聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

【珍説奇説】日本礼賛と反ユダヤ主義に基づくトンデモ妄想の羅列:田中英道『聖徳太子は暗殺された』

2023年02月25日 | 聖徳太子をめぐる珍説奇説

 東北大学教授として西洋美術を研究しておりながら、次第に日本礼賛の立場を打ち出すようになり、一時期は「新しい歴史教科書をつくる会」の会長もつとめ、会が分裂するとその仲間から離れて「日本国史学会」なる会を組織し、代表理事となった田中英道氏のどうしようもない新著が刊行されました。

田中英道『聖徳太子は暗殺された』(育鵬社、2023年)

です。

 田中氏は、史実無視の日本礼賛者であって、その立場から大山誠一氏の「聖徳太子はいなかった説」を批判する粗雑な本を出しています。そのため、このブログでも「太子礼賛派による虚構説批判の問題点」というコーナーで、批判を連載したことがありましたが、次第に妄想がひどくなってきており、今回の新著は「珍説奇説」コーナーの方で紹介せざるをえなくなりました。

 この「珍説奇説」コーナーの名誉ある第1回では、法隆寺の五重塔は送電塔がモデルだとか、秦氏の神社の鳥居は月着陸船だなどと説いた某教授の妄想論文を紹介しました(こちら)。田中氏の今回の新著は、それよりはややましかもしれませんが、「蘇莫遮」というのは西域の言葉の音写であるのに、法隆寺の聖霊会で演じられた「蘇莫遮」は、怨霊として荒れ狂う聖徳太子を表しており、「蘇莫遮」というのは「蘇我氏の莫(な)き者」という意味だと珍解釈を述べた梅原猛(こちら)よりアブナイかもしれません。

 まず、本書の「はじめに」では、

「蘇我」とは「我、蘇り」のことでキリストの再生を意味し、厩戸皇子は馬小屋で生まれたというキリストの符合ですから、蘇我氏がキリスト中心にしようとしていたことを示しているのです。(6頁)

と述べています。そもそも、「蘇り」でなく「蘇れり」としないと「よみがえり」と訓まれてしまうでしょう。西洋美術史が専門だった田中氏の古文・漢文の基礎力の弱さがうかがえます。

 それに、キリストの誕生に関する伝承は様ざまであり、家畜小屋で生まれたというのもその一つであるうえ、それを馬小屋と解釈するようになったのは近代日本でのことであって、聖書をそう訳したのはむしろ聖徳太子の厩戸誕生伝承の影響であった可能性があるとする最近の説については、このブログで紹介しました(こちら))。

 また、久米邦武が厩戸誕生伝承をキリスト教と結びつけたのは、西欧を視察してその産業とキリスト教の盛んさに衝撃を受け、日本は野蛮国ではなく、キリスト教が早くに入っていた文明国だと主張しようとしたためであるとする論文も紹介しました(こちら)。つまり、厩戸誕生説話とキリスト教とは関係ないのです。

 田中氏によると、蘇我氏は中国に渡って来ていたキリスト教ネストリウス派だそうですが、景教と称されるネストリウス派の文書のうち、敦煌に残されていた写本には、マリアが聖霊によって妊娠したとは書いてあるものの、馬小屋は出てきません。これについて近いうちに書きましょう。

 田中氏は、蘇我馬子について、「「馬子」とは馬を引いているユダヤ人のことです」(6頁)と説くのですが、「有明子」といった表記もあるのはなぜなんでしょう。それに、「馬子」という名が馬に関係しているのは当然ですが、馬を引くとなぜユダヤ人ということになるのか。中国人や韓国人は馬は引かないんでしょうか。

 「馬子」という名を「馬を引く人」と解釈するのは、「馬子(まご)」という言葉からの想像でしょうが、これは近世になって使われるようになった言葉です。「~子」というのは、中国にあっては孔子・老子・孟子・朱子など先生格の人に対する尊称なのであって、古代日本でも「小野妹子」などは立派な男性ということで「子」がつけられていました。田中氏の主張には、このような時代錯誤の思いつき語源説が目立ちます。

 田中氏は、尖った山高帽のような帽子を被り、長い髪をたらして髭を伸ばした人物埴輪が日本で出土しているのは、ユダヤ人が渡ってきていた証拠とします。そして、有名な「唐本御影」で中央の人物の横の二人の少年が髪を美豆良にしていることについても、「ユダヤ人の風俗です」(173頁)と断言しています。

 しかし、長い髪をたらすのと、それを結ってぐるっと輪の形にするのでは、まったく違いますし、ユダヤ人が美豆良を結っているのは見たことがありません。それにユダヤ人の伝統的な帽子は、小型の皿形のものを頭に載せるのであって、つばのある山高帽タイプではないし。とんがり帽となると、私などは、つばはないものの、国際貿易で知られたイラン系のサカ族の帽子などを思い浮かべてしまいます。

 田中氏はこの本以前に「ユダヤ人埴輪」なるものに関する本を出しており、「ユダヤ人埴輪」に見られる帽子と髭と髪型は、ユダヤ教徒の中でも伝統通りに生活しようとする「超正統派」と呼ばれる人々の姿だと強調します。

 しかし、ある歴史学者はその本を「とにかく自国を賞賛しまくる妄想通史」と評し、男性が山高帽のような帽子をかぶり、もみあげと髭を伸ばす「超正統派」は近世に形成されたとする説もあることなどを指摘し、この本のでたらめさ加減を詳細に説いています(こちら)。

 それに、ユダヤ教の「超正統派」の人々が、どうしてネストリウス派のキリスト教に転向するんでしょう。むろん、キリスト教徒になったユダヤ人は、過去もいましたし現在もいますが、唐代の長安に来ていた景教の人々がユダヤ人であったことを示す文献は知りません。

 また、田中氏は、馬子は「聖徳太子をキリストに仕立てようとした」(8頁)のであって、早く天皇にするために崇峻天皇を暗殺したと説くのですが、だったら、なぜ太子でなく推古を天皇にしたのか。

 しかも、田中氏によれば、聖徳太子は素晴らしい伝統を誇る日本人の代表であって、「馬子による日本のキリスト教化に反発した」(9頁)たために暗殺されたそうですが、『日本書紀』や『法王帝説』によれば、馬子の娘を妃とし、馬子とともに政治をとって歴史書も編纂したと記されているのはどうしてなんでしょう? それに、聖徳太子は父方・母方とも蘇我氏の系統ですので、太子にもユダヤの血が入っていることになりませんか?

