聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

近代における聖徳太子再評価のきっかけ:東野治之「聖徳太子の人物像と千三百年遠忌」

2022年12月30日 | 聖徳太子信仰の歴史

 古代について研究するには、近代における研究史を知る必要があります。というのは、自分では客観的に研究しているつもりでも、実際には近代になって形づくられたイメージを前提にし、それに合う資料を探したり、それに合わせた文献解釈をしたりしがちだからです。

 聖徳太子の場合、現在のイメージが形成されたのは、千三百年遠忌がきっかけですが、その頃の状況を調査した最新の論考が、

東野治之「聖徳太子の人物像と千三百年遠忌」
(『日本学士院紀要』第77巻第一号、2022年11月)

です。まさに刊行されたばかりです(御恵送、有難うございます)。学士院も変わってきており、すぐPDFで読めるようJ-STAGEで公開していました(こちら)。

 東野氏はまず、今日における平均的な聖徳太子のイメージとして、

A 天皇中心の政治を目指した皇太子
B 遣唐使を派遣して、隋との国交を開き、大国中国に対等外交を主張した
C 仏教・儒教をはじめとする中国文化を積極的に摂取し、古代日本の文明化を促した
D 一時に十人の訴えを聞くなど、卓越した能力の持ち主で、仏教経典の講義や注釈を行った

という点をあげ、これは主に『日本書紀』に基づいて形成されたものであり、推古天皇の即位とともに皇太子となり、「万機を録摂し」たという『日本書紀』の記述によれば、推古朝の施策はすべて太子が領導したことになるが、現在の研究では、皇太子の制度や「摂政」の職はまだなかった、多くの事業は太子と馬子に命じて行われた、有力な皇子が天皇に代わって政治をおこなうのは、斉明朝の中大兄皇子(天智天皇)が最初、とされており、太子の事績、その元となった史料が疑われているとします。

 そこで登場したのが大山誠一氏の「いなかった」説ですが、東野氏は、史料を疑うのは良いものの、疑わしさが証明されないまま積み重ねられ、なし崩し的に「事実でない」とするのでは確実な論証とは言えないと批判します。

 そして、太子の実像については、法隆寺金堂釈迦三尊像銘が後代の追刻でないことを含め、『聖徳太子ーほんとうの姿をもとめて』(岩波ジュニア新書、2017年)に譲るとし、『日本書紀』のような太子像が形成された原因を探っていきます。

 その原因については、「極めて優秀な能力を持つ皇子が実在し、将来の即位への含みを残しつつ、天皇の職務の一部を代行したという事実が実在した」ためとします。

 太子関連の資料のうち、比較的信頼度が高い『上宮聖徳法王帝説』では、太子は「王命(ミコノミコト)」と呼ばれているが、資料によって「皇子命」「皇子尊」などと呼ばれるこのミコノミコトの最初は太子であり、それは後の皇太子につながるような特別な位置を意味したと考えられる、と説くのです。

 ただ、太子が関わったのは、十七條憲法の制作、仏教の興隆、仏典の講義・注釈などに限られ、外交に直接関与した形跡は見られないため、「太子の役割は推古天皇や馬子大臣の統治に対するアドヴァイザーに終始したのではなかったか」と見ます。

 外交不関与という点は、私の主張(こちら)や塚口義信氏の最近の論文(こちら)とは異なりますが、役割をそれなりに認める立場と言えるでしょう。

 その太子は、長らく仏教面で尊崇されてきましたが、江戸時代になって儒者から批判されたのは、馬子が崇峻天皇を暗殺したことについて抗議も批判もしていないという点でした。明治時代になって、久米邦武以前に近代的な伝記研究をおこなった薗田宗恵『聖徳太子』(仏教学会、1895年)が、その弁護に努め、太子の感化があったからこそ馬子は推古天皇の意に逆らわないようになったと論じたのは、太子への反感がいかに強かったかを示すものだと、東野氏は説きます。

 その後、久米邦武の『上宮太子実録』(井洌堂、1905年)が登場し、史料批判をおこない、比較的信用できるものと、後代の荒唐無稽な伝説を切り分ける研究方法が確立されてゆきます。

 そうした中で太子顕彰の役割を果たしたのが、大正2年(1913)設立の法隆寺会です。この会が発展したものが「聖徳太子位置千三百年遠忌奉讃会」であり、さらにそれが「聖徳太子奉讃会」となっていきますが、これについては増山太郎氏編著『聖徳太子奉讃会史』という有益な本が出ています(このブログでも紹介してあります。こちら)。

 ただ、奉讃会事業のトップとなるよう頼まれた渋沢栄一が、水戸学を学んだ自分は太子は大嫌いだとして断ったものの、太子の意義を知らされ、事業の協力に転じるドラマティックな記述が見られますが、東野氏は、様ざまな史料を検討し、そのままには受け取れないとします。

 たとえば、明治時代末に水戸藩主とも関係深い水戸市の善重寺が明治の末に太子殿を再建する際、渋沢家の執侍が寄付名簿に記名押印しているため、渋沢が奉讃会やその役員の性格を確かめようとして「一場の芝居を演じてみせたのであろう」と推測します。

 これはどうでしょうかね。地元の名士として、その値の寺の寄付事業の一端をになうのと、奉讃会の会長となるのでは立場がまったく違います。ただ、東野氏は高橋良雄の日記に、内務大臣官邸の晩餐会での講演に政財界の大物たちが参加していたことなど、これまで知られていなかった史料によって募金状況を明らかにしており、有益です。

 さて、渋沢が動いて事業が進み出し、太子は「美術を始め日本文化の各方面を指導して発展させた偉人」というイメージが広まっていきます。奉讃会に参加していた高島米峰、境野哲(黄洋)『聖徳太子伝』、黒板勝美『聖徳太子御伝』などが次々に刊行されていくのです。宣伝活動は全国に及び、NHKによるラジオの全国放送も行われた由。

 この時期の活動について、裕仁皇太子が大正天皇の摂政となったこととイメージが重ねられたという推測について、東野氏はありうることとします。その太子のイメージが広まったのは、高額紙幣への太子の肖像の採用であり、裕仁皇太子の妃の父が奉讃会の会長であった久邇宮邦彦王であったことも偶然はではかったかもしれない、と東野氏は説きます。

