聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

初期天台宗は聖徳太子をどう見ていたか : 桑谷祐顕「伝教大師と光定の聖徳太子観」

2010年09月28日 | 論文・研究書紹介
 ふりかえってみると、仏教史や仏教学の論文の紹介が少ないですね。これは、避けているわけではなく、最近はそうした論文をあまり見かけないためでしょう。太子礼讃派の長老仏教学者たちが次々亡くなっていった結果、三経義疏や「憲法十七条」や太子関連記述を熱心に研究して論文を書く人が減ってしまいました。仏教学一般の立場から三経義疏の研究を試みたことがある若手や中堅の仏教学者たちも、それぞれの専門が忙しくて、三経義疏研究には戻ってこれないようです。

 そうした中で、比較的初期の太子信仰に関する仏教学・仏教史系の最近の論文として、

桑谷祐顕「伝教大師と光定の聖徳太子観」
(『叡山学院研究紀要』32号、2010年3月)

が出ています。

 初期の日本天台宗における聖徳太子観については、既にかなりの研究がなされていますが、桑谷氏のこの論文は、最澄とその弟子の光定の著作や文に見える太子関連箇所を、これまで以上に精細に検討するとともに、当時の桓武天皇や貴族・官人たちが太子をどのように見、どのような太子関連文献に基づいていたかに注意している点が特徴です。太子が南嶽慧思の後身であるというのは、僧侶たちの間だけの知識ではなかったのです。

 本論文では、光定は、最澄がもたらした天台の祖師画像中の慧思像を基にして慧思禅師の肖像を描かせ、また最澄がもたらした「慧思禅師伝文」等から「南岳慧思大師影」と題する美文を作ってその肖像に付し、南の僧侶の求めに応じて法隆寺・唐招提寺等におさめたらしいとしています。

 つまり、光定は、霊鷲山で釈尊から直接、『法華経』の説法を聞き、中国でも生まれ代わりを繰り返し、日本では聖徳太子として生まれ、かつて用いていた『法華経』を中国から取り寄せたとして、「南岳慧思=聖徳太子」を顕彰することにより、その伝統を受け継ぐ日本天台宗は釈尊直結のものだと主張することに全力を尽くしたわけです。

 光定は、名はあげていないものの『七代記』に基づいており、桑谷氏によれば、光定は現行の『七代記』が割り注としている部分を本文としているテキストを手元において『伝述一心戒文』を完成させているらしいとか。

 光定が最澄以上に太子の慧思後身説を強調したのは、「天台座主義真亡き後、上座円澄の伝戒師補任を求めてその正当性をアピールし、天台法華宗の伝戒師補任を如何にスムーズに行うかが緊急課題であり、光定に課せられた至上命題であった」ためだ(85頁)というのが、本論文の結論です。

 日本天台宗は、天台法華宗であることを改めて痛感させられる論考でしたが、天台大師自身については、『法華経』至上主義ではなかったとする研究も最近、発表されています。上記のような慧思観は、あくまでも中国での慧思伝説が日本で独自な展開をとげたうちの一つです。

 最澄は四天王寺上宮廟に参詣して漢詩を賦し、光定も四天王寺の安居の講師となるなど、天台宗は四天王寺との関係が深く、四天王寺は次第に天台宗のうちに組み込まれていきます。その四天王寺は、敗戦から間もない1946年1月に「四天王寺独立宣言」を発表して宗派からの独立を表明し、話題となりましたが、この独立宣言は、実は、四天王寺に入りびたっていた小倉豊文が執筆し、その英訳はGHQにも提出された由。四天王寺が「和宗」を名乗るようになったのは、小倉が四天王寺から離れた後のことであり、小倉の本意ではなかったようです。

四天王寺と法隆寺の争いが生んだ『聖徳太子伝暦』: 榊原史子「『聖徳太子伝暦』の成立と「四節文」」

2010年09月25日 | 論文・研究書紹介
 前に、日本の民衆は「憲法十七条」の思想によって聖徳太子を尊崇してきたのではないと書きましたが、では何によって尊崇してきたかとなれば、第一にあげるべきは、平安中期成立と推定される『聖徳太子伝暦』が描いた超人・菩薩としての聖徳太子像でしょう。この『伝暦』こそが、以後の太子伝や太子関連文物を作成する際の基本となったからです。

 その『伝暦』の成立事情に関する最新の論文が、

榊原史子「『聖徳太子伝暦』の成立と「四節文」」(『日本歴史』741号、2010年2月)

です。朱雀朝(930~946)頃には『伝暦』は一巻本であったことを明らかにした榊原氏は、その一巻本に、正暦3年(992)に『日本書紀』などの文が加えられて二巻本となり、さらに、寛弘四年(1007)に出現した『四天王寺縁起』(『四天王寺御手印縁起』)からの引用を加え、その年から翌年にかけて現行本である二巻本の『伝暦』が成立したと推測しています。

 この考察において重要な役割を果たしているが、病におかされた聖徳太子が推古天皇に述べた四つの希望を記したとされる「四節文」です。むろん、偽文献です。榊原氏は、「四節文」では、「法隆学問寺」の僧が毎年、三経義疏を講義し、その功徳によって仏教を盛んにして国土を護ることを願うなど、法隆寺を特別視している箇所があることに注目します。

 そこで、その「四節文」は、寛弘四年に出現して注目をあび、四天王寺の人気を高めた偽書、『四天王寺縁起』に対抗するため、法隆寺の僧が早い時期の太子伝である『七代記』を参照して書いたものと推測します。そして、その『四天王寺縁起』と「四節文」を引用していて、「寛弘五年九月」という奧書を持つ『伝暦』の写本が残されている以上、現行本の『伝暦』は寛弘四年から五年の間に成立したはずだと論ずるのです。

