聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

10人説に対抗して8人説を提示?:吉田一彦「聖徳太子信仰の基調--四天王寺と法隆寺」(3)

2011年12月31日 | 論文・研究書紹介
 四天王寺と法隆寺の対抗関係を軸にし、広隆寺や橘寺の動きにも注意しながら聖徳太子像の変遷を見ていくという吉田論文の方法そのものは、平安時代やそれ以後の大きな流れとしては有効なものであり、実際にいくつか新しい知見を示している点は評価できます。

 ただ、奈良時代について言えば、思託らが慧慈後身説を強調したことは大きいですし、東大寺の明一の太子伝なども後代に影響を与えています。明一の前後の世代としては、元興寺の智光が太子を信仰して著作中で三経義疏をしきりに引いたり、東大寺の寿霊が『五教章指事』で『法華義疏』を活用したり明一の太子伝を引いたりしていることも無視できません。宝亀9年(777)には道慈の孫弟子である大安寺戒明や西大寺徳清が中国に渡り、思託も依頼もあってか『法華義疏』と『勝鬘経義疏』を鑑真の弟子が住する寺に赴いて寄贈したりしており、奈良時代には他の寺でも、奈良時代から平安時代にかけて、様々な形の太子信仰が見られます。

 思託については同書の蔵中論文に譲ったのでしょうが、今回の吉田論文では思託らの後身説を法隆寺が利用したという点を強調するのみであり、東大寺や元興寺その他の寺の太子信仰については触れられてもいません。吉田さんの専門であった薬師寺景戒の『日本霊異記』には、「聖武天皇=太子後身」説も見えていることが示すように、奈良時代においては、聖武天皇を願主と仰ぐ東大寺や東大寺と関係深い大安寺における太子信仰というのはかなり重要なはずですが、なぜ触れずに、四天王寺と法隆寺の対抗関係だけで論じるのか……。

 つまり、今回の吉田論文は、かつての不比等・長屋王・道慈による聖徳太子捏造という図式を、『日本書紀』以後における「四天王寺と法隆寺の太子伝捏造合戦説」に置き換えたような趣きがあり、複雑な相互関影響から成る実態の解明よりも、単純な図式を先行させた感じを受けないこともありません。

 さらに大きな問題は、大山説に基づき、聖徳太子関連記述は『日本書紀』が最初だと決めてかかったうえで議論を進めていることです。

 たとえば、吉田論文では太子の死去年月日をめぐる諸説について、次のように整理しています。

(1)『日本書紀』は、聖徳太子の死去年月日を推古二十九年二月五日とした。
(2)法隆寺は、この説を認めず、推古三十年二月に聖徳太子と膳王后がともに病になり、二十一日に王后が、二十二日に聖徳太子が亡くなったと反論した。
(3)四天王寺は、『日本書紀』の記す死去年月日を継承した。法隆寺説に対しては、聖徳太子と妃がともに亡くなったことは認めつつ、推古二十九年二月五日に、病なくして二人同日に死去したのであると反論した。また、法隆寺の主張する聖徳太子の死去年月日は慧慈の死去年月日と誤認したものだと論じた。(37-8頁)

 一見して分かるように、強引で無理な議論です。そもそも、法隆寺には死去年月日はまったく伝えられていなかったのか。

 仮に、聖人としての厩戸皇子の逸話を創作したのは『日本書紀』であって、それ以前には神話化はされていなかったと仮定しましょう。その場合でも、厩戸皇子が蘇我馬子が建立した飛鳥寺・豊浦寺の次に本格伽藍である斑鳩寺を創建したのは事実である以上、斑鳩寺には願主である厩戸皇子の死去年月日が伝えられていて不思議はありません。少なくとも、「何年頃の春」といったおおまかな伝承すら伝えられていなかったとは考えにくいことです。

 ここも譲って、法隆寺にはおおまかな死去時期を初め、厩戸皇子に関する情報はまったく伝えられていなかったとしましょう。その場合、法隆寺が四天王寺と太子の神話化を争い、『日本書紀』の記述を否定する場合、二月五日を二月二十二日と訂正することによって、何かメリットがあるのでしょうか。

 しかも、死去年月日を示す法隆寺側の根本資料である「釈迦三尊像銘」では、王后が二十一日に亡くなり、太子も翌日に薨じたとしているのみであって、太子が「二十二日」に薨じたことは明記されていません。つまり、「二月二十二日」という日を特別に意味のある日として扱っていないのです。私が『日本書紀』の死去の日付を訂正するとしたら、釈尊入滅の日とされる二月十五日とかにしますね。

