聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

蘇我馬子が入手した弥勒石像は固くて光沢のある蝋石製か:山﨑雅稔「敏達紀の「弥勒石像」と朝鮮三国の弥勒信仰」

2024年05月29日 | 論文・研究書紹介

 前回、須弥山石を取り上げましたので、それに続いて石像に関する論文を紹介しましょう。

山﨑雅稔「敏達紀の「弥勒石像」と朝鮮三国の弥勒信仰」
(『国学院雑誌』第121巻第11号、2020年)

です。

 中宮寺や広隆寺の半跏思惟像は最初期の仏像として有名であり、弥勒像と見るのが一般的です。しかし、山﨑氏は、インドや中国では弥勒像を半跏思惟の形で示した明確な例がなく、美術史では擬議が提示されていると述べます。

 そして、奈良時代には弥勒信仰に関する記述がある史資料が少なからずあるのに、その奈良時代の初期の養老4年(720)に完成した『日本書紀』は弥勒にほとんど触れておらず、例外は、敏達天皇13年(584)に見える記事であって、百済からもたらされた「弥勒石像」を蘇我馬子が所有したいうものです。そこで、山﨑氏はこの点について検討します。

 氏はまず弥勒菩薩の説明から始めます。弥勒は釈迦とともに修行したとされ、現在は兜率天にいて、現在仏である釈迦の次に仏となることになっている菩薩であって、未来の仏とされており、釈迦の入滅から56億7千万年後に人間世界に下生し、龍華樹の下で3度説法し(龍華三会と呼びます)、釈尊の救済から漏れた人々を救うとされています。ですから、弥勒の像は、菩薩の姿か悟った後の仏の姿で示されます。

 こうした弥勒に対する信仰は二種類であって、一つは未来世において弥勒が下生した際、その龍華三会に値遇したいと願うもの、もう一つは、現世で死んだら弥勒のいる兜率天に昇り、弥勒が下生する際にともに下生して三会に値遇したいと願うものです。前者が下生信仰、後者が上生信仰であって、インドでまず下生信仰が生まれ、後に上昇信仰が成立したものの、東の端の日本にはこの二つが一緒に伝えられたようで、むしろ上生信仰が盛んであったとされています。

 さて、問題の『日本書紀』敏達天皇13年(583)9月条では、百済から鹿深臣が弥勒石像一躯をもたらし、佐伯連が仏像一躯をもたらし、続く是歳条では、馬子がそれを請い受け、鞍部村主司馬達等・池辺直氷田に命じて行者を探させ、播磨で還俗した高(句)麗の恵便を見つけて師とし、司馬達等の娘の嶋を尼とし……、仏殿を宅の東に造って弥勒石像を安置して、というお馴染みの記述となっており、「仏法の初め」と記されています。

 そして、敏達天皇14年(584)には、馬子が病み、理由を占わせると父の稻目の時に祭った「仏神之心」が祟ったのが原因だと言われ、天皇に言上したところ、父の神を祭れと命じられたため、勅に従って「石像を礼拝い、寿命を延ばすことを乞う」たとあります。『元興寺縁起』では、甲賀臣が百済から「石の弥勒菩薩像」をもたらしたとあり、菩薩の姿であったとする点に山﨑氏は注意しています。「甲賀」は「鹿深」です。

 問題は、馬子が弥勒菩薩像に延命を祈って礼拝したことです。これはいろいろ議論のある野中寺の金銅造半跏思惟像の台座の銘文に、中宮天皇が病気になった時に知識たちが誓願して造った弥勒の象だとあることです。馬子の場合と同様、延命が主であって、上生・下生には触れられていません。

 平安中期の史料によれば、馬子が祭った石像は本元興寺(飛鳥寺)→新元興寺→多武峯平等院に移ったとされ、後代の史料、たとえば15世紀半ばの『南都七大巡礼記』によれば、この石像は一尺ほどで日本最初の仏像とされ、百済から渡ってきた「馬瑙之弥勒像」とされ、『上宮太子拾遺記』では坐像であって「色白く、極めて固く、面貌奇麗」とされています。

 山﨑氏は、こうした記述は、韓国の扶余や公州で発見された滑石(蝋石)の仏像に似ているとします。美術史の大西修也氏の研究によれば、百済では蝋石製の仏像は6世紀中頃から末頃にかけて流行したそうですので、馬子の仏像はそれと合うことになります。

 須弥山石のような粗い石質の大きな仏像なら、百済から持ち帰るのは困難ですし、あまり有り難くなさそうですが、「蝋石 像」とか「白玉 仏像」などで画像検索してみれば分かるように、そうした貴重な材質の小ぶりな仏像なら拝む気になるでしょう。

 さて、百済があった地では、金銅・銅像・石像・摩崖像などの形で半跏思惟像が見つかっており、弥勒信仰との関わりが推定されていますが、中国の龍門石窟などでは釈迦の前身である悉達太子が半跏思惟形で表されている例があるため、弥勒とは限らない可能性があるとします。

 山﨑氏は、百済・高句麗・新羅における弥勒信仰について検討し、朝鮮三国には弥勒を半跏思惟の形で表す例が造像記から見えると指摘します。そして、弥勒像は、現世の発願者自身や結縁もののために制作される場合は、三会値遇を願うためであり、死者の供養を目的として造られる場合は死者が弥勒の浄土に往生することを願うものでした。

 また、弥勒と阿弥陀を合わせて信仰した例も複数あることに山﨑氏は注意します。ただ、辛卯年銘金銅三尊像銘では、死者のために無量寿仏(阿弥陀仏)を造り、その功徳によって残された者たちが将来、弥勒に値遇できることを願っている点から見て、浄土の区別はなされていたと見ます。

 以上のことから、山﨑氏は、馬子が入手した百済の弥勒石像は、半跏思惟像であったと推定します。そして、鹿深臣の弥勒像とは別に佐伯連の仏像が記されていることから見て、馬子は弥勒菩薩単独ではなく、阿弥陀仏ないし別な仏像と弥勒菩薩をあわせて所有し、信仰したことに『日本書紀』は意味を持たせようとしたと考えられるとします。

 ただ、高句麗や新羅などの例では、馬子や野中寺像銘のように、弥勒に祈ることによってこの世での長寿を得ようとすることは見られないとし、馬子の弥勒信仰については、インド・中国・韓国における展開、俗信との習合など、様々な面から考えなければならないと述べてしめくくっています。

 このように、『日本書紀』のちょっとした記述も、幅広い視点から検討すればいろいろなことを語ってくれることが分かりますね。また、馬子関連の仏教に関する記述は、百済などの状況を正確に反映している面と、そうでない面があることがわかります。


夷狄に服属儀礼をさせる施設でなく、文化威力を見せつける噴水か:外村中「飛鳥の須彌山石」

2024年05月24日 | 論文・研究書紹介

 以前、「スメラミコト」は推古朝において仏教との関連の中で用いられるようになった「天皇」の語の訓であって、世界の中心とされた須弥山(スメール)に基づくとする森田悌氏の説を紹介しました(こちら)。