 昭和9年から法隆寺の大修理が行われますが、その際は、文部省内に法隆寺国宝保存事業部が設置され、事務次官が部長となるという特別な体制が取られたことに注意します。

 戦後になると、太子のイメージが修正されます。平和国家・文化国家の建設を指導した人物という形となり、戦時中の天皇の詔に従えという部分の強調に代わって、「和を以て貴しとなす」の面が重視されるようになったのです。

 なお、東野氏は日本学士院の会員ですが、法隆寺官庁の佐伯定胤が僧職としてはただ一人、戦前・戦後にかけて帝国学士院・日本学士院の会員であったことも、太子を顕彰し、太子研究を支援した奉讃会と法隆寺の関係を物語るとします(実際には、佐伯定胤は唯識説の権威であり、近代的な仏教学を学んだ学者も定胤の講義を聞いた人が少なくありません)。

 東野氏は、奉讃会風な太子の捉え方を批判的に検討し直すことによって太子像の研究を進め、太子と政治の関係などを明らかにする必要を説いてこの論文をしめくくっています。


『勝鬘経義疏』を尊重した唐の僧侶の注釈:楊玉飛「明空撰『勝鬘経疏義私鈔』の注釈性格」

2022年12月26日 | 三経義疏

 前回は『勝鬘経』講讃図をとりあげたので、今回は、中国にもたらされた『勝鬘経義疏』に対して中国僧がつけた注釈について中国人研究者が日本語で書いた論文にしましょう。

 前回は~だったので、今回は……というのは、トイビトのサイトに「鬼はなぜ虎皮のパンツを履くのか」などのお気楽学術エッセイを書いている連載のスタイルです(こちら)が、取り上げるのは、

楊玉飛「『勝鬘経疏義私鈔』の註釈性格」
(『印度学仏教が研究』第67巻第2号、2019年3月)

です。『勝鬘経疏義私鈔』について初めて詳しく書いたのは、中国人研究者である王勇さんの『聖徳太子時空超越ー歴史を動かした慧思後身説ー』(大修館書店、1994年)であるのも、面白いところです。

 王勇さんとは、コロナになって以来、会ってませんが、日中国交回復がなされて創設された北京日本学研究センターの第一期生であって、現在の中国における日本研究の代表的な一人ですね。

 楊さんは、来日して国際仏教学大学院大学で学び、中国における『勝鬘経』注釈書の研究で学位を得た若手です。

 その楊さんのこの論文は、日本の僧が入唐した際に『法華義疏』と『勝鬘経義疏』をもたらしたところ、中国僧の明空が『勝鬘経義疏』に注釈をつけたものであって、長い中国仏教史の歴史の中で、中国人僧がインド以外の仏教文献について注を書いたのはこれが最初で最後ですね。

 それというのも、『勝鬘経』は如来蔵思想の重要な経典であったにもかかわらず、唐以前の注釈の多くは散佚してしまっていたうえ、聖徳太子は天台宗の開祖である智顗の師匠であった南岳慧思の生まれ変わりという伝承があったため、天台宗系の僧侶であった明空が注目して6巻の注釈を書いたたのです。

 入唐中にその注釈に出逢った円仁が、これを日本に持ち帰り、叡山で保存されており、近代になってから再び注目を集めるようになった次第です。

 さて、楊さんは題目の論文では、太子の『勝鬘経義疏』の輪廻のあり方、生存のあり方について注目します。普通は、肉体による分段生死と、体を持たない不思議変易生死という二種類ですが、『勝鬘経義疏』は四種の分類を説きます。これに対し、『勝鬘経疏義私鈔』は「無名氏」の説に基づいて二種の生死についてのみ説明し、残りの二つには触れません。四種生死説は、伝統説から見れば誤りなのですが、賛成も反対もせず、無視するのです。 

 また『勝鬘経疏義私鈔』は、『勝鬘経義疏』では一切の生き物に仏性があることを認め、そうでないと草木と同じだとしていることに着目します。というのは、これはインド仏教以来の伝統であるものの、中国仏教となると隋から初冬にかけて活躍して三論宗を集大成した吉蔵は、悟った仏の目から見れば自然界もそのまま仏の境地だと説くようになっており、天台宗も唐代になると湛然などはその立場を強調するようになるからです。

 『勝鬘経疏義私鈔』は、天台宗の文献を引用しており、湛然の著作も利用していますので、その立場からすれば『勝鬘経義疏』のこの部分は批判すべきなのですが、『勝鬘経疏義私鈔』は、ここでも表だっては批判しません。諸説ある部分については、「無名氏」の解釈なるものを示し、それに賛同するのみで、『勝鬘経義疏』の問題のある箇所を否定することはないのです。

 このため、楊さんは、『勝鬘経疏義私鈔』は太子の『勝鬘経義疏』を尊重有していたため、賛成できない部分については批判せず、「こっそりと『義疏』の解釈を変えようとしている」と推測します。南岳慧思禅師に生まれ変わりの方の解釈ですからね。


「勝鬘経講讃図」で恵慈を指で指す山背大兄と見上げる小野妹子が示す三宝の意義:田林啓「聖德太子勝鬘経講讃図解釈試論」

2022年12月22日 | 聖徳太子信仰の歴史

 この数回は、聖德太子に関する最近の考古学の研究成果を紹介しましたので、今回は美術史の論文にしましょう。

田林啓「聖德太子勝鬘経講讃図解釈試論」
(『仏教芸術』6号、2021年3月)

です。

 田林氏は、西域の仏教美術を中心に研究している研究者であって、この『勝鬘経』講讃図論文の前に、氏が所属する白鶴美術館所蔵の講讃図について、図中の三宝の配置に注意した解説を書いています。

 聖德太子の伝記を仏伝のように編年の形で絵として描くことは、早くに始まっており、8世紀には既に四天王寺で絵伝が描かれていたと推測されています。

 以後、法隆寺でも太子の絵伝が作成され、あちこちに広まりますが、『勝鬘経』の講讃は、太子の事績の中でも重要な事柄ですので、絵伝の中で描かれるだけでなく、講讃の場面だけが独立して描かれた絵が広まるようになります。12世紀には法隆寺の夢殿にも『勝鬘経』講讃図とおぼしき図が掛けられていました。

  講讃図には聖徳太子一人のものもありますが、講説を聞いている人々も描くのが普通で、その人数は3人から6人まで様ざまです。一般的なのは、太子以外に、長子の山背大兄、高句麗僧の恵慈、百済の学者の覚哿、蘇我馬子、小野妹子の計6人が描かれているものです。