 その「四節文」からの引用を加えるなどの増訂をして、『伝暦』を現行の形に仕立てた人物については、問題の『四天王寺縁起』を四天王寺金堂の六重塔の中から発見したとされ、後に四天王寺た庚申堂のために『庚申縁起』を著した四天王寺の慈運ではないかと、氏は推測しています。

 榊原氏は、文献の引用関係とその年代に注意しながら考察を進めていますが、『伝暦』は聖徳太子信仰の面で後世への影響が最も大きかった書物ですので、こうした研究は重要ですね。氏の研究が進展し、『伝暦』の成立過程と影響について詳しく論じた本が早く世に出ることを期待しています。

 なお、この考察で重要な役割を果たしている寛弘五年の奧書を持つ『伝暦』の写本は、杏雨書屋が所蔵するものです。その杏雨書屋がいろいろな意味で聖徳太子研究と縁が深いことは、前に書いた通りです。この辺も、歴史の意外さ、面白さの一つですね。

長屋王は「空想的」だったから道教に傾斜したという空想:長谷寺「銅板法華説相図」の年代について(続)

2010年09月22日 | 大山誠一「聖徳太子虚構説」への批判
 大山氏の「長屋王=道教説(道慈協力作文説)」の有力な証拠とされたのが、長谷寺「銅板法華説相図」です。
(銅板・銅版の表記がありますので、引用文ではそれぞれの論文の著者の表記に従います)

 大山氏は、この銅板の銘文は、道明が八十人ばかりを率いて飛鳥清御原大宮治天下天皇のために敬造したと末尾で明言しているものの、実際には、元正天皇のために千仏多宝塔を表現した銅板を作成し、飛鳥清御原大宮治天下天皇、すなわち天武天皇のために「長谷寺の地に特定の建造物として造仏造塔を行う」と述べているのであって、真の発願主体は長屋王であり、銘文は唐から帰国した道慈が書き、養老6年(722)に作成されたとします。「欠失部分を大胆に推測し」、長屋王の名は、銅板右下の欠けた部分にあった可能性があるとしたのです。

 大山氏は、大山氏が銅板を白鳳様式としながら平城遷都以後の722年の作とするのはおかしいと批判した美術史の片岡直樹氏に反論する一方、喜田貞吉、福山敏男、逵日出典氏などの研究を評価しており、すべてに賛成するわけではないものの、長谷寺の創建問題については喜田氏と逵氏によって問題はほぼ解明されているとして自説の有力な根拠としていました。

 特に逵氏については、片岡氏への反論論文では「美術の様式によって絶対年代を推定するというのは文献史家の採らない態度であり、逵氏の如くこれを一顧だにしないのが、むしろ常識的」なのだ(『長屋王家木簡と金石文』「長谷寺銅版法華説相図銘の年代をめぐる諸問題」114頁)と述べて評価していました。大山氏は、同論文の結論でも、「逵氏がこれらを一顧だにしなかった」のは常識的な判断だと書いており(157頁)、「一顧だにしない」という言い方が好きなようです。

 その逵氏は、一昨年に刊行された「元長谷寺の所在について--永井義憲氏説の妥当性について--」(『日本宗教文化史研究』12巻2号、2008年11月)において、逵氏が資料を提供した永井義憲氏が精査を重ね、「銅板は現在の長谷寺創建以前に作成され、観音堂背後の山の裏側の白河に安置されていたものが、後に今の長谷寺に運びこまれた」と論じた論文を紹介して妥当な説と評価したうえで、現地調査に基づく補足を加えましたが、その際、銅板について、

 様式上の考察として片岡直樹氏「長谷寺銅板法華説相図考」(『佛教芸術』第二百八号、平成五年五月)、同氏「長谷寺銅板法華説相図再考--大山誠一氏に答えて--」(『佛教芸術』第二百二十五号、平成八年三月)が詳しく優れている。(33頁)

と述べています。美術史の様式に基づく年代論など「一顧だにし」ないはずの逵氏が、よりによって、美術史家である片岡氏が大山説を批判した二篇の論文を「様式上の考察」例として紹介し、高く評価したのです。

 逵氏はまた、銘文に「釈天真像、降{玄玄}豊山、鷲峯宝塔、涌此心泉」とあるうちの「豊山」を、大山氏が長谷寺のある山ないし長谷寺そのものと見て、「この銘文は、仏教的聖地としての長谷寺がすでに存在していることを前提としているのである」と説いたのは「後の『豊山』の概念からくる速断」(29頁)であって誤りだとしています。 

 さらに、昨年刊行された達氏の講演、「長谷寺創建問題とその後」(『日本宗教文化研究史研究』13巻2号、2009年11号)では、逵氏は美術史家たちの研究について、次のように述べています。

 片岡氏らは美術史の立場から、銅板は(長谷寺)創建と関係がないと早くから言っておられた(16)。これは実に羨ましいかぎりでした。しかしそうならば、銅板は最初から長谷寺にあったのか、そうでなければどこにあったのか、という問題が残り続けたのでありました。(10頁)

 つまり、片岡氏など美術史の人は銅板の様式を重視し、それによって年代を論じており、銅板の作成と長谷寺創建とは別の問題だとしていたので羨ましかったが、長谷寺の歴史を研究している自分としては、銅板が早い時期に長谷寺とは無関係に作られていたなら、銅板を所蔵している現在の長谷寺との関係を明確にしなければならず、それができないままとなっていた、というのです。そして、氏はこう続けます。

 銅版が白河にあったことが明確になった今、銅版は独自の立場で存分に研究を進められるとよい。私も福山氏が「律師長朗申牒」を云々されたことに刺激されて、天平六年(七三四)・天平十八年(七四六)・天平宝字二年(七五六)の三回のうちいずれかという銅板作成の時期を設定しましたが、これは完全に放棄いたします。(10頁)