 律令制では皇后は「こうごう」、皇太子は「こうたいし」」であって、遣唐使によって確立した当時の漢音で発音しているのに対し、「天皇」は「テンノウ」であって、「四天王(してんのう)」と同様、朝鮮経由で入ってきて仏教界で用いられた古い呉音で発音されているのは、成立が古く、仏教との関係の深さを示すという森田氏主張に私はは賛成なのですが、「スメラ」は果たして「須弥」に基づくのかどうか。

 その森田氏が、推古朝や斉明朝に建造されていたことに注目した須弥山石に関する論文が出ていますので、紹介しておきます。

外村中「飛鳥の須彌山石」
(『日本庭園学会誌』21号、2009年)

です。掲載誌を見れば分かるように、外村氏は庭園史の研究者なのですが、インドや中国の原文を読みこなす語学力があって博学であるため、関連するインド仏教の問題についても、きわめて専門的ですぐれた論文をいくつも発表しています。

 今回の論文は、日本の須彌山石(外村氏は旧字にしているため、其に従います)を扱っているものの、そうしたインド仏教に関する素養が生かされています。

 まず、明治35年(1902)に奈良の飛鳥村の石神遺跡で発見された須彌山石について、最近の古代史学界の説は、これは『日本書紀』に見える「須弥山像」であって、飛鳥の朝廷に対して地方の夷狄が服従を誓う儀礼の場に置かれ、その儀礼に用いる水と関係する噴水のできる装置、と見ているとします。そして、その儀礼は、須弥山の上の方に住む帝釈天や四天王と関連する神聖な、あるいは呪術的なものだったと見ます。

 外村氏はこれに反対し、まず、『日本書紀』に見える例を検討します。初出は、推古天皇20年(612)是歳条に、百済から来た者が「山岳の形を構えることができる」と述べたため、須彌山のカッチおよび呉橋を南庭に設けさせた、とある記事です。

 次は、斉明天皇3年(657)7月3日に、都貨邏の男二人と女四人が筑紫に漂着したため都に呼び寄せ、15日に須彌山像を飛鳥寺の西に作り、盂蘭盆会をおこない、日が暮れれから都貨邏人たちのために宴を催した、とあります。

 次は同じ斉明天皇5年(659)3月17日に、甘樫丘の東の川のほとりに須彌山を造り、陸奥と越の蝦夷のために宴を催したとあり、同6年(660)5月には、石上池のほとりに須彌山を造り、寺の塔のように高く、粛慎の47人のために宴を催したとあり、阿倍比羅夫の遠征の成果によるようです。
 
 斉明紀に記される三例については、同一物であろうとする説もありますが、石上遺跡で発見された須彌山石をそれと見る説も、推古朝の時のものと見る説もありますが、外村氏はそのどれかであった可能性はあるとします。現在残っている須彌山石は、上中下の三段でしが、中段と下段がうまくかみあわないため、本来はその間にもう一段あったと推定されています。

 服属儀礼だとする説の根拠は、敏達天皇10年(581)閏2月条に、蝦夷数千人が辺境に侵入したため、首領たちを呼び寄せたところ、彼らは恐れかしこまり、泊瀬川の中に下りて三諸山(三輪山)に向い、水をすすって今後は天皇に忠誠心をもってお仕えします、と誓ったとあることです。また、また、飛鳥寺の西は神聖で誓約がなされる箇所であり、須彌山石はその近くに造られたことがあげられます。
 
 しかし、外村氏は、須彌山像を用いて服属儀礼をおこなった記事がないと指摘します。また、盂蘭盆会は、死後に悪所に生まれて苦しんでいる父母などを救う儀礼であって、服属儀礼とは関係ありません。さらに都貨邏人の場合は、たまたま漂着したのであって、国を代表する使節ではないため、服属儀礼をさせる必要はないのです。
 
 そこで外村氏が注目するのが、隋の煬帝が塞外民族のために散楽(サーカス)を大々的に行わせていたことです。しかも、『隋書』によれば、既に梁代の段階で元旦の儀礼の中で、「長蹻伎」「跳鈴伎」「跳剣伎」「擲倒伎」などの間に「須彌山伎」が演じられています。これらの技は、明らかにサーカスのような技です。「長蹻伎」について外村氏は竹馬のようなものかとしていますが、これは綱渡りです。

 いずれにしても、煬帝が大がかりに行った散楽は、東突厥の首領を見せつけ、文化力を誇示するものでした。四方に噴水する装置である「須彌山石」はそれと同じ状況で利用されていますので、服従させるためのものという点は確かですが、誓約儀礼をさせるための装置とは考えられないと外村氏は説きます。

 外村氏は、須彌山石の模様を東大寺の蓮弁図に見える須彌山などと比較し、『倶舎論』などで説明される須彌山とは異なるとします。そして、須彌山石の実態は不明としたうえで、この装置を当時の人々が須彌山に見立てていた可能性はあると説いてしめくくっています。

 こうして見ると、須彌山石は、天皇の訓である「スメラミコト」を「須彌(山)のような尊い方」と見る森田説の強い根拠とはできないことになります。ただ、森田氏が「天皇」は対外的な称号とした点は、須彌山石が蝦夷や都貨邏をもてなす宴の場の施設となっていた点と共通するものがありそうです。


マヘツキミの合議に外から関与した推古朝の世襲制大臣の行方:鈴木明子「律令制形成期における合議制の展開」

2024年05月19日 | 論文・研究書紹介

 クラウタウさんの新刊書、岡田さんの論文に続き、私の研究仲間の論文が出ています。これまで、旧姓での論文を含め、その着実な研究成果をこれまでも紹介してきましたが(こちら、旧姓の宮地明子での論文はこちらこちら)、今回は、推古朝の合議体制から律令形成期の合議体制への移行について論じた論文、

鈴木明子「律令制形成期における合制の展開」
(『寧楽史苑』第69号、2024年2月)

です。

 この論文では、孝徳朝から天武朝頃のあり方が詳細に検討されていますが、ここは聖徳太子ブログですので、申し訳ないことながら、そうした時代との対比のために推古朝について補足説明している箇所を中心に見ていきます。

 鈴木さんは、貞観16年(642)成立とされる「括地志」(『翰苑』所引)が、倭国には十二等の官があり、その第一は「麻卑兜吉寐(マヘツキミ)」であって、漢語では「大徳」という、と記しているしているのは、それほど有名であった証拠と述べます。

 そして、前稿では、倭国の重要方針は大夫(マヘツキミ)たちの合議で決定されており、推古朝においては、蘇我本宗家による世襲大臣制は冠位制を超越する地位であったため、大臣は合議を主催するものの発言はせず、合議体の外から関与したと論じ、合議での決定は大夫による全会一致が原則だったとしていました。

 大王への奏宣は大夫の職掌であって、大臣はおこなっておらず、また外交面では世襲大臣が主導性を発揮していたと鈴木さんは説きます。推古18年(610)10月丁酉条の新羅および任那の使者の来朝記事では、使者が使いの旨を「四大夫」に奏し、それを「四大夫」が大臣に啓しています。

 また推古31年(623)是歳条によれば、新羅征討の群臣会議では不征討・遣使の方向で決着しておりながら、同年、新羅征討が強行されており、同年11月条では征討を主導したのは大臣であったと記されています。