 田中氏は、「憲法十七条」や三経義疏を上記の立場から強引に説明するのですが、概説の紹介に基づく強引な解釈にすぎないため、西洋美術の研究者であった田中氏は漢文が読めず、仏教や儒教をよく知らず、関連する研究書や論文も読んでないことは明らかです。馬鹿らしくてとりあげる気にもなれません。

 この本のテーマである太子暗殺論については、蘇我氏はキリスト教を広めるための手段として仏教を用いたたが、太子は仏教だけを広めようとしたため、邪魔とされて殺されたのであり、こうした邪悪な蘇我氏を除いたのが乙巳の変だとしています。戦前の蘇我氏逆臣説を「蘇我氏=ユダヤ人悪者説」に変えただけですね。

 それに、ユダヤ人である蘇我氏の陰謀に反対したのが純正日本人である聖徳太子であり、乙巳の変で危険なユダヤ人である蘇我氏を除いたのであって、天智天皇と天武天皇が日本の正しいあり方を定めたとされていますが、天武天皇の皇后であってその後に即位した持統天皇は、天智天皇と蘇我倉山田石川麻呂(入鹿の従兄弟)の娘の間に生まれています。

 つまり、田中説によると、持統天皇にはユダヤの血が入っていることになるのです。しかも、以後は、その持統天皇と天武天皇の間に生まれた人たちの系統が次々に天皇となってますよ。

 田中氏は、日本の純粋さを守る愛国主義者のつもりかもしれませんが、戦前ならこの本は、「皇室をユダヤ人の家系としており、不敬きわまりない」として発禁になった可能性があります。自分で書いていて、そうしたことに気づかないのか。

 田中氏は、古代に技術面で活躍した者たちを片っ端からユダヤ人とします。たとえば、武内宿禰の子とされる葛城襲津彦は応神天皇から弓月君とその民を連れてくるよう命じられ、これが秦氏の祖先とされる者たちですが、「弓月(ゆづき)=ゆず=ユダ」なのでユダヤ人だそうです。

 どうして古代の中国語・韓国語・日本語の音韻やその変化などについて調べないんでしょう。東洋史の研究では、「弓月」の語は(秦氏などが日本に渡ってきてからかなり後となる)唐代になって記録に見えるようになったものであり、中央アジアを支配した西突厥の一族であって、「弓月(きゅうげつ・がつ:中国の中古音では キュングァット)」という表記は、Kangar とか Kangali などの漢字音写ではないかとする説もありますよ。

 私は以前、授業の中で、玄奘三蔵がインドで学んだナーランダ寺を歌った歌が日本に伝えられていると述べ、「♪咲いた、咲いた、チューリップの花が。並んだ、並んだ(なーらんだ、なーらんだ)、赤白黄色……」という歌は、実はナーランダ寺がイスラムによって破壊されて僧侶が殺された悲劇を伝える暗号になっている、などと冗談を言ったりしたのですが、田中氏のユダヤ人説はこのレベルです。

 「弓月(ゆづき)」という訓みついては、神聖な樹木であって儀礼がおこなわれる「斎槻(ゆつき)」と関連するとか、遠い祖とされる融通王の名と関連するといった説もあります。これらをきちんと考慮して検討すべきでしょう。

 それに、この渡来人もユダヤ人、この豪族もユダヤ系と論じていくと、古代の日本は文化の程度が低く、新たな技術をもたらして日本を発展させたのは、朝鮮諸国からの渡来人や朝鮮経由で渡ってきた中国人や西域人などではなく、すべてユダヤ人ということになります。

 また、現代の日本人は、皇室も含めてそうしたユダヤ人たちの血を引いているということになりますので、読んでいると、田中氏のひきいる「日本国史学会」は、皇居前に巨大な「ユダヤ人感謝の碑」を建てる運動を始めるべきではないかさえと思われてきます。邪悪な者たちの活動を強調する陰謀史観というのは、実はそうした者たちの活躍ぶりを示すという性格も持っているのですね。

 田中氏は若い時は優秀な西洋美術史の研究者だったのでしょうが、西洋の学問を学んでいた秀才がこのように日本礼賛や邪悪な外国民族批判のトンデモ妄想をくりひろげるようになる先例としては、木村鷹太郎がいます。

 鋭い舌鋒のため「キムタカ」と呼ばれて恐れられた木村鷹太郎は、東大出身で西洋の哲学・文学のすぐれた研究者・紹介者でありながら、後になると、実は日本こそが世界の文明の起源であって古代には日本が世界諸地域を支配していたと説くようになっていますので、近いうちに紹介しましょう。

 それにしても、出版元の育鵬社って、日本礼賛の立場の歴史教科書を出しているところでしょ。広く認められて教科書の採択を増やしたいはずの会社が、会社の信用を落とすトホホ本ばかり出すというのは、どういうつもりなのか。

 もっとも、社会科学系の堅実な学術書を出版している左翼系の明石書店も、万世一系史観を否定しているという点を評価しているのか、会社の信用度を落とす古田史学の会のトンデモ本を出し続けており、その点は育鵬社に似てますね。

 つけ加えておきますが、私は日本文化が大好きであって、日本の文学・芸能の意義・特色に関する論文を多数書いており、日本批判ばかりやるタイプの人間ではありません。また、拙著の『東アジア仏教史』(岩波新書)では、東アジア諸国における仏教の相互交流・相互影響という面を強調しているように、諸国・諸地域から渡来した人々の活躍という点も重視しています。ただ、あまりにも文献無視、時代背景無視のトンデモ論義を放置しておくことはできません。

