前回、SATを活用して研究してほしいと書いたのですが、逆に、SATを利用してトンデモ説を書き散らしている困った人がいますので、この「珍説奇説コーナー」でとりあげることにします。
近代の偽書である『東日流外三郡誌』をめぐる真偽論争がきっかけで九州王朝説論者たちが内部分裂した後、真作説をとる古田武彦支持を貫いて活動している「古田史学の会」の現代表、古賀達也氏がその人です。
「聖徳太子」であれこれ検索しているうちに見つけた古賀氏のサイト、「洛中洛外日記」に「聖徳太子」という項目があったので見てみたら、SATを利用して書いていました。九州王朝(倭国)の仏典受容史 (10)「九州年号「蔵和」の出典は『大乘菩薩藏正法經』か」という記事です。
九州年号の「蔵和」をSATで検索したところ、時代が合うのは竺法護訳の『佛説大乘菩薩藏正法經卷第二十』であって、これが出典だと分かり、Wikipediaで調べると「竺法護(じく ほうご、239~316年)は西晋時代に活躍した西域僧」とあったと述べ、竺法護について紹介しています。
SAT作成・公開の主要メンバーの一人であった身としては、利用してくれるのは有り難いのですが、SATの名を出してこんなデタラメをたれ流されるのは迷惑です。SATの名誉のために言うと、SATでは「法護訳」としかなっていません。
仏教史を知らない古賀氏が「法護」で検索し、有名な「竺法護」がヒットしたので勘違いしただけです。『大乗菩薩蔵正法経』の冒頭を見れば分かるように(見ても分からなかった?)、「西天訳経三蔵朝散大夫試光祿卿伝梵大師賜紫沙門臣法護等奉 詔譯」という長々しい肩書き(中唐以後、北宋で顕著な特徴です)が記されているこの法護は、北宋期に拙劣でわかりにくい訳をしておりながら朝廷から尊重されたカシミール出身の法護(963-1058)であって、西晋の竺法護とはまったくの別人です。
7世紀の九州王朝の王は、11世紀に訳された経典に基づいて年号を作ったわけですね? 九州王朝説論者によれば、九州王朝は大和などよりはるかに先進的だったそうなので、おそらくタイムマシンを使ってこの経典を知ったのでしょう。
また、古賀氏は「仮説」としつつ、この経典は「所有諸大菩薩藏 和合甚深正法義」と説いているため、「令和」の年号が『万葉集』「梅花の歌」序文中の漢字二文字を〝集成〟したのと同様に、「菩薩蔵」の「蔵」と「和合」の「和」を集成して九州年号の「藏和」を作ったのだろう、と述べています。
しかし、この組み合わせは考えられません。東アジアでは、書写・印刷した仏教の経論を納める建物を「経蔵」と称するようになりましたが、インドの伝統仏教の場合、経蔵・律蔵・論蔵の三蔵という場合、「蔵(ピタカ)」は「集まり」を意味します。「経蔵」なら多くの経典の集成のことです。
古代の優秀なインド僧は、自分たちの派が保持する「経蔵」を暗記したのであって、三蔵に広く通じている学僧が三蔵法師です。ただ、大乗仏教が登場して多くの経典が作成されるようになると、伝統的な三蔵以外に「菩薩蔵」があるとする説が一部で登場しました。中期大乗以後のことです。
古賀氏が典拠だとする「所有諸大菩薩藏 和合甚深正法義」という箇所のうち、「所有」は「あらゆる」の意、「大菩薩蔵」は上記のような菩薩蔵を賞賛して「大」の語を付けたものであって、素晴らしい大乗経典の大集成ということになります。「和合甚深正法義」は、そうした「素晴らしい菩薩蔵=多数の優れた大乗経典」で説かれる奥深くて正しい教義ということでしょう。実際には、この経典が含まれるような『宝積経』系統の経典を指すのでしょうが。