 また、大夫の冠位が大小の徳冠とほぼ同格であるため、大夫の合議は氏族代表による資属間の利害調整の場としての氏族合議体の性格を色濃く残していたものの、大夫層については王権のもとに掌握されることになったとします。
 
 乙巳の変によって蘇我本宗家が亡びると、大化3年(647)に七色十三冠位が設けられ、大臣の紫冠のみならず、皇親も冠位のうちに包摂されました。また、最下位として建武の位を新設し、実務担当の百八十部に与えたため、官位制は朝廷の構成員すべてを含むことになりました。
 
 ただ、阿倍内麻呂が左大臣となり、右大臣となった蘇我氏代表の倉山田石川麻呂の上に立ったことは、群臣の上に位置した世襲大臣を否定したことになるものの、古い冠を廃止した大化4年(648)になっても左右の大臣だけは「古冠」を着したことは、大臣は群臣の上にあるという認識が保持されていたものと見ます。

 さて、推古朝までの合議では、合議内容は主に皇位継承と外交(対外戦争と仏教受容の可否)であって、これが「大事」でした。しかし、皇位継承については、大化改新により皇極が孝徳に譲位した結果、王権の自立的な継承が始まったとされます。

 この後の時期については、『日本書紀』では天皇が大夫に皇嗣選定について諮問したとする記事がありますが、名があがっているのは当時の議政官すべてではなく、また議政官でない者の名も見えているため、臨時的なものであったとします。見解を統一する合議は、内裏とは別の場でなされたのです。

 以後、中大兄皇太子が庶務を委ねられた斉明朝から天武朝に至る合議について検討されていますが、壬申の乱時に、大友皇子が群臣に諮問した例と、近江朝では左右の大臣と群臣が共に「議を定め」たと天武天皇が高市皇子に語ったという箇所を除けば、合議がおこなわれたことを示す資料はないとします。

 つまり、合議を重視しつつ、その外から関与した世襲大臣の見解が優先された推古朝は、群臣合議と世襲大臣の二元的な権力構造となっていたのであって、乙巳の変以後は、王権による自立的な皇嗣選定へと移り、世襲大臣制に代わって置かれた左右の大臣も冠位制度の中にとりこまれ、天武朝になると大臣も置かなくなって合議制そのものが解消されるようになった、というのが鈴木さんの見通しです。


【重要】『日本書紀』中で「憲法十七条」だけが重要箇所で2度用いた語法が三経義疏すべてに!:岡田高志「「憲法十七條」の表現と思索」

2024年05月15日 | 論文・研究書紹介

 「憲法十七条」と『勝鬘経義疏』が『優婆塞戒経』の利用その他の面で似ている点が多く、同じ人物によって書かれたらしいことは、私が以前指摘しました(こちら)。

 今回は、タイトルにあるように、『日本書紀』中で「憲法十七条」だけが、それも重要な箇所で2度用いている語法が、実は三経義疏すべてに見えることを指摘した画期的な論文が刊行されました。

岡田高志「「憲法十七條」の表現と思索-前漢~六朝の「詔書」・諸典籍との比較を通して」
(『古事記年報』第66号、2024年3月)

です。この発見は、数年前に古事記学会の研究会での発表で報告されたため、その論文化が期待されていたものです。私が昨年から『憲法十七条を読む』の原稿を書いておりながら、それが進んでいなかったのは、この論文が出るのを待っていたため、というのも一因です。

 その発表の後、私がリモートでやっていた『勝鬘経義疏』の読書会にも参加してくれた岡田さんは、研究を重ねて発表内容をさらに深め、この論文では、「憲法十七条」と中国の前漢から六朝時代の箇条書きの詔書と比較し、「憲法十七条」が典故に基づきつつ独自の思索をおこなっている点を検討、そして「憲法十七条」独自の語法を三経義疏と較べるという作業をしています。

 岡田さんはまず、「憲法」の語を中国の古典や史書で調べます。『国語』では賞罰を正しくおこなうことが国家の「憲法」であると述べており、また法家の『管子』では、君臣一体で統治すれば、「号令」を通じて「憲法」を明らかにすることができ、国内の風紀を正すことができる、と説いていることに注目します。これはまさに「憲法十七条」の内容と合致しますね。

 そこで、「号令」の例として、これまで「憲法十七条」との類似が指摘されてきた北周の蘇綽起草の「六条詔書」以外に、前漢の「六条詔書」、西晋の「五條詔書」についても比較します。これらは、地方の官吏を対象とし、口頭での伝達や冊書・尺牘の形で頒布されたことが知られています。

 岡田さんは、「六条詔書」の第二条が民に「仁順」を教えて「和睦せしめる」としている点が「憲法十七条」第一条の「上和下睦」と一致すること、前漢の「六条詔書」が「公」に背いて「私」に向かうことを戒めているのは、「憲法十七条」第十五条が「背私向公」を命じているのと共通すること、これらの詔書と「憲法十七条」は似ている面がかなりあること、また、「憲法十七条」は嫉妬の害を説くが中国の詔書にはそうした点はないことなどを指摘します。

 つまり、「憲法十七条」は役人あてに出された中国の箇条書きの詔書とかなり共通する面と、独自な面があるとするのです。その独自の面の一つは、「憲法十七条」がしきりに「聖」に言及してその意義を説いていることです。

 『日本書紀』では、「聖」の語は神、天皇、皇太子を指しており、官人に「聖」になるよう促すのは「憲法十七条」のみです。また、推古紀では、行路の死人を「聖」と呼び、慧慈を「聖」としていますが、これらの用法は「憲法十七条」を含めて厩戸皇子関連に限られることに岡田さんは注意します。

 このように、「憲法十七条」は『日本書紀』中で異質なのですが、その例の一つが、「憲法十七条」のが第四条では、民をおさめる根本は「要在乎礼」と述べて「礼」が根本であることを強調し、第九条では事業がうまくいくか失敗するかは「要在于信」と述べて「信」が大事であることを強調していることです。『日本書紀』ではこの二例を除いて、「~は、要は~に在り」という語法は見られません。

 岡田さんは、「の要は~に在り」といった形の用例は、法家の文献である『管子』や儒教とは異なる独自の思想を説いた『荀子』、鳩摩羅什の弟子である僧肇の『注維摩』などに見えることを指摘します。

 「憲法十七条」が法家の思想、特に『管子』に頼っていることは、山下洋平さんが指摘したことですし(こちら)、『注維摩』は、僧肇の注釈を柱として羅什その他の『維摩経』の注釈を編纂した書物であって、岡田さんは触れていませんが、『維摩経義疏』が用いた注釈ですね。

 ここで驚くことに、岡田さんは、「憲法十七条」が重要な箇所で強調するために用いている「要在~」の語法が、『勝鬘経義疏』に4例、『法華義疏』に1例、『維摩経義疏』に2例見えることを指摘します。

 つまり、『勝鬘経義疏』と「憲法十七条」が内容面で共通する点が多いことは、私が以前指摘したことですが、それが語法の面でも立証されたことになるのです。しかも、私の前回の論文では、「憲法十七条」と『勝鬘経義疏』の類似を指摘しただけだったものが、岡田論文では、「憲法十七条」が重要な箇所で用いている語法、それも『日本書紀』で「憲法十七条」だけに見えている語法が、三経義疏すべてに登場することを明らかにしたのです。

