺と蘇我氏の研究』
(芙蓉書房、2025年)

です。中村氏は、大阪大谷大学名誉教授。須恵器の研究などを中心にした考古学者ですが,
蘇我馬子が創建したという伝承を持つ河内龍泉寺の住職でもあるため、大学退職後にこの伝承を検討したのがこの本です。

 富田林市南方の嶽山の中腹に位置する龍泉寺は、『上宮太子拾遺記』に引かれる「元興寺縁起」によれば、「四年丙辰、冬十一月。法興寺造竟。……是年島大臣私起龍泉寺於石川神名傍山、為禅行之院」とあり、推古4年(596)に馬子が「私」に建て始めたとあります。『上宮太子拾遺記』は、橘寺の法空が異説の多さを歎いて14世紀初めに著した太子伝です。

 「私」という点が興味深いですね。これによると、法興寺(飛鳥寺)は国家の為に建てた寺であって、この龍泉寺が馬子が個人的に建てた寺ということになります。

 中村氏は、龍泉寺は河内郡の平石古墳群を望む位置にあるため、古墳群は蘇我氏の墓域だとし、谷の入口付近にあるシシヨツカ古墳は蘇我稻目か馬子のどちらか、あるいはシシヨツカ古墳が稻目でその隣接するシシヨツカ東古墳が馬子墓と推測します。

 『日本書紀』によれば馬子は「桃原」に葬られたとありますが、中村氏は蘇我氏の本拠地であったこの地に再葬されたと見るのです。そしてアカハゲ古墳が入鹿、ツカマリ古墳が蝦夷の墓と推定するのですが、どうでしょうかね。 飛鳥近辺の巨大な墓跡が蝦夷・入鹿墓と推測されてますし(リンク)、飛鳥の石積みの都塚古墳が稻目の墓という説も有力ですからね。

 以下、「仏教伝来の再検討」の章では、伝来を考察するのですが、注や参考文献であげている研究書や論文は1980年頃までのものばかりであり、中村氏が若い時期にまなんだ知識に基づいて書いたか、かなり前に書いた論文をこの書に入れ込んだように見えます。

 この本は、春日大社文書に見える龍泉寺記事の検討、そして現在の龍泉寺の考古学的調査が新情報であるものの、仏教伝来や蘇我氏と物部氏の争いなどに関する部分は、昔の研究に基づいて自分の考えを少し述べた程度に見えます。崇仏抗争の部分にしても、あげられている文献は1987年までのものにすぎません。

 有益なのは、敏達朝以前の朝鮮派遣氏族としては、物部10、吉備8、紀8、大伴4であって、蘇我氏は雄略朝の1のみであり、以後、物部9、河内6、紀4、吉備3、大伴1となっており、百済官人となった者も、物部4、紀2であって、物部氏が優勢であったことを具体的に指摘していることですね。

 また、龍泉寺のこともあってか、蘇我氏の氏寺と称されることもある法興寺について、氏のために造営したのではないと説いている点も適切でしょう。ただ、立ち場上無理ないものの、全般に龍泉寺や河内の意義を強調する傾向がありますね。


倭王は外国使節の前に姿を見せない:田島公「飛鳥の王宮と外交儀礼」

2025年05月03日 | 論文・研究書紹介

 先に天皇号に関する田島氏の論文を紹介しましたが(リンク)、同じ論文集に田島氏のもう一つの論文が載っています。

田島公「飛鳥の王宮と外交儀礼―小墾田宮とエビノコ郭の機能―」
(田島公・海野聡・鶴見泰寿編『飛鳥宮の儀礼と空間構成』、八木書店出版部、2025年)

 これは、修士論文をもとに書いた論文を、宮内庁書陵部に就職したばかりの多忙な時期に、恩師の岸俊男が編集した『まつりごとの展開(日本の古代 7)』(中央公論社、1986年)に「外交と儀礼」を書いて以来、考えてきた補充版である由。

 「トツクニ」と「ウチクニ」の境で外国の使いの汚れを祓わせるのが「客館」での儀礼の本質であり、「未開の王」としてはできるだけ外国使を王宮に入れないようにし、入れた場合も倭王は直接対面しないのが伝統だったことを、いくつも資料をあげて説明します。

 その点、1年半もの期間をかけて造営された小墾田宮は、単に王が住む宮ではなく、政務や外交切りを行う場所であったことに注意します。

 裴世清の報告では倭王に会ったように書いていますが、『日本書紀』では裴世清が持参した国書を、「導者」が受け取り、その「導者」が手にした国書を大門の向こうから出てきた大伴囓が受け取って大門前に置かれた机の上に置き、大門の先の殿舎にいた推古に対して国書を奏する形であって、直接の対面はなされていません。

 ただ、小墾田宮がこうした外交儀礼の場として機能したのに対し、飛鳥宮(岡本宮・板蓋宮)では宮内に外国使節を招きいれておらず、「朝」で外国使が「饗」を受けたと記されているため、田島氏はこの「朝」とは小墾田宮のことと見ます。

 皇極元年(642)では、百済大使が従者をともなって「拝朝」しており、蘇我大臣(蝦夷)が「畝傍家」で大使と面会しています。そして、その後で、百済使を「朝」で「饗」したとあり、また「饗蝦夷於朝」とあって、東国の蝦夷を「朝」で「饗」しています。このため、これに先立つ舒明7年(635)の百済使の「饗」も、礼をめぐって決裂した舒明4年の唐使の高表仁を迎え入れようとしたのも小墾田宮の「朝庭」であったと見るのです。

 孝徳朝になって巨大な「難波朝」が造営されると、斉明元年(655)7月には、北蝦夷99人、東蝦夷95人、百済調使150人をで「饗」しています。威力を見せつけるためでしょう。しかし、斉明はその半年前に「飛鳥板蓋宮」で即位していますので、斉明が住む王宮ではない宮で外交使の「饗」がなされたことになります。

 しかも、小墾田宮も使われていたことは、同年10月に小墾田に瓦葺きの宮を設けようとしたものの、資材が放置されて朽ちたために中止となったことからも推察されるとします。つまり、小墾田宮はまだ機能していたうえ、外国使を迎えるための瓦葺きの建物に改築する計画もあったということです。

 さて、斉明朝以後、辺境の者たちや「都貨羅国」人などを「饗」するために用いられたのは、飛鳥寺の西の槻木広場でした。つまり、野外でおこなったのであり、須弥山像を造ったりしていて仏教要素も加わっています。

 いずれにせよ、長安や洛陽などの宮殿で賓礼が行われた中国と違い、日本では、後飛鳥岡本宮や飛鳥浄御原宮の時期になっても宮内での外交儀礼はおこなわれず、宮中内での元日朝賀の儀式に外国使の前に天皇が現れたのは、文武2年(698)のことであり、それは律令国家の外交権が皇権のもとに確立したことを象徴的に示す儀礼であったというのが田島氏の結論です。