 『日本書紀』は推古二十九年春二月己丑朔癸巳(五日)の夜半に薨じた、と記しているだけで、病には触れていません。また、吉田さんが指摘するように、後代の四天王寺系資料では、「病無くして亡くなった」ということを強調しています。慧慈についても、病無くして亡くなったと記しています。

 一方、法隆寺の「釈迦三尊像銘」では、太子も王后も病気になって寝こんでしまって回復せず、太子は「定業」によって亡くなったことがわかるよう記してあります。「釈迦三尊像銘」は太子を特別扱いして尊崇していますが、亡くなり方については病死とするのみで、維摩のように教化の方便として病気になった、などという書き方ではないのです。

 慧慈についても同様で、法隆寺系の『法王帝説』では、慧慈は太子の命日に合わせて翌年の二月二十二日に病を発して死んだので聖だった、としています。聖扱いしてはいますが、病で死んだと明言しているのです。つまり、法隆寺側は一貫して病死説なのですが、そうした病死説と、太子も慧慈も病無くして没したとする四天王寺説とでは、四天王寺説の方が神話化が進んでいると言えないでしょうか。

 そうした神話化が進んだ四天王寺側の主張に対抗しようとして、「いや、病気で亡くなったのだ」などという資料を後から作成するというのは、考えにくいことです。現存の法隆寺系資料そのものの最終成立年代については、個別に検討する必要があり、かなり遅いものも含まれていると思われますが、「病死」という部分については、「病無くして」とする説より古い伝承を伝えていると見る方が自然でしょう。

 四天王寺系の太子伝承に対抗して私が病死説の法隆寺の立場で書くなら、「病を現じて(現してみせて)」とし、「入滅された」とか「遷化された(化を遷す=この国土での教化が終り、別の世界を教化するためにこの世を去る)」と記して、空に五色の雲がたなびいて音楽が聞こえたなど、臨終時に奇瑞があったなどと書き加えますね。実際、『日本書紀』では山背大兄王の死に関する記述は、そうした神秘的な描写になってます。『日本書紀』を参考にするなら、そのような書き方も可能だったはずです。

 また、吉田論文のうち、四天王寺は「法隆寺の主張する聖徳太子の死去年月日は慧慈の死去年月日と誤認したものだと論じた」というのも、無理な議論です。『聖徳太子伝暦』では、慧慈の死の記述は、こうなっています。

吾も来年二月五日<或説曰く、二月廿二日に必ずや死なむと>を以て必ず死し竟[おわ]らむと。其の言の如く、明年の二月廿二日に病なくして逝けり。

 どうでしょう。これを見る限り、慧慈の同日死去の伝承は、元は二十二日となっていたのであって、『伝暦』はそれを太子の命日とする二月五日に改めたものの、修正が不十分だったため、統一がとれていない箇所が残ってしまったように見えます。少なくとも、この箇所から四天王寺は「法隆寺の主張する聖徳太子の死去年月日は慧慈の死去年月日と誤認したものだと論じた」とまでは言えないでしょう。

 さらに奇妙なのは、『日本書紀』では「豊聡耳」とあって一度に10人の訴えを聞いたとしているのに対して、法隆寺系の『法王帝説』では『日本書紀』に反発し、8人の言うことを聞いたので「豊聡八耳」と称したのだと吉田さんが論じていることです。しかし、こういう逸話は、時代が後になるほど数が増えて大げさになっていくのが普通ではないでしょうか。『日本書紀』の10人説に対抗するなら、法隆寺側は「一度に20人もの訴えを聞き」とかにしそうなものです。

 日本では「八」は多数を表しますので、「八耳」の方が「十」より口承伝説らしくて古い印象を受けます。つまり、「太子は一度に多くの人の言うことを聞き取った」ということで「八耳」と言われた、という伝承であったとしたら、その方が10人の訴えを聞いたというより古そうに思われるのです。法隆寺が「八」を生かして対抗するなら、古代の決まり文句である「八十(やそ)」とか「八百(やお)」とかにするのではないでしょうか。神話化を争う際、10人説に対抗して8人説を提示するというのは、ちょっと理解できません。

 また、吉田論文では、四天王寺系の『聖徳太子伝暦』では、大臣が群臣をひきいて太子に「厩戸豊聡八耳皇子」の名を献呈したが太子は辞退して受けなかったとし、この名を否定してしまったため、「法隆寺や広隆寺は、以後この名を強く主張することはひかえたものと考えられる」(64頁)と述べています。