 三経義疏はいずれも語法がきわめて類似してることは、花山信勝などが戦前から論じていましたが、そうした人たちは熱烈な聖徳太子信仰を有する僧侶学者がほとんどだったため、古代史学界からは信用されない面もありました。

 それと違い、僧侶ではない一般研究者の私がNGSMシステムを用い、変革語法も含めた多くの例を示して三経義疏の語法の類似を論証しましたが(こちらなど)、今回はまた一般研究者の岡田さんよって研究がさらに進んだことになります。

 『日本書紀』における厩戸皇子の事績については、編集段階でかなり潤色されていることが指摘されていたうえ、『勝鬘経』や『法華経』の講経は記されていても三経義疏には触れられていなかったため、三経義疏は懐疑的な史学者たちによって疑われてきました。また、朝鮮の書物だとか、百済・高句麗から来た僧侶などによって書かれたとする説もありました。

 しかし、三経義疏は6世紀初め頃の梁の三大法師の注釈を基調としており、太子当時は、中国でも朝鮮でも時代遅れになっていたうえ、変革漢文が目立つものの、古代朝鮮の変格漢文とは違っていることも私が指摘しました(こちら)。

 今回の岡田さんの論文は、これまでのこうした指摘の決定打となるものです。聖徳太子に関する伝承には後代に創作されたり、誇張されたりしたものが多いことは事実であるものの、「憲法十七条」については、『日本書紀』編纂時の多少の潤色はあるにせよ、基本は推古朝と見てよい、というのが現在の学界では主流の見方となりつつありますが、その点はこの論文で確定すると思われます。

 また、「憲法十七条」と三経義疏については、百済や高句麗から来た僧や学者が支援したにせよ、書いているのは同じ日本人であるらしい可能性も、これで非常に高まりました。

 ただ、律令が作成された後、天孫降臨神話によって天皇の権威を説いた『日本書紀』の編者が潤色するなら、なぜ「天皇」の語や「神」の語を用いなかったのかという疑問があるうえ、守屋合戦の記述の後に付された忠犬伝承を見ても、『日本書紀』が原史料をそのまま貼り込んだ部分があることは明らかですので(こちら)、「憲法十七条」についても大幅な潤色はなかったものと私は考えています。

【追記:2024年5月19日】
雑誌の刊行を5月と書きましたが、奥付を見たら3月刊となっていたので訂正しました。実際に出たのhは5月ですが、年度内に刊行したことにするというよくある事情によるものです。


オカルト的な説を含め近代以後の偽史に基づくトンデモ聖徳太子論を学術的に分析:オリオン・クラウタウ『隠された聖徳太子』

2024年05月10日 | 聖徳太子をめぐる珍説奇説

 このブログでは、聖徳太子に関する諸分野の最新の研究成果を紹介するとともに、大山誠一の聖徳太子虚構説を詳細にわたって批判したうえ、法隆寺は聖徳太子の怨霊を鎮めるための寺と論じた梅原猛(こちら)、ノストラダムスの大予言シリーズで人気になって聖徳太子をその類の予言者とした五島勉(こちら)、日本をキリスト教国家にしようとした蘇我氏が邪魔な聖徳太子を暗殺したと妄想した田中英道の本(こちら)なども取り上げ、論評してきました。その類の「あぶない」聖徳太子論を取り上げて分析した面白い本が刊行されました。

オリオン・クラウタウ『隠された聖徳太子―近現代日本の偽史とオカルト文化』
(筑摩書店、ちくま新書1794、2024年5月)

です(クラウタウさん、有り難うございます)。

 クラウタウさんのこうした研究については、以前、このブログで論文を紹介したことがあります(こちら)。今回の本はその拡張版ですね。その時も今回も、論文や研究書紹介のコーナーでなく、【珍説奇説】コーナーでとりあげていますが、これは、そうした話題に関心を持つ人の目につきやすいようにと思っての配置です。面白い話題満載なので楽しんで読めるものの、中身はきわめて学術的な研究書です。

 現在は東北大学准教授であるクラウタウさんとは、彼がまだ龍谷大学アジア仏教文化センターの研究員をしていた頃から、近代仏教研究仲間として親しくしており、私は現在は彼が代表を務めている科研費研究「憲法作者としての聖徳太子」の共同研究者にもなっています。「あとがき」でも触れられているように、本書はこのブログについても数カ所で言及してくれています。

 内容は以下の通り。

 【目次】
 まえがき
 序   隠されたものへの視点―偽史から聖徳太子を考える

 第一章 一神教に染まる聖徳太子  
  第一節 学術界における聖徳太子とキリスト教の「事始め」
  第二節 秦氏はユダヤ教徒だった―佐伯好郎の業績によせて
  第三節 フィクションへの展開―中里介山の聖徳太子観

 第二章 乱立するマイ太子像
  第一節 池田栄とキリスト教の日本伝来
  第二節 聖徳太子と戦後日本のキリスト教
  第三節 司馬遼太郎と景教

 第三章 ユダヤ人論と怨霊説
  第一節 手島郁郎と一神教的古神道
  第二節 梅原猛と怨霊説の登場
  第三節 怨霊meets景教―梅原猛『塔』について

 第四章 オカルト太子の行方
  第一節 漫画の中のオカルト太子―山岸凉子『日出処の天子』
  第二節 予言者としての聖徳太子の再発見

 結   隠された聖徳太子の開示
 あとがき

以上です。

 「まえがき」では、現在の聖徳太子研究の状況に簡単に触れた後、太子関係の本には、隠された「秘密」を明らかにしたと称する本が多く、「隠された『真実』」が分かれば、太子の意味も、また日本の歴史全体も明らかになるとしている、と述べます。そう主張する者たちは、自分は資料調査や分析を通じ、アカデミックな研究者にはない鋭い洞察力で秘密を解いたと称するのです。

 そうした書物が1990年代の終わりから増えていくのは、古代史学者である大山誠一の聖徳太子虚構説と無縁ではなく、従来の聖徳太子観を大胆に否定した大山の主張は、陰謀説を掲げる多くの「トンデモ本」にインスピレーションを与えたとクラウタウさんは説きます。

 なお、『隠された聖徳太子』という題名は、立命館大学の哲学の教授職を辞し、筆で喰わねばならなくなったため、恐るべき「秘密」を解明したと称する非学問的でセンセーショナルな聖徳太子論を書いてベストセラーとなり、以後のトンデモ本に影響を与えた梅原猛の『隠された十字架』を踏まえたものでしょう。東北大学の美術史の教授であって現在は名誉教授の田中英道も同類ですが、クラウタウさんは大学教員などの肩書きや地位が一般社会に与える力にも注意します。

 クラウタウさんは、聖徳太子は古代以来、日本人の心を動かしたからこそ、様々な偉業をおこなったとされたのであり、太子に関わる「偽史」を含めた「異説」はそれぞれの時代の人々の願望を反映したものであるため、「異説」に秘められた意図を検討することによって、聖徳太子のもう一つの「歴史」を描きたいと述べます。