 このことから考えると、推古が外国使の前に姿を現さなかったとはいえ、小墾田宮がいかにそれまでの伝統と異なった宮であったか、推古朝がいかに新しい方針を摸索していたかがよく理解できますね。


太子道は7世紀半ばまでは北から小墾田宮に至る唯一の官道だった:竹迫忍「方位による下ツ道の建設年代の測定」

2025年04月27日 | 論文・研究書紹介

 「聖徳太子はいなかった」説では、聖徳太子は架空の理想的存在であって、実在したのは都から遠く離れた斑鳩の地に宮を構え、推古朝には46もあった寺の一つを建てた程度の厩戸王にすぎないとしていました。

 法隆寺(若草伽藍)を推古朝に46あった寺の一つにすぎないとするのは大嘘であって、飛鳥寺・豊浦寺に次ぐ日本で3番目の瓦葺きの本格寺院であったわけで、現在で言えば外国から技術援助を受けて最先端の大型原子力発電所を建設するようなものです。また、飛鳥から斑鳩までを斜め一直線に結ぶ幅20メートルもの道路、すなわち太子道が建設されていたことを無視しているのも問題です。

 当時の最大の権力者である蘇我馬子は、聖徳太子の大伯父であって自分の娘を太子の妃にしていたのですから、馬子が太子を応援していたのは当然でしょう。

 この太子道の意義を解明する論文が最近出ています。

竹迫忍「方位による下ツ道の建設年代の測定」
(『数学史研究』Ⅲ期2巻2号、2023年12月)

 飛鳥には南北に走る三つの大道が建設され、下ツ道については、欽明天皇の陵とも蘇我稻目の墓とも言われる巨大な丸山古墳を起点として北に延びているため、どちらの説の人も、下ツ道は丸山古墳を起点として真北に延びる道として建設されたと説いていました。

 しかし、暦などの専門家である竹迫氏が、発掘成果をもとにして方位を厳密に計算した結果、下ツ道はA区間(北から耳成山の付近まで)、B区間(耳成山あたりから甘樫丘あたりまで)、C区間(甘樫丘から丸山古墳北西部を切り取って南に延びる)の3区間に分かれており、それぞれ微妙に南北方位がずれていた由。

 つまり、A→B→Cの順序で建設されたものの、それまでの道をその方位で延長するのではなく、工事の段階での北極星の位置に基づいて方位を定めたらしいとするのです。その地図が、奈文研が作成した地図に竹迫氏が加筆した下の図です(88頁)。


 この図が示すように、A区間の最南端は、太子道と交わる地点になっています。つまり、最初は北から太子道と交差する場所まで建設され、後に、やや方位をずらしてB区間が建設され、交通の要所であった軽衢(かるのちまた)までつながり、この交差点を東に進む阿倍山田道と接続したのです。

 次の段階でそこからさらに南に延び、丸山古墳の北西部を切り取る形で続いていくC区間が建設されたことを竹迫氏は明らかにします。

 そして、『日本書紀』と照合すると、A区間は孝徳朝の653年に「ところどころの大道を直した」という記述と合っており、難波大道や都の横大道もこの時に整備されたと見ます。

 B区間は、655年に斉明天皇が小墾田に新たに宮を起こそうとしたが、木材が朽ちていたので取りやめになったとあるため、この時期に軽衢を経由して小墾田宮に至る道が整備され、小墾田宮から東に向かう山田道もこの時期に整備されたと見ます。

 C区間は、656年に飛鳥に宮を起こした際、軽衢から飛鳥宮までの道が整備されたと見ます。

 つまり、下ツ道は孝徳朝に工事が始まり、斉明朝に二度、南に伸ばされたのであって、それまでは、太子道が北から小墾田宮に至る唯一の官道であったとするのです。推古朝の「難波から都に向かう大道」は官道である太子道から龍田道を通り、大阪平野を斜めに横切って難波津に向かう道だったのです。斑鳩の重要な意義が分かりますね。


大王の温泉行幸伝承から分かる聖徳太子と馬子の地位:仁藤智子「古代王権と温泉行幸」

2025年04月27日 | 論文・研究書紹介

 4月1日恒例の特別記事(こちら)で、伊予温湯碑のことを取り上げました。そこで、今回は、伊予の温泉を含め、天皇の温泉行幸に関する最新の論文をとりあげます。

仁藤智子「古代王権と温泉行幸」
(新古代史の会編『歩いて学ぶ日本古代史 1 ―邪馬台国から大化改新まで』、吉川弘文館、2025年)

です。

 冒頭で伊予の温湯碑文を引く際、「恵忩」を「恵慈」に直している古典文学全集本に従っているのは問題ですが、それはともかく、仁藤氏は続けて有馬温泉が大王たちに愛されたことを述べていきます。特にお気に入りだったのは舒明であって、舒明3年(631)に行幸しています。

 『釈日本紀』が引いている『摂津国風土記』の逸文によれば、孝徳天皇も温泉に行幸するために行宮を作ったのであって、「始めて塩の湯を見つ」と語ったと記されています。

 それに続けて、「土人(くにびと)云はく、『時世(みよ)の号名を知らず。ただ、嶋の大臣の時と知れるのみ』といひけり」とあります。嶋大臣とは蘇我馬子ですが、仁藤氏は、舒明天皇も孝徳天皇も馬子が亡くなった後なので、「伝承として、馬子の時代に有馬温泉が発見されたと伝わっていたということであろうか」と述べています。

 「土人云はく……」は、伝承の一つとしてあげただけであって、舒明や孝徳に関する記述とは無関係でしょう。ただ、この伝承は、馬子の勢力が及んでいた地方では、「馬子さまの時に……」と受けとめられていたという点で貴重です。

 『播磨風土記』の逸文が「聖徳王御世」と記していることを思わせますね(リンク)。こういう記述を見ると、『法皇帝説』が推古天皇の代に、「上宮厩戸豊聡耳命、嶋大臣と共に天下の政を輔く」とあるのが当時の実態に近かったことが分かります。

 以下、聖徳太子以後について論じている箇所については省きますが、伊予の温泉郡の東隣に久米郡が置かれており、その中心地から昭和62年(1987)に「久米評」と刻書された須恵器の破片が出ている由。この地は、久米官衙群遺跡として整備が進みつつあるとか。

 重要なのは、7世紀半ばにあたるⅡ期に、方一町の地割りがなされ、倉と官衙らしき建物群が造られたらしいことです。回廊部遺構と周遍からは、来住(きし)廃寺以前の単弁十は蓮華文軒丸瓦が発見されていることです。この瓦は、四天王寺とここしか発見されておらず、上宮太家との関係を示していると仁藤氏は指摘します。

 7世紀第3四半世紀から8世紀中頃にあたるⅢ期は、地制の改変も進み、回廊状遺跡が廃絶されてまもなく、来住廃寺の伽藍遺構が一部重なるように南島に造られます。この創建時の金堂から複弁七葉蓮華文と単弁八葉蓮華文軒丸瓦が出土しており、再建法隆寺の瓦の影響を受けたと考えられています。

