聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

大王から見た合議制と群臣から見た合議制の意義:佐藤長門「六世紀の王権」

2022年04月28日 | 論文・研究書紹介
 前回の浜田氏の論文は、佐藤長門氏の合議制に関する論文を引用していました。この論文は、佐藤氏の『日本古代王権の構造と展開』(吉川弘文館、2009年)に収録されている「倭王権における合議制の史的展開」です。

 ただ、佐藤氏はこの主張に基づき、更に詳しく論じた論文を最近発表されているため、そちらを紹介しておきます。

佐藤長門「六世紀の王権ー専制王権の確立と合議制ー」
(仁藤敦史編『古代王権の史実と虚構』、竹林舎、2019年)

です。

 佐藤氏は、稲荷山古墳出土の鉄剣銘の発見により、それまで氏族連合体制であった畿内が、雄略によって軍事的専制王権に転じたとされ、この時期が古代史の画期とみなされるようになったことから話を始めます。そして、倭の五王については続柄が明らかでない例があるのに対して、6世紀になると大王位がひとつの王統で独占され、世襲王権が成立したことに注意します。

 継体天皇については、妃たちの出身から見て、越前・近江・尾張・美濃などの首長と広範囲な交流を持っていて有力な存在だったが、雄略の娘と仁賢天皇の間に生まれた手白香皇女をめとって王位継承の正統性を保証しており、安閑天皇と宣化天皇も仁賢天皇の皇女をめとっていることは、継体の王統が新たな大王家として正統性の保持に腐心していた証拠とします。

 この時期の王権については諸説がありますが、佐藤氏は、全国的な内乱は生じていないものの、大王位をめぐって王権内部で深刻な対立が生じていたことは認められるとします。

 そして、欽明天皇以後は、意図的に王統を欽明の子孫に限定し、その継承資格者は大王宮から独立した宮(皇子宮)を経営して経験をつんだ大兄がなり、大王の没後は、年齢や人間的資質が重視されて、同一世代の大が年齢淳に即位し、それが尽きると次の世代に移行する形になったことを再確認します。

 敏達天皇が亡くなると、その皇子たちでなく、敏達と同世代であった大兄の用明天皇が即位し、敏達の妹である間人を后としているのは、まさにその方式によります。

 佐藤氏は、大王のもとで個人や集団が特定の職務をになうようになったが、体系的な統治システムではなかったため、管轄権を分与された有力階層を統合する中枢機構が必要になったとします。

 さらに、王権が世襲化されると、大王のもとに一体であるべき群臣たちが、sれぞれ意中の後継候補の王族をいただくことにより、王権分裂の危機も生じたため、不断の意志確認の場が設定されたのであって、それが合議制だったと推測します。

 仏教公伝については、実際には受動的な伝来ではなく、『隋書』倭国伝が「仏法を敬い、百済に求めて仏経を得」たと記すように、自発的な導入であったとしたうえで、ともかく重要な事案なので合議が行われたのだと論じます。これは重要ですね。

 このように、重要な役割を果たした合議制ですが、貴族共和制ではないとします。大王の視点からは、意志決定に有力階層を関与させて遂行を保証させ、大王の意志を全体の意思とさせる機関であり、また群臣側からすれば、共同利害を体現する大王を核として結集することにより、自らの地位を保証してもらう機関が合議制であったとするのです。

 その群臣の範囲については、
  1.史料に大臣・大連・大夫と明記されていること
  2.それ以外でも、群臣とわかる記載がされていること
  3.その活動が一代限りでなく、数代にわたっていること
という3条件を満たした氏族を恒常的な群臣とみなすとし、蘇我氏、大伴氏、物部氏、阿倍氏、中臣氏、巨勢氏、平群氏、紀氏をあげています。

 これ以外には、敏達天皇における三輪氏など、大王との個人的関係のあった氏族、渡来系氏族・僧侶、有力な氏族の傍系氏族なども、大王の召集や議題の種類によっては合議に参加することがあったとします。大兄たちもそれぞれの宮系を代表して参画していたと推測するのですが、これは異論もありそうです。

 律令制導入以後の8世紀前半にあっても、1年ごとの議政官は10名を越えていないことからすれば、行政組織が未発達で政務が細分化されていない倭国にあっては、群臣の合議はこの程度の人数を越えなかったと推測します。

 結論としては、群臣のメンバーが容易に変動している点から見て、合議制を氏族勢力の牙城とみなすことはできないというのが、佐藤氏の結論です。

 そして、大王後継候補である大兄が経験を積む場であった皇子宮は、その同母集団の家政機関であり、農業経営・地域開発の拠点であるとともに、「王権から依託された仕奉集団を管轄する執務遂行センター」であったと見るのが妥当とします。

 これは群臣宅の場合も同様であって、こうした皇子宮・群臣宅が大王宮と有機的に結びついて王権中枢を形成していたのが当時の状況であったと見るのです。

 いずれにしても、律令体制すら当初は完全には実施できなかったのですから、まして6世紀から7世紀半ば頃までの状況については、律令制の前段階とか律令制とは反対の状況などとして簡単に割り切るのは実状に合わないということですね。

外国使節に対する饗応などから見た推古朝とその前後の外交儀礼:浜田久美子「「賓礼」以前」

2022年04月25日 | 論文・研究書紹介
 推古朝を研究するには、隋や百済・高句麗・新羅などとの外交がきわめて重要であって、これらの諸国との関係のあり方を示すものの一つが、外国使節への饗応の仕方です。これについて検討した論文が、書物として刊行されました。

浜田久美子『日本古代の外交と礼制』「第一章 「賓礼」以前ー七世紀までの外交儀礼ー」(吉川弘文館、2022年)

であって、2月に出たばかりです。

 これまでの外交史の研究では、倭王は卑弥呼の時代から外国使節の前に姿を現さず、献物受納や国家意志の口頭伝達には群臣層が介在していたことが明らかになっています。浜田氏は、『日本書紀』は外国との関係を外交儀礼を描く形で表現しているとし、高句麗・新羅との外交の例を検討しますが、その使節は倭国の都には入っていません。

