聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

阿毎多利思比孤という名を検討する:新川登亀男「倭の入隋使(第一回遣隋使)と倭王の呼称」

2023年08月29日 | 論文・研究書紹介

 古代史家であって聖徳太子研究に力を入れていた新川登亀男氏が、今年の2月に亡くなりました。新川さんは、『上宮聖徳太子伝補闕記』の着実な文献研究でスタートしておりながら、福永光司先生が巻き起こした強引な道教ブーム(こちら)に飛びつき、「あれも道教、これも道教」と論じる軽率な日本史研究者の一人となるなったことが示すように、時々困ったこと書く場合があったものの(たとえば、こちら)、聖徳太子の受容を跡づけた『聖徳太子の歴史学』のような好著も出していました。

 また、若い頃、大分大学など九州で勤務していたこともあってか、韓国との関係など、古代日本の海外交流についても取り組み、韓国の学者たちを招いた共同研究のプロジェクトを組織するなどしていたことも、功績の一つでしょう。

 その新川さんが、開皇20年(600)の第一回目の遣隋使について検討し、特に倭王の名について論じたのが、

新川登亀男「倭の入隋使(第一回遣隋使)と倭王の呼称」
(新川登亀男編『仏教文明と世俗秩序-国家・社会・聖地の形成-』、勉誠出版、2015年)

です。

 新川さんは、『隋書』によれば、第一回目の遣使については「遣使詣闕」と記され、二回目については「遣使朝貢」と記されていることに注意し、『隋書』の東夷・南蛮・西域・北狄伝に見えるこの類の記述を検討します。

 すると、「遣使朝貢」は本紀に多く見えているのに対し、「遣使詣闕」は列伝に多く、イレギュラーな面談・交渉である場合が多く、正式な宮殿での面会とは限らないとします。確かに、第一回目は国書を持参した様子がありません。

 そこで、新川さんが注目するのは、第一回目の遣使の年である開皇20年の正月には、文帝は岐州の行宮である仁寿宮におり、突厥・高麗・契丹という北方の三国が使者をこの仁寿宮に派遣して方物を貢していることです。ただ、百済や新羅はこの時は遣使していないようなので、開皇20年の倭の遣使は、高句麗の遣隋使に隨行・同行した可能性があるとします。

 この遣使について、『隋書』は、「倭王、姓は阿毎、字は多利思比孤、阿輩雞弥と号し、遣使詣闕」したと述べます。そして文帝が役人を通じて「風俗」を説いたとされており、「阿毎」は「アマ、アメ」であって「天」の字があてられるとするのが常識でした。

 しかし、北康宏さんは、そうした場合は「阿麻」「安麻」「安万」「阿米」「安米」などと表記される場合が多いと指摘しています。これに対して新川さんは、卜部家本の『日本書紀』雄略23年8月丙子条に記された歌謡に「阿毎儞挙曾(天にこそ)、枳挙曳儒阿籮毎(聞こえずあらめ)、矩儞儞播(国には)、枳挙曳底那(聞こえてな)」とある例を示します。

 前田尊敬閣本や宮内庁書陵部本では「阿母(あも)」とあり、これだと『万葉集』の東歌に見えるように「母」の東国語ですが、ここで東国語が出るのも不自然であるうえ、「国には」と対になっている点から見て、また、「聞こえずあらめ(聞こえなくても)」の「め」が「毎」で表記されていることから見て、ここの「阿毎」はやはり「あめ(天)」だろうとします。

 また、『日本書紀』仁徳40年2月条の歌謡で、「あめ」を「阿梅」と表記している例があり、他にも「梅」を「め」の表記に用いている例があるとします。

 そして、『隋書』が「アメ」を「天」と表記していないのは、倭語の「あめ」が漢語の「天」で置き換えられないためと説きます。この指摘は良いですが、以下、「毎」について強引な解釈をして高句麗との関係を強調しようといるため、その部分は省きます。

 次に「多利思比孤」については、「タリシヒコ」であることは問題ないとしたうえで、こうした表記は他に類例がないとします。『古事記』は「タラシヒコ」を「帯日子」と表記し、また「日子」は「比古」「毘古」「毗古」と表記される例も多いと述べます。

 一方、『日本書紀』では「足彦」としており、「日神之子」「日神子孫」が僅かに見えるものの「日子」の例はなく、「比古」などもまれであって注ばかりと説きます。ただ、『古事記』『日本書紀』では「タリシヒコ」の用法は限定的でり、天皇の名としては孝安・景行・成務・仲哀天皇に限られるとします。

 これについて、いろいろ考察したのち、「比古」は基本的な意味である男を示しており、これに「日子」型の表記が加えられ、さらに「帯日子」とされるにつれて、立派な男性→天皇とその兄弟→天皇、という順序で限定されていくようになったとします。

 「タリシ」について、「帯」は「足」は「満ちる、充足した」が基本であって、天(アメ)から下る倭王、という意味はなかったとします。

 「多利」という表記は『隋書』でも東夷・南蛮・西域・北狄伝に見られるものでるうえ、百済の文物に見えるため、百済やその周辺には「多利」「哆唎」と表記する人名・地名があったとし、また『隋書』のうち、仏教国であった赤土国の王が「利富多塞」と良い字ばかりで表記されていることに注意します。