 「偽史から聖徳太子を考える」というサブタイトルがついてる「序」では、クラウタウさんは「偽史」について最近の研究状況から説明します。中国においては、正統とされる王朝が作成した史書が「正史」であり、そうでない王朝や政権が作成した史書は「偽史」と呼ばれていました。

 日本でも、明治以後になって「発見された」という形で出現した『上記(うえつふみ)』『竹内文書』『九鬼文献』などの偽書が、第二次大戦中の超国家主義的な状況の中で「偽史」として切りすてられました。ところが、それらの文献は一九七〇年代のオカルトブームの中で関心を集めるようになり、「古史古伝」とか「超古代史」と呼ばれて消費されるようになったのです。

 今日言う「偽史」は、これらの偽書を含むだけでなく、そうした偽書を真実と見て語られる言説も含みます。さらに、東大出身でプラトンやバイロンなど西洋の哲学・文学の翻訳で評価されたものの、明治の終わり頃から『古事記』『日本書紀』の記述に基づいて世界の古代文明はすべて日本が起源だと主張した木村鷹太郎(1870-1931)のように、権威ある文献に基づきつつトンデモ説を述べる書物なども含むようになっているのです。

 そうした偽史に関する最近の研究成果をまとめた小澤実の『近代日本の偽史言説』では、「チンギスハンは源義経だ」「イエス・キリストは日本で死んだ」「東北に古代王朝が存在していた」「フリーメイソンの陰謀で世界は支配されている」「ユダヤ人が世界転覆を狙っている」といった幅の広い言説が偽史の例としてあげられています。

 クラウタウさんは、さらに、学界で評価されている(ないし、世間でそうみなされている)学者の研究が偽史を生む背景となる場合もあることに注意します。つまり、まともな学者が学界で承認されない珍説を唱えるようになることもあるうえ、学問的であるものの意外な主張をした研究が世間に刺激を与え、それを材料にしてトンデモ説が生まれることもあるのであって、学問と偽史の境目ははっきりしない場合があるとするのです。

 クラウタウさんは、そうした例として、古田武彦をあげます。古田は、親鸞に関する詳細な文献研究などで評価されていたものの、1971年の『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞社)によって多くの反論を招きながらマスコミに注目されるようになりました。

 後には、古代津軽王朝の存在を説く『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』を、自説に有利な真書とみなし、その研究成果を踏まえて昭和薬科大学の教員という立場で1990年に『真実の東北王朝』を刊行し、話題になりました。『東日流外三郡誌』については、戦後の古代史ブームやオカルトのブームの影響も受けて生まれた偽書であることが論証されているにもかかわらず、今でも真書だとして信奉する者たちが残って活動しています。

 これは『先代旧事本紀大成経』の「五憲法」などの場合と同じですね。偽の古史は、従来の史書や通説に満足できず、歴史の真実は実はそうではなかったと思いたい人々の要望を充たすように作られますので、熱烈に支持する人たちが出るのは当然なのであって、そうした人たちには偽書の明らかな問題点が目に入らないか、目についても何かしらの理由をつけて弁護するのです。

 クラウタウさんはまた、1972年に聖徳太子に関する新説である『隠された十字架』(新潮社)から刊行し、古代史学界からは妄説として批判されながら毎日出版文化賞や大佛次郎賞を得て、国際日本文化研究センターの初代所長にまでなった梅原猛をとりあげます。

 クラウタウさんは、古田と梅原の両人は違う面もあるものの、共通点によって歴史と偽史の間のグレーゾーンが形成されていることに注意します。そして、学界の通説に対する対抗意識を持ちながら、学問の権威自体は否定せず、それを戦略的に利用して偽史を生みだしていった例として、大山の太子虚構説に注目します。東大史学科の出身であって古代史の専門家として承認されていた大山の説を利用し、虚構説からさらに飛躍した想像の世界を構築してゆく著作が次々に生まれたのです。

 本文の第一章は、オカルト雑誌として知られる『ムー』の2014年の「聖徳太子と失われたイスラエル10支族の謎」という特集の話で始まります。その記事を書いた久保有政(1955-)は、プロテスタントの牧師であって、古代日本にイスラエル人がやってきたと主張していました。

 久保は、大山誠一が従来の聖徳太子観は間違っていたことを明らかにしたことに力を得て、太子は実際は神道、それも八百万の神を崇拝する神道でなく、唯一の神を奉じるキリスト教的な神道を土台として活動したと論じた由。これなどは、自らの信仰に基づき、学界の新説を自分の宗教的信念に引きつけ、大真面目で強引な解釈をした典型的な例ですね。

 太子とキリスト教の関係については、明治になって最初の近代的な古代史家、久米邦武(1839-1931)が、唐代の長安にはキリスト教のネストリウス派である景教が来ていたことに注意し、太子の厩戸誕生伝説は『新訳聖書』の焼き直しと見たことが有名です。

 その背景には、東西の宗教に共通基盤を見いだそうとする久米の摸索があったことが指摘されており、そのことはこのブログでも紹介しました。クラウタウさんはさらに、この久米説に対して初期の仏教史家であった境野黄洋(1871-1933)が反論し、逆に仏教の説話がユダヤ人にまで伝わっていった例が多いと論じたことに注意します。

 境野は、釈尊のジャータカ(前世譚)が西に行ってキリストの馬槽の話になり、東に伝わって太子の厩戸誕生の話になった可能性を指摘したのです。クラウタウさんは、境野は学問だけでなく仏教改革運動もしていたため、敵対するキリスト教の影響という説は受け入れられなかったものと推測します。

 このように、クラウタウさんのこの本は、聖徳太子に関する様々な意外な説を紹介するだけでなく、そうした説が生まれた背景、世間に受け入れられた事情、反論がなされた背景などについて考察を試みるのです。

 さて、キリスト教徒であって西洋古典学に通じ、景教の歴史の研究者として知られた佐伯好郎(1871-1965)は、日本の地名とユダヤの言葉との類似から見た証拠とされるものをあげ、1908年に帰化人であった秦氏はユダヤ人だったと論じました。

 その頃、イギリスから来た仏教研究者であったゴルドン夫人は、真言宗の大日如来解釈はヘブライ系の神の概念に近く、これは空海が長安で景教に接して学んだためだとしていました。ゴルドン夫人は、高野山に西安(長安)で発見された「大唐景教流行碑」のレプリカまで建立した人物です。このように、宗教に関わる意外な説、神秘的な説は、東洋・西洋の相互影響の中で生まれ、増幅していくことも多いのです。

 この調子で紹介していくと、5回くらいの連載になってしまうため、以後は簡単にまとめます。まず、第二章では、元京都帝国大学法学部教授でイギリス政治史の研究者だった池田栄(1901-1991)をとりあげます。

 池田は、戦時中は「聖徳太子教導国家と大東亜建設」といった調子の論文を書いていました。1949年に、この年は日本最初のキリスト教宣布者であるザビエルの来日から400年になる年として各地でイベントが行われると、池田はこれに反発しました。