 しかし、敏達12年(583)に百済から派遣された日羅の場合は、吉備児島屯倉で慰労された後、対外交流施設であった難波館で天皇に対して甲を献上した結果か、大和の阿斗桑市に客館を作ってそこに日羅を住まわせたことが示すように、新羅使や高句麗使が入れなかった大和に入ることができています。

 浜田氏はこれは、日羅が大伴金村を「我君」と呼び、敏達天皇に対して「臣」と名乗るような倭系百済官僚だったためと見ます。それでも、阿斗に派遣されて日羅に国政を問うたのは阿倍目臣などであって、日羅は敏達天皇の宮には至っていないのです。

 これらのことから見て、倭国の外交儀礼は、外国使節を迎える迎労と、献物進上に対する饗応で構成されていたとしたうえで、群臣は大王と中小氏族を結びつけ、大王の意思形成を支配層全体で保証する役割を果たすという佐藤長門氏の合議制論から見て、群臣は大王と外国使節の仲介の役割もになったと説きます。

 浜田氏のこの論文で興味深いのは、倭国における外国使節の扱いだけを見るのではなく、朝鮮諸国において倭国の使者がどのような儀礼で迎えられたかについても注意していることです。そして、これらを検討したのち、群臣を介在させる倭国の外交儀礼は、「朝鮮三国の影響のもとで形成されたと考えられる」(212頁)と結論づけます。

 これが変化するのは、隋との外交が始まったためです。浜田氏は、推古朝ではまだ隋朝の儀礼は導入されておらず、南朝の儀礼に基づく礼制が整備されたとする榎本淳一氏の説を紹介し、古い時代からの連続性に着目した点を評価しつつも、推古朝の外交儀礼の変化は、やはり遣隋使が体験した儀礼に基づくと推測します。

 裴世清による隋側の視点の記述と『日本書紀』の記述が一致しない点があることは良く知られていますが、裴世清を額田部比羅夫が海石榴市衢で飾馬を引いて迎えているのは、郊外で外国使節を迎える郊労であって、宮室の整備により儀礼の場が宮中に移ったことにともなって導入されたとします。

 また、新羅・任那の使節については、額田部比羅夫が膳臣大伴を率いて阿斗河辺館に引率しており、これは日羅が滞在した阿斗桑市館に近く、河川交通の要所にあったと推測されると説きます。

 そして重要なのは、裴世清の場合、8世紀の新羅使や渤海使と同様、拝朝時には使いの旨を口頭で伝達していることです。君主間の伝達は文書でおこなうものの、使者との意志伝達は口頭なのであって、しかも、裴世清は推古には直接対面していないとします。

 倭王は群臣からの文書進上儀には参加するものの、外国使節には会わないのであって、浜田氏は、この形を隋の儀礼と倭国の儀礼の複合としたうえで、主客がそれぞれ自らに都合の良い解釈をする余地を残し、ともかく国書を受け取ったという儀礼の成果が共有できたとします。

 だからこそ、裴世清は隋帝の宣諭を伝える役目を果たせたことになるのです。これは、631年に来日した唐の使節が礼を争い、唐の皇帝の命を伝えることができないまま帰国したのとは対照的です。

 一方、献物進上については、6世紀には客館に派遣された群臣が献物を調査し、その後、宮で王に献上されていて外国使節は同席していません。この点は皇極朝になっても続きます。

 浜田氏は、隋との外交をきっかけとして朝庭で外交儀礼がなされるようになったものの、饗宴以外は定着せず、従来からの饗応が外交儀礼の中心であったとします。

 7世紀までの外交儀礼は、中国や朝鮮半島の儀礼の影響を受け、それに類似している空間や構成で行われたものの、中国の礼制を完全に導入することはなく、中国風な賓礼は形成されなかったというのが、氏の結論です。となると、推古朝はちょっと異例ということになりますね。

中国南朝の陳の皇帝がおこなった懺悔や捨身:古勝隆一「衰世の菩薩戒弟子皇帝」

2022年04月22日 | 論文・研究書紹介
 倭国が隋の皇帝を「海西の菩薩天子」と称して使者を送ったことは有名ですが、この「菩薩天子」という呼称は、菩薩戒を受けた皇帝を指すものです。南朝の梁から隋、そして初唐ころまでは、皇帝が菩薩戒を受け、様々な仏教の事業をするのが通例でした。このことについて、南朝最後の陳の皇帝たちの例を検討したのが、

古勝隆一「衰世の菩薩戒弟子皇帝ー南朝陳における王権と仏教ー」
(『東方学報 京都』第95冊、2020年)

です。『東方学報』は旧字主義ですが、ここでは新字で表記させてもらいます。京都大学人文科学研究所の古勝さんは、私が在外研究で人文研に1年行っていた時期より前からの知り合いです。古代中国の学術や目録学が専門であるものの、仏教も研究しており、禅宗関係その他、いろいろな論文を書かれています。

 日本に仏教を伝えた百済は、中国南朝の仏教を受け継いでいますので、早い時期の日本仏教については、百済で多少変化した中国南朝仏教と見てほぼ間違いありません。推古朝には高句麗仏教の影響も加わりますが、新羅仏教の影響が及ぶのはやや遅れます。

 ただ、隋唐仏教やそれ以前の北地の仏教については、戦前から廃仏なども含めて研究が盛んであった一方で、貴族的とされる南朝仏教について詳細な研究がなされるようになったのは、近年になってからです。

 さて、古勝さんは、南朝最後の王朝である陳(557-589)の皇帝たちが、菩薩戒を受け、捨身をおこなったことを検討します。これは、梁の武帝にならったものです。

 武帝がおこなった捨身では、皇帝の身分を捨てて寺に赴いて(形式上ながら)奴隷となって雑役に従い、それを皇太子・皇族・臣下たちが膨大な金品を提供して寺から買い戻し、それが寺への布施となる、というものでした。経典講義が得意であった武帝は、懺悔し、道俗を集めて経典の講義をしたようです。やって来たすべての人を飲食で供養する盛大な無遮大会(むしゃだいえ)とか無礙大会(むげだいえ)も行われました。