 独自の表記である「比孤」については、ひざまずく意である「跪」を音写に用いた「比跪」「奴跪」などの表記は、倭王などに従属する臣下の名として用いられているのに対し、「比孤」の「孤」は、『礼記』玉藻篇が「小国之君、曰孤」と述べているように、君主の自称であることに着目します。

 この「比孤」という表記を経てこそ、天皇伝承と関係深い「日子」という表記が可能になったのであり、これには高句麗の始祖の「日子」伝説の影響があるものと見ます。

 なお、「阿輩雞弥」については、再考が必要としつつ、「雞弥」は「キミ」と見てよいとします。その他、いろいろと考察を重ねており、中にはやや牽強付会と思われるものもありますが、日本だけでなく、『隋書』や韓国の用例を考慮して検討していくというのは、必要な試みでしょう。


ゲント大学開催のEAJS大会での近代における聖徳太子パネル(2)

2023年08月25日 | 聖徳太子信仰の歴史

 2番目の発表は、近代の日蓮信仰に関する代表的な研究者の一人であるブレニナさん。その発表は、日蓮は聖徳太子のことを『法華経』を日本で広めた点で尊重しつつ、『法華義疏』の解釈を批判していたことに注意したうえで、近代における日蓮信奉者である田中智学・本多日生・姉崎正治の聖徳太子観を扱ったものです。

 日蓮宗から還俗し、在家の信仰団体を組織した田中智学については、法隆寺の美しさに感動して自ら創設した信仰団体の本部の建物を静岡に建設する際、法隆寺を真似た形にするほどだったと述べます。そして、智学は自らの国体説を強調するうちに、その国体説と聖徳太子を結びつけるようになり、世界の文化と日本の文化を調和させる存在として評価するようになったとします。

 日蓮宗の管長となった日生については、太子の1300年遠忌前後で太子に対する関心が高まる中で、「憲法十七条」を重視し、太子を日本文化の源流としての意義を強調するなどして儒者や国学者から批判されていた太子を弁護し、教化に活用したことを指摘しました。

 宗教学を確立した姉崎正治については、内外で聖徳太子について書き、1910-1920年頃には太子を「民本主義」の手本とし、1934年に東大を退職した後は、太子の「哲人政治家」の面を強調するようになったとします。

 そして、智学についても姉崎についても、明治天皇が亡くなると、明治天皇と聖徳太子を一体視して評価する傾向が強まることを指摘しました。

 最後の発表者は、日本の近代的仏教学形成に関する代表的な研究者であるクラウタウさん。膨大な資料を示し、明治憲法と「憲法十七条」の関係を論じました。というのは、明治憲法の注釈書には、「憲法十七条」について触れているものが意外に少ないためです。

 また、薗田宗恵『聖徳太子』、境野黄洋『聖徳太子伝』、久米邦武『上宮太子実録』など、太子の意義を説いた宗学者・仏教史家・史家の伝奇でも、「憲法十七条」は道徳的訓誡を述べたものと見ているとします。太子の「憲法十七条」を明治天皇の明治憲法と重ね合わせて見る傾向は、明治天皇の没後になって生じたことを強調するのです。

 クラウタウさんは、明治維新のイメージは後になって形成されたと説く宮澤誠一『明治維新の再創造』を取り上げ、明治天皇と重ね合わせる近代的な聖徳太子のイメージも、同様だとします。これはブレニナさんの研究と一致しますね。

 そして、「憲法十七条」が「教育勅語」に並ぶ存在とされたのは、国家主義的な御用哲学者であった井上哲次郎の『国民道徳論』による面が多いとし、その傾向は、ロシア革命や国内の社会主義の流行などによっていよいよ高まり、聖徳太子こそが我が国の国体を示したという認識が広まったとします。

 その太子のイメージが、戦後は「憲法十七条」の「和」を平和主義とみ、太子を民主主義の元祖と解釈するようになって変わるものの、「憲法十七条」を法律でなく道徳的訓誡と見る傾向は続いていると説きます。

 以上の3人の発表について、近代日本宗教史研究の代表的な存在である林さんは的確なコメントをし、3人に対しておおよそ以下のような質問をしました。

石井: (1)『五憲法』に着目すると、近世と近代は連続しているように見えるが、近世と近代で太子像の違いはないのか。(2)『五憲法』による太子像はいつまで続いたか。

ブレニナ: (1)太子を「政治家、社会福祉の祖」と位置づけるのは、近代の諸宗全体のことか、日蓮系の特徴か。(2)日蓮系の仏教者が調和的な太子像を説くと、折伏や「四箇格言」と矛盾しないか.。

クラウタウ:(1)聖徳太子を国体論の立場で位置づけるようになると、太子の思想の理解も変化したのか。(2)和の精神は包容的であるとしたら、社会主義者も和の精神に包容されうるのか。 

 これに対し、それぞれの回答がなされましたが、3人の発表と回答については、いずれ論文として刊行されるでしょう。ともかく、近代における聖徳太子像については、久米邦武などが客観的な歴史研究を始めたとか、ナショナリズムが高まった昭和期に神道側が仏教を攻撃すると、仏教側は聖徳太子を持ち出して弁解したといった程度の理解がなされている程度でしたので、今回のような詳細な検討がなされたことは意義あるでしょう。