【追記】
倉山田石川麻呂「の娘」という部分が抜けてましたので、補足しました。また自分の立場を末尾で少し説明しておきました。

【追記:2023年2月28日】
高い技術を持ったユダヤ人が日本に渡来していたとする田中説は、あちこちで発見されている外国人風な人物埴輪に基づくようです。こうした人物埴輪は、独特な魅力があるものの、異様なまでに写実的で精巧な秦の始皇帝の兵馬俑などに比べれば、子供の粘土細工のようにしか見えません。人物埴輪と同時期である高句麗の墓室の壁画などと比べても、かなり古代呪術的で素朴なつくりに見えるのですが。


『新修 斑鳩町史 上巻』(5):法隆寺西院伽藍と斑鳩の古墳

2023年02月22日 | 論文・研究書紹介

 「第二章 考古学から見た斑鳩の古代」の「第一節 飛鳥時代」の最後、

九 法隆寺西院伽藍の成立
十 斑鳩における飛鳥時代の古墳の諸相

です。西院伽藍については良く知られているため、これまでこのブログで書いてない部分だけ紹介しておきます。

 西院伽藍は、若草伽藍の北西方向にある寺山から南へ延びてきた丘陵を削って造営したものです。ただ、東面と西面の廻廊部分は、削ったうえで埋め立てがなされている由。若草伽藍が西に20度ほど振れていることは良くしられていますが、西院伽藍も磁北より8度、西に傾いています。

 金堂の礎石のうち、5個に円柱座の削り出しが、4個にその痕跡が見られるため、以前用いられたものであることが分かります。新しい仏堂を作る際、転用材を用いるのは不自然であるため、関係深い若草伽藍で用いられていた礎石を用いたと考えられています。ただ、礎石全体の3分の1にあたるものが転用となると、いかに若草伽藍を受け継ごうとしたかが分かりますね。

 『日本書紀』では、斑鳩寺は火災によって「一屋無余」となったと記されていますが、塔の瓦は多く焼けているのに対し、金堂の瓦には焼けていないものも多く、また礎石を転用できたことから見て、平田氏は、落雷によると思われる火災は塔から発して金堂に延焼したものの、「全焼するような状況ではなかったと推測される」と説きます。

 また平田氏は、法隆寺は官寺ではないため、西院伽藍建立に国家が深く関わった様子はないとしつつ、天皇を始め皇族や多くの氏族や僧侶の助力によって寺造りが進められたような印象を受ける由。その点では、かなり特異な寺ということになります。

 「十 斑鳩における飛鳥時代の古墳の様相」では、仏塚古墳、竜田御坊山古墳、竜田守谷古墳、神代古墳が扱われます。まず、法隆寺北方に位置する寺山丘陵の北に延びる小尾根の先端部に位置している仏塚古墳では、石室の開口部を南方向に設定するためには、丘陵の一部を削る必要がある由。つまり、この古墳は、斑鳩宮や飛鳥への眺望を意識して造営された可能性があることになります。

 石室は盗掘されていて副葬品はほとんど残っておらず、須恵器の特徴から6世紀末頃にあたると考えられています。仏像の一部などが発見されるのは、中世に仏堂として利用されたためであり、「仏塚」という名はそのことに基づくそうです。

 陶棺は、破壊されていたものの、三種類の破片があり、複数の人が埋葬されていたことになり、土師氏との関連が注目されるとか。

 造営時期が斑鳩宮造営の時期と近く、仏塚古墳と斑鳩宮は互いに望める位置にあったことから、被葬者は聖徳太子と関係のあった人物とする説があるものの、詳細は不明です。

 竜田御坊山古墳群は、藤ノ木古墳の西方に位置する龍田神社の北の丘陵にある三基の古墳です。そのうち、第3号墳は急ごしらえした痕跡があり、棺には14~5才の150センチほどの若い男性と推定される人骨がおさめられいました。副葬品は多くないものの、貴重であったガラス製管状品が出ており、筆軸ではないかと推定されています。

 他にも隋からもたらされたと思われる硯が残されており、こうした点から上宮王家ゆかりの人物がふさわしいとする説があるものの、これも明確ではありません。。」

 天皇・皇族の墳墓について記した『延喜式』「諸陵寮」によると、斑鳩には三つの墳墓が記載され、頒幣の例に入らない墓として、平群群に造られた墓とされています。これは藤ノ木古墳や竜田御坊山古墳群の被葬者を皇族とする説と関わるものとして注目されると、平田氏は述べます。

 『延喜式』があげる三つの墳墓の最初は、山背大兄の墓です。

「山背大兄王 在大和国平群郡。兆域東西三町。南北二町。墓戸二姻」

とあるのですが、これは法輪寺と法起寺のほぼ中間にある「岡原」と呼ばれる丘陵の頂部にある直径約30メートルの円墳であり、現在は宮内庁によって治定されています。ただ、近接する遺跡からは円筒埴輪などが出ており、5世紀の古墳である可能性が高いとします。

 次は、

「間人皇后、在大和国平群郡。兆域東西三町。南北三町。墓戸二姻。」

とあるもので、吉田寺境内の一画にある直径10メートルほどの高まりが墳丘とされていますが、未調査であるうえ、出土遺物などが伝わっていないため、不明とされます。

 最後は、

「石前王女。在大和国平群郡。兆域東西二町。南北二町。墓戸二姻。」

とあるもので、江戸時代の資料によれば、竜田新宮(神社)の北に「御廟山 〇竜田苑部墓」と記されている墓です。石前王女は、欽明天皇と稻目の娘の堅塩媛の間に生まれ、聖徳太子の叔母にあたる人物であって、伊勢大神に仕えていたところ、茨城皇子との関係が発覚して任を解かれたと『日本書紀』では記している女性です。これについては、平田氏は可能性有りとします。

