聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

「上宮」という名の由来: 岡部毅史「梁簡文帝立太子前夜--南朝皇太子の歴史的位置に関する一考察--」

2011年08月30日 | 論文・研究書紹介
 9月11日の聖徳太子シンポジウムの【問題提起】では、聖徳太子については現在でも基礎文献すらきちんと理解できていないのが実状だ、という方向で話す予定ですが、その一例として、今回は「上宮」という語をとりあげてみます。

 『書紀』推古元年四月条では、父の用明天皇が厩戸皇子の優秀さを愛し、「宮南の上殿に居らしめ」たため、「上宮厩戸豊聡耳太子」と称すると伝えています。桜井市の「上之宮」遺跡が上宮跡だとする説もありますが、「上殿」にせよ「上宮」にせよ、実際には何を意味するのか、良く分かっていません。

 「上宮」は宮中を意味すると解釈した最初は、山中武雄「上宮の御称呼に就て」(『太子鑚仰』新第2号、1944年6月)でしょう。ただ、この論文が載った『太子讃仰』は、四天王寺の雑誌『四天王寺』を第二次大戦末期に改名したものであって、軍国主義的な記事ばかりであったため、戦後に処分されたのか、この雑誌を有する図書館は非常に少なく、特にこの号は、国会図書館にもありません。

 Webcatで検索しても、日本中で京大工学部建築系の図書室にあるのみです。ここは東洋建築史の大家であって、法隆寺の建築や論争史についても優れた研究をした村田治郎が教鞭をとっていた学科だけあって、寺院関係の古くて貴重な内外の本や雑誌がかなり揃ってます(なお、村田の論文は、文献への目配りもなされていてバランスが良いため、私は高く評価しています)。

 というわけで、この山中論文については、『太子讃仰』を編集していた小倉豊文が触れている以外は、引用されているのを見たことがありません。私も、存在は知っていましたが、読んだのは、今年になってからです。そこで、今回は、もう少し入手しやすい論文を紹介しておきましょう。

岡部毅史「梁簡文帝立太子前夜--南朝皇太子の歴史的位置に関する一考察--」
(『史学雑誌』118編1号、2009年1月)

です。

 中国史上、最も仏教信仰に力を入れた皇帝は、自ら経典の講義して何種類もの注釈を作り(家僧に作らせ?)、何度も「捨身」して寺の奴となり、晩年は女色や肉食を絶った生活を送った梁の武帝とされています。その長子であって『文選』の編集で知られる昭明太子も、第三子であって艶詩作成にふけっておりながら昭明太子病没後に皇太子となり、武帝沒後に簡文帝として即位した蕭綱も、経典の講義をし、学僧たちと議論していました。この岡部論文は、そうした国家であった梁における皇太子選定の条件などについて検討したものです。仏教や厩戸皇子については触れていません。

 おもしろいのは、梁に先立つ南斉の武帝の時、小史に姓が「皇」、名が「太子」という者がいたため、武帝が「太」の点を外に出し、名を「犬子」と改めさせたところ、ある知識人が、太子は天に関わる存在なのに「犬」とされたとなれば、この当時の太子は即位できまいと予言し、その通りとなった、という逸話があることです。岡部論文では、この逸話はむろん後世の付会としつつも、皇太子が皇帝同様「天との接点があるとの認識」が六朝から唐初になければありえない話としています。

 さて、同論文が着目するのは、『宋書』巻17・礼志四では、皇太子が皇帝の職務を代行することを「上宮に住す」と称していることです。同論文では、『南斉書』でも、皇帝の所在を示す語として「上宮」の語を用いている例を指摘しています。そして、皇帝の譲位などありえなかった南朝において、皇太子は、皇帝位をおびやかす存在でもあった皇帝一族や外戚にかわって皇帝支配の一翼をにない、「上宮」において皇帝の職務を分担・代行したのであって、皇帝権を強化する存在として重視されていたことを強調するのです。
 
 『書紀』が厩戸皇子を「皇太子」と称するのは、律令の規定をそれ以前にあてはめたものにすぎず、史実ではありませんが、南朝では皇帝を代行する皇太子が「上宮」で職務を行う、という知識が早い時代に南朝尊重の百済経由などで日本に伝わっておれば、政務を担当したとされる厩戸皇子が「上宮」と結び付けて語られるのは不思議でありません。厩戸皇子の死を悲しむ場面では「上宮太子」の語が多く用いられているものの、「上宮皇太子」となっている例も1箇所あります。

 ここで問題になるのは、厩戸の息子や娘も、上宮と称されていることです。『書紀』では、厩戸の娘を「上宮大娘姫王」と呼び、その属民を「上宮乳部之民」と称しているばかりか、山背大兄王をも「上宮王」と呼んでいます。

 これについては、押部佳周「上宮王の『上宮』について」(『日本歴史』568号、1995年9月)が簡単に触れています。同論文は中国における「上宮」の用例には注意していないものの、『上宮太子拾遺記』が、「推古天皇、(厩戸を)皇太子と為し、王宮の南に住せしめ、国政を悉く委ぬ。是に依りて上宮王と名づく」と説いていることに注意し、厩戸と山背大兄は推古・舒明・皇極の三代にわたって上宮に出仕して国政を担当したのではないか、と推測しています。後代の太子伝をそこまで信頼できるか疑問ですが、『書紀』が厩戸とその息子・娘を「上宮」の語を冠して呼んでいることは確かに重要でしょう。

 ただ、押部論文では、『書紀』では入鹿が斑鳩宮を焼くことを「上宮を焼く」としているうえ、山背大兄王を指す場合は常に「上宮王等」となっていることなどは問題にされてませんね。この場合、「上宮王」とは、「上宮(厩戸)」の「王(みこ=子供)」ということなのか、別の読み方をすべきなのか。それにしても、なぜ斑鳩宮が「上宮」で、山背大兄王は常に「上宮王等」と「等」を付けて呼ばれるのか疑問です。

 いずれにせよ、我々は、『書紀』における厩戸皇子関連記述の出発点となる推古紀元年の「上宮厩戸豊聡耳太子」という呼称のうち、最初の「上宮」の意味すらまだきちんとつかめていないのだ、「廐戸」「豊聡耳」「太子」についても同様なのだ、という自覚から出発すべきなんでしょう。

「日本書紀の謎は解けたか 補論」……井上亘氏自身による再反論

2011年08月29日 | 論文・研究書紹介
 井上亘氏から8月28日に長文のコメントを頂きました。発音表記用にIPA(国際音声記号)が用いられており、PC環境によってはその部分が文字化けすることと思われますので、井上氏の了解を得て、元のリッチテキストファイルも別に置くことにさせていただきました(ここです)。文字化けしている方は、そちらをダウンロードして御覧ください。なお、このブログ版では、見やすいように私の方で段落を増やし、間に空白行を入れ、引用部分は > で示すなどしてありますので、公式版は元のファイルの方です。
(ブログ作者:石井公成)

=================================

          日本書紀の謎は解けたか 補論

 井上です。石井・森両先生の反論を拝見しましたが、特に森先生の反論には正直、唖然といたしました。まず、「話をそらすな」とおっしゃっていますが、前回の拙文をみれば明らかなように、私は両先生のお話を論点ごとにまとめて私見を付し、そのうえで両先生が言及された日本人助手説を問題点として引き出したわけです。これで「話をそらした」ことになるなら、そらしたのはそちらの方ではありませんか。これでは、行ってはマズイ方向に話が行ってしまったから、そんなことをおっしゃるのだろうとしか思えません。

 「少し角度を変えて」というのもこれまで日本人助手説のような観点から考えを述べていなかったからに過ぎません。それに角度を変えた方がより深く問題に切り込める場合は、むしろそういう手法を積極的に用いるべきでしょう。そもそも「角度を変えて」といってから、先生方の反論をまとめ始めたところで「どう変えるのか」と思いそうなものですが、こんなことも注意されていないところをみると、全くまじめに読まれていないようですね。相手が何を考えてこう言うのかを考えもしないというのは論争相手として認めていないということなのでしょうから、何を言っても所詮ムダなのでしょう。森先生の反論をみれば、相も変わらぬ自説のくり返しで、私がご著書を読んでいないと決めつけておられるのも、こちらの考えなどはお構いなしという態度のあらわれなのでしょう。

 したがって本来このような反論に対してお答えする義務はないのですが、勘違いされている読者も一部おられるようなので、この際、ハッキリさせておこうと思います。

> 音声学的な気音の強弱についても、当然、中国人が敏感なのに対し、日本
> 人は鈍感である。したがって日本人であれば、中国語が堪能であっても、
> α群のように子音による条件的な気音の強弱を書き分けることは、きわめ
> て困難である」(『古』149頁、『謎』104頁でも例も挙げて説明していま
> す)。その困難さは、日本語母語者である井上さんが、日本語を聞いて
> 個々の気息音の把握を試みられればお分かりになることでしょう。

 まず、a(1)有気音についてですが、森先生が私にやれとおっしゃる「日本語の気息音の把握」というのは一体、何でしょう。日本語には気息の有無による対立は存在しません。ないものを把握させようというのは、これは何かのイジメですか。ここの問題はなぜα群の筆者が無気音の字母だけを採り、有気音のそれを排除できたかでしょう。私が言うのは、有気音は中国語の語の識別においてかなり顕著な特徴だから、それを意識的に選別するのは比較的容易だということです(この点、石井先生は一定の理解をしめされています)。たとえ正確に発音できなくても、字母を選ぶときに確認して、それを覚えてしまえばよいのですから、決して難しくありません。参照を指示されたご著書の内容は「お父さん」と「こわい」の話でしょう。こんなものは初歩中の初歩ですし、何より拙論できちんと取り上げたところまで、私が読んでいないように書くのはやめていただきたい。

> 日本人(マ・バ、ナ・ダを区別する日本語母語者)であれば、中古音でng韻
> 尾をもち音声的に非鼻音化の進行が遅れていた唐韻(-ang>-a~)の漢字を
> マ・ナに専用できたはずです。そしてバ・ダには歌韻字を用いれば、区別
> できるわけです。つまり、次のように書き分けられるのです。
>
> マ(ma):莾(mang>ma~、漢音マウ)――バ(ba):摩(ma>mba、漢音
バ)
> ナ(na):曩(nang>na~、漢音ナウ)――ダ(da):娜(na>nda、漢音
ダ)
>
> 実際、中天竺出身の善無畏は梵文字母表の対訳で、このように書き分けて
> います。ところが、中国人はこのような区別することができなかったので
> す。外国人の耳には区別できる鼻音と鼻濁音は、中国人にとっては同一の
> 音韻だったので区別できなかったのです。有坂さんが説くとおりです(有
> 坂秀世「メイ(明)ネイ(寧)の類は果して漢音ならざるか」、『古』
> 149~150頁参照)。書紀α群では善無畏と違って、マとバ、ナとダを区別
> していません。これがα群中国人表記説の第2の根拠です。

 a(2)非鼻音化。ここも『謎を解く』の内容そのままですが、拙論では反証を挙げただけでそれ以上の追及をしなかったところですから、ここで追及しておきましょう。非鼻音化によってナ>ダ、マ>バと変化したあと、日本人ならばインド僧善無畏と同じように唐韻の字母を鼻音に使ったはずだと森先生はいわれますが、日本人はインド人とちがって古い漢字音があるのですから、当然ないものはあるもの、つまり呉音の仮名を使ったはずです(事実そうなっています、後述)。どうもここはおっしゃっていることが反対であって、唐代北方音では陽声韻尾-ngが声母n-,m-を保存(非鼻音化を抑制)していたのですから、唐韻ɑng(ɑ~)を使って鼻音のナ・マを表記すべきなのはむしろ中国人の方でしょう(実は森説でもそう考えていた、後述)。もともと善無畏の対訳は中国人向けにナとダ、マとバの区別を説明したもの(つまりこれなら中国人にもナとマを聴き取れるという方法)ですから、「α群では善無畏と違って」いるということはむしろα群が中国人のとるべき方法にしたがっていない、つまり中国人説の反証となるべきものなのです。

 そもそも中国人にとってナとダ、マとバは「同一の音韻」であったから「混用」したというのも、よく考えてみるとおかしな話で、ナ>ダ、マ>バと変化してしまったら、それはナとマがダとバに移行して消失するということですから、中国人に聴き取れたのはダとバだけのはずです。現代中国人が日本語の濁音に苦労するのも、彼らの頭のなかに濁音がないからです。どうも森先生は、頭にない音は聴き取れないという現象を理解しておられないように思われます。おそらく有坂氏の「同一の音韻」という表現にひかれてそのまま「混用した」とつなげたのでしょうが、中国人はダに移行した音をナと聴くはずがない。それでどうしてナの仮名が書けるのでしょうか。

 実は有坂氏がナとダの差異を「同一の音韻」と表現したのは、唐代長安でも「人により場合によつて」は「難 'dan, nan 耨 'dog, nogのやうに、発音上に多少動揺の存したこと」、つまり中国人もダと言ったりナと言ったりしていたフシがあり、「外国人の耳には、その発音上の差異が明瞭に感ぜられた」が、中国人には「相異なる音韻として意識されてゐたわけではなく」、「同一音韻の二つの相異なる音声的実現に過ぎなかつた」、つまり中国人自身、ダと言ったりナと言ったりしていたが、彼らの頭のなかでは一つの音(ダ)だったと言っているのです。ところが、森先生はこの有坂発言をつぎのような問いの答えとして引くのです。

> 当時の北方音に依拠したα群の表記者は、善無畏のように、〔唐〕韻字を
>「マ」「ナ」に専用し、〔歌〕韻字を「バ」「ダ」に専用すれば、少なくと
> もア列音では鼻音と濁音とを書き分けられたのではないかと考えられる。
> (中略)なぜα群の表記者は、善無畏のように〔唐〕韻字と〔歌〕韻字を使
> い分けなかったのだろうか。

 さて、先の有坂氏の発言はこの問いの答えになっているでしょうか。私には全然ちがう話に思われます。唐韻字が問題になるのは非鼻音化してナ>ダ、マ>バと変化した結果、ナとマを表記できなくなったからであり、有坂氏がいうのはナもダもまだ長安には残っていて、それを外国人は識別できたという話です。この有坂氏の話を受けた森先生の結論はこうです。

> つまり、鼻音と鼻濁音との音韻論的対立は、当時の北方漢語にはなく、中
> 国人自身にとっては識別が困難であった。一方、日本人にとっては両者の
> 弁別は容易なことであった。したがって、もしも日本人が表記したのであ
> れば、少なくともア列における鼻音と濁音とを書き分けることができたで
> あろう。(以上、『古代の音韻』150~151頁)

 唐韻字の設問は一体どこへ行ってしまったのでしょう。また、末尾の「少なくともア列における鼻音と濁音とを書き分けることができたであろう」は、前文では「当時の北方音に依拠したα群の表記者」が主語だったのに、ここでは「日本人」になっています。これは「α群の表記者」=「日本人」ということでよろしいのでしょうか。

 要するに、有坂論文の引用を境に主語がいつのまにやらすり替わっているわけで、それが『謎を解く』にいたると、このa(2)の冒頭に引いたような「日本人(マ・バ、ナ・ダを区別する日本語母語者)であれば、中古音でng韻尾をもち音声的に非鼻音化の進行が遅れていた唐韻(-ang>-a~)の漢字をマ・ナに専用できたはずです」云々の強弁になるわけです。唐韻字を使ってマ・ナを表記すべきなのは、仮名をもたないインド人と、その音韻を喪失した中国人であって、日本人ではありません。

 このように、森説の形成過程を確認したうえで、あらためてナとダの使い分けについて考えてみましょう(数字は用例数、音価は中古音による。以下同じ)。

  ナ:乃(nʌi)1、娜(nɑ)1、儺(nɑ)25、那(nɑ)24、奈(nɑ)2
  ダ:多(tɑ)4、柂(dɑ)2、嚢(nɑng)1、陁(dɑ)2、娜(nɑ)6

 これはα群で使われたナとダの仮名ですが、「娜」以外はきちんと使い分けてあります。その「娜」は確かに非鼻音化(nɑ>ndɑ)の反映といえますが、そのほかの「同一の音韻」である「儺」「那」「奈」は非鼻音化していなかったのでしょうか。もちろんそうではなく、森先生もこれを「中国人にとって『やむを得ない混用』」とされていますが、これら3字母はダと混用していません。そしてβ群のナをみると、儺22・那46・奈19の呉音系3字母だけで、しかもα群の字母とぴったり一致します。さて中国人はこれらの仮名をどこからもってきたのでしょうか。

 このように、同じnɑ(ndɑ)の字母を一方ではナに使い(儺・那・奈)、他方ではダに使う(娜)という使い分けは、日本人にしかできなかったはずです(なお、ダに使われている「嚢」は森先生がナに使うべきだとおっしゃった唐韻字ですが、1例だけなのでここでは無視しておきます)。それとも森先生のおっしゃる「混用」とは、中国人がナもダもみなダのつもりで書いたとお考えなのでしょうか。それでは日本語にならなくなってしまい、結局は日本人が直すことになるでしょう。

 ついでにマとバについてもみておきます。

  マ:麽(muɑ)12、馬(ma)1、魔(muɑ)8、磨(muɑ)19、摩(muɑ)10、麻(ma)33、莾(mɑng)1
  バ:魔(muɑ)5、播(puɑ)2、波(puɑ)1、婆(buɑ)1、麽(muɑ)10、磨(muɑ)4

 α群の「播」「波」「婆」はハの常用字母であり(ハ:播35・波17・婆13例)、残るバの字母(魔・麽・磨)はみなマと共通するので、ここでは非鼻音化(muɑ>mbuɑ)の影響がより顕著だといえます。ところがβ群の方をみると、

  マ(β):魔(muɑ)2、磨(muɑ)16、摩(muɑ)62、麻(ma)6、莾(mɑng)27、末(muɑt)3
  バ(β):麽(muɑ)26、磨(muɑ)4、縻(mie)1

というように、バが全てm声母(明母)になっていて、非鼻音化がより一層進展した情況を呈しています。森説によると「β群の表記者は正音(漢音)に暗く、α群を見て、呉音で濁音の仮名が清音になり、呉音で鼻音の仮名が濁音になるという印象を得た」とされていますが(『古代の音韻』156頁)、β群の「麽」はバの専用字母で、α群のようにマとバに混用していません。これを森説では一体どのように整合的に説明するのでしょうか。

 思うに、マとバの混用を非鼻音化の影響として説明するのは正しい。しかしそれを中国人の仕事だというと、こういう無理が出てくる。ここはβ群がα群を参照したなどと無理をいわずに、β群にも唐代北方音の特徴をもつ字母があると考えればすむことです。すると、β群にもさまざまなレベルの漢字音が混在することになり、またα群にも上記のナの使い分けのように日本語との調整をへた部分があって、それらを総合すると、α群はβ群よりも原音に近いという結論に落ち着くのだと思います。

 ところで、マとバの仮名にはもう一つ問題があります。α群のマに「麻」と「馬」(ma)がある点です。日本人は前舌aと奥舌ɑのアを区別しないが、α群は「マ」を除いて全て奥舌のアを用いるという、森説の有坂「倭音説」批判第三の但し書きに出てくる問題ですが、この例外の「マ」について『謎を解く』ではこう説明されています(82頁)。

> 「マ」の頭子音には、〈明〉母(中古音[m-])が最適ですが、これは最も
> 円唇性の強い声母です。そのため〈明〉母に続く奥舌[-ɑ]韻はその同化作
> 用を受けて[-ɔ]に近い音色となり、もはや「マ」の母音に最適ではなく
> なっていたのでしょう。

 ちなみに『古代の音韻』ではこうなっています(23頁)。

>「マ」に〔戈一〕・〔麻二〕両韻が併用された理由は、「ワ」に次いで唇の
> 円めが強いのが「マ」であることによる。奥舌母音[ɑ]は子音mの後では
> [ɔ]に近い音色となるので、〔戈一〕(=〔歌〕)韻は「マ」には最適でな
> くなる。それゆえ、前舌母音である〔麻二〕韻も用いられることになった
> のであろう。

 ここにいう〔麻二〕aが前舌のア、〔戈一〕uɑ(〔歌〕ɑ)が奥舌のアですが、円唇子音mのうしろでは母音四角形(イ-エ-ア-オ-ウ)の上で奥舌のアがオɔに下がりやすいという説明は正しい。しかし、皆さんもお気づきのことと思いますが、このm声母は当時、非鼻音化してmbに変化していたはずです。b子音そのものは円唇性は弱く、しかも破裂音(唇を閉じてから一気に開く音)ですからアは発音しやすかったはずです。したがって、母音後退説は成り立たない。百歩譲ってmbでも母音が下がりやすいとすると、非鼻音化によって混用が生じたバについても同様の現象が起こったはずですが、「マ」を除いてはそういう現象は起きていない。つまり、ここの例外の説明は全く成立しないのです。しかも問題なのは、「〈明〉母(中古音[m-])が最適ですが」の「中古音」という注記のしかたからすると、どうも森先生ご自身、この問題に気づいておられるらしいことです。一方で中古音m>唐代北方音mbの変化による混用を説き、他方では中古音のまま例外をつぶす。これはまさしくダブルスタンダードというべきではないでしょうか。

> α群では、枝を「曳多(エタ)」、水を「瀰都(ミツ)」のように、
> 日本語の濁音を「多」「都」などの全清音(無声無気音)字で表記し
> た例が、7字種・延べ11例用いられているという問題です。しかも、
> これら11例はすべて高平調の音節でのみ現れた誤用なのです。日本人
> が表記したβ群には、このような誤り(日本語濁音に全清音字を当て
> る)は1例もありません。

 a(3)清濁の混用。万葉仮名における清濁の混用は、『古事記』には少ないが、『万葉集』には多い。いま手許にある中西進編『万葉集事典』「万葉仮名一覧」をみても、森先生が強調されるエダの「多」やミヅの「都」をはじめとする7字母の内、「底」字を除く6字母が清濁混用の仮名とされています。したがって、日本人が清音の仮名を濁音に用いることじたいは問題にならない。百歩譲ってこれを無視するとしても、前回指摘した日本人助手説の問題(中国人には原史料の仮名が読めない)をどう乗り越えるのかが問題になります(森先生からはまともな回答をいただいていません、後述)。それをまた強要しないことにしても、「多」と「都」については別の解釈が成り立ちます。