 その梁の武帝に影響を与えた年上の親戚であり、聖徳太子にも影響を与えたことを私が明らかにした(こちら)南斉の蕭子良とその周辺では、放生や貧民救済、施薬などと同じく菩薩行の一環として捨身もおこなっていた形跡があることは、人文研の船山徹さんが指摘されています。蕭子良の影響は大きいのです。

 中国の菩薩戒の研究の第一人者である船山さんは、梁の武帝が「菩薩戒弟子皇帝」と名乗って以来、武帝の強烈な思いを継承したかどうかはともかく、この自称は陳の文帝、宣帝、隋の煬帝へと受け継がれていったことを指摘しています。

 その船山さんが主催する研究グループに参加していた古勝さんは、陳の文帝は、捨身を行う際の懺悔文である「無礙会捨身懺文」を書いているほか、大がかりな捨身の際のものかどうかは不明であるものの、「菩薩戒弟子皇帝」という自称付きの「妙法蓮華経懺文」「金光明経懺文」「大通方広懺文」、およびそれ以外の懺文を書いていることに注目します。

 そして、これらの懺文について、護教の経典よりも護国経典に基づく懺悔が増えているとする横超恵日先生の指摘を紹介したうえで、陳を開いた高祖は梁の伝統を受けて大荘厳寺で捨身をおこなったものの、文帝などは郊外の寺でなく、宮中の太極殿や太極前殿で捨身をおこなっていることやその他の変化が生まれていることに注目します。

 梁代には盛んであった講経などyらなくなったようです。こうした変化については、北方で勢いを増しつつあった隋に対応する必要もあって、巨額の支出をともなう大かがりな捨身とそれにともなう儀礼はおこなえなかったため、法会も懺悔中心のものとなり、簡略化されたのではないかと推測するのです。

 古勝さんは、これらの懺文にこの当時は既に末の世であるという認識が見られるのも、戦争の影響かもしれないとします。そして、天下の罪を自分の責任とみなす態度が見られるとし、これは儒教の伝統に基づくが、懺文はむしろそれに勝るものとして「菩薩大士」の姿を示し、儒教的な帝王像と仏教の菩薩像を並置していると説きます。

 こうしたあり方と違い、塚本善隆氏が指摘したように、唐代になると皇帝が仏教より優位に立つようになり、玄宗の頃には僧侶が帝に対して「臣」と称するようになったうえ、寺に皇帝の像を安置して皇帝の誕生日などを祝う儀礼をおこなうようになっていきくのです。

 このように、梁と唐をつなぐこの陳代の仏教のあり方は興味深いものであり、百済や日本に対する影響を考えるうえで重要なものと言えるでしょう。あれほど仏教熱心だった武帝の梁が反乱で滅ぼされ、新たに成立した陳の時代には仏教を奉ずる国王を仏教の善神たちが守ると説く『金光明経』や『仁王般若経』などの護国経典が重視され、それに基づく懺悔の儀礼が行われたことは、倭国の受容した仏教と無関係とは思われません。

【追記:2022年4月22日】
コロナ禍のため、中国に本を注文すると届くのがすさまじく遅かったのですが、ここに来て、多少早くなってきました。本日、刊行されて間もない李猛『斉梁皇室的仏教信仰与撰述』(中華書局、北京、2021年)がようやく届きましたので、いずれ紹介しましょう。

近代の価値観や思い込みを排した斬新な女帝史、ただ厩戸の記述は曖昧:義江明子『女帝の古代王権史』

2022年04月19日 | 論文・研究書紹介
 近年、古代史で研究が進んだ分野の一つが女性史です。その好例である義江明子氏の『推古天皇::遺命に従うのみ 群言を待つべからず 』(ミネルヴァ書院、2020年)については、このブログでは異例のことながら、3回にわたって紹介しました(こちら)。

 その義江氏が同書に続き、より広い範囲を扱って入手しやすい新書の形で出したのが、  

義江明子『女帝の古代王権史』(ちくま新書、筑摩書房、2021年)

です。

 前著と重なる部分も多いのですが、女帝を「お飾り」とか「中継ぎ」と見る立場に反対し、その意義を強調しています。何しろ、最初の女帝である推古天皇以来、奈良時代の孝謙(称徳)天皇まで、八代で6人の女帝が誕生しており、この時期の天皇の男女の割合は半々なのですから、女帝は例外的な存在ではなく、普通だったと見るほかないと義江氏は説くのです。

 東アジアの状況にも注意する義江氏は、倭の五王について、『宋書』は倭讃・倭王倭斉・倭王珍など名をあげており、倭という姓の父系出自集団が支配していたように見えますが、これは高句麗の高姓、百済の余姓などと同様、冊封用の名であって、当時の倭王は父系の世襲ではなかったと論じます。

 こうした王は、有力首長の中から実力者が選ばれてその地位に就くものであって、国としては連合政権であり、複数の有力首長が支えたのであり、卑弥呼を「弟」が補佐したことについても、当時の倭語の「おと(おとと)」は肉親とは限らず、同年代の年少者を指すと指摘するのです。

 『上宮聖徳法王帝説』が「五天皇は他人を雑うること無く天の下治(しろ)しめす」と述べているのは、欽明天皇以下の五代は一つの血統のみで王位継承がなされたということであり、この結果、世襲王権が成立したと論じます。この点は、ブログでも取り上げた水谷氏の主張と同意見ですね(こちら)。

 その欽明天皇は、『日本書紀』の即位前紀によれば、皇位に推薦されたところ、自分は幼年であって先帝の后であった山田皇后が「政事」に通じているとして譲ろうとしたと記されています。そして重要なことは、「群臣」たちが候補の中から適任者を選んでいることです。

 推古天皇もそうした状況で群臣に適任と判断されて推挙され、王位についたのであって、隋使の裴世清に面会していないのは女帝であったためなどと言われるものの、古代の大王は男性の場合も外国使節とは会わないのが原則だったとします。