 このように、斑鳩の古墳には不明な点が多いのです。

 この部分に続く第二章「第二節 奈良時代」にも興味深い報告がなされていますが、略します。


『新修 斑鳩町史 上巻』(4):中宮寺・法輪寺・法起寺

2023年02月18日 | 論文・研究書紹介

 連載に戻ります。今回は、第2章第1節のうち、  

  六 中宮寺の創建
  七 法輪寺の二つの創建説と三井瓦窯跡
  八 法起寺の建立

です。

 まず、「中宮寺の創建」では、中宮寺の名の由来に関する諸説が紹介されます。つまり、太子の生母である間人皇后が住んでいたから「中宮」としたとか、斑鳩の諸宮のほぼ真ん中に位置するからといった説であって、この時期に皇后を「中宮」と呼ぶのは無理とします、

 ただ、平田氏は、僧寺と尼寺が一体として建立されたと考えられるうえ、天平19年(747)の『法隆寺伽藍縁起并流記資材帳』でも太子建立の七寺の一つとされていることから見て、奈良時代には太子ゆかりの尼寺と見られていたことは疑いないと述べます。

 そして、発掘調査の結果が紹介されていますが、良く知られているように、遺構は四天王寺式伽藍配置になっていました。金堂部分は版築が見られ、創建当時は凝灰岩の切石積基壇であって、大きさは東西13.5m、南北10.8mと考えらる由。

 塔については遺存状態が悪いものの、基壇は一辺が14m程度と推定されており、後の絵伝から見て、法輪寺のような三重塔であったと推測されています。面白いのは、塔心礎は上面が平滑に仕上げられており、飛鳥時代の古墳の石室用の石材の転用の可能性があるとされていることです。

 講堂や回廊の跡は見つかっておらず、絵伝でも明確でないため、造営されていなかった可能性があるようです。

 瓦はこれまでもこのブログえで触れたように、若草伽藍金堂の軒丸瓦(3Bb)が二点だけながら発見されています。また、若草伽藍造営に当たって瓦笵が作成され、金堂に用いられた後、楠葉平野山瓦窯に移されて四天王寺の創建時に供給された素弁八弁蓮華文軒丸瓦(4A)も7点発見されています。これらが一体の企画だったことが分かりますね。

 この時期よりやや遅れる瓦も出土しており、再建法隆寺の「法隆寺式」軒瓦が多数見られるため、その時期に再建法隆寺、中宮寺、法輪寺、法起寺などで造寺活動が急激に盛んになった様子がうかがわれ、瓦が供給されていたものの、寺による違いも見られるため、同じ系統の工人たちがいくつかのグループに分かれて作業していたと見られる由。

 宮殿の遺構は発見されていないうえ、十二月に間人皇后が亡くなった後にその宮を中宮寺に改めたとなると、太子は翌年の二月に亡くなっているため、太子が造営を始めたとは考えにくくなります。平田氏は、間人皇后が亡くなる前に工事が始まっていた可能性があるとしますが、納得できます。

 やはり、斑鳩宮と斑鳩寺を平行して造営し、僧寺である斑鳩寺と対になる尼寺もあまり遅れないうちに造営し始めたと見るべきでしょうね。当初は、小さな仏堂のようなものをまず建てていたかもしれませんが。

 法輪寺については、「太子建立七寺」には含まれていないものの、病気になった太子が平癒のため、子の山背大兄などに命じて建てさせたという伝説があります。飛鳥時代の面影をとどめていた三重塔は、昭和19年(1944)に落雷によって焼失しました。

 戦後、調査が行われましたが、元文4年(1739)に三重塔の修理を行った際、花崗岩製の心礎に空けられた舎利孔から香木に囲まれた金壺が見つかり、中に瑠璃玉、仏舎利、数珠、土器、朱土で作った四天王像があったと、記録に残っています。四天王像という点が興味深いですね。

 金堂跡からの出土品により、「法隆寺式」軒瓦が主要な瓦として葺かれていたことが明らかになっていますが、素弁八弁蓮華文軒丸瓦(ⅠA)は、若草伽藍の瓦を作った工人の系統の製作法によっています。

 これは、船橋廃寺式と呼ばれるものであって、百済大寺と推定される吉備池廃寺式、山田寺式の軒丸瓦に先行するとさられているため、舒明朝の630年代に成立したと考えられており、これは創建伝承とも合うことになります。そのため、山背大兄が建立した「法輪寺前身寺院」で用いられたと考えられている由。

 つまり、山背大兄は、父と同様に僧寺と尼寺の創建を企画し、僧寺として「法輪寺前身寺院」、尼寺として法起寺の建立に着手したものと平岡氏は推測します。入鹿の襲撃によって上宮王家が亡びたため、造寺活動は停滞したものの続いていき、法隆寺再建の時期にまた造寺活動が盛んになったと見るのです。

 『補闕記』では、百済聞師、円明師、下氷居新物などの3人が寺を造ったとされているため、平岡氏は、この3人が「法輪寺前身寺院」を再興する形で法輪寺を造営したのであって、出土した文字刻印瓦や線刻画瓦などは行基建立の大野寺土塔の文字瓦に通じるものがあるため、知識瓦の萌芽を見いだすことができるのではないか、と述べます。多くの人たちの助力によって建立されたとするのですね。

 法輪寺と法起寺の中央やや北寄りのところにあるのが、三井瓦窯跡です。ここからは古瓦の破片が多数出土しており、斑鳩で法隆寺が再建され、法輪寺、法起寺、中宮寺の造寺活動が盛んになる時期に操業していたことが判明しています。

 その法起寺は、岡本宮跡の推定地に建っており、我が国最古の三重塔で知られています。『聖徳太子伝私記』所載の「法起寺塔露盤銘文」によれば、聖徳太子が山背大兄王に岡本宮を寺に改めるよう遺言したとされていました。舒明天皇10年(638)に、僧福亮が弥勒像を造って金堂を建て、天武14年(685)に恵施僧正が塔の造営を始め、慶雲3年(706)に露盤をあげて完成したとされています。