こうした文脈で仏教僧伽(サンガ=僧団)の特質とされる「和合」の語が来るのは不自然であって、実際、SATでは「和合甚深」という語は、同時代のインド僧の施護の訳などと同様、漢訳の質が悪いことで知られる北宋の法護の『大乗菩薩蔵正法経』のこの箇所にしか見えません。
そうした「和」を「菩薩蔵」の「蔵」と結合させるんですか? 「甚深正法義」のうち、意味が似ていて同じ品詞の語を結びつけた「深正」とか、意味がつながる「深法」といった組み合わせの年号にするなら分かりますが、「蔵」と「和」をくっつけるというのは、どういうことでしょう? ピタカが「和合」するんですか? 「令和」も妙な名付け方でしたが。
トンデモ説ついでに言うと、この「九州王朝(倭国)の仏典受容史」の (3)に当たる「九州王朝に伝来した『仏説阿弥陀経』」という記事では、驚くべき主張がなされていました。
聖徳太子信仰は時代がくだるにつれていよいよ強まり、また平安時代には善光寺信仰も盛んになって、善光寺如来は「生身(しょうじん)」だとする信仰が強まっていきます。さらに平安後期から鎌倉時代にかけては、聖徳太子伝説と善光寺如来の生身伝説が結びつくようになり、荒唐無稽な伝説が次々に生まれます。中世は偽文書がやたらと作られ、怪しい年号が盛んに用いられた時代ですが、聖徳太子関連の偽文献の多さは中でもすさまじいものです。
聖徳太子が善光寺如来に手紙を書いて届け、使いの者が料紙に硯を添えて御簾の下から差し入れると、御簾の向こうで墨をする音がした後、御簾の下から返事の手紙と硯がすっと出された(善光寺如来が返事を書かれた!)、という話もその一つであって、後にはさらにそのようにしてやりとりしたという手紙なるものが登場します。むろん、中世の手紙の書式で書かれており、写本によって字が微妙に違っている場合があるのですが、そのやりとりの手紙の一つがこれです。
御使 黒木臣
名号称揚七日已 此斯為報広大恩
仰願本師弥陀尊 助我済度常護念
命長七年丙子二月十三日
進上 本師如来宝前
斑鳩厩戸勝鬘 上
当然ながら、中世に作成されたひどい漢文の偽文書であって、黒木臣などという人物は早い時期の史料には見えません。ところが、古賀氏はなんと、九州王朝の年号が用いられているという理由でこの文書を本物とみなし(ということは、善光寺の阿弥陀如来が漢文で書いた返事も本物と認めるんですね? 善光寺僧の代作とするんですか?)、次のように述べます。
わたしは九州年号「命長」が記された、この「命長七年(646年)文書」を九州王朝の有力者が善光寺如来に宛てた「願文」であり、おそらく死期が迫った利歌彌多弗利によるものではないかとしました。阿部周一さん(古田史学の会・会員、札幌市)は差出人の名前「斑鳩厩戸勝鬘」にある「勝鬘」を重視され、女性とする説(注④)を発表され、服部さんも支持されています。この理解も有力と思います。
「善光寺如来に宛てた「願文」」、というのは願文の語義からするとおかしな言い方ですが、それはともかく、「利歌彌多弗利」は、『隋書』倭国伝の開皇20年条に見える言葉です。つまり、倭王は、姓は阿毎、字は多利思北孤であって、太子を名づけて「利歌爾多弗利」というとある記事ですね。
古代の日本語にはラリルレロで始まる言葉がなく、そうした語は外来語だけですので(韓国語も同じです。ですから年寄りは「ラジオ」と言えず、「ナジオ」と発音します)、この「利歌爾多弗利」の「利」は「和」の誤記であって、「和歌爾多弗利」は皇族を意味する「わかんどほり」の語の古形と見るのが学界の通説です。私自身、敦煌の地論宗文献の研究をしていた頃は、写本の誤記・誤字・異体字・音通字の多さに悩まされました。写本というのは、そういうものですし、木版本の場合も、そうした写本類に基づくのですから、稀なほど厳密な校訂を経ていても、まったく間違い無しではすまされません。