 また『隋書』が「倭王の姓は阿毎、字は多利思比孤」と述べており、男王としているという点については、「タリシヒコ」の「ヒコ」を「彦」と見て厩戸を指すといった説もあるが、「ヒ」は有力王族の自称であり、「コ」はもともとは「集団のメンバー」の意味であり、男女を区別しないとする自説を紹介します。
「彦」が天皇名に用いられるのは、神武天皇以下、実在の不確かな古い時代の人物に限られており、確実なのは奈良時代の聖武天皇からであることに注意します。

 そして、推古は「仏教に帰依する東方の王(天子)として、中国の菩薩天子に向き合おうとした」(83頁)と述べます。このあたり、推古天皇を単なる「中継ぎ」と見る旧説に対する反発が強すぎて、馬子・厩戸の役割に触れなさすぎるようにも見えます。

 これは、「憲法十七条」や三経義疏の内容について踏み込んだ検討がなされていないこととも関連するでしょう。「憲法十七条」の場合も、論文やこのブログで私が書いてきたように出典に注意して読めば、当時の倭国の状況をいかに反映しているか分かるはずです(こちら)。

 厩戸については記述が少ないですね。「厩戸の死と二つのモニュメント」と題する節において、法隆寺金堂の釈迦三尊像銘と「天寿国繍帳銘」をの意義を説き、「天寿国繍帳銘」では欽明と推古だけが天皇と称されている点などから見て、天皇号が制度化されたのは天武・持統朝頃からであるにしても、推古朝あたりから「始用/試用する場面があった。とみる余地はあるのではないか」(92-3頁)と述べるに止まります。

 その他、推古や以後の女帝たちについて有益な検討がなされていますが、問題は、推古はどの程度の漢文や仏教の素養があったかということです。

 推古が判断力に富んだすぐれた人物であったことは疑いいありませんが、百済から交代で派遣されて来た学者や僧、あるいは、そうした者たちに習って漢文文献に親しんでいた倭国の少数の人々、渡来系氏族の知識層などから漢文を習い、中国や百済・高句麗などの制度に関する文献を自分で読み、新しい方針を提案できたのか。

 奈良時代になると、中国古典に通じている女性たちが出てきますが、6世紀末の倭国にあって、推古は若い頃、どのような教育を受けたのか。これは馬子についても言えることです。三経義疏はその個性的な文章によって同じ人物が書いたことが分かります。

 しかも、古代韓国の変格漢文と違い、うねうねと長く続く和風の変格漢文であって百済・高句麗の僧が書いたのでないとなれば、そうした師の僧の講義に基づいて厩戸皇子が書いたことは間違いありません。そうした人物であれば、外交や国政について意見がなかったとは考えられないことです。

 義江氏の著書は、推古天皇や以後の女帝に関するすぐれた研究ですが、馬子や厩戸皇子の役割に触れなさすぎることも事実です。むろん、それは義江氏以外の研究者の仕事ということになるのですが。

馬子大臣は修史によって厩戸皇子即位の正統性を示したか:若槻義小「推古朝から天武朝に至る修史の復元」

2022年04月16日 | 論文・研究書紹介
 推古朝の修史に関する研究、笹川尚紀『日本書紀成立史攷』「第一章 推古朝の修史にかんする基礎的考察」については、数ヶ月前にこのブログで紹介しました(こちら)。その笹川論文も踏まえたうえで、『日本書紀』に修史記事が見える二つの時期について検討した最近の論文が、

若月義小「推古朝から天武朝に至る修史の復元」
(山尾幸久編『古代日本の民族・国家・思想』、塙書房、2021年)

です。

 冠位制の研究で知られる若月氏は、本論文では、『日本書紀』に見える2つの修史記事、つまり、推古28年是歳条の「皇太子・嶋大臣、共に議して、天皇記及び国記、臣連・伴造国造・百八十部并びに公民等の本記を録す」と、天武10年に川嶋皇子などに命じて「帝紀及び上古の諸事を記定」させ、中臣連大嶋と平群臣子首、親してく筆を執りて以て焉を録す」とある記事の関連を検討しています。

 推古朝の記事のうち、「帝紀」については王統譜とみなす説があるものの、漢語の「帝系」などならともかく、「紀」とあるからには書物であって、紀年構成を有するものだったろうと説きます。

 「臣連の……本記」というのは、注でも単一の書物でもなく、個々の氏族の本記の総称であり、「天皇記」と同様に「蘇我臣本記」「大伴連本記「東漢直本記「秦造本記」といった体裁であったと見ます。諸氏族全体をまとめた「氏族志」は、中国でも638年の『貞観氏族志』などが最初であって推古朝以後の成立です。

 重要なのは、「天皇記」の規制のもとに、それぞれの氏族の「本記」を保持することであって、天皇との関係はその頃までは口頭で伝えられており、それが変わっていくのは、冠位制の施行によると説きます。

 「天皇記」は、欽明朝頃から漢人系の「史(ふみひと)」によって作成・管理され、殯宮で朗唱された「誄(しのびごと)」として追加されてきた「王統譜と譜文」「日嗣」を素材として編集されたものと見るのです。

 そして、推古紀の修史の記述は、「嶋大臣」という呼称から見て蘇我大臣系の資料とし、「天皇記」というのは「この史書の理念を表明」したものであり、「蘇我大臣馬子の政権構想からすれば、厩戸皇子即位の正統性を予言する書として構想されていたのかもしれない」と推測します。

 蘇我氏は、欽明天皇の妃であって以後の蘇我系天皇の母となった堅塩媛を「太后」と称して盛大な改葬を行いますが、その立場を反映する「天寿国繍帳」では、欽明天皇と推古天皇だけに「天皇」の語が用いられていると指摘します。

 そして、推古朝の修史開始年は、「欽明五〇年忌」に合わせているという指摘に注意します。堅塩媛の改葬は確かに大事件ですが、この記事に厩戸皇子の姿が見えないのは気になりますね。

 さて、若月氏は、603年の冠位十二階は、施行当時は中央の廷臣たちだけに適用されたにせよ、原則は「臣連・伴造国造・百八十部」全体を覆うはずであるため、有位者の家柄を系譜と譜文によって点検管理する必要があったとします。