 この形式で現存する最古の絵は、法隆寺と播磨の斑鳩寺に残る作品であって13世紀の作とされています。この図では、画面中央に麈尾を手にして講説する太子が大きめに描かれ、その前の机には、『勝鬘経』、柄香炉、念珠筥が置かれています。

 人物の配置としては、以下のようになっています。時計の逆回りの順でいくと、赤い袍を着た童形の山背大兄、礼盤の上に座った慧慈、緑の袍を着た覚哿、黒い袍を着て跪拝している馬子、同じく黒い袍を着て顔をあげている妹子となっており、太子と恵慈以外は皆な笏を手にしています。

              舎利容器(仏)
        太子↘   
      山背大兄    ↘   机(法)
  慧慈(僧)    ↗      ↖
   覚哿     馬子  妹子

↘ や ↖ は視線の方向です。太子は右下の妹子を見、妹子は太子を見上げており、太子は妹子に向かって講説しているように見えます。

 田林氏は、山背大兄も妹子を見ており、左手を前に出して人差し指を伸ばし、恵慈を指していることに注意します。妹子も左手の人差し指を伸ばし、恵慈を指しているようです。

 その恵慈は、太子ではなく、机を、つまりは『勝鬘経』を見ており、その先には舎利容器があると田林氏は説きます。

 恵慈は僧であり、『勝鬘経』は経典ですので「法」、舎利は仏の遺骨であって「仏」そのものですので、僧・法・仏、つまり仏法僧から成る三宝が一直線に並んでいることになります。しかも、『勝鬘経』は、仏・法・僧が別々である別体三宝と、それらをすべて含んでいてより根本的で重要な一体三宝について説いた経典であり、『勝鬘経義疏』はこれについて詳しく論じています。

 つまり、この図は、まさに『勝鬘経』の内容と対応しており、しかも、「憲法十七条」は「篤く三宝を敬え。三宝は仏法僧なり」と言われていたことと関わりあうと田林氏は指摘します(三宝のうちの僧宝の「僧」は、僧伽=サンガであって、僧団全体を指しますが、個々の出家修行者はその一員であるため、漢訳仏教圏では僧団も僧侶も「僧」と呼びます)。

 この図は、三宝のうちの僧に導かれ、教えである法に親しみ、仏に帰依するというあり方を、異時同時法によって示し、僧である恵慈の視線は、法である経典に向けられており、その先に仏にほかならない仏舎利があることを示していると田林氏は説きます。

 そして大臣である馬子が跪拝しているのは、為政者としての太子の偉大さを表しているとします。これはあくまでも田林氏の解釈ですが、絵伝は順をおって絵解きをしていきますので、その一場面をとりあげた講讃図についても、その絵の中で見ていく順序があり、その順序に意味があることは確かです。

 なお、『勝鬘経』講讃図には、鎌倉時代初期に太子に関する伝説を増幅した法隆寺顕真の考案になる「聖皇曼荼羅」もあります。これは母后・太子・膳皇后の三骨一廟の信仰が背景になっており、太子の前身である勝鬘夫人、太子の転生とされる聖武天皇、空海、聖宝、さらに顕真の先祖であって太子に仕えたと顕真が主張する調子丸、その調子丸が面倒を見た甲斐の黒駒も描かれるなど、サービス過剰のものですので、このタイプの講讃図については、別に紹介します。


尼寺である中宮寺は他の尼寺の瓦を意図的に採用:清水昭博『日本古代尼寺の考古学的研究』

2022年12月17日 | 論文・研究書紹介

 前回は、清水昭博氏を中心とする法隆寺関連遺跡の研究報告を紹介しました。清水氏は、同じ時期に科研費研究も進めており、その報告書も出ています。

清水昭博『日本古代尼寺の考古学的研究』
(平成29年度~令和3年度科学研究費補助金[基盤研究C]研究報告書 課題番号 17K03221、2022年3月。研究代表者:清水昭博)

です。構成は、以下の通り。

 Ⅰ 本研究の目的と方法
 Ⅱ 飛鳥時代の尼と尼寺
 Ⅲ 近江國愛知郡の古代寺院運営とその背景
 Ⅳ 中宮寺創建瓦と飛鳥の尼寺 
 Ⅴ 飛鳥時代の僧寺と尼寺
 Ⅵ まとめ 
 Ⅶ 飛鳥時代尼寺関連資料参考文献

 多彩な内容ですので、法隆寺に関連する部分だけ紹介しておきます。清水氏は日本の最初の出家は善信尼など3人の尼であって、彼女たちは以後の尼の指導者になったであろう、ということから話を始めます。推古32年(624)段階では、僧尼は1385人おり、そのうち尼が569人だったのであって、尼はかなりの数を占めていたのです。

 しかし、早い時期の文献は尼寺に関する記述は僅かしかありません。そこで、清水氏は、善信尼の出身母体である渡来系の鞍作氏によって造営された尼寺である坂田寺の軒丸瓦の分布を検討することにより、古代における尼寺の状況探ろうとします。

 坂田寺式軒丸は単弁八弁蓮華文であって、山田寺の瓦に近いものの異なりも大きく、祖型は吉備池廃寺(百済大寺)のものと見られる由。このタイプの瓦が出ている遺跡としては、奥山廃寺、片岡の尼寺廃寺(南廃寺・北廃寺)、紀伊の西国分廃寺・最上廃寺・北山廃寺、尾張の篠岡2号窯・東畑廃寺などがあります。

 このうち、奥山廃寺は小墾田宮があった地の近辺にあり、その創建瓦は620年頃と推定されています。奥山廃寺の金堂は、東西23.4メートル、南北19.2メートルの大きさであって、四天王寺式伽藍配置であったことが知られており、早い時期の建立であることが分かります。

 以下は略させていただき、聖德太子と関係深い中宮寺の瓦の検討を紹介します。

 中宮寺が現在の場所、つまり法隆寺の東隣りに移ったのは16世紀のことで、もともとは現在の中宮寺より約400メーターほど東の地にありました。出土している瓦のうち古い軒丸瓦は、3Bb、4A、M1、M2であって、3Bb、4Aは若草伽藍の瓦の分類に基づきます。3Bbは、元は飛鳥寺のⅧであって、豊浦寺のⅡBを経て、前の記事で紹介した北倭村窯に瓦笵が移され、若草伽藍や中宮寺の瓦を焼いたのです。

