聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

【珍説奇説】九州王朝の年号は11世紀の経典に基づき、聖徳太子が善光寺如来とやりとりした手紙は本物

2021年09月26日 | 聖徳太子をめぐる珍説奇説

 前回、SATを活用して研究してほしいと書いたのですが、逆に、SATを利用してトンデモ説を書き散らしている困った人がいますので、この「珍説奇説コーナー」でとりあげることにします。

 近代の偽書である『東日流外三郡誌』をめぐる真偽論争がきっかけで九州王朝説論者たちが内部分裂した後、真作説をとる古田武彦支持を貫いて活動している「古田史学の会」の現代表、古賀達也氏がその人です。

 「聖徳太子」であれこれ検索しているうちに見つけた古賀氏のサイト、「洛中洛外日記」に「聖徳太子」という項目があったので見てみたら、SATを利用して書いていました。九州王朝(倭国)の仏典受容史 (10)「九州年号「蔵和」の出典は『大乘菩薩藏正法經』か」という記事です。

 九州年号の「蔵和」をSATで検索したところ、時代が合うのは竺法護訳の『佛説大乘菩薩藏正法經卷第二十』であって、これが出典だと分かり、Wikipediaで調べると「竺法護(じく ほうご、239~316年)は西晋時代に活躍した西域僧」とあったと述べ、竺法護について紹介しています。
 
 SAT作成・公開の主要メンバーの一人であった身としては、利用してくれるのは有り難いのですが、SATの名を出してこんなデタラメをたれ流されるのは迷惑です。SATの名誉のために言うと、SATでは「法護訳」としかなっていません。

 仏教史を知らない古賀氏が「法護」で検索し、有名な「竺法護」がヒットしたので勘違いしただけです。『大乗菩薩蔵正法経』の冒頭を見れば分かるように(見ても分からなかった?)、「西天訳経三蔵朝散大夫試光祿卿伝梵大師賜紫沙門臣法護等奉 詔譯」という長々しい肩書き(中唐以後、北宋で顕著な特徴です)が記されているこの法護は、北宋期に拙劣でわかりにくい訳をしておりながら朝廷から尊重されたカシミール出身の法護(963-1058)であって、西晋の竺法護とはまったくの別人です。

 7世紀の九州王朝の王は、11世紀に訳された経典に基づいて年号を作ったわけですね? 九州王朝説論者によれば、九州王朝は大和などよりはるかに先進的だったそうなので、おそらくタイムマシンを使ってこの経典を知ったのでしょう。

 また、古賀氏は「仮説」としつつ、この経典は「所有諸大菩薩藏 和合甚深正法義」と説いているため、「令和」の年号が『万葉集』「梅花の歌」序文中の漢字二文字を〝集成〟したのと同様に、「菩薩蔵」の「蔵」と「和合」の「和」を集成して九州年号の「藏和」を作ったのだろう、と述べています。

 しかし、この組み合わせは考えられません。東アジアでは、書写・印刷した仏教の経論を納める建物を「経蔵」と称するようになりましたが、インドの伝統仏教の場合、経蔵・律蔵・論蔵の三蔵という場合、「蔵(ピタカ)」は「集まり」を意味します。「経蔵」なら多くの経典の集成のことです。

 古代の優秀なインド僧は、自分たちの派が保持する「経蔵」を暗記したのであって、三蔵に広く通じている学僧が三蔵法師です。ただ、大乗仏教が登場して多くの経典が作成されるようになると、伝統的な三蔵以外に「菩薩蔵」があるとする説が一部で登場しました。中期大乗以後のことです。

 古賀氏が典拠だとする「所有諸大菩薩藏 和合甚深正法義」という箇所のうち、「所有」は「あらゆる」の意、「大菩薩蔵」は上記のような菩薩蔵を賞賛して「大」の語を付けたものであって、素晴らしい大乗経典の大集成ということになります。「和合甚深正法義」は、そうした「素晴らしい菩薩蔵=多数の優れた大乗経典」で説かれる奥深くて正しい教義ということでしょう。実際には、この経典が含まれるような『宝積経』系統の経典を指すのでしょうが。

 こうした文脈で仏教僧伽(サンガ=僧団)の特質とされる「和合」の語が来るのは不自然であって、実際、SATでは「和合甚深」という語は、同時代のインド僧の施護の訳などと同様、漢訳の質が悪いことで知られる北宋の法護の『大乗菩薩蔵正法経』のこの箇所にしか見えません。

 そうした「和」を「菩薩蔵」の「蔵」と結合させるんですか? 「甚深正法義」のうち、意味が似ていて同じ品詞の語を結びつけた「深正」とか、意味がつながる「深法」といった組み合わせの年号にするなら分かりますが、「蔵」と「和」をくっつけるというのは、どういうことでしょう? ピタカが「和合」するんですか? 「令和」も妙な名付け方でしたが。

 トンデモ説ついでに言うと、この「九州王朝(倭国)の仏典受容史」の (3)に当たる「九州王朝に伝来した『仏説阿弥陀経』」という記事では、驚くべき主張がなされていました。

 聖徳太子信仰は時代がくだるにつれていよいよ強まり、また平安時代には善光寺信仰も盛んになって、善光寺如来は「生身(しょうじん)」だとする信仰が強まっていきます。さらに平安後期から鎌倉時代にかけては、聖徳太子伝説と善光寺如来の生身伝説が結びつくようになり、荒唐無稽な伝説が次々に生まれます。中世は偽文書がやたらと作られ、怪しい年号が盛んに用いられた時代ですが、聖徳太子関連の偽文献の多さは中でもすさまじいものです。

 聖徳太子が善光寺如来に手紙を書いて届け、使いの者が料紙に硯を添えて御簾の下から差し入れると、御簾の向こうで墨をする音がした後、御簾の下から返事の手紙と硯がすっと出された(善光寺如来が返事を書かれた!)、という話もその一つであって、後にはさらにそのようにしてやりとりしたという手紙なるものが登場します。むろん、中世の手紙の書式で書かれており、写本によって字が微妙に違っている場合があるのですが、そのやりとりの手紙の一つがこれです。
 
          御使 黒木臣
  名号称揚七日已 此斯為報広大恩
  仰願本師弥陀尊 助我済度常護念
     命長七年丙子二月十三日
   進上 本師如来宝前
        斑鳩厩戸勝鬘 上

 当然ながら、中世に作成されたひどい漢文の偽文書であって、黒木臣などという人物は早い時期の史料には見えません。ところが、古賀氏はなんと、九州王朝の年号が用いられているという理由でこの文書を本物とみなし(ということは、善光寺の阿弥陀如来が漢文で書いた返事も本物と認めるんですね? 善光寺僧の代作とするんですか?)、次のように述べます。

わたしは九州年号「命長」が記された、この「命長七年(646年)文書」を九州王朝の有力者が善光寺如来に宛てた「願文」であり、おそらく死期が迫った利歌彌多弗利によるものではないかとしました。阿部周一さん(古田史学の会・会員、札幌市)は差出人の名前「斑鳩厩戸勝鬘」にある「勝鬘」を重視され、女性とする説(注④)を発表され、服部さんも支持されています。この理解も有力と思います。


 「善光寺如来に宛てた「願文」」、というのは願文の語義からするとおかしな言い方ですが、それはともかく、「利歌彌多弗利」は、『隋書』倭国伝の開皇20年条に見える言葉です。つまり、倭王は、姓は阿毎、字は多利思北孤であって、太子を名づけて「利歌爾多弗利」というとある記事ですね。

 古代の日本語にはラリルレロで始まる言葉がなく、そうした語は外来語だけですので(韓国語も同じです。ですから年寄りは「ラジオ」と言えず、「ナジオ」と発音します)、この「利歌爾多弗利」の「利」は「和」の誤記であって、「和歌爾多弗利」は皇族を意味する「わかんどほり」の語の古形と見るのが学界の通説です。私自身、敦煌の地論宗文献の研究をしていた頃は、写本の誤記・誤字・異体字・音通字の多さに悩まされました。写本というのは、そういうものですし、木版本の場合も、そうした写本類に基づくのですから、稀なほど厳密な校訂を経ていても、まったく間違い無しではすまされません。

 しかし、書いてある字をそのまま受け取る九州王朝論者は、文献学や国語学の常識などは無視しますので、当時の倭国の太子は「利歌弥多弗利」であったとするのです。九州王朝ではラ行で始まる言葉がない古代日本語とは異なる言葉を使っていたんでしょう。

 会員の一人が、「勝鬘」とあるのでこの文書の筆者は女性だろうと述べ、古賀氏も、また古賀氏同様に聖徳太子についてトンデモ説を書き散らしている他の会員も、その意見に賛成だそうです。

 しかし、聖徳太子は、奈良時代には天台宗を開いた天台大師の師である南岳慧思の生まれ代わりとされ、後には観音菩薩の化身だとか、聖徳太子が講経した『勝鬘経』を説いた菩薩である勝鬘夫人の生まれ代わりという伝説も生まれました。「斑鳩厩戸勝鬘」という署名は、それを反映したものです。

 鎌倉時代にこの文書を見た人たちの多くは、偽作だと思わずに信じたでしょうが、「斑鳩厩戸勝鬘」というのは「厩戸皇子=聖徳太子」だと受け取ったはずであり、女性だなどと考えた人は一人もいないはずです。