 つまり、愛媛の松山平野は上宮王家系と舒明系統の関係が色濃く残っているのです。仁藤氏は語っていませんが、熊凝寺の伝承などを考えると、聖徳太子の政治・経済面を舒明天皇が受け継いだことが見えてきますね(リンクリンク)。


天皇号を用いた時期と避けた時期:田島公「[問題提起]「飛鳥宮」時代の特殊性―「天下」を喪失していた時代―」

2025年04月22日 | 論文・研究書紹介

 天皇号が使われ始めた時期については諸説あって決着していませんが、有力な仮説が出ました。

田島公「[問題提起]「飛鳥宮」時代の特殊性―「天下」を喪失していた時代―」
(田島公・海野聡・鶴見泰寿編『飛鳥宮の儀礼と空間構成』、八木書店出版部、2025年)

です。2月20日刊行なので、出たばかり。

 田島氏は、ほとんど注目されていないという佐立春人氏の「日本古代の「天下」と「国内」」(京都大学日本法史研究会編『法と国制の史的考察』、信山社出版、1995年)の意義を認めます。

 この論文によれば、中国の皇帝や日本の天皇が犯罪者を赦免する場合、「大赦天下」と宣言するのが普通だが、新羅では「大赦国内」とあるため、調査すると、中国の皇帝は「天下」を支配するが、皇帝から冊封された王の支配領域は「国内」と表記される由。高句麗も国王の命令文では、中国なら「天下」とあるべきところを「国内」としていたそうです。

 一方、日本では、「食国(おすくに)天下」「食国国内」「食国之内」「国内無事」などとあるため、朝鮮諸国などを配下に置く天下の帝を辞任する『日本書紀』の立ち場としては「天下」とすべきところであるのに、元の資料をそのまま貼り込んだため「国内」などの語が残ったものと佐立氏は見ます。

 そして、倭の君主は4世紀から7世紀初めにかけて、支配領域を「天下」と称したが、7世紀前半以後、8世紀初頭までは中国皇帝の意向によって「国内」と表記せざるを得ず、701年の大宝令以後、「天下」が復活し、中国皇帝の冊封を受けない、という流れである由。

 田島氏はこの説を評価し、飛鳥宮の時代は「天下」を喪失していた時代とみなします。そして、推古朝では一旦は「天皇」号を使用しますが、「天下」を喪失していた時代には「天皇」を封印し、天武・持統朝では「天皇」号を使用するための準備をし、国内での使用を再開し、大宝令以後、対外的にも「天皇」号を使うようになったと推測します。

 なお、佐立論文では、「天下」を回復しようとした時期に、「天下」と「国内」の落差を痛感し、「天」と「国」の組み合わせに異常にこだわるようになり、それが神代に関する「天神・国神」「天津罪・国津罪」など、「天」と「国」の対比が目立つ理由ではないかと述べた由。

 田島氏は、この佐立論文に言及したのは河内春人論文のみであるが、7世紀後半に船首王後墓誌や小野毛人墓誌に「天下」の語が見えることを指摘して批判しているものの、東野治之などは、墓誌は没後の作成であって追納されたとしているほか、長谷寺の「銅板法華説相図」に「治天下天皇」とあるものの、干支から見て686年、698年、722年、770年など諸説があることに注意しています。

 いずれにしても、推古朝の一時期、「天皇」が使われていたと見てよさそうですね。


倭王の跏趺坐は『古事記』の「呉床」、『日本書紀』の「胡床」の坐法と異なる:新川登亀男「「跏趺坐」する「倭王」」

2025年04月17日 | 論文・研究書紹介

 昨年刊行された新川登亀男氏の論衡紹介の都築です。今回は、

新川登亀男『創られた「天皇」号』「Ⅲ 『日本書紀』のなかの君主と「尊」(ミコト)字称:七「跏趺坐」する「倭王」」
(吉川弘文館、2024年)

の部分です。遺稿集であって、著者が念入りにチェックしていないため、繰り返しや論証不十分な面も見られますが、重要な問題ですので紹介しておきます。

 良く知られているように、『隋書』倭国伝では、倭王は「天、いまだ明けざる時に、出でて政を聴きて跏趺坐し、日出づれば便ち理務を停む」と記されています。この「跏趺坐」は仏教の「結跏趺坐」と解釈されてきましたが、新川氏は、この坐法を検討します。

 『古事記』では天皇や有力な王の座として「呉床」が登場しますが、『日本書紀』ではそうした一貫性がないとします。物部守屋が寺を破壊する際、「踞坐胡床」しており、穴穂部皇子も「踞坐胡床」してそれを守屋大連を待ち、境部摩理勢は門のところで「坐胡床」して蝦夷の襲撃兵を待ちます。

 大海皇子が内裏の仏殿の前で「踞坐胡床」して剃髮出家しているのは仏教的ですが、守屋は廃仏派なのですから、結跏趺坐するのはおかしいでしょう。

 新川氏は、いろいろな文献の記述から見て、「踞坐」はあぐらをかくことであり、「胡床」は横から見ると X の形になっていて折りたためる携帯用の坐具だと説明します。「胡」とあることが示すように西域から中国に導入されたものです。『古事記』に「呉床」と見えるのは、呉、つまり中国南朝から百済が入手したものが日本に入ったため、「呉服」などと同様に「呉~」と称されるのだとし、『日本書紀』ではこの表現が消えて「胡床」に変わったと見ます。

 いずれにしても、「呉床」も「胡床」も屋外で使う携帯用坐具である以上、倭王が「跏趺坐」するのとは異なることになります。

 新川氏は「胡床」の坐り方は、基本的には足を垂らす坐法であるものの、6世紀前半の人物埴輪には「跏趺坐」に当たる坐の形が見られるが、要するにあぐらだとします。むろん、仏教導入以前ですので、仏教由来でもないことになります。

 ということで、『隋書』は倭王の「跏趺坐」を仏教由来のものと見ているらしいものの、実態はわからず、臨時の「呉床」「胡床」とは異なり、大きな「牀」のようなもの、あるいは、敷物を重ねた「床」型の特別な坐具によるものだったろう、というのが新川氏の結論です。要するに、中国の皇帝が足を垂らす形で玉座に坐るのとは異なる坐り方だったろう、ということであって、仏教の結跏趺坐とは限らない、ということですね。 

 


三経義疏の研究法について ChatGPTに聞いてみた

2025年04月12日 | 三経義疏

 AIを人文学の研究にどう生かすかという問題が、いよいよ切実になってきました。そこで、「人文学における比較ツールであるNGSMを使って三経義疏を研究したいのですが、どの点に注意すれば良いでしょう?」と尋ねてみたところ、回答は以下のようなものでした。

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ChatGPT:

NGSM(N-gram Based System for Multiple text comparison)は、人文学研究において複数のテキスト間の共通表現や特徴を抽出するための有用なツールです。『三経義疏』(『法華義疏』『勝鬘経義疏』『維摩経義疏』)の研究にNGSMを活用する際には、以下の点に注意が必要です。睡人亭+1立命館大学+1J-STAGE+3Gooブログ+3Gooブログ+3