 一方、若草伽藍の4Aは、若草伽藍造営段階でその瓦笵が創作されたのであり、おそらく北垣内窯で生産された後、やや痛んだ瓦笵が楠葉平野山窯に移され、そこで四天王寺の瓦を造るために用いられました(このことは、以前、いくつかの記事で触れました。たとえば、こちら)。

 斑鳩宮が建設されて太子が移ったのが推古13年(605)、宮と平行して建立作業が進められたであろう若草伽藍の造営年代は不明ですが、金堂薬師仏像銘が推古15年(607)に斑鳩寺完成としていますので、この年代を金堂完成の年と見て良いことになります。

 ただ、3Bb、4Aは僅かしか出ていないため、創建中宮寺の瓦の主体は、豊浦寺式のM1と奥山廃寺式のM2ということになります。奥山廃寺の瓦の年代は620年前後と推定されているため、中宮寺の M2も同じ頃となりますが、これは太子の母である間人皇后が推古21年(621)に亡くなり、その宮を中宮寺としたという伝承と矛盾しません。

 法隆寺では 3Bbや4Aに続き、620年代に 6Cや6Daなどの瓦を造っていきますが、創建中宮寺がそれを採用せず、豊浦寺や奥山廃寺の系統の瓦を用いたのは、この二つの寺が中宮寺と同様に尼寺であったためではないか、と清水氏は推測します。

 そこで清水氏は、飛鳥寺と尼寺である豊浦寺が近い距離にあるのは、僧寺と尼寺は離して造営し、しかも鐘の音が聞こえるくらいの距離にするのが通例であって、百済の場合もそうなっている、と指摘した田村圓澄説を紹介し、飛鳥にもそうしたセットと見られる僧寺と尼寺があることに注意します。

 飛鳥寺と豊浦寺、法隆寺と中宮寺、法輪寺と法起寺だけでなく、大和の片岡には、多くの瓦が共通する尼寺北廃寺と尼寺南廃寺があるとします。この「尼寺(にんじ)」というのは地名です。尼寺が長く存続していたことが地名となって残っているのです。ですから、両方とも「尼寺(にんじ)~廃寺」と呼ばれているものの、片方は僧寺であったと清水氏は推測します。

 しかも、北廃寺と南廃寺の創建時の瓦は、尼寺である坂田寺の瓦と同笵であって、坂田寺→尼寺南廃寺→尼寺北廃寺の順で瓦は造られていますので、清水氏は、この両廃寺を、『法隆寺伽藍縁起幷流記資材帳』に見える片岡僧寺と片岡尼寺と見ます。

 清水氏は、尼寺だったと思われる大和の多数の遺跡、および各地の遺跡に関する氏自身の調査と、他の人たちの調査を紹介します。大和では片岡・金剛山麓・葛城山麓・二上山麓・奈良盆地東山麓・平城京・その他であって、畿内では摂津・山背であり、これ以外の地域では播磨、近江、紀伊、尾張、伯耆、出雲、備後、筑紫です。

 摂津では、正道廃寺と久世廃寺のうち、正道廃寺の奥山廃寺式の瓦は、同笵の久世廃寺の瓦笵を原型として製作されたようであり、奥山廃寺は推古天皇の小墾田宮に併設して造営された尼寺である小墾田寺と推定されるため、久世廃寺は、推古天皇と結びつくことになります。

 実際、舒明天皇即位前紀に見える栗隈采女黒女という名のうち、栗隈は久世郡の郷名であり、この地は天皇家と関わりがあるため、久世廃寺は栗隈氏が建立した尼寺であって、その420メートルほど横にある正道廃寺は、それと対となる僧寺であったと清水氏は推測します。

 播磨では、西条廃寺と石守廃寺が僧寺と尼寺と見ることができるとします。西条廃寺は、法隆寺式伽藍配置ですね。

 興味深いのは、早い時期の寺院跡が密集している近江です。ここは聖德太子建立と称する寺がいくつかあるところですね。このうち、滋賀県愛知郡愛荘町畑田の畑田廃寺と同郡愛荘町野々目の野々目廃寺は、この一帯を押さえていた依知秦公氏によって僧寺と尼寺として建立されたと見ます。

 播磨も近江も法隆寺と関係深い地域ですが、上記の地域のうち筑紫については、畿内と違って6世紀後半から7世紀半ばの寺院跡やその頃の古い寺院用の瓦はまったく発見されていません。

 文献でも、尼寺については、『続日本紀』大宝元年(701)8月甲辰条に「観世音寺筑紫尼寺」と見えるだけです。このため、清水氏は、筑紫尼寺は天智天皇が亡き母のために発願して造営した太宰府の観世音寺に付随する尼寺と見られるとする長谷川彰氏の説を是認します。

 寺院については、推古朝末期には46あったとされていましたが、『扶桑略記』によれば、飛鳥時代も終わりに近い持統6年(692)には、545箇所有ったとされており、急激に増えたことが知られます。

 実際に、全国では飛鳥時代頃の寺院跡と推測される遺跡が600以上確認されていますので、この545という数字は根拠があると清水氏は説きます。ただ、そのうち尼寺であることが確定したのは数十箇所しかないため、以後も調査する必要があると説いて、清水氏はしめくくっています。


若草伽藍の瓦と、すぐ近くの平隆寺の瓦を焼いた窯跡を調査:清水昭博『聖德太子関連遺跡の研究』

2022年12月13日 | 論文・研究書紹介

 前回は、若草伽藍・再建法隆寺の地形調査の報告でしたので、今回はその瓦を焼いた窯跡に関する最新の報告にしましょう。文献を「漢文の語法・文体の違いに注意しつつ文章として読む」ということができず、気になる箇所だけとりあげ、推測を重ねてこねあげた虚構説と違い、聖徳太子に関する現在の学界の研究は、このように細かいところにまで至っているのです。

帝塚山大学奈良学総合文化研究所編『聖徳太子関連遺跡の研究 : 法隆寺創建瓦生産窯の調査』(帝塚山大学考古学研究所、2020年)

です。

 これは多くの協力者に支えられた調査研究ですが、研究を主導し、報告を執筆したのは、古代の瓦に関する代表的な研究者の一人である帝塚山大学考古学研究所所長の清水昭博氏(清水氏とは東大寺のシンポジウムでお会いしたことがあります)。