 「古田史学の会」代表の古賀氏とその仲間は、この程度の仏教知識であれこれ空想して論議し、学界の通説を否定したつもりになって楽しむ「学問ごっこ」で盛り上がり、「遣隋使を派遣したのは九州王朝の王、多利思北孤であって、聖徳太子のものとされてきた事績は多利思北孤とその太子の利歌爾多弗利の事績を盗用したものだ」という珍説を論証しようとするのです。

 学校の宿題やレポートなどで聖徳太子について調べる生徒・学生たちが、こうしたサイトを見て、従来の学界の説を打破する新しい説だと思ったりすると困りますね。

 古賀氏は、この会の「全国世話人」を務める人から『大正新脩大蔵経』の検索サイトであるSATを教えてもらい、「おかげで、連日のように発見が続いています」と記しています。

 そりゃ、こんなやり方でこじつければ、学界の通説をひっくり返したと称する大発見がいくらでもできるでしょう。やれやれ。こんな使われ方をするために SATを作成・公開したのではないのですが。

 なお、太子と善光寺如来がやりとしたとされる手紙は、むろん中世の作ですが、いろいろな異本があるうちの一つが法隆寺剛封蔵に秘蔵される四重の箱に収められており、明治時代に一度開けられています。論文もいろいろ出ています。

 少し前にここまで書いて公開しようとし、念のためにあれこれ検索したところ、古賀氏はこうした内容を古田史学の会編『(古代に真実を求めて 古田史学論集第十八集)盗まれた「聖徳太子」伝承』(明石書店、2015年)に掲載していることに気づいたので、注文しておきました。

 本日、届いたので眺めたところ、古賀氏は善光寺如来とのやりとりについては、上記の命長七年の「勝鬘」の手紙だけを本物と見ているようですが、他にも聖徳太子に関する珍説記事を書いているほか、他の会員たちも漢文が読めず、珍解釈を述べているので呆れました。

 たとえば、上で見た命長七年の消息について古賀氏に続いて考察めかした文章を載せている岡下英男氏の「「消息往来」の伝承」では、仲間である正木裕氏が、この手紙は病に臥す九州王朝の太子「利」が、我を助けたまえと善光寺阿弥陀如来に願ったものだと説いているとしてそれに賛成して論じています(正木氏の論も同書に載っています)。

 しかし、「助我済度常護念」は、「我が済度を助け、常に護念したまへ(私が衆生済度するのを助け、常にお守りください)」の意であって、病気などはまったく関係ありません。「命長」という年号にひきずられ、重病となった「利」なる人物が阿弥陀仏に「助けてください!」とお願いしたものと解釈したんでしょうか。阿弥陀仏にお願いするなら、「極楽にお迎えください」と頼むんじゃないですか? 

 それに、「私が人々を済度するのをお助けください」というのは、平安朝の末法思想の流行にともなって浄土信仰が高まるにつれ、それまでは危難から救ってくれる菩薩として信仰されていた観音が、往生を願って亡くなった人を阿弥陀仏のいる極楽浄土へ導く役割を果たす菩薩として信仰されるようになってからの発想ですね。

 観音菩薩は、仏像だと阿弥陀如来の横に勢至菩薩とともに脇侍として置かれるため、平安時代以後は念仏する人々を極楽に迎えようと誓った阿弥陀如来の手助けをする菩薩としての性格が強まりました。聖徳太子は早くから人々を救う観音の化身(救世観音)とみなされるようになっていますので(太子が模範とした梁の武帝は「救世菩薩」と呼ばれていました)、そうした「太子=観音信仰」と浄土信仰における観音のイメージが結びつくようになるのです。奈良時代までの観音信仰、聖徳太子信仰にはそのような浄土教的な要素はありません。

 そのうえ、古賀氏も岡下氏も消息の冒頭部分を「名号称揚七日巳」としていますが、最後の字は文脈から見て、~tvā, ~tya (~し終わって)の訳語である仏教表現ですので、「巳(み・へび)」ではなく、「已」と直さねばなりません。写本では「己・已・巳」は区別できないことが多く、そうした点に気をつけなければ正しく読めず、正しく読めなければ好き勝手な解釈がなされることになります。 

 こうした例ばかりであって誤りを指摘するときりがないため、学界が全く相手にしていないのは当然であり、放っておく方が楽であるものの、SATがらみのトンデモ説が広がるのを防がねばならないため、敢えてとりあげた次第です。

 学問上の解釈はいろいろあって良いのですが、古賀氏とその仲間の古代史ファンたちはその水準まで達していないため、「漢文と仏教の基礎を学んでください」と言うほかないですね。社会批判的な硬派の書物を多く出している明石書店は、いつまでこうした素人たちの同人誌みたいな非学問的なシリーズを出しつづけるのか。出版社の信用に関わると思うのですが。

 古賀氏は、このブログの三経義疏記事なども見ておられるようで、その点は有り難いのですが、このブログや私の論文をトンデモ説のために利用しないよう願うばかりです。

【付記:2021年10月7日】
九州王朝説には時間の無駄なので関わりたくなかったのですが、この記事のことがあったため、古田史学の会編『「九州年号」の研究ー近畿天皇家以前の古代史』(ミネルヴァ書房、2012年)を買ってみたら、古賀氏がこの偽消息を扱っていました。それによると、「我が済度を助け、常に護り念じたまえ」という願文としてますが、「護念」はアディシュターナ系統の語の訳であって術語です。また、命長七年には、倭王の多利思北孤は亡くなっているので、利歌弥多弗利が倭王となっていたとし、おそらく永く病に伏していた利歌弥多弗利が「我が済度を助け」るよう、つまり、彼岸への済度(救済)を阿弥陀如来に願っていると解釈していますが、阿弥陀如来なら一般的な「彼岸」ではなく、極楽浄土への往生を願うとすべきでしょう。「利歌弥多弗利は如来信仰に帰依しており」という部分も意味不明です。如来は釈迦も薬師もいますし、帰依は仏に対して帰依するのであって、「信仰に帰依する」などという言い方はありません。とにかく、まったくデタラメな記述が続いており、空想ばかりです。
【付記:2021年11月9日】
このしばらく後で、太子が善光寺如来に当てた手紙なるものについては、中世の信仰の中で生まれたものであることを示している論文を紹介しておきましたが、付記するのを忘れてました(こちら)。
【付記:2021年11月23日】
正しくは「多利思比孤」ですが、九州王朝論者は、誤記された新しい版本を信仰しているため、その主張どおりに「多利思北孤」の表記を使っています。
【付記:2022年1月26日】
上の記事で岡下英男氏の説に触れましたが、昨日、図書館で『古代に真実を求めて』第17集を見つけ、岡下氏が「聖徳太子伝記の中の九州年号」なる文章を書いていることに気づいてぱらっと読んだところ、善光寺如来の返書の冒頭に「一日称揚無息留」とある箇所を、「一日念仏しただけでも息が切れるのに」と訳していたため、静粛であるべき図書館内ながら、思わず声をあげて笑いそうになりました。「無息」という箇所を「息ができなくなる」と解釈したのでしょうが、この「息」は「休息」「終息」などの意味であって、「一日中、休んだりやめたりせずに念仏し続ける」ということです。古田史学の会の仲間たちは、皆なこうした珍解釈に基づいて大胆な主張をしますね。

【追記:2022年5月21日】
古田史学の会のメンバーがいかに常識知らずで学術論文の書き方すら分かっていないかについては、「石井公成氏に問う」などと挑んできたトンデモ主張の批判として詳しく述べておきました(こちら)。 
【追記:2022年5月29日】
以前、このブログで九州王朝説論者である合田洋一氏を批判しましたが(こちら)、その合田氏が、古田史学の会の代表である古賀氏の誤りを認めない姿勢を厳しく批判する声明を出し、「古田史学」でなく「古賀史学」だと論じていました(こちら)。

【追記:2022年12月1日】
「厩戸勝鬘」とは聖徳太子を指すのであって、『四天王寺縁起』などの記述に基づくことについては、太子に未来記に関する記事で触れておきました(こちら


倭国の官人の仏教知識(研究に必要な仏教知識と検索法):上川通夫「六、七世紀における仏書導入」

2021年09月26日 | 論文・研究書紹介

 聖徳太子の『勝鬘経』講経やその著と伝えられてきた三経義疏が疑われたのは、この時期の倭国は仏教がまだ定着しておらず、僧侶でもない皇子が講経したり経典注釈を書いたするのは無理とされたためです。

 この時期の仏教理解の程度について考えるうえで有益なのが、

上川通夫「六、七世紀における仏書導入」
(山尾幸久編『古代日本の民族・国家・思想』、塙書房、2021年)

です。この論文は、タイトル通りの検討をしているのですが、聖徳太子に関わる部分だけ紹介しておきます。

 中世仏教史が専門であって、この論文では古代仏教に取り組んでいる上川氏は、まず、『日本書紀』欽明15年(554)2月条に、五経博士の馬丁安、僧の道深ら7人、易博士の王道良、暦博士の王保孫、医博士の王有仏㥄、採薬師の藩量豊・丁有陀、楽人の三斤・己麻次たちが次に来た者たちと交代して帰っていることに注意します。氏は、馬・王・藩・丁らの一団の多くは、山尾幸久氏の説に基づいて、中国南朝人であろうとします。

 南朝系という点は確かでしょうが、親や祖父や曾祖父などの代に百済に移住してきた者や百済人との混血の者も含まれているでしょう。また、王有仏㥄などのように中国人とは思われない名前も混ざっていますので、インド・中央アジア・東南アジア系の技術者、あるいは百済におけるその子孫が含まれている可能性もありますね。

