四天王寺と法隆寺の対抗関係を軸にし、広隆寺や橘寺の動きにも注意しながら聖徳太子像の変遷を見ていくという吉田論文の方法そのものは、平安時代やそれ以後の大きな流れとしては有効なものであり、実際にいくつか新しい知見を示している点は評価できます。
ただ、奈良時代について言えば、思託らが慧慈後身説を強調したことは大きいですし、東大寺の明一の太子伝なども後代に影響を与えています。明一の前後の世代としては、元興寺の智光が太子を信仰して著作中で三経義疏をしきりに引いたり、東大寺の寿霊が『五教章指事』で『法華義疏』を活用したり明一の太子伝を引いたりしていることも無視できません。宝亀9年(777)には道慈の孫弟子である大安寺戒明や西大寺徳清が中国に渡り、思託も依頼もあってか『法華義疏』と『勝鬘経義疏』を鑑真の弟子が住する寺に赴いて寄贈したりしており、奈良時代には他の寺でも、奈良時代から平安時代にかけて、様々な形の太子信仰が見られます。
思託については同書の蔵中論文に譲ったのでしょうが、今回の吉田論文では思託らの後身説を法隆寺が利用したという点を強調するのみであり、東大寺や元興寺その他の寺の太子信仰については触れられてもいません。吉田さんの専門であった薬師寺景戒の『日本霊異記』には、「聖武天皇=太子後身」説も見えていることが示すように、奈良時代においては、聖武天皇を願主と仰ぐ東大寺や東大寺と関係深い大安寺における太子信仰というのはかなり重要なはずですが、なぜ触れずに、四天王寺と法隆寺の対抗関係だけで論じるのか……。
つまり、今回の吉田論文は、かつての不比等・長屋王・道慈による聖徳太子捏造という図式を、『日本書紀』以後における「四天王寺と法隆寺の太子伝捏造合戦説」に置き換えたような趣きがあり、複雑な相互関影響から成る実態の解明よりも、単純な図式を先行させた感じを受けないこともありません。
さらに大きな問題は、大山説に基づき、聖徳太子関連記述は『日本書紀』が最初だと決めてかかったうえで議論を進めていることです。
たとえば、吉田論文では太子の死去年月日をめぐる諸説について、次のように整理しています。
一見して分かるように、強引で無理な議論です。そもそも、法隆寺には死去年月日はまったく伝えられていなかったのか。
仮に、聖人としての厩戸皇子の逸話を創作したのは『日本書紀』であって、それ以前には神話化はされていなかったと仮定しましょう。その場合でも、厩戸皇子が蘇我馬子が建立した飛鳥寺・豊浦寺の次に本格伽藍である斑鳩寺を創建したのは事実である以上、斑鳩寺には願主である厩戸皇子の死去年月日が伝えられていて不思議はありません。少なくとも、「何年頃の春」といったおおまかな伝承すら伝えられていなかったとは考えにくいことです。
ここも譲って、法隆寺にはおおまかな死去時期を初め、厩戸皇子に関する情報はまったく伝えられていなかったとしましょう。その場合、法隆寺が四天王寺と太子の神話化を争い、『日本書紀』の記述を否定する場合、二月五日を二月二十二日と訂正することによって、何かメリットがあるのでしょうか。
しかも、死去年月日を示す法隆寺側の根本資料である「釈迦三尊像銘」では、王后が二十一日に亡くなり、太子も翌日に薨じたとしているのみであって、太子が「二十二日」に薨じたことは明記されていません。つまり、「二月二十二日」という日を特別に意味のある日として扱っていないのです。私が『日本書紀』の死去の日付を訂正するとしたら、釈尊入滅の日とされる二月十五日とかにしますね。
『日本書紀』は推古二十九年春二月己丑朔癸巳(五日)の夜半に薨じた、と記しているだけで、病には触れていません。また、吉田さんが指摘するように、後代の四天王寺系資料では、「病無くして亡くなった」ということを強調しています。慧慈についても、病無くして亡くなったと記しています。
一方、法隆寺の「釈迦三尊像銘」では、太子も王后も病気になって寝こんでしまって回復せず、太子は「定業」によって亡くなったことがわかるよう記してあります。「釈迦三尊像銘」は太子を特別扱いして尊崇していますが、亡くなり方については病死とするのみで、維摩のように教化の方便として病気になった、などという書き方ではないのです。