  1. テキストの前処理:​NGSMを効果的に使用するためには、対象となるテキストのデジタル化と正確なテキストデータの準備が不可欠です。特に古典文献の場合、OCR(光学文字認識)によるデジタル化では誤認識が生じる可能性があるため、手動での校正が推奨されます。

  2. N-gramの設定:​NGSMでは、N-gramの長さ(Nの値)を設定します。短すぎると一般的な表現が多く抽出され、長すぎると共通部分が見つかりにくくなる可能性があります。研究の目的に応じて、適切なNの値を選択することが重要です。

  3. 結果の解釈:​NGSMはテキスト間の類似性を数値化しますが、その数値が示す意味を正確に解釈するためには、文脈や歴史的背景を考慮する必要があります。数値だけでなく、具体的な共通表現やその使用箇所を詳細に分析することで、より深い理解が得られます。

  4. 他の研究との比較:​NGSMを用いた分析結果を、既存の研究成果と照らし合わせることで、新たな知見や仮説を導き出すことが可能です。例えば、石井公成氏はNGSMを用いて『三経義疏』の類似性を分析し、重要な成果を上げています。好文出版

以上の点を踏まえ、NGSMを活用することで、『三経義疏』のテキスト間の関係性や特徴をより深く理解することが期待できます。

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情報源
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以上です。割とまともですね。
 
以上です。下のアイコンなどをクリックすると、そのサイトに飛びます。

壮大すぎる題名の論文は得てして……:斉藤恵美「日本仏教史における聖徳太子の位置」

2025年04月09日 | 論文・研究書紹介

 長年教員をやって卒論・修論を審査してきたため、論文の題名を見るとその出来がおおよそ判断できるようになりました。むろん、読んでみないとわからないものもあるのですが、壮大すぎる題名のものは期待できない内容であることがほとんどであるようです。

 奈良女子大学の特任助教である斉藤氏が書いた以下の題名の論文はその一例です。

斉藤恵美「日本仏教史における聖徳太子の位置」
(小路田泰直・斉藤恵美編『聖徳太子像の再構築』、敬文舎、2021年)

 こんな壮大な題名は、この道に数十年打ち込んできて権威と認められる人ならありえるでしょうが、学部の学生の卒論の題名であれば、その時点で読んでみるまでもないことは確定です。

 斉藤氏は、冒頭の「はじめに」を「私事からはじめて恐縮であるが、大学院から仏教についての研究をはじめた」という文章で始めており、この段階で卒論なみの不出来な内容であることを推測させるものでした。「私事で恐縮ですが」で始めるというのは、NHKの某アナウンサーが用い始めて広まった悪い風習です。

 しかも、「はじめに」によれば、「大学で歴史を学びはじめたころは仏教にはなんの興味もなかったのだが、それなりに研究が進み、歴史を考え構造的にみる段階になったとき」、宗教とは何か、神祇祭祀と仏教について解明する必要があると思い始めた由。

 仏教については学びはじめて間もないにもかかわらず、「それなりに研究が進」んだ結果、仏教を含めた日本宗教史の全体構造を考えるに至ったそうです。凄いですね。しかし、当然ながら、仏教学・仏教史については不勉強であって、的外れなことばかり書いています。

 たとえば、倭国の王権が仏教を受容したのは、「仏教が世界のあり方のすべてを知る、社会全体のありようを知るという全知性を獲得する教えであったためである」と断定しています。しかし、初期仏教では、煩悩制御に関わること以外の哲学論義、世界のあり方などについては知る必要はないと明言されています。

 むろん、時代が進むにつれて仏の神格化が進み、仏は「一切知者」と呼ばれるようになり、『法華経』などでもそうした表現が見られるようになりますが、古代日本の王権が「全知性を獲得する教え」として仏教を受け入れたという説は初めて見ました。病気の治癒を願うためとかじゃないんですね。

 『日本書紀』によれば、推古2年に仏法興隆の詔が出されると、氏族たちは「君親の恩の為に、競って仏舎を建立した」と記されています。「恩」とは恩恵をもたらすパワーであって、造寺造像などの功徳を君主や存命中あるいは死没した親に振り向けると、君主や親たちのパワーが増し、恩恵が増大するのです。こうした記述は中国の北朝の碑文などにも山のように見られます。斉藤氏は、そうした点は無視して「全知性」なるものを尊重するわけですね。

 推古10年に征新羅将軍に任じられた来目皇子が筑紫で病死し、その兄の当麻皇子が将軍となって播磨まで進軍したところ、妻が死んでしまったため引き返すという事態が起こります。斉藤氏はこれについて、王の決定が実行できなかったのであって、仏教帰依によっても王の絶対性が保証されなかったため、対応策として打ち出されたのが聖徳太子による「十七憲法作成だったのではないだろうか」と述べています。

 「十七憲法」というのは後代の呼び方であって感心できませんが、「仏教帰依」によっても王の絶対性が保証されなかったため、第二条で「三宝を敬え」と命じ、「それ三宝に帰せずんば、何をもって枉れるを直さん(もし三宝に帰依しないなら、何によってよこしまなものを正すことができようか!」と断言する「憲法十七条」が作成されたわけですね。

 なるほど、これはあくまでも「三宝への帰依」であって、「仏教への帰依」ではないというわけですか。第二条では、「三宝とは仏法僧なり」と述べてますが……。

 斉藤氏は、この憲法の規範は絶対的に正しいため、だから「聖」は「一〇〇〇年に一度、国を治めるために出現するとされたのだ」と説いていますが、第十四条では、「五百歳の後にして、乃ち賢に遇うも、千載にしてもって一聖を待つこと難し」と述べています。

 つまり、人々が嫉妬しあうため、賢人程度なら五百年に一度くらいは現れるとしても、聖人は千年たっても出現して活躍することが難しい、と述べて、嫉妬の害を強調しているのです。必ず聖人が現れて国を治めるとは説いてません。どうして漢文をきちんと読まないのか。先行する研究もきちんと見ておらず、思いつきで書いていることは明らかです。

 斉藤氏は、その聖人とは太子のことだと見ているようですが、第十四条は群臣たちに嫉妬するなと命じています。用明天皇の皇子であり、推古天皇の甥であって娘婿でもある聖徳太子が、群臣たちに嫉妬されるんでしょうか。他の天皇候補の皇子たちに嫉妬されるならわかりますが。

 斉藤氏は、憲法は馬子と共同でなく、太子一人によって作成されたため、仏教に帰依することは太子に帰依するのと同じことになったとしていますが、物部氏などを排除して仏教を推進したのは馬子です。『日本書紀』では、聖徳太子の薨去記事では国中が歎き悲しんだとしていますが、葬ったとあるのみでそれ以外の措置は描かれていません。

 一方、『日本書紀』は推古22年(614)に馬子が病気になった際、「大臣の為に男女并せて一千人、出家せしむ」と記しています。これは国王待遇です。馬子の姪である推古天皇と娘婿の太子が、馬子を仏教推進の最大の功績者とみなしてそうさせたのでしょう。となると、仏教に帰依することは大臣馬子の政治路線に従うことを意味する、ということになりませんか?