 この時期の商人や技術者の国際的な活動はすさまじいいものであって、中央アジアのソグド商人などは、中国・インド・ベトナムなどにまで渡っています。僧侶は、そうした商人とともに旅したのです。

 上川氏は、導入期の仏教は呪術的で未熟だったとする見方が根強いものの、新技術を強く求めていた当時の倭国の状況から見て、仏教についても百済から専門家が派遣されている以上、漢訳経典が手本の一部となり、思想的な関心が生じたことも想像できると述べています。

 これは賛成ですね。『日本書紀』は、仏教導入に関する蘇我馬子の業績を強調していますが、これは馬子を賞賛してその業績を説く伝記が既にできていたためと思われますので、実際には馬子以前から仏教は多少導入されていたと思われます。

 上川氏は、隋に派遣された小野妹子は、出身地に近い琵琶湖南西岸に居住する南朝人や南朝文化を体得した百済人の後裔である志賀(滋賀)の漢人たちとの交流があったものと見ます。そして、妹子と通事の鞍作福利は、煬帝が大乗菩薩戒を受けていることを知ったうえで「菩薩天子」の語を用いて挨拶したと見ます。

 その是非はともかく、注目されるのは、妹子の一行には会丞と呼ばれる官人が加わっていたことです。氏は、唐の道世の『法苑珠林』によれば、妹子が帰国したのちも会丞はとどまり、「「学問」して「内外」(世俗と仏教)を博く学んだ。唐貞観五年(六三一)に還ったという。……遣隋使犬上御田鋤らに伴われたのであろう」と述べます。

 そして、会丞が帰国する前に、長安の大徳が会丞に倭国の仏教事情を問い、インドの阿育王が仏舎利を分けて世界中の国に八万四千の塔を建てたが、倭国にも伝わっていたかと尋ねたため、「会丞は、この問答を通じて、阿育王(塔)」などのことを知り、仏教が根付いた隋王朝や「晩れた倭国の位置を思い描いたであろう」と説いています。

 会丞は、「仏教が伝わる以前は文字がなかったので記録はない」が、倭国人が土地を開発するとしばしば「古塔霊盤・仏諸儀相」が掘り出され、「神光」を放つなどの奇瑞たあるため、倭国にも阿育王塔が存在したと答えており、上川氏は銅鐸を考えたのかもしれないとします。

 興味深い指摘ですが、『法苑珠林』の文章の読み方で、状況がかなり変わってきます。つまり、会丞が隋で学んで初めて阿育王塔のことを知ったのか、倭国にいた時から仏教の知識がある程度あって、阿育王塔のことも知っていたのか、という問題です。

 原文は、「隋大業初、彼国官人会丞来此学問、內外博知」ですので、素直に読めば、隋に来て学問し、内典(漢訳経典と注釈その他の仏教文献)と外典(儒教その他の中国の書物)に広く通じるようになった、です。ただ、「学問しにやってきたが、内典と外典に広く通じていた(ような優秀な人材だったからこそ隋での学問も進んだ)」であれば、僧侶でない官人であるのに既に仏教にかなり通じていたということになり、倭国の仏教の水準を考えなおさないといけなくなります。

 また、会丞の回答のうち、「彼国文字不説、無所承拠」は、倭国の文献はそれについて説いておらず、またよりどころとなる(口頭の)伝承も無い、の意味でしょう。仏教以前は文字が無かったというのは、『隋書』倭国伝が、倭国は文字が無く、百済から仏教経典を得て、「始めて文字有り」と記していることに基づいているのでしょうが、資料はあくまでも原文を正確に読むのが第一であって、解釈はその後のことです。

 そもそも、大業年間(605-618)の初め頃、すなわち607年に遣隋使が送られたのは、「海西の菩薩天子が重ねて仏法を興す(重興仏法)」と聞き、仏教外交をおこなって僧侶を留学させたり書物を導入したりするためでした。「重ねて興す」というのですから、廃仏をおこなった北周にとって代わって隋朝を創始した文帝が仏教を盛大に復興させ、それを継いだ煬帝も「重ねて」仏教復興に力を入れていることを倭国は聞き知っていたことになります。

 そうであれば、文帝が諸国に塔を建てたとされる阿育王を気取り、仁寿年間(601-604)に3度にわたって自分の誕生日に総計114基とも言われる多数の舎利塔を各地に建設させたことを、倭国が知らなかったはずはありません。文帝は、支配していたベトナムにまで塔を建てさせており、ハノイ近辺で最近発見されたその塔の石碑については、現地の研究者と調査した河上麻由子さんが論文を書いています。

 また、大規模な工事をすると古代の遺物かと思われるものが出土し、それが仏教の伝承と結びつけられることは、良くあったようです。高麗の『三国遺事』が、新羅の皇龍寺裏の奇妙な形の石柱は釈迦仏以前の迦葉仏がはるか昔にここで坐禅した石だとする伝承を伝えているのは、その一例です。

 なお、上川氏は、『梁書』百済伝では、百済王の使節が「涅槃等経義、毛詩博士并工匠・画師等」を請うたので与えたとある記事に着目し、「梁から百済へは『毛詩』『涅槃経』が下賜された」と述べ、『日本書紀』欽明六年九月条に記される百済聖明王が欽明天皇に送るために仏像を制作し、「願文」で「普天之下、一切衆生皆蒙解脱」と述べたという箇所について、これは『涅槃経』の「一切衆生悉有仏性」を考慮したものと説いています。

 しかし、百済の使節が請うたのは「涅槃等経義」、つまり、『涅槃経』などの経典の「義」なのですから、これはしきりに講経をして家僧(家庭教師役の学僧)の支援を得つつ注釈も書いていた梁の武帝による『涅槃経』や他の経典の「義(注釈)」の下賜を願ったものと見るべきでしょう。それでこそ、講経や注釈に自信を持っていた武帝を喜ばせ、外交がうまくいくことになるわけです。南朝仏教では『涅槃経』が最も尊重されていたのですがから、南朝仏教を手本としてきた百済には、『涅槃経』は既に導入されていたでしょう。

 また、すべての衆生の安楽を願うのは、小乗仏教を含めた願文の通例ですし、「一切衆生皆蒙解脱」の句は、広く読まれた隋の闍那崛多訳の仏伝、『仏本行集経』の一節です(大正3・697b)。「皆蒙解脱」の語だけなら、『無量寿経』『大智度論』その他の経論に見えています。

 また、「普天之下」が問題です。これは、聖明王の願文に実際にそう書かれていたか、『日本書紀』編者が作文したか(元となる資料に既にあったか)はともかく、「普天の下、王土にあらざるなし」という儒教の常識に基づき、欽明天皇が統治する土地の衆生がすべて解脱を得られますように、と願うものであって、人々の成仏を認める大乗仏教に基づくことは確かですが、『涅槃経』の「一切衆生悉有仏性」説とは直接の関係はありません(なお、『涅槃経』の「仏性」という訳語の中国風な性格については、論文で指摘しておきました。こちら)。

 つまり、上川氏が仏書導入という視点で古代仏教を見直そうとされたことは有意義な試みであり、特に7世紀半ば以後の状況に関する考察は有益なのですが、仏教の知識を踏まえたうえで原文を正確に読むことが大事なのであって、そうでないと、史実とは微妙にずれた結論が導かれることになるのです。

 上川氏のこの論文の場合、依拠した日本仏教史研究者たちの論文が既にそうなっており、氏の責任ではない場合も多いのですが、いずれにしても、古代や中世の文献は、仏教の知識や最新の仏教学の成果に関する知識を持ち、仏典の電子データを活用しないと正しく読めないのです。

 先日刊行されたばかりである『源氏物語(九)』(岩波文庫、2021年9月)の末尾の藤井貞和氏の解説が、その良い例です。藤井氏は、『源氏物語』最終巻である「夢の浮橋」において、行方不明になっていた最愛の浮舟が宇治川に身投げしようとして救われ、尼となって比叡山の横川の僧都の庇護のもとで仏教修行に励んでおり、それを横川の僧都がもらしてしまったことによって状況を知った薫は、自らも早くから比叡山などでの仏教修行を願っておりながらも浮舟に対する愛執の念を強め、

  法(のり)の師と尋ぬる道をしるべにて思はぬ山に踏みまどふかな

と詠んだ歌について、「悩みのない山(出家入山する山)ならぬ、あなたを思う山路に足を踏み入れて迷うことだよな」と説明しています。

 しかし、無憂樹なら「物思いの無い樹」ですが、「思はぬ山」だと、思いがけない山の意となりますし、この歌が踏まえていると氏がみなす古歌もそうなっています。

 もともと比叡山などで修行したいと考えていた薫は、仏法の導き手となるはずの法師、それもほかでもない比叡山の高僧によって浮舟が生きていたことを知ってしまった結果、比叡山ならぬ思いがけない愛執の山、つまり煩悩の山に足を踏み入れて迷ってしまった、ということでしょう。

 実際、地獄の描写で有名であって平安貴族にはおなじみであった『正法念処経』には、「煩悩の山」という言い方がいくつも出てきます。その他の経典にもこの語は見えますし、似た表現は経典には多いため、はずです。これは、聖徳太子研究の場合も同様です。