 なお、EAJSでは、推古天皇が命じて聖徳太子が編纂し、太子自らもかなり執筆したとされる『先代旧事本紀大成経』に関するパネルが前日に開かれており、そのメンバーも我々のパネルを聞いてくれていました。そちらのパネルは以下の通り。

Phil_04 A forgotten chapter in the intellectual history of the Edo period: the place of Sendai kuji hongi taisei-kyō in literature and religion
Intellectual History and Philosophy
Convenor: W.J. Boot (Leiden University)

Lokaal 0.3: Fri 18th Aug, 14:00-15:30

The Image of the Tokugawa Shogun in Taisei-kyō
Yuasa Yoshiko (Tokyo Gaugei University) 湯浅佳子

Chōon and Taisei-kyō
W.J. Boot (Leiden University)

Taisei-kyō and Shugendō
W.J. Boot (Leiden University); Satoshi Sonehara (Tohoku University) 曽根原理

このお三方については、9月に刊行される『アジア遊学』に論文を書かれているそうなので、刊行されたら、その内容を簡単に紹介します。


ゲント大学開催のEAJS大会での近代における聖徳太子パネル(1)

2023年08月21日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報

 現在、EAJS(ヨーロッパ日本学協会)の2023年大会のため、金沢みたいなベルギーの古都、ゲントに滞在中です。会場はゲント大学。19日に私が参加したパネルは、以下の通り。

Phil_13 A tradition of reinvention: Shōtoku Taishi in modern Japanese religious history

Convenor: Orion Klautau (Tohoku University)
Discussant: Makoto Hayashi (Aichigakuin University)

Lokaal 0.3: Sat 19th Aug, 11:00-12:30

Modern commentaries on the apocryphal "five constitutions" of prince Shōtoku
Kosei ISHII (Komazawa University)

Projecting modern ideals on the past: Nichirenist perspectives on Shōtoku Taishi
Yulia Burenina (Osaka University)  *日本からリモート発表

Harmonizing the Prince: Shōtoku Taishi’s constitution between the Taishō and early Shōwa years
Orion Klautau (Tohoku University)

 会場となった教室は、開始10数分前は日本人研究者、それもこのパネルのメンバーの知り合いが5~6人来ているだけだったため、パネルを企画したクラウタウさんは、「これなら日本語でやりましょうか」などと言っていたほどでした。

 ところが、始まる直前になると、諸国の研究者が次々に入って来て満席となり、後ろに立ち見まで並ぶ盛況となったため、ほっとしました。聖徳太子はいろいろな面にからむため、関心を呼ぶのか。

 最初の私の発表は、聖徳太子が編纂したとされる江戸時代の偽史、『先代旧事大成経』の巻70、「憲法本紀」に含まれていて太子作と称している『五憲法』がどのように受容されたか、特に明治初年にいかに歓迎されたかを検討したものです。

 『日本書紀』に載せられている「憲法十七条」は、「篤く三宝を敬え。三宝とは仏・法・僧なり」と説くのみであって、「神」にまったく触れず、儒教の根本である「孝」にも触れていません。

 一方、『五憲法』の五つの憲法のうち、最初の「通蒙憲法」は、「篤く三法を敬え。三法とは儒・仏・神なり」と変えるなどしており、儒教・仏教・神道を等しく尊重するよう命じています。儒教や国学の者たちが仏教を批判し、聖徳太子についても厳しく批判するようになったことに対する対応ですね。

 『大成経』は1681年に幕府によって偽書と判定されて発行が禁止され、出版に関わった人々は罰せられたのですが、出版の中心であった黄檗宗の潮音道海(1631-1698)は将軍の母に帰依されていたため、50日の謹慎の後、地方の寺に隠棲させられただけであって、『五憲法』の注釈を書いてます。

 『大成経』は、江戸時代の人々が飛びつきそうな興味深い記述で満ち満ちているため、禁書となって以後も写本でかなり伝わっており、特に『五憲法』やその注釈は、『大成経』の一部ということは示さずに何度も刊行されています。その『大成経』を引用したり注釈を書いたりした人たちは、実に多様であって、以下の私の発表資料が示す通りです。

 江戸時代の注釈で注目されるのは、かの『葉隠』を口述した山本常朝の師であって、『葉隠』に大きな影響を与えたとされる儒者の石田一鼎(1624-1694)が、『五憲法』を武士が守るべき心構えとしてとらえ、その立場で『聖徳太子五憲法釈義』を著していることです。この本は、一鼎の子孫が入手した写本を、その志を継ぐ人が昭和62年(1987)に自費出版するまで、世間に知られていなかったものです。

 明治になると、国民教育を神道一本でやろうとして失敗した政府は、僧侶の活動も認めるかわりに、明治5年(1972)に「敬神愛国」「天理人道」「皇上奉戴」などの三箇条を原則とするよう求めたため、仏教側、特に浄土宗はこれに飛びつき、説教の資料として『五憲法』を盛んに用いました。

 神道一本槍で行こうとして失敗した明治政府は、仏教の僧侶なども国民教導に利用することにしたのですが、その際、「敬神愛国」「天理人道「皇上奉戴」を柱とする三条教則を基準と定めたため、仏教側は対応に困り、聖徳太子が儒教・仏教・神道を尊重するよう命じたとする『五憲法』に頼ったのです。