  ダ:多(tɑ)4、柂(dɑ)2、嚢(nɑng)1、陁(dɑ)2、娜(nɑ)6
  タ:陁(dɑ)35、駄(dɑ)7、柂(dɑ)24、多(tɑ)15

 これはα群のダとタの仮名で、ダは再掲ですが、これをみると、ダに全清音の「多(tɑ)」が使われていることもさることながら、タに全濁音(定母)の「駄(dɑ)」「柂(dɑ)」「陁(dɑ)」を用い、「多」と「柂」「陁」がダとタに混用されている点にこそ注意すべきでしょう。

  ヅ:逗(dəu)6、都(to)1、豆(dəu)7
  ツ:覩(to)1、豆(dəu)1、逗(dəu)1、都(to)34

 α群のヅとツも同様で、ヅに「都(to)」を使っているのも問題ですが、ツにも「豆(dəu)」「逗(dəu)」を使っていて、それらがみなヅ・ツ混用になっているわけです。

 これらは結局、濁音の無声化によってダとタ、ヅとツの区別が動揺していたか、あるいは『万葉集』と同様に清濁混用していたとみるべき現象でしょう。事実、『古代の音韻』では上記の「陁」と「柂」、「豆」と「逗」を挙げて「『無声化』の最も遅れた〈定〉母にも、当然ある程度の『動揺』があったものと推測される」根拠とされています(48頁)。したがって、「多」と「都」もその動揺の根拠とみるべきです。これもまたダブルスタンダードの一例ではないことを願いますが、ともあれ、「多」と「都」だけを問題にするのではなく、字母の選びようをみれば、それほど解釈に苦しむ問題ではないのです。

 以上の論述から、森説には音韻体系と聴き取り能力の関係に対する基本的な考え違いがみられると同時に、字母の選択という観点が抜け落ちていることがわかるでしょう。

 後者は実は拙論で紹介した森・平山論争のポイントであって、森先生が書紀の仮名を音としてとらえていたのに対し、平山先生は基本的に文字としてとらえていた。だから歌謡の筆者は一定の字母のなかから選んで書いたはずだといわれたわけで、それじたいは至極当然な考え方ですが、平山先生はその選択の基準を筆者の「嗜好」とされたため、森先生から「振るたびに偶数の目が出る骰子には仕掛けがある」と批判された。それで勝利宣言をした森先生には字母の選択という論点が抜け落ちたのだと思われますが、しかしα群の「仕掛け」を考える上でも字母の選択は重要な問題でしょう。唐代北方音に依拠するとはいっても、それはあくまでも音韻体系の異なる日本語の発音にすり合わせるという作業と一体不可分です。そして、そのすり合わせ(調整)の結果が上にみたような字母の選択のしかたにあらわれているのであり、その調整の能力は日本語を解さない中国人にはもちえないということを前回、申し上げたわけです。

> 時伊奘冉尊曰、愛也吾夫君、言如此者、吾当縊殺汝所治国民、日将千頭。
> 伊奘諾尊乃報之曰、愛也吾妹、言如此者、吾則当産日将千五百頭。【伊奘
> 諾尊乃ち報へて曰く、愛しき吾が妹、如此言りたまはば、吾は日に千五百
> 頭を産まむ】」
>
>「吾夫君」に対して「吾妹」が呼応している。夫婦である。井上氏が明らか
> な嘘をついてまで私を中傷する目的は何なのか。

 残るb(1)の「嘘」(イザナキとイザナミは兄妹ではない)については以前、「イザナキを『夫君』と書いてあるのは古語のツマの当て字でしょうし、そもそも同時生成の男女神を兄妹と見ることのどこが『嘘』なのか、正直よくわかりません」と書いたとおりで、それ以上の考えは特にありませんが、ここをよむ読者は彼らが兄妹神であることを知っているのですから、彼らが夫婦になったあとも、その属性に変わりがない以上、ここでわざわざ注を書いて「吾妹」が妻の愛称だと説明する必要はないでしょう。それに、この「吾夫君」「吾妹」の対句にこだわるのは一つの漢文の解釈なのですから、その解釈をとらない者を嘘つき呼ばわりするのは明らかにやりすぎで、「最低のマナー」にも反しているでしょう。

> 井上論文は、太田の研究に触れず、「この一点だけでα群全体を覆えるも
> のなのであろうか」(99頁)と書き、『謎』が「注ひとつ」だけで安易に
> 判断したかのように書いたのです。『謎』を読んでいない一般読者が井上
> 論文だけ読めば、『謎』はそうした議論をしてるのかと思うでしょう。こ
> れは、「廼」の場合も同様です。
>
> 井上氏は、今回の反論では自分は「α群とβ群の前後関係について批判を
> 加えている」のだから「廼」に関する森説も認められないと書いています
> が、そうであるなら、井上論文では、「『古』は「廼」についてこう説明
> しているが、α群とβ群の前後関係は不明なのだから、それは証拠にはな
> らない」と批判すれば良かったはずです。そうなっておらず、不利な事例
> を隠しているならインチキだと論じていた以上、『古』では自説の証拠の
> 一つとして論述されていることを見落として非難したことを認めるべきで
> す。補足説明や反論は、その後のことでしょう。

 ここで石井先生が指摘されたように、拙論に誤解を招く可能性があったことは認めます。また、a(2)非鼻音化のデータをとる際に、『古代の音韻』155頁の最後の3行を見落として「廼」字を反証に挙げたことも認めます。もとより「とんでもないインチキ」などは撤回するにやぶさかではありませんが、a(2)に関する私の批判が「廼」字にとどまらないことは今回ここにしめしたとおりですし、上記のようにβ群に唐代北方音の影響を認める立場からすれば、「廼」字はもとより、その他の漢音声母+呉音韻母の4字(倍・陪・苔・耐)もまた反証の一つとなることに変わりはありません。

 この155頁は漢音声母+呉音韻母という奇妙な例を挙げてβ群がα群を参照したということを述べたところですが、「中国人ならやるはずがないこと」がβ群にあっても問題にはなりませんし、それがまたどうしてβ群がα群を参照した「証拠」になるのでしょう。むしろ反対に、今回挙げたナとダ、マとバの仮名の使い分けからはα群がβ群を参照したとさえいえるのです(これはα群がナとマを聴き取れないと仮定した話ですが)。

 それに、非鼻音化のデータを『謎を解く』はもとより、『古代の音韻』の本論のどこにも挙げていないという点は、今回ここに暴いた勘違いやダブルスタンダードなどとともに、やはり専門家として如何なものかと思わざるを得ないところだと思います。これらは専門外の研究者や一般の読者からすれば、日本の中国音韻学の信用にかかわる問題ではないでしょうか(念のため、私が言いたいのは、今回のような検証作業は本来、専門家どうしでやっておくべきことで、こんな他流試合の場でやる必要のない仕事だという意味です)。

 以上、拙論では述べなかった論点を補ってみました。これまではコメントとして私見を簡潔に述べてきましたが、今回は補論として詳細に書きました。結果、森説には音韻学者としてもかなり基本的な勘違いや問題点が存在することを指摘しました。そんなバカなと思われるだろうと思い、その問題や勘違いが形成された過程や事由もなるべく詳しく書きました。これで、この論争の問題点が学問領域を分けるdiscipline以前のものであることがハッキリしたと思いますし、またこれで「根気よく」「丁寧に」自説をくり返されることもないと思いますが、石井先生も問題にされている書紀編修論をふくめて、真摯にお考えいただくよう願うばかりです。とはいえ、私もここまで書いた以上、森先生に私の批判を受け入れていただけるとは思っておりません。今回のコメントでも、

> 井上さんは、「日本人が読み上げた段階で清濁は正しかったはずです。そ
> れをたまたま中国人が10例ほど聞き違えたというならば、それこそ偶然の
> 誤りなのではないでしょうか。」と述べています。しかし日本人なら、枝
> を「エタ」、水を「ミツ」などと間違えるはずがありません。これがα群
> 中国人表記説の最大の根拠です。

という意味不明な反論をされていますが、私の反問の意味がおわかりにならないようですから、もう一度説明します。拙論では中国人編纂官が清濁を正しく書いた原史料を誤って訂正する理由はないと書きましたが、日本人の助手が歌謡を読み上げたとしたら、原史料に多少の混乱があっても、その段階で清濁などは修正されるから、結局、原史料に清濁が正しく書いてあるのと同じだということです(石井先生は、日本人にも読めない原史料があり、勝手に変えた部分もあるのではないかとお考えですが、それはまた別の問題です)。またそもそもこの方法では日本語を解さない、つまり日本語の音韻体系が頭のなかにない中国人に日本人の読み上げる歌謡が聴き取れるはずがない。石井先生はゆっくりやったのではないかとおっしゃいますが、私が言うのはそういうことではなく、上にも述べたように、ナ・マがダ・バになったり、濁音がみな清音に聞こえるわけですから、日本語の語の識別を無視したメチャクチャな文面になってしまう(日本語初心者に作文を書かせると、よくそういうことが起こりますが)。それでは結局、日本人が直さなくてはならないので、日本人が表記したのと同じことになりますし、大体そんなまわりくどいことをするはずがないだろうということです。

 今回、私がしめしたように、一つ一つの音に対応する字母の選択のしかたをみてゆけば、これは無理に中国人が書いたと考えなくてもよいということが納得していただけるだろうと思います。ここに取り上げたのはもっとも中国人的な特徴をあらわすところの仮名ですから、これだけでも中国人説の当否を検証するには十分なはずです。

 ともあれ、私なんかよりずっと長く他流試合に身を置いておられる森先生が、ご専門の音韻論と誤用論に絶対の自信をおもちなのはよくわかります。しかし相手がこうしてわざわざご専門の領域に踏み込んで書いているのですから、せめて私が何を考えて書いているのかは考えていただきたい。私にとっては後半の編修論のあたりでやり合う方がずっと楽なのですし、文献史学の立場からは実際それだけで十分なのです。このように申し上げても、これまでのような扱いをされるようなら、こちらももうすぐ新学期が始まりますし、そろそろこの場外乱闘からも失礼させていただこうと思います。

  8月26日 北京の寓居にて

井上 亘拝


薬師像銘は日本語表記草創期の作: 小谷博泰「文章史から見た法隆寺幡銘と薬師像光背銘」

2011年08月26日 | 論文・研究書紹介
 少し前の記事で、古代日本における訓読とその基礎となった朝鮮諸国における漢文読解法についてちょっとだけ触れましたので、関連する論文を紹介しておきましょう。木簡と宣命の研究で知られる小谷博康氏の論文、

小谷博康『木簡・金石文と記紀の研究』「第一部 3 文章史から見た法隆寺幡銘と薬師像光背銘」
(研究叢書352、和泉書院、2006年)

です。

 資料が少ない時代について、「何々は無かった」と言うのは難しいものです。小谷氏は、「ある言葉が『日本書紀』に出て来る、だからその言葉を使っている金石文は『日本書紀』以後の成立だ」といった論法には賛成できないとします。『日本書紀』以前にその言葉が使われてなかったという証拠はないからです。小谷氏のこの論文は、そうした「だから『日本書紀』以後の成立だ」といった論法に反対する立場から法隆寺金堂の薬師像光背銘をとりあげ、検討し直したものです。

 小谷氏は、まず法隆寺に残る数々の幡の銘について紹介し、その多くは七世紀のものと見てよいとします。こうした幡は、誰かの臨終時に身内が延命ないし浄土往生を誓願し、後に作成して寺に寄進するものです。山部氏などの氏名が記され、しかも女性の寄進によるものが多いところから見て、法隆寺がこうした在地の男女の有力者たちの信仰の場となっていたことが知られます。これまで指摘されていませんが、こうした幡の背景の一つとなったのは、おそらく中国で五世紀に作成された偽経の『灌頂経』でしょう。『灌頂経』なら巻12は『薬師経』の古訳を抄出・改変したものであって薬師仏も登場しますし、流行して単行でも流布していたようなので、薬師像銘とも関わる可能性があります(この問題は近いうちに取り上げます)。

 国語学者である小谷氏は、むろん、そうした仏教面の背景ではなく、用語と構文に注意して論じています。つまり、こうした幡銘は「造像銘の文章に類似し、あるいはそれと一連のものと考えることもできる」(40頁)と述べ、元興寺露盤銘やその他の金石文にも「文章史的にはつながるもの」という観点で説いていくのです。

 そして、推古朝遺文の中で最も強く疑われている金堂薬師像光背銘の考察に移ります。氏は、この銘に「大御身」や「大宮」といった敬語接頭辞が見えるのは、純粋な漢文ではなく、「口頭で読まれるべく書かれたと考えられる和化漢文」(42頁)だからだとします。

 津田左右吉の研究法を活用した博学な建築史家、福山敏男が伝承説を批判的に検討し、この薬師像銘を含む種々の金石文や文献を後世の作と断じたのは、当時にあっては先進的ですぐれた研究でした。しかし、小谷氏は、その論証にはあやうい面が多いことに注意をうながします。福山の論文では、「恐らく……らしく……であろう」などと推定を重ねておりながら、結果としては断定に至っていることが多いからです。

 小谷氏は、薬師像銘は「和化漢文として書かれながら、どうも文脈の整っていない部分があり、表記も漢文的な部分と和文的な部分がまだらにまじっていて、はなはだ読み取りにくい個所がある」(45頁)ことに注意します。そもそも、文章がうまく続いていない個所が目立ち、用明天皇の詔にしても、造りたいという自分の意志なのか、造って仕えよという命令なのかも、はっきりしません。

 氏は、これは試行錯誤している時期であることを示すものだとし、「しっかりと表現できるだけの口頭語の発達がない段階で、あえてそれを表現しようとするための、ゆれのようなもの」と見ます。七世紀半ばの木簡には、荷物を盗まれたことに関する上申書があり、入り組んだ内容が書かれていることを考えると、そうした木簡の筆者より学力・文章力があったはずの薬師像銘の筆者が、このような拙い文章しか書けないというのは、日本語表記の草創期なればこそだとするのです。

 確かに、薬師像銘は、法隆寺の中心となる仏像に彫り込まれたものであり、しかも非常に整った書体で書かれているのですから、中世の寺社の数多い僞作文書のように、あまり学力の無い僧侶が怪しい由来文書や土地関連文書を品の無い書体で捏造するのと同一に見ることはできません。

 小谷氏は、以上のことから、この銘文は「推古十五年に直ちに書かれたわけでなくても、推古朝のものであった可能性は高いと言える」と述べ、これらの文章は「六世紀の朝鮮半島における文章表記の流れを受けついだものかと思われる」として(47-8頁)、そうした資料の発掘に期待しています。

 ということで、推古朝説なのですが、困りましたね。実は私は「薬師像銘は後代の作」と論文で書いたことがあるので……。

 銘文を幡銘とを比べながらじっくり読み直し、もう一度考えてみることにしましょう。氏が言われるように、未発達な日本語表記であることは確かですし、「大王天皇」といった表記を初めとして、律令以前の状況を伝える古い要素を含むことは間違いないものの、銘文に推古天皇が登場するのは不自然に思われるなど、問題はやはり多いと思うのですが。

 なお、このブログで以前紹介した北康宏氏の論文では、舒明天皇の宣命に基づいて天武朝以前に彫り込まれた、という説でしたね。

 

「井上さん、論点をそらさないで下さい」……森博達氏自身による反論

2011年08月23日 | 論文・研究書紹介
 井上亘氏の再反論「中国人ではありえない理由」に対して、森博達氏が早速反論を寄せられましたので、掲載させていただきます。
(ブログ作者:石井公成)
================================

「井上さん、論点をそらさないで下さい」

                        森 博達

 井上さん、ご反論、有難うございます。
                     
 今回の「論争」の発端は、拙著『日本書紀の謎を解く』に対する井上氏の批判にあります。井上氏は「『日本書紀』の謎は解けたか」(大山誠一編『日本書紀の謎と聖徳太子』平凡社、2011年)で、音韻学の概説(中国音韻学、中古音の概要)から始め、「書紀音韻論」では平山説(α群倭音説、α群原音―倭音説)によって、私のα群原音依拠説を批判しました。井上さんは中国語学のイロハを知らず、小学や音韻学(中古音・唐代北方音等)について数多くの初歩的な誤りを犯し、その「書紀音韻論」では決定的な誤解に基づいて拙著『謎』を批判しました。、私がそれらの誤りや誤解を指摘したところ、井上さんは「アラ探し」と居直りました。このあたりの「論争」については、某氏のブログ「天漢日乗」(8月18日)で次のように評されています。

「ところで、disciplineの違いによる相互不理解なのだが、
 森博達先生は、根気よく、井上亘氏の「反論」に答えて
 おられるので、頭が下がる。基本的に井上亘氏の中国語
 音韻学に関する知識の問題に起因すると思われる誤解に
 答えておられるのだが、こういう論争は、おそらく中国
 語学のdisciplineを経ていない井上亘氏には、到底納得
 できないという話になっちゃうんだろうな。」

 ある意味で、非生産的な「論争」です。「アラ探し」という非難をうけて、「井上論文の骨や肉はどこにあるのですか?」と尋ねたところ、「ポイント」として4点を挙げられました。私は前回のコメントで丁寧に解説し、その4点を悉く論破しました。井上さんは今回のコメント(8月22日)で、それに正面から答えず、「逐一反論すると長くなりますし、読者の皆さんもそろそろ飽きてきたでしょうから、今回は少し角度を変えて」、と論点をそらしています。

 つまり、4点の「核心」についての私の批判に正面から答えられていないのです。肝腎要の核心です。長くなってもかまいませんし、読者の皆さんもぜひ訊きたいところでしょう。逃げずに丁寧にお答えください。

 なお、井上氏のコメントは今回も拙著『謎』『古』についての誤解に満ちているので、説明を補足しておきます。

(1)α群ではカ行を除いて次清音(無声有気音)字の使用を回避している問題です。前回のコメントでこう記しました。

「『音声学的な気音の強弱についても、当然、中国人が敏感なのに対し、日本人は鈍感である。したがって日本人であれば、中国語が堪能であっても、α群のように子音による条件的な気音の強弱を書き分けることは、きわめて困難である』(『古』149頁、『謎』104頁でも例も挙げて説明しています)。その困難さは、日本語母語者である井上さんが、日本語を聞いて個々の気息音の把握を試みられればお分かりになることでしょう。」

 井上さん、日本語の気息音の把握を試みられましたか? なお、日本人が複数の字音体系を混用して倭音(漢字の日本音)で表記したβ群歌謡では、次清音字が13字種・延べ155例用いられていますが、その使用はアトランダムで法則性は見られません。つまり当然のことながら、日本語の気息音を正確に表記することなど、β群の日本人表記者にはできなかったのです。

(2)α群で日本語の鼻音マ・ナ行と濁音バ・ダ行を書き分けていない問題です。井上さんは今回のコメントで、次のように述べられています。

「もし仮に両先生がいわれるように、(2)非鼻音化や(3)濁音の無声化が相当程度進展していたならば、ナ・マはダ・バになり、濁音のほとんどは清音になっていたわけですから、中国人には鼻音のナ・マが聴き取れず、非鼻音化したダ・バはよいが、ガ・ザもほとんど聴き取れないことになります。α群の仮名がそういうふうになっていたなら、これは確かに中国人が書いたものだと信じましょう。しかし実際にはそうなっていないわけで、森先生もご著書のなかで、非鼻音化したはずの字母がα群で鼻音のナ・マに使われている点について『やむを得ない混用」と説明されています(『古代の音韻』49頁)。つまり、日本語のナ・マが書けないと困るから混用したということですね。では、それは誰にとって「やむを得ない」ことなのでしょうか。もちろんそれは日本人の方です。」(下線太字は森)

 違います。中国人にとって「やむを得ない混用」なのです。
唐代の正音(北方標準音)では、中古音の全濁音は無声音化しました(並母b>p、定母d>t)。その間隙を埋めるように、中古音の鼻音声母は鼻濁音になりました(明母m>md、泥母n>nd等)。つまり当時の正音には日本語にピッタリ適合する鼻音(m・n)も濁音(b・d)も無かったのです。それゆえ、中国人表記者は明母字をマ行とバ行に併用し、泥母字をナ行とダ行に混用せざるを得なかったのです。 

 日本人(マ・バ、ナ・ダを区別する日本語母語者)であれば、中古音でng韻尾をもち音声的に非鼻音化の進行が遅れていた唐韻(-ang>-a~)の漢字をマ・ナに専用できたはずです。そしてバ・ダには歌韻字を用いれば、区別できるわけです。つまり、次のように書き分けられるのです。

 マ(ma):莾(mang>ma~、漢音マウ)――バ(ba):摩(ma>mba、漢音バ)
 ナ(na):曩(nang>na~、漢音ナウ)――ダ(da):娜(na>nda、漢音ダ)

 実際、中天竺出身の善無畏は梵文字母表の対訳で、このように書き分けています。ところが、中国人はこのような区別することができなかったのです。外国人の耳には区別できる鼻音と鼻濁音は、中国人にとっては同一の音韻だったので区別できなかったのです。有坂さんが説くとおりです(有坂秀世「メイ(明)ネイ(寧)の類は果して漢音ならざるか」、『古』149~150頁参照)。書紀α群では善無畏と違って、マとバ、ナとダを区別していません。これがα群中国人表記説の第2の根拠です。

 なお、バ・マやダ・ナと異なり、日本語のガ行には濁音と鼻音の音韻論的対立はありません。したがって両群ともガ行には疑母(ng->ngg-)を専用しています。ザはα群では「蔵」(dzang>tsa~)の1例のみ。この用字については『古』56~57頁・127頁で説明しましたのでご覧ください。

(3)α群では、枝を「曳多(エタ)」、水を「瀰都(ミツ)」のように、日本語の濁音を「多」「都」などの全清音(無声無気音)字で表記した例が、7字種・延べ11例用いられているという問題です。しかも、これら11例はすべて高平調の音節でのみ現れた誤用なのです。日本人が表記したβ群には、このような誤り(日本語濁音に全清音字を当てる)は1例もありません。

 井上さんは、「日本人が読み上げた段階で清濁は正しかったはずです。それをたまたま中国人が10例ほど聞き違えたというならば、それこそ偶然の誤りなのではないでしょうか。」と述べています。しかし日本人なら、枝を「エタ」、水を「ミツ」などと間違えるはずがありません。これがα群中国人表記説の最大の根拠です。