 SAT(大正大蔵経テキストデータベース)で「無思山」や「無憂山」などで検索すれば、前者は用例が無いこと、後者は唐の栖復の『法華経玄義要集』が『正法念処経』に言う「如意山」のことを「無憂山」とも名付けるが、それは快楽と衣食が天人と同じだからであって、この山に入る者は、「皆な快楽するが故」だと説いているのが『源氏物語』以前の例ですが、文脈が合わないことが分かります。

 逆に地獄の詳細な描写で平安貴族には馴染み深かったその『正法念処経』で「山」を検索すれば、「煩悩山」という表現が多数見えており、類似した表現も多いことが分かったでしょう。

 SATの作成・公開メンバーの一人であって、広範な仏教文献データベースである台湾のCBETAとも以前は交流して協力しあい、強力な文献比較ツールであるNGSMを仲間たちで開発し(三経義疏を扱った例は、こちら)、かつ、『源氏物語』における仏教表現のデータベースも作成したことがある身としては、古代の史書や文学書における仏教の要素を正確に理解するために必要な知識や検察のコツなどを、何とかして広めたいところです。

【付記】
朝方、公開しましたが、題名を一部変更し、本文では補足の説明を加えました。


厩戸皇子は「皇太子」ではなかった:本間満『日本古代皇太子制度の研究』

2021年09月23日 | 論文・研究書紹介
 「憲法十七条」や『勝鬘経義疏』は聖徳太子の作であり、隋との外交も主導した見てよいらしいことを学部の研究会で発表し、このブログでも報告しました(こちら)。現在、『駒澤大学仏教学部論集』52号に掲載されるその詳細版を校正中です。ただ、だからと言って、『日本書紀』の聖徳太子関連記事をすべて史実とみなせるわけではなく、今後も批判的に検証していかなければならないことは、少し前の記事で書いた通りです(こちら)。

 そこで今回は、厩戸皇子が皇太子となったとする記事を疑った論文をとりあげることにします。

本間満『日本古代皇太子制度の研究』「第六章 古代皇太子制度の一研究-廐戸皇子との連関で-」
(雄山閣、2014年)

です。刊行は2014年ながら、初出は『昭和薬科大学紀要』第32号(1998年)であって20年以上前の論文ですが、ネットでは聖徳太子は「皇太子」だったとか「摂政」だったとする記述もまだ多数目につくため、紹介することにしました。

 本間氏は、大山誠一氏の太子虚構説について、『日本書紀』における厩戸皇子は「理想的な天皇像」ではなく、「理想的な皇太子像」として描かれているのではないか、と有益な提言をされた一人ですが、虚構説側は考慮しませんでしたね。

 さて、戦後、古代の皇太子制度について研究を大きく進めたのは、厩戸皇子の摂政の地位や事績を否定し、国政への関与は「有力王族の一人としての関与」にとどまると論じた荒木敏夫『日本古代の皇太子』(吉川弘文館、1985年)でした。本間氏は、この荒木氏の研究を踏まえつつ 皇太子制度についてさらに細かく検討していきます。

 問題となる『日本書紀』推古元年4月庚午朔己卯の記事について、本間氏は「すべて厩戸皇子の内容で埋め尽くされており、まるで厩戸皇子のための小伝記ともいえる」と述べます。そのため、立太子・摂政の記事だけを切り離して検討することはできないとします。

 そして、『日本書紀』に点在する厩戸皇子関連の記事を考えあわせると、『日本書紀』における「太子伝の原型を想定できる」とし、呼称から見て、いずれも死後になって「太子=聖人」という枠のもとで後人が尊んで呼んだものと見られるとします。

 推古元年4月の立太子記事については、否定する研究者が多い中でも、実力をつけていって推古10年頃にその地位についたと見る直木孝次郞氏や、制度に基づく後代の皇太子ではないが、それに相当する責任ある地位について活動した、いわば「単独としての皇太子」となったと見る坂本太郎氏や井上光貞氏がいます。

 しかし、本間氏は、厩戸皇子以後も葛城皇子や草壁皇子の立太子記事があり、この三皇子には、(1)20歳で立太子、(2)立太子記事がある、(3)摂政記事が付されている、(4)天皇・皇后の長子となっている、(5)皇太子期間が長い、(6)後に偉大な称号が与えられている、(7)大きな政変後に立太子されている、などの共通点があると指摘します。

 そして、上記のように不安定な政情の際、天皇の譲位→皇太子即位という慣習が確立していない時代に、立太子する意味が不明と説くのです。

 しかも、三皇子とも、立太子しても山背大兄と田村皇子の対立、孝徳朝から斉明朝における古人皇子や有間皇子の謀反、大津皇子の謀反などが示すように、皇嗣の決定は不安定であるため、「やはり有力な皇子としての政治的参加と考えてよいのではあるまいか」とします。

 ついで本間氏が問題とするのは、皇太子の居所として東宮の問題と、皇太子を支える官人の制度です。そして、上記の三皇子については、いずれもこの点が明らかでないため、三皇子の立太子は、『日本書紀』編者が「理想的な古代皇太子像として造作したもの」と推定します。

 そして、「単独の皇太子」だったとしても、荒木氏が指摘するように「一人の有力王族としてのもの」と説くのです。そして、上記の条件が揃った皇太子制度が確立されるのは、天平10年の阿倍内親王の立太子であって、完成は光仁朝以降と説いてしめくくっています。

 なお、「太子」の語については、本間氏は、「皇太子」という意味と「長子」という意味があるとする荒木氏の指摘に注意しています。つまり、『日本書紀』の素材となった厩戸皇子関連の資料で「太子」という語が使われていた可能性は無いわけではないが、だからといって、制度としての「皇太子」と見る必要はないということです。

 こうした問題提起に答え、推古天皇の小墾田宮に東宮が設置されていたと説いたのが、以前、紹介した西本氏の本ですね(こちら)。西本説は無理と思われますが、雷丘東方あたりと推定されている小墾田宮の遺跡の発見と発掘が期待されるところです。

 なお、厩戸皇子を皇子たちのうちの有力な一人にとどまると見るのはどうでしょうかね。技術者が限られている中での、飛鳥寺→豊浦寺→斑鳩寺(→中宮寺・四天王寺)、という本格寺院建設の流れ、飛鳥と斑鳩を斜め一直線に結ぶ広い太子道の存在など、考古学の成果を見れば、皇太子制度はまだ確立していなかったにせよ、やはり、「蘇我馬子→推古天皇→厩戸皇子」というのが当時の実権の順位であったと考えるのが自然に思われます。

 また、推古15年に経済基盤として「壬生部」が定められており、これが上宮王家に伝えられていっている点に着目し、厩戸皇子が天皇・皇后につぐ特別な扱いを受けていた証拠と見る研究者も少なくありません。

 ただ、本間氏の慎重な論じ方は好感が持てるものであり、今後もこうした立場での検討が重ねられていくことが期待されます。

「官(つかさ)」と称された仏教担当者、蘇我馬子:田中史生「『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』と出土文字資料」

2021年09月20日 | 論文・研究書紹介
 前回は、瓦の実物を精査して初めて分かった事実の報告例をとりあげました。文献研究の場合も、ざっと眺めて目につく部分だけ注目するのではなく、典拠と語法に注意しつつ全体を精密に読んでいくべきであることは、言うまでもありません。そこで今回は、文献の実物調査ではありませんが、一字一句に注意して読むことによって意外な事実が見えてくる例を紹介しましょう。

 「憲法十七条」では、「其れ賢哲、官に任ずるときは、頌音、則ち起こる(賢い人が官に任命されると、ほめたたえる声が起きる)」とあります(この「頌音」は、中国古典の常識から見ると、かなり問題のある表現であるため、いずれ解説します)。この「官」について考える際、有益なのが、『元興寺伽藍縁起』で蘇我馬子が「官」と呼ばれていることであって、この表記に着目したのが、

田中史生「『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』と出土文字資料」
(『日本歴史』2014年12月号)

です。

 天平19年(747)に提出された『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』(以下、『縁起』)については、大山誠一氏の太子虚構説仲間である吉田一彦氏が、後代の信用できない記述が多く、史実を伝えてないことを強調した『仏教伝来の研究』(吉川弘文館、2012年)を刊行しています。

 田中氏は、吉田氏のこの書が研究を進めたことを評価しつつも、『縁起』には古い資料に基づく箇所もあるとします。

 その例として、川尻秋生氏の「飛鳥・白鳳文化」(『岩波講座 日本歴史』第2巻、2014年)では、『縁起』の表記が木簡や正倉院宝物の銘文などに見える『日本書紀』以前の古伝に基づく表記が見られると説いていることを紹介します。

 川尻氏のこの「飛鳥・白鳳文化」は、当時の仏教の状況をバランスよくまとめているため、このブログでも紹介しようかと思っていました。なお、田中氏は典拠を『日本通史』と記していますが、『日本歴史』の誤りです。

 そこで、そうした視点で『縁起』を見直すにあたって、田中氏が着目したのが「官(つかさ)」という呼び方です。日本で最初に出家した善信尼などの百済留学に関する記事のところに、他と異なる表記が見られるのです。

 それは、「時に三尼等、官に白(もう)さく」「時に官、許し遣わしき」「百済より尼等還り来り、官に白さく」などといった箇所であって、特に問答の部分で蘇我馬子を「官」と呼んでいることが多いのです。しかし、『縁起』の他の箇所では、大臣」「馬子大臣」「有間子大臣」などと呼んでいます。