 すなわち、永井氏の新説によって状況が変わってしまったため、銅板の作成年代を美術史家たちの諸説より大幅に後の時代のものとしたかつての自説は「完全に放棄」すると宣言したのです。そして、注の16では、先ほどの片岡氏による二篇の大山説批判論文のほかに、同氏の「長谷寺銅版法華説相図の創作背景」(『佛教芸術』二一五号、平成六年七月)加えた三篇を引いています。

 一方、大山説の肝心な部分については全く触れられていません。つまり、長谷寺研究の第一人者である逵氏は、大山説のうち、長谷寺の銅板法華説相図の真の発願者は長屋王であって銘を書いたのは道慈だとする主張については、全くとりあげることがないのです。この大山説が正しければ、長谷寺の性格を考えるうえで重要な新説となりますので、長谷寺の研究者としては無視できないはずですが、逵氏は評価どころか批判すらしていません。まさに一顧だにしていないのです。

 ちなみに、先に触れた銘文の「釈天真像」の句のうち、「釈天」について、大山氏は帝釈天と梵天のことだと解釈していますが、そうした場合は、「梵釈」あるいは「釈梵」と称するのが通例です。帝釈天とまぎらわしい「釈天」という語で、帝釈天と梵天とを示した例など見たことがありません。大山氏は、こうした誤りに基づいて銘文を解釈しているのです。この手の誤りは数が多いため、別にまとめて書きます。

 いずれにせよ、大山氏が著書で105頁にもわたって熱心に論じた主張、つまり、長谷寺の「銅板法華説相図」の銘は、長谷寺が存在していることを前提としているのだから、銅板は長谷寺創建に着手した後の成立であり、実際の発願者は長屋王であって銘文を書いたのは718年に唐から帰国して道教にも通じていた道慈だという説は、成り立たないことが明らかになりました。

 『日本書紀』の聖徳太子関連記述に関する「長屋王=道教説(道慈協力作文説)」は着実な証拠がありませんでしたが、その「長屋王=道教説(道慈協力作文説)」を裏付けるはずの長谷寺「銅板法華説相図」に関する大山氏の解釈も、状況はまったく同様だったのです。


民衆とは縁が薄かった「憲法十七条」

2010年09月18日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報
 前回の記事で、「憲法十七条」第一条の和こそが太子の中心思想であって日本の文化的伝統となってきたとする考えが広まったのは、実は昭和になってからのことだと書きました。この点について、少々補足しておきます。

 「憲法十七条」は『日本書紀』に全文が掲載されているのですから、聖徳太子を尊重する人であれば、「憲法十七条」を重んじるのは当然です。しかし、太子信仰が各地の民衆の間にまで広まっていった際、強調され尊重されたのは、守屋征伐、超人的な言行、観音の化身、慧思の後身、浄土往生の導き役、未来の予言、戦の神様、大工などの神様などといった側面でした。「憲法十七条」を太子尊重の最大の根拠とするような庶民は、まずいなかったと思われます。

 『日本書紀』は宮中などで講読された際は、もちろん、「憲法十七条」も講義されましたし、法隆寺などでも、典拠の解明を中心にして研究がなされていたようです。しかし、太子伝説に関する書物はきわめて多いのに対し、「憲法十七条」の注釈の数は非常に限られています。

 たとえば、戦時中である昭和17年に、「億兆一心、臣道実践の要が痛感せらるゝ時、国民が挙つていよいよ深く太子鑚仰の熱情を致し、その御精神を奉戴し、その御理想を活現することに努める」ために刊行された『聖徳太子全集』では、第一巻が「憲法十七条」の注釈と明治以後の関連論文となっていますが、収録されている明治以前の単行本の古注釈はわずかに7篇です。

 しかも、平安時代のものと推測される現存最古の注釈は、嘉永年間(1848-1854)書写の写本が1部残っているのみ、次に古い文永9年(1272)の注釈は永禄11年(1568)の書写本があるのみです。14世紀初めの玄恵の注釈とされる『聖徳太子憲法』は、珍しく寛永21年(1644)に開板されていますが、「憲法十七条」の注釈は写本がほとんどであって、刊行されているのはごく少数なのです。

 庶民向けのものとしては、宝永7年(1630)に大阪の商人向けに説かれた和文の注釈が存在するだけであり、しかも、この注釈は江戸末の写本が1部残っているのみです。「憲法十七条」が藩の学校や寺子屋などで教科書として広く使われていたなら、様々な注釈が作成され、その写本や版本が山のように残っているはずですが、そうではないのです。

 ちなみに、この庶民向けの注釈、『十七条憲法和解俗評』の写本は小倉豊文の所蔵本であり、現存最古の『聖徳太子十七憲章併序注』の写本は、小倉が学びまた後に教えた広島文理科大学所蔵であって、こちらも小倉が研究して学界に知らせたものです。

 江戸時代には、「憲法十七条」を少し変えたものと、似た形式の四種類の十七条の憲法を並べた「五憲法」が、偽書である『先代旧事本紀大成経』の一部として登場し、かなりの影響を与えました。しかし、「五憲法」が成立するに至った事情を説いた「憲法本紀」では、皇太子は天皇の命によって後から追加作成した「政家憲法」、「儒士憲法」、「神職憲法」、「釈氏憲法」のうちの儒神釈の三教について詳説していますが、そこには「和」という言葉すら登場しません。

 その『先代旧事本紀大成経』を刊行して偽書騒動を引き起こし、謹慎を命じられた僧の潮音が著した「憲法十七条」注釈、『聖徳太子十七憲法』にしても、第一条の解釈では「和」を尊びつつも、禅僧としては当然のことながら、その「和」の本体として「一心」を説いており、「和」は最重要の原理とはなっていません。