(4)α群巻14「雄略即位前紀」の「吾妹」に付けられた「称妻為妹、蓋古之俗乎」という非常識な分注の問題です。玉稿(99~100頁)では、「雄略紀以外はみな実の妻を指している。反対に言えば、妻を指して「吾妹」と言った例は雄略紀だけなのであるから、ここにこう言う注記があってもおかしくない」と書かれています。これが嘘であることは、再三指摘しました。つまり、井上さんは嘘に基づいてα群中国人表記説を批判しているわけです。今回のご反論では「角度を変えて」、論点をそらせるのではなく、(4)について「嘘」の弁明から始めるのが最低のマナーでしょう。

 以上です。井上さんは前回のコメント(8月17日)で、「拙論を批判するなら、この4点を論破すればよいのです」と言われました。それを受けて、私は前回のコメント(8月18日)で、丁寧にその4点を批判したわけですが、今回のコメント(8月22日)では論点をそらしています。折角の機会です。長くなっても結構ですので、私の批判に正面からお答えください。読者の皆様もそれを期待されているはずです(このブログは臨場感があって素晴らしいですね。面白くて為になり、しかも閲覧無料)。

 なお、私は25日に訪韓して、9月5日に帰国する予定です。訪韓中は、忠州で開催される「韓国木簡学会夏季セミナー」で特別講演「日本書紀に見える韓国古代漢字文化の影響(続篇)」、成均館大での特講「魏志倭人伝と弥生時代の言語」、ソウル大の奎章閣コロキアムでの講演「日本書紀に見える韓国漢字文化の影響」を行います。また各地の史蹟なども巡るので、PC環境が整わず、すぐにコメントを書き込めないかもしれません。ご了解ください。このブログのことは、韓国でも宣伝に努めます。(8月23日記)

井上亘氏の反論「中国人ではありえない理由」への疑問

2011年08月23日 | 論文・研究書紹介
井上さん、

 再々のご意見、有り難うございました。ただ、立場が少々異なる二人を相手にしているせいもあるのでしょうが、どうも論点がずれた解答、ずらした解答がなされている感じがします。

 まず、最初に確認しておきたいことは、私は述作者名などの細かい点についてまで森説すべてに賛成しているわけではないということです。このことは、連載第四回目の記事とそれをめぐる森さんとのコメントのやりとりの中で明言した通りです。

 ただ、私はα群説は画期的な業績だと思いますし(成立論についても、作業内容の解明や述作者の条件の絞り込みなどがかなり進んだ点は評価しています)、また『謎』での誤用などの分析方法については今後の研究に役立つものとして非常に高く評価しており、それをどのように活用できるかという視点で『謎』を見ています。ですから、「成立論の論証方法をもっと厳密にせよ」という立場で批判を重ねていく井上さんとは、話がかみあわないのですが、私が井上論文を連載で批判したのは、森説を批判する理由が強引であって納得できない場合が多いためでした。

 また、批判連載に続いて、批判するなら「ポイント」を批判してほしいというご要望に応えて書いた前回の批判記事での重要な点は、井上論文は『謎』や『古』をきちんと読まずに批判しているということです。私が連載の最終回で、井上氏の著書に対する榎村氏の書評から「先行研究の消化不良」という言葉を引いたのは、井上論文が森説批判に急であって『謎』や『古』を熟読してないように思われたことも一因です。音韻論議なので連載では触れせんでしたが、「廼」に関する議論はその典型です。

 『謎』や『古』の読み込み不足という点は、森さんも前回の批判で指摘していましたが、今回の井上さんの反論は、この点にきちんと答えてませんね。

> 拙論は、(1)日本人が有気音を区別できてもおかしくはない、
……
> この拙論に対して、(1)森先生はβ群のデータを挙げて「困難」
> だといわれ、石井先生もまたβ群を例に出して当時の日本人が気
> 息の有無に敏感であったとは言えないといわれる。

 私は、井上論文が「当時の日本人は現代のわれわれよりも声母の清濁と気息の有無にずっと敏感であったと考えられる」(90頁)と一般論的に書いていたため、β群では厳密に区別されていないことから見て、日本人一般の議論としてはそれは成り立たないだろうと書いただけです。

 私は、そのすぐ後で、「入唐して学んだ結果、『無気音と有気音を区別できる』ようになった日本人はいたかもしれませんが」と書いており、そうした人がいた可能性は認めています。問題は、そのように中国語の達人となったとしても、日本で生まれ育ったのであれば、そうした人がα群述作の責任者となって、日本人から見ておかしい清音・濁音の混同を11箇所もの所でするとは考えにくい、と述べたのです。

>  (2)拙論で挙げた「廼」字について両先生ともに「特殊な仮名」
> とされ、その他のα群と共通する例について石井先生はβ群がα
> 群を参考にして書いたとする森説に準拠して問題ないとされる。
> 特例(奇用?)と言われればそれまでですが、後者については拙
> 論でα群とβ群の前後関係について批判を加えているわけですか
> ら、この説明にも従えません。

 これは、森さんや私の指摘にきちんと答えていません。「廼」を「ド」や「ノ」の音として使うことは、β群だけの用例です。森説では中国人がしがちだという混同がβ群だけに登場する「廼」の仮名表記にも見られるから森説は成り立たない、というのが井上論文の議論でした。しかし、「廼」を「ド」の音とするのはβ群ならでは奇妙な例であって、中国人ならやるはずがないことを、『古』は明記していました。井上論文は、それを見落とし、「このような反証を隠して論拠にあげているとすれば、とんでもないインチキということになる」(92頁)と非難していたのです。しかし、森説にとって、「廼」は自説に有利な例であって、隠さねばならない「反証」ではありません。

 井上氏は、今回の反論では自分は「α群とβ群の前後関係について批判を加えている」のだから「廼」に関する森説も認められないと書いていますが、そうであるなら、井上論文では、「『古』は「廼」についてこう説明しているが、α群とβ群の前後関係は不明なのだから、それは証拠にはならない」と批判すれば良かったはずです。そうなっておらず、不利な事例を隠しているならインチキだと論じていた以上、『古』では自説の証拠の一つとして論述されていることを見落として非難したことを認めるべきです。補足説明や反論は、その後のことでしょう。

> 校生どうしが音読して校正を進めたといった可能性はかなり
> 低いと思われます。もちろん一切経と書紀では書物の性格も
> 規模もちがいますが、同時代の校正作業が詳しくわかる実例
> としてご紹介しておきます。

 おっしゃるように、既に完成している経典を分業による大量生産方式で書写していく写経所の方式と史料を元に原稿を作っていく『書紀』の編纂事業を比べるのは無理でしょう。写経の場合、日本では、字を見て写していくせいか似た字と間違えることが多く、敦煌文書の場合は、一人で書写する場合はひとまとまりを読んで音で写すか、二人の場合は一人がゆっくり読み上げて一人が書く方式もあったようで、似た音による間違いが目立ちます(音通字が多かったというだけではないです)。

 それはともかく、経典を例にあげるなら、優婆塞貢進解では、「この者はこれこれの経は(本を見ればすらすらと)読誦でき、この経典とこれこれの陀羅尼は暗誦できる」と記するほど、奈良時代は音読・暗誦を重視していたという面もありますね。優秀な優婆塞は、実際、かなりの数の経典を身につけていました。中国人知識人の場合は、儒教の経典や有名な文献は暗唱するか音読で馴染んでおり、そうした伝統的な学び方が文章を作成する場合にも適用されたでしょう。少なくとも、公的な場で読み上げられるような重要文書を書き、それを再読して確かめる場合、すべて黙読ですますというのは考えにくいことです。

> それを言うなら日本人の編纂官の下に中国人の助手がいたと
> 考える方が自然です。

 私も以前はその説でしたが、考えを変えました。ただ、『謎』では、方針や記述方向を指示するのは、官位が上位の日本人とされてました。詳しい考察はなされていませんが。

 なお、井上論文が想定する編修過程では、「編集作業は非常に短時間に行われた可能性が大きい。……添削担当者のクセや能力差がα群とβ群という形で出たと考える」(111頁)とのことでしたが、これに中国人助手説を合わせると、漢字音と文章のチェックのために中国人助手を雇っておりながら、巻14~21と巻24~27だけ手伝わせ、重要な天照大神関連記事・神武紀・神功紀・仁徳紀・推古紀・天武紀や、最新の持統紀などには関与させなかった、ということになります。「森の仕事をこのように読み替える」(111頁)という井上流『書紀』成立論は、『謎』の成立論よりあり得ない想像に見えます。井上説は、中国人助手説ではないのでしょうが、その場合もこの不自然さは残ります。

> そもそも日本語を解さない中国人に日本語の音節を正しく
> 聴き取ることが果たしてできたのでしょうか。

 日本人が読み上げるのであれば、区切って読むでしょうし、意味も説明することになるでしょう。そのようにしてもらえれば、古韓音や呉音で書かれた史料も多少は参考にできるでしょう。その日本人でさえ、分からない部分があり、分かる形に変えてしまった個所もあるかもしれませんが。

 梵語や仏教梵語などの経典を翻訳する際は、連声している梵文を三蔵が「たろうちゃんちにっちゃって~」などと暗唱で、あるいは貝葉を手にしてまず読み上げ、それをその三蔵か梵語が出来る中国僧が「たろう、ちゃんの、うちに、いって、しまって」などと区切り、それを別の人が漢語に直します。さらにその順序を漢語の語順に組み替え、それを潤色し、再点検し、さらに……という具合でいろいろ作業があるのです(こうした手順や分担の人数は時代や訳場の状況によります)。「言って」なのか「行って」なのかといった問題は、その三蔵が決定するのが原則ですが、実際はそうでない場合もあったようです。鳩摩羅什などは後には漢詩の贈答をするに至るほど漢語に上達していますが、三蔵の漢語能力や補助する中国僧の梵語能力によっては、こうした作業はかなり大変だったようで、初期のものには誤訳が多く含まれています。『書紀』の場合も、歌謡が元の歌謡通りに正しく仮名表記されている保証はなさそうに思います。

> 残るb(1)注一つだけで
> 全体を覆うことはできないとした拙論について、両先生とも
> に一つではなく太田説を一歩進めたにすぎないということで
> すが、その一歩を進めた根拠が上のa音韻論なのですから、太
> 田先生の躊躇を解くまでには未だ至っていないといわざるを
> えません。

 違います。『謎』ではその「注一つだけで」判断したのではなく、太田善麿が問題にした「複数の注」と音韻の面から判断したのです。井上論文は、太田の研究に触れず、「この一点だけでα群全体を覆えるものなのであろうか」(99頁)と書き、『謎』が「注ひとつ」だけで安易に判断したかのように書いたのです。『謎』を読んでいない一般読者が井上論文だけ読めば、『謎』はそうした議論をしてるのかと思うでしょう。これは、「廼」の場合も同様です。

 まず、認めるべきことを認めてから補足説明や反論をすべきだと思いますが、いかがでしょう。


中国人ではありえない理由……井上亘氏自身による再反論

2011年08月22日 | 論文・研究書紹介
井上さんが8月22日に送ってくださった再反論です。
(ブログ作者:石井公成)

==============================

    中国人ではありえない理由

                      井上 亘

 井上です。前回ここを狙えと書いたら案の定、早速バンバン撃ってきたという感じですね。特に石井先生の反論は私のコメントを逐条審議されて決定打をお見舞いするといった勢いで、誠に恐れ入りました。しかし、両先生のお話に逐一反論すると長くなりますし、読者の皆さんもそろそろ飽きてきたでしょうから、今回は少し角度を変えて、森説が成立しない根本的な理由を書いてみましょう。

 前回ここを狙えと書いた拙論のポイントの内、aの論点を簡単に言い換えると(1)有気音、(2)非鼻音化、(3)濁音の無声化、となります。これらは森説においてα群の筆者が中国人でなければならない理由として挙げられたものです。(1)は現代に至る中国語の特徴であり、(2)(3)は唐代北方音の特徴であって、これらの特徴がα群に見られることからα群中国人表記説が提唱された。これに対して拙論は、(1)日本人が有気音を区別できてもおかしくはない、(2)β群にも非鼻音化の例がある、(3)原史料には清濁が正しく書いてあったはずだ(偶然の誤りにすぎない)として森説を退けました。

 この拙論に対して、(1)森先生はβ群のデータを挙げて「困難」だといわれ、石井先生もまたβ群を例に出して当時の日本人が気息の有無に敏感であったとは言えないといわれる。しかし拙論はα群がβ群よりも中国語の習熟度において高いレベルにあると認めているのですから、β群を根拠にしても反論にはならないでしょう。

 (2)拙論で挙げた「廼」字について両先生ともに「特殊な仮名」とされ、その他のα群と共通する例について石井先生はβ群がα群を参考にして書いたとする森説に準拠して問題ないとされる。特例(奇用?)と言われればそれまでですが、後者については拙論でα群とβ群の前後関係について批判を加えているわけですから、この説明にも従えません。

 (3)両先生ともに日本人の助手ないしスタッフがいたとし、石井先生は特に音読しながら校正したことを強調されています。ここが今回のポイントなのですが、さしあたり音読について当時の写経事業を例に出しましょう。正倉院文書によると八世紀の写経所では経師が経文を書き、校生が校正する形で膨大な数の経典が生産されていたわけですが、校正は複数の校生によって同時に、しかも相当なスピードで進められ、さらに初校と再校の校生を換えてその実績を個々に管理していたことから、校生どうしが音読して校正を進めたといった可能性はかなり低いと思われます。もちろん一切経と書紀では書物の性格も規模もちがいますが、同時代の校正作業が詳しくわかる実例としてご紹介しておきます。

 さて、以上のように両先生の反論に対する私見を述べたうえで、(3)で言及された日本人助手説について話を進めてゆきます。まず、両先生はあくまで中国人の編纂官がいて日本人の助手がいたといわれるのですが、それを言うなら日本人の編纂官の下に中国人の助手がいたと考える方が自然です。そもそも書紀の編纂官は名前までわかっているのですから。つぎに、なぜ両先生が日本人の助手を想定されたかというと、森先生によれば中国人には呉音の仮名が読めなかったからですが、ならば石井先生がいわれるように原史料が渡来人によって書かれたにせよ、日本人が読み上げた段階で清濁は正しかったはずです。それをたまたま中国人が10例ほど聞き違えたというならば、それこそ偶然の誤りなのではないでしょうか。さらにいえば、そもそも日本語を解さない中国人に日本語の音節を正しく聴き取ることが果たしてできたのでしょうか。

 もし仮に両先生がいわれるように、(2)非鼻音化や(3)濁音の無声化が相当程度進展していたならば、ナ・マはダ・バになり、濁音のほとんどは清音になっていたわけですから、中国人には鼻音のナ・マが聴き取れず、非鼻音化したダ・バはよいが、ガ・ザもほとんど聴き取れないことになります(実際いまも濁音が聴き取れない中国人はたくさんいます)。α群の仮名がそういうふうになっていたなら、これは確かに中国人が書いたものだと信じましょう。しかし実際にはそうなっていないわけで、森先生もご著書のなかで、非鼻音化したはずの字母がα群で鼻音のナ・マに使われている点について「やむを得ない混用」と説明されています(『古代の音韻』49頁)。つまり、日本語のナ・マが書けないと困るから混用したということですね。では、それは誰にとって「やむを得ない」ことなのでしょうか。もちろんそれは日本人の方です。そもそも日本語の音韻体系と中国語のそれとは全く異なるものですから、「唐代北方音に依拠する」とはいえ、あくまでも日本語にあわせて調整しなければならないわけで、そんな仕事を日本語がわからない中国人がなし得たとは到底、考えられません。だから日本人の助手がいたのだといわれるなら、その助手の方がずっと負担が重く、より本質的な仕事をしていたといえるのではないでしょうか。

 α群の仮名が上代日本語の発音を復元し、あるいは唐代北方音の様相を推定するうえで大変優れた対訳資料であることは認めます。しかし日本語で書かれた歌謡を外国人が修正するのは不可能であることも認めていただきたい。その上に立ってやはり中国人が本質的な役割を果たしたといわれるならば、現在の憶測に満ちた編修過程論(これが『謎を解く』の本丸だったはずです)を組み直して、別の角度から新たに主張を展開する必要があるでしょう。もはや私の口をふさげばよいという段階にはないと思います。

 以上がa音韻論に関する私見です。残るb(1)注一つだけで全体を覆うことはできないとした拙論について、両先生ともに一つではなく太田説を一歩進めたにすぎないということですが、その一歩を進めた根拠が上のa音韻論なのですから、太田先生の躊躇を解くまでには未だ至っていないといわざるをえません。

 今回の話を要約すると、α群の仮名を書いたのは中国語に相当習熟した人物と認めうるが、それはあくまでも日本語の音節を正しく聴き取り、これと中国語の発音を調整できることが前提になるということです。この結論だけからいえば、渡来系の史をふくむ日本人であったかもしれないし、日本語に相当習熟した中国人であったかもしれません。しかし少なくとも森説にいうような日本語を解さない中国人ではありえないとは断定できます。また仮にそういう中国人が書紀の編纂に関与していたとしても、それはあくまでも協力者なのであって、編纂の方針を決定するような立場にはなく(もとより森説は中国人が編纂事業をどう左右したかといった点にはふれていませんが)、せいぜい仮名の選択や文章の添削に従事したにすぎなかったでしょう(こういう言い方をするとまたぞろご勘気を被りそうですが、これはあくまでも仮想の話です)。そもそも歌謡を外国人に書かせるという想定じたい常識外れです。石井先生は宣長の有名な言=事=心のテーゼを引いて私の読みを非難されましたが、古意を知る上で「第一の至宝」とした歌謡が、から人の手になると聞いたら、宣長は「嘆く」どころか、きっと耳も貸さないでしょう。

 ともあれ、ここに述べた根本的な疑義をふまえて、拙論後半の編修過程論批判をお読みいただければ、森説がもはや成立しないことは明らかであると思います。

井上亘氏の「応答」に答えてその「核心」を検証する

2011年08月19日 | 論文・研究書紹介
 井上さん、詳しい反論を投稿してくださり、有り難うございました。

 異議を唱えたいことも多いのですが、これをきっかけとして『書紀』成立論の研究や『謎』の方法の活用が進むことを願っているため、ここでは井上さんがご自分の批判の「核心」とされる点と、今後この方面の研究を進めていくうえで重要と思われる箇所だけコメントすることにします。

> このような論点の整理もせず、随想ふうに問題点を書き立てて
> も決して批判にはならないでしょう

 連載の最初に述べたように、私は梵語の漢字音写と漢字音の関係には関心を持っており、その方面の論文などは多少読んできたものの(あとは仏教の音義関係で興味を惹かれたものを読んでいた程度)、音韻学ついては素人なので立ち入ったことを書くのは遠慮してその面は森博達さんや他の専門家におまかせした結果、音韻関連以外の問題点ばかり指摘することになりました。

 それでも、井上論文には強引な議論がこれほど多いことを示した以上、「肝心の音韻をめぐる議論も同様ではないか」ということになったと思いますし、連載の第四回目では、井上説の大前提となる「唐代の中国人ならば本来、濁音と清音を間違えるはずがない」(93頁)という主張は誤りであることを示したのですから、批判になっていないとは思いません。ただ、これまでのような書き方は随想的で「批判にはならない」と言われるのであれば、森さんの再々反論と重複してしまう部分が多いものの、井上論文の「ポイント」だという点について思い切って論じてみましょう。

> 拙論のポイントは、a(1)無気音と有気音を区別できる日本人は
> いなかったのか、a(2)中国人説の指標とされた非鼻音化の例が
> β群にもある、a(3)書紀編者が原史料の濁音を清音に訂正する
> 理由はない(偶然の誤りと見るほかない)、b(1)妻をイモと呼
> ぶ注一つだけで全体を覆うことはできない、以上の4点であり、
> その他の論点は補助的なものにすぎません。拙論を批判するな
> ら、この4点を論破すればよいのです。

 a(1)は「唐代の中国語には濁音の声母もあったので、当時の日本人は現代のわれわれよりも声母の清濁と気息の有無にずっと敏感であった」(90頁)という点が前提となっており、また、a(3)は「唐代の中国人ならば本来、濁音と清音を間違えるはずがない」(93頁)という点が前提となっていました。この二つの前提は関連しています。

 しかし、唐代の濁音に関するそうした主張が正しくないことは、連載第四回目で引用したように、大島正二氏が、長安で生まれ育った顔師古が641年に完成した『漢書』注の音義注部分には「清:濁の混同例」が見られると指摘していた通りです。それが唐代北方音、具体的には長安音の実態でした。

 また、長年修正を重ねて元和2年(807)にひとまず完成を見た慧琳の『一切経音義』が、伝統に基づいた『切韻』(601年)の音韻体系から大きく変化し、日本の漢音の母胎となった秦音(長安音)を前面に打ち出していることはよく知られていますが、慧琳のこの『音義』が『韻英』とともに現代音の根拠とし、3857回も引用していた秦音重視の『考声切韻』を書いた張{晉戈}は、則天武后が帝位についていた周(690-704)の時代に活躍した人です。

 つまり、『書紀』成立前の段階で、現実の長安音においては全濁音の有声性は弱くなっており、「唐代の中国人ならば本来、濁音と清音を間違えるはずがない」という井上説とは異なる状況となっていたのです。

 唐末・宋初の成立である『韻鏡』に濁音の枠が残っていることを井上氏は強調しますが、先にあげた大島正二『唐代字音』「V.唐代字音総説」などは、唐代の知識人にとって規範となった『切韻』の音韻体系と唐代における実際の発音の「ずれ」について詳論しています。濁音の枠が残っているからといって、そうした枠に配当されている字の長安音が日本人にとって濁音に聞こえるほど有声性が強くなかったことは、全濁声母の字を清音で写している日本の「漢音」が示すところであって、この点について音韻学者の間で異論が出されたという話は聞いたことがありません。

 規範と実態の「ずれ」に関する現代の例をあげてみましょう。私は、「裏付け」の「付」を仮名にする場合は、伝統的な規範に従って「裏づけ」と書くのが常であり、「裏ずけ」とは書きません。しかし、だからと言って「づ」と「ず」を発音し分けているわけではありませんし、子供や若い人の中には「裏ずけ」と書く者もいるでしょう。『切韻』系統の唐代の韻書や音義などが、濁音と清音を区別しているのは、(1)伝統に従ってのことか、(2)有声性:無声性の対立以外の要素による、と考えられることは、大島氏が強調していたところです。