 このため、田中氏は『縁起』、あるいは『縁起』が元としたとされる豊浦寺の縁起などがあり、この問答部分ではそれを用いているのだと推測し、特定の官人を「官」と表記するのは、8世紀以前の木簡や土器のヘラ書きなどに見えることを、例をあげて指摘します。

 そして、上の問答部分で馬子が「官」と呼ばれているのは、「大臣として外交を担当する責任者、管理者の地位にあったことによるのだろう」と推測します。これはその通りと思いますが、「外交」に加えて「仏教の責任者」という点も加えてほしかったですね。

 飛鳥寺については、「国家の官寺でなく、蘇我馬子の氏寺であった」というような言い方がなされる例が目につきますが、朝廷において仏教を担当する役職を担当した氏族が職務として国家のために建てた寺と見るべきでしょう。草創期、過渡期については、後代の常識で割り切ることはできません。

 田中氏は、2頁というこの小文の末尾で、『縁起』は「無視しえない史料的価値を持っているといえるのではなかろうか」と述べてしめくくっています。誰でも知っている資料でも、ちょっとした表現に注意すれば、新たな情報が得られるという好例ですね。

 なお、冒頭で「憲法十七条」に触れたのは、「憲法十七条」の目的は、倭国の「治天下大王」を中国の皇帝に近づけようとすると同時に、蘇我馬子をそうした君主を支える「賢臣」「聖臣」として権威づけることにあったと、30年前から考えているからです(こちら)。

文科省教科書調査官の聖徳太子観:高橋・三谷・村瀬『ここまで変わった日本史教科書』

2021年09月17日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報
 教科書では聖徳太子の扱いが変化してきました。このブログでも、明治以来の変化については、何度か触れました(こちらや、こちら)。

 また、最近の教科書では聖徳太子の影が薄くなりつつあるため、そうした変化を紹介するのは当然ですが、学界ではこの10年以上まったく相手にされなくなった20年前の大山誠一氏の聖徳太子虚構説を最新の有力な学説として評価し、著書その他でこの大山説が教科書の変化の理由と説いてきた河合敦氏の問題点についても、以前、指摘しました(こちら)。このタイプの書き手は他にも多いですね。

 そこで、今回は、教科書を審査している文科省の担当者とその経験者である研究者の近年の書物を紹介しましょう。

高橋秀樹・三谷芳幸・村瀬信一『ここまで変わった日本史教科書』
(吉川弘文館、2016年)

です。高橋氏は、文科省の初等中等教育局の教科書調査官であって、中世史の研究者。三谷氏は、教科書調査官を経て現在は筑波大学の准教授、古代史の研究者。村瀬氏は、高橋氏と同じ調査官であって、近代史の研究者です(いずれも、同書刊行時のもの)。

 同書では、原始時代から平成時代に至るまでが取り上げられており、聖徳太子は「飛鳥時代」の5として、「変容する「聖徳太子」」というタイトルで3頁ちょっと記されています。署名執筆者は、古代史担当の三谷氏です。三谷氏の専門は、CiNii(https://ci.nii.ac.jp/)で検索すれば分かります.

 三谷氏は、没後の呼び方である「聖徳太子」とともに実名と考えられる「厩戸皇子(うまやとのみこ)」を併記するのが一般的な傾向としたうえで、推古朝には「天皇」「皇子」などの語が使われたか不明ということで、「厩戸王(うまやとおう)」と表記する教科書もあると述べ、「聖徳太子」という名は絶対的な地位を占めてはいないと述べます。

 穏当な説明ですね。「うまやど」とせず、「と」と清音にしており、そうした点に注意していることが分かります。ただ、「厩戸王」については、「古代の文献には見えない」という点は意識されてないように見えます。

 ほかに気になるのは、太子の生前の呼び方はどうであれ(確定できないのが現状ですが)、平安時代以後、現代に至るまで「聖徳太子」と呼ばれて信仰され、日本の思想と文化に大きな影響を与えてきた以上、「聖徳太子」という名を教えないわけにはいかない、ということをどれだけ意識しているか、ということです。鎌倉時代に諸宗の開祖を紹介するのであれば、聖徳太子信仰に触れる必要もあるほど、この時期の太子信仰はすさまじいものでした。神格化が進み、美術、芸能、音楽その他、様々な面で影響を与えています。

 併記でも注の形でもかまいませんが、後代にできて親しまれてきた「聖徳太子」を教えないと、歴史教育として不充分になります。空海についても、没後につけられたものとはいえ、人々がそう呼んで親しみ、数々の伝説が生まれた「弘法大師」という号を知っておきたいものです。

 また、推古天皇など天皇の漢字諡號は後代に定められたものだということも教えないと、「聖徳太子」だけが後代の呼称で、同時代の他の人たちの名は実名なのだ、と生徒が受け取る可能性があります。

 ただ、推古朝の最近の研究動向に関する三谷氏の説明は穏当なものです。氏は、聖徳太子を中心とする見方が変わってきているとして、次のように述べます。

大臣である蘇我馬子の発言力がきわめて強かったと考えられている。一方、聖徳太子も王位を継承しうる有力王族として、政権の中枢を担っていたという見解がいまでも有力である。そのため、推古朝の政権を、聖徳太子と蘇我馬子の共同執政とする捉え方が、現在広く受け入れられている。そのうえで、2人に指示を与えるべき立場にある、推古天皇の政治的主体性にも改めて注意が向けられている。(19頁)

以上です。ごくまっとうな見解ですね。

 氏は、かつてのように推古朝を聖徳太子の時代として描くのではなく、「憲法十七条」についても、制定の主体を明示しないか、太子の制定と「される」「伝えられる」と婉曲な書き方をする教科書が多いとします。

 また、そうした慎重な態度は、肖像画とされてきた「唐本御影」についても同様となっているとします。また、遣隋使については、「日出処天子」国書で知られ、これまで特筆されてきた607年の派遣だけでなく、『隋書』に見える600年の遣隋使も重視されるようになったのは、この時の派遣が画期的であって、これがきっかけとなって冠位十二階や「憲法十七条」が制定されるなど、国内の制度が整備されたとするためだろうとします。

 そして、あらゆる事柄を「超人的な偉人」としての聖徳太子の事績に帰するのではなく、「時代とともに生きた政権の担い手のひとりへ」と、教科書の記述はゆるやかに、かつ確実にかわりつつある、と述べてしめくくっています。

 まったくその通りであって、異論ありません。それに比べ、一部の教科書では、現在の研究の評価を考慮せず、できるだけ厩戸皇子に触れずにすませたり、「厩戸王(うまやどおう)」を本名扱いしたり、いろいろな学説があることを教えると称して、大山誠一氏の虚構説を紹介するコラムを載せたりするなど、問題が多いものが目につきます。これに反発し、検証不充分なまま無暗に持ち上げようとする姿勢が目につく教科書も問題ですが。

 教科書は限られた人数で執筆しますので、すべての時代や事柄について、自ら研究したり、最新の研究に精通している人が執筆するのは、むろん不可能です。

 私自身、岩波新書で『東アジア仏教史』を書いた際は、自分はどれほど僅かな分野しか原文を読んでいないかを痛感させられたことでした。中国の一時期、日本の一宗派だけをとっても、一人で完璧にカバーするのは不可能です。

 ですから無理もないのですが、盛んな論争がある事柄で社会の注目をあびそうな事柄については、教科書や歴史書の執筆者はやはり注意して、最新の諸説を調べるべきでしょう。

 「聖徳太子 最近の説」で検索すると、ヒットする記事の上位のうちに、「あの「聖徳太子」が教科書から姿を消すワケ」という2016年5月25日公開のインタビュー記事がありました(こちら)。語っているのは、ロングセラー参考書となっている『大学への日本史』を監修した「歴史家・昭和女子大学講師・東邦大学付属東邦中高等学校非常勤講師」の山岸良二氏です。

 山岸氏は、「「厩戸王」は実在の人物です」と述べるだけでなく、「厩戸王」が本名と断言するなど、知識不足が目立ちます。名前以外の点についても同様です。

 氏は古代史のいろいろな面について解説しておられますが、CiNiiで検索した限りでは、氏の専門は古墳その他の考古学であり、聖徳太子の時期について書いたものとしては、一般向け雑誌の連載で、古代寺院の遺跡の大きさについて触れた4頁の解説記事があるだけのようです。

 聖徳太子は話題になるため、専門的に研究していない人でも、古代の研究者ということで依頼されると、あれこれ語りがちなのですね。こうした例は、聖徳太子に関するムック本の監修者にもよく見られます。

 古代史研究者としては有名であるものの、分野違いで聖徳太子研究はしていない研究者が出版社に頼まれて監修し(名前を貸すだけ、あるいは短い概説を担当するだけの場合も有る)、実際は若手の研究者、さらに多くの場合は歴史も手がけるライターたちが短期間で書きあげたものが目立つのです。

 こうしたムック本は玉石混淆であるため、そのうち、一般向けでありながら学術的でしっかりしたものと、あまりにもお粗末なものの代表例をいくつか紹介しましょう。

実物を見てこそ分かった法隆寺の瓦と近江の瓦の前後関係:北村圭弘「栗東市蜂屋遺跡から出土した忍冬文単弁蓮華文軒丸瓦」

2021年09月14日 | 論文・研究書紹介
 少し前に、法隆寺金堂の薬師如来像の台座裏に描かれた画を復元調査し、新しい知見を報告された東京国立博物館の三田覚之氏の論文を紹介しました。そして、実物調査の重要性を強調し、活字になった文献だけ見てあれこれ想像する時代ではないと述べました(こちら)。