 太子関係の絵にしても、『勝鬘経』の講賛図はいくつも残っているのに対し、「憲法十七条」を講義する図などはありません。「上宮太子」や「太子」など、聖徳太子を扱った謡曲も作られますが、いずれも奇跡譚や守屋征伐や観音信仰などが主であって、「憲法十七条」は出てきません。聖徳太子講式の中には、「十七箇条之憲法」が律令の基になったと賞賛しているものもありますが、あくまでも太子の事蹟の一つとして簡単に触れているだけであって、「和」が強調されることはありません。

 数ある聖徳太子和讃のうち、親鸞は「十七の憲章つくりては、皇法の規模としたまへり」、「憲章第二にのたまはく、三宝にあつく恭敬せよ、四生のつゐのよりどころ、万国たすけの棟梁なり」と讃えるのみ、頓覚の和讃も「外には憲法十七条、春囲の宮には民を撫で、内には三部の疏を製し」とあるだけです。

 聖徳太子は、江戸と明治初期において一部の国学者と儒者が攻撃した以外は、すべての時代を通じて尊崇されてきましたが、「憲法十七条」を特別に重視し、それも第一条の「和」を日本の特質として強調するような傾向は、近代以前には見られなかったのが実際のところです。

【追記 2010年9月20日】
 『聖徳太子全集』第1巻に収録されている古注釈は9篇と書きましたが、10篇の誤りですので訂正します。ただ、これらは、「憲法十七条」の注釈を含む太子伝からその部分だけを抜き出して『全集』に収録したものも複数含まれているため、「憲法十七条」の注釈として単行された書物はさらに少ないことに注意すべきでしょう。

御物の「唐本御影」は秘蔵されていなかった : 伊藤純「唐本御影の伝来過程をめぐって」

2010年09月15日 | 論文・研究書紹介
 前回の記事では、日本人は「憲法十七条」が説く「和」の心をずっと重んじてきたといった言説は戦後生まれのものであることに触れましたので、同様に、古くからの伝統と思われることが実は違う例を扱った論文を紹介しておきます。

伊藤純「唐本御影の伝来過程をめぐって--背負わされた法隆寺での役割--」(武田佐知子編『太子信仰と天神信仰』、思文閣出版、2010年5月)

です。この本からは、松本真輔論文と下鶴隆論文を既にとりあげておりながら、こちらはまだでした。このブログでは、原則として中世や近世の太子信仰などは扱わないことにしていますが、聖徳太子に関する現在の常識について考えるうえで重要な研究については、どの時代のものでも紹介していきます。

 さて、この伊藤論文は、お札でおなじみの聖徳太子像、「唐本御影」が法隆寺においてどのような役割を果たしてきたかを検証したものです。この絵は、明治11年(1878)に法隆寺から皇室に献上され、「御物」となった寺宝のうちに含まれていました。それらの寺宝は、第二次大戦後は国有化され、東京国立博物館で保管・展示されるようになったものの、「唐本御影」と『法華義疏』だけは皇室に残されています。

 伊藤氏は、そうした事情のためか、現代の研究者は、この絵については、法隆寺の奥深くに秘蔵されてきたため人目に触れることが少なく、影響を与えることもまれであった、と考えがちであることを指摘します。そして、鎌倉初期に『古今目録抄』を著し、聖徳太子や法隆寺の秘伝を集成・創作した法隆寺の顕真が、法隆寺こそ由緒正しい聖徳太子の寺であるとする宣伝活動を展開するなかで、「唐本御影」の意義が強調されて以来、この「御影」がどのように利用されてきたかを示しています。

 それによれば、播磨国の法隆寺の莊園をめぐる訴訟にあたっては、幕府にアピールするため、正中2年(1325)に「唐本御影」が他の品とともに関東まで持ち出されたそうです。元禄7年(1694)には江戸での出開帳にも出品されているほか、寛政4年(1792)に法隆寺で「宝物拝見」した際、この肖像を見たという屋代弘賢の記述も残されており、江戸期には模写もしばしばなされていた由。江戸末期には、画の最も「古きもの」としての評価も加わり、「宇宙第一の宝絵」と称して重視した人物が、「唐本御影」の模写本を購入したという記事も見られるとか。つまり、そうした写しが出回っていたのです。

 そこで、伊藤氏は、「唐本御影」秘蔵説は、法隆寺の寺宝が明治初期に皇室に献上されてから生まれたものであり、戦後になって強まった可能性もあるとします。「明治時代以前には聖徳太子の姿『唐本御影』は人々の目の届くところにあったのである」(168頁)というのが、氏の結論です。意外ですね。

伝承と史実が明確に区別されない本:千田稔監修『聖徳太子』

2010年09月11日 | 論文・研究書紹介

 1970年代後半から80年代にかけて「道教と古代日本文化」ブームが起きると、道教学に通じていない人たちがこの分野に乗り出してきて「あれも道教、これも道教」という粗雑な論を書きまくり、道教学会の専門家たちを歎かせたことは前に書いた通りです

 そうした存在の一人であった歴史地理学者の千田稔氏の監修になる一般向けの本が出ました。

千田稔監修『図説 古代日本のルーツに迫る! 聖徳太子』
(青春出版社、2010年9月、1130円)

 です。題名にあるように、図や地図や年表が多く、見やすい作りになっていますが、古代史や上代仏教史を専門とする若手の研究者たちが分担して書いてそれを千田氏が綿密に監修したものではなく、おそらく一人か少数のジャーナリストが、最新の研究書や事典、『聖徳太子伝暦』など太子を超人として描いた伝統的な太子信仰文献、怪しげなトンデモ本、やや古くなった研究書、想像を働かせた古代史小説や歴史娯楽読み物など、まさに玉石混淆の資料から抜き出してまとめあげたものでしょう。

 序にあたる千田氏の「はじめに」を見ると、冒頭で、

 日本人の聖徳太子に寄せる思いは、憲法十七条の冒頭にある「和を以て貴しとなし……」とする「和」の心である。(3頁)

