聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

大山誠一「序論 『日本書紀』の解明に向けて」「記紀の編纂と<聖徳太子>」(2)

2011年06月28日 | 大山誠一「聖徳太子虚構説」への批判
 序論における大山氏の諸論文紹介には、前稿で書いた点以外にも問題がいくつかあるのですが、そうした問題点は、大山氏が今回の本でもまた「私見に対する学問的反論は皆無である」(7頁)と力説していることと無関係ではないように思われます。

 前著の『天孫降臨の夢』(NHK出版、2009年)でも、「学問的な根拠をあげた反論は皆無であり、すでに<聖徳太子は実在しない>という理解は学界内外に定着したと言ってよいと思う」(4頁)とあり、「聖徳太子非実在論」に加え、「学問的反論非実在論」が説かれていました。本当にそうでしょうか。

 学界の動向をよく示すのは歴史講座ものや通史のシリーズなどでしょう。2000年刊行の講談社「日本の歴史」シリーズの第3巻、熊谷公男『大王から天皇へ』では、聖徳太子は『日本書紀』の最終編纂段階で不比等・長屋王・道慈が創造したとする大山氏の新説を紹介し、批判が述べられていましたが、この5~6年のうちに出たそうした書物の古代の章で、大山説について言及したものは無いように思われます。

 ごく最近の例をあげると、昨年11月刊行の岩波書店「天皇の歴史シリーズ」第1巻、大津透『神話から歴史へ』の推古朝の部分では、大山説にはまったく触れていません。また、岩波新書の古代史シリーズの第3巻として今年の4月に刊行された、吉川真司『飛鳥の都』の参考文献表では、大山誠一『古代国家と大化改新』(吉川弘文館、1988年)があげられている一方、大山氏の聖徳太子関連の本は一冊も載っていないのです。少し前に出た、吉川弘文館「戦争の日本史」シリーズの第1巻、森公章『東アジアの動乱と倭国』(2006年)でも、山川出版社「新体系日本史」シリーズの第1巻、『国家史』(2006年)でも、推古朝を扱っているにもかかわらず、参考文献にあげられている大山氏の著作は、『日本古代の外交と地方行政』(1999年)のみです。

 つまり、大山氏の古代史研究で評価されているのはその頃までなのであって、これが「聖徳太子非実在論」に対する現在の学界の評価と言って良いでしょう。学説の当否や意義と学界の評価は別ものであることは言うまでもありませんが、少なくとも、大山氏の断言とは違い、大山説が学界に定着して通説となっているという事実はありません。大山氏にとって学問的な反論が皆無に見える主な理由は、学界であまり問題にされないためであり、また直木孝次(*)・上田正昭(*)・佐伯有清(*)・山尾幸久(*)・田中嗣人(*)・森博達(*)・本間満(*)・森田悌・遠山美都男・平林章仁・曾根正人・石井公成その他の研究者によって大山説全体あるいは一部に対する批判がなされたにもかかわらず、大山氏がそうした批判を「学問的」とみなさないためです。

 大山説が発表されてしばらくの間は、上記の人々のうち*印の方々を含む賛否の論を集めた梅原・黒岩・上田他『聖徳太子の実像と幻像』(大和書房、2002年)が刊行されたり、テレビや新聞や週刊誌で取り上げられたりしましましたので、「発表して数年の間は学界内外で話題になったが、学界では次第に問題にされなくなっていった。最近では、かつて賛同していた人も、大山説に距離を置こうとする例が増えており、変わった話題が欲しいテレビ・新聞・週刊誌などがたまにとりあげる程度」というあたりが妥当なところではないでしょうか。

 推古朝に関する研究書や論文では、かつてのように「推古朝は摂政であった聖徳太子の時代」などとすることは無くなり、また「聖徳太子」という呼称は確かに減っています。しかし、古代史学界は、大山説が登場する前から厩戸皇子の事績とされるものを疑う方向に動いていたうえ、律令以前については「天皇」を「大王」、「日本」を「倭国」と書くなど、できるだけ古い表記を用いようとする傾向が強まっていました。

 だからこそ、死後になってから「聖徳太子」と称され、神格化が進んでいった人物を否定する大山説が登場した際は注目を集め、反対する研究者も多く出た一方、賛同する人、説の一部を評価して認める人、反対ながらその意気や良しとして今後の研究の進展に期待する人など、いろいろだったものの、論証の強引さが知られるようになるにつれて、次第に顧みられなくなっていった、というのが実情でしょう。