 また、三経義疏については、拙著に触れていてくださっているのですが、人は正しさを自分のうちに持っておらず、「「機」によって容易に変質するという人間観」といった記述は、異なった能力のことである「機」の意味を取り違えています。こうした初歩的な間違いを書く人に自分の本が引用されるのは嫌なものです。

 以下、空想説がならべられていますが、仏教の常識、また当時の仏教のあり方とは違い過ぎているため、いちいち指摘するのはやめておきます。私は仏教を学び始めて50年以上たち、『東アジア仏教史』(岩波新書)を一人で書いたことが示すように学界の中でも幅広く研究している一人のつもりですが、その私も聞いたことがなく、考えがたい仏教の珍解釈があちこちに見られます。 

 論文の最後は、「律令国家形成の過程で国家仏教とは違う形で進展した仏教のなかに、絶対的存在として聖徳太子の姿は残存していたと考える」とした後、感想が少し述べられているだけです。平安・鎌倉・室町・江戸の仏教における聖徳太子観に触れず、太子信仰と神祇信仰との関わりも詳しく示されていないのですから、「日本仏教史における聖徳太子の位置」というのは誇大広告ですね。

 冒頭で述べたように、この論文は不勉強で自信だけある学生の卒論なみの駄作でした。私は若い研究者については厳しい批判はしないようにしていますが、これはひどすぎます。どうしてこんな論文もどきを書く助教が、共編とはいえ、聖徳太子の論文集の編者となるのか。筆頭の編者であって斉藤氏のことを高く評価しているらしい奈良女子大学の小路田泰直教授の学識と見識が疑われます。


倭の五王の外交に関する最新論文:田中史生「倭の五王の南朝遣使とその背景」

2025年04月04日 | 論文・研究書紹介

 推古朝における隋との外交について考えるには、それ以前の倭国の外交を確認しておく必要があります。つまり、卑弥呼と倭の五王の外交ですね。どちらについても諸説がありますが、倭の五王については、つい先日、新しい論文が刊行されました。

田中文生「倭の五王の南朝遣使とその背景」
(辻田淳一郎編『倭の五王の時代を考える―五世紀の日本と東アジア』,吉川弘文館、2025年3月)

です。

 田中氏は、その背景として、高句麗の強大化をあげます。高句麗は中国支配の根拠地であった楽浪郡と帯方郡を313年に滅ぼすと、勢力を南に伸ばし始めます。これに強く抵抗した百済は倭国と軍事的な同盟を結び、緊迫した東アジア情勢に直面した倭の首長層は、倭王を軸にして結束します。

 彼らは、軍事を含む王権の活動を支えると同時に、独自に国際交流をおこない、威信財や渡来した技術者を獲得して勢力を強めます。この時期の倭王は、倭人の外交を主導し、各地の首長層に国際交流の機会を分配する大首長だった、田中氏は説きます。この状況で登場したのが、讃・珍・済・興・武という倭の国王たちです。

 五王が外交を結んだ南朝の宋は、東晋の軍官であった劉裕が420年6月に王朝を開き、宋の武帝となると、翌月には「高句麗王」と「百済王」に除授(任官)をおこなっています。つまり、東晋が両国王に与えていた官爵を追認し、「高句麗王」についてはそれまでの「征東将軍」を「征東大将軍」に進め、「百済王」については「鎮東将軍」を「鎮東大将軍」に進めました。
 
 ただ、両国からの遣使は来ていないため、これは新王朝を自ら慶賀するための一方的な除授であったと見られています。東アジアからの最初の遣使は、翌421年に倭の讃が遣使して除授されたことであって、むしろ高句麗・百済に先行しています。
 
 それ以前に、倭国は東晋に遣使しており、これについては高句麗との共同入貢その他の説があるものの、田中氏は単独入貢と見ます。

 『宋書』倭国伝によると、倭王の讃は司馬の曽達を宋に派遣しています。魏晋以後の中国では、方面軍を指揮して征・鎮・安・平の字を冠した将軍たちに府を開くことが認められ、長史・司馬・主簿・功曹・参軍が置かれました。使者の曽達が司馬とされているのは、讃が宋に「安東将軍」の除せられたことが根拠になっています。

 ついで珍は、438年には配下の倭隋ら13人への「平西・征虜・冠軍・補弼国将軍」号の除正を宋に求めています。このうち「平西」は倭王の本拠から見て西、つまり、九州北部に派遣されて駐留した将軍と推測されています。以後も、倭王の済が23人の臣下に対する将軍号と郡太守号の除正を求めて認められています。

 その主な目的については、王が国内で地位を固め、朝鮮半島南部での軍事支配に役立てるためであったと推測されています。この時期、百済では、中国系の府官が将軍や太守などに任じられて軍事と不可分の外交を主に担当し、百済人は将軍・王・侯などの号を授与され、王権中枢部で実務を担当したと見られます。

 こうした見方については批判もありますが、田中氏は、五世紀の王権が中国の官爵を利用し、王を中心とした政治秩序を形成していたことは否定できないとします。田中氏は、百済では中国由来の姓や文化が保持されたのに対し、倭国ではそうした政策がとられなかったことに注意します。

 問題は、このようにして続いてきた中国への入貢が武以後、途絶えることです。この武については刀剣銘文にある「治天下」と言われる「ワカタケル大王」のことと見るのが通説ですが、大王という号から見て武による国内の支配体制が確立し、高句麗・百済よりの優位を示すために中国の「天下」から離脱しようとしたとする説があります。

 しかし、田中氏は、高句麗は中国への朝貢を続けておりながら5世紀前半に独自の「天下」観を形成しており、6世紀前半に独自の「天」の思想を持つようになった新羅も中国との交渉を始めていることに注意します。華北の非漢民族国家も続々と中華意識を持つようになっていたことについても考慮し、当時は「治天下」の王と称することと中国から官位を保証してもらうことは矛盾しなかったと説きます。

 武以後の倭王が朝貢しなかったのは、高句麗の勢力が強まり、遣使ルートを確保できなくなったことが大きいと見るのです。また、高句麗は北朝と南朝に遣使していましたが、北朝の勢力が増大して南まで進出するようになったこともあって、南朝への遣使は460年以後は減っているのに対し、北朝へは毎年のように遣使するようになります。

 つまり、南朝は倭国の後ろ盾となるだけの力を失いつつあったうえ、南朝と結び着いていた百済を見捨てて北朝外交に切り替えることもできなかったと見ます。朝鮮半島の混乱、それと連動する国内の首長たちの対立もあったことが、高句麗の「大王」の「天下」をモデルにした天下観をワカタケルが懐くようになった原因であり、倭王の「治天下」構想が進み、中国の官爵を貰う意味もなくなったこともあって、対中外交が途絶するようになったのだろうというのが、田中氏の結論です。