 むろん、写本であれ仏像であれ、実物を間近で見て調査できる人は限られています。私にしても、『法華義疏』の御物本が博物館で公開される時は見に行くようにしていますが、ふだん三経義疏の内容を検討する場合は、戦後刊行された四天王寺版の会本(活字本)で読んでいますし、検索は大正大蔵経の電子テキスト(文字は一部訂正しました)でやっています。

 ただ、巻物仕立てになっている吉川弘文館の非常に精密な『法華義疏』の複製(四巻)はずっと前に購入して眺めており、大学院で『勝鬘経義疏』を1年間講読した際は、院生たちに原物の感じをつかんでもらうため、その『法華義疏』の複製本も少し読んだりしました。

 モノクロですので、実物やカラー写真には及びませんが、それでも活字本ではわからないことが見えてきます。実際、前回紹介した中島壌治氏のすぐれた『法華義疏』書写者研究も、吉川弘文館の複製本で検討しています。

 ただ、可能であれば一部だけでも実物を、無理ならできるだけ実物に近い形のものを見るよう心がけるべきですし、少なくとも、実地調査した人の報告に注意すべきでしょう。活字本、それも現代語訳や近代になってからの訓読だけ見てあれこれ言うのは危険きわまりないことです。

 そこで今回は、写真だけでは分からず、実物を手にして初めて分かった事例の報告を紹介しておきます。雑誌論文ではなく、滋賀県文化財協会保護協会のサイトの連載記事の一つです。

北村圭弘「(調査員のオススメの逸品 第248回)栗東市蜂屋遺跡から出土した忍冬文単弁蓮華文軒丸瓦」(2018年12月19日公開、こちら

 近江は聖徳太子や法隆寺に関わる伝承が多い土地ですが、琵琶湖南西に位置する栗東市の蜂屋遺跡で平成30年におこなわれた発掘調査では、法隆寺の瓦と同笵の瓦(以下、蜂屋瓦)の破片、しかも再建法隆寺の瓦だけでなく、若草伽藍の瓦と同じものが発見されています。

 同じ瓦笵で作成したものと気づいたのは、この報告を書いた北村氏です。実は、安土城考古博物館の平成20年度春期特別展「仏法の初め、茲(これ)より作(おこ)れり」に若草伽藍で出土した忍冬文単弁蓮華文軒丸瓦(以下、法隆寺瓦)が展示されており、北村氏はこの特別展の開催に関わっていたため、印象が強かったのです。

 ただ、蜂屋遺跡のこの瓦は若草伽藍の瓦と同笵だと直観したものの、展覧会の図録の写真や他の本に掲載されている法隆寺瓦の写真と比べると、蜂屋遺跡の瓦は范傷が少ないように見えた由。

 このタイプの忍冬文単弁蓮華文軒丸瓦は、法隆寺に近接する中宮寺でも出土しており(以下、中宮寺瓦)、范傷の少なさから見て中宮寺瓦が先に作成されていたと推定されています。すると、中宮寺瓦→蜂屋瓦→法隆寺瓦、という順序で瓦笵が移動したことになります。

 不思議に思った北村氏は、蜂屋瓦を持って斑鳩町教育委員会と奈良文化財研究所を訪ね、法隆寺瓦との実物照合をおこなったところ、妙なことに気づいたそうです。法隆寺瓦は蜂屋瓦を作成した後に使われ、傷が増えた瓦笵で作られたはずでありながら、蜂屋瓦にある多くの傷のうちには法隆寺瓦には見当たらないものがあったのです。

 さらに細かく観察すると、法隆寺瓦には、特定の箇所の范傷が無いタイプとあるタイプがあり、前者が古段階、後者が新段階に分けられること、そして蜂屋瓦にはその箇所に范傷が認められ、他にも傷が見られることが分かりました。となると、蜂屋瓦は法隆寺瓦の新段階より後ということになります。

 そこで、法隆寺瓦と蜂屋瓦の実物を比較検討すると、法隆寺瓦の新段階で傷みが目立ってきた部分を削って修正した瓦笵でもって蜂屋瓦を作成したことが判明したのです。つまり、法隆寺瓦を作り終えて瓦笵の傷みが進んだ段階で、傷みのひどい部分を補修し、その瓦笵によって蜂屋瓦を作成したのですが、補修した箇所以外の范傷はそのまま残り、使っているうちにさらに傷が増えたということです。

 北村氏は、中宮寺瓦の実物調査はできていないものの、この結果から見て、これまでは「中宮寺瓦→法隆寺瓦」という順序で進んだと考えられてきたが、実際は「法隆寺瓦の古段階(中宮寺瓦)→法隆寺瓦の新段階→蜂屋瓦」という新古関係が想定できそうだ、と述べています。

 現時点では蜂屋瓦は出土数が少ないため、北村氏は、この地で作ったのではなく、大和でつくった瓦を近江に運び込んだことも考えられると述べています。さて、どうでしょう。中宮寺の瓦については、少し前の記事でふれました(こちら)。中宮寺については、別に書きます。

 北村氏は、この「物部郷と法隆寺の関係は、これまで想像していた以上に深そうです」と述べて、この報告を締めくくっています。

 蜂屋遺跡のある地は『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』(天平19年)が近江にある「荘倉」としてあげている「栗田郡物部郷」と推定されています。守屋合戦の後に、聖徳太子の領地となった可能性がある土地ですね。

 なお、蜂屋遺跡については、若草伽藍と同笵の瓦は2点のみであって、再建法隆寺の瓦が多数出ています。発掘を担当し、北村氏と同道して斑鳩町教育委員会・奈良文化財研究所に調査に行った宮村誠二氏の論文が、北村氏のこの記事の後に刊行されているため、そのうち紹介しましょう。これは、若草伽藍および再建法隆寺がどの地域のどの豪族によって支えられていたか、どの地域に荘倉を有していたかを知る材料になりますので。

『法華義疏』は膳臣清国のような側近が清書、訂正部分が太子の直筆:中島壌治「「法華義疏」筆者試考」

2021年09月10日 | 論文・研究書紹介
 『法華義疏』については、奈良国立博物館、ついで東京国立博物館で開催された「聖徳太子と法隆寺」特別展(こちら)で一部が展示されていました。九州国立博物館開催の「皇室の名宝ー 皇室と九州をむすぶ美ー 」でも展示された由。

 聖徳太子の真筆とされているのですが、このブログでは、2月に「『法華義疏』の画像データベースによると重要な訂正部分は別人の筆跡:飯島広子氏の博士論文」(こちら)という記事を掲載しました。題名どおりの内容であって、20年以上前の博士論文ですが、刊行されておらず、学界で注目されていないため、敢えてとりあげた次第です。

 その記事では、飯島氏の研究を高く評価しつつ、先行論文であって、しかも44頁もある力作、

中島壌治「「法華義疏」筆者試考」
(『国学院大学紀要』第20号、1982年3月)

を参照していないことを問題点としてあげました。そして、中島氏の論文を近く紹介すると書いてしめくくったものの、それきりになっていました。そこで、今回紹介することにした次第です。

 『法華義疏』は、訂正箇所が多く、しかも色の違う紙を貼って何行もあらたに加えた部分もあるため、作者自筆の草稿本と考えられてきました。

 しかし、古代の筆跡を臨模することで書道史の研究を始め、『法華義疏』についても若い頃以来、何度も臨模してきた中島氏は、その度に見事さに打たれる一面、本当に太子の筆跡かという疑いが強まっていったと述べます。

 その理由の第一は、全巻を通して筆跡・速度の練達度が高く、「あたかも文書筆写を専門の職業とする人物の筆跡のやうに思はれる」ことです。この点は、敦煌写経の専門家であって、『法華義疏』は中国の二流の注釈を遣隋使がもたらしたものと論じた藤枝晃先生も写字生の筆跡だと強調していたところです(三経義疏は変格語法が目立つため、藤枝先生の中国撰述説は成り立たないことは、たとえば、こちら。この当時は、私は中国人が書いた文章ではないという点だけを論じていましたが、その後、文章の長さなどから見て、韓国の変格漢文とは異なると説くようになりました)。

 第二は、丁寧に書くことが要求される経典の写経と違い、注釈などは乱雑に筆写されることが多く、『法華義疏』はその一例ですが、「技が見えすぎる点で、皇族・貴族の筆跡には遠く思はれる」点です。

 第三は、作者が考察を重ねつつ書き進めていった様子が見えず、「あたかも写本をするような」なめらかな筆致の流れが見えることです。

 第四は、あちこちに点在する異筆による加筆の文字の方が、「大らかで呼吸も自然であり、拙朴ではあるが、貴族的と思はれる」点です。

 こうした点については、熱烈な太子礼賛の立場に立ちつつ、文献学的にきわめて厳密な考察をおこなった花山信勝も注意していました。花山は、第一巻の終わり近くで紙を貼って訂正した3行半の部分については、内容から見て作者自身のものとするほかないにもかかわらず、後人の手による他の訂正部分と同筆であるため、これが太子の直筆なら異筆による修正はすべて太子自身のものと見ることができると述べていました。