と言われています。

 こうした認識はそろそろ終わりになったかと思っていたので、この最初の2行を読んだ段階で、読むのを止めようかと思ってしまいました。「憲法十七条」の「和」を重視するようになるのは明治以後であり、その「和」こそ太子の思想の中心であって日本の精神的伝統となってきた、という考え方が広まったのは昭和になってからでしょう。あるいは、千田氏は、こうした立場を意図的に弘めようとしているのか。

 日本人は、太子のことを観音として信仰したり、南嶽慧思の生まれ変わりと信じたり、和国の教主と仰いだり、未来を予言する聖人と見たり、戦さの神として頼ったり、大工の神様として祀ったり、天皇への絶対服従を説いた国家主義の偉人としたりするなど、それぞれの時代や身分・階層や宗派その他に基づく様々な形で崇拝してきたのが実状です。「憲法十七条」によって太子を尊崇した庶民など、どれだけいたか。まして、「和」の心などいうのは、まさに最近になって生まれた言い回しです。

 戦時中の話ですが、客間の床に髪をミヅラに結んだ孝養太子像の版画をかけていた小倉豊文に、「あんたもやっぱり太子様をまつってるのかね?」と尋ねた老棟梁などは、小倉が太子の事蹟を説明してやったところ、「ヘェー、じゃ聖徳太子は男だね!?」とけげんそうな顔で言ったとか(小倉「聖徳太子は男か?!」、『宗教公論』昭和30年6月号)。毎年、太子講に集まって、「番匠の神様」である太子の図像の前でにぎやかに飲食してきた人たちの太子信仰というのは、そうしたものだったのです。

  「はじめに」の2ページ目では、聖徳太子はまったく架空の存在であったはずはなく、魅力があるから信仰が広まったのだろうとし、「その人物は厩戸太子であったことはいうまでもな」い(3頁)と書いてあります。聖徳太子の研究者であれば、ここで読むのをやめる可能性が高いですね。「厩戸太子」などという言い方は、『日本書紀』やその他の文献には見えないものですので。おそらく、「<聖徳太子>は架空の人物だ。実在したのは厩戸王だ」とする大山説に反発するあまり、名称がごっちゃになってしまったのでしょう。

 内容について言えば、この本は一般向けの書物ですので仕方ありませんが、上に述べた「はじめに」の書きぶりから推測されるような内容となっており、百年前に久米邦武が資料を、甲種(確実)、乙種(半確実)、丙種(不確実)の三等級に分けたような史料批判が不十分です。史実である可能性が高い事柄、史実に基づいて潤色した可能性がある事柄、太子信仰の中で生まれたあり得ない伝承、最近の研究から推定される状況、などが多少区別されている箇所もあるものの、全体としては明確に区別されず、どこが史実でどこがいつ頃からの伝承かわからない場合が多いうえ、仏教関連の記述には妙な説明も見られるため、ここではとりあげません。

 千田氏は原稿の綿密なチェックと訂正はしていないと思いますが、多少訂正していたとしても、かつての傾向とこの本の序から見る限り、史料批判と最新の研究成果にある程度基づきつつ興味深い読み物となるよう全面的に書き直すのは無理そうです。

【2010年9月18日 追記】
趣旨を明確にするため、「「憲法十七条」によって太子を尊崇した人」とある部分を「「憲法十七条」によって太子を尊崇した庶民」に訂正します。また、「天皇への絶対服従を説いた国家主義の偉人としたり」は昭和の国家主義の高まりの中でのことですので、削除します。要するに、太子を信仰して四天王寺に詣で、極楽往生を願うような人々は無数にいたものの、「憲法十七条」の第一条の「和」を特別に重視してそれによって太子を尊崇した庶民など近代以前に果たしていたのか、ということです。


戦時中の小倉豊文の聖徳太子信仰研究

2010年09月09日 | 小倉豊文の批判的聖徳太子研究
 昭和15年に姫路高等学校教授となった小倉は、四天王寺が刊行していた雑誌『四天王寺』に昭和16年頃から寄稿するようになりました。まとまった論考は、「聖徳太子像の種々相(一)」(『四天王寺』1941年8月号)に始まり、翌年まで続いた 4回の連載です。この掲載の時期、小倉は「太子像集成」と題して巻頭に様々な太子像の写真と簡単な解説を掲載し始めています。むろん、太子礼讃の立場でなされているのですが、伝承を無批判に信じて絶讃するばかりの寄稿者たちの中で、何とか学術性を保とうと努めていることが目につきます。

 この『四天王寺』誌にしても、時局を反映して軍国主義の傾向を強めており、すぐれた仏教学者であった京都大学の羽渓了諦教授なども、昭和14年に連載された「背私向公の実践」と題する「憲法十七条」講演においては、欧米の軍人と違い、必ず死ぬと分かっていながら突撃するのが日本軍の強さの理由であり、これこそ「憲法十七条」の「背私向公」の精神に基づく大乗仏教の感化のおかげだ、などと主張しています。

 また、『四天王寺』の昭和16年3月号では、東條英機陸軍大臣が将兵に通達した「戦陣訓」を、すべての人の座右に置いてもらうためという理由で「特別付録」として全文掲載し、大阪国防館長である陸軍大佐の「戦陣訓」解説を載せるに至っています。

 小倉の「聖徳太子像の種々相(一)」は、そうした時期に連載されたにもかかわらず、聖徳太子の像が作られたというのは、初期の「確実な文献の伝ふるところ」でないと明言し、法隆寺金堂釈迦像は太子等身と言われているとはいえ、その像の顔つきから太子の面相を推定し、長めの「馬顔」だから「厩戸」と呼ばれたとする推定などは「科学的迷信」に過ぎない、として切り捨てています。