 そして、吉田さんは、本書の「親鸞の聖徳太子信仰の系譜」というコラムの中で、和讃その他から見て、親鸞とその弟子は四天王寺系の太子信仰を受け継いでいるため、親鸞自身は四天王寺系の念仏聖、さらに言えば、その系列寺院であった六角堂に関連した念仏聖であった可能性が高いとしています。

 しかし、その親鸞の有名な「皇太子聖徳奉讃」和讃には、「聖徳太子の御名をば八耳皇子とまうさしむ」とあり、左訓も「八人して一どに奏することを一度にきこしめすゆへに、八耳皇子とまうすなり」と説明しています。「八耳」は法隆寺系の説であって、四天王寺側の反論を受けて使われなくなっていたはずではなかったでしょうか。

 以上のように、今回の吉田論文では、検討の多くは不自然な議論となっています。これは言うまでもなく、大山説を前提としたうえで「四天王寺と法隆寺の捏造合戦説」で割り切ろうとしているからです。最初の段階でボタンをかけ違えてしまったため、以後、せっかく新たな視点から有益な検討をしているのに、つじつまの合わない苦しい議論をせざるをえないのです。こうした例は、仏教伝来年代の問題を初めとして他にもまだまだ多いのですが、これくらいにしておきます。

 『日本書紀』が描く厩戸皇子像は事実そのものではなく、神格化されていることは、早くから指摘されてきたことですし、その神格化の過程と聖徳太子信仰の変遷を明らかにするのは重要な仕事です。

 ただ、『日本書紀』の最終編纂段階において不比等と長屋王の指示を受けて道慈が作文したとする大山誠一氏と吉田一彦さんの「聖徳太子虚構説」については、根拠の無い誤った主張であることはこれまで明らかにして来た通りですので、今後はもう取り上げる必要はないでしょう。道慈作文説を引っ込めて「道慈=プロデューサー説」などで逃げても、結局同じであることは、以前ここで指摘した通りです。

 吉田さんは、今後は後代の聖徳太子信仰の展開と親鸞教団の太子信仰の解明に力を入れてゆかれるものと思いますが、その際は、大山説から一度離れたうえで、また「四天王寺と法隆寺の捏造合戦説」にもこだわりすぎず、奈良・平安・鎌倉時代の資料そのものの分析に努め、その検討の中で明らかになってきたことを報告して学界に貢献してもらいたいものです。

【追記:2011年12月31日】
深夜に公開しましたが、大安寺戒明や西大寺徳清による『法華義疏』『勝鬘経義疏』の中国寄贈などを書き加えました。奈良時代の太子信仰においては、四天王寺や法隆寺以外のこうした南都の大寺の動向も見逃せません。

引用の仕方に見える問題点: 吉田一彦「聖徳太子信仰の基調--四天王寺と法隆寺」(2)

2011年12月27日 | 論文・研究書紹介
 前回の記事では、吉田論文がこれまでの吉田説の根本であった道慈作文説とは矛盾する説を提示しているのに、道慈に一言も触れないことを問題にしました。少し前に刊行され、今回の論文でも参照が要請されている吉田一彦「『日本書紀』仏教伝来記事と末法思想(その五)[完]」(『人間文化研究』第13号、2010年6月)では、「四天王寺の由緒の作成は『日本書紀』の文章作成と同時並行的になされたものと見るべきで、四天王寺の由緒の作成にも道慈が関わっていたものと推考される」(171頁)とほぼ同文で述べているだけに、今回はなぜ道慈の名を省いたのか不思議です。

 なお、額田部氏と額安寺については、『国立歴史民俗博物館研究報告』第88集(2001年3月)が資料と発掘調査に基づく共同研究の最新成果となっています。それによれば、額田氏は高麗出身の工匠の後裔とする伝承もあり、推古天皇(額田部皇女)の治世においては、額田部皇女に仕えた額田部氏が外交儀礼や貢馬の伝統に基づき騎馬による奉仕を行ったほか、額田寺(額安寺)も建立したと推測されており、この氏族は仏教とも関係深かったことが指摘されています。額安寺は、7世紀前半に創建されて7世紀末あたりに法隆寺式軒丸瓦を用いて整備された点は、中宮寺・法起寺・法輪寺その他と同様であるものの、そうした斑鳩の寺々と違い、8世紀になってから平城京遷都後の最新の方式による伽藍配置に改めてある由。