 そもそも、『日本書紀』の聖徳太子関連記述はすべて事実なのか、それとも聖徳太子は実在せず『日本書紀』がすべて創りだしたのか、という二者択一で考えること自体、おかしいのではないでしょうか。いや、そのように極度に理想化された人物が<聖徳太子>なのであって、そうでければ<聖徳太子>ではないと大山氏は見るようですが、7世紀後半に法隆寺が再建され、同時期に斑鳩で太子ゆかりと称される寺々の造営が盛んになるのは、太子敬慕の風潮の高まりを示すとする説などについては、どう考えるのでしょう。

 その段階では聖人としての理想化が十分でなく、<聖徳太子>とまでは呼べないなら、<やや聖徳太子>、<かなり聖徳太子>、<ほとんど聖徳太子>とか? そうした段階的な神格化の形成過程を跡づけていくのが歴史研究だと思うのですが、大山氏は、そのような段階的形成を考慮せず、不比等らの策謀による創作、中国の事情を知っている道慈がまとめあげた創作という点をひたすら強調し、『日本書紀』以後に行信と光明皇后によって<聖徳太子>神話化が完成されたとするのみなのです。実際には、行信や光明皇后関連の資料にも「聖徳太子」という語は見えず、「上宮聖徳法王」とか「聖徳尊霊」などとあるだけなのですが。

 大山氏は、大山説への批判は聖徳太子信仰という迷信にしがみつきたい人たちが感情的に反発しているだけだ、といった言い方をよくしており、今回の論文でも「理屈ではなく、ともかく反対だ。一○○○年を超える聖徳太子信仰の夢を覚まさないでくれということなのであろうか」(26頁)と述べています。

 しかし、大山説に反発する老齢の太子信奉者などは多いにせよ、実際に論文や著書中で大山説を批判している研究者たちについて言えば、聖徳太子を昔風に礼賛している人は少数です。多くの研究者は、程度の違いはあるにせよ、『日本書紀』その他の文献が厩戸皇子を理想化して描いていることを認め、また『日本書紀』以前から太子信仰とおぼしき風潮が見られることに注目したうえで、大山説における「史料の恣意的な用い方」「論証の不備」「美術史等の成果を無視した常識外れの断定」などの点を問題にしているのです。

 実際、今回の大山氏の序論では、「その当時の日本は、まだ未開であった。……『日本書紀』の中で聖徳太子が登場したのはこのような時代であった」(6頁)とありますが、一般読者向けの本でありながら、『日本書紀』には「聖徳太子」という呼称が登場しないことがまたしても説明されておらず、『日本書紀』という基本史料を無視した主張になっています。

 というより、大山氏は、『日本書紀』には「聖徳太子」という呼称が見えないことを、著書や論文の中で明記したことがこれまで全く無いのです。今回の論文では、8頁になると「 <聖徳太子>像成立」 という言葉が登場するため、読者は、『日本書紀』が創作した理想的な人物のことを大山氏は <聖徳太子> と表記するのだな、と理解できますが、それでも、そうした表記だけでは、『日本書紀』や750年頃までの史料には「聖徳太子」という呼称が見られないことを読者は知ることはできないままです。

 なぜ説明しないのでしょう? 「聖徳太子」という呼称そのものは8世紀半ばの『懐風藻』序が初見であるものの、『日本書紀』には厩戸皇子を神格化した記事が多く、「聖徳」の語と「太子」の語も見えているため、聖人としての<聖徳太子>は実質的には『日本書紀』において誕生したと見ることができる、と書けばよいだけのことではないでしょうか?

 また大山氏は、今回の論文では、「『書紀』によれば用明、推古、その夫の敏達、さらには厩戸王(聖徳太子)やその弟の来目王など、みな西の方、山を越えた河内に運ばれて葬られている」(32頁)と書いています。しかし、これまで私が何度も指摘してきたように、「厩戸王」という呼称は、小倉豊文が戦後になって本名として推定したものの論証できずに終わったものを、田村圓澄『聖徳太子』(1964年)が検証抜きで用いて世間に広まったものです。つまり、どの文献にも見えない呼び名なのですが、大山氏は今回の論文でもそのことを説明しておらず、『日本書紀』が「厩戸王」と記していて、それが本名であるように受け取れる書き方を続けています。

 なぜ説明しないのでしょう? この本(論文)では、後世の尊称である「聖徳太子」や「皇」の字が疑われる「厩戸皇子」といった呼び方を用いず、信仰の対象としての「聖徳太子」と史実としての「聖徳太子」を区別しようとした小倉豊文に従い、文献には見えないものの、小倉が本名と推定した「厩戸王」という名によって呼ぶことにする、と書けばよいだけの話です。どうしてそうしないのか。