 池田は、佐伯説に基づいて秦氏は景教信者だったのであってその大酒神社はダビデの礼拝堂だったと推測し、ザビエル以前にキリスト教が伝わっていたと大阪の新聞上で述べたのです。この主張は米国の各地の新聞で紹介されたそうです。欧米のキリスト教徒などは、こうした情報を喜ぶのですね。

 日本聖公会の聖職者だった池田は、現在も生きる「景教」としてアッシリアの東方教会の総主教に書簡を送り、「景教復興」事業まで始めた由。しかも、この景教復興後援会には、秦氏の氏寺である広隆寺の住職も理事として加わったというのですから驚かされます。

 なお、この池田に出逢い、池田をモデルにした小説を書いたのは、池田の主張が掲載された「大阪時事新報」と経営者が同じで建物も同じだった「産経新聞」文化部に勤めていた記者でした。その記者は、歴史小説家に転じたのちも、秦氏と異教の関係について書き続けたのですが、その作家の筆名は「司馬遼太郎」でした。クラウタウさんのこの本は、こうした意外な事柄がたくさん記されています、

 第三章では、1970年に神戸出身のユダヤ人と自称するイザヤ・ベンダサンの『日本人とユダヤ人』(山本書店)がベストセラーになってユダヤ人に対する関心が高まった翌年、内村鑑三の弟子で無教会主義のキリスト教者であった手島郁郎(1910-1973)が、佐伯の研究を踏まえて『太秦ウズマサの神―八幡信信仰とキリスト景教について』(東京キリスト教塾)を刊行したことについて検討します。

 手島は、秦氏が奉じた八幡神は、モーセに啓示された神の名である「ヤハウェ」だと論じたのです。この主張は、彼のキリスト教改革運動と結びついていたうえ、この主張では、日本の古神道は日本的一神教であったヤハタ信仰と基本的に一致すると説いた由。

 こうした主張が乱立した1970年代初頭に出版されたのが、法隆寺は聖徳太子の怨霊を鎮撫するための寺だと論じた梅原猛の『隠された十字架』でした。クラウタウさんは、上述のキリスト教説などの影響も受けていた梅原は、日本の古代史学界の研究成果を詳細に紹介せず、この分野の研究は著しく停滞しているため、自分が独自の視点によって新説を打ち出したというイメージを読者に植え付けたと指摘します。

 そして、梅原説は従来の学説とは見方の違う新説などといったレベルのものではなく、まったくの事実誤認に基づく空想が多いことが古代史学者の反論によって示されたにもかかわらず、梅原はそうし批判は梅原説に対する本質的な反論になっていないと主張し続けたことも紹介されています。

 第四章では、1970年代以後のオカルトブームという背景のもとで、梅原の影響を受けて聖徳太子を超能力者、それもボーイズラブとして描いた山岸涼子の漫画、『日出処の天子』と、ノストラダムスの予言を日本に紹介してベストセラーとなった五島勉が、中世には預言者とされていた聖徳太子を現代の預言者として描いた状況などを説明しています。

 五島については、世界の終わりが来るという予言やその救済者などに関する記述が、複数の新興宗教に影響を与えたことを指摘します。そして、オウム真理教に直接の影響を与えたかどうかは不明であるとしつつ、麻原彰晃が逮捕の少し前に、聖徳太子が侍者を引き連れて現れて「日本をお願いします」と自分に頼んだ、と著書で述べていると指摘します。

 サリン事件の後、五島は責任を感じたようで、聖書系の終末思想が世界中で何百というカルトを生みだしたと述べ、そうした「破滅=救済=選民」の予言を超える「日本独自の指針や予言」が必要だと述べるようになったと、クラウタウさんは説きます。

 そして、「結」の「隠された聖徳太子の開示」は、コロナが流行した際、オカルト系のサイトに、聖徳太子がこれを予言していたという記事が載ったという話題で始まります。むろん、五島の影響ですが、「太子に仮託された予言書の権威を借りつつ、『未来』を語ろうとする姿勢は、令和の今日まで続いている」のです。

 ユダヤ=キリスト教影響説は、新しい教科書をつくる会の二代目会長であった東北大学の美術史の教授で、現在は名誉教授の田中英道に受け継がれています(梅原にしても田中にしても、「大発見」をしたと称するのは、大山誠一を除いては古代史の専門訓練を受けていない学者ですね)。

 田中は、最近は秦氏はフリーメーソンであって仁徳天皇陵古墳を造営したとも説いているうえ、聖徳太子は日本のキリスト教化をはかっていたユダヤ系の蘇我氏の計画に反対した結果、殺されたとしています。まさに邪悪なユダヤ人の陰謀という図式です。

 クラウタウさんは、ユダヤ系の人間が日本の「変革」をはかっていたといった言葉使いは、日本の国体の「変革」を試みたとみなされる者たちへの厳しい処罰を定めた1925年の治安維持法と表現が似ていることに注目します。発想が似ているため、表現も似てくるのでしょう。

 そうした非学問的で危険な本がかなり売れているのが現状です。つまり、学者の肩書きが利用され、出版社がそれに加担しているのです。クラウタウさんは、こうした状況の背後に、「娯楽としてのオカルトを求めるような文化が一九七〇年代にあった」ことを指摘します。

 だからこそ、梅原の本が売れ、またそれに刺激されたオカルト的な説が次々に生まれたのです。しかも、学問成果とそうしたオカルト言説の境目は曖昧であり、時に交差することにクラウタウさんは注意するのです。

 私は、三経義疏や古代の聖徳太子観、近代の国家主義的な太子観などを中心にして研究してきたため、精力的な文献調査をすることで知られるクラウタウさんのこの本については、知らないことがたくさんありました。偽史が生まれる背景やその危険さについて考えるうえでも有益ですので、一読をお勧めします。

 なお、「あとがき」では、地味な分野である近代仏教学の研究者であったクラウタウさんを、オカルト研究に導いた先学であって、惜しくも先年亡くなった吉永進一さんの思い出と感謝が述べられています。

 宗教学から東西の神秘思想研究に進んだ吉永さんは、とんでもなく博学であったうえ、気取らず、親しみやすい性格であって、仲間を集めて企画を実施するのも得意でした。

 2019年に、既に病身となっていた吉永さんを駒澤大学に招き、クラウタウさんと心理学の谷口泰富先生にもご参加いただいて、儒教やオランダ医学も学んで東大初の仏教講義を行い、駒大の前身である曹洞宗大学林の総監を務めた原坦山と、西洋の神秘主義にも通じていた禅研究者で駒大初代学長、忽滑谷快天に関するシンポジウムを開催したことを思い出します(吉永さん・クラウタウさんの写真を含む記事は、こちら)。

【付記:2024年5月29日】
この本については、詳しいインタビューが28日に公開されました(こちら)。


片岡山飢人伝説は『日本書紀』編者の創作ではない:三舟隆之「片岡山飢者説話の形成」

2024年05月06日 | 論文・研究書紹介

 聖徳太子虚構説については賛同者はおらず、この10年以上は相手にされなくなっていて批判すらされていない、とこのブログで何度か書きましたが、最近になって批判している珍しい例が、

三舟隆之『片岡山飢者説話の形成:日本書紀』『日本霊異記』『万葉集』から―」
(小林真由美・鈴木正信編『日本書紀の成立と伝来』、雄山閣、2024年)