 また、a(1)関連では「当時の日本人は現代のわれわれよりも声母の清濁と気息の有無にずっと敏感であった」(90頁)としていますが、α群では、日本語中では例外的に気息が強いカ行についてのみ例外として次清音字(有気音)の字を用い、カ行以外ではそうした有気音の字は徹底して避けていたのに対して、β群ではそのような配慮がされていないことを森説は示していました。つまり、当時の日本人が全般的に「気息の有無にずっと敏感であった」とは言えないことになります。

 入唐して学んだ結果、「無気音と有気音を区別できる」ようになった日本人はいたかもしれませんが、中国語の達人となったとしても、日本で生まれ育ったのであれば、日本語の清音と濁音を聞き分け、また発音し分けることが出来たでしょうから、そうした人がα群を担当し、日本人から見ておかしい清音・濁音の混同を11箇所もの所でするとは考えにくいことです。

 井上論文では、「日本人の(恐らく濁音を正しく書いた)原史料を、中国人がなぜわざわざ間違って書き改める必要があるのか」と疑問を呈し、そんな必要はない以上、清・濁の混同は「偶然の誤りと見るほかない」(93頁)と主張していました。しかし、古代に文書作成を担当し、日本語を漢字で表記するやり方を工夫したのは、日本語とは音韻体系が異なる百済系を主とする渡来人やその子弟が中心だったのであって(南朝から百済に渡っていて、日本に五経博士などとして数年交代で派遣されていた中国人(系)学者を含む)、『書紀』の材料となったものは、「日本人の(恐らく濁音を正しく書いた)原史料」などといったものでないことは、連載第二回目に詳しく論じておきました。

 古韓音や呉音などによって(ごく一部に中国音もあった?)、それもばらばらの用字法でそれぞれの時代の日本語の濁音の発音に近い仮名表記がしてあったとしても、『書紀』は唐代北方音に基づく「漢音」での表記が基本方針なのですから、直さざるを得ません。また、清音と濁音を混同するようになっていた中国人が直したとしたなら、当人は古くさくて不適切な表記を今風の適切なものに直したと考えていたはずであって、「わざわざ間違って書き改め」たつもりはないでしょう。

 したがって、a(1)とa(3)は成り立ちません。

> 特に拙論で最も失礼な物言いをしたa(2)の「とんでもないインチキ」
> などは、まず最初に「たしなめられる」べきなのに、石井先生も森先
> 生も何もおっしゃらない。

 a(2)に触れなかったのは、冒頭で述べたのと同じ理由によりますが、この点についても「核心」を突いてみましょう。

 α群は中国人の作だからこそ、唐代北方音における非鼻音化による鼻音と鼻濁音の混用という現象が見られるとする森説に対し、井上論文は、森『古代の音韻と日本書紀の成立』(以下、『古』)資料篇の仮名分布表を見て、字によってはβ群でも混用している例が存在する以上、β群も中国人作ということになってしまうと批判します(92頁)。しかし、森説によれば、β群はα群が成立した後、日本人述作者がα群を参考にして書いたとするのですから、α群に見える混用例がβ群にあってもかまいません。
 
 問題は、井上論文が、β群のみが混用している例もあるとし、「廼」を「ド(do)」と「ノ(no)」の音として混用していることをあげている点です。この字は、通常の漢音では「ダイ(dai)」、呉音では「ナイ(nai)」です。つまり、dの音は漢音系ですが、冒頭のd、nに続く部分はいずれも ai でなく o となっています。これについては、昨日の森さんのコメントでも書かれていましたが、『古』155頁では「廼」の系統の字をそのように読むのは「呉音系(またはそれ以前)の仮名と共通」していることを指摘していました。この場合、oの部分だけ、古い字音に基づいているのです。

 つまり、「廼」を「ド」という音を示す字として用いるのは、漢音という新しい発音体系と古い発音体系を1字のうちに混在させた「奇妙な仮名」ということになるのです。『韻鏡』を見て「濁音の枠が残っている」ことに着目して音韻学の通説と異なる議論を展開した井上氏は、『古』の仮名分布表を見た際は、「β群だけに見える混用例もある」ことを発見したと思いこみ、それはβ群ならではの特殊な例であるとする説明が『古』でなされていることを、見落としていたのです。

 井上氏はまた、「怒(ド=α群2例・β群ゼロ、ノ=α群ゼロ・β群4例)」と「奴(ド=α群ゼロ・β群2例、ノ=α群4例・β群ゼロ)」のように、『書紀』全体としては混用が見られるものの、どちらの音を用いるかはα群とβ群できれいに分かれているものもある以上、α群とβ群は似ていることになり、β群も中国人作ということになると説いています。

 しかし、β群にしても基本としては当時の漢音を用いていたうえ(問題はβ群はα群と違って、呉音も含めた複数の字音体系が混在していたことです)、鼻音要素を持つ声母は他にないため、α群がドだけでなくナ行の仮名にも「奴」のような鼻音声母の字を用いざるを得なかったことは、『古』が説いている通りです(110-1頁。森博達氏の示教による)。また、「怒(ド・ノ)」や「奴(ド・ノ)」などは、そもそも 2例とか4例であって数が少ないのですから、中国人が書いた以上、『怒』や『奴』についてもα群内部に混用した例があって当然だということにはなりません。

 ですから、a(2)も成り立たず、aの3点は全滅です。ところが、井上氏はこの「廼」や「怒」「奴」などに注目し、「このような反証を隠して論拠にあげているとすれば、とんでもないインチキということになる」と非難していたのです。

 次は、b(1)の分注に関する議論です。
 
> わずか注一つでα群全体の筆者を特定するのは無理です

 『謎』では、それ以前の部分で太田善麿の分注論を紹介していました(176頁)。太田は、妻を「妹」と呼ぶのは古代の俗かという分注について、「この部分の編修者が這般の事情に精通しなかったため、奇異の感を抱いた結果と想像される」と述べ、それ以外にも似たような例が2点あることについて、「原資料の保存に比較的忠実ではあったけれども、しかしそれを咀嚼し、消化するには少し欠ける憾みをもった担当者の傾向」を指摘しています。『謎』は、これについて、「決定的な言葉が、太田の喉元まで上がってきている」と述べます。

 つまり、日本人が書いているのではない、ということです。太田はそれ以上は明言できませんでしたが、そうした例は複数あげられています。『謎』は「わずか注一つ」で決定したのではなく、『書紀』の分注に関する太田の研究を踏まえ、さらに一歩進めたのです。また、「妻のことを『妹』と呼ぶのは古代の風俗か」といった倭義注はα群に限って登場すると是澤範三氏が指摘していることは、連載二回目の記事で紹介した通りです。

 以上、井上氏の批判の「ポイント」となるという4点は、すべて成り立ちませんでした。しかも、井上氏は、肝心の森氏の本そのものをきちんと読まずに論難していたのです。

> また、a(3)の原史料の問題については今回、石井先生がいろいろ
> と補足されていますが、歌謡の原史料を渡来人が書いたとして、
> そこに誤りがあったなら、それはもう中国人説ではなくて渡来人
> 述作説ですし、音読して校正(校讐?)した可能性なども証明困
> 難です。

 私が問題にしたのは、井上論文のうち、「日本人の(恐らく濁音を正しく書いた)原史料」(93頁)という点です。『書紀』の材料となったのは、そのようなものばかりのはずはなく、日本語を漢字で表記するというのは、朝鮮・中国系の外国人、朝鮮渡来人一世、そうした渡来氏族の子弟たちを中心とする人々(唐に留学した人たちを含む)の試行錯誤の賜物であって、しかもその書記法は新旧や系統によって様々であったうえ、誤写・錯簡もあって読みにくいものだったはずだ、と書いたのです。

 これは、日本語の書記法に関する最近の研究に基づくものであって、確かに推定ではありますが、「日本人の(おそらく濁音を正しく書いた)原史料」という楽観的な想像よりは史実に近いでしょう。

 そうした原史料の中には、その当時の日本語の発音に近い漢字音写がされたものがあったとしても、長安音に基づく漢音による表記で完璧に統一しようとすれば、古韓音や呉音、それも様々な用字法でなされたこれまでの史料の表記は不適切ということになりますので、書き直さなければならないのは当然のことです。中国人によってそうした最終的かつ統一的な訂正がなされていれば、原史料を誰が書いたにせよ、「α群渡来人述作説」ということにはなりません。

 また、「音読して校正(校讐?)した可能性」など証明困難と言われますが、私が大学時代に習った中澤希男先生(加藤常賢の弟子? 非常勤講師で来ておられて70歳の停年直前でした)などは、「わしらのような儒者は……」というのが口癖の古いタイプであって、文章の内容について考える際は漢文を口の中でぼそぼそと直読してから説明されました。また、古典の文句を例にあげる時は、本など見ずに訓読文を朗々と暗誦で読み上げたものです。まさに素読です(細川護熙元首相なども、学問の細川家だけあって、戦争中に叱られながら『論語』などの素読をさせられた由)。

 漢詩の講習でちょっとだけ習ったある中国人の老先生に至っては、説明に当たって漢詩を読み始めると、次第に目をつぶり身体をゆらしながら節をつけた朗唱調になっていき、すっかりいい気分になって「ハー」と嘆息するばかりで、詩境からなかなか戻ってきてくれないので、我々受講生は困ったものでした。

 中国でも日本でも、昔はそのように本を音読する人、暗唱する人が多かったことは様々な史料が示すところですし、朗読に堪えないようなものは、漢文ではありません。「難しい字が並んでいて、読めない字もいくつかあったが、何度か眺めているうちにおおよその意味はつかめた」などという読み方が主流であったなら、問題の顔師古の『漢書』注を初めとして『文選』その他、音注を数多く含む古典の注釈が唐代に次々に著されるはずがありません。黙読ばかりの人では科挙に通らないでしょう。

 そもそも、井上論文では、奈良時代に大学で学ぶ学生は「経文を暗記してからはじめて講義を聴くことができた」(103頁)ことに注意していたはずです。そうした古代の社会において、朝鮮渡来系氏族を中心とする人々が古韓音や呉音など新旧様々な字音や用字法で仮名表記した歌謡を含む史料を編纂して漢文の書物、それも講書において読み上げられるべき正史に仕立てていく古代の学者が、黙って原史料を読んで黙って直すなど、まったく考えられません。中国人が担当であれば、わからない個所については日本人のスタッフに読み上げてもらったり、説明してもらうなどしたうえで、適切と思われる発音の漢字表記に改めたはずです。詳しくは連載第二回目に書いた通りです。

> その倭習じたいに推古朝から奈良朝(ここはもちろん元明朝
> の意味です)に至る年代観のような指標がなく、またβ群の
> 年代も信じがたい以上、ここの誤用論は成立論にもまた思想
> 研究にも資するところがないと判断せざるを得ません

 『謎』がこれまで知られていた以上に倭習を数多く指摘し、しかもその分類を行なったことは大きな功績です。倭習の年代変化を明らかにするのというのは、次の段階の作業でしょう。一気にそこまで要求するのは無理な話であって、ぜひ必要だと思うなら、『謎』が用例と誤用発見の方法を示してくれているのですから、自分でやれば良いのです。「この誤用は年代によって使用頻度が違う」といった例を一つ二つあげ、だから『謎』の誤用論は不十分だと指摘しておれば、井上論文の批判の説得力が増していたことでしょう。それでこそ、建設的な批判です。

 『謎』の誤用論は「憲法十七条」の「成立論にも思想研究にも資するところがない」と断言するのは、どのような文体で書かれているかを無視して成立年代や思想を考えようとするものです。つまり、自分は「憲法十七条」を文章として読んでおらず、目についた単語だけ拾って考えている、ということを天下に公言するものにほかなりません。

 「意と事と言とは、みな相称へる物」と説いた宣長が聞いたら、嘆くことでしょう。文体研究に学者生命をかけ、「憲法十七条」についてもそうした面を中心にして論じていた吉川幸次郎も、「音読して文章として読まないなら、漢文を読んだことにはならん」と言いそうな気がします。音読にこだわり、ちょっとした表現の違いをどこまでも追求していく吉川の学風については、その「聖徳太子の文章」が示していた通りですし、昔、杜甫の詩について講義した『華音杜詩抄』というカセットテープ本を聞いて、その片鱗をうかがいました(学生による韓国語やベトナム語での杜詩朗読も入ってました)。

 私自身は、三経義疏の倭習の検討に追われ、「憲法十七条」の倭習に正面から取り組んだ論文を書くことができずにいることを残念に思っています。内容から見れば、天武朝やそれ以後の作とは考えがたいのですが、森説が指摘するようにβ群の倭習と共通する箇所が多いことは確かであるため、推古朝説をとるのであれば、森説をきちんと受け止めて自分なりの考えを述べる必要があります。

> おっしゃるように「無声化の時期は声母によって異なっていた」
> わけですから、森説で指摘された清濁混用例(10例はやはり少な
> いと思いますが)の一つ一つを検証する必要があるはずです。

 森説を批判するのであれば、自分で検証して森説の誤りを示せば良かったのではないでしょうか。もっとも、森『古代の音韻と日本書紀の成立』では、声母による無声音化の遅速とα群の「清:濁」混同例との関係が具体的に説かれています(46~49頁、102頁)。これも、森氏の本をきちんと読まずになされた発言ですね。

> なお、漢音を伝える古写経類の訓注が一般に平安時代に下ること
> は言うまでもありませんが、『平中物語』第二段に「見つ(見た)」
> と「水」を掛けた例があり、仮名表記の問題をふくめて、日本側の
> 清濁の問題もそれほど単純ではないと思います。

 物語であれば、「物語の祖」と言われ、下ネタを含む親父ギャグ満載の『竹取物語』の和歌に「鉢(ハチ=恥[ハヂ])を捨て」という駄洒落が見えます。『古今集』物名冒頭の藤原敏行の和歌では、鶯の「うぐひす」と「憂く干ず(うくひず=つらいことに乾かない)」を掛けてます。こうした洒落、特に和歌における掛詞は仏教と関係が深く、『竹取物語』のこの例にしても『維摩経』に基づく坊さんのたちの内輪の冗談であったらしいこと、敏行の歌も自業自得を歌ったものであることを含め、私はいくつか関連論文を書いてますが、掛詞にあっては、清濁の違いをわきまえたうえで似た音の掛け具合を楽しんでいたのが実状のようです。掛詞については、国文学では平仮名の登場も大きいことが指摘されています。

 また、「日本側の清濁の問題」については、佐々木勇「日本漢音資料に見られる全濁声母字の濁音形」(『小林芳規博士退官記念国語学論集』、汲古書院、1992年)では、「全濁声母字は、日本漢音ではいわゆる清音であったと考えてよい」(661頁)のであって、平安や鎌倉時代の文書に濁音になっている例が見え、しかも次第に増えているのは、仏教勢力を中心とする呉音の影響と考えられるとされています。最近の研究は知りませんが。

> さらに個人的な印象を申せば、誤用論はまず訓点資料のない
> 奈良時代以前の「訓読」の様相に直結する問題であって、文
> 献学への応用はそのあとの課題ではないかと思っております。

 前半はその通りです。三経義疏の誤用を調べていると、確かに、日本における最初期の訓読のあり方を考える必要があることを痛感させられますが、その面できちんとした成果を出すためには、それだけで数十年はかかってしまうでしょう。ただ、その研究の基礎となる古代朝鮮の状況、つまり、吏読や角筆を初めとする新羅の漢文読解のし方などについては、私は少々調べている程度ですが、森さんは既にかなり研究されているはずです。つまり、道はまだ遠いものの、準備は既に始まっているのです。

 ご意見を拝見していると、「泳げるようになるまでは、危ないからプールや海に入ってはいけません」と言っているように聞こえます。そこまで厳密に学問的な手順を踏むべきだ、慎重な準備が必要だということであれば、文献学の立場で『書紀』を研究して論文を書いている方たちは、必要な基礎知識のうち漢文だけに限っても、中国漢文、朝鮮俗漢文、仏教漢文、和風漢文にどれだけ通じてから研究に取り組まれているでしょうか。慎重を期す必要はあるものの、試行錯誤でやっていくほかないのではないでしょうか。

 井上さんは幅広い分野について精力的に研究しておられるのですから、この方面でも活躍できるはずです。「応答」によれば、「憲法の成立については別の考えがあり、近く北京で発表する予定」とのことであって、非常に楽しみですので、さしあたっては、そこで森説についても評価できる部分はきちんと評価して活用し、新たな成果を示してくださることを期待しています。

【追記:2011年8月20日】
 「奈良時代以前の「訓読」の様相に直結する問題」という点については、『謎』の誤用論こそがこの問題を研究するうえで有益な方法とデータを提示していると指摘するのを忘れてました。
 「書かれた史料」という点に関しては、誤写・錯簡などに加えて、判別しがたい異体字の問題もあげておくべきでしたね。唐代になると書体の統一が進みますが、南北朝末期にはいかに多様で時に勝手な書体が行われていたかはよく知られており、私にしても敦煌文書や三経義疏の妙な異体字には困らされています。書かれた史料なら読めるというものでないことは、井上氏はよく御存知のはずです。
 「日本側の清濁の問題」というのは、和歌を記した奈良時代の木簡などに「我」を「カ」の音の表記として用いるような清濁混乱した仮名表記が見られることなどを指すのかもしれませんが、そうした例は「ともかく読めればいい」というレベルの私的な文献に多いことが知られており、当時の音韻の問題というより、書記法ないし書き手の意識の問題として扱うのが現在の国語学の見解と思います。日本語の清音の特徴と唐代北方音の全濁音・全清音の対応関係ということであれば、『古』109頁・143-144頁で論じられています。
 なお、「稀男」を「希男」に改めたほか(中澤先生、スミマセン)、脱字や数字の誤記などを訂正し、文意を明確にするために文言を数カ所改めましたが、論旨に関わるような修正はしていません。また、関係する前の記事に飛べるようリンクを張っておきました。
【追記:2011年8月21日】
 連載を読んでいないと分かりにくい部分があったため、少しだけ連載の内容を足しました。書名の誤記なども訂正しました。


井上亘氏の「応答」を読んで……森博達氏自身による反論

2011年08月18日 | 論文・研究書紹介
 井上亘氏の2度目の反論を本文記事として掲載したところ、森博達氏からそれに対する反論が寄せられましたので、本文記事として掲載します。おかげで問題点がだんだん明らかになってきました。
(ブログ作者:石井公成)

==================================

井上亘氏の「応答」を読んで

                 森 博達 
 
 井上亘さん、コメント「『『日本書紀』の謎は解けたか』批判への応答」(2011年8月17日)を投稿して下さり、有難うございます。おかげでご高論の「核心」が明確になりました。

 玉稿「『日本書紀』の謎は解けたか」の構成は次のとおりです。

  一 中国音韻学
  二 中古音の概要
  三 「書紀音韻論」
  四 「α群中国人表記説」
  五 「書紀文章論」
  六 「書紀編修論」

 今回のコメントで「拙稿のポイント」として示された4点は、「四」と「五」に載せられているものですね。「三」が論点から外されているのは、α群原音依拠説に基いて上代の音価推定をした拙論を認められたのですね。石井先生が紹介してくださった代表的な書評からも分かるように、α群原音依拠説はすでに国語学界の定説になっています。平山先生との論争は19年前のものですが、論拠を提示されない平山先生の「α群倭音説」「α群原音―倭音説」を支持する意見など、国語学界には皆無です。

 さて、「ポイント」のaは3点とも「四」の「α群中国人表記説」の根拠として、拙著(1991)『古代の音韻と日本書紀の成立』(以下『古』と略称)や『謎』で挙げたものです。「気音の識別能力」、「鼻音と鼻濁音との識別能力」、「濁音に用いられた全清音字」の3項目ですが、すべて拙著で丁寧に説明しています。該当箇所を読んで下されば起こり得ない誤解ですが、折角なので、ご質問に一つずつお答えします。

 a(1)「無気音と有気音を区別できる日本人はいなかったのか」。日本語母語者も学習すれば中国語の全清音(無声無気音)と次清音(無声有気音)の区別はできます。α群中国人表記説の第一の根拠は気息音の識別能力にありました。書紀歌謡ではカ行を除いて次清音字が13字種・延べ156例ありますが、そのうち155例がβ群に偏在します。これはα群の表記者が中国語の全清音と次清音とを弁別でき、また日本語はカ行を除いて気息音が弱いと感じていたからです。

 α群でもカ行にのみ次清音字を混用しているのは、日本語の破裂要素をもつ子音の中でも、カ行の気音(気息音、aspiration)が最も強かったからでしょう。それは現代日本語でも同様で、実験音声学的にも、また中国人による観察の結果からも確認されています(研究論文は拙著でご確認ください)。つまり、日本語には音韻論的な無気―有気の対立はありませんが、音声学的には子音によって気音の強弱があるのです。

 拙著では次のように述べています。「無気音と有気音との音韻論的対立は、中国語にはあっても、日本語にはない。日本人の中国語学習者にとって最も聞き取りの難しいのが、この両者の区別である。音声学的な気音の強弱についても、当然、中国人が敏感なのに対し、日本人は鈍感である。したがって日本人であれば、中国語が堪能であっても、α群のように子音による条件的な気音の強弱を書き分けることは、きわめて困難である」(『古』149頁、『謎』104頁でも例も挙げて説明しています)。その困難さは、日本語母語者である井上さんが、日本語を聞いて個々の気息音の把握を試みられればお分かりになることでしょう。

 a(2)「中国人説の指標とされた非鼻音化の例がβ群にもある」。α群中国人表記説の第2の論拠に関わる問題です。唐代北方音では[m₋>mb₋][n₋>nd₋]のような音声変化が進行しました。これを非鼻音化と呼びます。日本の呉音と漢音との間で、「米マイ→ベイ」「内ナイ→ダイ」と変わるのはその反映です。この非鼻音化は音声学的には進行に遅速がありました。すなわち₋ng韻尾をもつ漢字などは漢音でも「孟マウ」「嚢ナウ」のように鼻音で写されています(₋ng韻尾は唐代北方音では弱化し、₋angのように広い主母音をもつ韻母は鼻母音₋a~になりました)。α群の表記者が日本人ならば、マとバにはそれぞれ莽(mang>ma~)と麼(ma>mba)、ナとダにはそれぞれ嚢(nang>na~)と娜(na>nda)を使い分ければよいのです。しかしα群では麼をマ12例・バ10例に混用し、娜をナ1例・ダ6例に混用しているのです。