 また、1点だけですが、若草伽藍金堂創建時の軒丸瓦と同じ手彫りの軒丸瓦が出ており、元となった堂などであれば、若草伽藍金堂の創建よりやや遅れて造営が始まる斑鳩の寺々よりむしろ早い可能性もあるそうです。聖徳太子の宮があったとされる飽波は斑鳩寺と額安寺の中間あたりですので、早い時期から斑鳩寺の文化圏だったということですね。「額田寺伽藍並条里図」によれば、寺の東南には南院・馬屋と記された場所があります。道慈は額田氏で添下郡出身とされているため、そうした土地で育ったことになります。

 さて、吉田論文の問題点は、論文引用の仕方にも見られます。聖人としての聖徳太子像は『日本書紀』の最終編纂時に一気に作られたとする立場にこだわりすぎるあまり、自説に不利な研究成果に目を向けなかったり、自説に有利な説の誤りに注意しなかったりしがちなのです。

 そうした例の代表は、法隆寺金堂の薬師如来像に関する議論でしょう。聖徳太子信仰は四天王寺と法隆寺の対立関係の中で育っていったという図式を強調する今回の論文では、四天王寺も法隆寺も『日本書紀』以後に聖徳太子伝説をふくらませ、関連する文物を作り出していったのであって、四天王寺の方が優勢であった、という立場を打ち出しています。

 このため、現在の法隆寺金堂の釈迦三尊像と薬師如来像の銘文については、当然ながら『日本書紀』以後の成立と見ます。ただ、釈迦三尊像の造像年代には触れず、「後世に作成された偽銘」と述べるにとどまっているものの、薬師如来像については、「像およびその光背銘文は、『日本書紀』以後の成立とみることになるだろう」(48頁)と述べ、銘だけでなく像そのものも『日本書紀』以後の作としています。

 その主要な根拠は、薬師如来像は「美術史研究の観点からみて推古朝のものとはいえず、後年に作られた模古作だと理解されるようになっている」(47頁)からだそうです。しかし、その典拠として注11であげている石田尚豊『空海の帰結--現象学的史学』「美術史学の方法と古代史研究」(中央公論美術出版社、2004年)では、確かに薬師如来像は後代の作であって釈迦三尊像の模古作としているものの、「薬師造像年次が、法隆寺金堂再建時と密接な関係にある」(182頁)、「薬師像の光背は……薬師如来坐像と同様、金堂再建時とみなすのが妥当であろう」(186頁)と明言しています。

 670年に焼失した法隆寺の再建に当たっては、金堂が最初に造営されたことは昭和の大修理の際の調査で確定しているうえ、693年の仁王会に際して、また翌694年にも「飛鳥(浄御原)宮御宇天皇[持統天皇]」から経典その他が法隆寺に施入されているため、当時は少なくとも金堂は完成していて仁王会をおこなうことが可能であったことが知られています。つまり、石田論文は、薬師如来像は693年以前の金堂再建時に造像されたととみなしているのです。その石田論文のうち、自説に都合の良い箇所にだけ着目し、『日本書紀』以後に造像されたとする主張の根拠として引くのはいかがなものでしょうか。

 もう一例は、「救世観音」という称号に関する議論です。吉田論文が聖徳太子=救世観音説は慧慈後身説と矛盾するとしている(67-8頁)のは大事な指摘ですが、その際、藤井由紀子「『救世観音』の成立について」(佐伯有清先生古稀記念会編『日本古代の祭祀と仏教』吉川弘文館、1995年)を引き、「救世観世音菩薩」「救世菩薩」などの語は10世紀に成立した『聖徳太子伝暦』が初見であるとし、救世観音という尊格は日本以外には存在しないとしているのは誤りです。

 藤井さんのこの論文は、後代の聖徳太子信仰について考えるうえできわめて有益な成果であって必読の論文ですが、16年前のものであり、細かい点については現在ではいくつか修正すべき箇所もあります。たとえば、この論文当時と違い、現在は SAT(大蔵経テキストデータベース) で大正大蔵経を検索できるのですから、「救世観」(「救世観音」だけでなく、「救世観世音菩薩」とか「救世観自在菩薩」などもヒットさせるため)とか、「救世菩」([救世菩提薩埵」もヒットさせるため)とか入力して検索すれば、百済仏教に大きな影響を与えた梁武帝の息子である簡文帝の「唱導文」に「救世観音」とあり、儀礼における礼拝対象となっていることが分かったはずです。SATに長らく関わった人間としては、もっとSATを活用してもらいたいですね。しかも、この「唱導文」は、道宣の『広弘明集』に収録されています。

 他にも、先日紹介した新著に収録されている河上麻由子さんの数年前の諸論文、たとえば話題になった「遣隋使と仏教」(『日本歴史』2008年2月号)などを読めば、皇帝菩薩・菩薩天子などと称された梁武帝のことを「国主救世菩薩」と呼んだ例が道宣の『続高僧伝』に見えることが分かったはずです。この用例もSATでヒットします。