慧慈についても同様で、法隆寺系の『法王帝説』では、慧慈は太子の命日に合わせて翌年の二月二十二日に病を発して死んだので聖だった、としています。聖扱いしてはいますが、病で死んだと明言しているのです。つまり、法隆寺側は一貫して病死説なのですが、そうした病死説と、太子も慧慈も病無くして没したとする四天王寺説とでは、四天王寺説の方が神話化が進んでいると言えないでしょうか。
そうした神話化が進んだ四天王寺側の主張に対抗しようとして、「いや、病気で亡くなったのだ」などという資料を後から作成するというのは、考えにくいことです。現存の法隆寺系資料そのものの最終成立年代については、個別に検討する必要があり、かなり遅いものも含まれていると思われますが、「病死」という部分については、「病無くして」とする説より古い伝承を伝えていると見る方が自然でしょう。
四天王寺系の太子伝承に対抗して私が病死説の法隆寺の立場で書くなら、「病を現じて(現してみせて)」とし、「入滅された」とか「遷化された(化を遷す=この国土での教化が終り、別の世界を教化するためにこの世を去る)」と記して、空に五色の雲がたなびいて音楽が聞こえたなど、臨終時に奇瑞があったなどと書き加えますね。実際、『日本書紀』では山背大兄王の死に関する記述は、そうした神秘的な描写になってます。『日本書紀』を参考にするなら、そのような書き方も可能だったはずです。
また、吉田論文のうち、四天王寺は「法隆寺の主張する聖徳太子の死去年月日は慧慈の死去年月日と誤認したものだと論じた」というのも、無理な議論です。『聖徳太子伝暦』では、慧慈の死の記述は、こうなっています。
どうでしょう。これを見る限り、慧慈の同日死去の伝承は、元は二十二日となっていたのであって、『伝暦』はそれを太子の命日とする二月五日に改めたものの、修正が不十分だったため、統一がとれていない箇所が残ってしまったように見えます。少なくとも、この箇所から四天王寺は「法隆寺の主張する聖徳太子の死去年月日は慧慈の死去年月日と誤認したものだと論じた」とまでは言えないでしょう。
さらに奇妙なのは、『日本書紀』では「豊聡耳」とあって一度に10人の訴えを聞いたとしているのに対して、法隆寺系の『法王帝説』では『日本書紀』に反発し、8人の言うことを聞いたので「豊聡八耳」と称したのだと吉田さんが論じていることです。しかし、こういう逸話は、時代が後になるほど数が増えて大げさになっていくのが普通ではないでしょうか。『日本書紀』の10人説に対抗するなら、法隆寺側は「一度に20人もの訴えを聞き」とかにしそうなものです。
日本では「八」は多数を表しますので、「八耳」の方が「十」より口承伝説らしくて古い印象を受けます。つまり、「太子は一度に多くの人の言うことを聞き取った」ということで「八耳」と言われた、という伝承であったとしたら、その方が10人の訴えを聞いたというより古そうに思われるのです。法隆寺が「八」を生かして対抗するなら、古代の決まり文句である「八十(やそ)」とか「八百(やお)」とかにするのではないでしょうか。神話化を争う際、10人説に対抗して8人説を提示するというのは、ちょっと理解できません。
また、吉田論文では、四天王寺系の『聖徳太子伝暦』では、大臣が群臣をひきいて太子に「厩戸豊聡八耳皇子」の名を献呈したが太子は辞退して受けなかったとし、この名を否定してしまったため、「法隆寺や広隆寺は、以後この名を強く主張することはひかえたものと考えられる」(64頁)と述べています。
そして、吉田さんは、本書の「親鸞の聖徳太子信仰の系譜」というコラムの中で、和讃その他から見て、親鸞とその弟子は四天王寺系の太子信仰を受け継いでいるため、親鸞自身は四天王寺系の念仏聖、さらに言えば、その系列寺院であった六角堂に関連した念仏聖であった可能性が高いとしています。
しかし、その親鸞の有名な「皇太子聖徳奉讃」和讃には、「聖徳太子の御名をば八耳皇子とまうさしむ」とあり、左訓も「八人して一どに奏することを一度にきこしめすゆへに、八耳皇子とまうすなり」と説明しています。「八耳」は法隆寺系の説であって、四天王寺側の反論を受けて使われなくなっていたはずではなかったでしょうか。