 推古朝は、その「天下観」を受け継ぎつつ、朝鮮諸国の対立がまた強まった状況のもとで、南北を統一した隋と関係を持つことになるのですね。


伊予の温湯碑が発掘されました!(4月1日限定:特別記事)

2025年04月01日 | その他

 3月31日の深夜にパソコンであれこれ検索していところ、日付が変わった瞬間に「湯岡の温湯碑発見!」というニュースがヒットしました。

 その記事の発信元は、愛媛県湯岡村教育委員会です。しかも、ほかの記事を読んだあと、もう一度、「湯岡 温湯碑」で検索すると、ヒットしませんでした。時間をおいてやってみるとたまにヒットすることもあります。

 何年も前に予約を始めておきながら出版延期を繰り返し、「出す出す詐欺」だとしてで話題になった某明日香村育委員会の古墳発掘調査本(リンク)のことを思い出し、ちょっと不安になりました。

 つまり、発表した後、何か問題があってあわてて発表を取り消し、報道を延期したものの、キャッシュがネットに残っていて、それにヒットしているように思われたのです。ともかく、その記事を読んでみました。

 それによれば、年末に松山市の道後温泉に隣接する湯岡村字伊社邇波の古湯遺跡で、巨大な石碑の破片が発見され、そこにかの温湯碑の文字が刻まれていた由。字が読めるのは一部だけだったものの、『釈日本紀』巻十四が舒明天皇の伊予温泉行の部分で引用している『伊予風土記』の逸文と良く合うそうです。

 冒頭部分の破片をつなぎあわせると、「法興六□□□□丙辰我法王大□□恵忩法師葛城□□□□村」となるとか。『釈日本紀』では、「法興六年十月、歳在丙辰、我法王大王、与恵忩法師及葛城臣逍遙夷予村」としており、法王大王、つまり聖徳太子が恵忩法師などと伊予村を訪れたとしているのに、現在の注釈などでは、高句麗の「慧慈法師」と来たはずであって「恵忩」とあるのは誤りとして字を直してしまうのですが、「恵忩」で良かったのです。

 「忩」は「聡」の略字です。つまり、聖徳太子は百済の恵聡と温泉を訪れたのですね。法興寺(飛鳥寺)の建立が開始された五九一年が法興元年だとすると、「法興六年」は五九六年となり、これは推古天皇四年にあたります。しかし、『日本書紀』によれば、慧慈が高句麗から来日したのはその前年の五月であって、来たばかりです。

 『日本書紀』はその来日記事に続けて「則ち皇太子、之を師とす」としており、さらに「是の歳、百済僧の恵聡来たる」としているため、慧慈が尊重されており、恵聡の方が後に来ているように見えますが、「是の歳~」という表記は、何年だか分からない場合、関連する記事の最後に付けておく場合が多いのです。

 実際、崇峻天皇元年(五八七)には、「百済国、使い并びに僧の恵總・令斤・惠寔等を遣り、仏舎利を献ず」とあります。この「恵總」が湯岡碑文の「恵忩(恵聡)」であって、聖徳太子は推古朝になる前から恵聡に師事し始め始めており、親しくなっていたと思われます。

 この破片で面白いのは、『釈日本紀』の引文では、「日月照於上而不私。神井出於下無不給(日月は上に照らして私せず、神井は下に出でて給せざるなし)」とあるのに対し、破片では最後の部分が「無不整(整わざる無し)」となっていることです。

 『釈日本紀』の文によれば、この神秘的な温泉は地下から湧いて多くの人に恵みを分け与えないことがない、としていますが、破片では、「整わないことがない」としており、現代のサウナを思わせる記述になっているのですね。

 伊予の温泉は間欠泉であって蒸気も吹き出していたようですから、その蒸気を木の管などで小屋に引きこみ、サウナにしていたのでしょう。中世以前の寺の風呂は「温室」、つまり、サウナでしたので、そのはしりですね。

 聖徳太子と恵聡と葛城臣は、サウナ小屋で熱い蒸気を浴びた後、道後温泉地区だけに池に「ボッチャン」と飛び込んで体を冷やし、寝台のようなものに寝転んで「いやあ、整うなあ」「まさしく整いますね」などと語りあって、裸のつきあいをやっていたのでしょう。

 確認しようと思って、その記事を検索してみたところ、何度やってもヒットしないことが多くなってきました。その記事を読むことができるのは、本日4月1日限りかもしれません。

 それにしても、毎年、4月1日にはいろいろなことがおきますね(たとえば、こちらや、こちらや、こちらや、こちらこちらや、こちらとか)。


「出す出す詐欺」本がまたしても出版延期:明日香村教育委員会編『遺跡の発掘からみた飛鳥』

2025年03月27日 | その他

 「もうすぐ出ます、出ます」と、狼少年も驚くほどと何度も予告して楽しみにさせておりながら、発売延期を5回も6回も繰り返してきた本が、発売予定日になってまたしても延期になりました。

 しばらくしたら出るというので最初に予約したのは、注文履歴によれば、

 2021/11/09

です。3年半前ですね。ところが、出版延期、延期を繰り返し、昨年の5月には「24年6月24日に発売」という通知が来たのですが、5月末には、さらに7月29日発売予定との知らせがあり、7月4日に送られてきた通知によれば、

 2024/09/14 - 2024/09/16

の間に発売となってました。「本当に出るのか? 怪しいな」と思っていたら、先日アマゾンでこの本を見てみたところ、

 2024/9/27

となってました。さらに2週間ほど遅れるとのことですが、そんな通知を信じる私ではありません。案の定、9月4日にアマゾンから以下のようなメールが来ました。

===================================
誠に申し訳ございませんが、以下の商品の発売日が変更されました。新しいお届け日は以下の通りです。 ご迷惑をおかけしていることをお詫びいたします。 

ご注文番号#503-2812643-0722214
注文日:   2021/11/09

        遺跡の発掘からみた飛鳥
        発売元 アマゾンジャパン合同会社

            新しいお届け予定日:  2024/10/17 - 2024/10/19
===================================

以上です。「発売元 アマゾンジャパン」となってます。歴史系の出版社である雄山閣から出るはずだったけど、お詫びはアマゾンからくるのか……。

とはいえ、当然のことながら、この通知についても疑っていましたので、9月19日にアマゾンで確認したら、 

 雄山閣 (2024/11/12)
 発売日 ‏ : ‎ 2024/11/12

となってました。またしても延期ですし、雄山閣と表示されてます! 「出版社」と「発売元」は違うということなのか。ここまで来れば、11/12 という数字など信じられるはずがありません。10月24日にアマゾンで確認したところ、

 発売日 ‏ : ‎ 2024/12/12

となっており、しらっと変えてました。いつまで「出す出す詐欺」を繰り返すんでしょうか。

 ここまで読めば当然推測できるように、11月22日段階でアマゾンでの記載を見ると、発売日は、「2025/1/28」となってました。この予告という形の悪い冗談はどうもまだ続きそうだと思っていたら、やはり、ちゃんと期待に応えてくれました。12月10日アマゾンで確かめると、