 これが舒明朝の修史につながったのであって、「天皇記・国記」の編纂は、蝦夷大臣の邸宅で続けられていたはずであり、おそらく、古人大兄皇子の即位の正統性と予言に帰結するものだったと見るのです。

 若月氏は、以後の展開についても論じていますが、話を推古朝に限ると、『隋書』倭国伝の第一次遣唐使が伝えた情報「倭王は天を以て兄とし、日を以て弟とす」から見ても、当時の「天皇記」は「神代」と天皇の初祖を結合する形にはなっておらず、「天皇記」に代わる「帝紀」で初めてなされたものの、きわめてプリミティブなものにとどまったいたと推測します。

 それが、孝徳朝の頃、百済・新羅・高句麗の始祖神話に学び、「神代」と始祖王(ハツクニシラススメラミコト)を結びつけ、推古朝の修史より進んだ編纂をおこなったのではないかというのが、若月氏の推定です。

 ひとつ気になるのは、厩戸皇子は斑鳩移住直後の数年は盛んに活動しており、『日本書紀』でも記録が多いのに対し、それ以後から晩年にかけては記録がきわめて少なくなっていることです。両者の関係はどうなっていたのか。また、厩戸皇子と馬子の修史の時期は本当はいつだったのか。

四天王寺造営には前期難波宮期を含め3回の画期有り:谷﨑仁美「四天王寺の伽藍造営からみた難波の地域的特性」

2022年04月13日 | 論文・研究書紹介
 前回の記事では、文様以外の要素に着目して瓦の変遷過程を明らかにしようとする試みを紹介しました。瓦の研究は非常に進んでいるのです。最近のそうした一例が、

谷﨑仁美「四天王寺の伽藍造営からみた難波の地域的特性」
(日本高麗浪漫学会監修、須田勉・荒井英規編『古代日本と渡来系移民』、高志書院、2021年)

です。

 四天王寺については、このブログでも紹介した網伸也氏が瓦の研究を中心にして精力的に研究されてきましたが、その網氏の研究成果を踏まえ、瓦の変化から推測される造営・整備の様子について詳細な検討をしているのが谷﨑氏のこの論文です。

 谷﨑氏は四天王寺造営には3回の画期があったとします。第1期は、推古朝の620年頃と推測される創建期であって、瓦の主流は、若草伽藍で用いられたものと同じ笵を用いた NMⅠa形式。法隆寺ならびに上宮王家との深い関係のもとで建立された時期です。

 第2期は、孝徳朝の640年代後半に行われた難波遷都に伴う伽藍整備の時期です。この時は、倭国最初の天皇勅願の大寺である百済大寺(吉備池廃寺)の瓦と同笵であるNMⅡa形式の軒丸瓦を採用しており、『日本書紀』大化四年(648)二月条によれば、左大臣が自ら塔内を荘厳しています。

 ただ、この形式の瓦は多くないため、孝徳天皇の崩御や中大兄皇子たちの飛鳥遷都によって整備は中断された可能性があると谷﨑氏は推測します。

 第3期は、谷﨑氏自身が明らかにしたように、660年代に百済寺(堂ケ芝廃寺)の創建と平行して伽藍全体の整備が行われた時期です。NMⅡc形式を用いたこの時期の伽藍整備は、創建時にならぶ大事業であったことが判明した由。
 


 その後も、聖武天皇の難波遷都にともなって伽藍の大修造が行われ、難波宮の建物に関連する同じ文様・同じ笵の軒瓦が出土しているほか、平安時代になると、延暦24年(805)頃に完成したと考えられる平安宮豊楽殿に、四天王寺造瓦所から瓦が搬入されています。

 このように、四天王寺は時代の波に揺れ動かされながら生き延び、何度燃えても同じ場所に同じ伽藍配置で再建されて現在に至るのであって、中門・塔・金堂・講堂が南から北にかけて一直線に並ぶ伽藍配置は四天王寺式と言われています。

 ただ、四天王寺式の最初は、実際には斑鳩寺(若草伽藍)であり、四天王寺の創建時は金堂と塔だけ建立されたことが明らかになっています。問題は講堂であって、天武天皇頃の造営とする説もありますし、中門や回廊と同様に7世紀中頃まで遡るとする説もあります。

 講堂・中門の瓦については、文様だけでなく、前の記事でとりあげた接合の技法や材質・焼成なども考慮した結果、講堂は660年代、中門は660年代から670年代に造営が着手され、回廊もこの時期と思われるものの、回廊の瓦とされるものについては、別の建物の瓦が混じっている可能性があるため、判定は難しいそうです。
 
 また、新しい瓦が用いられていても、後の時代に補修されたことも考えられるうえ、四天王寺では同じ笵を長年にわたって用いているため、問題は複雑になります。

 それらを考慮したうえで、谷﨑氏は、660年代に再整備が着工されたが、途中で工事の変更があり、講堂や中門が完成したのは、8世紀前葉頃と結論づけます。

 重要なのは、その中断時期に、すぐ側に堂ケ芝廃寺が四天王寺と同笵のNMⅡc形式の瓦を用いて創建されていることです。この寺は、斉明朝の「難波百済寺」であって、百済滅亡に当たって亡命してきた百済王善光などを住まわせる場として利用されたと推測されています。

 また、そのすぐ北にある細工谷遺跡からも瓦が出土しているため、百済寺と対になる百済尼寺の跡と見る説もあります。NMⅡcは見えないものの、やや遅れる四天王寺のNMⅢcの瓦が見えています。

 また、四天王寺のNHⅡa1およびNHⅡa2と似ているものの、再建法隆寺で用いられた法隆寺式の軒平瓦ⅣA2でも用いられるタイプが瓦が見られるため、これらについては、7世紀末から8世紀初めのものであると見ます。そして、堂ケ芝廃寺創建の頃には、細工谷にも小さな仏堂程度の施設が存在した可能性はあるとします。