 この露盤銘ついては諸説あって論争となっていましたが、創建当時は、法隆寺式伽藍における金堂と塔の位置を入れ替え、中門を発した回廊が金堂と塔を囲んで講堂に取りつく独自の形であって、法起寺式伽藍配置と言われています。創建当時の本尊については不明ですが、7世紀中頃に製作されたと推定される像高20cmの金銅製(伝)虚空蔵菩薩像が伝えられています。

 法起寺については、13回の調査がなされており、瓦は三つの時代のものが出ています。最も古いのは、法起寺前身の岡本宮時代と思われるもので、第二期と第三期が飛鳥時代の法起寺のものと考えられています。第二期のものは、船橋廃寺式の軒丸瓦の外縁部分に圏線が巡っているタイプであって、630年代のものであり、これが創建瓦と考えられます。

 軒平瓦としては、法輪寺で出土するものと同じものが1点、見られる由。法輪寺の瓦を転用したと考えられるそうです。

 第三期は、三井瓦窯で同笵の軒丸瓦が発見されているため、ここで焼かれたもののようで、再建法隆寺でも見られ、付近の平隆寺や額安寺にも類例があるとか。ただ、法隆寺とは異なる瓦も見られるため、上で書いたように、平岡氏は法隆寺系の工人がいくつかのグループに分かれて作業したと見ています。


【意地悪情報】聖徳太子の専門家として最近の研究成果を語っているように見える非専門家を見分ける方法

2023年02月13日 | その他

 『新修 斑鳩町史 上巻』の紹介、それも考古学の研究成果の紹介が続いていますので、ここらで一度、気楽な内容をはさみましょう。

 「聖徳太子はいなかった」説は、マスコミを含め、素人の興味を引きがちなので、以前からネットにたくさんの関連記事があがっていました。また、1400年遠忌の前後には、各地で様々なイベントが行われ、また雑誌の太子特集や太子関連の書物・ムック類もいろいろ出されており、ネットで検索するとそれらもヒットします。

 そうしたイベントや刊行物やネット記事などの中には、聖徳太子について本格的に研究していない人が書いたり語ったり、あるいは企画のまとめ役をやっていたりする場合が少なくありませんでした。以前は、花山信勝、金治勇、望月一憲などのように、熱烈な太子信奉者であって、一生を太子研究に捧げた研究者、あるいは坂本太郎のように幅広い研究をしつつ太子研究に全身全霊で打ち込んだ学者がかなりいたのですが、現在はそうした人はいません。

 つまり、古代史学、仏教史、美術史、考古学、建築史その他の専門家が、自分の専門の立場から、時に聖徳太子ないし太子に関連する事柄について研究論文を書く、といった程度になっているのであって、中には太子研究にかなり力を入れている研究者も数人いる、といったところが実情です。

 だからこそ、このブログでは、聖徳太子に関するそれらの諸分野の最近の論文や研究書を紹介しているのです。そのため、考古学や美術史などの専門家が、その領域に限定して聖徳太子や法隆寺関連の論文を書くなどはできますが、聖徳太子の全体象に関する最新の研究状況を語ろうとする場合、「このブログを見ないと、現在の状況を知ることはむずかしい」という状況になっているのです。

 しかし、上で述べたようなイベントや雑誌の特集、ネット上の対談などで聖徳太子について語っている人には、太子や関連する事柄について本格的に研究した論文を書いたり本を出したりしていない人が目立ちましたし、このブログを見てないと思われる人がほとんどでした。

 つまり、古代史の世界、考古学の世界などでかなり名が知られた研究者や、聖徳太子と関係深そうな研究所の役職を務めている(務めた)研究者などが引っ張り出され、聖徳太子に関する学界の最新の説、ないしは自分の新しい発見であるかのように語ったり書いたりしている場合が多かったのです。

 中には、「聖徳太子研究の第一人者」とか「聖徳太子の専門家」などの肩書きで紹介されている人もいました。そう称されておかしくない人も数人います。ただ、そこまででない研究者の場合も、イベントなどでの紹介はどうしても大げさになりがちでし、雑誌が特集を出す場合などは、監修者について「~や~が専門だが、聖徳太子についてもかなり前に論文を書いたことがある〇〇教授」などとは表記しにくいでしょう。

 そうした人を見分ける簡単な方法は、論文データベースである CiNii(こちら)で、「フリーワード」欄にその人の名を入れて検索することですね。大量にヒットする場合は、「人物」欄にその人の名を入れ、「フリーワード」欄に「聖徳太子」とか「法隆寺」とか入れて検索します。

 個別の事柄に関する題名で書いている場合もあるため、論文の「タイトル」蘭ではなく、「フリーワード」で検索することが重要です。「厩戸王」とか「上宮太子」いう語を用いている人もいますので、念のためにそちらでも検索すると良いでしょう。

 たとえば、現代における代表的な聖徳太子研究者の一人である東野治之氏を例にとると、「人物」欄に「東野治之」、「フリーワード」欄に「聖徳太子」と入れて検索すると12件ヒットし、本も出しており、学術雑誌にそうした内容の論文を多数書いていることが分かります。

 また、「人物」欄に「東野治之」、「フリーワード」欄に「法隆寺」と入れて検索すると、28件ヒットし、題名だけ見ても細かな検討をした論文を多数書いていることが知られます。

 東野氏の名前だけを「フリーワード」欄に記して検索すると、324件ヒットし、古代史の様々な分野について実にたくさんの論文、それも題名から見てきわめて学術的で詳細な論文を書いていることに驚かされます。

 「フリーワード」欄で検索したのは、東野氏の本に対する書評や、論文に対する批判が出ている可能性があるためであって、そうしたヒット数が多ければ、それだけ注目されている証拠、ということになります。

