聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

疑われていた『日本書紀』の外交記事を見直す: 徐甫京「百済を媒介とする高句麗と倭との交渉」

2011年11月26日 | 論文・研究書紹介
 前回は仏教外交を扱った河上さんの本でしたので、今回はそれに続き、推古朝当時の外交関係について考える際に参考となる論文を紹介しておきます。

徐甫京「百済を媒介とする高句麗と倭との交渉」
(『東京大学史料編纂所研究紀要』第18号、2008年3月)

です。

 高句麗と倭国の公的な交渉は、『日本書紀』の欽明天皇31年(570)から敏達天皇3年(574)にわたる時期に見える高句麗使の訪問を最初とする説が有力です。継体天皇10年(516)九月条の百済を媒介とする高句麗と倭国の「結好」の記事は事実とは見ない研究者が少なくありません。これは、当時は百済と高句麗とは対立しており、倭国は百済を支援していたとする見解によるものです。

 ところが、古代朝鮮三国をめぐる諸研究を踏まえたうえで、徐氏は、6世紀初めには百済は北方だけでなく南方にも積極的に進出し、新羅との同盟関係が崩れた結果、日本との関係を深めようとして王族外交を行ったと見ます。『日本書紀』が、百済は長年、朝貢してこなかったが、武烈天皇6年(504)になって麻那君を派遣して「調を進」め、翌年にも斯我君を派遣して「調を進」めてきた、と記しているのは、日本を中華として百済を朝貢国とみなす『日本書紀』の筆法によるものではあるものの、長い空白を経て百済がこの時期に積極的に倭国に接近したこと自体は事実と考えるのです。

 百済は、5世紀末から6世紀初めにかけては、は高句麗としきりに戦っていましたが、武寧王12年(512)の戦闘の後、聖王元年(523)までは交戦記事が記録に全く見えません。一方、『三国史記』や『梁書』は、まさにこの時期に百済と高句麗が「通好」したと伝えているのです。また、『梁書』によれば、百済は武寧王21年(521)には新羅と梁との交渉を仲介したと記されています。
 
 こうしたことから見て、まさにこの時期にあたる継体天皇10年9月に、

 百済、灼莫古将軍・日本の斯那奴阿比多を遣し、高麗の使、安定等に副へて、来朝して好みを結ぶ。

とあって、百済使が高句麗使を同行して倭国との外交交渉を行ったとする『日本書紀』の記事は事実を伝えたもの、と徐氏は推測するのです。「百済が自国を中心とした外交網の形成を目指していたことがわかる」というのが徐氏の判断です。そして、以後、高句麗と倭国の交渉記事が見えなくなるのは、一時期だけ友好関係にあった百済を通じて倭国との交渉をおこなった高句麗が再び百済と敵対するようになったため、と推測します。

 確かに、国と国の関係にあっては、修好関係にあったものが、領土に関するちょっとした事件でたちまち激しく敵対して戦い合う、といった状況、また逆に長らく戦っておりながら、和平協定が結ばれると一気に修好関係が進んで文化・文物が流れこんでくるといった状況は、今日でもよく見られるものです。

 なお、継体10年9月条には、倭国の斯那奴阿比多(しなのあひた)という人物が見えていますが、欽明紀には、百済使人として斯那奴次酒・科野(しなの)次酒の名が見えており、欽明11年の『百済本記』には日本の使人として阿比多の名が見えているため、徐氏は、外交にあたっては同一人物や同一家系出身者の名がしばしば登場するのは、そうした人物や特定の家系が外交能力を認められて継続的に派遣されていたことを示す、と説いています。

 このような徐氏の議論を踏まえたうえで、推古朝の外交記事を見直すとどうなるか。推古朝の記事には、仏教を公伝した百済だけでなく、高句麗も新羅も倭国の仏教興隆を援助したり、仏像を送ってきたりするなど、仏教外交という形をとった朝鮮三国と倭国の交渉が伝えられており、また、蘇我氏が外交面で大きな役割を果たしていたことが記されています。この時期も、継体10年頃の状況に多少似ていた面があるということになるのでしょうが、いずれにせよ、倭国の外交は、朝鮮諸国の転変する複雑な情勢とまさに結びついていたことが痛感されます。

 そして問題は、厩戸皇子に関する対外関連の記述は、どこまでが事実で、どこまでが『日本書紀』編者の潤色だったか、という点です。私は、『日本書紀』における理想的な廐戸皇子像は『日本書紀』の最終編集段階での創作などとは考えておらず、厩戸皇子は生前から尊崇されており、『日本書紀』に至るまでに複数の系統で3段階程度の神格化の過程を経ていると見ていますので、潤色についてもどの段階でどう変えられたかを考えていくことになるでしょうか。