 以後も「教育勅語」が出ると、また『五憲法』の注釈がいくつも出されますし、昭和天皇が皇太子で摂政を務めていた時に結婚すると、それを祝って皇太子で摂政を務めたとされる聖徳太子作と称する『五憲法』の注釈が刊行されなど、皇室がらみの何かがあると『五憲法』は再注目されており、現代に至るまで信者が絶えません。

 このため、私は発表では、日本仏教史は聖徳太子のイメージの変遷史だが、明治初期の太子のイメージは『大成経』が強調する神道重視の太子だと論じたところ、近代日本宗教の代表的な研究者の一人である林淳さんから、適切で厳しいコメントをいただきました。

 確かに、明治期には『五憲法』などとは異なる近代的な太子のイメージも出てきますし、『五憲法』を積極的に利用しなかった宗派もあります。私の発表は、浄土宗における『五憲法』尊重が衝撃的であったため、それを一般化しすぎでしたね。


飛鳥・斑鳩を歩いて聖徳太子時代の状況を考察:和田萃『古代天皇への旅』(4)「聖徳太子」

2023年08月18日 | 論文・研究書紹介

 順序がずれましたが、最後の「10 聖徳太子」です。

 まず、冒頭で名前を論じた部分のうち、「厩戸皇子」は7世紀以後のものであって、それ以前は「厩戸王」だとするのは、和田氏には珍しい凡ミスです。

 『日本書紀』では、厩戸皇子についいては、分注で「豊耳聡聖徳、豊聡耳法大王、法主王」をあげていますが、「法主王」は仏教信仰が篤かったことを示すとしたうえで、「これらはいずれも在世中に生じた呼称だろう」と述べます。

 「法主」は中国では寺における講経の代表者を指すため、講経の巧みな方という意味でそう呼ばれたのだろうということは、論文やこのブログでも何度も指摘しました(たとえば、こちら)。

 ただ、「豊耳聡聖徳」も認めるとなると、「聖徳太子」という呼称は後代のものにせよ、「聖徳」という呼称は生前からのものということになるので、これは大胆な記述ですね。私は賛成ですが。「太子」という語も使われていたでしょう。

 さて、廐戸皇子は上宮に住んでいたとされ、「上宮王」とも呼ばれたため、昭和61年から平成2年にかけて桜井市教育委員会がおこなった発掘調査で上之宮(うえのみや)地区から遺跡が検出されたため、これが厩戸皇子の上宮だとする報道がなされたものの、和田氏は、この地域は阿倍氏の本拠地であり、また用明天皇の磐余池辺雙槻宮から遠いため、問題であるとします。

 和田氏は地名解釈の難しさを述べるにあたり、以下のような例をあげます。まず、石舞台古墳のすぐ横に明日香村上居(じょうご)の集落があります。幕末に暁鐘成がこの近辺の状況を書き残した『西国三十三所名所図会』の当時は、石舞台は天武天皇のモガリに関連する遺跡とされており、これは地名の「上居」を天武天皇の「飛鳥浄御原宮」の「浄御」と結びつけたためでした。

 その上居集落の上手には上宮寺があり、寺伝では聖徳太子の上宮の地と伝えている由。また多武峯へのぼる細川谷の入り口にも「上居(じょうご)」の集落があり、多武峯から北へ下ったところに「下居(おりい)」の集落があり、さらに桜井市にも上宮寺があります。これは太子信仰に由来するものであり、その地が厩戸皇子の上宮であったかどうかは、また別な話なのです。

 上之宮遺跡については、6世紀末から7世紀初めと見られる大型建物の跡が発見され、その後、調査が重ねられたものの、和田氏はその遺跡から出た木簡は内容と書風から見て、7世紀第3四半期のものと判断します。

 「厩戸(うまやど)」という名については、地名の「うまや」に出入り口を示す「と」が付いたものと見ます。「戸」も「門」も清音の「ト」ですが、複合語の後の部分となった場合は濁音となる場合があり、「うまやど」はその例だとするのです。

 問題はこの「戸」です。6世紀後半から、飛鳥戸(あすかべ)・春日戸(かすがべ)・高安戸(たかやすべ)といった「地名+戸」の氏族が河内に設置されます。「厩戸」もこの例の一つだとすると、「うまやべ」となるはずです。

 すると、「戸」は入り口ということになりますが、地名で「厩」とつくのは、軽の地から見瀬丸山古墳に至るゆるやかな坂、厩坂です。軽には蘇我稻目の「軽の曲殿」があり、その稻目の娘が欽明天皇の妃となって産んだ子たちの長子が大兄皇子、後の用明天皇です。

 ですから、大兄皇子が住んだ宮が、厩坂の「戸」に当たる場所だったので、厩戸皇子と命名されたと和田氏は考えます。というのは、大和には、「地名+戸」という形の古い地名が散見されるからです。 

 和田氏はその他様々な問題に触れていますが、ここで斑鳩周辺に移ります。古墳の分布から見ると、交通の要衝であった富雄川流域や大和川の流域には物部氏が勢力を伸ばしており、大県南遺跡は製鉄の遺跡でした。この地の一部である斑鳩に穴穂部皇子が宮を構えていたのは、皇子を天皇候補としようとした物部守屋の中河内の本拠地に近いためであったと和田氏は説きます。