 この報告書は、文科省の私立大学研究ブランディング事業に帝塚山大学が申請して採択された「『帝塚山プラットフォーム』の構築による学祭的「奈良学」の研究」の成果報告です。このブランディング事業は、なんとも曖昧なものであったうえ、文部官僚たちの汚職騒ぎによって短縮されて終わるという、ひどい企画でした。私が在職していた駒澤大学でも応募して採択されたのですが……(もごもご)。

 それはともかく、帝塚山大学奈良学総合文化研究所は、採択されて配布された助成金によって、若草伽藍の創建瓦が発見されている生駒市高山町の倭村山田地区と生駒郡三郷町勢野家東の北垣内地区を調査したのです。前者にあったであろう窯を北倭村窯、後者にあったであろう窯を北垣内窯と呼びます。後者の地区は、法隆寺と関係が深い平隆寺の近くですね。

 ここで紹介するのは、報告書のうち、「3. 法隆寺創建瓦生産窯の調査、4.まとめ 5. 考察:聖德太子と古代の三郷」 の部分です。

 若草伽藍については、建物ごとに異なる瓦が用いられていたことが知られています。金堂では 3Bbと4Aという2種類の軒丸瓦が用いられており、前者は飛鳥寺や豊浦寺の瓦と同笵、後者は四天王寺や中宮寺の創建瓦と同笵であることが分かっています。

 まず、3Bbの瓦が発見された山田地区は、若草伽藍の北にあたる大和郡山市を越えてさらに北に位置しています。この地区は、出土破片から見て瓦と陶器を兼業で焼いていたと推定されており、今回は、出土物を調査するだけでなく、ドローンも使って地形調査もした由。

 すると、土器の細片や陶磁器などの僅かな遺物が発見されただけでしたが、この地区は窯を作るのに適した丘陵斜面があり、斑鳩とは直線で12.6キロも離れているものの、すぐ側の富雄川を利用すれば交通は容易であることが分かったそうです。

 次に、斑鳩の西側に位置する三郷町北垣内地区では、4Aに似た瓦が発見されていますが、この瓦はこの側の平隆寺、およびそのやや東の八幡堂跡からも発見されており、この地の窯で焼かれた瓦が、若草伽藍と斑鳩周囲の寺に供給されたことが推測されます。この三郷の地の場合も、瓦窯を造るに適した丘陵斜面が存在していた由。

 この地の中心となる平隆寺は、法隆寺から約3.5キロしか離れておらず、平群寺とも呼ばれていることが示すように、この地は平群氏の支配地でした。平群氏では、用明朝から推古朝にかけて平群神手と宇志が大夫として国政に参画しており、神手は馬子に加わって守屋合戦に参加し、宇志は冠位十二階の小徳を授けられ、聖德太子が没した翌年の推古31年(623)には、征新羅副将軍に任じられています。

 平隆寺については、若草伽藍や四天王寺と同様の四天王寺式伽藍配置になっていたことが分かっており、沢山の瓦が出土しています。そのうちには、飛鳥寺の星組系の瓦も含まれており、これは若草伽藍や創建中宮寺の瓦と同笵のものです。

 このため、最初期の造寺の一つということになります。ただ、この型は数が少ないため、清水氏は、最初は小さな仏堂程度だったものと推測します。そして平隆寺の北方には飛鳥時代の窯跡が集中して存在するため、若草伽藍の瓦も北垣内窯、つまりこれらの瓦窯のうちのどれかの窯で焼かれたと推定します。

 この辺りからは、7世紀初頭の須恵器や、飛鳥寺の創建瓦の星組系の技術で作られた丸瓦も出土しているため、清水氏は、この窯での操業は7世紀前半にさかのぼると見ます。古代の三郷の窯が、若草伽藍や中宮寺に瓦を供給する中枢となっていったと見るのです。

 ここからは私の推測ですが、守屋合戦に際して馬子・太子側で戦った氏族が早い時期に寺を建てていたことは重要と思われます。守屋合戦は、大王後継をめぐる抗争その他の争いの面も強く、『日本書紀』が伝えるような仏教受容をめぐる争いでなかったことは、近年明らかになっていますが、だからといって、仏教推進の動きとまったく無関係だったとは言えないでしょう。

 そのうえ、推古天皇による「仏法興隆」の方針に基づき、百済の工人たちの最新技術によって馬子の法「興」寺と、太子の法「隆」寺が造営され、その法隆寺にほど近い地に平「隆」寺が造営されたというのは、この当時の権力の所在、その権力と仏教の密接な関係を示していて興味深いですね。


校正中に亡くなった考古学者が残した法隆寺再建論:菅谷文則『甦る法隆寺』

2022年12月09日 | 論文・研究書紹介

 7月の法隆寺夏期大学は、講師を依頼されておりながら、コロナ感染のためにリモート講義にせざるをえなかったのですが、先日の記事で報告したように、少し前に斑鳩文化財センターでの若草伽藍の壁画片を展示を見るために斑鳩まで出かけ、法隆寺も久しぶりに拝観しました。

 現在の法隆寺が再建か非再建かをめぐって明治に大論争が起き、これが日本の建築史や美術史を発展させたことは良く知られています。問題は、その論争から100年もたったにもかかわらず、この件については諸説があって今でも議論が続いていることです。

 今回とりあげるのは、奈良県教育委員会の技師となって飛鳥宮や法隆寺その他の調査を行い、滋賀県立大学に勤務し、橿原考古学研究所所長も務めた菅谷文則氏の遺著となった、

菅谷文則『甦る法隆寺ー考古学が明かす再建の謎』
( 柳原出版、2021年)

です。

 友人である茨城大学名誉教授の高安雅博氏の「あとがき」によれば、菅谷氏はこの本の校正中に亡くなられた由。菅谷氏は、2年間の北京大学留学の後、法隆寺の昭和の大修理の際、5年間にわたって境内の調査にあたり、何度か現場を訪れた高安氏を案内してくれたそうです。

 2021年になって菅谷氏は入院がちとなり、3月末に高安氏が見舞いにいくと、校正を渡してこの本を高安氏に託し、3ケ月後に亡くなった由。

 菅谷氏は「はじめに」の部分で、その調査の際、再建・非再建論について考古学の立場から考えて自分なりの結論を得たが、建築史学界の一部の人には賛成してもらえずにいると述べています。