倭と隋の交渉は仏教的外交の一例: 河上麻由子『古代アジア世界の対外交渉と仏教』

2011年11月18日 | 論文・研究書紹介
 仏教系の変格漢文に関する講義と某記念大会での発表を終え、儒教の名門出身である旧友の権坦俊さんに案内されて安東などの地方を回り、観光地図にも文化財として載っている権さんの実家や親戚の家で1660年建設だという書院の一室などに泊めてもらいながら、印象深い古寺や儒教の旧蹟を参観して来ました。

 今回の韓国行のうち、このブログに関係があるのは、ソウルの国立中央博物館で見た「韓国古代文字展」でしょうか。韓国語学の鄭在永さんや韓国史学の崔植さんと一緒に見学したのですが、変格漢文が見える有名な石碑や史料の本物や複製が多数展示されており、鄭さんが提供したという角筆も並んでいました。『日本書紀』や三経義疏の変格漢文を解明するには、こうした古代韓国の文字史料を扱っている研究者たちとの共同研究が必要であって、実際にそうしたプロジェクトも動き出す予定です。

 さて、訪韓前には刊行されたばかりの新著、森博達『日本書紀 成立の真実』を紹介したため、新刊つながりということで、今回は、以前このブログで「仏教色が濃い上表文」に関する論文を紹介した河上さんの新著、

河上麻由子『古代アジア世界の対外交渉と仏教』
(山川出版社、2011年10月、5000円)

です。その論文を含め、学会誌に発表されて高く評価された諸論文を補訂して収録した本書の構成は、以下の通り。

 序論
 第一部 遣隋使と仏教
  第一章「南北朝~隋代における仏教と対中国交渉」
  第二章「中国南朝の対外関係において仏教が果たした役割について
       …南海諸国の上表文の検討を中心に…」
  第三章「隋代仏教の系譜…菩薩戒を中心として…」
  第四章「遣隋使と仏教」
 第二部 唐の皇帝と天皇と受菩薩戒
  第一章「唐の皇帝の受菩薩戒……第一期を中心に」
  第二章「唐の皇帝の受菩薩戒……第二期を中心に」
  第三章「唐の皇帝の受菩薩戒……第三期を中心に」
  第四章「唐代における仏教と対中交渉」
  第五章「聖武・孝謙・称徳朝における仏教の政治的意義」
 結論
 索引

 百済から日本への仏教公伝については、百済・新羅・高句麗が敵対する厳しい状況の中で対外交渉の一環として行われたとする見方が一般的ですが、河上さんは、そうした状況は東アジアだけのことでなく、インド・セイロン・東南アジア・中国の北部と西部の諸国など、中国と対外関係があったかなりの国が仏教色の濃い外交をおこなっていたことに着目します。その最初の例は、南海諸国が南朝の宋の皇帝に呈上した上表文です。本書は、先行研究を踏まえながら、当時の交渉の実態についてより具体的に検討しています。

 「海西の菩薩天子」あての国書と留学僧たちを隋に送った倭国について考えるには、もちろん、南北朝期から隋代にかけて諸国が中国相手におこなっていた、こうした仏教的外交を考慮する必要があります。本書ではそうした外交には、(1)皇帝や中国を仏教風に賞賛するもの、(2)仏教の文物を献上品とするもの、(3)仏教的文物を下賜してくれるよう要求するなどして中国仏教導入の姿勢を示すもの、など様々なタイプがあったこと、遣隋使は従来考えられてきたより「仏教色が濃い」ことなどを明らかにしています。実際、新羅・高句麗・百済も隋との交渉において「仏教色を強調していた」ことが指摘されています。

 なお、菩薩戒を受ければ、中国皇帝は以後は菩薩として衆生救済に励むことになるため、皇帝としての治国の仕事と菩薩の活動とが重なってきます。つまり、皇帝の権力が仏教によっても保証され、補強されることになるのです。梁の武帝などは、自ら授戒法を撰述し、周辺の人々にそれによって受戒するよう勧めていたほどです。

 武帝以後、北朝でも隋でも菩薩戒を受ける皇帝が増えており、隋の文帝も煬帝も菩薩戒を受けていますが、そうした情報は百済経由で倭国にも伝わっていたはずです。河上さんは、そのような皇帝が戦争をすることと菩薩戒を保つこととをどう正当化したかについても触れています。