 面白いのは、四天王寺では法隆寺式の瓦は用いないのに、細工谷遺跡からは、このように7世紀末から8世紀前葉の法隆寺式の瓦が出土していることです。法隆寺と四天王寺は、百済渡来氏族と関係が深いのです。このことは以前の記事で紹介しました。

 『日本書紀』持統天皇五年(691)では、百済王禅広(善光)が、百戸の増封を得たとしており、中央官人として活動するとともに、この地で水田開発と寺院整備をおこなったようです。

 谷﨑氏は、百済寺の創建と四天王寺の伽藍整備は、斉明朝における護国と百済復興の願いを込めた事業であって、天皇家が関与したが、四天王寺の講堂・中門・回廊を整備するにあたっては、百済郡の開発に力を入れた百済王氏の支援が必要だったと結論づけます。海外交流の拠点となる港があり、百済渡来氏族が多く住んでいた難波という土地柄ですね。 

瓦の文様ではなく制作法の変遷に着目:近江俊秀「軒丸瓦制作技法における丸瓦先端加工法に関する若干の検討」

2022年04月10日 | 論文・研究書紹介
 これまで、寺の瓦については、蘇我馬子が建立した飛鳥寺→その姪である推古天皇の旧宮を改めた豊浦寺→馬子の甥の子かつ娘婿であって推古の甥かつ娘婿である厩戸皇子の斑鳩寺→厩戸皇子の四天王寺、という順序で瓦当笵や技術が受け継がれていったこと、また馬子の飛鳥寺は、百済の王立寺院である王興寺を建てた技術者が派遣されて造営されたことを紹介してきました。

 つまり、倭国の仏教導入期にあっては、瓦を用いた本格的な大寺造営の技術は蘇我氏が独占していたのであって、蘇我氏か蘇我氏にきわめて近い親族しか大きな寺は建てられなかったのです。渡来人を通じて仏教が早くに伝わっていたであろう九州や山陰地方などでも、6世紀末から7世紀前半における大きな寺の遺跡や大量の瓦の破片は発見されていません。

 ただ、これまでは主に瓦の文様によってその変遷を判定してきたわけですが、これを疑ったのが、

近江俊秀「軒丸瓦制作技法におけ丸瓦先端加工法に関する若干の検討」
(小笠原好彦先生退任記念論集刊行会編『考古学論究ー小笠原好彦先生退任記念論集』、真陽社、2007年)

です。文化庁文化財部の調査官である近江氏は、同氏の『道が語る日本古代史』において、蘇我馬子と厩戸皇子は外交方針が違っていたと論じており、このブログでも紹介しました(こちら)。

 近江氏は、瓦については、海外から畿内を経ずに地方に直接もたらされた文様、地方で独自に考案された文様もあるうえ、同じ寺が古い文様を長年にわたって使い続けていた例、畿内の文様が地方で用いられるまで大きなタイムラグがある例など、様ざまな場合があるため、畿内の瓦の文様の変遷をそのまま基準として年代判定することはできなくなったと説きます。

 そこで注目したのが、瓦の作成技法、瓦当と丸瓦を接合する際の技法です。というのは、同じ瓦工が同じ時期に異なる瓦当笵を用いて瓦を制作している場合もあれば、同笵であっても異なる瓦工が作成している場合などがあるからです。

 近江氏は、丸瓦の先端の加工法、つまり斜めにカットするか片柄形にするかや、焼成の仕方などに着目し、飛鳥寺の花組・星組の系統における変化を、豊浦寺、坂田寺、奥山廃寺、船橋廃寺、吉備池廃寺、斑鳩の寺々などについて検討していきます。

 そして、花組系統は、比較的早い段階で文様と技法が分離し、別々に伝わっていくようなったのに対し、星組は飛鳥寺→斑鳩寺→四天王寺という順序で、瓦工そのものが笵を持って移動していったと論じます。以後も斑鳩では平隆寺などに星組の技法が色濃く残り、さらに河内の寺に伝えられていく由。

 近江氏は、瓦の接合技法の変化は、最初は飛鳥における初期の寺院造営のピーク時期、第二期は複弁様式が成立する7世紀中頃、第三期は天武朝に始まる飛鳥・藤原地域における二度目の寺院造営のピーク時期と重なるとし、今後は、文様を考慮せず、制作・接合技法の変化だけによって年代判定をおこなう必要もあるのではないかと提言しています。
 
 瓦の作成時期、つまり寺の造営時期は、造営した氏族や造営目的とも関わりますので、重要ですね。

 いずれにしても、斑鳩寺が蘇我氏が有する最新技術によって早い時期に造営されたことは間違いありません。厩戸王は都から離れた斑鳩の地に推古朝に46もあった寺の一つを建てたにすぎず、国政に関わるほどの勢力は無かったなどという太子虚構説は大嘘です。

 46寺というのは、推古朝末期における総数であって、小さな仏堂程度のものも含んでいるであろうのに対し、斑鳩寺は3番目の寺、しかも都と難波の港を結ぶ交通の要衝の地に斑鳩宮と平行して建てられ、倭国で最初となる彩色壁画を備えた堂々たる大寺院でした。

炭素計測による写本の年代測定が進行中:小田寛貴「加速器質量分析による和紙資料の14C年代測定法」

2022年04月07日 | 論文・研究書紹介
 年輪年代法によって法隆寺の木材の伐採年代が発表された時は、大騒ぎになりました。このブログでもその成果について紹介したことがあります(こちら)。

 写本についても科学的な年代判定が進展しつつあります。今のところ、聖徳太子に関わるような研究はなされていませんが、藤原定家の写本などを例にあげて研究の最新状況を説明してくれているのが、

小田寛貴「加速器質量分析による和紙資料の14C年代測定法」
(木俣元一・近本謙介編『宗教遺産テクスト学の創成』、勉誠出版、2022年、大判、693頁!)