  • 発売日 ‏ : ‎ 2025/2/27

となってます。11月23日には、アマゾンから「誠に申し訳ございませんが」ということで、「ご迷惑をおかけしていることをお詫びいたします。」というメールが来ましたが、今回はまだ来てません。

 10巻以上ある分厚い辞典や資料集などは、宣伝した期日より実際の出版が遅れることがたまにありますが、さほど厚くない1冊の本でここまで延期を繰り返した例は見たことがありません。もう「出す出す詐欺」と言って良いんじゃないでしょうかね。と、2024年11月21日にこの記事の下書きに書いたところ、出版日変更のメールが届きました。

            新しいお届け予定日:  2025/01/30 - 2025/02/01

となってます。むろん、どうせまた変更だろうと思っていたら、案の定、2025年1月11日にアマゾンから「お届け予定日を更新しました」というメールが届きました。

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ご注文番号#503-2812643-0722214
注文日:   2021/11/09

        遺跡の発掘からみた飛鳥
        発売元 アマゾンジャパン合同会社

            新しいお届け予定日:  2025/03/29 - 2025/03/31
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だそうです。4年近く遅れてますので、オリンピックだったら、次の大会になってますね。

 それからしばらくすると、アマゾンには「3月27日発売」と表示されるようになりました。しかし、直前の3月24日になっても、アマゾンでは表紙の写真が入っていないままです。気になって出版元である雄山閣のサイトに飛び、「近刊」のページを見たら、8冊の本が3月25日発売としてあげられており、これらはすべて表紙の写真が入ってますが、問題の本は写真が入ってないどころか、そもそも載ってません。

 そして25日になると、それらの8冊は販売されたため、新刊コーナーに置かれるようになり、近刊コーナーは「現在、商品はございません」と表示されています。となると……

と心配したのですが、発売日とされている27日にアマゾンのこの本のところを見てみたら、こうなってました!

6月発売だそうですよ。下の方の出版社の情報の箇所では、相変わらず、

  • 出版社 ‏ : ‎ 雄山閣 (2025/3/27)
  • 発売日 ‏ : ‎ 2025/3/27
  • 言語 ‏ : ‎ 日本語
  • 単行本 ‏ : ‎ 250ページ

となっているままです。編者・著者・出版社の間のどこかで激しい争いが生じ、恐ろしい事件まで起きて出版が遅れているのであれば、『週間文春』あたりで取材し、「血で血を洗う出版遅延事件の闇! 飛鳥の遺跡横にひそかに造られた考古学者の墓と埋められた呪物」とかいったスクープを出してほしいくらいです。

 この本が刊行されたら、「こんな状況だったんですよ」と報告したうえで内容の紹介をするつもりでしたが、この調子だと刊行は56億7千万年くらい先になるかもしれないため、現段階で一度、アップロードすることにします。


かつての『隋書』倭国伝論文の補訂版:榎本淳一「『隋書』倭国伝について」

2025年03月26日 | 論文・研究書紹介

『隋書』倭国伝の記述と『日本書紀』の隋関係の記述の不一致については、これまで何度かとりあげましたが、現時点での穏健な検討をしているのが、

榎本淳一『隋唐朝貢体制と古代日本』「第一部 朝貢体制と古代日本の国際関係」中の「補論 『隋書』倭国伝について」
(吉川弘文館、2024年)

です。榎本氏の倭国伝論については、2008年の論文を2014年に紹介したことがあります(こちら)。今回の論文は、基本はその踏襲ながら、検討が進んだ面もあるため、前回とりあげてなかった点を紹介しておきます。

 まず、倭国伝では「日出処天子」国書記事は大業3年(607)のこととされていますが、『隋書』帝紀と『冊府元亀』の朝貢の部では大業4年(608)としています。つまり、これらは異なる史料に基づいているのです。榎本氏は、『隋書』の高麗伝や赤土国伝でも、『隋書』帝紀とは年次のズレが見られると指摘しています。

 先の記事でも榎本氏が『隋書』倭国伝を5つの部分に分け、依拠した史料が違うらしいことを指摘していましたが、裴世清の記録については、貞観年代に隋の歴史の編纂をおこなった際、裴世清がまだ生きていたことは、貞観12年(638)の『貞観氏族志』において四等に位置づけられていることからも明らかとします。『隋書』を編纂した魏徴らの取材を受けた可能性はゼロではないのです。

 というのは、『魏鄭公諫録』巻四「対隋大業起居注」には、魏徴が関係者の子孫に家伝の内容を問い合わせたことが記されているからです。

 裴世清が倭国に派遣されたのと同じ頃に、東南アジアの赤土国に派遣された常駿の場合は、『赤土記』2巻が唐代に存在しており、他にもそうした例がありますが、裴世清については、そのような記録は伝えられていません。

 そして、裴世清の報告によれば、隋使たちは、倭王が派遣した「小徳の阿輩台」との従者数百人が「儀仗を設け、鼓角を鳴らし」て盛大に迎えたとしていますが、『隋書』の倭国伝では、倭王は朝会には、必ず儀仗を整え、「其の国の楽を奏す」と書かれています。

 また、倭国伝では、「楽に五弦の琴、笛有り」と記するのみで鼓角については触れていません。『日本書紀』でも裴世清を盛大に歓迎した様子が描かれているものの、鼓角には触れていません。

 この時点で鼓角が倭国に存在し、隋使の歓迎に用いられたとなると、最初の隋への使いの際、隋から与えられたということになりますが、それはなさそうですね。となると、隋使を鼓角で歓迎したとする倭国伝の記述は事実でなく、盛大な歓迎を受けたことを中国式に書いている可能性が高いということになります。

 このように、榎本氏は『隋書』倭国伝が貴重な史料であることを認めたうえで、それが反映している元史料の違い、中国風な大げさな表現などに注意すべきことを強調しています。


瓦が語る古代の仏教建築の進展:相原嘉之「初期寺院の創建―7世紀前半における仏教寺院の導入―」

2025年03月21日 | 論文・研究書紹介

瓦が語る古代史:相原嘉之「初期寺院の創建―7世紀前半における仏教寺院の導入」

 仏教考古学において早くから年代判定の際の確実な材料とされてきたのが瓦です。その観点から、最初期の寺院とそれ以前の仏教関連施設について検討したのが、

相原嘉之『飛鳥・藤原京と古代国家形成』「1 初期寺院の創建―7世紀前半における仏教寺院の導入―」
(吉川弘文館、2023年)

です。個別の論文というより、これまでの研究成果をまとめたうえで自分の見解、発見を加えたような感じであって、研究状況を知るうえでも有益です。相原氏はこの論文では、伽藍を持つ本格的な寺を「寺院」、そうでない仏教施設を「寺」と呼んで区別しています。

 相原氏は、推古2年(594)の三宝興隆の詔から30年後には「寺四十六所」と記されるようになり、さらに藤原京遷都直前の持統6年(692)には「天下の諸寺」が「およそ五百四十五寺」となったとされますが、早い時期には瓦葺きでない建物が多かったと述べます。