 大山氏は、1996年3月に刊行された最初の関連論文「『聖徳太子』研究の再検討(上)」(『弘前大学国史研究』100号)が刊行された際、抜刷を先輩や知人に送ったところを、その聖徳太子論を大変喜ばれた京都の上山春平先生が大山氏の研究室に電話をかけてこられ、「これからは厩戸王を肯定するものを書かなければいけないね」と言われたと、思い出を記しています(大山「聖徳太子關係史料の再検討(一)」、『聖徳太子の実像と幻像』352頁)。

 実に的確な助言と感心させられますが、大山氏はそれから15年たった今日に至るまで、その助言に応えていません。「厩戸王」が実際に本名なのかどうか、文献や発掘資料などを用いて検討することを怠ってきたか、検討しておりながらその成果を発表せずにきたか、のいずれかです。

 このように資料を尊重せず、助言や批判に耳をかたむけない大山氏が書くのですから当然ですが、本書の論文「記紀の編纂と<聖徳太子>」では、『古事記』の背後には長屋王がおり、「安万侶は長屋王のブレーンとして、その意向を代弁していたとすることも可能なのではなかろうか」(66頁)などと、例によって大山氏にとって状況証拠と思われたものだけに基づく想像が述べられています。

 これは、712年に献上された『古事記』末尾には、「上宮之厩戸豊聡耳命」という「相当の『神格化』がほどこされている」敬称が見えており、『日本書紀』が説く聖徳太子説話が既にかなり準備されているとする、鎌田東二「聖徳太子の現像とその信仰」(梅原・黒岩・上田他『聖徳太子の実像と幻像』79頁)などの指摘に応えるためでしょう。鎌田論文は、大山説の問題提起の意義を認めたうえでの指摘であり、建設的な提言でしたが、これまで大山氏はこれに応えずにきました。

 それがようやく考慮されるようになり、大山氏は、『古事記』のその記述は、実は不比等・長屋王・道慈という<聖徳太子>創作トリオのうちの一人である長屋王が書かせたのだろう、と説くようになったのです。これは、今回初めて登場した説明です。ただし、鎌田論文を考慮したなどとは書かれていません。

 1996年の最初の大山論文では、『古事記』のこの「上宮之厩戸豊聡耳命」という部分については、「まだ『聖徳』でも『太子』でもないのである」(16頁下)と述べるのみで神格化は不十分とし、一方、「『書紀』の描く聖徳太子像」(5頁下)といった言い方を何度もしていました。聖人としての聖徳太子が誕生したのは、あくまでも『日本書紀』においてのことなのだと強調していたのです。

 ただ、大山氏は、その時点では、『日本書紀』には「聖徳太子」という語そのものは登場しないこと、また行信や光明皇后関連文献にも「聖徳太子」の語は見えないことに気づかないまま、あるいは、つい忘れたまま書いているように見えます。大山氏は、そのような状態で、1996年の最初の論文を書き、ついで、その論文を収録した研究書、『長屋王家木簡と金石文』(1998年)を出版した後、次々と著書を出していっており、その中には『<聖徳太子>の誕生』(1999年)や『聖徳太子と日本人』(2001年)などのような一般向けの本も含まれていました。

 その結果、大山氏は、聖徳太子研究者、それも存在したのは「厩戸王」であって<聖徳太子>は実在せず、<聖徳太子>は『日本書紀』によって創作された架空人物にすぎないとする衝撃的な説の提唱者として有名になってしまったため、『日本書紀』に「聖徳太子」という語は見えず、また「厩戸王」という呼称には文献の裏付けがないことなどについては、誰に何と言われようと、触れないようにしてきたのではないか、というのが私の考えです。

 ただ、これはあくまでも推定にすぎません。私は、この問題を調べて『大山説の謎と聖徳太子』といった本を書く予定はありませんので、推測が間違っているなら、訂正してくださるよう大山氏にお願いしたいところです。

 なお、「厩戸王」という呼称の成立背景を明らかにしたのは、小倉豊文を高く評価していろいろ調べていた私がおそらく最初だと思います(詳細は、来年5月刊行の『近代仏教』19号掲載予定)。田村圓澄先生の本や大山説に追従し、検証しないまま「厩戸王」の語を用いるようになった史学者たちは反省してもらいたいですね。

【付記:2011年6月29日】
大山説の批判者や大山説に触れない書物などについて、少し追加しました。
この記事についてブログを書く
« 大山誠一「序論 『日本書紀』... | トップ | 大山誠一「序論 『日本書紀』... »

大山誠一「聖徳太子虚構説」への批判」カテゴリの最新記事