以上のように、今回の吉田論文では、検討の多くは不自然な議論となっています。これは言うまでもなく、大山説を前提としたうえで「四天王寺と法隆寺の捏造合戦説」で割り切ろうとしているからです。最初の段階でボタンをかけ違えてしまったため、以後、せっかく新たな視点から有益な検討をしているのに、つじつまの合わない苦しい議論をせざるをえないのです。こうした例は、仏教伝来年代の問題を初めとして他にもまだまだ多いのですが、これくらいにしておきます。
『日本書紀』が描く厩戸皇子像は事実そのものではなく、神格化されていることは、早くから指摘されてきたことですし、その神格化の過程と聖徳太子信仰の変遷を明らかにするのは重要な仕事です。
ただ、『日本書紀』の最終編纂段階において不比等と長屋王の指示を受けて道慈が作文したとする大山誠一氏と吉田一彦さんの「聖徳太子虚構説」については、根拠の無い誤った主張であることはこれまで明らかにして来た通りですので、今後はもう取り上げる必要はないでしょう。道慈作文説を引っ込めて「道慈=プロデューサー説」などで逃げても、結局同じであることは、以前ここで指摘した通りです。
吉田さんは、今後は後代の聖徳太子信仰の展開と親鸞教団の太子信仰の解明に力を入れてゆかれるものと思いますが、その際は、大山説から一度離れたうえで、また「四天王寺と法隆寺の捏造合戦説」にもこだわりすぎず、奈良・平安・鎌倉時代の資料そのものの分析に努め、その検討の中で明らかになってきたことを報告して学界に貢献してもらいたいものです。
【追記:2011年12月31日】
深夜に公開しましたが、大安寺戒明や西大寺徳清による『法華義疏』『勝鬘経義疏』の中国寄贈などを書き加えました。奈良時代の太子信仰においては、四天王寺や法隆寺以外のこうした南都の大寺の動向も見逃せません。
ただ、奈良時代について言えば、思託らが慧慈後身説を強調したことは大きいですし、東大寺の明一の太子伝なども後代に影響を与えています。明一の前後の世代としては、元興寺の智光が太子を信仰して著作中で三経義疏をしきりに引いたり、東大寺の寿霊が『五教章指事』で『法華義疏』を活用したり明一の太子伝を引いたりしていることも無視できません。宝亀9年(777)には道慈の孫弟子である大安寺戒明や西大寺徳清が中国に渡り、思託も依頼もあってか『法華義疏』と『勝鬘経義疏』を鑑真の弟子が住する寺に赴いて寄贈したりしており、奈良時代には他の寺でも、奈良時代から平安時代にかけて、様々な形の太子信仰が見られます。
思託については同書の蔵中論文に譲ったのでしょうが、今回の吉田論文では思託らの後身説を法隆寺が利用したという点を強調するのみであり、東大寺や元興寺その他の寺の太子信仰については触れられてもいません。吉田さんの専門であった薬師寺景戒の『日本霊異記』には、「聖武天皇=太子後身」説も見えていることが示すように、奈良時代においては、聖武天皇を願主と仰ぐ東大寺や東大寺と関係深い大安寺における太子信仰というのはかなり重要なはずですが、なぜ触れずに、四天王寺と法隆寺の対抗関係だけで論じるのか……。
つまり、今回の吉田論文は、かつての不比等・長屋王・道慈による聖徳太子捏造という図式を、『日本書紀』以後における「四天王寺と法隆寺の太子伝捏造合戦説」に置き換えたような趣きがあり、複雑な相互関影響から成る実態の解明よりも、単純な図式を先行させた感じを受けないこともありません。
さらに大きな問題は、大山説に基づき、聖徳太子関連記述は『日本書紀』が最初だと決めてかかったうえで議論を進めていることです。
たとえば、吉田論文では太子の死去年月日をめぐる諸説について、次のように整理しています。
(1)『日本書紀』は、聖徳太子の死去年月日を推古二十九年二月五日とした。
(2)法隆寺は、この説を認めず、推古三十年二月に聖徳太子と膳王后がともに病になり、二十一日に王后が、二十二日に聖徳太子が亡くなったと反論した。
(3)四天王寺は、『日本書紀』の記す死去年月日を継承した。法隆寺説に対しては、聖徳太子と妃がともに亡くなったことは認めつつ、推古二十九年二月五日に、病なくして二人同日に死去したのであると反論した。また、法隆寺の主張する聖徳太子の死去年月日は慧慈の死去年月日と誤認したものだと論じた。(37-8頁)
(2)法隆寺は、この説を認めず、推古三十年二月に聖徳太子と膳王后がともに病になり、二十一日に王后が、二十二日に聖徳太子が亡くなったと反論した。