 あまり論文を書かず、時間をかけて研究書を出すタイプもいますので、その場合は、諸大学図書館のデータベースである CiNiiBooks(こちら)で著者名で検索してみると、どんな本を出しているかわかります。東野氏の場合は、68件ヒットし、古代史に関する幅広い内容の学問的な本を出したり編集したりしていることが分かります。

 これに対して、Amazonなどで著者名で検索すると大量の本がヒットする人でも、題名や出版社を見れば、一般向けの本やムックなどの監修ばかりであって、実際にはライターや若手任せで自分では論文を書いていないらしい、といったことが分かったりします。

 また、本を出しているからといって、きちんとした内容であるとは限りません。「邪馬台国は自分の故郷の何々遺跡がそれだ!」などといった本でも出してくれる自費出版専門の出版社はたくさんあります。ですから、どのような出版社から出しているかも重要です。あやしい本や雑誌や一般向けすぎるムックなどの場合は、大学図書館には入っていないこともよくあります。

 また、有名な出版社から出していてもお粗末きわまりない内容である場合もあることは、このブログの珍説奇説コーナーでとりあげた人たちが示している通りです。出版界はきびしい経営状況ですので、とにかく話題になる本を出さないとやっていけませんし、著書との長年のつきあいで出さざるを得ない場合もあるのです。

 聖徳太子について学術的な本や論文を出している人でも、20年くらい前のことであって、最近はまったく太子関連の論文を書いていないといった研究者もいます。この場合は、本を出した後も関心を持って調べている場合もありますし、その研究者自身は業績をあげている勝れた学者であっても、最近は他の分野の研究に力を入れていて聖徳太子についてはあまり研究しておらず、最近の学界の研究動向には詳しくない可能性もありえます。

 「聖徳太子 最近の説」とかで検索するとヒットする人については、こうしたやり方で調べてみることをお勧めします。CiNiiでは、最近は論文の情報だけでなく、PDFへのリンクが貼ってある場合が増えてきていますので、そうした場合は、論文を読んでみることもできます。そうすると、どういう学風の研究者であるかが判断できるでしょう。

 大学や研究所に所属する研究者の場合は、researchmap(こちら)に登録するのが原則ですので、そちらで探して学歴・職歴・業績などを知ることができますが、文系でパソコンが苦手な人や面倒くさがりの人、あとあまり業績がない人は、きちんと書き込まない場合が多いですね。

 なお、CiNiiで「聖徳太子」で検索すると大量にヒットする人でも、国家主義の立場で太子を礼賛する文章ばかり自分たちの雑誌に連載しているような人もいます。また、西洋美術の研究者であったのに史実無視の日本礼賛者となり、トンデモ本ばかり書き散らすようになった田中英道氏のような人物もいますので、大学教授だったからといってすぐ信用せず、注意することが必要です。

 素人読者は、このブログの「珍説奇説」コーナーで扱った梅原猛の「法隆寺怨霊鎮魂説」、井沢元彦の「逆説」ならぬ珍説日本史、古田武彦とその素人信奉者たちの九州王朝説などが示すように、珍奇な主張を「真相」だと断言し、他の研究者の学術的な研究を居丈高にこきおろす声高タイプにだまされがちなので。


『新修 斑鳩町史 上巻』(3):法起寺下層遺構、飽浪葦宮、若草伽藍、太子道

2023年02月10日 | 論文・研究書紹介

 続きです。今回は、平田氏執筆分の第二章第一節のうち、

  四 聖徳太子薨去の宮「飽波葦墻宮」
  五 若草伽藍の建立

だけです。とにかく、この本はものすごい情報量なので、重要な部分だけ簡単に紹介します。

 まず、「四 聖徳太子薨去の宮「飽波葦墻宮」」は、『大安寺伽藍縁起并流記資材帳』によれば、病気となった厩戸皇子を見舞うために推古天皇が田村皇子(後の舒明天皇)派遣したとあるものの、疑う学者が多く、また、『日本書紀』では太子は「斑鳩宮」で没したとされています。

 しかし、法隆寺はこの飽波葦墻宮を薨去の場所として伝えており、その地に後に立てられたのが成福寺とされています。成福寺近くの地の字名は「上宮(かみや)」であって、太子にゆかりのある土地とされてきました。『日本書紀』が「斑鳩宮」と記したのは、若草伽藍横の狭義の斑鳩宮ではなく、「斑鳩の地の宮」の意であった可能性もあるのです。

 その成福寺付近を歴史公園とするために発掘調査がおこなわれ、飛鳥時代の建物跡は見つかっていないものの、620~640年頃と推定されれう土器類や軒瓦が出土し、井戸の跡も存在していました。

 太子が亡くなった後、蘇我本宗家と対立した境部摩理勢が太子と菩岐岐美郎女の間に生まれた泊瀬(長谷)王の宮に逃げ込んだというのがこの葦墻宮であったのではないか、入鹿による斑鳩宮の山背大兄襲撃の際、ここも焼かれたため、この地から焼けた痕跡が出たのではないか、というのが平田氏の推測です。

 次に筋違道と呼ばれる太子道については、田原本町での調査により、幅約3m、深さ50cmの溝が太子道の方角にそって発見されており、道路幅は22mほどと推測されています。平田氏は、飛鳥から発した道は、飽波葦墻宮に向かっていて、ここが終点になっていたと考えられるとします。

 (元版はカラー写真)

 推古16年(608)に飛鳥にやって来た隋使の裴世清は、水路を用いたようであって、その時は間に合わなかったようですが、メインルートであった大和川水系に沿う形で陸路が整備された際、そうした道の一部が太子道であった可能性が考えられると、平田氏は述べます。

 太子は亡くなると遺体が磯長に運ばれており、この道も「太子道」と呼ばれています。平田氏は、この太子道は後の太子信仰に基づくものであって、実際には竜田道を西に向かい、河内の船橋あたりから石川沿いに南下して磯長に至ったことが考えられるが推測にとどまるとします。