 本書は、

第一章 奈良時代の法隆寺
第二章 法隆寺再建・非再建論争
第三章 建築史からみた再建論・非再建論
第四章 考古学からみた再建論
第五章 現在の法隆寺

という構成になっています。よくまとまった説明がなされていますが、菅谷氏の専門は考古学ですので、第四章の内容を紹介しておきます。

 まず、考古学の調査がなされたのは、再建・非再建論争が起きた後の大正時代の末からであって、防火水道敷設のために境内のあちこちを掘り起こしたところ、古い瓦が多数出土してからだそうです。このため調査がおこなわれ、担当者は建築史の研究者であったものの、博学な岸熊吉でした。

 その調査で、五重塔の心柱の下に空洞があり、舎利容器などが存在することが発見されました。

 若草伽藍跡の発掘は、良く知られているように、昭和14年に行われました。その心楚が実業家の野村徳七の神戸の邸にあることが判明すると、岸は法隆寺の佐伯定胤管長に知らせ、佐伯管長が京都の野村の別邸に赴いて礎石の寄付を頼み、快諾されたのです。

 そこで巨大な礎石を若草伽藍跡に運び、元の位置に戻すために、石田茂作などによる調査が実施されました。石田の報告によれば、心楚付近は鍬も通らないほど堅かった由。

 この調査の結果、若草伽藍は建物が縦一列に並ぶ四天王寺式であって、方位が西に20度ほど傾いていることが明らかになりました。現在の法隆寺の創建瓦より古い瓦も発見され、これによって非再建論は下火になったのです。

 戦後になってさらに調査が進み、多くのことが明らかになってきたのですが、逆に謎も生まれました。現在の法隆寺の金堂は再建だとしても、その建築様式がかなり古いのはなぜか。再建の主体は誰か。少なくとも金堂だけは、若草伽藍が焼失する前に工事が始まっていた可能性はないのか、などの疑問が生じたのです。

 昭和52年から58年まで調査に参加した菅谷氏が問題にしたのは、地山の高低差による法隆寺の旧地形の復原でした。現在の法隆寺の裏山の丘は、かつてはその東南に位置する若草伽藍迹あたりまで伸びていたのです。

 その調査により、菅谷氏は、若草伽藍と現在の西院伽藍が同時に存在した可能性はないと結論づけました。現在の西院伽藍は、自然の流蕗を埋め立て、丘陵を削る工事をして伽藍を造営していたのです。氏の想定する地形図は、以下の通りです。

(同書、91頁)

 また、西院伽藍からは若草伽藍で用いられた瓦も発見されており、転用の可能性もあるため、『日本書紀』が斑鳩寺の火災について「一屋も余ること無し」と記しているのは、やや割り引いて考えねばならないとします。

 また、瓦は若草伽藍だけでなく、入鹿の軍勢によって焼き討ちされた斑鳩宮跡からも出ているため、斑鳩宮には、持仏堂のような小さな仏堂があったと考えられています。

 菅谷氏は、出土瓦から見る限り、若草伽藍は推古9年(601)の斑鳩宮の建設と同時に造営が開始されたのであって、金堂は金堂薬師像銘に法隆寺建立の年として記されている「丁卯年(推古15,607)」という年代とも矛盾しないようだと述べます。

 薬師像銘自体は後に刻したものであっても、その年の数字だけは史実を伝えていると見るのです。ただ、若草伽藍の塔の造営は聖徳太子没後の620年代と見られるとし、上宮王家が滅ぼされる前に若草伽藍の全体が完成していたかどうかは不明とします。

 若草伽藍が焼失した後、なぜその跡地に再建せず、大がかりな整地事業をおこなって現在の地に造営したのか、誰が主体となって造営したのかなども不明であって、法隆寺論争はまだ完全に終結したとは言えず、解決への道のりは遠いと、菅谷氏はしめくくっています。

 なるほど。五重塔の解体調査の際、あれだけ重い建物を載せておりながら、地盤がほんの僅かしか沈んでいなかったことが判明した、という報告を以前読みましたが、それほどしっかりした基礎工事をやっていたんですね。大王の宮殿すら掘立柱であった時代が7世紀末近くまで続くのですから、それを考えると、五重塔を持つような伽藍は、いかに最先端の技術の結晶であったか良くわかります。


「天寿」の語を考える際に参考になる中国の造像銘:倉本尚徳『北朝仏教造像銘の研究』

2022年12月05日 | 論文・研究書紹介

 「天寿国繍帳」とその銘文については、盛んな議論がなされてきており、このブログでも何度もとりあげてきました。この繍帳と銘文に関する数多い論点のうち、「天寿国」とは何なのかに関する論争史については、大橋一章『天寿国繍帳の研究』(吉川弘文館、1995年)が詳細な検討をしています。

 しかし、無量寿仏(阿弥陀仏)の極楽浄土なのか、弥勒菩薩がいる兜率天なのか、一般的な「天」ということであって曖昧なのか、といった諸説が乱立しており、決定には至っていません。

 私自身は、「天寿国繍帳銘」は、釈尊が亡き母のいる天に登って法を説いて恩返ししたとする中国成立の経典、『大方便仏報恩経』を利用しており、法隆寺金堂釈迦三尊像も同様であることを発見しています(こちら)。

 この場合、釈尊が母に説法しに出かけていった天は、地上の人、それも神通力を持った修行者の目にも見えないことが強調されている点は「天寿国繍帳銘」と共通するものの、その天で間違いないとは言い切れません。

 「天寿国繍帳」は女性が描かれているため、女性はいないはずの阿弥陀仏の極楽浄土とは異なるはずですが、極楽浄土のような図柄や、中国の不老不死の仙人の世界のような図柄、その他の図柄を含んでおり、決めがたいためです。

 逆に言うと、いろいろな面が混在しているのが「天寿国繍帳」だということになります。この点を考えるうえで有益なので、中国の南北朝期の浄土信仰は極楽か兜率か釈迦か阿弥陀かといった教理論では片付けられないことを指摘した仏教美術史の久野美樹氏の研究であり、また阿弥陀仏の浄土の信仰と兜率天の信仰その他が混在している北朝の造像銘について検討した、

倉本尚徳『北朝仏教造像銘研究』
(法藏館、2016年)

です。倉本さんのこの大判の本は、本文と「あとがき」だけで701頁あり、電話帳を思わせるような重い大著です(ご恵贈、有難うございます。紹介が遅くなりました)。この本では、北朝の碑文を精査し、皆で協力して造像をおこなった地方の信者結社や石柱に仏像と道教の神像が一緒に刻まれている例を報告するなどしており、学僧の教理文献を読んでいるだけでは分からない当時の庶民信仰の実態が明らかにされています。図式先行の論文と違い、残されている「もの」に向かい合った着実な学問成果です。