 つまり、太子については「大宗教家であり、大政治家であり、大外交家であつて、……恩威兼備の大人格であらせられた」(「聖徳太子像の種々相(四)」、『四天王寺』昭和17年4月号)などと礼讃しつつも、個々の太子関連の伝承や文物については、片端から『聖徳太子伝暦』など後代の信仰の中で生まれたものと判定していったのです。小倉は、太子像の彫刻のうち現存する最古のものは平安後期であるとし、それも「純粋の肖像」ではなく「神像的性格のもの」だと論じていました。

 小倉は、聖徳太子自身についての解明は資料不足で困難であるとして、このような文物から伺われる聖徳太子信仰の成立と展開の研究に力を注いでいました。それには、津田事件の影響もあったことと思われます。小倉は津田と違って聖徳太子大好き人間でしたが、『日本書紀』の太子関連の記述の真偽を追求するような危険な研究は避け、太子を礼讃しつつ、後代の太子信仰にテーマを限定して厳密な批判的研究を行なう道を選んだのでしょう。

 当時は、学生の勤労動員が多くなった結果、付き添う数名の教員以外はやることがないのを利用して調査を重ね、入りびたっていた四天王寺の事務所などは「私の研究室の分室」のようになっていたそうです(小倉「わが心の自叙伝<11>」、『神戸新聞』90年5月15日)。

 そのため、小倉は『四天王寺』の編集にも関わるようになり、「太子鑚仰」の組織も主導するようになったようです。『四天王寺』が『太子鑚仰』と名を変えていた昭和19年9月号の裏表紙を見ると、顧問には法隆寺貫首で唯識学の権威であった佐伯定胤、昭和天皇に「憲法十七条」の外国語訳に関するご進講をした宗教学者の姉崎正治などが名を連ねているほか、「東部」の「企画」担当者は、「石田茂作、花山信勝、坂本太郎、家永三郎、増永吉次郎」、「西部」の担当者は、「禿氏祐祥、小倉豊文、望月信成、藤島達朗、出口常順」という豪華メンバーになっています(小倉と同様、聖徳太子大好き派である家永三郎の名が見えるのが興味深いですね。家永の戦時中の研究については、別に書きます)。

 末尾の「鑚仰だより」では、四天王寺が陸軍に献納した軍用機のうち、「四天王号」と「如意輪号」の命名式が行われたことなどを伝えています。そうした時期だけに、その号に小倉が書いた「太子鑚仰の現在と将来」は、さすがに当時の国家主義的太子観に近づいているように見えます。そこでは、国内国外の様々な太子讃仰運動が列挙されており、東京戦時生活局が都民の精神作興のため「十七条憲法及び其の解説」を七百万都民に印刷配布する計画を昭和18年2月に発表したことなども紹介されています。

 ただ、小倉は、偽書である『大成経』や『五憲法』に基づく太子顕彰運動などについては「深思反省」をうながしており、讃仰の運動・事業だけでなく「諸研究」にも「深甚なる反省を要する」と、述べています。つまり、太子礼讃の度合いを強めつつも、太子の真の偉大さを明らかにするためにこそ、史実と後代の伝承を区別する批判的な研究を進める必要があるのだ、という姿勢は何とか保っていたのです。

 この点では、小倉は、否定傾向が強い津田左右吉よりも、史実を明らかにすることによって聖徳太子を偉大な政治家・外交家として顕彰しようとした久米邦武に近い面があります。小倉が心惹かれていたのは、苦悩する人間としての太子、という面だったようですが…。小倉の聖徳太子研究は、同じ時期に力を傾けていた宮沢賢治研究と共通する性格を持っていました。

長屋王は「空想的」だったから道教に傾斜したという空想:長谷寺「銅板法華説相図」の年代について

2010年09月07日 | 大山誠一「聖徳太子虚構説」への批判

 大山氏の聖徳太子虚構説にあっては、不比等=儒教、長屋王=道教、道慈=仏教(かつ儒・道にも通じる)、という役割分担が強調されるのみで、長屋王の熱心な仏教信仰については説明されず、他の研究者による関連論文などもまったく紹介されないことは、先に書いた通りです

 例外は、虚構説に関する最初期の論文「「聖徳太子」研究の再検討(下)」(『弘前大学国史研究』101号、1996年10月)と最初の関連著書『長屋王家木簡と金石文』(吉川弘文館、1998年)の以下の箇所だけですが、それも、

 長屋王は、もともと空想的な人物であった。多宝仏や弥勒の信仰を逸速く受け容れたのはそれ故であったし、道教思想にも傾斜していたことは…… (論文:56頁下、著書:266頁)

と述べられているように、「多宝仏や弥勒の信仰を逸速く受け容れた」とあるのみです。しかし、「長屋王は、もともと空想的な人物であった」というのは、大山氏の推測です。長屋王の十代や二十代初期の漢詩・文章・和歌などに既にそうした傾向が見られるというなら分かりますが、そうしたものは全く残されていません。

 大山氏は、「多宝仏や弥勒の信仰を逸速く受け容れた」のが「もともと空想的」であった証拠だというのですが、多宝仏や弥勒の信仰を受け容れると「空想的」であるなら、阿弥陀仏を信仰し続けている人は「現実的」ということになるのでしょうか。

 そもそも、「多宝仏や弥勒の信仰を逸速く受け容れた」というのも、史料に明確に見えている事柄ではありません。多宝仏塔が描かれ、銘文で多宝仏と弥勒に言及している長谷寺の「銅板法華説相図」は、道教的な言葉が多く、道教思想を根底にしている長屋王願経の願文と似た性格を持っているため、銘文の作者は長屋王願経の願文の場合と同様に唐で学んだ道慈だろうから、この「銅板法華説相図」が作成された戊年とは、道慈帰国以後の養老六年(722)であって、発願の真の主体は長屋王だったのだ、とする大山「長谷寺銅板法華説相図銘の年代と思想」(笹山晴生先生還暦記念会編『日本律令制論集』上巻、吉川弘文館、1993年。後に大山『長屋王家木簡と金石文』収録)に基づいたものです。