 法隆寺の側にある藤ノ木古墳の石棺には、若い二人の男性が葬られており、一人はその穴穂部皇子だと推定されています。法隆寺の塔頭に伝わる記録によれば、近世では藤ノ木古墳を崇峻天皇の御廟とされているそうですが、和田氏はそれは伝承の混乱と見ます。


飛鳥・斑鳩を歩いて聖徳太子時代の状況を考察:和田萃『古代天皇への旅』(3)「推古天皇」

2023年08月12日 | 論文・研究書紹介

 和田氏の著書の紹介を続けます。今回は氏の本では最後に置かれている推古天皇です。

 和田氏は、推古天皇(554-628)は古代には珍しく生没年が伝わっている人物であり、また珍しく長寿であったとします。このことは、推古の時代から文書の整備が進んだということですね。

 推古は欽明天皇と蘇我稲目の娘の堅塩媛の間に生まれた七男六娘のうちの次女であって、額田部皇女と呼ばれました。当時は長男・長女が特別に重んじられていたものの、長女の磐隈皇女は幼くして伊勢に斎王としておもむいたため、額田部皇女が実質上の長女として尊重され、大娘姫王(おおいらつめひめみこ)とも称されました。

 天智・天武の皇子女には、初期ヤマト政権の段階で奈良盆地に置かれた山部・磯城・十市などの地名が付けられた者が多いことから見て、それらの御県の祭祀を掌握していた県主家出身の女性たちが乳母となって養育したと直木孝次郞氏は推測しました。

 和田氏もそれに賛同し、額田部皇女の名も、大和郡山市額田部を中心とする額田部丘陵を本拠とした有力豪族、額田部連出身の乳母が養育したことによると見ます。額田部氏は、馬の飼育を担当し、騎馬集団をひきいた氏族ですね。

 敏達天皇の皇后であった広姫が亡くなると、額田部皇女が皇后となりますが、その名を冠した御名代として額田部が設置されました。その範囲は、大和・摂津・山城・尾張・上総・常陸・上野・石見・長門・播磨・筑前・肥後にまで及んでおり、欽明朝になってようやく支配下に入った出雲にも置かれています。

 また、そのような個人の名を冠した名代と違い、敏達6年には皇后となった額田部皇女のために私部(きさきべ・きさいべ)が各地に設置されます。このため、額田部皇女の資産は膨大なものとなったうえ、敏達の皇后として強大な権力を持っていたことから、初の女帝となる推古天皇が誕生し、豊浦宮で即位するに至ったと和田氏は推測します。

 ここで土地の話となります。豊浦宮は雷丘の近くにあったとされますが、橘寺付近から甘樫丘あたりまで北に直進してきた飛鳥川は、城山や雷丘にさえぎられて屈曲し、北北西に進路を変えます。この辺りをたどった和田氏は、飛鳥川は上流から雷丘近くまでは人工の堤防がなく、雷橋下流では両側に人工の堤防が築かれていることにちゅういします。また航空写真を見ると、この辺には乱流した川跡が幾筋も認められ、この地帯で飛鳥川がたびたび氾濫したことを示しているとします。

 それまでの天皇は、「ヤマト」と称された奈良盆地の東南部に宮を置いており、飛鳥川右岸には朝鮮半島南部からの渡来人が多く居住していました。大伴氏に代わって彼らを掌握した蘇我氏が勢力を伸ばしたのですが、その蘇我稻目の娘から生まれた推古は、稻目が家を寺としたと伝えられる飛鳥川左岸の向原の地に早くから宮をかまえており、そこで即位したのです。

 磯城郡田原本町の旧町の出身であって車を運転しない和田氏は、中学2年の時に友人と自転車で飛鳥川沿いを走って以来、電車とバス以外は歩くのみで飛鳥の地を回った由。

 推古が豊浦宮から移った日本初の本格的な宮である小墾田宮については、豊浦宮を後に寺とした豊浦寺(現在の向原寺)から北へ200メートルほどいったところにある古宮土壇がその跡とされ、発掘調査がおこなわれました。

 発掘調査では、土壇の南側で、7世紀前半の遺構が検出されています。石で護岸した小さな池と、そこから流れ出る屈曲した石組み溝などが発見されたのです。和田氏は、7世紀前半の建物群は蘇我氏に関わるものと見てよいと述べます。

 和田氏が太子道と呼ばれる筋違道を初めてたどったのは、中学2年の時だった由。以後、何度も出向いて道路沿いの遺跡を訪ねたそうですが、そうした体験があれば、『日本書紀』の記述のどの部分が史実そのもの、ないし史実に基づいて伝承がふくらんだもの、あるいは机上の創作であるか判断できるでしょう。

 私が親しくしていた某先生は、中国の古寺探訪の思い出を書いた際、「〇〇寺から見える〇〇山に落ちる夕陽が感動的だった」などと述べていたものの、同行した人たちは、「あの寺からは見えない」と陰口を言っていました。

 現地を歩いてみないと、文献の記述は本当に正確なのか、潤色で大げさになっているのか、まったくの空想で現地の状況と違うのかは分からないですね。

 さて、崇峻元年に、真神原にあった渡来系氏族である飛鳥衣縫造樹葉(このは)の家が大臣の馬子によって取り壊され、飛鳥寺が造営されました。和田氏は、『日本書紀』には飛鳥寺の西にあった槻の樹広場に言及した記事が多いことから見て、その家の近くに槻の巨木がそびえており、それによって「樹葉」の名が付けられたと推測します。実際、飛鳥寺のすぐ西南に謎の弥勒石があり、その地の小字名は「木ノ葉」です。