(3)四天王寺は、『日本書紀』の記す死去年月日を継承した。法隆寺説に対しては、聖徳太子と妃がともに亡くなったことは認めつつ、推古二十九年二月五日に、病なくして二人同日に死去したのであると反論した。また、法隆寺の主張する聖徳太子の死去年月日は慧慈の死去年月日と誤認したものだと論じた。(37-8頁)
一見して分かるように、強引で無理な議論です。そもそも、法隆寺には死去年月日はまったく伝えられていなかったのか。
仮に、聖人としての厩戸皇子の逸話を創作したのは『日本書紀』であって、それ以前には神話化はされていなかったと仮定しましょう。その場合でも、厩戸皇子が蘇我馬子が建立した飛鳥寺・豊浦寺の次に本格伽藍である斑鳩寺を創建したのは事実である以上、斑鳩寺には願主である厩戸皇子の死去年月日が伝えられていて不思議はありません。少なくとも、「何年頃の春」といったおおまかな伝承すら伝えられていなかったとは考えにくいことです。
ここも譲って、法隆寺にはおおまかな死去時期を初め、厩戸皇子に関する情報はまったく伝えられていなかったとしましょう。その場合、法隆寺が四天王寺と太子の神話化を争い、『日本書紀』の記述を否定する場合、二月五日を二月二十二日と訂正することによって、何かメリットがあるのでしょうか。
しかも、死去年月日を示す法隆寺側の根本資料である「釈迦三尊像銘」では、王后が二十一日に亡くなり、太子も翌日に薨じたとしているのみであって、太子が「二十二日」に薨じたことは明記されていません。つまり、「二月二十二日」という日を特別に意味のある日として扱っていないのです。私が『日本書紀』の死去の日付を訂正するとしたら、釈尊入滅の日とされる二月十五日とかにしますね。
『日本書紀』は推古二十九年春二月己丑朔癸巳(五日)の夜半に薨じた、と記しているだけで、病には触れていません。また、吉田さんが指摘するように、後代の四天王寺系資料では、「病無くして亡くなった」ということを強調しています。慧慈についても、病無くして亡くなったと記しています。
一方、法隆寺の「釈迦三尊像銘」では、太子も王后も病気になって寝こんでしまって回復せず、太子は「定業」によって亡くなったことがわかるよう記してあります。「釈迦三尊像銘」は太子を特別扱いして尊崇していますが、亡くなり方については病死とするのみで、維摩のように教化の方便として病気になった、などという書き方ではないのです。
慧慈についても同様で、法隆寺系の『法王帝説』では、慧慈は太子の命日に合わせて翌年の二月二十二日に病を発して死んだので聖だった、としています。聖扱いしてはいますが、病で死んだと明言しているのです。つまり、法隆寺側は一貫して病死説なのですが、そうした病死説と、太子も慧慈も病無くして没したとする四天王寺説とでは、四天王寺説の方が神話化が進んでいると言えないでしょうか。
そうした神話化が進んだ四天王寺側の主張に対抗しようとして、「いや、病気で亡くなったのだ」などという資料を後から作成するというのは、考えにくいことです。現存の法隆寺系資料そのものの最終成立年代については、個別に検討する必要があり、かなり遅いものも含まれていると思われますが、「病死」という部分については、「病無くして」とする説より古い伝承を伝えていると見る方が自然でしょう。
四天王寺系の太子伝承に対抗して私が病死説の法隆寺の立場で書くなら、「病を現じて(現してみせて)」とし、「入滅された」とか「遷化された(化を遷す=この国土での教化が終り、別の世界を教化するためにこの世を去る)」と記して、空に五色の雲がたなびいて音楽が聞こえたなど、臨終時に奇瑞があったなどと書き加えますね。実際、『日本書紀』では山背大兄王の死に関する記述は、そうした神秘的な描写になってます。『日本書紀』を参考にするなら、そのような書き方も可能だったはずです。
また、吉田論文のうち、四天王寺は「法隆寺の主張する聖徳太子の死去年月日は慧慈の死去年月日と誤認したものだと論じた」というのも、無理な議論です。『聖徳太子伝暦』では、慧慈の死の記述は、こうなっています。
吾も来年二月五日<或説曰く、二月廿二日に必ずや死なむと>を以て必ず死し竟[おわ]らむと。其の言の如く、明年の二月廿二日に病なくして逝けり。