 太子墓の真偽については、改葬の問題や太子信仰による石室内の改修などの可能性もあるため、石室内の詳細な調査が行われなければ不明とするほかないと説きます。

 「五 若草伽藍の建立」では、繰り返し行われた調査のそれぞれの回の特徴、それが以後の考古学調査の基礎となったことを詳細に述べています。

 有名な焼けて様々な色に変色した瓦について、銅が溶けて付着したもの、屋根の葺き土が付着したもの、高音のため粒石が溶けてねじ曲がったものなど、様々な瓦があり、凄まじい火災に遭ったと見られるとします。ただ、塔の瓦の損傷がひどいのに比べ、金堂の瓦は焼けていないものも見られる由。

 金堂が激しい炎で全焼したのでなければ、ここに安置されていた古い仏像が運びだされ、後の再建法隆寺に移されたと考えることもできるとします。

 そして、焼けた壁土については、彩色が残る破片が500点以上確認されており、壁画であることが判明したわけですが、絵柄から見て小ぶりであったらしいことから、金堂でなく、塔の壁に用いられていた可能性もあると述べます。この焼けた壁画が少し前に展示されたことは、このブログで紹介しました(こちら)。

 なお、これらの他に、凝灰岩製と思われる石の仏像の蓮華座の弁端部と台座の隅と思われる破片が出土している由。これは、『日本書紀』敏達13年(584)に百済から「弥勒の石像」がもたらされたと記しているように、飛鳥時代は金堂製や木製の仏像の他に、石造の仏像もあった可能性を示すとしています。

 以下、若草伽藍の瓦について詳細な検討がなされていますが、これらの瓦については、このブログで何度も触れてきたため、ここでは鴟尾の破片について記しておきます。これまでは鴟尾の破片は6種が見つかっていました。平成16年(2004)の調査では、金堂跡から線刻された鴟尾の破片が発見されていますが、小型なので、金堂ではなく、小規模の建物に用いられたものと見られる由。

 土器についても、詳細な紹介がなされていますが、略します。議論になってきた一つが、斑鳩地区の条里制の存否です。若草伽藍、斑鳩宮、法起寺下層遺構などは、北より西に20度ほど偏向した軸線になっており、8度ほどの再建法隆寺とは異なっており、斑鳩地域にそうした方位の条里制がおこなわれていた証拠とされる一方、反対意見もありました。

 平田氏は、この地域は矢田丘陵から延びてきた丘陵を利用して開発されており、その丘陵の軸線が北から西に10度から20度ほど変更しているため、それに沿って建物や道路が建設された可能性もあるとします。つまり、斑鳩は飛鳥のような宮都、難波のような副都的地域ではなかったのであって、条里制による大規模な都市計画はなかったと見られると説くのです。


『新修 斑鳩町史 上巻』(2):斑鳩に次々に造営された上宮王家の諸宮

2023年02月06日 | 論文・研究書紹介

 前回の続きです。今回とりあげるのは、斑鳩町教育委員会の平田政彦氏が担当した「第二章 考古学からみた斑鳩の古代」「第一節 飛鳥時代」のうち、

 一 飛鳥時代の幕開け
 二 斑鳩に造営された斑鳩宮
 三 法起寺下層遺構と岡本宮

です。これだけで37頁あります。平田氏については、このブログで何度か触れてます。

 平田氏は、藤ノ木古墳造営以前の斑鳩は、古墳や集落のあり方を見てもわかるように、大和の中で先進的とは言えない地域だったが、聖徳太子の斑鳩移住によって、様相が一変したと述べます。冠位十二階や十七条憲法の制定、遣隋使派遣といった試みがなされていた時期における太子の拠点が斑鳩だったのです。

 斑鳩は交通の要衝ではあったものの、耕作地が広がる豊かな地域ではありませんでした。それにもかかわらず、斑鳩宮をはじめとする上宮王家の諸宮が次々に造営され、太子による法隆寺と尼寺の中宮寺、山背大兄発願の法輪寺前身寺院と尼寺の法起寺などが建立され、飛鳥にならぶ先進地域となりました。
 
 斑鳩移住前に太子が住んでいた「上宮」の場所については諸説があります。その一つが桜井市の上之宮遺跡ですが、ここについては、阿倍氏の本拠地であったという説もあります。最近では、その東の「池之内」の地から大規模な堤状の遺構が発見されたため、この東池尻・池之内遺跡が古代の磐余池であれば、この近くに「磐余池邉双槻宮」が造営され、その南に「上宮」があった可能性があるということになっています。

 『日本書紀』では天皇の宮以外では宮の名が記されることは少ないのに対し、斑鳩宮は三度も言及されており、特別な存在だったことが分かります。平田氏は数多くなされた斑鳩宮の発掘調査のそれぞれの回について簡単に記しており、考古学調査そのものの発展の様子も分かります。

 というのは、昭和9年(1934)に始まった第一次調査では、たまたま見つかった柱の穴などを調べるのではなく、四角く区切った地面を丁寧に掘って土の色や地質の違いによって遺構を調べる方法が確立された由。日本の仏教関係の考古学・建築史・美術史は、法隆寺をめぐって発達していったのです。

 さて、法隆寺東院の下層から発見された斑鳩宮跡からは、小型の素弁六弁蓮華文軒丸瓦(2A)、単弁忍冬文装飾六弁蓮華文軒丸瓦(33B)、これと組む軒平瓦(215A)が発見されています。ただ、宮に瓦葺きを採用したのは藤原宮だと記録にあり、斑鳩宮跡の建物は掘立柱によるものであるうえ、出土した瓦はすべて小型で数も少ないため、これらの瓦は宮内の仏堂に葺かれたものと推定されています。

 斑鳩宮は、『日本書紀』によれば入鹿の軍勢によって焼かれたとされており、現在の伝法堂の東南隅あたりからは、その記述を裏付けるような焼けた壁土が発見されました。この壁土は長らく行方不明になっていたのですが、2020年に法隆寺に保管されていたことが明らかになりました。残存の状況は良好でないものの、仕上げとして白土を塗っていた可能性がある由。