です。「14」は正しくは左肩のところに付きます。

 名古屋大学の助教である小田氏は、放射化学・文化財科学を専門としており、放射性炭素による測定によって奈良写経その他の分析に取り組んでいます。

 14C年代法は、1940年代後半にシカゴ大学のW・F・リビーなどによって確立された方法です。炭素には三種類があり、自然物の中の炭素で最も含有量が少ない14Cは、全炭素の1兆分の1以下しかないのですが、時代によって含有率が変化しているという特徴があります。

 0年前:    0.00000000012%
 1000年前:  0.00000000011%
 5000年前:  0.00000000007%
 1万年前:   0.00000000004%
 2万年前:   0.00000000001%

こういった変化ですので、正確な年代を特定することは無理であって、測定結果に数十年程度の幅があるのはやむをえません。

 小田氏は、その分析の仕方について、装置のことも含めて詳しく説明していますが、物理的な話なので略させていただき、具体的な検討例を見てみると、古筆切れでは、文亀元年(1501)と記された中院宣胤が筆写した断片が1484~1523年と判定されており、紀年と矛盾しない結果となっている由。

 興味深いのは、藤原定家(1162-1241)写として伝えられ、定家の癖に似た書きぶりながらやや稚拙な点があるため、定家の若い頃の書写か後人の書写かとされてきた『古今集』の写本が、検査の結果、1647~1792年頃と判定されたことです。定家の筆ではなかったのですね。

 また、三井寺切と称される草書で書かれた仏書の写本があり、智証大師と記された小さな紙が貼ってあります。智証大師なら円珍(814-891)ですが、裏面は唐の書風の楷書で書かれた『文選』の注となっており、こちらが本来は表であって、その裏を利用して仏教文献を書写したことが知られていました。

 そこで、この写本の紙を調査すると、687~773年頃となりました。これだと、現存する『文選』の日本最古の写本ということになるうえ、現在の『文選注』には見られない文章が記されており、それが古い本文であったことが判明したのです。

 これだと、円珍が唐から帰国する際に持ち帰った本だとしても矛盾せず、そうでなくても、その頃の古い写本なので、円珍の所蔵とか書写だとする伝承が生まれて不思議はありません。

 聖徳太子関連の文献については、筆写が新しいものが多いため、この14C年代測定法が有効な文献は、『法華義疏』くらいでしょうか。いずれにしても、「この時期のはずがない」とか「~に決まっている」といった推測ではなく、科学的な研究が必要であって、法隆寺の仏像やその銘その他に関する調査がおこなわれることを期待したいですね。

 私自身は、客観的な研究の一つとして、N-gramを用いた語法分析に力を入れることにします。現在、仲間で続けている『勝鬘経義疏』読書会でも、「~であることは明らかである」という場合に『勝鬘経義疏』は「~明矣」と表記し、強調・完了の語気を示す「矣」を付けて「決まり切っている!」という語調にしていることが目立ちます。

 この「明矣」という言い方は、三経義疏に共通する特徴であることは、金治勇『上宮王撰三経義疏の諸問題』(法藏館、1985年、226-228頁)が早くに指摘していました。

 今回、新たに調べてみると、『勝鬘経義疏』と7割が一致していて話題になった敦煌出土の南北朝期の『勝鬘経』注釈(奈93)や、解釈が良く似ていると言われる隋から初唐の吉蔵の『勝鬘宝窟』には見えておらず、三経義疏の種本である梁の光宅寺法雲の『法華義記』でも1回しか用いられていません。三経義疏は良く似ているのです。こうした例は他にも多いですね。

「憲法十七条」の「論事」の意味:イグナシオ・キロス「「コトをアゲツラフ」と「コトアゲ」は関連するのか」

2022年04月04日 | 論文・研究書紹介
 1日には「憲法十七条」に関する冗談記事をアップしたため、今回は「憲法十七条」に関するまともな論文を取り上げましょう。

 「憲法十七条」に関する本はかなり刊行されていますが、その多くは、学問的に解明したものではなく、自分の社会観・道徳観を「憲法十七条」のうちに読み込み、聖徳太子が既に説いていたとしてあれこれ述べるお説教の類ですね。

 そうした中で、「憲法十七条」の文言を正確に理解しようとした研究の一例が、

イギナシオ・キロス「「コトをアゲツラフ」と「コトアゲ」は関連するのかー「日本書紀」の十七条憲法を中心にー」
(『國學院大學研究開発機構 日本文化研究所年報』10号、2017年9月)

です。キロスさんとは、以前、メールでやりとりしたことがあります。

 古代日本における言葉の問題に関心を持つキロスさんは、記紀における漢字の意味と倭語で読み下した場合のズレに注意し、その一例として「憲法十七条」第一条の「然上和下睦、諧於論事、則事理自通。何事不成」のうちの「論事」という表現をとりあげます。

 この「諧於論事」という部分は、「事(こと)を論(あげつら)うに諧(かな)う」と読まれています。そして、古代では個人的な意見を述べる「コトアゲ」は忌避されていたが、聖徳太子はそれを幅広く奨励したとする解釈もあるのですが、キロスさんはそれを否定します。

 「論」を「アゲツラヒ(フ)」と訓むのも、「辞」と「事」をともに「コト」と訓むのも問題であって、しかも、それを組み合わせて「コトヲアゲツラフ」と訓むと問題が生じてくるのです。今日では「あげつらう」と言うと、否定的なニュアンスがありますが、古代にはそうした意味はなかったとキロスさんは説きます。

 そして、中国文献では重要な事柄を示すことがある「事」という字を、『日本書紀』では「天皇への即位」の意味で用いている例があるとし、「論事」を「凡夫」が民主的に論じあうこととする解釈を否定します。「憲法十七条」は「大事」を論議して決める人々が対象であり、庶民は無関係なのです。
 
 また、上代における「コト」の語の多様性を正確に把握していたのは本居宣長だと評価しつつ、「アゲツラフ」の「アゲ」は、「事のさまあるいはあるべきさまを云々と挙て言立てる」という解釈は無理とします。

 言い立てるという意味での「コトアゲ」の用例について、『日本書紀』では「興言・揚言・高言・称」、『古事記』『風土記』では「言挙」、『万葉集』では「言挙・事挙」だと述べます。つまり、日本風な表記である「言挙」がほぼ定着しているのに対し、漢文で表記しようとする意識が強い『日本書紀』では表記に揺れがあり、内容も様ざまなのです。
 