 しかし、養老6年なら、長屋王は30代後半です。これを材料にして「もともと空想的」であったなどとは言えません。しかも、「銅板法華説相図」銘が道慈の作だというのは大山氏の推測であり、長屋王がこの「銅板法華説相図」に関係しているとするのも大山氏だけであって、学界では全く支持されていません。

 大山氏の銘文解釈がいかに多くの誤りを含んでいるかについては、いずれ書きますが、そもそも、この「銅板法華説相図」の銘文では、末尾で「飛鳥清御原大宮治天下天皇」のために「道明」が八十人ほどを率いて敬造したと明記されているのですから、名も出てこない長屋王の関与を想定すること自体、無理な話なのです。「空想的」なのは長屋王ではなく、道教的な文句を見ると、すべて長屋王と道慈の共謀だと考えてしまう大山氏の方ではないでしょうか。

 その「銅板法華説相図」の成立年代については、美術史の方面では早くから諸説がありますが、大山氏の主張以後、最も詳細に論じた長谷川誠「長谷寺銅板法華説相図の荘厳意匠について(上)」(『駒沢女子大学研究紀要』8号、2001年12月)、「同(下)」(同、9号、2002年12月)が想定する造立時期は、天武十五年(686)です。

 また、諸説を踏まえた最新の論文である、田中健一「長谷寺銅板法華説相図の図様及び銘文に関する考察」(『美術史』168号、2010年3月)では、成立は「現段階では和銅三年(七一○)説を有力としたい」(520頁下)とされています。

 大山氏の「銅板法華説相図」に関する説が初めて発表された際、厳しく批判して論争になり、最近になってまた次々に関連論文を発表するようになった片岡直樹氏にしても、昨年発表した「長谷寺銅板の”豊山”について」(『奈良美術研究』8号、2009年3月)では、以前と同じ文武二年(698)説です。

 いずれにしても、16年に及ぶ留学を終えて718年に帰国した道慈の関与する余地はありません。したがって、「銅板法華説相図」によって長屋王は「もともと空想的」だったなどとは言えないことになります。

 それにしても、『長屋王家木簡と金石文』では、第二部「長屋王の信仰と金石文」と第三部「聖徳太子像の成立と律令国家」が全体の分量の8割強を占めておりながら、そこで説かれる長屋王の信仰に関する説のほとんどが「空想」であって着実な証拠がないのは驚きです。


仏教と礼の複合に基づく推古朝の政治改革 : 鈴木靖民「遣隋使と礼制・仏教」

2010年09月05日 | 論文・研究書紹介
 前回とりあげた吉田さんの論文では、太子虚構説派においてはあまり注意されてこなかった朝鮮仏教のあり方が重視されるようになっていましたが、この数年、そうした方面に特に力を入れ、日本・韓国・中国の研究者たちによる論文集『古代東アジアの仏教と王権:王興寺から飛鳥寺へ』(勉誠出版、2010年)を編集するに至った鈴木靖民氏が、推古朝の対外関係に関する見通しをまとめた論文を発表しています。

鈴木靖民「遣隋使と礼制・仏教--推古朝の王権イデオロギー--」
(『国立歴史民俗博物館研究報告』152集、2009年3月)

 題名の通り、推古朝のイデオロギーは仏教と礼制が複合して成り立っていたとするものであり、隋・百済との関係を重視したものです。諸氏の最近の研究成果を紹介したうえで、上のような見通しを述べており、末尾には40本ほどの関連論文・研究書が列挙されているため、本論文とそれらの文献を読めば、この10年ほどの間に大幅に進んだ対外関係の研究状況がかなり理解できます。

 同論文で重視されているのは、渡辺信一郎氏の研究です。渡辺氏は、『隋書』音楽志では開皇の初めに楽制改革を進めて七部楽を置いたとして諸国の楽を列挙するとともに、それ以外の「雑(楽)」を挙げるうちに「百済・突厥・新羅・倭国等」の楽が含まれていること、また隋使が倭国を訪問した際、倭国は「鼓吹」によって迎えたことに注目し、600年に朝貢した遣隋使は文帝に倭国の楽を貢納し、見返りに鼓吹楽を下賜されたと推測しています。つまり、皇帝との間に「礼制的身分秩序が構築され」ていたと見るのです。隋との対等な外交といった話ではありません。

 渡辺氏以外にも、楽の授受に関する研究が紹介されていますが、欽明朝に百済が倭国の要請で派遣された五経・易・暦・医学などの博士や僧侶などの中に、四人の「楽人」が含まれることに着目する黒田裕一氏の研究も興味深いものです。

 私は、聖徳太子研究ということではなく、仏教と音楽の関係の歴史という視点からこうした記事やその研究に注意してきており、音楽・芸能と仏教の関係に関するゼミをやった際は、『隋書』音楽志をとりあげて読んだこともありましたが、確かに、楽の授受は仏教の下賜とも似た性格を持っています。儒教の思想・教養としての「楽」、国家の儀礼や皇帝の趣味しての専門の演奏者たちによる「楽」、中国にとりこまれて変容したインド・西域・東南アジアの仏教音楽などを初め、音楽はきわめて多様で複雑な関係があり、重要ですので、それぞれの展開と関係について場合を分けて慎重に見ていく必要があります。