 本書によって、倭国の対隋外交の背景がかなり明らかになりました。聖徳太子研究者だけでなく、日本史、東洋史、仏教史その他、この前後の時期の外交交渉と関わる関連分野の研究者にとって必読の労作です。

 こうなると、倭国の王や上層部はどのような系統の菩薩戒を受けていたのかが気になってきますね。梁の武帝が制定した授戒法は、勅命で書写させた梁代の写本が敦煌出土の写本中に残っており、昨年の大学院の授業でその一部を読みましたが、雑な読み方だったので、もう少しきちんと読み直してみましょう。

 河上さんのこの本によれば、隋には、仏教におぼれて反乱の中で滅びた梁を「亡国」と位置づけてその習俗に従わない面と、南朝の貴族文化を発展させたその文化を高く評価する面が、ともにあった由。
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『日本書紀』成立研究の次の局面: 森博達『日本書紀 成立の真実--書き換えの主導者は誰か--』

2011年11月09日 | 論文・研究書紹介
 井上亘さんの森博達説批判の「補論」が出た頃は、森さんは韓国での諸講演や帰国後の仕事に追われ、私もばたばたしていたため、「補論」への反論を公開できないまま論争が途中で止まっていましたが、そうしているうちに、森さんの多忙の原因の一つであった新著が刊行されました。

森博達『日本書紀 成立の真実--書き換えの主導者は誰か--』
(中央公論新社、2011年11月、2200円)

です。正式な発売は10日ですが、既に送って頂いたうえ(有り難うございます)、発売日には韓国に向けて出発しますので、その前に簡単に紹介させて頂きます。順序がずれてしまいますが、「補論」をめぐる議論はまたその後で再開します。

 本書は、前作『日本書紀の謎を解く--述作者は誰か--』(中公新書、1998年)を書くうちに、「次は韓国だ」と考え、校正が終わる前に船で中国山東半島から韓国の仁川に渡り、韓半島を横断して釜山から船で博多まで帰るという旅をし、2001年には1年間の海外研修の機会を得て韓国で韓国語学習に励み、以後、韓国古代の漢字文化の研究に力を入れ、韓国の語学や歴史の研究者たちと交流を重ねてきた森さんが、新たな知見と発見を盛り込んで書かれたものです。

 第一章「日本書紀の研究方法と今後の課題」は、前著のまとめが中心。大山誠一説への厳しい批判も収録されています。

 第二章「日本書紀劄記」は、(1)編修論「聖徳太子伝説と用明・崇峻紀の成立過程」、(2)研究論「懐徳堂・五井蘭洲の『刪正日本書紀』に驚嘆する」、(3)文章論「文章より観た『日本書紀』成立区分論」、(4)音韻論「日本書紀の万葉仮名と上代語のアクセント」、の四節にわたって、前著以後の発見について紹介し、また前著の補正をおこなったものです。

 第三章「日本書紀と古代韓国漢字文化」は、韓国の学会で発表したもの。倭習が強いβ群の漢文は、朝鮮俗漢文の影響が強いことが強調されています。前にも書いたように、この10年間、古代韓国の音韻や語法について精力的に研究したにもかかわらず、α群は中国人が執筆したという主張が変わっていないという点が重要です。古代日本においては文字を書く仕事は韓国からの渡来系氏族が主に担当してきたのですから、常識から言えば、『日本書紀』もそうした氏族出身の人物で、入唐経験がある者やそうした人に習った者などが書いたりチェックしたりした、ということになりますので。

 第四章「書紀研究の新展開」と第五章「書記成立論」は書き下ろしであって、第四章は文章論・天文学・体例論・出典論などの分野で書かれた様々な研究者の論考を紹介しています。『日本書紀』区分論については、多くの研究者がα群・β群説の主張に基づき、新たな検討や発見をするようになったこと、あるいは独自の研究をした結果がα群・β群説と一致していることが注目されます。α群・β群説を全面否定するような研究は出ていません。この章でも、大山誠一氏の聖徳太子虚構説が語法の面から見て批判されており、井上さんの森説批判への反論も掲載されています。

 第五章は、書紀の文章の分析結果から見て、編纂の主導者を特定したものです。

 中国人が正音・正格漢文で書いたα群に属する皇極紀に誤用が続出する理由について、前著では「宿題」としていましたが、第二章の「文章論」補注では、誤用は「乙巳の変」と「山背大兄王滅亡事件」に集中していることを明らかにしています。そして、この第二章の「文章論」の末尾では、区分論には「例外がつきものである」とし、「しかし例外こそは、さらに深層に眠る事実を発掘するための鑰[かぎ]である」と断言しています。