 『謎』106頁では次のように述べました。「実は有坂氏が説くように、中国人は [m₋]と[mb₋]、[n₋]と[nd₋]とをそれぞれ相異なる音韻とは意識しませんでした。鼻音と鼻濁音とは中国人にとって同一の音韻でした。意識に上らない音声の相違にすぎなかったのです。けれども、外国人の耳にはその発音の相違は明瞭でした。そこで、中天竺出身の善無畏や日本人の漢音資料では明確に書き分けたのです。(中略)北方音の鼻音と鼻濁音との間には、意味の相違を担う音韻論的対立がなかったのです。一方日本人は両者を容易に区別できました。それゆえ、もしも日本語を母語とする者が表記したのであれば、ア列の鼻音と濁音との混乱は避けられたはずです」。

 α群の仮名表記者は正音(唐代北方標準音)という単一の音韻体系によって日本語の音節をできる限り書き分けています。そこに見られる混用はα群の表記者が中国人であれば避けられないものなのです。一方、β群は漢音・呉音を取り交ぜており、どんな音韻体系で読んでも日本語の音節を区別できません。β群の表記者は中国人ではありえません。α群を真似て一部「正音」を装っていますが、所詮付け焼刃であって到る処で馬脚を露わしたのです。

 例えば玉稿(92頁)で、私説に対する「反証」として「β群でのみ混用する例」を挙げています。その最初の「廼」はβ群でのみ用いられ、ド乙類6例・ノ乙類12例と混用されています。α群と同様の混同だと言われるのですね。しかし全く性格が異なります。「廼」は中古音〔咍〕韻字ですが、〔咍〕韻字をオ列に用いるのはβ群以外には、『古事記』『万葉集』といった呉音系の仮名にかぎられます。α群では〔咍〕韻字はエ列(乙類とア行エ)にしか用いられていないのです。

 つまりド乙類の「廼」は、韻母は呉音系で声母は漢音系という珍妙な仮名なのです。『古』156頁で次のように述べています。「β群の表記者は正音(漢音)に暗く、α群を見て、呉音で鼻音の仮名が濁音になるという印象を得た。そして、韻母は旧来のままで、声母のみ漢音に似るという奇妙な仮名が作りだされたのであろう」。

 結局、玉稿や井上さんのコメントでは、私説のそれぞれ一部のみを取り上げて、誤解ないしは曲解されているのです。玉稿92頁で、「このような反証を隠して論拠にあげているとすれば、とんでもないインチキになる」と言われていますが、それが誤解であることは明らかです。

 a(3)「書紀編者が原史料の濁音を清音に訂正する理由はない」。史書の筆録編修は小説の創作とは異なります。史料(資料)に基づき述作するのです。書紀の場合も同様で、歌謡も資料として提供されていたことでしょう。しかしそれは新しい漢音系の仮名ではなく、『古事記』などと同様に呉音系の仮名で表記されていたと考えられます。例えば、『古事記』61番と書紀58番(β群巻11)は同一歌ですが、そこに「根白(ねじろ)の」という語句があり、ともに「泥士漏能」と表記されています。同一の資料に基づいた可能性があります。しかしα群は旧来の表記に囚われず、正音による音訳表記を貫徹したのです。玄奘三蔵の新訳の陀羅尼と同様です。

 α群の中国人表記者は呉音の仮名は読めません。書紀編修所には日本人の助手もいるので、彼らに読み上げさせて正音で音訳表記したのでしょう。井上さんは、「原史料の濁音を清音に訂正する理由はない」と言われますが、高平調の濁音は音声学的に清音に近く聞こえる場合があるので、誤って全清音字を用いてしまったのです。古写本では誤用11例すべてに高平調の声点(アクセント符号)が差されています。これは偶然とは考えられません。

 最後の「ポイント」は、b(1)「妻をイモと呼ぶ注一つだけで全体を覆うことはできない」というものです。α群巻14「雄略即位前紀」の「吾妹」に付けられた「称妻為妹、蓋古之俗乎」という非常識な分注の問題です。玉稿(99~100頁)では、「雄略紀以外はみな実の妻を指している。反対に言えば、妻を指して「吾妹」と言った例は雄略紀だけなのであるから、ここにこう言う注記があってもおかしくない」と書かれています。これが嘘であることは前回のコメント(7月17日)で指摘したとおりです。

 太田善麿先生は『古代日本文学思潮論(Ⅲ)』(91~92頁)で、この奇態な分注や「[木疑]字未詳、蓋槻乎」という分注などを挙げて、巻14~21・24~27(α群)の人物像を描かれました。この部分の編修者は日本の事情に精通せず、原資料を咀嚼する能力も欠如していると論じられたのです(『謎』176頁)。私のα群中国人述作説は音韻論と文章論の助けを得て、太田先生の喉元まで上がってきていた言葉を明らかにしたにすぎません。

 α群には他にも不可解な記述がありますが、中国人述作説によれば納得できます。例えば、巻17「継体紀」の朝鮮関係記事では、己汶・帯沙(多沙津)割譲問題について、7年から10年にわたる事件と23年条の事件とが別個の事件として扱われています。9年2月条に、「百済使者文貴将軍等請罷。仍勅、副物部連【闕名】遣罷帰之。【百済本記云、物部至至連】」(【】内は分注)と記されています。一方、23年3月には、「是月、遣物部伊勢連父根・吉士老等、以津賜百済王」という記事があります。三品彰英先生は『日本書紀朝鮮関係記事考證』下巻(2002年天山舎版による)226~7頁で、両者は同一事件を語ったもので、前者は『百済本記』によって書かれ、後者は日本側の所伝だと説かれています。物部至至連と物部伊勢連父根は同一人物ですが、α群の述作者は「至至(チチ)」が「父(ちち)」の仮名表記(借字表記) であることに気づかず、別人だと誤解し、両者を別個の事件として扱ったのでしょう。日本語に精通せず、朝鮮関係記事を咀嚼する能力に欠けていたのです(後者については他の証拠もあるが割愛します)。

 以上、井上さんが「ポイント」と言われる4点について丁寧に説明しました(大半は拙著をしっかり読めば理解できる問題ですが)。井上さんの論点は悉く崩れ去りました。これはご高論の「題意を無視した」発言ではありませんよね。ぜひご反論をお願いします。(8月18日記)

=================================

「『日本書紀』の謎はとけたか」批判への応答……井上亘氏自身による反論コメント

2011年08月17日 | 論文・研究書紹介
 井上論文への私の批判記事連載に対して、井上亘氏がコメント欄に3回分割でコメントを寄せてくださいました。有り難うございます。読みやすさを考慮し、井上氏の了解を得て、森博達氏の長大なコメントの場合と同様に本文記事とさせていただくことにしました。
(ブログ作者:石井公成)

==============================

「『日本書紀』の謎は解けたか」批判への応答

                   井上 亘

 北京大の井上です。拙論について4回にもわたる長文のご批評をお寄せ下さり有り難うございました。大変興味深く拝見しました。特に二十代に書いた博士論文やその書評まで周到に調べられたご苦労はいかばかりかと拝察いたします。さらにそこから私の人間性や編者の責任まで問われた点に至っては、ただただ恐縮するばかりです。

 ただここのところ、「滑稽」という言葉に二十代から現在(四十代)に及ぶ私の浅はかさを言われた点は、それじたい本当のことだと認めたうえで、なおご高評の問題点がほの見えるところではないかと思いました。二十代の私は「実証」という課題に大変苦しんでいました。この点は三十代に幾分改善されたと思っておりますが、榎村・内田両氏の批評はまさにこの点を突いたものでした(善意に解すれば、ですが)。翻ってこの度のご高評は今回の拙論にも同じ問題があると言われる。同じ字面でも、十五年ほど前といまとではそれを産み出すプロセスが全くちがいます。それで「あいつは変わらない」と言われれば、私としてはそういう読み方をする方なのかと思ってしまいます。

 拙論のプロセスはこうです。森説の、音韻論を前提とした中国人表記説は成立しない。また、誤用論を前提とした中国人述作説も成立しない。したがって、表記説と述作説とを前提とした編修過程論もまた成立しない。図式化すれば、a音韻論→表記説×、b誤用論→述作説×、c表記・述作説→編修論×、です。拙論を批判するならば、この「→」の部分(aでは3つ、bでは1つの論点)を論破し、森説を立てなおせばよいのです。これは私の文章が拙いせいでもありますが、このような論点の整理もせず、随想ふうに問題点を書き立てても決して批判にはならないでしょう(もちろんご自分のブログで何をどう書いても構わないのですが)。前のコメントで「批判というのは並べるものではなく、核心を突くものです」と書いたのはそういう意味です。

 拙論のポイントは、a(1)無気音と有気音を区別できる日本人はいなかったのか、a(2)中国人説の指標とされた非鼻音化の例がβ群にもある、a(3)書紀編者が原史料の濁音を清音に訂正する理由はない(偶然の誤りと見るほかない)、b(1)妻をイモと呼ぶ注一つだけで全体を覆うことはできない、以上の4点であり、その他の論点は補助的なものにすぎません。拙論を批判するなら、この4点を論破すればよいのです。特に拙論で最も失礼な物言いをしたa(2)の「とんでもないインチキ」などは、まず最初に「たしなめられる」べきなのに、石井先生も森先生も何もおっしゃらない。両先生は私が森説の音韻論や誤用論を評価している点に首をかしげておられるようですが、私は音韻論や誤用論、はたまた昨今のデータベースを活用した出典論などの有用性を否定するものではありません。むしろ情報化時代の新しい研究法として大変注目しております。私はただ現状ではそれらを前提にして中国人表記説や述作説を立てることはできないと申し上げているのです。

 上記の4点はどれも特別なものでなく、むしろ常識的な考え方といってよいと思いますが、それだけに論破するのは至難でしょう。実際、無気音と有気音を区別できる日本人がいなかったことを確定するのは不可能です。わずか注一つでα群全体の筆者を特定するのは無理です(暦日の問題なども差しあたり述作者を特定する証拠にはならないでしょう)。また、a(3)の原史料の問題については今回、石井先生がいろいろと補足されていますが、歌謡の原史料を渡来人が書いたとして、そこに誤りがあったなら、それはもう中国人説ではなくて渡来人述作説ですし、音読して校正(校讐?)した可能性なども証明困難です。このようにあやふやな論拠の上に立つ学説を信じることはできません。日本書紀の成立は歴史上の一回的な史実です。想像や可能性を積み上げても史実を確定することはできないばかりか、むしろ偏差が加上されて史実から離れてしまう危険が高いのです。

 但しくり返しになりますが、多種多様な原史料をもとに編纂された書紀に対して、さまざまな角度から分析が進められていることは大変結構なことです。問題はその分析結果を正しく吟味し活用することにあるわけで、今回の拙論が問題にしたのもその一点にあるといってよい。ご高評には「『謎』の音韻論の中核であるα群中国人撰述説」という言い方が出てきますが、私からみれば、これでは話が反対であって、私が言及しなかった問題をあれこれと指摘して、「非難と誤りばかりである」と結論づけられた点もふくめ、どうもご高評は拙論の論題を取り違えておられるように見受けられます。

 このようなわけで、拙論のポイント(→の部分)を論破されない以上、中国人説を前提にしたさまざまな想定についてはコメントする義務はないと考えます。ただ補助的な論点に関して二点だけ。まず、憲法十七条について、拙論で森説を「滑稽」と評した点がお気に障ったようですが、やはり「倭習十七条」というのは如何でしょう。学者にはこういう数合わせを楽しむ方がよくおられますが、少々はしゃぎ過ぎではないでしょうか。また、倭習が数多く指摘された功績はご高評でおっしゃる通りですが、その倭習じたいに推古朝から奈良朝(ここはもちろん元明朝の意味です)に至る年代観のような指標がなく、またβ群の年代も信じがたい以上、ここの誤用論は成立論にもまた思想研究にも資するところがないと判断せざるを得ません(ちなみに憲法に深い思索が見られると言ったのは私見であって、吉川説に依拠したわけではありません)。憲法の成立については別の考えがあり、近く北京で発表する予定ですが、私はある内在的な根拠から、憲法は推古朝のものとみてよいと考えております。

 最後に濁音について。ご指摘の顔師古の例などは私も存じておりますが、おっしゃるように「無声化の時期は声母によって異なっていた」わけですから、森説で指摘された清濁混用例(10例はやはり少ないと思いますが)の一つ一つを検証する必要があるはずです。大島先生が言われた「濁:清の対立は、有声性:無声性にあるのではなく、その示差的特徴は他の要素、例えば声調など、に求め得る可能性も皆無ではないであろう」とは、濁音の枠が維持されたということで(それは「濁音として発音」したという意味ではもちろんありません)、そういう枠の中の細かい変動は一概に把握しがたいわけです。にもかかわらず、無声化は「音韻学の常識」だとして議論を進めるのは、それこそ「汗をかかない」安易なやり方でしょう。この点は実は非鼻音化についても同様です。

 なお、漢音を伝える古写経類の訓注が一般に平安時代に下ることは言うまでもありませんが、『平中物語』第二段に「見つ(見た)」と「水」を掛けた例があり、仮名表記の問題をふくめて、日本側の清濁の問題もそれほど単純ではないと思います。さらに個人的な印象を申せば、誤用論はまず訓点資料のない奈良時代以前の「訓読」の様相に直結する問題であって、文献学への応用はそのあとの課題ではないかと思っております。

 二十代の私が課題とした「実証」とは、もちろん論証がヘタだということですが、過度な実証主義が古代史研究を停滞させている現状にも自分なりに苦しんできました。結果、瀕死の重態となっている古代史のいまを打開する意味で、森先生や大山先生の説は大きな貢献をされたと思います。新しい論証方法を開発し、新しい史実を確定して、その論証の面白さを一般の読者にもわかりやすく伝えること。そうであったかもしれないし、そうでなかったかもしれない、では「実証」とは言いません。出土資料などはともかく、資料が出揃っている古代史では何よりその組み立て方が大事なのです。これは「挑戦」などではありません。私は森説を分解し、その組み立てがおかしいと申し立てたにすぎないのです。

追伸 森先生、以上の説明で「反論の責任」がそちらにあることがおわかりいただけたと思います。この場合の反論とは、ご高説の組み直しです。もっとも私は先生に「責任」があるとは思いませんし、そもそもブログのような場所の議論で何かの「責任」が生じるとも思いませんが、ともあれまさかこのような説明をすることになるとは思っておりませんでした。以後、拙論の題意を無視したご発言には一切、対応するつもりはありません。

===============================

古道から見た斑鳩宮と東西伽藍の壮麗さ: 網伸也「景観的見地からの伽藍配置」

2011年08月16日 | 論文・研究書紹介
 文献に関する長くて重い記事が続きましたので、一転してモノを扱った興味深い論文を取り上げます。筆者紹介の欄に「趣味はサッカー解説」と書いている京都市埋蔵文化財研究所の網伸也氏の論考、

網伸也「景観的見地からの伽藍配置」
(『月刊 考古学ジャーナル』545号、2006年6月)

です。

 網氏の論文は、ここで取り上げた加藤謙吉氏の四天王寺論文や、北條さんの広隆寺論文を初めとして、あちこちの論文でよく引かれています。それだけ重要な考察をしている証拠ですが、今回の論文は、『月刊 考古学ジャーナル』の「古代寺院の伽藍配置」特集中の一つです。

 南大門、五重塔、金堂、講堂が南北一列に並ぶ四天王寺式を初め、古代寺院の伽藍配置がどうなっているかはきわめて重要であって、これまで盛んに議論されてきました。これに加え、最近、注意されるようになったのが、そうした伽藍全体がどのような土地に配置され、どの方角からはどのように見えたか、という景観の問題です。

 網氏は、発掘成果から見て、四天王寺は若草伽藍にやや遅れて造営され始めた考えられ、推古31年に新羅から貢献された舎利・金塔・灌頂幡などを四天王寺に納めたという『日本書紀』の記事は信頼できるとします。そして、創建当時の四天王寺は、寺院地を囲む大垣と塔と金堂だけであって、中門から回廊・講堂などは、7世紀中頃の難波遷都にともなって整備されたと考えられると述べます。

 そして着目するのが四天王寺の位置です。四天王寺は、西に海を望んだ上町台地の高所に位置し、東には推古21年に整備された難波大道が南北にはしっていました。つまり、四天王寺は南側の正面から見あげると、建物が重なってしまい、門と五重塔の上部が見えるのみであって金堂の姿は隠れており、寺全体の大きさも分からないのに対し、完成時には、海上の船や難波街道を行く人々からは、南大門・五重塔・金堂・講堂がそびえ立つ伽藍の壮麗さが目に付くようになっていた、というのです。創建時もそれを狙って建立したのでしょうから、これはやはり一氏族の氏寺とは思えませんね。

 同様の景観配置は、同じく7世紀前半に創建されたと推測される河内新堂廃寺でも見られる由。この場合は、正面のはずの南大門の前は湿地帯が広がっているため、そちらから見上げることは意識されてないらしいというのが、網氏の推測です。

 網氏はさらに大和の諸寺も取り上げ、古道からの景観について論じており、「宮室との関係も伽藍の整備に大きく影響している」ことを指摘し、宮殿からの視点が重要であるとしています。確かに、飛鳥の地を古代を想像しながら歩くと、地方からおもむいてきた豪族たちの目に伽藍群や宮殿がいかに壮麗に見え、威圧されたかがうかがわれます。

 斑鳩地区については、南から見れば、松尾山系を背景として斑鳩宮が建ち、その西に若草伽藍、東に中宮寺伽藍が並び、東西古道である龍田道を河内から大和へ抜けてくると、四天王寺式の若草伽藍を南西から眺めることになり、「伽藍と宮室の重なり合う雄大で重層的な景観となったことが推測できる」としています。これはもうリトル飛鳥、リトル都であって、やりすぎだとして反発をくらっても不思議はないですね。

 ところが、上宮王家滅亡後は、宮と伽藍が一体化してこの地を荘厳することはなくなり、「上宮王聖徳への追慕の念の深まりを背景として」、斑鳩は山際に塔と金堂を併置する再建法隆寺などの伽藍が点在する仏教空間となったのだ、と網氏は説きます。なるほど。

 同論文の「おわりに」では、

「伽藍配置の変遷はその場で行われた仏教儀礼の時期的変遷とも対応するものであった。そのような伽藍配置の意味を軽視した議論では、古代寺院建立の目的や実際に果たした社会的政治的機能などを明らかにできないことは周知の事実である」(13頁)

と説かれています。これは仏教研究者を初め、伽藍配置図だけ見て、高句麗や百済のどこどこの寺に近い、といった議論しかしてこなかった研究者には耳の痛い指摘です。

森博達『日本書紀の謎を解く』への激しい批判: 井上亘「『日本書紀』の謎はとけたか」(4)

2011年08月12日 | 論文・研究書紹介
 井上論文検討の最終回は、『謎』の成立論に対する井上氏の批判と、残しておいた「憲法十七条」論議について見ることにします(長いです……)。

 『謎』は、百済と唐の戦いにおいて捕虜となり、斉明7年(661)に日本に献上されてきた続守言と、来朝時期不明のもう一人の唐人、薩弘恪をα群の中国人述作者の「最有力候補」としており、政治的に有力な日本人の主導のもとで続守言が巻14から、薩弘恪は巻24からのα群を執筆したとします。そして、α群成立の後、その編纂事業を引き継ぎ、漢字音に厳密でなく、仏教漢文の語法と倭習が目立つ文体でβ群を完成させた最有力候補として、新羅に僧侶として留学した後に還俗し、やがて大学で教えるようになった山田史御方をあげています。

 井上論文は、彼らは「最有力候補」であったはずなのに、『謎』ではすぐにそれを確定した事実であるかのようにみなして論じていくことを指摘し、『謎』の成立論は音韻論に比べて推測が多いと批判します。これはもっともな指摘です。『謎』が、正史に見える人物の中で最も可能性がある人を探すならば、という想定で話を始めておりながら、いくつかの条件が重なることから、その人たちで決定だという形で書いていくことが本書中で最も弱い部分です。読めば誰でも気づくことですが……。

 続守言と薩弘恪は「音博士」に任じられていたうえ、薩弘恪は『大宝律令』編纂にも参画していた記録があり、御方は大学で文章を教えて文人として知られていたこと、彼らへの褒賞の時期がいずれも『書紀』編纂と関係すると思われる時期であることを『謎』は指摘しています。そうした面から見れば、彼らが『書紀』の編纂に従事しうる能力と可能性があることは確かであるものの、実際に関与したかどうか、関与したとすればどのような位置でどのような作業をしたのかまでは確定できず、述作者名と作業内容はあくまでも推定にとどまります。歌謡の漢字音写を唐代北方音で統一した人とその前後の本文を倭習の無い漢文で書いた人は同じという可能性が高いことは、『謎』が指摘する通りですが。

 また『謎』は、用語や語法から見て、持統天皇紀である巻30を述作した人物として紀清人を想定し、三宅藤麻呂は全体の潤色・加筆を行ったと見て、その編纂過程を推測しています。この両名は、和銅7年(714)に国史撰述を命じられていますので、『書紀』編纂に関与したことは確実ですが、清人と藤麻呂の作業分担については、やはり推測です。両人の役割は逆だったかもしれませんし、あるいは別な作業を(も)したかもしれません。

 この点について、井上氏は、清人は6年かけて持統紀だけ撰修したとするのは不自然であり、「やはり彼らは三十巻全体にわたる仕事をしたと考えるのが自然であろう」(108頁)と評します。そして、『謎』では編集作業と実際の執筆とを区別していないなどの問題点を指摘し、この連載の最初の回で見たように、『謎』の成立論は「まことにお粗末なもの」といった言葉を連ねて批判しています。

 『謎』の成立論には上記のように推測が多く、論証面が弱いのは確かです。ただ、『謎』は、方針の決定や原史料の選択などについては「政治的に有力な日本人が主導」した(178頁)としており、いわゆる捏造部分をも含む述作と原史料を訂正しての筆録とをまったく区別していなかったわけではありません。『謎』はそうした面には踏み込まず、音韻・アクセント・誤用と奇用などに注目することにより、『書紀』のどの巻はどのような漢語能力と傾向の持ち主によって書かれたか、前後と文体が異なる場合はどのような理由によるのか、あるいは倭習を交えがちな編纂者による編纂最終段階での加筆なのかを明らかにしていったのです。これは、大きな功績でしょう。この点を無視するのは不当です。

