そうした中で、比較的初期の太子信仰に関する仏教学・仏教史系の最近の論文として、
桑谷祐顕「伝教大師と光定の聖徳太子観」
(『叡山学院研究紀要』32号、2010年3月)
が出ています。
初期の日本天台宗における聖徳太子観については、既にかなりの研究がなされていますが、桑谷氏のこの論文は、最澄とその弟子の光定の著作や文に見える太子関連箇所を、これまで以上に精細に検討するとともに、当時の桓武天皇や貴族・官人たちが太子をどのように見、どのような太子関連文献に基づいていたかに注意している点が特徴です。太子が南嶽慧思の後身であるというのは、僧侶たちの間だけの知識ではなかったのです。
本論文では、光定は、最澄がもたらした天台の祖師画像中の慧思像を基にして慧思禅師の肖像を描かせ、また最澄がもたらした「慧思禅師伝文」等から「南岳慧思大師影」と題する美文を作ってその肖像に付し、南の僧侶の求めに応じて法隆寺・唐招提寺等におさめたらしいとしています。
つまり、光定は、霊鷲山で釈尊から直接、『法華経』の説法を聞き、中国でも生まれ代わりを繰り返し、日本では聖徳太子として生まれ、かつて用いていた『法華経』を中国から取り寄せたとして、「南岳慧思=聖徳太子」を顕彰することにより、その伝統を受け継ぐ日本天台宗は釈尊直結のものだと主張することに全力を尽くしたわけです。
光定は、名はあげていないものの『七代記』に基づいており、桑谷氏によれば、光定は現行の『七代記』が割り注としている部分を本文としているテキストを手元において『伝述一心戒文』を完成させているらしいとか。
光定が最澄以上に太子の慧思後身説を強調したのは、「天台座主義真亡き後、上座円澄の伝戒師補任を求めてその正当性をアピールし、天台法華宗の伝戒師補任を如何にスムーズに行うかが緊急課題であり、光定に課せられた至上命題であった」ためだ(85頁)というのが、本論文の結論です。
日本天台宗は、天台法華宗であることを改めて痛感させられる論考でしたが、天台大師自身については、『法華経』至上主義ではなかったとする研究も最近、発表されています。上記のような慧思観は、あくまでも中国での慧思伝説が日本で独自な展開をとげたうちの一つです。
最澄は四天王寺上宮廟に参詣して漢詩を賦し、光定も四天王寺の安居の講師となるなど、天台宗は四天王寺との関係が深く、四天王寺は次第に天台宗のうちに組み込まれていきます。その四天王寺は、敗戦から間もない1946年1月に「四天王寺独立宣言」を発表して宗派からの独立を表明し、話題となりましたが、この独立宣言は、実は、四天王寺に入りびたっていた小倉豊文が執筆し、その英訳はGHQにも提出された由。四天王寺が「和宗」を名乗るようになったのは、小倉が四天王寺から離れた後のことであり、小倉の本意ではなかったようです。