聖徳太子研究の最前線

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疑われる「和国の教主聖徳皇」: 遠藤美保子「親鸞本人に聖徳太子信仰はあったか」

2011年06月11日 | 聖徳太子信仰の歴史
 6月4日の日本近代仏教史研究会大会は、非常に充実したものでした。今回は、シンポジウム「十五年戦争と近代仏教」だけでなく、個人発表でも戦争と仏教の関係に関する発表が多かったため、当時の国家主義解的な聖徳太子解釈に触れた人が何人もいました。

 こうした問題を論ずる場合、決まって出てくるのが、「和国の教主聖徳皇」で始まる親鸞の和讃ですが、これを親鸞自身の作ではないと説いたのが、

遠藤美保子「親鸞本人に聖徳太子信仰はあったか」
(『日本宗教文化史研究』第12巻2号[通巻第24号]、2008年11月)

です。

 真宗の通説では、親鸞は比叡山にいた若い頃から聖徳太子信仰を抱いており、悩みがつのった際、太子ゆかりの六角堂に参籠して観音(太子)から法然のもとにおもむくよう夢告を受け、法然に師事して浄土信仰を確立し、晩年には『皇太子聖徳奉讃』『大日本国粟散王聖徳太子奉賛』などの太子和讃を作成したほか、太子関連の文献を書写したとされています。

 ところが、親鸞の思想や研究史の見直し、書翰の語法の分析などに携わってきた遠藤氏は、親鸞自身は六角堂参詣には言及していないうえ、親鸞の著作とされるもののうち、聖徳太子に言及する文献は「非常に偏りがある」ことを指摘します。

 そこで、氏は六角堂参詣があったかなかったは一旦置き、あったと仮定したうえでそれが親鸞自身の太子信仰でしか説明できないかどうか検討します。早くから太子信仰が強く、初期真宗教団のうちで勢力があった高田派系の親鸞伝ですら、観音の夢告に触れていないことに着目するのです。

 そして、そうした高田派の親鸞伝では、火災後の六角堂再建に尽力するなど六角堂と関係が深く、親鸞の参籠・夢告を指導したという説もある聖覚との関係のみが説かれていることに注意し、六角堂参詣は太子信仰を持ち出さなくても、親鸞が属していた天台の系統の寺であって、夢告で有名な観音霊験所であり、聖覚ゆかりの寺であった、ということで説明できるとします。

 太子和讃については、親鸞自筆のものがなく、親鸞の高弟である真仏の写本にしても、「愚禿親鸞」という署名部分は「後の書き入れの可能性」があると見ます。また、和讃自体も、漢文の誤読や親鸞の主著に見える語法との違いが目立つとします。特に「和国教主聖徳皇……奉讃不退ならしめよ」という有名な和讃で始まる『大日本国粟散王聖徳太子奉讃』が、直接体験を示す過去の助動詞「き」をきわだって多用し、しかも「動詞+り+き」という語法を13回も用いているのは、親鸞とは別人である「作者の癖」ではないかと推測するのです。

 これ以外にも氏は疑う理由をあげていますが、『皇太子聖徳奉讃』と『粟散王聖徳太子奉賛』とは、作者が異なっているのではないかと疑われるばかりか、両方とも親鸞作でない可能性があり、真蹟が残る『尊号真像銘文』などは、晩年になって高田派の太子信仰と太子伝収集に興味を抱いたための書写と見ることもでき、「親鸞に特筆すべきほどの太子信仰はなかったといえる」というのが、氏の結論です。

 遠藤氏本人も「今後は中世の太子信仰の実態を視野に入れながら、太子和讃の語句の用法や背景を考察する」作業を行っていくと述べているように、今回の論文は親鸞の太子信仰を否定するのに急であって、論証がもう少し必要なように思われました。親鸞が三経義疏を引用することは無く、読んでないらしいことは確かですが。

 ただ、一休作とされる狂歌・道歌が江戸時代にどんどん作られ、また別人の和歌や逸話が一休のものとされるようになった場合が多いように、和讃のような親しみやすくて教化に有効なものは、後代になって創作されたり既存のものを少し変えて宗祖作と仮託する場合も多いため、今回のように、親鸞の太子和讃に関して伝統説とは異なる視点から考察してみるのは、有意義でしょう。
 
 なお、遠藤氏は親鸞の書翰や『歎異抄』の語法を分析するに当たって、Nグラム統計を用いており、その「親鸞消息集、内容・用語・文体からの再検討」(『仏教史研究』第42号、2006年3月)では、処理結果を「色彩パターン化」する手法を、その開発者の一人である群馬大・大澤研二氏の指導を得て行なった由。漢字文献情報処理研究会の仲間たちと開発し、私自身は三経義疏研究に用いている比較分析表示法であるNGSM(N-Gram based System for Multiple document comparison and analysis)も、Nグラム統計に基づいている点は同じです。遠藤氏も強調しているように、Nグラム統計は著者問題を考える際、きわめて強力な補助ツールとなりうるものです。
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4 コメント

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近年発見の親鸞直筆「皇太子聖徳奉賛」 (ゆたぽん)
2013-03-16 22:37:07
近年、親鸞直筆と目される「皇太子聖徳奉賛」の古筆切れが発見されていますよ。
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re:近年発見の親鸞直筆「皇太子聖徳奉賛」 (石井公成)
2013-03-17 11:23:26
ゆたぽんさん、

 コメント、有り難うございます。

 こちらですね。
http://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20121004000037

私はこの記事では、「今回の論文は親鸞の太子信仰を否定するのに急であって、論証がもう少し必要なように思われました」と書いておいた通りです。

ただ、我々が考える親鸞のイメージは、当人そのもののあり方というより、明治以後に西洋思想の影響を受けつつ史家や思想家によって再構築された親鸞像という面がかなりあるため、遠藤氏のような見直しは必要と思います。
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探しておりました (堅田正夫)
2014-06-29 15:22:22
古寺散策らくがき庵と言う拙いサイトを運営している年寄りです。
真宗系の本山などで質問しても必ず逃げられていました。
誰の著作かは別として「三経義疏」と「浄土三部経」との隔たり等々、納得出来ない説が多い中で、腑に落ちる説明でした。
研究途中のようですが、継続をお願いいたします。
有難う御座いました。
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re:探しておりました (石井公成)
2014-06-30 19:41:37
堅田さん、

コメント、有り難うございます。

親鸞については、伝記の見直しが進みつつあ
るようなので、数年後にはイメージが多少変わ
っているかもしれませんね。

聖徳太子については、一般向けの本を出す予
定でありながら、学問上の浮気と多忙のせい
で進まずにいます。秋から冬にはぜひ出したい
んですが……。
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