 斑鳩町大字高安付近からその田原本町の保津に至る斜行道路が「筋違道」または「太子道」の名残りであって、この道は、聖徳太子が居住した斑鳩と飛鳥の都を斜め一直線に結んでいます。道の痕跡が発見されているのは一部だけですが、奈良盆地には各所に小字「筋違」があることに和田氏は注意します。斑鳩と飛鳥を往復した太子がここで休んだなどという伝承も残っているのです。

 さて、推古9年(602)に厩戸皇子は斑鳩宮の造営を開始します。その翌年、推古天皇が耳梨行宮に行幸したところ、大雨が降って行宮の庭が水浸しになったと記されています。名前から見て、耳梨行宮は耳成山周辺に営まれたことは確実ですが、その場所として、和田氏は水が出やすい場所、つまり、耳成山のまわりを西流する米川が橿原市新賀町あたりで大きく曲流して北方に流れていますので、その近くに行宮があったことが考えられるとします。

 太子道の痕跡を延長すると、その新賀町の市杵島神社付近に達し、さらに南下すれば豊浦宮に至ったろうと和田氏は説いたうえで、市杵島神社境内にある、直径35センチほどの円形の穴が空けられた凝灰岩の巨大な石造物に触れます。この石造物は、筋違道を敷設する際、穴に巨大な柱を立て、方位を見通す指標とするためのものだったと見るのです。

 耳梨行宮はそうした地にあったのであって、この地で筋違道敷設のための儀式が行われたと和田氏は推測します。

 推古11年(603)に推古は小墾田宮に移ります。皇太子御成婚にあたって橿原神宮に参拝されるために、雷丘から明日香村小山に至る道路が少し拡張された際、道路の東側で小面積ながら推古朝かと思われる遺構が発見された由。和田氏は、小墾田宮は、雷丘の南、山田道の北方域に南面してあったと見ます。この宮が造営された目的の一つは、海外の使節を迎えて儀礼をおこなうためでした。

 和田氏は最後に、推古の母である堅塩媛が改葬された檜隈大陵の問題をとりあげます。この陵については、見瀬丸山古墳とする説と、現在、欽明天皇陵と治定されている梅山古墳とする説があります。

 見瀬丸山古墳は、会社員が開口していた横穴式石室に入って撮影した写真が広まって話題となり、平成4年(1992)に宮内庁諸陵部によって調査がなされ、石室は全長28.4メートルもあって日本最大であることが判明しました。

 石室の東側壁沿いに6世紀第3四半期の家形石棺、奧壁沿いに7世紀第1四半期の家形石棺が安置されていました。となると、欽明天皇陵だとしても、また欽明天皇が亡くなる前年に亡くなった蘇我稻目の墓だとしても、奧壁側に新しい石棺が置かれていることが疑問として残ります。

 ただ、欽明天皇の墓は砂礫で覆われていたという記録があり、実際に、近年になって梅山古墳の前方部南西隅での発掘調査では、大量の砂礫が出ているため、これが欽明陵ということで確定しました。

 推古28年(620)に欽明陵に堅塩媛を改葬した際、檜隈陵の上に砂礫を葺き、陵の外に土を積んで山を作り、そこに各氏族に命じて大きな柱を立てさせたところ、倭漢氏の坂上直の立てた柱が最も高かったため、人々は「大柱の直」と呼んだと記されていますが、和田氏はこの年は欽明天皇の没後50年にあたることに注意します。

 このように、現地の調査と重ね合わせみると、『日本書紀』の記述は意外に正確なのです。むろん、『日本書紀』は当時の権力者たちの意向に基づいて編纂されており、かなりの潤色も創作もなされていますが、少なくとも推古天皇前後については、個々の記事はかなり史実を反映したものが多いのですね。


『先代旧事本紀大成経』など聖徳太子関連の偽文献にすがる人が絶えないのはなぜか

2023年08月07日 | 偽作の『五憲法』と『先代旧事本紀大成経』関連

 ベルギーのゲント大学で開催されるEAJS(ヨーロッパ日本学協会)大会が近づいてきました。そのうちの近代の聖徳太子パネルでオリオン・クラウタウさん、ユリア・ブレニナさんとともに発表・討議することは前に書きましたが、私が報告する『五憲法』、つまり、5部の偽作の「憲法十七条」を含む『先代旧事本紀大成経』の受容の歴史を調べば調べるほど、この偽作文献にだまされる人の多さにあきれざるを得ません。

 中でも驚いたのは、江戸文化の研究家として名高い三田村鳶魚(1870-1952)が昭和10年代になって『大成経』にはまりこみ、その注釈を書いた徧無為、すなわち独自な神道家であった依田貞鎮(1681-1764)を尊崇して月命日ごとに墓参りに行っていたことです。

 このことについては、徧無為研究に取り組んでいる野田政和氏が「三田村鳶魚 晩年の大成経研究と徧無為三部神道の信仰について」(『府中市郷土の森博物館紀要』第35号、2022年3月)で紹介しており、有益です。