 この本で「天寿国繍帳銘」に関わるのは、「第七章 北朝・隋代造像銘に見る西方浄土信仰の変容ー『観無量寿経』との関係を中心にー」です。

 倉本さんは、造像銘から生天・往生浄土を表す用語を地域と時代ごとに分類します。そして、時代が下るにつれて、天に関する用語が減少し、浄土を示す語が増えていくとします。これは、浄土信仰が広まっていくにつれて、理解が進んだということですね。

 理解が進む前については、釈迦像や弥勒菩薩像を造って西方浄土に生まれることを願う例なども多かったことが指摘されています。

 さて、倉本さんは、北朝の造像碑文に最も多く登場する定型句は「亡者生天」であると指摘した後、「西方」とか「妙楽」などのように、極楽浄土を思わせる言葉が用いられていても、実際には弥勒菩薩の兜率天がこの世界の真上でなく、天上の西方にあると考えられていたことも考慮する必要があるとします。

 この点について言及しているのが、久野美樹氏の研究であって、それによれば、北魏の498年に造られた観音像には、鳥に乗る菩薩とそれを見上げる供養者が線刻されており、西方浄土に往生するのは天の西の方に飛んでいくと考えられるのであって、道教の昇仙思想の影響も見られるそうです。

 極楽浄土ははるか西にあるのであって、上にあるわけではないですから、「上生」とか「昇る」とかの語が見られる場合は、注意する必要があるわけです。

 倉本さんは、往生した先で出逢う仏についても、北魏時代は「諸仏」とかの例が多いのに対し、「弥勒」や「無量寿仏」などの具体的な仏の名をあげた例は少ないことに注意します。仏教受容期ということなんでしょう。北魏時代は「天宮」という語が多いものの、それ以後は減るそうです。

 北魏時代には阿弥陀仏と記してあっても、信仰としてはまだ曖昧であって、北斉あたりから「南無阿弥陀仏」という表現が出てくる由。そうして盛んになっていった西方往生信仰を示す典型的な表現は、「託生西方妙楽世界」であるそうです。

 ただ、北朝から隋になると、無量寿仏という名が減って阿弥陀仏という名が増えることが指摘されます。唐代には特にそうなりますが、これは仏教受容期の中国では、不老不死の神仙思想が盛んであって、極楽世界の阿弥陀仏も「無量寿」という点で歓迎されていたということですね。

 こうした諸例を見ると、極楽往生を願うか兜率往生を願うかなどをめぐって論争するのは、経論に通じた学僧の話であって、一般の人びとはもっと素朴でごちゃごちゃした生天思想を持っていたことがわかりますね。橘大郎女の思いを造型した「天寿国繍帳」も、おそらく同様なのでしょう。


中世の聖徳太子のイメージは「未来記」を残した予言者:小峯和明『予言文学の語る中世』

2022年12月01日 | 聖徳太子信仰の歴史

 日本史上、聖徳太子ほど時代によってイメージが変わった人物はいません。そうしたイメージのうち、中世に広まった一例は「予言する聖者」であって、「未来記」を残したというものです。この点を検討したのが、

小峯和明『予言文学の語る中世-聖徳太子未来記と耶馬台詩-』
(吉川弘文館、2019年)

です。

 小峯さんは、学科は違いますが大学の先輩であって、かなり後になってから研究仲間となりました(コロナ前に会ったのは、小峯さんが立教大学退職後、時々教えに行っている北京の人民大学で開催された説話文学シンポジウムの時であって、二人で大学そばのモンゴル料理店で食事して御馳走になりました)。

 『今昔物語集』研究でスタートした小峯さんは、アジア諸国の文学を比較検討し、諸国の研究者を組織していくつものプロジェクトに取り組んでいる幅広い研究者であり、力を入れていた分野の一つが中世の「予言書」です。中世には「予言書」を含む数多くの偽作文献が作られていますが、聖徳太子の作とされることが多いのです。そのため、この本の構成は、

 Ⅰ <聖徳太子未来記>の生成
  一 <聖徳太子未来記>の世界
  二 中世の未来記と注釈
  三 中世日本紀をめぐって
  四 <聖徳太子未来記>と聖徳太子伝研究
  五 <聖徳太子未来記>とは何か
 Ⅱ 「耶馬台詩」をめぐる
  一 未来記の射程
  二 「耶馬台詩」注釈・拾補
  三 「耶馬台詩」とその物語を読む
  四 未来記の変貌と再生
  五 予言者・宝誌の変成
 Ⅲ <予言文学>の世界
  一 「御記文」という名の未来記
  二 <予言文学>の視界
  三 災害と<予言文学>
  四 占いと予言をめぐる断章
  五 <予言文学>の世界、世界の<予言文学>
 『耶馬台詩』注釈資料修正
 あとがき
 初出一覧
 索引

となっています。内容が豊かすぎて、聖徳太子関連の部分だけに限っても、とても紹介しきれませんので、とりあえず、Ⅰの一の「<聖徳太子未来記>の世界」だけ、紹介しておきます。

 まず、聖徳太子については早くから伝説化されていました。平安中期の『聖徳太子伝暦』がそれらを集成してさらに伝説化を進め、以後は『伝暦』の注釈の形で太子伝が次々に書かれます。そうした太子伝の中では太子の予言なるものが強調されており、その部分だけを単行したり、更に拡張した「未来記」の類が量産されるようになります。

 また一方では、『日本書紀』では推古28年(620)に太子が馬子とともに歴史書を編纂したと記されているため、その歴史書と称するものも平安時代から出現します。その代表が十世紀頃に成立した『先代旧事本紀』であって、この書は『日本書紀』と並んで尊崇され、よく読まれました。これも、「未来記」の性格を持つ偽書です。

 そうした「未来記」の中でも有名なのが、『四天王寺縁起』と呼ばれる「荒陵寺御手印縁起」です。寛弘4年(1007)に四天王寺の慈運が金堂内で発見したとされるものであって、「私の死後に、様々な身分で生まれ、仏法を興して人々を救済する者は、我が身の再来である」と説き、寺の保護などを命じたものです。