しかし、書いてある字をそのまま受け取る九州王朝論者は、文献学や国語学の常識などは無視しますので、当時の倭国の太子は「利歌弥多弗利」であったとするのです。九州王朝ではラ行で始まる言葉がない古代日本語とは異なる言葉を使っていたんでしょう。
会員の一人が、「勝鬘」とあるのでこの文書の筆者は女性だろうと述べ、古賀氏も、また古賀氏同様に聖徳太子についてトンデモ説を書き散らしている他の会員も、その意見に賛成だそうです。
しかし、聖徳太子は、奈良時代には天台宗を開いた天台大師の師である南岳慧思の生まれ代わりとされ、後には観音菩薩の化身だとか、聖徳太子が講経した『勝鬘経』を説いた菩薩である勝鬘夫人の生まれ代わりという伝説も生まれました。「斑鳩厩戸勝鬘」という署名は、それを反映したものです。
鎌倉時代にこの文書を見た人たちの多くは、偽作だと思わずに信じたでしょうが、「斑鳩厩戸勝鬘」というのは「厩戸皇子=聖徳太子」だと受け取ったはずであり、女性だなどと考えた人は一人もいないはずです。
「古田史学の会」代表の古賀氏とその仲間は、この程度の仏教知識であれこれ空想して論議し、学界の通説を否定したつもりになって楽しむ「学問ごっこ」で盛り上がり、「遣隋使を派遣したのは九州王朝の王、多利思北孤であって、聖徳太子のものとされてきた事績は多利思北孤とその太子の利歌爾多弗利の事績を盗用したものだ」という珍説を論証しようとするのです。
学校の宿題やレポートなどで聖徳太子について調べる生徒・学生たちが、こうしたサイトを見て、従来の学界の説を打破する新しい説だと思ったりすると困りますね。
古賀氏は、この会の「全国世話人」を務める人から『大正新脩大蔵経』の検索サイトであるSATを教えてもらい、「おかげで、連日のように発見が続いています」と記しています。
そりゃ、こんなやり方でこじつければ、学界の通説をひっくり返したと称する大発見がいくらでもできるでしょう。やれやれ。こんな使われ方をするために SATを作成・公開したのではないのですが。
なお、太子と善光寺如来がやりとしたとされる手紙は、むろん中世の作ですが、いろいろな異本があるうちの一つが法隆寺剛封蔵に秘蔵される四重の箱に収められており、明治時代に一度開けられています。論文もいろいろ出ています。
少し前にここまで書いて公開しようとし、念のためにあれこれ検索したところ、古賀氏はこうした内容を古田史学の会編『(古代に真実を求めて 古田史学論集第十八集)盗まれた「聖徳太子」伝承』(明石書店、2015年)に掲載していることに気づいたので、注文しておきました。
本日、届いたので眺めたところ、古賀氏は善光寺如来とのやりとりについては、上記の命長七年の「勝鬘」の手紙だけを本物と見ているようですが、他にも聖徳太子に関する珍説記事を書いているほか、他の会員たちも漢文が読めず、珍解釈を述べているので呆れました。
たとえば、上で見た命長七年の消息について古賀氏に続いて考察めかした文章を載せている岡下英男氏の「「消息往来」の伝承」では、仲間である正木裕氏が、この手紙は病に臥す九州王朝の太子「利」が、我を助けたまえと善光寺阿弥陀如来に願ったものだと説いているとしてそれに賛成して論じています(正木氏の論も同書に載っています)。
しかし、「助我済度常護念」は、「我が済度を助け、常に護念したまへ(私が衆生済度するのを助け、常にお守りください)」の意であって、病気などはまったく関係ありません。「命長」という年号にひきずられ、重病となった「利」なる人物が阿弥陀仏に「助けてください!」とお願いしたものと解釈したんでしょうか。阿弥陀仏にお願いするなら、「極楽にお迎えください」と頼むんじゃないですか?