 つまり「本文は太子の筆ではない」とは言いにくいため、そうは明言せずに、訂正箇所のうち、本文とは異なる書体で記されている部分は太子の直筆である可能性があるとだけ述べたのです。この意見を重視する中島氏は、聖徳太子を神格化した伝記の代表である平安時代の『聖徳太子伝暦』が、

舎人、近江の人。膳臣清国。能書にして寵有り。許多(多くの)経を写す。大仁の位を賜う。(原漢文)

と述べていることに注目します。「大仁」は、官位十二階の第三階で、後の正五位あたりに相当し、舎人としては高位ですね。

 膳臣については、『日本書紀』では、雄略天皇8年、新羅に抱囲された高句麗王が任那王に使いを出し、任那日本府に軍勢派遣を要請した際、そこにいた人物として膳臣斑鳩の名が見えます。また、欽明天皇6年に、膳臣巴提便が百済に使いしたとあり、同31年には高句麗からの使節を饗応するために膳臣傾子が派遣されています。

 傾子は、崇峻天皇即位前紀では、守屋合戦の際に馬子・太子側で参戦した豪族の一人であって「膳臣賀托夫(かたぶ)」と記されており、『上宮法王帝説』では「膳臣加多夫古(かたぶこ)」と記されています。太子と一日違いでなくなった最愛の妻、菩岐岐美郎女の父ですね。

 推古天皇18年には、筑紫に来た新羅・任那の使いを迎える際、荘馬(かざり馬)の長として膳臣大伴が任命されています。

 このように、膳臣一族は外交関連で活躍していたうえ、膳臣清国は「近江の人」とされているため、渡来氏族が展開していた山城や近江とつながっており、漢字に通じていたと中島氏は見ます。隋に派遣された小野妹子も近江の出身でしたね。

 では、清国はどのように『法華義疏』に関わったのか。中島氏は、三経義疏は講経の手控えであったとします。誤字などが多いのは、太子が急いで書いたためであり、そうした誤りが多くて読みにくい草稿を、清国が筆写して誤写を訂正し、それに太子がさらに訂正を加えたと、推測するのです。

 中島氏は、『法華義疏』の本文と別筆による訂正の書法の違いに注意します。漢民族の貴族・知識人が重視した正統の書法は、穂先を逆の方向から入れて折り返し、線の内側に包み込むようにして書く「蔵鋒」であって、これだと文字は重厚になるものの、速くは書けません。別筆部分は、ほとんどこの「蔵鋒」で書かれており、終筆もゆるかやかにおさまっています。

 一方、本文は反対に、鋭角的な起筆部分が見える「露筆」で始め、軽快で曲線的な字をかなりの速さで書いています。また、その書体は、中国の北朝で育った点画を守らない実用的な文字です。この書体は、僧侶や役人によって朝鮮・日本に伝えられました。

 『法華義疏』巻頭の「法華義疏第一 此是大委国上宮王私集非海彼本」という有名な部分は、本文の書体に似ているものの、北朝系の写経などに良く用いられる書体であって僧侶の筆と思われるうえ、「華」の横画が一本多いのはこの人物の癖であって他に例がないと中島氏は説いており、奈良時代の行信の可能性も認めます。

 そして、中島氏は、本文と別筆の書体の違いを詳細に検討した後、注釈とはいえ、『法華義疏』は太子の真撰となれば、最終的には楷書で正しい文字で書かれるべきだとします。そうなっていないのは、太子が稿本をいそいで作り、右筆は、用紙にへらで推して空罫を入れたうえで、細かな文字の誤りなどは訂正せず、太子の草稿をそのまま軽快な書体ですみやかに書写していったためだ、と結論づけるのです。

 第四章では、花山が指摘した箇所も含め、別筆と思われる部分を全巻にわたって抜き出し、複製本から画像を切り出して並べて示しています。

 『伝暦』は太子神格化が進んだ平安期の太子伝であるため、筆写したのが膳臣清国であるかどうかはともかく、状況は中島氏が推測している通りではないかと、私は考えています。

金堂の薬師如来像は7世紀中頃に山背大兄追善で造られた弥勒像?:三田覚之「法隆寺金堂薬師如来像台座画の想定復元について」

2021年09月07日 | 論文・研究書紹介
 前回の記事では、林氏が金堂の薬師如来像の光背銘に基づいて若草伽藍金堂の完成時期を607年としていることを紹介しました。その記事でも触れたように、この薬師如来像は、像自体についても銘文についても諸説があって論争になっています。

 銘文では、用明天皇が病気が重くなった「丙午年(586)」に、「大王天皇(推古天皇)」と「太子」を呼んで治病のために薬師像を造って礼拝供養することを誓願したものの、果たせずに亡くなったため、「小治田大宮治天下大王天皇(推古)及び東宮聖王」が、「丁卯年(607)」に造営したと述べています。

 しかし、薬師如来像は太子が没してすぐ造られた金堂の釈迦三尊像に似ているものの、よりやわらかい造形となっており、鋳造技術も格段に進んでいるため、若草伽藍が焼失して以後の7世紀後半の作とする説が有力でした。銘文については、像の作成と同時と見る説と、像の作成が先であって後から刻まれたとする説があります。

 この問題について、薬師如来像の台座に描かれた画の復元調査から新しい説を打ち出したのが、このブログでも何度か論文を紹介してきた東京国立博物館の三田覚之氏です。

 太子関連の仏像や天寿国繍帳銘について精力的に研究を進めてきた三田氏は(たとえば、こちら)、彩色がほとんど剥落してしまった台座の背面の画を、近赤外線撮影し、それに基づいて研究を進めると同時に復元模造をおこなったのです。その成果が発表されたのが、

三田覚之「法隆寺金堂薬師如来像台座画の想定復元について」
(『MUUSEUM』第693号、2021年8月)

です(三田さん、ご恵贈、有り難うございます)。

 この撮影作業は、凸版印刷の文化事業推進本部によるVR作品、『法隆寺 国宝 金堂ーー聖徳太子のこころ』の制作にともなう法隆寺西院伽藍の三次元計測に付随する形で法隆寺に許可をもらったものである由。

 台座の背面を近赤外線撮影すると、遠い山、樹木、火炎状の樹葉、宝珠、僧形、動物、長靴、などがうっすらと浮かび上がってきたため、三田氏が書き起こし図を作成し、近い時代の諸例を考慮しつつ元の状態を推測したうえで、その想定に基づいて、仏像修復で知られる佐久宗琳仏所の諸橋重慧氏が素晴らしい技術で彩色復元をおこなったそうです。

 ひょろりと高くて途中で二つの幹に分かれており、葉が少ない樹木の形は、「天寿国繍帳」(鎌倉時代の模本の部分)にも認められるうえ、梁の武帝の皇太子であって若くして亡くなった昭明太子とその母の合葬陵とされる南京の大墓(530年の年紀有る)から出土した画甎に描かれた樹木と共通する由。

 太子が模範としたのは、南斉の第二皇子であった竟陵王、その竟陵王の仏教の影響を受けた梁の武帝、その皇太子であった昭明太子であったことは、私が先日の発表で示した通りですので(こちら)、この絵柄の共通性は理解できます。

 台座の画では、山にはさまれた樹木の下で頭まで袈裟をかぶっている僧が描かれていました。その僧の前に長靴が揃えておかれるのは、禅定に入っている僧侶を描く際の通例であることから、三田氏は、この画は、釈迦から法を託された弟子の摩訶迦葉が、鶏足山で禅定に入り、五十六億七千万年後に出現する弥勒如来を待っている姿を描いたものとします。

 ただ、この話には薬師如来は登場しません。しかも、美術史の大西修也氏は、薬師如来像は釈迦三尊像より技術的に進んでいるとはいえ、やはり止利様式に基づいていて似ているため、7世紀後半ではなく、唐代美術の影響が及ぶ前の7世紀半ばすぎ頃に造られたのであって、銘文はそれ以後の追刻と説いていました(釈迦三尊像に関する大西氏の論文を紹介した記事は、こちら)。

 そこで三田氏は、薬師如来像は隣に置かれている良く似た釈迦三尊像より小ぶりであって、かなり高い台座に安置されているのは、釈迦三尊像と並べて安置した際に、見た目のバランスが悪くならないようにするためであるとし、この像が薬師如来とされるのは銘文が述べているだけであるため、むしろ弥勒如来像の可能性があるとします。

 そして、釈迦三尊像は聖徳太子追善のために作成したものである以上、隣に置かれた仏像は、山背大兄の追善のための弥勒如来像ではないかと推測するのです。それだとすると時期は合いますが、この推定については、「いや、これも釈迦像だろう」などといった異論も出てくるでしょう。

 ただ、これまで見えていなかった薬師如来像の台座背面に描かれた画を復元し、それが「天寿国繍帳」の絵柄や、さらにその元となった南朝の様式と共通する要素があること、釈迦没後になって遠い未来に弥勒菩薩が降臨するのを待つ仏弟子の山中禅定像が描かれていたことを明らかにされたのは、大きな功績です。
 
 薬師信仰が高まるのは天武天皇頃からである以上、薬師如来像は天武・持統期かそれ以後の作であって銘文は偽作なのだから推古朝やその直後頃の資料としては使えない、という主張はできなくなりました。というか、活字になった文献や仏像の写真などだけ見て、「この時期に~するはずがない」と決めつける研究は終わりです。

 薬師如来の銘文が推古朝以後の創作であることは間違いありませんが、「大王天皇」などという奇妙な呼び方は、竹内理三氏が早くに指摘したように、律令制によって天皇の呼称が確定した後の時代には考えにくいものでしょう。