 キロス氏は、『日本書紀』のうち、中国人が書いたα群と日本人が書いたβ群の違いにおける用例の違いを指摘したのち、「憲法十七条」が載っているβ群について検討するとし、記紀では「コトアゲ」するのは積極的な行為だったのが、『風土記』『万葉集』では「コトアゲせず」となってそうした行為をタブー視するようになったことを大きな違いとします。

 そして、上記の種々の用例を検討したのち、日本語の「コト」は事柄という意味と「ことば」という意味を含むが、漢語としての「事」には言葉の意味はないとし、吉蔵『法華玄論』の「次に大事因縁を論ずるに六重有り」の文を示し(この場合の「大事」とは人々に仏の知見を開かせることです)、また『史記』には「議大事」、『後漢書』には「謀大事」などの用例もあることに注意します。

 そして、「憲法十七条」はβ群である推古紀にあるものの、正式な漢文として書こうとした形跡があることから見て、「論事」の「事」は、石井公成氏が指摘したように天皇の即位のような重大事を指すと考えられるため、「現代語訳するなら、(天皇への即位などのような)重要な物事について論じる」という意味でとたえるのが自然だと思われる」(35頁)と結論づけています。そして、聖徳太子ないし彼の周辺の人物が漢文で作成した「憲法十七条」における「論~事」という表現は、「コトアゲ」とは直接の関係はないと見るべきだとしてしめくくっています。

 古代の重要文献については、このようにひとつひとつの文言を精密に検討しないで論じると、この記事の冒頭で書いたように、自分の願望を原文のうちに読み込んでお説教をすることになるということですね。「憲法十七条」を後代の作と論じる歴史学者の場合は、道徳的なお説教ではないものの、孝徳朝での改革や以後の律令制の要素を読み込もうという姿勢が先行しがちですが。

大発見!「憲法十七条」の原本は丸っこい変体少女文字の平仮名で書かれていた(4月1日限定:特別記事)

2022年04月01日 | その他
 講釈師の神田黒山でございます。「講釈師、見てきたような嘘をつき」などと申しますが、これから申し上げることは、まさに講釈師の私(わたくし)が実際に経験したことであって、嘘ではございません。

 3月31日の夜がしんしんと更け、日付も変わって4月1日となった頃、私が椅子に腰掛けたままふと居眠りをしてしまったのか、椅子を壁にぶつけてしまい、壁が剥がれて古い巻物がひとつ出てまいりました。

 こうした光景は、前にも見たことがあるような気がいたしますが(こちらや、こちらや、こちら)、その巻物を広げてみると、「じゆうなな(十七)」という字が見えたため、ドキッといたしました。見てみると、案の定、聖徳太子の「憲法十七条」でございました。

 ただ、不審なことに、巻物であるのに横書きであって、しかも新仮名遣いと旧仮名遣いがまじった平仮名です。そのうえ、『法華義疏』は (為)や (所)のように、右にくるっと旋回する軽快で曲線的な書風で知られますが、それどころではなく、1980年代に流行した変体少女文字を思わせる丸文字となっておりました。



 思わず、筆ペンなどで作成された最近の粗雑な偽文献かと思ってしまいましたが、さにあらず。巻物の紙は、古い障子紙に小便などを霧にして吹きかけて放置し、変色させて時代臭をつけた類の近代の偽作ではなく、南北朝期の中国の紙のように見受けられました。

 紙の繊維を顕微鏡で見てみましたし、墨の色も確かめましたが、西安の敦煌遺書博物館が所蔵する南北朝後期の『勝鬘経』注釈の断片(奈931)とそっくりです。隋頃の紙でその当時の書風と言われる『法華義疏』より古いのですから、これが日本最古の文献でございましょう。

 ただ、『日本書紀』では推古十二年夏四月条に「皇太子親肇作憲法十七條」と記されておりますが、この巻物では「皇太子」に当たるところが「ふとこ」となっておりました。平仮名ばかりのその文を、読みやすいように多少漢字をまぜて記すと、「ふとこ、上[かみ]つ宮で十七の法[のり]を作ったよ」と読めます。

 「ふとこ」という人物が作成したという記録を、『日本書紀』の編者が漢文にする際、「太子」という漢字に表記改め、律令を考慮して「皇」の字を付し、「皇太子」としたものと愚考いたします。

 聖徳太子の大伯父は「うまこ」であったことを考えると、名前の典拠は、「天高く、馬肥える秋」という成語の元となった唐の杜審言(645-708)、つまり、杜甫の祖父である杜審言の漢詩、「贈蘇味道」でございましょう。

 この詩では、秋になると北地の馬たちが肥えて体力が増すため、「塞」、つまり国境の砦の向こう側にいる北方の遊牧民族が秋の収穫物をねらって良馬に乗って攻め入ってくるぞ、と警戒するよう呼びかけております。この「秋高くして塞馬肥ゆ(秋高塞馬肥)」の句の「馬肥」の2字に基づき、大伯父の「うまこ」に対して、「肥えた子」ということで「ふとこ」と命名したのですな。

 「うまこ」は男性ですが、「ふとこ」さんは、変体少女文字風な丸っこい筆跡ですし、しかも平仮名を用い、「作ったよ」などと書いている点から見て、今風な若くて活発な少女だったに違いありません。脳みそ夫がやってみせる、飛鳥中学に通う女子中学生太子(こちら)みたいな少女だったと思われます。

 杜審言は、7世紀半ばから8世紀初めの人であって、その漢詩に基づいた名の人が推古12年(604)に憲法を作成するというのは不思議ですし、平安時代に確立したと言われる平仮名で、それも戦後の新仮名遣い混じりで書きしるすなどありえないようにも思われますが、そこら辺が「古代のロマン」というものなのでございましょう。

 残念ながら、空気にあたったせいか、巻物の字の色が急に薄くなってまいりました。この字が読めるのは、本日、4月1日限りとなりそうでございますので、「憲法十七条原本発見」の一席、これにて読み切りと致します。