それに、「私が人々を済度するのをお助けください」というのは、平安朝の末法思想の流行にともなって浄土信仰が高まるにつれ、それまでは危難から救ってくれる菩薩として信仰されていた観音が、往生を願って亡くなった人を阿弥陀仏のいる極楽浄土へ導く役割を果たす菩薩として信仰されるようになってからの発想ですね。
観音菩薩は、仏像だと阿弥陀如来の横に勢至菩薩とともに脇侍として置かれるため、平安時代以後は念仏する人々を極楽に迎えようと誓った阿弥陀如来の手助けをする菩薩としての性格が強まりました。聖徳太子は早くから人々を救う観音の化身(救世観音)とみなされるようになっていますので(太子が模範とした梁の武帝は「救世菩薩」と呼ばれていました)、そうした「太子=観音信仰」と浄土信仰における観音のイメージが結びつくようになるのです。奈良時代までの観音信仰、聖徳太子信仰にはそのような浄土教的な要素はありません。
そのうえ、古賀氏も岡下氏も消息の冒頭部分を「名号称揚七日巳」としていますが、最後の字は文脈から見て、~tvā, ~tya (~し終わって)の訳語である仏教表現ですので、「巳(み・へび)」ではなく、「已」と直さねばなりません。写本では「己・已・巳」は区別できないことが多く、そうした点に気をつけなければ正しく読めず、正しく読めなければ好き勝手な解釈がなされることになります。
こうした例ばかりであって誤りを指摘するときりがないため、学界が全く相手にしていないのは当然であり、放っておく方が楽であるものの、SATがらみのトンデモ説が広がるのを防がねばならないため、敢えてとりあげた次第です。
学問上の解釈はいろいろあって良いのですが、古賀氏とその仲間の古代史ファンたちはその水準まで達していないため、「漢文と仏教の基礎を学んでください」と言うほかないですね。社会批判的な硬派の書物を多く出している明石書店は、いつまでこうした素人たちの同人誌みたいな非学問的なシリーズを出しつづけるのか。出版社の信用に関わると思うのですが。
古賀氏は、このブログの三経義疏記事なども見ておられるようで、その点は有り難いのですが、このブログや私の論文をトンデモ説のために利用しないよう願うばかりです。
【付記:2021年10月7日】
九州王朝説には時間の無駄なので関わりたくなかったのですが、この記事のことがあったため、古田史学の会編『「九州年号」の研究ー近畿天皇家以前の古代史』(ミネルヴァ書房、2012年)を買ってみたら、古賀氏がこの偽消息を扱っていました。それによると、「我が済度を助け、常に護り念じたまえ」という願文としてますが、「護念」はアディシュターナ系統の語の訳であって術語です。また、命長七年には、倭王の多利思北孤は亡くなっているので、利歌弥多弗利が倭王となっていたとし、おそらく永く病に伏していた利歌弥多弗利が「我が済度を助け」るよう、つまり、彼岸への済度(救済)を阿弥陀如来に願っていると解釈していますが、阿弥陀如来なら一般的な「彼岸」ではなく、極楽浄土への往生を願うとすべきでしょう。「利歌弥多弗利は如来信仰に帰依しており」という部分も意味不明です。如来は釈迦も薬師もいますし、帰依は仏に対して帰依するのであって、「信仰に帰依する」などという言い方はありません。とにかく、まったくデタラメな記述が続いており、空想ばかりです。
【付記:2021年11月9日】
このしばらく後で、太子が善光寺如来に当てた手紙なるものについては、中世の信仰の中で生まれたものであることを示している論文を紹介しておきましたが、付記するのを忘れてました(こちら)。
【付記:2021年11月23日】
正しくは「多利思比孤」ですが、九州王朝論者は、誤記された新しい版本を信仰しているため、その主張どおりに「多利思北孤」の表記を使っています。
【付記:2022年1月26日】
上の記事で岡下英男氏の説に触れましたが、昨日、図書館で『古代に真実を求めて』第17集を見つけ、岡下氏が「聖徳太子伝記の中の九州年号」なる文章を書いていることに気づいてぱらっと読んだところ、善光寺如来の返書の冒頭に「一日称揚無息留」とある箇所を、「一日念仏しただけでも息が切れるのに」と訳していたため、静粛であるべき図書館内ながら、思わず声をあげて笑いそうになりました。「無息」という箇所を「息ができなくなる」と解釈したのでしょうが、この「息」は「休息」「終息」などの意味であって、「一日中、休んだりやめたりせずに念仏し続ける」ということです。古田史学の会の仲間たちは、皆なこうした珍解釈に基づいて大胆な主張をしますね。
【追記:2022年5月21日】
古田史学の会のメンバーがいかに常識知らずで学術論文の書き方すら分かっていないかについては、「石井公成氏に問う」などと挑んできたトンデモ主張の批判として詳しく述べておきました(こちら)。
【追記:2022年5月29日】
以前、このブログで九州王朝説論者である合田洋一氏を批判しましたが(こちら)、その合田氏が、古田史学の会の代表である古賀氏の誤りを認めない姿勢を厳しく批判する声明を出し、「古田史学」でなく「古賀史学」だと論じていました(こちら)。
【追記:2022年12月1日】
「厩戸勝鬘」とは聖徳太子を指すのであって、『四天王寺縁起』などの記述に基づくことについては、太子に未来記に関する記事で触れておきました(こちら)