 良く知られているように、太子の直筆だというこの縁起の末尾には「皇太子仏子勝鬘」と署名が記されていました。つまり、『勝鬘経』を説いた勝鬘夫人の生まれ変わりであって、皇太子の身で『勝鬘経』を講義した聖徳太子の予言書が出現したということになりますので、大変な話題となりました。

 むろん、835年に落雷で五重塔が損壊し、960年の火事で伽藍の建物の多くが焼失するなどの事件が続き、経営が苦しくなっていた四天王寺の僧が、注目を集めて支援を得られるよう一芝居うったのです。

 この時期に、上記のイメージでとらえられ、この予言書を見て四天王寺を援助してくれそうな有力者と言えば、それは藤原道長であって、実際、道長は太子の後身とされます。それ以前にも、聖武天皇、空海、聖宝などが太子の後身とされていました。

 小峯さんはこの章では、『四天王寺縁起』については詳しく論じてませんが、榊原史子『四天王寺縁起の研究』によれば、四天王寺を支援して何度も訪れ、聖徳太子の後身とされていた聖武天皇の法名が「勝満」であるため、「仏子勝鬘」という署名は、その「勝満」と勝鬘夫人の「勝鬘」をかけてあるのだろうとのことです。

 この偽文書が有名になったため、聖徳太子が「勝鬘」と名のって善光寺如来とやりとりをしたという偽手紙も作成されるようになったのですね。 

 この手紙の場合もそうですが、次の偽書の登場の舞台は、磯長の聖徳太子廟だと小峯さんは説きます。天喜2年(1054)に、太子廟の近くで忠禅という僧が石塔を建てるために地を掘らせていると、長さ1尺5寸、幅7寸ほどの石の箱が出てきたため、開けてみると太子の「御記文」、すなわち寺塔を建てよと命じた予言書であったため、早速、四天王寺に知らせて検証された由。つまり、太子廟と四天王寺は仲間なのですね。

 この文書は、後に忠禅のでっちあげであることが判明し、忠禅は「誑惑聖」と呼ばれるようになりました。ただ、忠禅の偽作であることを強調したのは法隆寺であるため、この事件の背後には、連携していた四天王寺・太子廟側と、これに対抗する法隆寺側の争いがあった、というのが小峯さんの推測です。

 太子廟からはその後も未来記が出現しており、その一つである瑪瑙石碑文を実見した藤原定家は、「愚暗の雑人の筆」と断定したそうです。

 しかし、偽文書は特定の人々、あるいは世間一般の人が「そうあってほしい」と願っていること、あるいは「そうだったのか」と納得しやすいことを書いて作成するものですので、現代の様々な陰謀論と同じで、多くの人が飛びついて信じ込むのです。『四天王寺縁起』にしても、疑う人はいませんでした。

 ここまで来ると、太子の未来記は四天王寺や太子廟とは関係なく、いろいろなところから突然出現するようになります。自分たちにとって都合の良い主張を古びた形の文書として製作し、「太子の未来記が出ました」とか、「太子の未来記に〇〇と記されていたと聞いています」などとやれば良いのですから。

 そうである以上、所領争いをしている寺などで、自分の寺の領地や財産に関する聖徳太子の未来記が次から次へと出現するのは当然のことでしょう。時代とともに、さらに広範な未来記が登場するようになります。

 比叡山の口伝法門によると、最澄が比叡山に登る前に、太子が比叡山に堂を建立していたとされていますし、仏教側でも神祇思想が強まり、大日如来と天照大神の一体説などが出てくると、「聖徳太子は天照大神の再誕だ」という主張も登場します。

 太子の未来記は、太子伝のうちでも説かれ、単行書として世間に広まっていきました。何でもかんでも太子が予言していたとされるようになったのです。平等院建立も太子が予言しており、平安京遷都も太子が予言していたとされます。こうした太子伝が絵解きのテキストになります。

 そういえば、11月24日に国立能楽堂で瑞泉寺のご住職によって、600年ほど前に作られた瑞泉寺の太子絵伝(のレプリカ)の絵解きがなされましたが(こちらと、こちら)、そこでも太子の予言について触れられ、太子と善光寺如来の手紙のやりとりが説かれていました。

 太子の未来記は大量に流布しており、覚一本の『平家物語』でも、天皇が都落ちしていったことを歎いた箇所では、「聖徳太子の未来記にどう書かれていたか、見てみたい」と言われているほどです。そうした記述を読んだ人の中には、「では、自分が『平家物語』のその巻にそうした未来記を書き加えよう」と思う人が出てくるかもしれません。

 このように、「物語の現在が未来記によってささえられ、意味づけられる」のであって、「中世の歴史記述が未来記ぬきになりたちにくいことを示している」ことに小峯さんは注意します。

 そうした未来記は近世になっても登場しますが、江戸時代の特徴は、写本で伝えられるだけでなく、木版印刷によって出版までなされるようになったことでしょう。たとえば慶安元年(1648)刊行の『聖徳太子日本国未来記』では、魔王が三人の悪魔である一遍・日蓮・親鸞を派遣したと述べています。

 当然ながら、旧仏教側の作です。翌年に刊行された『聖徳太子日本国未来記破誤』は、その主張に反論しているため、新仏教側の作であることは明らかですが、小峯さんが注目するのは、年号が合わないとか、基づいている資料が偏っているなどといった合理的な批判に基づいて、聖徳太子の作ではありえない、とする指摘がなされるようになったことです。

 つまり、近代的な歴史研究に近いものが生まれ始めているのです。「未来記そのものがもはや役割を終えつつある」のであって、「それはそのまま中世という時代文化の終わりを予兆するものであった」と小峯さんは説きます。

 危機の状況において出現する未来記は、「乱世になるたびごとに呼び起こされ更新され、戦乱の終局とともに役割を終える」のです。

 むろん、これ以後も未来記、ないし未来記の性格を持つ偽作文書は作られ続けていますが、小峯さんは本書では、作成された時代状況を重視してか、あくまでも「未来記」とか「仮託」といった言い方をしており、偽文書・偽書・偽作などとは称していません。

 こうした態度は、漢訳経典のうちのかなりの部分を占める偽経についても同様であり、小峯さんは「擬経」と呼ぶことを提唱しています。私もそれに賛同し(こちら)、拙著の『東アジア仏教史』(岩波新書)では「偽経」に代えて「擬経」という表現を用いました。

 ただ、近世から現代にかけて出現した、あまりにも作為が目立つ卑俗な文献、特に害がある文献については、「偽作」「偽書」と呼ばざるをえませんが。