 新たな木簡や墓誌などが出てくることにより、述作者、作業の時期、分担体制などに関して『謎』の推定とは異なる事実が明らかになる可能性はあるものの、そうなった場合でも、人名や分担など一部を訂正すれば『謎』が明らかにした作業内容などはかなり使える部分が多いことと思われます。ところが、井上氏はそうした成果に目を向けず、成立論に関しても納得しがたい批判を並べ立てているため、批判の説得力を落としています。

 たとえば、井上論文は、6年間も編纂に従事した以上、清人が持統紀だけ担当したというのは不自然であるため、清人と藤麻呂は「三十巻全体にわたる仕事をしたと考えるのが自然であろう」と評します。これはもっともなようですが、井上氏が考える成立状況と合いません。

 氏は、『書紀』はきわめて杜撰な書なのに、α群とβ群で「これだけはっきりした違いが出る」のは「新しい編集の痕跡」なのであって、「編集作業が非常に短時間に行われた可能性が大きい」とします。つまり、『書紀』の編纂は天武朝ではなく、元明朝(在位:707-715)から新たに始まったのであって、「官庫に集められた原史料を大急ぎで切り貼りして巻子本に仕立てた後、全体にわたって添削を加えた。その添削担当者のクセや能力差がα群とβ群という形で出たと考える」(同)とするのであり、「私は森の仕事をこのように読み替える」(111頁)と述べるのです。
 
 『書紀』はきわめて杜撰な書であるということを井上氏は随所で強調しており、これはその通りでしょう。ただ、そうだとしたら、清人と藤麻呂の両人が「三十巻全体にわた」って添削して統一をはかったのにα群・β群の「はっきりした違い」が残ったのか、この両人がα群・β群の片方づつを担当して添削するのみで、全体の統一作業は不十分なままだっため「はっきりした違い」が出来たのか、どちらなんでしょう。

 また、これまで『書紀』の準備とみなされてきた天武朝の史書編纂、および持統天皇が各氏族に墓記の上進を命じたことについて、井上論文が「ここはその議論をする場ではない」と述べ、墓記上進については史書編纂とは「別の用途を考える方向に進むことは間違いない」(111頁)と説いてすませているのも、納得しかねる点です。ここで議論しないなら、論文をどこかに書く予定があるのか。また、墓誌上進はどんな用途のためなんでしょう。官位に応じた墓誌の書き方を強制させるためなどであれば、模範をいくつか作って公布すれば良いだけのことですし。

 α群が巻十四の雄略紀から始まる理由として、『謎』は通説に基づいて「雄略朝が古代の画期だから」としていました。井上氏は、「思うに学界で雄略朝を画期とみなすようになったのは比較的最近のことであるが、『万葉集』が雄略の歌で始まるからといって、改新や推古朝よりも画期性が大きいとは誰も思わないだろう」(106頁)と見識を披露し、『謎』の主張を否定していますが、これも奇妙な話です。

 そもそも、現代の学者がどう意義づけるかは関係ありません。大事なのは、当時の人々がどう捉えていたかです。「『万葉集』が雄略の歌で始まるからといって」と書いた井上氏は、『日本霊異記』も現行本は雄略天皇の逸話で始まっていることを忘れているのではないでしょうか。少なくとも、奈良時代半ばから平安初期にかけては、雄略朝を画期とする認識があったことは疑えません。

 また、『書紀』は雄略紀の直前から元嘉暦に基づく暦日が記され、それ以前の古くて史料に乏しいはずの時代は逆に最新の儀鳳暦に基づいて記されていることも、井上氏は忘れているのではないでしょうか。これは井上氏が強調する「原史料」の性格に関わる問題です。『書紀』を主導した人たち、あるいはそれ以前の時代に原史料をある程度編纂した人たちが、推古朝(や舒明朝)へとつながる時代の起源は雄略朝と見ていたからこそ、そうした暦の割り振りを採用したのでしょうし。

 いずれにせよ、暦の無い時代からの歴史を含む『書紀』にとっては、全時代は無理としても、記されている記事をカバーする長暦の作成と年月日の確定(ないし創作)が作業の基礎となるのであって、暦の作成がいかに編纂全体の方針に関わる重要作業であるかは、小島荘一氏の研究などが示している通りです。α群が巻14~21、24~27、β群が巻1~13、22・23、28・29となっていて、暦の区分と密接な関係を有しており、巻30だけ特異な文体になっている理由について、井上氏は『謎』より説得力ある仮説を提示できるのでしょうか。

 また、井上氏は、『書紀』完成後である養老六年(722)の御方への褒賞は、『続日本紀』では大学での指導に対するものとされており、国史編纂に触れないことをもって、御方は『書紀』編纂と関係がなかった証拠とします。しかし、『続日本紀』では、『書紀』については、舎人親王が奏上したとするのみで、詳しい作業メンバーやそれらの人々に対する褒賞については何も記していません。記されていないのだから関係ないとするなら、紀清人や三宅藤麻呂にしても『書紀』完成後の褒賞記事はないのですから、編集が完成するまで編纂に従事していたかどうかは不明ということになってしまいます。

 井上氏は、このように森説に対する批判を並べ立てておりながら、末尾近くになると、「だからといって森の仕事が全く無意味であったとは思わない」と述べ、「上代日本語の音価推定は未曽有の業績」であり、区分論を進めた功績は認めるべきだと、長所もあったことを思い出したかのように評価します(109頁)。そして、「歴史家もこれを機会に『書紀』の成立を真剣に考えるべきではないか」(110頁)と提言し、上で触れたように「私は森の仕事をこのように読み替え」るとする案を示すのです。

 しかし、氏は『謎』の音韻論の中核であるα群中国人撰述説を否定し、α群もβ群も倭音依拠であって中国音への忠実さは「程度の差」にすぎないとする以上、森説の音価推定は不十分なものとなりますので、それに基づいて新たな発見をすることは難しいでしょう。また、井上氏は誤用・奇用などにあまり注意を払わず、「異例」についても「偶然」で片付けてすますのですから、『謎』の成果や方法を生かして具体的な研究成果をあげることは出来ないはずです。森説の「読み替え」と称して、上記のような問題のある想像を述べる以上のことは難しいでしょう。つまり、やることはもう無いのです。

 こうした問題点は他にもありますが、この辺で切り上げ、このブログにとっての本題である「憲法十七条」に移ります。

 『謎』は、「憲法十七条」の誤用や奇用を数多く指摘します。そして、この憲法を「文体的にも文法的にも立派な文章」と称した中国文学の大家、吉川幸次郎を批判し、憲法の倭習がβ群の倭習と合致することから見て、β群の述作年代に近い頃の作とします。つまり、太子の真作ではないとするのです。

 これに対して、井上論文は、「吉川が『立派な文章』と言う意味はそういう意味ではないだろう」と述べ、「確かに文法的な誤りはあるが、伝統的な中国学では修辞が整っただけの文章を『立派』と言わない。思索の深みがあってはじめて『文章』という」のだとし、その点、「憲法十七条」は「推古朝に置くにせよ奈良時代に置くにせよ、これを書いた人物は突出した天才」であり、日本思想史・文化史上の謎であるのに、「そういう点を全く顧慮せず、得々と誤用を論う姿は滑稽でさえある」と論難しています(102頁)。

 これだと、吉川は森氏と違って伝統的な中国学を踏まえているため、「憲法十七条」には「文法上の誤り」が散見されることを認めつつも、思索の深さがあるから「立派」なのだと示唆していた、というように読めますが、原文はそういう内容にはなっていません。井上氏はおそらく原文を見ていないものと思われます。もし見ていて上のように書いたのなら、それは自説に有利なように歪めて記したものということになります。

 原文は、四天王寺が実質的に主催し、1965年12月におこなった聖徳太子研究会学術大会での公開講演の筆録であって、『聖徳太子研究』第2号(1966年5月)に掲載されました。現在では、『吉川幸次郎全集』第10巻(1970年)に収録されています。生前に出されたこの全集版では、雑誌で「……中国語で音読……」となっているところに元の漢文とピンイン表記を入れたり、「学説のええものは」といった話し言葉の部分を削除したり改めたりしているものの、趣旨に変わりはありません。

 ここでは全集版によって引きますが、この講演を読む際、注意すべきことは、これは言葉に含みを持たせがちな京都人である吉川が、聖徳太子信仰の本場、それも三高時代の同窓生が管長をつとめる四天王寺主催の研究会に招かれ、太子を讃仰する人たちの前で、太子を賞賛しながらおこなった講演であるということです。つまり、『春秋』の筆法を考慮しつつ読み取っていかねばならないのです。

 まず、吉川は、三経義疏については、自分は仏教は不勉強なので、「『三経義疏』の文章がいかに立派であるか」については「私は何も申し上げることができません」と断っています。自らを儒者と位置づける吉川が仏教を学ばないことを誇っていたことは有名ですが、中国文学の大家であって文体・文章の研究に命をかけていた吉川が、三経義疏は冒頭から変格語法が頻出することに気づかないはずはありません。これは逃げてます。しかも、吉川は、法隆寺管長であった高名な学僧、佐伯定胤から聞いたということで、三経義疏は中国の種本を整理してまとめたものだと述べ、当時としてはそれで差し支えないとしています。これは、「憲法十七条」にも当てはまるはずですが、その点は強調しません。

 一方、「憲法十七条」については、対句を用いた「リズミカルな文体」であるということから話を始め、実際にそうしたいくつかの部分を中国音で音読してみせます。そして、「文章としても大変しっかりしている」ことを何度も強調して賞賛した後で、「当時の中国の文章としておかしくない、むしろ大変立派なものでありますが、文体的に申しまして幾分問題がないことはありません」(15頁)と説き始めます。ただ、第十四条を例にあげて検討しつつも、そのおかしさの理由を「『日本書紀』の本文に乱れがあるんじゃないか」(16頁)という点に求めていくのです。

 最後の部分でも、「中国の文体および文法の専門家」としての目から見ると、この憲法は「文体的にも文法的にも立派な文章です。それだけにどうも元来の姿を失った箇所があるのでないかと気になるのです」と述べ、その数は一つか二つだが、そのように文章に問題のある部分、また解釈が疑問に思われる箇所について「なお細かに考えるべきものがいろいろあるのではないかということを申し上げ、問題を提起して、この学会の方方に考えていただきたいのです」(23頁)と呼びかけています。

 つまり、「文体的にも文法的にも立派な文章」であるけれど、少数ながらおかしいところもあり、自分としては太子その人が間違えたのではなく、誤写などによるテキストの乱れのせいではないかと思うので、詳しくは皆さんが検討してください、と言っているのです。「私の議論ではございません」が、と断ったうえで、他の部分は中国の典拠に基づいて書いているからきちんと出来ており、太子が自分で思う通りに書いた部分は変な文章になったという見方もあるかもしれない(16頁)、とも述べています。意味深長ですね。「憲法十七条」の内容にも途中で少し触れていますが、内容がおかしく思われる点があるのをどう解釈するか、という点を中心とした議論です。

 講演の前半では、何でも疑って否定しすぎるとして津田左右吉を批判しているため、吉川が太子を偉人と見て「憲法十七条」を太子の作と考えていたことは間違いありませんが、「年寄りでございます。いいたいことはせいぜいいって死のうと思っております」(9頁)という言葉から知られるように、言うべきことは言っておこう、津田説への批判や「憲法十七条」の文章に問題があることだけは遺言として指摘しておこう、とする姿勢が見られます。ただ、文法の間違いはあるけれど「思索の深み」があるから立派な文章なのだ、といった議論はまったくしていません。

 以上のことから見て、吉川は、「憲法十七条」は当時の文章としては立派であって、中国語として読めるリズミカルな文も多い一方、倭習もかなりあり、内容も中国思想としては気になる書き方になっている箇所があることに気づいていたものの、四天王寺主宰の研究会での講演ということもあって、曖昧な言い方をして問題箇所を一、二点だけ指摘するにとどめ、研究を後進にゆだねたのだろう、あれでも吉川としてはかなり思い切って問題点を指摘したのだ、というのが私の考えです。

(ただ、森さんとメールでやりとりした際は、森さんは、そうであるなら、相手が誰であれ、学者としては正しいと思うことを明確に述べるべきだった、というご意見でした。国語学の教科書などでも吉川の「立派な文体」という意見に基づいて記しているものがあるのですから、影響力の大きい学者は、やはり自らの責任を自覚して発言すべきなのでしょう)

 さて、井上論文に戻ると、井上氏は「憲法十七条」について、「推古朝に置くにせよ奈良時代に置くにせよ」これを書いた人物は「突出した天才」だとし、「憲法十七条」は日本思想史・日本文化史上の謎であるのに、そうした点を顧慮せず、森氏が「得々と誤用を論う姿は滑稽でさえある」と嘲笑します。

 このうち、「奈良朝に置くにせよ」というのは、奈良朝の僞作だとしても、という意味ではなく、「森氏が奈良朝の作と考えるにしても」ということなのでしょう。というのは、井上氏の『日本古代朝政の研究』(吉川弘文館、1998年)では、「憲法十七条」を含む厩戸皇子関連記事や山背大兄王関連記事については史実と見ており、それらを材料として推古朝やそれに続く時代の朝政のあり方について考察しているからです。

 同書では、『書紀』が厩戸皇子の事績としているものについては、「一部は附会であっても、そのすべてを附会と証することは困難であろう」(80-81頁)と述べるにとどまっており、どの事績がどういう理由で附会でないと認定できるのか詳しく論証しないまま、それらの記事を当時の朝政について考える際の史料として利用しています。

 「憲法十七条」についても、推古紀には「『作』とのみあって施行を明記しないことなど論ずべきことは多いが、いまは憲法と朝政構造の変化との関連を強調するにとどめておく」(80頁)とするだけです(その後も、この問題を論じたことはないようです)。当時の情勢について、「仏教と政治の融和をもいわねばなるまい」としながら、「あまり深追いは禁物であろう」(40頁)ですませており、「憲法十七条」と仏教の関連に触れたのは、「憲法の洞察がたとえ仏法の考察に基づくにせよ」(80頁)と述べている箇所だけです。

 それはともかく、『謎』は、音韻・アクセント・語法の面から『日本書紀』の述作者について論じた書物であって、思想については全く論じていません。α群は正格漢文で書かれているから思想も立派で、誤用・奇用の目立つβ群は思想も浅いなどといった議論もまったくしておらず、『書紀』の誤用をこれまでの研究以上に数多く指摘し、奇用との違いを説き、それらについて区分論に役立つような分類を提示することに全力をそそいでいるのです。

 それなのにどうして「憲法十七条」の場合に限って、思想の立派さに触れずに誤用の多さを指摘すると「滑稽」だということになるのか。それを言うなら、『日本古代朝政の研究』も、「憲法十七条」が儒教・仏教・法家・雑家・『荘子』その他の思想を自分流に用いて独自の思想を築いている点について詳しく論じないで、「推古朝の朝政を考えるうえで材料として使える箇所のみを得々としてあげつら」っていることになってしまいます。『謎』も『日本古代朝政の研究』も日本思想史の本ではないのですから、「憲法十七条」については、それぞれの立場から論ずれば良いだけのことでしょう。

 誤用について言えば、「憲法十七条」の文章について、森説のように問題点を数多く摘出した研究はありません。「憲法十七条」に強い関心を持ち、著書や論文において何度もその文章の特徴と問題の考察を試みた小島憲之でさえ、ここまでの指摘はしていないのです。これが学問的成果でなくて何でしょうか。私は、「憲法十七条」には独自の思想があると考えていますが、思想の深みというのは、誤用・奇用の多さとはまったく別な問題です。

 井上氏が幅広い分野について精力的に研究され、日本史研究者でありながら北京大教員となって中国語で講義するまでになられたご努力には敬服していますし、通説に挑戦する気概に満ちているのは頼もしいことです。『日本古代朝政の研究』の「あとがき」で、十代の頃、国文学に関心を持ち、文学を材料とした「津田左右吉『国民思想の研究』の塗り替えが私の目標となった」(331頁)と書いているところなどは、同じことを考えたことがある者(仏教がらみに限定して少しづつ訂正しつつある者)として、大いに共感させられました。

 ただ、『謎』の「憲法十七条」論のことを「滑稽でさえある」と論難する今回の井上論文については、氏の『日本古代の天皇と祭儀』(吉川弘文館、1998年)が史学界の権威であった石母田正の主張について「いかにも滑稽」(8頁)と評し、榎村寛之氏の書評(『日本史研究』454号、2000年6月)で、「決して『滑稽』などという単純な決めつけはできないと思う」(47頁上)とたしなめられたのと同じことを繰り返している、という印象を受けます。

 その榎村氏の書評では、井上氏の同書は「先行研究の消化不良」であって、「いささか強引な自説の展開」が目立つと評されています。また、内田順子氏による同書の書評では、「全編通じて著者の『思い』の表現された論文集である」が、「『通説』に挑戦するのであれば……根拠を十分に展開する必要がある」のに、「文体が饒舌でありながら、説明不足と感じることが多い」(108頁下)と説かれていました。

 文献史学者は怒るべきだという「思い」が全編にわたって強く出ている今回の井上論文については、私には、榎村氏と内田氏のこうした言葉がそのまま当てはまるように思われたことでした。上の両氏が指摘したような傾向はあるにしても、井上氏の意欲的な2冊の著書は有益な指摘も含んでいて教えられたことが多く、また複数の分野にわたる氏の諸論文からも私は示唆を受けていただけに、今回の論文が非難と誤りばかりであるのは残念です。
 
 なお、『謎』の音韻論そのものに対する井上氏の批判については、この連載記事の最初で述べたように、私の素人考えを書くことは遠慮し、国語学の専門家の論文を紹介するだけにとどめてきました。ただ、森説ではα群述作者は中国人であるからこそ清・濁を間違えた漢字表記を行なったとしているのに対し、井上氏は、唐代には濁音と清音は区別されていたのだから森説は成り立たないと論文で再三断言していたうえ、このブログでの森氏へのコメントではさらに、「韻図に全濁音の枠が維持されていること」に注意をうながし、「そもそも私はこの問題について専門家が明確な見解を下したものを見たことがありません。なぜ清音化が進行しているのに、濁音の枠を残すのか。そもそも720年までに無声化がどれだけ進展していたのか」と書いておられるため、これに関連する専門家の研究も紹介しておきましょう。

 たとえば、大島正二『唐代字音の研究』(汲古書院、1981年)がその一例ですが、初出である「顔師古漢書音義の研究(下)」(『北海道大学文学部紀要』19(4)、1971年3月)は、pdfが公開されており、CiNiiから飛べますので、そちらで引きます。同論文では、南北の朝廷に仕え、音韻の学に通じて『切韻』の編纂にも関わった顔之推の孫として長安で生まれ育った顔師古が、貞観15年(641)に完成させた『漢書』注の音義注には「清:濁の混同例」(9頁)が見られることを指摘しています。『書紀』の成立よりずっと早い時期ですね。

 さらに同論文では、これは唐代音というより北方音の性格であった可能性があるとし、「北方音に於ける濁声母の有声性は唐代初期には既に明瞭ではなく、濁:清の対立は、有声性:無声性にあるのではなく、その示差的特徴は他の要素、例えば声調など、に求め得る可能性も皆無ではないであろうことに触れておく」(9頁)と述べ、以下、清:濁の混淆が起こる理由について考察を進めています。無声化の時期は声母によって異なっていたため、唐代音全体における濁声母の完全な無声化は、顔師古の時期よりかなり遅れるでしょうが。

 同論文ではまた、反切用字上では声母が区別されていて混淆していなくても、伝統を踏襲してそうした用字を用いている場合は、その当時の音韻状況を反映していないことも考えられる点に注意しています(11頁)。

 これは韻図にも当てはまるでしょう。つまり、『切韻』などは、漢詩作成の規範となることを主な目的とし、当時の実状を考慮しつつ伝統を整理して作成されたわけですが、そうした韻書に基づいて8世紀頃から制作され始めたとされる韻図(現行の韻図はさらに後の成立)に濁音の枠が残っているからといって、井上氏が主張するように、唐代北方の人は依然として強い有声性を有する濁音として発音しており、当時の日本人もそれを「濁音と聞いていた」証拠にはならないのです。

 このことは、唐代の長安音に基づく日本の漢音では、呉音では「ゴン」であった「近」が「キン」、呉音では「ブ」であった「歩」が「ホ」となっているように、六朝音に基づく呉音と違って清音となっている事実が示している通りです。現代の日本人であっても文語で書く場合は、「言ふべし」「籠もりゐて」などと書くものの、昔の「ゐ」の発音で読む人は稀でしょう。

 森説批判の根幹として井上氏が展開した唐代濁音論議は、実際には音韻学の常識を無視した誤り(あるいは、通説に対して無謀な挑戦を試みた失敗)であって、こちらにも榎村・内田の両氏が指摘した問題点がそのままあてはまるようです。

 論文の最終責任は著者個人にあるとはいえ、森氏の大山説批判に直接応えず、井上氏に森説批判を依頼し、提出されたこうした内容・表現の井上論文を一般向けの書物にそのまま収録したのは大山誠一氏です。企画者ならびに編者としての大山氏の責任は、著者以上に重いと言わざるを得ません。

【追記:2011年8月13日】
『聖徳太子研究』の刊行年など、数カ所の誤りを訂正しました。
【追記:2011年8月21日】
書名の誤記を訂正しました。
【追記:2011年8月23日】
持統5年に18の氏族に墓記の上進を命じたことについては、加藤謙吉「『日本書紀』とその原資料--七世紀の編纂作業を中心として--」(『日本史研究』498、2004年2月)では、それらの氏族はすべて天武13年に八色の姓制定に当たって朝臣か宿禰を賜姓された有力氏族であり、そうした最有力氏族の家記に基づくと思われる個所が『書紀』のうちにかなり見られるため、やはり持統朝に上進させた墓記が資料として用いられたと考えられることを、詳細に論じています。
コメント (2)

森博達『日本書紀の謎を解く』への激しい批判: 井上亘「『日本書紀』の謎はとけたか」(3)

2011年08月09日 | 論文・研究書紹介
 これまで、音韻論そのもの以外の点に関して、井上氏によるα群中国人述作説批判を見てきました。今回は『謎』の誤用・奇用論に対する井上氏の批判を検討します。

 『謎』は、漢文の誤用・奇用、つまり倭習の用例はβ群に多く見られることを示し、α群β群説を補強しました。誤用というのは、「在」と「有」が日本ではともに「あり」と訓まれるところから、「在倭国」と書くべきところを「有倭国」と書くような間違いです。これに対して、森氏が区別する「奇用」は、中国文献中に存在している表現ではあるものの、用例が少なく一般的でないのに対し、古代朝鮮の金石文や『書紀』のβ群など日本文献にはよく用いられるものです。「密来之(ひそかにきたりて)」のように、「之」を「~して」の「て」の意味で使う中止法や、「之」を「也」よりは軽い感じで文が終わることを示すために使う終止法がその代表ですね。