 つまり、銘文が主張している内容とは違い、この銘文は事実でないことを推古天皇の没後になって記したものであるにせよ、律令制定以前に書かれたか、そうした時期の資料に基づいて書かれた可能性があることになるのです。

若草伽藍の塔の工事中断期は推古紀の太子記事空白期と一致?:林正憲「若草伽藍から西院伽藍へ」

2021年09月03日 | 論文・研究書紹介
 少し前に、古代寺院の瓦や瓦窯跡に関する小笠原好彦氏の最近の本を紹介しましたが(こちら)、この本では、奥山久米寺廃寺などの説明に力を入れる一方、若草伽藍および再建された現在の法隆寺については、論文などが多数出ていてある程度知られているためか、簡単な説明にとどまっていました。
 
 そこで、今回はその若草伽藍などの発掘調査に携わってきた奈良文化財研究所の報告のうち、瓦に関する報告を紹介しておきます。

林正憲「若草伽藍から西院伽藍へー年代論の再整理」
(『奈良文化財研究所学報第76冊 法隆寺若草伽藍跡発掘調査報告』、2007年)

です。

 林氏は、法隆寺昭和資財帳編集委員会編『昭和資財帳第15巻 法隆寺の至宝 瓦』(1992年。以後、『至宝』と略)の分類、つまり、前期は592~622年、中期は622~643年、後期は643~670年という瓦の時代設定を紹介し、その時の調査以後、明らかになった知見を整理します。前期は太子の生存時代、中期は以後、上宮王家滅亡までの時代、後期は若草伽藍焼失までの時代ですね。

 まず、若草伽藍から出土した前期の瓦で最も古いものは、飛鳥寺の創建期に塔・金堂で用いられた瓦の瓦笵が豊浦寺創建時に改范されて用いられた後、若草伽藍の金堂を建てる際に用いて作られたものです。若草伽藍の金堂の軒丸瓦を作った瓦笵は、須恵器を焼いていた楠葉平野山瓦窯にもたらされ、傷みが進んだその瓦笵で作られた瓦が四天王寺の金堂に用いられたことが知られています。

 楠葉平野山瓦窯で瓦と一緒に出土する須恵器は、610~620年頃のものと見られているため、若草伽藍の金堂は607年から610年頃には完成していたと林氏は推測します。斑鳩宮の造営が始まったのが推古天皇9年(601)、太子が移り住んだのが推古天皇13年(605)ですから、それまでに宮が完成し、それから数年で金堂が完成したことになります。

 林氏は、薬師如来像の光背銘には「丁卯年(607)」に造られたとされているため、金堂は607~610年頃にはできていたものと推測します。この薬師如来像については異説も多く、光背銘も追刻とする説もあるのですが、銘文は追刻であって内容は後の作であっても、法隆寺では607年という年が由緒ある数字として伝えられていた可能性があると説く研究者もいますので、林氏はそうした説に従っているのでしょう。

 ところが、若草伽藍の塔は瓦の変化から見て、造営がかなり遅れるのです。『至宝』では、太子の没年である622年頃としていました。林氏は、自らの検討によっても620年代におさまると説いています。つまり、太子の生前に完成していたのは金堂だけであって、亡くなる頃は、塔の工事が始まろうとしていたか、工事途上か、太子逝去にぎりぎり間に合って完成したか、という状況だったことになります。

 となると、金堂の完成と塔の造営の間の10年ほどの空白期間があることになりますが、この期間は『日本書紀』でも厩戸皇子に関する記述がない時期と重なることに林氏は注意し、何らかの事情があったものと見ます。

 これは興味深い指摘ですね。ただ、四天王寺金堂の造営は始まっていたわけですから、若草伽藍の塔の建設を後回しにして、四天王寺金堂の方に注力したのか。それにしても、この時期の推古紀には厩戸皇子の活動が見えないことは事実なのですから、いろいろ考えてみないといけない問題ですね。

 なお、若草伽藍跡から出土する中期の多様な瓦のセットの中には、若草伽藍用の瓦笵が多少改められて中宮寺の瓦を作るために用いられ、逆にそうした瓦が若草伽藍の補修用に持ち込まれたと推定されるものがある由。

 若草伽藍の中期の軒丸瓦のうち、7A形式と呼ばれる瓦は、上宮王家と関係深い奥山久米寺廃寺のⅣA形式の瓦の祖型となったとされています。このⅣA形式の瓦は、播磨の高岡(高丘)窯で630年代に焼かれているため、その元となった7A形式の軒丸瓦は、630年代初期には成立していたことになります。

 その7A形式とセットになる213B形式の瓦は、中宮寺で用いられたセットと同時代のものと推定されています。興味深いのは、その瓦を作成した押し型は、若草伽藍で使用された後、舒明天皇発願の百済大寺や木之本廃寺の瓦で使用されていると、林氏が述べていることです。

 百済大寺は、舒明11年(639)に造営開始とされていますが、舒明天皇(田村皇子)は、山背大兄との競争に勝って天皇となっています。山背大兄が管理していた上宮王家の土地や資産は、643年の上宮王家の滅亡後に舒明天皇が受け継いだのでしょうが、厩戸皇子が秦河勝に仏像を与えたように、それより以前に、厩戸皇子→田村皇子という形で受け継がれた部分もある可能性を考える必要がありますね。

 問題は、再建法隆寺です。650年に金堂の四天王像が造られていることから見て、上宮王家滅亡後も若草伽藍の活動は続いていたことは明らかであるものの、林氏は、『至宝』が後期とする時期には新たなタイプの瓦の生産がおこなわれていないことに注意します。上宮王家滅亡後は、若草伽藍は維持されてはいたものの、活動は低調だったと見るのです。

 天智9年(670)に斑鳩寺(若草伽藍)が焼失したことは、東野治之氏が論証したように、史料的に疑いないとします。そして、金堂に用いられた木材には、年輪鑑定によって668~669年に伐採されたものが含まれており、焼失前に伐採されたものがあることを認めつつ、瓦から見ても西院伽藍の金堂造営は若草伽藍焼失より遡ることはないとします。

 となると、何かの建物のために準備が始まっていた木材が、法隆寺再建のために使われたということになります。林氏は、再建金堂の礎石には若草伽藍の礎石が転用されているものがあることなどから、若草伽藍焼失後に再建があわただしく始まったと推測しています。

 その再建、すなわち現在の西院伽藍の造営は金堂から始められたものの、続いて建立された五重塔については、初重部分の扉口の柱や壁などに風触痕が見られるため、建設途中で工事が中断していた時期があることが知られています
 
 この中断期間については、「数十年」とか「十数年」とかの諸説があるのですが、林氏は、塔の二重目以上の部材については風触痕が見られないため、中断期以前に瓦が既に葺かれており、工事再開以後に初重の外側に板葺きの裳階が造られたと見ます。そして、中断の原因については、天武8年(679)の食封300戸の停止だったと推測します。

 瓦以外での、こうした造営の順序を推定するうえで役立つのが、屋根を支える雲肘木の形式です。西院伽藍の金堂の雲肘木は複雑な形になっているものの、五重塔では簡略になっていますが、塔の二層目の雲肘木の年輪年代は673年であって、金堂の創建年代に近い数字となっています。さらに、中門の雲肘木は法輪寺三重塔の雲肘木に近く、塔の雲肘木より簡略化が進んでいる点で、金堂→塔→中門→回廊という順序で進む瓦の変化とも対応するのです。

 そして、焼失してまもなく再建工事が始まって金堂が造営されたものの、塔の工事は始まってから一時期中断され、再開した後の690年頃に中門の建設が開始され、中門が完成する頃に回廊部分の整地がなされて回廊が建設され、711年にようやく再建が完了したと見るのです。

 この間の時期には、唐の建築様式をとりいれた川原寺や本薬師寺などが建設されていますが、再建法隆寺にはそうした影響が見られないことに林氏は注意します。斑鳩地域の造寺では、古い方式に従いつつ、その枠内で進展していった技術が用いられたのです。

 なお、聖徳太子の神格化については、天武天皇(在位673-686)が進めたと考える研究者たちもいますが、林氏は、天武天皇の病気にともなう誦経や崩御後の無遮大会などが大官大寺や飛鳥寺・川原寺でおこなわれたにもかかわらず、法隆寺ではおこなわれていない点から見て、この時期の法隆寺の再建を支えたのは天武天皇ではなく、命過幡などを納めた法隆寺周辺の氏族たちだったと推定します。

 また、法隆寺は瀬戸内沿岸に多くの所領を有していましたが、そうした土地以外の場所の遺跡から法隆寺式の瓦が出土することから見て、林氏は、法隆寺を支えた斑鳩の有力氏族と関係の深い瀬戸内の氏族が法隆寺再建を支援し、そうしたつながりの中で法隆寺式の瓦が広まっていったと推測します。徳島の西原瓦窯から、西院伽藍で用いられている瓦と同笵で范傷が進んだものが出ているのは、塔の建設中断期に瓦笵がこの地に移動したためと説くのです。

 林氏は最後に、自分は考古学専攻であって、文献史学や建築史に関する面では「不充分な点が多い」と率直に述べています。実際、この報告では、不明な点は不明とし、推測した点は推測だとことわるなど、好ましい姿勢が見られます。『論語』為政篇の「之を知るを知るとなし、知らざるを知らずとなす。これ知るなり」という言葉が思い起こされますね。