です。

 三舟氏は、片岡山飢者説話に対する戦前からの諸説をざっと紹介した後、大山誠一氏の聖徳太子非実在説(厩戸王実在説)では聖徳太子関連の資料を片っ端から否定しており、中でも『日本書紀』の片岡山飢者の記事はフィクション性が高いとされ、道教好きの長屋王が創作したものとして簡単に扱われていると述べます。

 そして、非実在論について詳しく検討はしないが、この説に全く触れずに片岡山飢者説話について述べることはできないため、自分の見解を示すとして、聖徳太子という名は後代のものであるにせよ、経済力と政治面から見てその尊称にふさわしい人物であったとします。

 そして、石井公成が指摘するように、非実在論は考古学や美術史の成果を考慮しておらず、問題が多いと述べます(言及、有難うございます)。拙著をあげてくださったのは有り難いですが、だったら、大山氏が本名だとして強調する「厩戸王」は、戦後になって仮に想定された名であることにも触れておいてほしかったところです。

 それはともかく、三舟氏は『日本書紀』、『日本霊異記』、『万葉集』の片岡山飢者説話を比較することから始めます。

 720年成立の『日本書紀』では、聖徳太子が片岡山に遊行した際、道ばたで臥せっている飢者に出逢ったため飲食を与え、自らの服を脱いで着せ、飢者を憐れむ「しなてる片岡山~」の歌を詠み、翌日、見に行かせると死んでいたため墓に埋葬させ、後日、「真人」だろうとして使者に調べに行かせると、死骸はなく、衣服のみが棺の上に置いてあったため、太子はその衣を取り寄せて着たため、世人は「聖人は聖人を知るというのは本当だ」と感嘆した、となっています。

 奈良朝末期から平安初にかけて編纂された『日本霊異記』では、片岡の路で乞食が病気となって臥せていた。太子はともに語り、着ていた衣を脱いで病人に覆い、戻ってくると、その衣は木の枝にかけられていて乞食はいなかったため、太子は周囲が卑しい人が着て汚れていると反対したのに衣を身につけた。乞食はほかの場所で死んでいたため、法林寺の東北の山に墓を作らせ、後に使いを派遣すると、墓の入り口は開いていないのに埋葬者はいなくなっており、「鵤の富の小川の~」の歌が戸に立てかけてあったため、太子は黙然とした。誠に聖人は聖人を知り、凡人の目には見えないものだ、としめくくられています。

 8世紀中頃に編纂された『万葉集』では、上宮聖徳皇子が竹原の井に出遊した際、龍田山の死人を見て悲傷して詠んだ歌は、「家ならば妹が手まかむ草まくら旅に臥やせるこの旅人あはれ」、となっています。

 飢者の「富の小川」の歌と、憐れんだ太子の「しなてる片岡山」の歌を並べるのは、中西進が指摘したように、太子に仕えた調使・膳臣家の記録に基づくと称して神秘的な伝承を並べたてた平安初期の『上宮聖徳太子伝補闕記』が最初です。

 それ以前に成立したと推測される『上宮聖徳法王帝説』には飢者説話は収録されておらず、巨勢三杖が太子の死を悼んで詠んだ歌の中に「富の小川」の歌が見られるため、初期の法隆寺系の史料には飢者説話はなかったと思われると三舟氏は説きます。

 上記の比較が示すように、『日本書紀』と『日本霊異記』と『万葉集』は場所や登場人物や歌などが異なっており、『日本書紀』の編者が創作した逸話が広まるうちに詳しくなっていったようには見えません。

 そこで、三舟氏は片岡の地について検討します。

 まず片岡廃寺(片岡王寺跡)は、明治まで土壇が残っていて四天王寺式伽藍配置であったことが分かっており、出土する瓦から見て7世紀前半の建立があることが明らかになっています。

 西安寺跡も四天王寺式であって、若草伽藍と同笵の瓦も出ており、7世紀前半造営の可能性がある寺です。

 尼寺廃寺のうち、巨大な心礎が発見されている北廃寺は、東面する法隆寺式伽藍配置をとっており、創建期の軒丸瓦は最初期の坂田寺と同笵であって、以後、四天王寺と同笵の素弁蓮華文軒丸瓦や川原寺式の複弁蓮華文軒丸瓦が出土しており、7世紀前半の建立で、7世紀後半に川原寺式の瓦を用いて整備されたようです。

 南廃寺は、調査不十分で伽藍配置などは不明であるものの、若草伽藍と同笵の瓦が出ているため、北廃寺と同様に7世紀前半の建立の可能性があります。

 これらの寺の檀越については諸説ありますが、『法隆寺伽藍縁起并資材帳』によれば、「片岡僧寺」と見えており、瓦などから見て、上宮王家と関係が深かったことは明らかだとします。

 ここで三舟氏が注目するのが、飛鳥池遺跡北地区から出土した木簡に、「五月廿八日飢者賜大俵一/道性/六月七日飢者下俵二/受者道性女人賜一俵……」とあることです。内容から見て、天武5年(676)から翌年にかけての飢饉の際の対策のようであって、飢者や女人に食料を配給しているのですが、それを取り次いだのが道性という名の僧侶らしいことです。

 つまり、僧侶が困窮した人々に対する支援活動にあたっていたのです。三舟氏は、厩戸王や法隆寺などの僧侶もこうした活動に携わっていたものと見て、以下のような説話の進展を想定します。

 まず、7世紀前半に片岡・竜田あたりでこの説話の元となる説話が成立し、それに尸解仙説話が加わって8世紀前半頃に『日本書紀』の説話となり、加わっていない形が『万葉集』の説話となり、『日本書紀』の説話がさらに巨勢三杖の挽歌を加えて8世紀後半に『日本霊異記』の説話へと成長し、さらに9世紀前半に『日本書紀』と『日本霊異記』の説話に、「調使家記」を加えて『上宮聖徳太子伝補闕記』の説話となって定着していった、という流れです。

 聖徳太子の生前の段階でこの説話が形成されていたかどうかは分かりませんが、四天王寺が後に悲田院などの福祉事業を始めていることから見ても、聖徳太子の仏教受容が貧民支援の活動を含んでいたことはありうることです。中国でも、寺院はそうした活動をしていました。

 その結果、聖徳太子没後になって関連の寺がそうした活動をする際、元祖として太子の逸話を強調したことはありうることでしょう。三舟氏は、太子関連の伝承は後代作成のものが多いことを認めたうえで、そうした伝承の背景について考えていくことが必要だとしており、これは納得できる意見です。


中華意識を持ったアジア諸国の一つとしての倭国:川本芳昭「《日本側》七世紀の東アジア国際秩序の創成」

2024年05月01日 | 論文・研究書紹介

 中国の中華意識は有名ですが、実は、中国北地の北方遊牧民族国家や中国周辺の国家の中にも、中華意識を持っていた国はいくつもあります。そうした国々と比較しつつ、倭国について検討したのが、

川本芳昭「《日本側》七世紀の東アジア国際秩序の創成」
(北岡伸一・歩 平編『「日中歴史共同研究」報告書 第1巻 古代・中近世史篇』、勉誠出版、2014年)