 鳶魚ほどの学者が江戸時代に作られた『大成経』の不自然な記述に気づかないはずはないのですが、野田氏によれば、鳶魚は『大成経』偽作説に触れた際、天台宗の開祖である智顗が偽経の『清浄行経』を引用していることについて、鳶魚の師である太子崇拝の学者、島田蕃根(1827-1907)が「面白いではないか。そこは仏法の妙といふもの。偽経でもなんでもかまわない。道理がそこなら引用なさる」と語った言葉が今でも耳に残っていると述べたうえで、『大成経』の疑わしい点は継続して調査してゆくが、「真偽を超越した講究にも励みたいと存じます」と決意を語っています。

 なるほど。『大成経』がおかしいことは分かっておりながら、真偽とは無関係に価値高い部分があるとして研究していたんですね。これは、『大成経』を引用している江戸の学者にはたまに見られるパターンです。

 なお、野田氏は触れていませんが、島田蕃根は『大成経』信奉者でありながら、江戸幕府に偽作と判定されて禁書にされた経緯があるためか、表だっては『大成経』を賞賛せず、信頼できる弟子だけにその重要性を語っていたようです。

 疑いつつも、あるいは偽作と知りつつも、自分の説にとって都合が良いと、『大成経』のこの部分は古い資料に基づいているのだ、あるいは、真偽はともかく大事な教えを述べているから、という理由で使うのです。

 これは、実は空海も同じです。入唐した大安寺の戒明が、龍樹撰と称する『釈摩訶衍論』を持ち帰ると、歴代天皇の漢字諡号を定め、厩戸皇子を聖徳太子と呼んだ淡海三船(こちら)が、還俗僧としての見識に基づいて偽書だと早速批判しました。最澄なども偽書だとしたため、真作説派と偽作説派の間に論争が生じたのですが、空海は密教と顕教を区別する大事なところで、何も言わずに『釈摩訶衍論』を使うのです。

 天台宗の草木成仏説を確立した安然などは、初めは空海が偽書の『釈摩訶衍論』を使っているとして批判していたのですが、そのうちに自分も黙って利用するようになりました。まさに、空海と同じですね。なお、『釈摩訶衍論』については、新羅で作成されたことを私が以前、論証してあります。

 新羅撰述という点では、中国華厳宗の大成者である法蔵の作と伝えられてきた『華厳経問答』も同じです。この文献について、鎌倉時代の大学僧である東大寺凝然は、「文章が拙劣であって法蔵大師の著作に似ないが、内容が深遠なので、先徳たちは使ってきた」と述べています。

 これも私が解明したのですが、この『華厳経問答』は、入唐して智儼に師事し、華厳教学を学んだ後に新羅に帰った義湘が、入唐する僧に託して智儼門下の仲間であった法蔵に贈り物を届けたところ、法蔵が兄弟子の義湘あてにお礼の手紙とともに自分の著作をたくさん届けたため、義湘が弟子たちとその内容を考慮しつつ討議したものでした。新羅語でのやりとりを無理に漢文に直したため、教理面ではすぐれた内容が説かれているものの、おかしな文体となっていたのです。

 ただ、戦後、『大成経』を持ち上げている人は、凝然や鳶魚のような学識がないため、不自然な部分に気づかず、純粋に真作だと信じている人ばかりのように見えます。不自然な部分というのは、たとえば、『大成経』は「この~」という場合、「此」などのほかに「這」の字を使うことがありますが、「這」は唐代以後に用いられた俗語であって、禅宗の語録での問答部分などに良く見られるものです。

 ですから、聖徳太子が編纂させたと称する『大成経』に出てくるはずはないのであって、実際、『大成経』を偽作だと論じた江戸の学者の中には、この点を指摘した人もいました。

 偽書には、こうしたミスが必ずたくさんあるのです。しかし、漢文・古文にうとく、歴史に通じていない素人にはそれが分からないのであって、以前書いた三波春夫はその好例ですね(こちら)。

 また漢文・古文に通じている人の場合、自分の主張にとって都合の良い記述であると、上に書いたように、現在の形はおかしな箇所が目立つため後代の作とみなしつつも、内容自体は古い文書や伝承に基づいている、と考えたくなるのですね。凝然の場合も、『華厳経問答』は法蔵が書いたものではないとしつつも、弟子などが師匠の講義の内容を下手な文章でまとめたものと見たのでしょう。

 いやあ、三田村鳶魚も『大成経』を偽書と疑いつつ尊重していたのか……。こうした現象については、偽書を中心としたノンフィクションライターである藤村明氏による『日本の偽書』(河出文庫、2019年)冒頭の「人はなぜ偽書を信じるのか」という概説が参考になります。

 この『日本の偽書』では、三田村鳶魚が1941年に発表した「大成経学の伝統」論文に触れ、長野采女が『大成経』の作者だとする説を鳶魚はとんでもない「憶測」と評しているが、「案外真相に近いのではないかと思われる」と述べています。私もその意見に賛成です。博学で虚言癖があった采女が最有力候補でしょう。

 問題は、全部が采女の作か、近世の偽作文書などをそのまま利用している部分があるかですね。7月1日に上智大学で行われた『源氏物語』シンポジウムでは、私は『源氏物語』は仏教由来の語を利用して主要な登場人物の性格を書きわけており、そのやり方は最後まで一貫しているため、宇治十帖作者別人説は成り立たないと述べました。