 こうした姿勢は、森さんの師匠である水谷真成先の力作論文「唐代における中国語語頭鼻音のDenasalization進行過程」が、『大唐西域記』が同じ梵語と思われるものについて複数の漢字転写を用いているのは、実は方言の違いを表していると思われるものが多いとし、「従来、例外として除外されてきたこの類のものも、かかる点に注意をむけて取り扱うならば、一層多くの収穫が得られることとなるであろうと思うのである」と論じているのを受け継いだものなのでしょう。

 α群である皇極紀の「乙巳の変」と「山背大兄王滅亡事件」に誤用が集中していることについては、第五章第二節「「皇極紀」への加筆」で詳論されていますが、結論は、編纂の最終段階での加筆です。それも部分的な加筆ではなく、「乙巳の変」を印象深く描くことによって「大化の改新」の偉業を強調し、その「乙巳の変」を印象深く描くため、蘇我氏の非道を象徴する事件として、聖人君子のような山背大兄王とその一家を殲滅を描いたと見るのです。

 その結果、脚光を浴びるのは、その蘇我氏を滅ぼした中大兄皇子と中臣鎌足です。そして、『日本書紀』完成時の権力者は、中大兄皇子(天智天皇)の娘である元明太上天皇と、中臣鎌足の息子である藤原不比等であって、彼らはいずれも孫の首皇子(聖武天皇)の即位を目指す点で一致していました。また、『日本書紀』は、全体の調整が不十分なまま、それも天智紀などは未定稿に近い形で献上されますが、それは病を得ていた不比等が没する直前のことでした。そうであれば、大幅な書き換え・加筆の主導者、また、大急ぎで完成させた人物は、不比等ということになります。
 
 武力で皇位について権勢を誇り、律令と国史の編纂を命じた天武天皇でしたが、文武天皇の頃から天智天皇重視の傾向が見られるようになり、『日本書紀』にはそれが反映していることがこの書では強調されています。これは歴史学の方で指摘されていることですが、α群中の誤用から判定した後代の加筆によってもそのことが補強された、という点は重要です。これからは、文献の内容の分析、語彙・語法の分析、考古学的研究など、複数の分野の研究成果が一致すること、また諸分野の研究者の情報交流や共同研究がこれまで以上に重要になって来ることでしょう。

 おおよその内容は以上です。残る問題は、誤用のさらに細かい分析・分類でしょうか。第一章では、「各巻の文章について、原史料の反映・撰者の述作・後人の加筆を丹念に腑分けする」必要、また「奇用や筆癖についても詳細な検討」の必要があるとされ、実際になされていますが、いろいろな加筆は、すべて最終段階のものなのか、一部はその少し前になされていたのか。また、加筆や書き換えにあたっては、誰がどの部分を担当したのか、といった検討ですね。

 内外の(木版)印刷の職人の研究においては、分野によっては、「この版本のこの巻とこの巻、あと末尾の奥書部分は、某字の右下のはね方から見て、誰々が彫った」など、かなり細かいところまでわかるようになっています。『日本書紀』の場合、α群とβ群の分類のように、どこどこの加筆は間違いなくミスターA、どこの加筆はミスターBがおこなった可能性が強い、などというように語法の癖から限定できれば、成立問題もこれまで以上に解明が進むでしょう。

 紹介すべきことは、まだまだ多いですが、韓国行きの前に簡単に触れさせてもらいました(韓国はネット先進国ですが、地方でホテル以外の宿舎に泊まる予定があり、接続できない日もありそうですので)。この意欲作の公刊を機に、また、井上さんの森説批判をめぐる論争をきっかけとして、『日本書紀』研究がさらに進むことを期待しています。
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「太子」という呼称をめぐる問題: 本間満「景行記の三太子伝承について」

2011年11月01日 | 論文・研究書紹介
 このところ、「上宮厩戸豊聡耳太子」という尊称のうちの個々の語について、とびとびに見てきましたが、今回は「太子」検討の続編です。

 とりあげるのは、<聖徳太子>は理想的な天子像を示すために『日本書紀』の最終編纂段階で創作されたとする大山誠一説の登場とほぼ同時期に、「理想的な天子像」ではなく、「古代の理想的な皇太子像として書記編者が造作したもの」(「古代皇太子制度の一研究--厩戸皇子との関連で--」、『唱和薬科大学紀要 人文・社会・自然』32号、1998年)と論じていた本間満氏の最新論文、