どうでしょう。これを見る限り、慧慈の同日死去の伝承は、元は二十二日となっていたのであって、『伝暦』はそれを太子の命日とする二月五日に改めたものの、修正が不十分だったため、統一がとれていない箇所が残ってしまったように見えます。少なくとも、この箇所から四天王寺は「法隆寺の主張する聖徳太子の死去年月日は慧慈の死去年月日と誤認したものだと論じた」とまでは言えないでしょう。
さらに奇妙なのは、『日本書紀』では「豊聡耳」とあって一度に10人の訴えを聞いたとしているのに対して、法隆寺系の『法王帝説』では『日本書紀』に反発し、8人の言うことを聞いたので「豊聡八耳」と称したのだと吉田さんが論じていることです。しかし、こういう逸話は、時代が後になるほど数が増えて大げさになっていくのが普通ではないでしょうか。『日本書紀』の10人説に対抗するなら、法隆寺側は「一度に20人もの訴えを聞き」とかにしそうなものです。
日本では「八」は多数を表しますので、「八耳」の方が「十」より口承伝説らしくて古い印象を受けます。つまり、「太子は一度に多くの人の言うことを聞き取った」ということで「八耳」と言われた、という伝承であったとしたら、その方が10人の訴えを聞いたというより古そうに思われるのです。法隆寺が「八」を生かして対抗するなら、古代の決まり文句である「八十(やそ)」とか「八百(やお)」とかにするのではないでしょうか。神話化を争う際、10人説に対抗して8人説を提示するというのは、ちょっと理解できません。
また、吉田論文では、四天王寺系の『聖徳太子伝暦』では、大臣が群臣をひきいて太子に「厩戸豊聡八耳皇子」の名を献呈したが太子は辞退して受けなかったとし、この名を否定してしまったため、「法隆寺や広隆寺は、以後この名を強く主張することはひかえたものと考えられる」(64頁)と述べています。
そして、吉田さんは、本書の「親鸞の聖徳太子信仰の系譜」というコラムの中で、和讃その他から見て、親鸞とその弟子は四天王寺系の太子信仰を受け継いでいるため、親鸞自身は四天王寺系の念仏聖、さらに言えば、その系列寺院であった六角堂に関連した念仏聖であった可能性が高いとしています。
しかし、その親鸞の有名な「皇太子聖徳奉讃」和讃には、「聖徳太子の御名をば八耳皇子とまうさしむ」とあり、左訓も「八人して一どに奏することを一度にきこしめすゆへに、八耳皇子とまうすなり」と説明しています。「八耳」は法隆寺系の説であって、四天王寺側の反論を受けて使われなくなっていたはずではなかったでしょうか。
以上のように、今回の吉田論文では、検討の多くは不自然な議論となっています。これは言うまでもなく、大山説を前提としたうえで「四天王寺と法隆寺の捏造合戦説」で割り切ろうとしているからです。最初の段階でボタンをかけ違えてしまったため、以後、せっかく新たな視点から有益な検討をしているのに、つじつまの合わない苦しい議論をせざるをえないのです。こうした例は、仏教伝来年代の問題を初めとして他にもまだまだ多いのですが、これくらいにしておきます。
『日本書紀』が描く厩戸皇子像は事実そのものではなく、神格化されていることは、早くから指摘されてきたことですし、その神格化の過程と聖徳太子信仰の変遷を明らかにするのは重要な仕事です。
ただ、『日本書紀』の最終編纂段階において不比等と長屋王の指示を受けて道慈が作文したとする大山誠一氏と吉田一彦さんの「聖徳太子虚構説」については、根拠の無い誤った主張であることはこれまで明らかにして来た通りですので、今後はもう取り上げる必要はないでしょう。道慈作文説を引っ込めて「道慈=プロデューサー説」などで逃げても、結局同じであることは、以前ここで指摘した通りです。
吉田さんは、今後は後代の聖徳太子信仰の展開と親鸞教団の太子信仰の解明に力を入れてゆかれるものと思いますが、その際は、大山説から一度離れたうえで、また「四天王寺と法隆寺の捏造合戦説」にもこだわりすぎず、奈良・平安・鎌倉時代の資料そのものの分析に努め、その検討の中で明らかになってきたことを報告して学界に貢献してもらいたいものです。
【追記:2011年12月31日】
深夜に公開しましたが、大安寺戒明や西大寺徳清による『法華義疏』『勝鬘経義疏』の中国寄贈などを書き加えました。奈良時代の太子信仰においては、四天王寺や法隆寺以外のこうした南都の大寺の動向も見逃せません。