 α群にも誤用や奇用は少し見られますが、『謎』はそうした例については「異例」とし、書名をあげて百済系史料を引用した箇所であったり、天皇の詔勅であったりするなど、何かしら理由があってそのままにしてあることを明らかにしています。

 井上氏は『謎』の誤用・奇用論について、「私は専門的な立場から論評する資格をもたないが、なるほど確かにこれは『倭習』だと納得する点が多い」と評価します。しかし、その少し後で「肝心の「奇用」と「異例」の説明は成功しているとは言えないと思う」(97頁)と述べ、例によって否定的な方向に話を持って行ってしまいます。井上氏はα群中国人述作説を批判するためもあってのことと思われますが、α群における「奇用」とされている例の多くは実際には「誤用」だろうと述べ、代表例として接続詞「所以」をあげています(97-8頁)。しかし、これは『謎』をきちんと読んだうえでの批判ではありません。

 『謎』は、文語の漢文の中で「所以」という語を、「~する所以」という本来の用法でなく、現代中国語と同様に「~。所以(ゆえ)に~」という接続詞として用いるのは「奇用」だとし、そうした用例は『書紀』ではβ群に6例、α群に8例見られるとします。β群は「憲法十七条」の1例以外はすべて地の文で用いられているのに対し、α群の8例は、4例が詔勅であって、残り4例のうち3例は会話文に用いられている由(154頁)。α群では詔勅については誤用・奇用が有っても改めずにそのまま引く傾向が見られることについては、上で見たように、『謎』は指摘していました。
 
 『謎』では、その「所以」の奇用について、太田辰夫『中国語歴史文法』や牛島徳次『漢語文法論(中古篇)』が、『史記』『魏志』『世説新語』『後漢書』『南斉書』などの例をあげ、結果を表す接続詞として用いている例も少数あり、その大半は会話文に用いられていて白話(口語)語彙と推測されると説明していることを紹介します。そのうえで、『謎』は、α群に「所以」の奇用が見られるのは、口語なら誤用でないと知っていたから原史料をそのままにしたと考えられるとしています(152~155頁)。

 ところが、井上氏は、α群の作者が「そういう古い特殊な用例を知っていたとするならば、これは大変な学者ということになり、……にわかには信じがたい」ため、奇用というのは、たまたま古典にも用例があるというだけの誤用だろうと論じます(97-98頁)。しかし、『謎』は、α群作者がそれらの諸文献に精通していて特殊な用例まで把握していたなどとは言っておらず、「白話なら誤用でないと知っていた」(154-5頁)と述べているだけです。

 『史記』『魏志』『世説新語』『後漢書』『南斉書』などは有名でよく読まれた文献ばかりですので、そのうち1部ないし2部のうちの用例を覚えていれば十分です。というより、権威ある文献における用例を知らなかったとしても、「所以」を口語調の文章中で接続詞として用いることは、六朝末から唐代にかけて広まっていったのですから、「大変な学者」でなくても、唐代の中国人であればそうした用法は誰でも知っていたはずです。

 仏教でも、経典の注釈は講義と問答の筆録に基づいて書かれることが多く、口語表現がしばしば残されるため、六朝末から唐代にかけての注釈や人々に語りかける授戒マニュアルなどには、時々この「所以」の用例が見られますし、禅語録などになれば会話調の問答ですのでどっさり出てきます。また、奇用とされるものの中には、中国上代の語法が朝鮮半島に伝えられ、中国ではあまり使われなくなってから日本に入ってきたものもあることが知られています。

 『謎』の誤用・奇用論にはもちろん不十分な点もあり、その一つは仏教漢文の用例の調査が足りないことでしょう。たとえば、『謎』が誤用とする「因以」(152頁)は仏教漢文にはしばしば見られるものです。他にもいくつか同様の例があり、このことは森氏にお知らせしてあります。一方、井上氏の批判は、『書紀』に関する新たな事実を発見して森説を訂正したものはないですね。

 なお、誤用・奇用とされたものが実際には仏教漢文の語法であるらしいことに私が気づいた諸例は、β群は訓読に基づいた和風漢文であって仏教漢文の影響が見られるという森説を補強するものばかりです。大事なのは、研究のため、『日本書紀』解明のために『謎』の方法をどれだけ活用できるか、ということでしょう。私自身、仏教文献の変格語法を研究するうえで、『謎』や他の森氏の著作が役立った場合がたくさんありました。

 さらに問題なのは、「異例」の処理に関する井上氏の批判です。井上氏は、『謎』がα群β群の区分を説いておりながら、例外があると「後人の加筆」だと説明するのは「やはり禁じ手というべき」(98頁)だとし、「後人の加筆」を言い出せば、何でも説明できてしまうと批判しています。これは、一般論としてはその通りです。

 確かに、正当な理由無しで「後人の加筆」説を乱発するのは論外ですし、『謎』が「後人の加筆」の例としている例の中には、適切でないものが少数ながら混じっている可能性もあります。しかし、『謎』の特徴は、「後人の加筆」かどうか判断するにあたって、漢字表記の違いや誤用・奇用の量と傾向といった判断基準を持っていることです。

 これまで森氏以前から、それぞれの立場に基づいて様々な区分論を説いてきた研究者たちが例外箇所をうまく説明できなかったのに対して、『謎』がそれを大幅に改善したことも事実です。これまでの状況を改めるきっかけを作ったのは、『書紀』は原稿がある程度完成してから、誰かが類書(中国風な項目分類に基づいた、用例による百科事典)や少数の中国古典を活用し、区分とは無関係に各巻の草稿を潤色して立派な文章としようとしたことを明らかにした小島憲之の画期的研究でした。

 その小島説を語法面からさらに進めた『謎』は、(1)百済史料などを名をあげて引用している箇所中の例、(2)後人が中国古典によって潤色した際の誤り、(3)直接の引用という形でなく原史料を引いて誤りも引き継いだ例、をあげ、それ以外の後人の加筆の例も認めています。

 興味深いことに、『謎』が語法面から加筆と見ている箇所は、文献史学者たちが内容面から見て疑わしいとして記事の真偽を問題にし、論議してきた箇所と重なる場合が多いのです。これは『謎』の方法の有効さを示すものであり、『日本書紀』成立の事情を明かにするうえでも大きな示唆を与えるものと言えるでしょう。

 区分論については、他にも漢文学者・国語学者など、文献史学者以外の研究者の活躍が目立ちます。小島にしても、画期的な業績をあげた和漢比較文学者であって、文献史学者ではありません。文献史学としては、こうした他分野の研究者たちの主張のうち、史学から見て弱い部分を批判するのではなく、積極的に協同して研究をさらに進展させ、成果を出していくべきなのです。

 『謎』の「加筆」説は、区分論の例外に関して新たな情報と判定方法を提示したにもかかわらず、井上論文が、「後人の加筆」で説明するのは恣意的すぎると一般論で批判するだけなのは、裏を返せば、井上氏が語彙・語法・書記法などの違いにあまり注意せずに『書紀』を読んできたことを示すもののように思われます。

 同じ日本史学者でも、渡辺滋氏などは、遠藤慶太氏の「古代国家と史書の成立--東アジアと『日本書紀』--」と題する発表(後に『日本史研究』571号、2010年3月に掲載。質疑応答も含め、きわめて有益)に対して書いた「【共同研究報告】遠藤報告を聞いて」(『日本史研究』572号、2010年4月)において、『日本書紀』の本文分析に当たっては言語学の研究成果を活用すべきだと論じています。

 そして、森氏の一連の研究成果を例にあげてその有効性を説いたうえで、百済史料である『百済記』では5例の「之」の用例のうち、朝鮮漢文によく見られる文末の「之」を3度も用いているのに対し、『百済本紀』では18例のうち文末の「之」の用例は皆無であることを指摘しています。百済三書としてまとめて扱われがちであった『百済記』『百済本紀』『百済新撰』について、区別して見る必要があることを明らかにしたことは重要です。

 渡辺氏は、前回の記事で触れたように、森説のうち「述作者」に関する主張には賛成していないと明言していました。その点は、井上氏と同じです。ただ、渡辺氏の場合は、森氏の研究法の有効性を認めて積極的に活用すべきことを強調し、実際に『謎』の方法に基づいて上記のように新たな発見をしているのです。これは、平安時代を専門とする史学者である渡辺氏が、これまで言語面に注意した研究をし、そうした論文を書いてきたからこそ可能となったことでしょう。

 百済三書が『日本書紀』の原史料としていかに重要かは、津田以来、何人もの研究者が強調してきました。井上氏自身、著書の『日本古代朝政の研究』(吉川弘文館、1998年)では、「百済本紀など原史料の推測可能な記事から、併用する旧辞的記事を対象化して史料の妥当性を確保しつつ、これら全体から政務の子細を帰納するよう心がけた」(84頁・注3)と述べている通りです。

 しかし、「記紀で研究する前に、記紀を研究しなければならぬ」と提唱して自ら実践した、と森氏が高く評価する坂本太郎の研究、またこのブログの前回の記事で触れた木下礼仁氏の研究などにより、『書紀』には百済三書に基づくことを明記しないまま、注や本文で百済史料を用いている箇所もあることが知られています。

 となれば、そうした箇所や古風で特異な表現で書かれていたであろう「旧辞的な記事」を析出し、『書紀』の成立について考えるためにこそ、『謎』の音韻論や誤用論のような視点による調査が有効ということになるはずです。井上氏は、どうしてそのような具体的な活用法を提示する方向に向かわないのでしょう。

 『謎』が、津田左右吉と違って倭習などに注意しない文献史学者に疑問を呈したのは、『万葉集』研究を大幅に進展させた契沖も、『古事記』研究を画期的に発展させた宣長も、「言葉」を重んじてその研究を基礎とする国学者であったからです。私も、『伊勢物語』や『源氏物語』など国文学関係の論文を何本か書くうちに、契沖の偉大さを改めて痛感するようになり、ある論文では、「仏教の影響に注意しない国文学者は契沖という原点に帰れ」と主張したことがあります。言葉を無視して古典の研究はできません。

 井上氏が語法などの面にあまり注意しないことは、β群中に正格漢文が見られる箇所や、α群中で誤用・奇用が目立つ箇所について論じた部分からも知られます。β群であっても、元にした史料が正格漢文やそれに近い漢文で書かれていれば、その部分は倭習が無い、あるいは倭習が少ない文章になるのは当然ですが、井上氏はそうした見方をとらず、またしても批判ばかり展開します。

 『謎』は、β群に属していて倭習が目立つ神代紀のうち、一書としてあげられる文と綏靖紀は倭習が無いことに注目します。そして、綏靖紀では末尾で多氏の始祖について語っているため、綏靖紀は多氏が提出した始祖伝承の記録を転載したものである可能性があり、『古事記』序で「倭習の少ない立派な漢文」を書いた多氏の族長である「太安万侶が著した」かもしれないと推測します。これに対して井上氏は、それなら中国人以外でも正格漢文が書けたことになり、α群とβ群は共通点を持つことになるため、「森説には不利な指摘であるはずだ」(101頁)と論じるのです。

 しかし、『謎』は「異例の存在はまことに貴重である。……例外の存在を直視すれば、いっそう理解が深まる」(157頁)と明言し、例外に正面から取り組むことを目的としていました。また、『謎』は安万侶の『古事記』序については「倭習が少ない」と書いているのであって、「倭習が無い」とは言ってません。

 実際、『古事記』序について言えば、全体としては美文であるものの、「更非注」のような誤用も見られます。これは「まったく注をつけなかった」の意でしょうから、名詞句を否定する「非」でなく、動詞の「注」を否定する否定詞をつけなければいけない箇所であって、『謎』がβ群に多いとする否定詞の誤用です。僅かながら倭習はあるのです。

 ただ、『古事記』序も、綏靖紀も神代記の問題の一書も、先に見た「之」の中止法をしきりに用いているほか様々な倭習が目立つβ群とは、文体がまったく異なっており、区別する必要があります。

 史学で論争がおこなわれてきた孝徳紀の詔勅、つまり、いわゆる大化の改新の詔勅については、中国人が述作したα群でありながら倭習が非常に集中して登場することから、『謎』は「後人の加筆」と見ます。井上論文はこれを、詔勅を「準引用文」と見てきた方針に反しており、「潤色」という条件も外してしまった恣意的すぎる認定だとして、「あまりにも粗雑である」(105頁)と批判しています。

 しかし、大化の詔勅と、α群の他の天皇たちの詔勅の文体の違いを、井上氏はどう考えるのでしょう。誤用の多さは気にならないのでしょうか。井上氏は、誤用の多少によって区分する『謎』の分析について、「本文の性格を見るために文法という客観的な基準を持ち出したのは、科学的な方法と言える」(96頁)と評価していたはずです。例外処理の場合分けに関する説明が不十分だ、という点ばかり言い立てるのは理解できません。孝徳紀の詔勅に倭習が目立つのは、宣命調であった原文を漢文に直した際に生じたものであって、内容は史実として認めて良いのだ、などとするのであれば、そうした論証が必要でしょう。

 また、井上氏は、「憲法十七条」について『謎』がβ群と共通する倭習の多さを指摘し、β群の述作年代に近い頃の僞作としたことについても、激しく批判しています。それも、天才の作である点を無視して誤りばかり問題にするのは「滑稽でさえある」(102頁)といった調子でなじるのです。

 こうした非難ぶりは、井上氏のこれまでの著書では、真偽論争の盛んな「憲法十七条」と大化の詔勅とを、当時の状況を伝える史料として用い、様々な考察をしていたことと関係あるのでしょうか。私はかつて、「聖徳太子論争はなぜ熱くなるのか」という講演をし、雑誌に掲載したことがありますが、井上論文の「熱さ」はかなりのものです。

(井上さん、最終回である次回でようやく森氏の「憲法十七条」論に対する井上さんの批判に触れますが、森さんの再反論や私のこの連載記事に対して、森さんの最初の投稿のようにコメント欄におさまらないような長いご意見を書かれる場合は、本文記事として掲載しますので、コメント欄にメールのアドレスを記してご連絡ください)

森博達『日本書紀の謎を解く』への激しい批判: 井上亘「『日本書紀』の謎はとけたか」(2)

2011年08月05日 | 論文・研究書紹介
 井上論文では、『謎』はα群中国音説を、万葉仮名は当時の倭音に基づくとする有坂説への批判という形で展開するから「ひどく読みにくいものになってしまっている」(86頁)と評します。論点を明確にして中国音説を証明するためには、確かにもう少し工夫すべきかもしれません。

 ただ、森氏が有坂氏を非常に尊敬していることは、『謎』が有坂氏の早熟さ・悩み・超人的な研究ぶりについて熱を込めて紹介していることからも知られます。『謎』におけるその部分は、有坂氏のことを一般読者に知ってほしいと願ってのこと、また音韻の詳しい話ばかりにならないようにという配慮もあってのことだろうと思い、読みにくいとは思わず読んでいました。

 その有坂氏は、万葉仮名は倭音に基づくと説くだけでなく、だから万葉仮名を当時の日本語の音価測定に用いるには限界があると警告し、「但し万葉仮名字体の中に朝鮮や支那からの帰化人の始めて用ゐたものが含まれてゐるとすれば、そればかりは別問題であるが」と慎重に付言していました。『謎』はこの点を高く評価しています(77頁)。

 43歳の若さで亡くなった有坂氏は、そうした視点の個別調査はしなかったのですが、『書紀』の仮名が基づく音を精査していくうちに、まさに有坂氏の付言が示唆していたような外国人一世筆記説という事態にたどり着いてしまったのが森氏です。

 森氏のα群中国人述作説は、有坂氏とは別個の視点からおこなっていた研究であって、『書紀』のα群に限って有坂氏の倭音説を否定することになったものの、結果としては有坂説の「付言」が正しいことを実証し、有坂説を発展的に継承したものとなっていたのです。井上論文は、「天才的な音韻学者」である有坂の倭音説が正しいのに、『謎』は誤った有坂説批判をしているという方向で論じているためか、この点には触れてませんね。

 問題は、この「朝鮮や支那からの帰化人の始めて用ゐたもの」という部分です。井上論文は、『謎』が中国人だからこそ清濁の音を間違ったとしてあげてある歌謡の表記例について、「日本人の(恐らく濁音を正しく書いた)原史料を、中国人がなぜわざわざ間違えて書き改める必要があるのか」と疑問を呈し、そんな必要はない以上、それは「偶然の誤りと見るほかない」(93頁)と断定します。

 そして、「森ははじめに歌謡の音声があって、それが唐代北方の音韻体系のフィルターを通して仮名になったと考えている」が、中国人の編纂官が語り部を編纂室に呼び、語る内容をその場で中国音で書き取り、内容を漢文に翻訳するなどといったことなど考えられないとし、森は『書紀』の直接の材料はあくまでも書かれた「原史料」であって、それらの歌謡は既に「書かれたもの」であったことを忘れているのだろうと述べます。

 井上論文は、それに続けて、「そこには古文献がどのように編纂されたかという、具体的な作業工程に対する配慮が抜け落ちている」のであって、「古文献の成立を具体的に考えたことがない門外漢の早とちりとしか言いようがない」と酷評しています(94頁)。

 しかし、これは森説をきちんと受け止めていないばかりか、上代日本における史料や書記法の実態、つまりは『書紀』の「原史料」の実態ををまったく考慮していないコメントです。まず、「なぜわざわざ間違えて書き改める必要があるのか」とありますが、森説のように中国人が責任者となっていたとすれば、当人は不適切な漢字表記を改めて適切な漢字に直したと思っていたはずです。

 また、「日本人の(恐らく濁音を正しく書いた)原史料」とありますが、上代における文書作成および漢字による日本語表記が、日本語とは音韻体系が異なる百済から渡来した人々を主とする朝鮮渡来人やその子孫たちによって推進されてきたことは常識です。

 その人たちも列島に定住するようになれば日本人ということになるでしょうが(日本列島という概念自体、現代のものですが)、欽明紀などによれば、百済から交代で派遣されていた専門家たちの中には、百済風の長い名の人物に混じって、「五経博士の王柳貴」など、中国から百済に渡ってきた知識人ないしその子弟と思われる名も散見されます。そうした百済の学者や中国系の学者たちは、明治初期のお雇い外国人と同様、ないしそれ以上に重要な仕事をしたはずですが、彼らは何年か義務を勤めたのち帰国していましたので、日本人とは言い難いでしょう。

 そうした学者たちは誤りの無い、あるいは誤りの少ない漢文が書けたでしょうが、人名・地名その他の日本語を漢字表記したとしたら、どの漢字を用いるか試行錯誤せざるをえなかったでしょう。当時の朝鮮語の音韻体系、特にどの音とどの音を混用していたかについては議論が続いている状況です。そうした百済・中国系の学者に習った者たちや、倭語にかなりなじんだ渡来系氏族たちが書いた史料もあったでしょうが、『書紀』の原史料として重視され、最近では百済渡来系氏族が書いたと推定されている百済三書が、いかに古くて特異な発音表記や語法で書かれているかはよく知られています。

 そもそも、標準的な書記法を教える公立学校など、当時はありません。渡辺滋「日本古代における中国口語の受容と展開」(『訓点語と訓点史料』120輯、2008年3月)は、当時の日本語の書記法がいかに多様であったかに関する最近の研究成果を踏まえ、

「極端にいえば、寺・氏族・学統ごとに、異なる書記法が用いられていた可能性すら想像できる。『日本書紀』の編纂段階において、日本社会にはこうした多様な書記体系が併存しており、それが巻ごとの差異として表面化した可能性は高い」(37頁上)

と述べ、『書紀』の「本来の草稿段階では、さらに激しい傾向差が存在していたと考えるのが妥当であろう」(同、36頁下)と推測しています。

[この渡辺論文は、区分についてはα群β群など森氏の呼称を利用するとしつつも、「正統的な文献史学の方法論によれば、『日本書紀』の各群の筆記主体・編纂主体などを具体的に特定するのことは、まず不可能である。森氏による区分とは別に、各群の『述作者』に関する想定に関してまで同意している訳ではない点、付言しておきたい」(43頁下)と述べています。文献史学では、このようにα群β群の区分の有効性は認めるものの、『謎』の述作者論・編集過程論までは賛成できないという人が多いようですね。]

 このほか、中国に渡って短期間あるいは長期間学んで帰ってきた者たちが書きとどめた史料もあったでしょう。ただ、隋や唐に渡って仏教や儒教を学んだ者たちの多くは、渡来系氏族の出身でした。つまり、『書紀』の原史料は、外国人、渡来人の一世、その子孫たち、そして彼らに習った者たち、それも中国に短期あるいは長期留学したことがある者とない者、そうした者たちに習った倭人など、まさに様々な時代の様々な国・地方(方言)・系統の人々による様々な書記法で書かれた雑多なものだったのです。誤写や錯簡も多かったことでしょう。

 そうした状況である以上、そのまま使える漢文、我慢すれば使える下手な漢文部分はともかく、歌謡などを古くて変わった形で漢字音写したものについては、(中国人であれ、それ以外であれ)『書紀』の筆録に当たった者たちには理解できない箇所、何を指すかはおおよそ推測できても違和感を覚える箇所などがかなりあったことと思われます。実際、中国上古音(に基づく古い朝鮮漢字音)による古音系の表記などは、かなり早い時期から理解しにくくなっていた形跡があります。

 編纂室に語部を呼んで語らせて記録するというのは、井上氏も説くように非現実的な想定ですが、責任者が中国人であれば、書かれた史料のうちの日本語の漢字音写部分の分からないところ、分かりにくいところは、編纂スタッフのうちで分かる者に読み上げてもらわざるをえないはずです。

 そもそも、近代以前の書物は音読されるためのものでした。まして歌謡部分は歌われるものです。書名をあげての引用や詔勅などの場合は、下手な漢文でも意味がわかればそのままにしたとしても、日常では使わない表現も用いる歌謡の場合は馴染みの無い発音表記が続いていたら理解できません。中国人が漢字訂正の責任者であれば、そうした表記法で書かれた厄介な歌謡の漢字表記を訂正する際は、それを理解できるスタッフに読み上げてもらい、意味を説明してもらったうえで適切と思われる漢字に直していったことでしょう。どんな表記に出会っても、ただただ黙読して黙って訂正していく、などという現代風な編集風景は考えられません。