です。日本・中国・韓国は、歴史観の違いによってこれまでいろいろな問題が起きてきましたが、この本は書名が示すように、日本と中国の学者が協議してそれぞれの視点を示し、ともに認めることができる事実を明らかにしようとした試みの一つです。川本氏は、外交面などに注意している東洋史学者です。

 川本氏のこの論文の次には、王小甫「《中国側》七世紀の東アジアの国際秩序の創成」が掲載されています。このように、諸国の研究者がそれぞれの視点で意見を出し合い、協議していくことが大事ですね。聖徳太子関係を含め、トンデモ説や闇雲な日本礼賛主張者は、様々な史料をきちんと読まず、自説に有利な箇所だけを切り貼りして妄想をくりひろげるタイプばかりですので、文献派の海外の研究者からは相手にされません。

 さて、『宋書』倭国伝に見える478年の倭王武の上表文では、宋の順帝に対して自らを「臣」と称していましたが、埼玉県の稲荷山古墳から辛亥年(471)の年紀を有する鉄剣の銘文には、「治天下大王」とありました。つまり、倭国王は、「天下」を統治する皇帝を自認していた順帝に対しては「臣」と称しているものの、それより早い段階で、国内に対しては「治天下大王」と称していたのです。

 これはダブルスタンダードですが、こうした姿勢は、実は多くの国に見られるものでした。たとえば、高句麗では、漢の支配拠点であった楽浪を313年に陥落させて勢力を伸ばした結果、高句麗王は「好太王碑」が示すように、中国周辺国の「~王」との違いを示すため、「太王」の称号を用いるようになり、独自の年号まで使い始めます。

 「好太王碑」では、高句麗の由来について述べた部分では、鄒牟王は「天帝の子」であるとし、「我は是れ皇天の子」という言葉を記しています。これを漢文表記したら「天子」ですね。さらに好太王の子の長寿王時代の地方官であた牟頭婁という人物の墓誌には、「天下四方」の語も見えています。つまり、天下を統治する中国の皇帝のように、高句麗王が自分なりの「天下四方」を治めるとされていたのです。

 こうした中華意識は、やや遅れて百済や新羅にも見られるようになり、倭国もそれに続きます。さらに後に、ベトナムも同じことをやり、中国に対しては朝貢して「王」と名乗り、周辺国に対しては「皇帝」と称します。

 面白いことは、そうした傾向が中国でも見られることです。北方遊牧民族である鮮卑族が中国の山東地域に建国した南燕の王であった慕容鎮は、自分たちを「中華」と呼び、南地の漢族の王朝である東晋のことを、全身に入れ墨をして海に潜るような「南蛮」の国家とみなしていました。

 こうした意識が、遊牧民族が建国した北朝の多くの国に受け継がれました。当然ながら、南朝の国家は自分たちこそが天下を治める正統な皇帝の国であるとし、北方の国家を蕃族の国家とみなしていました。その北地の国家の一つが勢力を伸ばし、中国全土を統一したのが隋であり、その皇帝の親族が打ち立てたのが唐であったのです。

 その隋に対し、長らく南朝に「臣」として接して将軍の号をもらっていた倭国が、開皇20年(600)に久しぶりに使節を派遣します。隋の文帝が役人に命じてその使節に倭国の風俗を尋ねさせると、使節は「倭王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天がまだ明けざる時に出て政を聞き、跏趺坐す。日出づれば便ち理務を停め、我が弟に委ねんと云う」と答えたと、『隋書』倭国伝にあることは有名です。

 この説明を聞いた文帝が「はなはだ義理無し」と呆れ、改めるよう訓令したと記されているのは当然でしょう。その結果、大業3年(607)に「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや」という国書が送られるようになったわけです。

 この国書について、川本氏は、「日」は中国では皇帝そのものを指しているため、それを弟扱いしているということになるとしていますが、いくら何でも、倭国が意図的に隋を弟扱いしたとは考えられません。

 私は、「天の日を兄弟としている」といった和語を、中国側が文飾して「以天為兄、以日為弟」と対句にしたのではないかと疑っていることは、拙著で書きました。

 川本氏は、次の派遣使節が提出した国書の「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」の文は、いかに不遜に見えようとも、「天の弟」「日の兄」などと言っておらず、訓令に従って改めたと見ています。

 これを見た煬帝は不快になったものの、身分の低い裴世清を使いとして送って宣諭させたため、川本氏は、倭国は「天子」の語は用いず、煬帝を「先輩か兄に見立て」た「東天皇敬白西皇帝」で始まる国書を送ることによって、「一定の常歩を示しつつも、一貫して強い自己主張を貫いている」とします。

 つまり、こうした状況で「天皇」の語が用いられたのであって、この語はまず外交文書で使われはじめ、従来の大王あるいはオオキミと併用されながら国内でも用いられるようになり、律令において正式な称号として確立したと、川本氏は推測します。

 問題は、『旧唐書』倭国伝が貞観5年(631)のこととする記事です。唐は新州刺史の高表仁を派遣したものの、「綏遠の才無く」、つまり蛮夷を慰撫する才が無く、王子と礼を争い、朝命を宣せずして還る」とあります。「開元礼」では、皇帝の使者が蕃国を訪れた際は、使者は蕃国側の再拝の礼に答えず、皇帝の詔書を宣し、蕃国側は北面して詔書を受け取ることになっていました。

 礼を争ったとある以上、倭国側はそうした形で詔書を受け取ることを認めなかったことになりますが、そうなると、高表仁より官位が低い裴世清の時はどうだったのか、倭国王を拝するなどしたうえで、国書や言葉だけは伝えたのか、ということになります。

 奈良時代になって778年に唐の使者、趙宝英が派遣された際は、趙宝英は遭難し、部下の孫興進が来日したのですが、孫興進とともに帰国した遣唐使の小野滋野は、新羅や渤海など日本が蕃国とみなす諸国からきた国使を迎える際の礼式で対応すべきだと主張したものの、中納言石上宅嗣は、蕃主が中国皇帝の使節を迎える礼で迎えるべきだと主張した由。

 ともかく、中国で南北朝時代が終わる頃になって北朝の勢力が強まっていくと、南朝と連動、ないしその傘下にあった柔然、吐谷渾、雲南の勢力、高句麗、百済などは相次いで亡び、それらの背後にあった突厥、吐蕃、南詔、渤海、新羅、日本などが興隆してきます。

 つまり、北地の夷狄であった五胡の中から登場した北魏が、漢民族の南朝とならぶ「朝」とみなされ、その北朝を承けて隋唐が中国の正統な王朝となるという現象が起きたのであり、これが中国周辺の諸国の興亡はつながっているのです。

 倭国が遣隋使、遣唐使を派遣して国政を変革させ、白村江の敗北を経て古代律令制国家を築いていったのは、東夷であった倭国が周辺に対して中華として振る舞うようになった動きと連動しているのです。その日本の変化は、単なる国内問題、あるいは朝鮮半島の動きとの関係といった視点ではなく、中国を中心とした「天下」の動きの中でのことであった点に注意すべきだ、というのが川本氏の結論です。