本間満「景行記の三太子伝承について--ヤマトタケルの命を中心に--」
(『昭和薬科大学紀要』45号、2011年2月)

です。本間氏は、『アリーナ 2008』(2008年3月)の聖徳太子特集では「聖徳太子研究へのアプローチ」を寄稿し、「基本的な史料批判が重要」と論じ、大兄制がおこなわれていた推古朝時代に聖徳太子の立太子や皇太子執政はありえないとしていました。

 その本間氏が今回の論考で扱っているのは、大山説では聖徳太子とともに「聖天子像を担う存在として創造された」とされるヤマトタケルを中心とした『古事記』景行天皇記事に見える太子たちです。

 氏は、まず、『続日本紀』大宝2年(702)8月癸卯条に「倭建命の墓に震る[落雷があった]。使を遣りて之を祭る」とあることに注目します。『日本書紀』編纂以前に、既に「やまとたけるのみこと」の墓が作られ、天皇陵扱いされていたのです。『延喜式』でも、鈴鹿郡の「日本武尊」の陵墓は「東西二町南北二町、守戸三戸」と記されています。

 『古事記』景行記は実際にはほとんど倭建命の伝承であって、歌謡が中心になっており、東征を命じられると父は自分を死なせたいのかと歎くなど率直な心情が描かれているのに対し、『日本書紀』景行紀では日本武尊と記され、意気地ない兄に代わって進んで東征を申し出て天皇に賞賛されており、以後も天皇に忠実であったことが強調されています。

 『日本書紀』では作為が強まっているようで、本間氏が着目するのは、日本武尊がクマソタケルを殺すのは「年十六」の時、そして太子である厩戸が守屋征伐で活躍するのが「年十五六」の時、そして、『日本書紀』編纂時の為政者につながる中大兄(天智天皇)が父舒明天皇の殯において皇太子として「年十六にして誄す」とあるようにしのび言を奏上していることです。本間氏は、皇太子伝承と「十六歳」という点が関わるらしいと見ています。

 一方、景行記では、若帯日子命と倭建命と五百木之入日子命「三王」は、いずれも「太子の名を負う」と記されていますが、この部分は『日本書紀』にはありません。このため、「太子」とは「皇太子」の略なのか、天皇の候補者の一人ということなのか、単に長子を指すのか、宣長以来、研究者の間で諸説が出されて来ました。
 
 この場合、「太子」をヒツギノミコと訓読することが問題となりますが、本間氏は、「太子=ヒツギノミコ」説を批判し、ヒツギノミコという訓読が生まれたのは『日本書紀』講読時であってこの訓が有力になったのは平安末期だと見る川田康幸氏の説を評価します。

 そして、『古事記』における系譜の特徴やヤマトタケルノの命の活躍と父の景行天皇の影の薄さを考えると、本来は一つの人格であったものを二つに分け、一人は天皇とし、一人は太子としての皇族将軍として記述したのではないかと推測するのですが、この辺はやや論証不足のように見えます。

 本間氏は、この他、様々な「太子」について検討した後、仲哀天皇の父とされる小碓命(倭建命)、顕宗・仁賢天皇の父とされる市辺押磐皇子、舒明・皇極(斉明)・孝徳・天智・天武へとつながる押坂彦人大兄皇子、『日本書紀』では「皇子尊(みこのみこと)」と尊称される草壁皇子などは、いずれも天皇の子でありながら即位できなかったが、その後に即位した子孫によって天皇号や皇祖という称号が贈られたのであって、これらの皇子に関する「太子、皇太子、立太子」記事は後世の作為と見ます。

 そして、同様に「皇子尊(命)」と称されている厩戸皇子と高市皇子の場合も、「追称的・尊称的な意味が付加されていたと考えられる」(40頁)とするのですが、この二人を同じ扱いにして良いものかどうか。天武天皇の長子であって太政大臣となった高市皇子の場合は、天皇にはなっていないものの、資格は十分あったうえ、自分も息子の長屋王も天皇・皇太子に次ぐ最高位に達していて勢力をほこっていたわけですが、厩戸皇子の場合は、子孫はそうなっていません。

 本間氏は、「ヤマトタケルの命は天皇と天皇をつなぐ存在」であり、「皇位はこの英雄の子でなくてはならなかった」(42頁)とするものの、厩戸皇子の状況は違います。ということで、この本間論文により「太子」の性格は前より明らかになって来ましたが、上宮厩戸豊聡耳太子の「太子」については、相変わらず謎が残ることとなりました。