 ただ、若草伽藍の焼けた壁土と比べると、焼けたというより壁面が火にさらされた程度と見れるそうで、この付近から上記の瓦が出土していることから見て、斑鳩宮内の小さな仏堂に塗られていた壁土と考えると理解しやすいと、平田氏は述べます。つまり、山背大兄が斑鳩宮の南東部に小仏堂を設け、そこで聖徳太子の供養や、上宮王家の私的な仏教信仰がなされていたのではないかと推定するのです。

 以下、平成24年の第九次調査まで調査が重ねられていますが、建物が左右対称に設置されていたと推定される小墾田宮と違い、斑鳩宮は皇子宮であるうえ、地形の制約もあってか、建物が左右対称に設置されるような作りではなかったようです。 


聖徳太子と法隆寺に関する最新の論述:斑鳩町史編さん委員会編『新修 斑鳩町史』上巻(1)

2023年02月01日 | 論文・研究書紹介

 昨年、数回にわたって紹介した2018年刊行の『法隆寺史 上巻』(こちら)は、20年以上前に企画が動きだし、刊行が遅れていたものでした。 それでも着実な研究の成果が示されていますが、今回、とりあげるのは、令和3年4月に法隆寺で営まれた「聖徳太子一四〇〇年御遠忌」法要をきっかけとし、昭和38年に刊行された『斑鳩町史』の全面改訂版として昨年刊行された、

斑鳩町史編さん委員会編『新修 斑鳩町史 上巻』(斑鳩町、2022年)

です。

 ですから、まさにこの数年の編集であって、聖徳太子や法隆寺を柱とする斑鳩の歴史に関する最新の成果が盛り込まれています。電話帳のような大きさで661頁、しかも2.6キロほどあり、カバンに入れて持ち運ぶのは勘弁してほしいほどずっしりと重いです。

 それほど重いのは、口絵の部分だけでなく、カラー写真をふんだんに入れるために、すべて厚手の光沢紙を用いているからであって、贅沢な作りになっているからです。むろん、内容も充実しています。
 
 口絵写真、町長の「発刊によせて」に始まり、以下のような構成になっています。太子や法隆寺に関する箇所以外は省略します。

 【考古篇】
 第一章 斑鳩の先史・原史
  ……
  第四節 古墳時代
   四 藤ノ木古墳が語るもの
 第二章 考古学からみた斑鳩の古代
  第一節 飛鳥時代
   一 飛鳥時代の幕開け
   二 斑鳩に造営された斑鳩宮
   三 法起寺下層機構と岡本宮
   四 聖徳太子薨去の宮「飽並葦墻宮」
   五 若草伽藍の創建
   六 中宮寺の創建
   七 法輪寺の二つの創建説と三井瓦窯跡
   八 法起寺の建立
   九 法隆寺西院伽藍の成立
   十 斑鳩における飛鳥時代の古墳の様相
  第二節 奈良時代
   一 奈良時代の斑鳩の様相
   二 法隆寺西院伽藍の完成と整備
   三 上宮王院(法隆寺東院伽藍)の建立
   ……
 【古代篇】
 第一章 ヤマト王権と斑鳩
  第一節 斑鳩と記紀の伝承
  第二節 斑鳩の歴史地理的環境
  第三節 斑鳩とその周辺の氏族
  第四節 斑鳩とその周辺の部民
  第五節 斑鳩宮と上宮王家
  第六節 斑鳩の寺院と仏教文化
 第二章 律令制下の斑鳩
  第一節 奈良時代の斑鳩
  第二節 奈良時代の法隆寺と太子信仰
  第三節 聖徳太子伝承と斑鳩
  ……

 以上です。担当は、考古学篇第一章は光石鳴巳、第二章は平田政彦、第三章は森下恵介、古代篇第一章の第一節~第五節、第二章の第一・四節は鷺森浩平、第一章第六節、第二章第二~三節・第五節は東野治之の各氏です。

 まず、光石氏が担当した第一章第四節「四 藤ノ木古墳が語るもの」では、法隆寺のすぐ側に位置する藤ノ木古墳について、発見の経緯や調査の詳細が報告されています。光石氏は、石室での石材の用い方が上半分と下半分で異なっているため、建築の途中で計画の変更があったことが分かるとします。そして、埋葬物には花粉が大量に見つかっているため、埋葬は初果の頃だったと推定されていると述べます。

 石棺に収められた二人の被葬者については、物部氏がかついで天皇としようとして蘇我馬子によって殺された穴穂部皇子と宅部皇子とする説が有力ですが、『日本書紀』によれば、二人が殺されたのは、用明2年(587)6月ですので、それと一致することになります。

 被葬者の一人は20歳くらいと推定されていますが、それが誰であるにせよ、古墳が6世紀後半では最大クラスの円墳であって、当時としては最高水準の金属製品が収められていたことは、その身分の高さを示すものです。光石氏は、被葬者は聖徳太子が生まれたという敏達3年(574)の前後に若くして亡くなったのであって、その20~30年後に聖徳太子がこの地に移住してきたことに注意します。

 光石氏は、それ以上のことは述べていませんが、上記の事柄は、聖徳太子と関係が深いため、斑鳩寺(若草伽藍)は、藤ノ木古墳と何らかの関係があった可能性がありますね。確かに、太子はこのことについて意識せざるを得なかったでしょうから。

 なお、藤ノ木古墳がこうして守られてきたのは、古墳の南にあって江戸時代に焼失するまで続いていた宝積寺の尼僧が供養していたためと推測されているそうです。

 被葬者が穴穂部皇子であれば、太子の父母の兄弟であるうえ、太子の母の名は穴穂部間人ですから、母と同じ氏族に養育された可能性が高いため、関係はより濃かったということになります。間近な斑鳩宮に住んだ太子は、そうした被葬者を意識せざるを得なかったでしょう。