 そしてインド以来の仏教の展開と日本への導入を概説した後(拙著『東アジア仏教史』を利用してくださって有り難うございます)、欽明13年(552)蘇我稻目が百済王から送られた仏像を「小墾田の家に安置」したことを取り上げ、仏殿を建てたようには見えないため、邸内で仏像を祀ったものとします。

 これに続けて「向原の家を浄め捨ひて寺とす」とあるため、その仏像を向原に移し、家を改修して仏像専用の建物にしたことがうかがわれるとします。「浄め捨ひ」とありますが、「浄捨」は要するに寄付することであって、単に捨てることとは違うという意味で「浄」の語を付けたものです。「喜捨」も寄付であって「喜んで捨てる」ではないのと同じです。

 次に、敏達13年(584)になると、馬子が「仏殿を宅の東の方に経営りて、弥勒の石像を安置」したとあり、また「石川の宅にして、仏殿を修治る」とあるため、仏殿を居宅内、または隣接地に建てたことがわかる。

 相原氏は、これは仏殿と言っても礎石を据えて建物に瓦を葺いたとは限らないとします。実際、富田林市の新堂廃寺南門跡では、掘立柱の建物に瓦を葺いた跡が見つかっています。

 また、邸内で仏像を祀って儀礼をおこなった例として、玉虫厨子をあげます。高さ95センチであって建物を模しており、小さな瓦を葺いた屋根に鴟尾が載せられています。つまり、仏殿のミニチュアですが、難波宮跡では、それよりやや大きい4センのミニチュア瓦や、ミニチュア鴟尾が出土しています。つまり、王宮内に仏殿のミニチュアが置かれ、仏教儀礼がおこなわれていたのです。

 一方、九州では、6世紀末から7世紀初めの無文の軒丸瓦や陰文素弁蓮華文の軒丸瓦が発見されていますが、ごく小量しか出ておらず、那津官家などに供給されたものと推定されており、この時期の寺院の跡は見つかっていません。

 いずれにしても、伽藍創建時の瓦より前の段階の瓦が見つかっている場合、礎石を用いた本格的な寺院ができる前の仏教施設に用いられていた可能性もありますが、中には海外の使節を迎える建物に使われていた可能性も指摘されています。

 そうした中で画期となったのは、百済から寺院建設に関するいろいろな分野の工人たちが派遣され、彼らの技術によって飛鳥寺が建立されたことです。飛鳥寺は平城京に移築されて元興寺となりますが、その極楽坊の屋根には飛鳥時代の瓦が今も乗っています。

 他にも古材が多く保管されており、巻斗については年輪を計測すると590年頃と推定されており、これは、崇峻3年(589)に飛鳥寺のために「山に入りて、寺の材を取る」とある記事に対応しており、『日本書紀』の記述の正しさを裏付けています。

 面白いのは、蘇我氏系の寺は山田古道など、飛鳥の主要な道路沿いに建立されているのに対して、坂田寺など渡来系氏族の寺は飛鳥南方の丘陵などに建立され、地形に制限された形になっていることです。

 また興味深いのは、馬子の居宅とされる島庄遺跡では、方形池の中や周辺から花組瓦が出土していることです。蝦夷の居宅である豊浦家と推定されている古宮遺跡では、花組・星組・雪組の瓦が出土しており、これらが蘇我氏が建立した飛鳥寺や豊浦寺の瓦と同笵・同系であることです。蘇我氏の邸宅には、寺院で用いる瓦を葺いた建物があったのです。


東北大学で『大成経』シンポジウム開催

2025年03月17日 | 偽作の『五憲法』と『先代旧事本紀大成経』関連

  2025年3月16日、東北大学で『大成経』シンポジウムが開催されました。日本の近代仏教研究をリードしている一人であって、このブログでも紹介したオカルト的な聖徳太子観の歴史を追いかけ『隠された聖徳太子』(リンク)を出したオリオン・クラウタウさんの企画です。

 東北大学大学院国際文化研究科の准教授であるクラウタウさんは、現在、東北大学学術資源公開センター資料館助手の曽根原理さん、そして私と科研費研究「憲法作者としての聖徳太子」に取り組んでおり、今回はその成果研究報告の一部として、『大成経』シンポジウムを東北大学の日本学研究会学術大会と連動して以下のように対面とリモートのハイブリッドで開催したわけです。

 

残念なことは、科研費の共同研究者であり、このブログでも紹介したように『大成経』研究の代表者の一人であった曽根原さん(こちら)が、闘病中の身で『大成経』関連の文献を含む、

曽根原理・W.J. ボート・M.M.E. バウンステルス『国家を守護する仏神』(『近世仏教資料叢書』第2巻、臨川書店、2025年)

をまとめ上げたものの、刊行された2月27日の前日に亡くなってしまったことです。今回のシンポジウムには参加する予定とおっしゃられていたのですが。

 今回のシンポジウムは、偽書研究の専門家であって『大成経』の版本・写本については日本で最も詳しい藤原明さん、そして『大成経』の「聖皇本紀」で修士論文を提出して現在は国学院大学大学院の博士課程1年の菊池圭祐さんが発表ということになりました。

 コメンテーターは、『偽書の精神史』(講談社、2002年)の著者でもある東北大名誉教授の佐藤弘夫さん。会場には、偽書研究で名高く、著書で『大成経』にも触れいている原田実氏(このブログでは、大山説をいじった箇所を紹介しました。こちら)や、『大成経』関連論文を発表している若手の間枝遼太郎さん(こちら)、また若手の国学研究者で近く刊行される論文で『大成経』に触れている増田友哉さんなども見えており、その面では盛況でした。原田氏はこんなシンポジウムが開かれるようになるとはと、感慨深い様子でした。

 私は、『大成経』を知らない人も多いだろうから概説をとクラウタウさんに頼まれていたため、思想史における位置と影響について面白おかしくやりました。

 かの『葉隠』を口述した山本常朝がそのためのメモみたいな文書の中で、読むべき本として『大成経』をあげており、その儒教の師である石田一鼎が『五憲法』の注釈を書いているとか、大正時代には日蓮宗の管長やその信仰仲間の佐藤海軍中将が『五憲法』を研究していたなど、影響の大きさを強調したわけです。

 藤原さんの発表は、『大成経』は続神道大系に収録されてますが、このテキストは問題だらけであること、鷦鷯本、延宝本、長野本という三つの系統の伝本の状況と、こうした三伝本があるとする伝承が形成された事情について報告されてました。

 菊池さんの発表は、『大成経』において、覚哿らしい学哿という儒者が理解不十分な存在として批判されており、これは江戸初期において仏教を攻撃した朱子学者を象徴するものだという内容でした。菊池さんはそうした論文も発表されています。

 発表の後で佐藤さんによってコメントがなされ、続いてフロアとの質疑応答となり、今後、『大成経』研究ブームが来ることが予想されるような雰囲気でした。江戸の思想史・宗教史において『大成経』の持つ意義は大きいので。