 また、遠藤慶太「『日本書紀』の分註--伝承の複数性から--」(『ヒストリア』214号、2009年3月)では、『書紀』は奏進された翌年、講書がおこなわれたと伝えられていることが示すように、受講者、つまり貴族官人たちの前で読み上げられることが想定されており、そのために、正史としては異例のことながら最初から音注が付されていたことに注意しています。つまり、「『日本書紀』という<読みあげられる史書>の性格」(15頁上)と、律令祭祀を支える諸氏族の主張を配慮した「公的な性格」に着目するのです。

 なお、注と言えば、井上氏と森氏との間で「妻のことを『妹(いも)』と呼ぶのは、古代の風習か(称妻為妹、蓋古之俗乎)」という注が中国人によるものかどうかについて、コメントの応酬がなされましたが、井上論文では、「この一点だけでα群全体を覆えるものなのであろうか」(99頁)と疑問を呈していました。

 これについては、是澤範三「『日本書紀』分注の分類とデータベース化の問題」(『語文』92・93輯、2010年2月)が参考になるでしょう。是澤氏のこの論文では、問題の「いも」の注を含めた諸例をあげ、「このような倭義注がいわゆるβ群に存在しないことが注意される」(9頁下)と述べています。そして、上代における日本的漢字運用の様相を明らかにするため、分注のデータベースを作成中である氏は、区分論について「編纂者の問題として『日本書紀』の成立に深く関わる。分注の分析はその基礎となるもの」(11頁上)としています。

 「いも」問題と似たような例をもう一つあげましょう。『書紀』の古訓中に見える古語「いろ」がどのような家族関係を示す語かを調査した金紋敬「日本書紀古訓『イロ』に関して--兄弟姉妹の例を中心に--」(『待兼山論叢』42、2008年12月)は、『書紀』では母子関係を示す際に、
 α群:「同母~」4例、 「母~」2例(百済関連記事)
 β群:「同母~」7例、 「母~」5例
と表記しており、α群は百済関連記事を除けば「同母~」で統一されており、「同母~」と「母~」の両方を等しく用いるβ群と異なることを指摘しています。

 この他、α群とβ群の違いについては、井上氏が説くようにどちらが原音に近いかという「程度の差」(94頁)であって編纂時の「添削担当者のクセや能力差」(111頁)にすぎない、とするだけでは説明できない点、つまり、表現の問題だけでなく内容にまで関わるとする指摘が増えつつあります。このブログで紹介した天文観測記事の偏りの問題もそうですし、暦の違いなども重要な点でしょう。暦日の設定は大変な作業です。

 さて、α群中国音説の問題に戻ります。井上氏は、論文の「おわりに」の部分で、2009年9月に森氏の報告(中国の大学での研究会)を聞いたところ、「彼は『謎を解く』の後、朝鮮漢文の研究に手を伸ばしているようだが、論旨はまったく変わっていなかった」(112頁)と、頑迷さを嘆くような口調で述べています。

 しかし、森説に反対する井上氏にとしては、これはむしろ怖い状況と受け止めるべきだったのではないでしょうか。朝鮮漢文の研究に手を伸ばしているなら、古代朝鮮の漢字音や語法などについても研究を深めているはず、と想像されるからです。

 実際、中国語音韻の研究者であった森氏は、百済史料を扱った木下礼仁『日本書紀と古代朝鮮』(1993年)にも助言と協力をしていたうえ(本文と「あとがき」に記されています)、『謎』刊行後、50歳を超えた身でソウルに渡って1年間、韓国語学習に努め、以後、韓国の古代韓国語研究者たちと交流しつつ研鑚を重ね、韓国語で講義や講演ができるようになられたようです。

 そうでありながら、α群中国人述作説という「結論がまったく変わっていなかった」ということは、いったい何を意味するか。古代韓国語の音韻・漢字表記・特色ある語法などの研究を進めた後になっても、『書紀』のα群述作者ないし漢字音のチェック者について史学者が最も可能性が高いと考えそうな説、すなわち、「唐代音をある程度学び、あるいは中国に留学したことがある朝鮮渡来系氏族出身の知識人が書いたか漢字表記に手を入れた可能性もある」といった説に変化しなかった、ということですね。

 さて、井上論文は、「われわれ文献学者は常識的に、記録された歌謡の仮名を訂正したと考える」とし、α群の『書紀』編纂者が仮名を訂正したのは、「『古事記』のような呉音系の仮名では中国人に読んでもらえないと思ったからであろう」(94頁)と述べていますが、これは想像説ですね。もしそうなら、『書紀』は中国人に読んでもらうことを目的の一つとして作成されたことになります。しかし、そんなことがあり得るでしょうか?

 漢文で正史を編む以上、中国の史書を模範とし、できるだけ立派な漢文にしようとするのは当然ですし、科挙のために漢字音の統一に努めていた唐にならい、そうした唐の標準音にできるだけ近い発音の日本風漢字音である「漢音」を広めようとしていた政権が、『書紀』でもそれを用いさせたことは理解できます。しかし、『書紀』では、天皇を「天子」や「聖帝」などと呼んでおり、「皇帝の位に即く」といった表現もしばしば見られます。白村江の敗戦の後、そんな史書を唐に持参して披露したら、「日出処天子」国書の場合と同様、大問題となったでしょう。

 国内では「皇帝」や「天子」などと称しておりながら、中国への国書では「~国王」と名乗ったり曖昧な表記を用いるなどの使い分けは、中国周辺の国家にはいつの時代も見られたものです。中華主義に立つ中国王朝は、自王朝以外が国書などで表立って、あるいは自国内で「帝」や「天子」と称するような行為を無礼とみなし、脅して改めさせたり、時には征討することさえありましたが、国力や状況によっては、相手国のそうしたやり口を承知していながら目をつぶる場合もかなりありました。

 しかし、8世紀初頭の唐は強大な勢力を誇っていました。「天子」や「皇帝」といった語を露骨に使った東夷の史書など受納するわけがありません。日本の主権者が中国の「皇帝」と抵触しないよう曖昧な自称を用いて外交を行うようになったことは、称号だか個人名だかよく分からない「日本国王 主明楽美御徳(すめらみこと)」宛の玄宗の国書が物語っている通りです。

 あるいは、井上氏は、日本国内の中国人に読んでもらうことを目的の一つとして『書紀』が編纂されたとするのか。いずれにしても考えにくいことです。「われわれ文献学者は」とあるように、井上氏は文献史学を代表する形で音韻学者である森氏の主張を批判し、「古文献の成立を具体的に考えたことがない」と非難するのですが、井上氏自身は、『書紀』の成立という問題を、原史料の書記法の問題まで含めてどの程度具体的に考えられておられたでしょうか。

 音韻学者でも文献史学者でもない私自身はどうかと言えば、「仏教学者です」と胸を張って名乗れないのが残念なところです。ある講演の冒頭で述べたように、「仏教学の落第生であって、『アジア諸国における仏教がらみの冗談の比較研究』とか『仏教と酒と恋の関係』などといった周辺領域にばかり力を入れるようになった、雑で中途半端な研究者」といったあたりが正直なところでしょうか。教理研究も細々と続けてはいるのですが……。

【追記:2011年8月9日】
 冒頭で「万葉仮名」と言っているのは、上代の文献に見られる漢字による日本語表記のことです。漢字表記が適切でないと仲間うちしか読めないことは、暴走族が「ヨロシク」を「世露死苦」、「ブッチギリ」を「仏恥義理(利)」などと書いていたのと同じです。上の場合、「世(よ)」は和語による訓ですので論外としても、「仏」は現代北京語では有声音のbではなくなり、末尾の t の音も失われていて fo(2声)、「義」は yi(4声)となってしまっていますので、「ブッチギリ」という日本語を聞いたことがある現代中国人であっても、暴走族のジャンパーの背中の「仏恥義理」という刺繍を見たら全くわからず、「仏が義理を恥じる? 何だこりゃ?」となってしまいます(「仏」の発音は、漢字文化圏諸国すべてで変化しましたが、日本語では「ブツ」、ベトナム語では phat、韓国語では pul となっていて周辺国では音節末尾の音が残っており、中国でも南方の一部の方言には残っています)。また、「行」は呉音では「ぎょう」、唐代音の日本風漢字音である漢音では「こう」、さらに後代の音では「行灯」の「あん」ですが、「行行行」と書いて、「ぎょうこうあん」と読め、というのも無理でしょう。
 こうした例はもちろん極端すぎるものですが、呉音系の『古事記』や『万葉集』と違い、『日本書紀』は漢音を志向しておりながら、β群は歌謡表記に呉音を用いた箇所もあって複数の字音体系が混在しており、漢文も文法の誤りが多いのに対し、α群の方は一貫して唐代北方音に基づいた漢字音写がなされているうえ、中国人ならではの発音の間違いも含まれており、文章も漢文として問題無いのだというのが森説です。α群とβ群の漢字音写部分で同じ漢字を用いている箇所があっても関係ありません。
 井上論文は「歌謡の原文だけはほぼ完全に手を入れるという方針も理解しがたい」(99頁)と批判しますが、引用部分の漢文は下手でもおおよその意味は推測できるのに対し、歌謡などの漢字音写はその当時の中国式の発音で書かれてないと理解できないのですから、漢字音担当の中国人であれば直すのは当然です。
コメント (1)

森博達『日本書紀の謎を解く』への激しい批判: 井上亘「『日本書紀』の謎はとけたか」(1)

2011年08月02日 | 論文・研究書紹介
 大山誠一編『日本書紀の謎と聖徳太子』所載の個別論文紹介第6弾は、森博達『日本書紀の謎を解く--述作者は誰か--』(中公新書、1999年。以下、『謎』と略記)を激しく批判し、森博達氏とこのブログでコメントの応酬をされている井上亘氏の注目論文です。

 この井上論文について論じるには、『謎』を書評する際に必要だと井上氏が説く「音韻学と文献史学」の知識が必須でしょう。しかし、私は、津田左右吉の弟子や孫弟子の先生たちが多くを占める研究室で学んだものの、老荘や仏教や近代儒教など思想研究の授業ばかりで、史学の訓練は受けていません。

 また、新羅・高麗や日本の仏教漢文の変格語法については、院生時代から調べてきたため、「憲法十七条」を含む『書紀』の倭習には関心があるうえ、恩師の平川彰先生が編集された『仏教漢梵大辞典』のお手伝いを10年ほどやり、音義類を含む大正大蔵経の電子化と公開の作業にも10年ほど携わる中で、「この梵語を、なぜこんな漢字で音写するんだ?」と疑問に思うことが多く、梵語音写と漢字音に関する論文を多少読むようになった結果、ベトナム特有の文字である字喃(チュノム)は唐代の陀羅尼音写用漢字の影響を受けていることに気づき、「ベトナム語の字喃(chu nom)と梵語音写用漢字」(1998年)という雑な論文を書いたりしましたが(後にベトナム社会科学院・漢喃研究センターの雑誌に訳出掲載され、今日まで続くベトナムとの縁ができました)、音韻学に関してまとまった勉強はしていません。

 というわけで、資格不十分であるため、肝心な音韻論そのものに関する細かい議論は専門家にお任せすることとし、それ以外の点について井上氏の論文を見てゆきます。

 井上論文は冒頭で、『謎』が文献史学に疑問を呈した箇所を引きます。つまり、津田左右吉の時代と違い、戦後は神話や天皇制研究に関するタブーが無くなったうえ、隣接諸学が発達したため、『書紀』研究は総合的な学問となったが、その中核となるべき文献史学は「記事内容の整合性と矛盾を追うだけ」の状態から進んでいないため、「文献史学は学問の総合化という華やかな旗の下、独自の存立基盤を喪失したのではないか」と述べた箇所です。

 井上氏は、これは「明白な文献史学に対する挑戦」であり、文献史学者は怒るべきだと力説します。それにもかかわらず、怒るどころか森説に迎合する人も多いらしいのは、森説を批判するには「音韻学と文献史学の双方にわたる知識」が必要なのに、そうした書評がなかったからだろうと推測します。

 一方、文献史学出身の自分は中国の音韻学について触れた書物も出版しており、「上記の条件を一応、満たしている」ため、「森説のどこまでが有効で、一体どこに限界があるのか話してほしいと依頼され」て行なった報告がこの文章である由(72頁)。末尾では「森説批判を依頼された」(112頁)とも書いています。注2によれば、2009年12月に東京での研究会で報告し、今回の論文はそれを増補したものとのことです。

 井上論文はこれに続けて音韻学のうちで議論に必要な部分の説明をした後、まさに怒りに満ちた激しい言葉を用いて批判や皮肉をあびせかけていきます。しかし、『謎』は、文献史学の代表者の一人である津田左右吉については、合理主義に基づき『書紀』における記事の整合性を検討して「帝紀」「旧辞」を析出し、編纂の意図を探り、「東洋史学・考古学・人類学・民俗学・神話学等の知見を援用し、記事の虚実を判定した」(26頁)と述べて高く評価していました。

 また、津田が『書紀』の倭習に着目し、原史料が反映した例と編者の筆癖が露出した例を指摘したことについて、『謎』は「見事に本質を衝いている」(129頁)と賞賛しています。もちろん、津田は簡単に指摘しただけであって、それ以上の詳細な検討は行なっていませんが、戦前の段階でそうした面まで注意していたのは、さすがです。

 つまり、『謎』が実質的に批判しているのは、文献史学そのものというよりは、『書紀』の成立に関する研究を画期的に進めた津田の研究法をさらに発展させようとせず、「記事内容の整合性と矛盾を追うだけ」にとどまっていて、『書紀』の成立過程を明らかにしようとしない文献史学者たちのことであるように見えます。

 実際には、『書紀』研究という点では、考古学・東洋史・文学・国語学その他の隣接諸学の成果を活用する文献史学者によって多くの業績が生み出されています。ただ、森氏としては、『古代の音韻と日本書紀の成立』(1991年)において、中国人が述作し一貫して唐代北方音で発音を表記したα群と、複数の字音体系に基づく仮名が混在していて日本人が倭音で書いたと思われるβ群の違いを指摘し、『書紀』成立論のための基礎となる視点を提示したにもかかわらず、そうした分析を文献史学者が活用して史料批判を進展させ、『書紀』の成立過程を解明しようとしないのは責任放棄であり、文献史学の存在意義を失わせるものだと思われたのでしょう。

 これに対して、井上氏は、『謎』のうち「音韻論」と「成立論」とをはっきり分け、前者については「大変な労作」(81頁)、「未曽有の業績」(109頁)と呼んで高く評価する一方、述作者や成立過程を論じた後者については粗雑きわまりない素人論義として切り捨てます。

 井上氏は、文献史学者が「述作者は誰か」という問題に取り組んで来なかったのは、舎人親王を総裁とし、紀清人と三宅麻呂が従事して720年に完成したことが明白である以上、「編修段階の子細を論ずるよりも、……記紀からどうやって史実を引き出すかに関心が集中していたからにほかならない。……歴史家としては、まず史実の確定を急務とするのは当然のことであり、だからこそ帝紀・旧辞や氏族伝承などの原史料を探求してきたのである」とし、森氏の「編修論」はそうした歴史家の仕事に「殆ど貢献するところがないのであり、『書紀』の成立論としてもまことにお粗末なもの」と評しています(110頁)。

 しかし、これは不思議な議論です。まず奇妙なのは、井上論文は『謎』の音韻論を「未曽有の業績」とまで賞賛しておりながら、その音韻論の根本であるα群中国人述作説は成り立たないと断定し、森説がいかに粗雑で「インチキ」であるかをひたすら述べ立てていくことです。また、「帝紀・旧辞や氏族伝承などの原史料を探求して」史実を引き出したいのであれば、まさに『謎』が非常に有効な情報と方法を提供しているのに、井上論文は「成立論」の欠点を言い立てるばかりで、森説活用の可能性に目を向けないのも解せません。

 『謎』の特徴の一つは、早くにおこなっていたα群β群の指摘に加え、正格漢文で書かれているか、日本文献や百済系文献特有の誤用・奇用を交えた変格漢文で書かれているかという区分も、α群β群の区分と見事に一致することを指摘し、例外箇所についても百済系文献の引用であることによるなどの理由を示したことです。ところが、井上氏は、その誤用論についても、「本文の性格を見るために文法という客観的な基準を持ち出したのは、科学的な方法と言える」(96頁)と高く評価しておりながら、活用の可能性には触れず、誤用と奇用に関する説明の仕方が悪いといった方向に話をもっていってしまうのです。

 しかし、孝徳紀は正格漢文で書かれたα群に属するものの、その時期の詔勅には誤用が目立つため、日本人編纂者による最終段階での加筆が疑われるといった指摘などは、まさにそれらの詔勅の真偽をめぐって大論争している文献史学にとって、客観的で重要な情報であるはずです。『謎』は他にも厩戸皇子や山背大兄王関連記事などの誤用の多さを指摘していますが、これも後代の潤色が指摘されている箇所です。こうした例は、他にいくつも見られます。音韻や誤用に関する森氏の分析を評価するなら、音韻学者の森氏には思いつかない、文献史学者ならではの活用法を提示してこそ建設的な批判となるのではないでしょうか。

 ところが、井上論文では、『謎』における森説の活用の可能性については、末尾で僅かに触れているのみであり、しかも、その提案は疑問に思われる内容となっているのです。これについては後述します。

 さて、井上氏のα群中国人述作説批判は、音韻学者で当時は東大助教授であった平山久雄氏がおこなった森説批判に基づき、拡張したものです。井上氏は、

(1)森氏のα群原音依拠説(もとになった論文は1974~77年)、
(2)倭音説でも説明可能とする平山氏の批判(『国語学』128集、1982年)、
(3)森氏の反論(『国語学』131集、1982年)、
(4)平山氏の再反論と原音依拠説を仮に認めた折衷案の提示(『国語学』134集、1983年)、
(5)森『古代の音韻と日本書紀の成立』(1991年)での平山評(折衷案はα群説承認なので、これ以上の議論は不要)、

という論争の流れを紹介して平山氏の批判を正しいものと評価し、森氏のα群中国人述作説は成り立たないと断定します。

 そして、平山氏がα群中国音説を仮に認めた折衷案も提示したことを「大人の対応」と評価したうえで、「森は恩師に『人はその美を見なさい』と教えられたそうだが(『謎を解く』七九頁)、この論争を見る限り、森は平山の意図さえ見えていないように思われる」(85頁)と批判するのです。

 井上氏は、上で見た85頁の文章に続けて、「私はこの論争について専門的な立場から論評する資格もないし、国語学者がこの論争をどう見ているのかも知らない」(85~86頁)と述べた後、批判を展開していきます。しかし、これが謙遜の言葉でないなら、氏は中国語の音韻学に触れた本を出しているものの、上代日本語の音韻については「専門的な立場から論評する」だけの知識がなく、この問題に関する適切な判断は無理、ということになってしまいます。

 それはともかく、「国語学者がこの論争をどう見ているのかも知らない」というのは、問題発言と言わざるを得ません。北京大勤務の井上氏にとって、森説に言及している多くの論文を網羅するのは困難であるにせよ、元の報告は帰国して東京で発表したわけですし、報告から原稿提出まで1年近くあったと思われますので、国語学の代表的な学術誌に掲載されたいくつかの書評や関連論文を読むくらいはできたはずです。

 そこで、井上氏に代わって、α群中国音説に対する二人の著名な国語学者の見解を紹介しておきましょう。いずれも平山氏と森氏の論争以後のものです。

 まず、日本語音韻の研究者である筑波大教授、林史典氏の「【書評】森博達『古代の音韻と日本書紀の成立』」(『国語学』188集、1997年3月)は、本書はもっと評価されるべきであるとし、α群説については、細かい点では主観に頼らざるを得ない解釈も含まれているが、「全く結論を疑わせるものではない」とします。そして、

「α群の発見は、日本語と中国語の音韻史に大きな可能性を開くものであるばかりでなく、日本語の書記史にも少なからぬ意味を持っている」(31頁上)

と述べます。

 林氏は、仮名から推定した部分については議論の余地があり、説明不足の点もあるといった指摘を含む詳細な検討をおこなったうえで、結論部においても、「最大の功績は、何と言ってもα群の発見であろう」と繰り返し述べ、「一連の研究成果が提起した問題は多く、著者の方法が示唆するものも大きい」(35頁下)と評価しています。

 この書評が掲載された『国語学』誌は、井上氏が紹介した(2)から(4)までの論文が掲載された学術誌です。森氏の諸論文のうち、平山氏の批判のきっかけとなった「漢字音より観た上代日本語の音韻組織」も同誌の126集(1981年)に掲載されています。井上氏は読めたはずです。

 次は、京大の国語学の助教授であった木田章義氏の書評「森博達著『古代の音韻と日本書紀の成立』(『国語と国文学』824号、1992年8月)です。木田氏は、唐代音に関する研究が大きく変わらない限り、α群中国音説はゆるがないとしたうえで、こう述べます。

「曽て平山久雄氏に反論があったが、α群とβ群の仮名に共通した物があるという事は音韻とは別の次元で考えるべき事で、α群の仮名が当時の中国語音の体系で説明できるという事実には関わらない。平山氏が錯覚もしくは誤解されたのであろうから、再反論を本書に入れる必要はないだろう」(64頁上)

 すなわち、平山氏の批判は勘違いなのだから、森氏の反論を増補した詳しい反論論文などを書いてこの本に収録する必要はない、とするのです。取り上げる必要無し、という判断ですね。

 ちなみに、平山氏の森説批判は、森氏が韻母に関する論文を発表しただけで、「頭音論」と「アクセント論」をまだ完成していなかった時期のものです。このアクセント論は、高山倫明氏のアクセント研究に示唆されて行なった分析に基づいていますが、高山氏は、高山「字音声調と日本語のアクセント」(『国語学』54巻3号、2003年。CiNiiで閲覧可能)が示すように、以後は森氏のα群説を活用して上代日本語のアクセントに関する業績をあげていってます。

 なお、43歳の若さで世を去り、遺稿集の『上代音韻攷』で有名な有坂秀世(1908~1952)のことを、井上氏は「天才的な音韻学者」(82頁)と呼んで高く評価し、その有坂の説を克服したと称する森説は、平山氏の批判が示すように成り立たないと論じていますが、木田氏の書評の結論はこう書かれています。

「『上代音韻攷』以来、ようやくこの方面の研究が大幅に進んだ」(67頁下)