古代史家であって聖徳太子研究に力を入れていた新川登亀男氏が、今年の2月に亡くなりました。新川さんは、『上宮聖徳太子伝補闕記』の着実な文献研究でスタートしておりながら、福永光司先生が巻き起こした強引な道教ブーム(こちら)に飛びつき、「あれも道教、これも道教」と論じる軽率な日本史研究者の一人となるなったことが示すように、時々困ったこと書く場合があったものの(たとえば、こちら)、聖徳太子の受容を跡づけた『聖徳太子の歴史学』のような好著も出していました。
また、若い頃、大分大学など九州で勤務していたこともあってか、韓国との関係など、古代日本の海外交流についても取り組み、韓国の学者たちを招いた共同研究のプロジェクトを組織するなどしていたことも、功績の一つでしょう。
その新川さんが、開皇20年(600)の第一回目の遣隋使について検討し、特に倭王の名について論じたのが、
新川登亀男「倭の入隋使(第一回遣隋使)と倭王の呼称」
(新川登亀男編『仏教文明と世俗秩序-国家・社会・聖地の形成-』、勉誠出版、2015年)
です。
新川さんは、『隋書』によれば、第一回目の遣使については「遣使詣闕」と記され、二回目については「遣使朝貢」と記されていることに注意し、『隋書』の東夷・南蛮・西域・北狄伝に見えるこの類の記述を検討します。
すると、「遣使朝貢」は本紀に多く見えているのに対し、「遣使詣闕」は列伝に多く、イレギュラーな面談・交渉である場合が多く、正式な宮殿での面会とは限らないとします。確かに、第一回目は国書を持参した様子がありません。
そこで、新川さんが注目するのは、第一回目の遣使の年である開皇20年の正月には、文帝は岐州の行宮である仁寿宮におり、突厥・高麗・契丹という北方の三国が使者をこの仁寿宮に派遣して方物を貢していることです。ただ、百済や新羅はこの時は遣使していないようなので、開皇20年の倭の遣使は、高句麗の遣隋使に隨行・同行した可能性があるとします。
この遣使について、『隋書』は、「倭王、姓は阿毎、字は多利思比孤、阿輩雞弥と号し、遣使詣闕」したと述べます。そして文帝が役人を通じて「風俗」を説いたとされており、「阿毎」は「アマ、アメ」であって「天」の字があてられるとするのが常識でした。
しかし、北康宏さんは、そうした場合は「阿麻」「安麻」「安万」「阿米」「安米」などと表記される場合が多いと指摘しています。これに対して新川さんは、卜部家本の『日本書紀』雄略23年8月丙子条に記された歌謡に「阿毎儞挙曾(天にこそ)、枳挙曳儒阿籮毎(聞こえずあらめ)、矩儞儞播(国には)、枳挙曳底那(聞こえてな)」とある例を示します。
前田尊敬閣本や宮内庁書陵部本では「阿母(あも)」とあり、これだと『万葉集』の東歌に見えるように「母」の東国語ですが、ここで東国語が出るのも不自然であるうえ、「国には」と対になっている点から見て、また、「聞こえずあらめ(聞こえなくても)」の「め」が「毎」で表記されていることから見て、ここの「阿毎」はやはり「あめ(天)」だろうとします。
また、『日本書紀』仁徳40年2月条の歌謡で、「あめ」を「阿梅」と表記している例があり、他にも「梅」を「め」の表記に用いている例があるとします。
そして、『隋書』が「アメ」を「天」と表記していないのは、倭語の「あめ」が漢語の「天」で置き換えられないためと説きます。この指摘は良いですが、以下、「毎」について強引な解釈をして高句麗との関係を強調しようといるため、その部分は省きます。
次に「多利思比孤」については、「タリシヒコ」であることは問題ないとしたうえで、こうした表記は他に類例がないとします。『古事記』は「タラシヒコ」を「帯日子」と表記し、また「日子」は「比古」「毘古」「毗古」と表記される例も多いと述べます。
一方、『日本書紀』では「足彦」としており、「日神之子」「日神子孫」が僅かに見えるものの「日子」の例はなく、「比古」などもまれであって注ばかりと説きます。ただ、『古事記』『日本書紀』では「タリシヒコ」の用法は限定的でり、天皇の名としては孝安・景行・成務・仲哀天皇に限られるとします。
これについて、いろいろ考察したのち、「比古」は基本的な意味である男を示しており、これに「日子」型の表記が加えられ、さらに「帯日子」とされるにつれて、立派な男性→天皇とその兄弟→天皇、という順序で限定されていくようになったとします。
「タリシ」について、「帯」は「足」は「満ちる、充足した」が基本であって、天(アメ)から下る倭王、という意味はなかったとします。
「多利」という表記は『隋書』でも東夷・南蛮・西域・北狄伝に見られるものでるうえ、百済の文物に見えるため、百済やその周辺には「多利」「哆唎」と表記する人名・地名があったとし、また『隋書』のうち、仏教国であった赤土国の王が「利富多塞」と良い字ばかりで表記されていることに注意します。
独自の表記である「比孤」については、ひざまずく意である「跪」を音写に用いた「比跪」「奴跪」などの表記は、倭王などに従属する臣下の名として用いられているのに対し、「比孤」の「孤」は、『礼記』玉藻篇が「小国之君、曰孤」と述べているように、君主の自称であることに着目します。
この「比孤」という表記を経てこそ、天皇伝承と関係深い「日子」という表記が可能になったのであり、これには高句麗の始祖の「日子」伝説の影響があるものと見ます。
なお、「阿輩雞弥」については、再考が必要としつつ、「雞弥」は「キミ」と見てよいとします。その他、いろいろと考察を重ねており、中にはやや牽強付会と思われるものもありますが、日本だけでなく、『隋書』や韓国の用例を考慮して検討していくというのは、必要な試みでしょう。