 もう一つ、同論文で重要な役割を果たしているのが、河上麻由子氏の一連の論文です。中国の周辺国家による南朝への「仏教的朝貢」のあり方を検証した河上氏の「遣隋使と仏教」(『日本歴史』717号、2008年2月)などは、学界に大きな衝撃を与えました。インド周辺や東南アジア諸国は、劉宋や梁の皇帝を「天(神)」や「梵王」や「真仏」になぞらえ、「聖王」「聖主」と称し、「救世大悲」その他の仏教用語を盛んに用いて絶讃していたのです。こうした中で仏教を拒否することは、文化・技術の導入と貿易をあきらめるに等しいことになります。

 鈴木氏は、『隋書』では、東夷伝だけでなく、諸伝に諸国の仏塔・僧侶に関する記述があり、「仏教の存否、様態もまた隋の周辺諸国に対する一定の関連を構成する要素であった」(324頁)ことに注意しています。邪馬台国の場合も同じですが、中国の史書中の日本に関する記述を資料として利用する際は、その史書における他の諸国の記述と比べて検討しないと危険です。

 鈴木論文では、推古朝における冠位や憲法や種々の改革は、当時の外交と不可分であり、仏教と礼という二つの思想の複合こそが推古朝の根本であったが、王民・公民に対する統治という点ではまだ未熟であり、蝦夷など周辺の人々の位置づけもできていなかったのが実状とされています。なお、聖徳太子の活動は史実として認められていますが、詳しい検討はなされていません。

10月開催の聖徳太子に関するシンポジウムと講演会

2010年09月02日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報
 聖徳太子に関する催しが10月に2件開催されます。最初のものについては、末木文美士さんが教えてくれました。

「シンポジウム 聖徳太子信仰の成立と展開」
10月2日(土) 13:00~ 中部大学 三浦幸平メモリアルホール
主催 聖徳太子信仰研究会/共催 中部大学国際人間学研究所

大山誠一(中部大学教授):
「天孫降臨神話から<聖徳太子>へ」
 
吉田一彦(名古屋市立大学教授)
「聖徳太子伝の変貌」

藤井由紀子(一橋大学イノベーション研究センター研究員)
「<聖徳太子>という価値--摂関家の聖徳太子信仰と寺院」 

コメント:曾根正人(就実大学教授)・ 増尾伸一郎(東京成徳大学教授)

という構成だそうです。

一般公開のシンポジウムであって、予約不要・入場無料とのことです。プログラムの詳細および会場へのアクセスについては、ポスターの表裏面に記されています。

もう一つは、光明皇后1250年遠忌関連の催しです。

平成22年度 東大寺現代佛教講演会
10月30日(土)13:30~ 東大寺金鍾会館(東大寺南大門左側)
主催: 東大寺・大仏奉賛会  後援: 朝日新聞社

米田該典(大阪大学教授)
「薬が宝物であった時代--正倉院薬物と光明皇后--」
 
石井公成(駒澤大学教授)
「<聖徳太子架空人物説>の誕生と崩壊--光明皇后による太子関連文物捏造説を正す--」 

後の方の講演の題目は、『<聖徳太子>の誕生』という本と似てますね。こちらも、予約不要・入場無料だそうです。もう少ししたら東大寺のサイトにも掲載されるとか。

明治期の美術から見た聖徳太子 : 三上美和「安田靫彦筆《夢殿》」

2010年09月01日 | 論文・研究書紹介
 明治時代になると、聖徳太子については、国学者や儒学者の批判に代わって、近代的な立場からの太子礼讃がなされるようになります。絵画や彫刻においても同様であって、明治の中頃からは、法隆寺の遺物に関する評価が高まるとともに、それまでの伝統的な聖徳太子の絵や像に代わり、西洋美術の影響を受けた太子の絵や彫刻が急激に増えていきます。そうした状況を精査したのが、

三上美和「安田靫彦筆《夢殿》--明治期の聖徳太子顕彰を手掛かりに--」
(『美術史』167冊、2009年10月)

です。

 本論文は、法隆寺金堂の模写にも携わった安田靫彦(1884-1978)が、『法華義疏』執筆中に夢殿にこもって瞑想している聖徳太子を描いた名作、「夢殿」(1912)を柱として、「近代以後、法隆寺遺物の古美術としての価値の高まりと、皇室の祖としての太子顕彰が絡み合い、明治末年に美術と文化の振興者としての太子像に結実していく様相を具体的に指摘」(18頁下)したものです。

 靫彦は、この絵について述べた際、「私は聖徳太子の研究に耽る事十年、或は奈良に赴き太子時代の遺物について種々研究した」と述懐しているそうです。夢殿は太子没後の建立ですので、時代は合わないのですが、当時としては、かなり綿密な研究に基づいた作品であることが知られます。病気による2年間のブランクから復帰して最初の作であるだけに、意欲的な作品であって、当時の評価も高かったそうですが、そうした復帰作のテーマとして太子が選ばれたというのが興味深いところです。

 本論文では、1893年にシカゴで開催された万国博覧会に出展された巨瀬小石「聖徳太子勝鬘経講賛図」も紹介されていますが、出展時の英文タイトルは、”A Great Teacher Shotokutaishi” となっていた由。太子の位置づけがわかりますね。
その少し後の1930年には、「本邦の政憲法文学美術農工百技の開発者」として太子を顕彰する「太子の祭典」が開かれています。

 そのほか、1911年に東京美術学校で太子祭典を行なった際、本尊とされた《聖徳太子》像を高村光雲が作成し、法隆寺管長が開眼供養を行ったとか、同年に似た形で作られた竹内久一の太子像は、日露戦争の戦病者慰霊塔である「護国塔」に奉納するために、太子顕彰を行っていた上宮教会が依頼して作成したとか、こうした太子の絵や像は、大正期以後、従来の孝養太子像などではなく、「唐本御影」のイメージを強めていったとか、興味深い逸話がたくさん紹介されています。

 我々は、近代になって確立された聖徳太子のイメージの影響を受けているのですから、この時期の太子信仰に関する研究は重要です。