 『大成経』の良いテキストが電子化されれば、仲間で開発したNGSMシステムを使って語彙・語法の分析をやり、巻ごとの特徴を明らかにしたいところです。仏教関連で言えば、禅宗の用語を用いている巻と天台教学の用語を用いている巻が重なるのかどうかとかですね。


飛鳥・斑鳩を歩いて聖徳太子時代の状況を考察:和田萃『古代天皇への旅』(2)「崇峻天皇」

2023年08月03日 | 論文・研究書紹介

 前回の続きです。和田氏の本では、「Ⅳ 飛鳥の都へ」は、

9 用明天皇
10  聖徳太子
11 崇峻天皇
12 推古天皇

となっていますが、活動順ということで、聖徳太子は最後に回し、今回は「10 崇峻天皇」を紹介します。

 『日本書紀』によれば、用明2年(587)7月の守屋合戦が終わると、炊屋姫(推古)と群臣が、8月2日に泊瀬部皇子を推挙したため、即日、即位したとあります。崇峻天皇は、蘇我馬子をこれまで通り大臣に任命し、同月に倉梯(桜井市倉橋)に宮を造営します。

 崇峻元年(588)3月には大伴連糠手の娘、小手子を立てて妃とし、蜂子皇子と錦代皇女を設けたとありますが、『日本書紀』では皇后や妃に立てられた時点でその子を記すため、既に誕生していた場合が大半であると注意します。

 さて、欽明天皇は蘇我稻目の娘の堅塩媛との間に用明天皇、炊屋姫をもうけ、宣化天皇の皇女の石姫の間に敏達天皇を設けており、敏達は異母兄妹である炊屋姫と結婚し、即位すると皇后とします。

 欽明天皇は稻目のもう一人の娘である小姉君も娶っており、穴穂部皇子と泊瀬部皇子をもうけますが、穴穂部皇子は用明天皇が没するとその後を継ごうとして、炊屋姫と馬子らに殺されます。泊瀬部皇子はその弟ですが、炊屋姫によって推挙されるのです。

 ただ、和田氏は、炊屋姫と群臣が推挙したとあるのみで大臣馬子の名が見えないのは、馬子があまり賛成していなかったことを示すものと見ます。また、泊瀬部皇子が即位した後、大伴氏の娘を妃としたことも対立の背景となったと見るのです。確かに、蘇我系の血を引く用明天皇も、その息子の厩戸皇子も蘇我氏の女性を妃としていましたから、そうでない泊瀬部皇子は警戒されたかもしれません。

 崇峻天皇については、すぐ暗殺されたため、マイナスのイメージが強いのですが、和田氏は、「従来にない積極的な政策が眼につく」とべます。

 まず、倉梯宮の所在地ですが、崇峻天皇の真の陵と推測される倉橋の赤坂天王山古墳は、寺川沿いにある現在の倉橋集落より遠く、むしろ忍坂集落に近接しており、このあたりは5世紀中頃まで大和王権の武器庫が置かれており、また忍坂に近い桜井市外山は大伴連の本拠地であったことに注意します。

 そして、倉梯とは、「高い梯(はしご)のある倉」を敷設した宮と見ます。『日本書紀』崇峻5年10月条に、崇峻が多数の兵仗を所有していたと記されており、それが暗殺される原因となったとするのです。

 崇峻天皇は崇峻5年(592)11月3日に、馬子の命を受けた渡来系氏族の東漢直駒に殺され、即日、倉梯岡陵に葬られます。『古事記』は、倉椅柴垣宮で4年間統治し、御陵は「倉椅岡上」にあるとしています。奇妙なことに、10世紀前半に編集された『延喜式』では、「陵地並びに陵戸なし」となっています。

 元禄10年(1697)に幕府が諸陵の修復をおこなった際、南都奉行は村々に御陵の有無を尋ねたところ、倉橋村では、御陵はないが陵と伝える地に観音堂があり、古来、天皇屋敷と呼んでいて、その東北の岩屋という場所に「塚穴(入り口のある古墳)」があって石棺があると応えています。これが赤坂天王山古墳です。

 これについては、和田氏の調査によれば、明治9年(1876)に大和国十市郡倉橋村字スズメ墓(雀塚)を崇峻天皇の倉橋岡上陵と定めたものの、決定することができず、明治22年に倉橋柴垣宮伝承地と観音堂をあわせて倉橋岡陵とし、雀塚を陵付属地雀塚と改称して現在に至っている由。近世になると、古代の陵の大半は不明になっていたのです。

 和田氏は古代史の研究者であるものの、早くから考古学に興味を持ち、各地の古墳を調査したものの、少し恐怖を覚えたのは天王山古墳だった由。東西45.5メートル、南北42.2メートルの方墳で、墳丘の高さは約9.1メートル。17メートルもの巨大な横穴式石窟となっており、土砂でかなり埋もれているため、暗闇の中を腹ばいになってもぐりこみ、ライターの明かりで石室内を鑑札したそうです。

 ただ、こっれだけの規模となると、築造に要した日数を考えれば、殺されたその日に埋葬されたという『日本書紀』の記事は疑わしいそうです。こうした点は、まさに現地調査を重ねてきた和田氏ならではの指摘ですね。なお、天王山古墳を崇峻天皇陵だと最初に断定したのは、森浩一氏だった由。