 吉田さんは以前は、入唐した道慈は道宣が住していた長安の西明寺で学び、道宣を尊敬してしきりに道宣の著作を利用していたことを強調していたのですから、その道宣の『広弘明集』や『続高僧伝』に見える以上、道慈が着目して『日本書紀』以後に聖徳太子を「救世菩薩」とか「救世観音」などと呼ぶようになったのだ、と主張すべきではないでしょうか。

 道慈は、行信が光明皇后などの支援を得て東院の建立を柱とする太子信仰宣揚に努めていた際、招かれて法隆寺で『法華経』講説をしたりしているのですから、そうした法会において太子を「救世菩薩」「救世観音」と称したりした可能性も皆無とは言えません。

 ところが、今回の吉田論文では、聖徳太子信仰の宣伝では四天王寺が優勢であったという立場であって、道慈にまったく触れないため、「救世観音」の語は四天王寺系である10世紀の『聖徳太子伝暦』が初見である以上、「四天王寺のほうが先にいいい出したことで、それに対抗するようにして、あとから法隆寺東院の中尊にこの名がつけられたものと思われる」(67頁)と論ずるに至っています。しかし、こうした主張をする場合は、「現存史料による限りでは、初見は……」という形にとどめておかないと危険でしょう。

 しかも、吉田さんは、「聖徳太子を救世観音の垂迹とする理解は、聖徳太子を慧思の後身とする説と両立しないとまではいえないものの、矛盾する部分があるといわざるをえない」(68頁)と述べ、問題があることに着目しておりながら、「だが、それこそが四天王寺の戦略であった」と続けるのです。なぜ、矛盾こそが四天王寺の戦略なのか、詳しい説明はありません。

 思託らの聖徳太子=慧慈後身説を信じ、『法華経』を講説した太子を日本天台の先蹤とみなして四天王寺に詣で、加護を祈った最澄やそれを強調した弟子の光定以後、四天王寺には次第に天台宗の影響が及ぶようになり、やがて天台宗にとりこまれていったことは、よく知られています。法相宗を柱とする興福寺の影響が強くなっていく法隆寺と、天台宗色を強めていく四天王寺とでは、どちらが慧思後身説より救世観音説を強調しやすいでしょう? 慧思は天台大師の師であって、天台宗の祖師ですよ。
 
 今回の吉田論文は、こうした箇所がこれ以外にいくつも目につきます。前の記事で書いたように、吉田さんの論文は重要な問題を取り上げているものの、そうした考察はかえって吉田説の強引さを示し、太子虚構説の弱さを示す証拠となっているように見える場合が少なくないのです。

【追記:2011年12月27日】
薬師如来像と釈迦三尊像の作成年代に関する大山説に触れた部分を削除しました。大山説では、この二つの像の制作年代は不明としつつ銘文はともに天平年間に刻まれ、道慈が関与したと推測しています。ただ、救世観音については『<聖徳太子>の誕生』(吉川弘文館、1999年)では行信か光明皇后によって「新たに作成されたか、あるいは、どこからか、もたらされた」(194頁)と述べており、美術史の常識を無視して新造の可能性もあるとしています。

道慈作文説の撤回?:吉田一彦「聖徳太子信仰の基調--四天王寺と法隆寺」(1)改訂版

2011年12月24日 | 論文・研究書紹介
 吉田一彦編『変貌する聖徳太子--日本人は聖徳太子をどのように信仰してきたか--』(平凡社、2011年11月)のうち、吉田さんの序論「聖徳太子信仰を解き明かす」では、本論文集全体の意図とそれぞれの著者たちの論文の概要が示されています。今回、とりあげるのは、吉田さん個人の論文、

吉田一彦「聖徳太子信仰の基調--四天王寺と法隆寺」

です。

 吉田さんは、四天王寺と法隆寺はライバル関係にあり、「相手側の言い分を否定したり、吸収しようとしたりする言説が唱えられ、それに適合するような法物が作成され、伝記が著作されていった」とし、「私は、聖徳太子信仰の発展は、この二寺による、対抗的な教宣活動がその原動力になったと考えている」(26頁)と述べます。そして、その過程を示すとともに、広隆寺や橘寺も自らの立場で聖徳太子に関する伝承をふくらませていったことを明らかにしています。

 こうした視点は有効であって、このような具体的な検討をつみ重ねていくと、聖徳太子信仰史が明らかになるだけでなく、それぞれの時代が求めていた宗教的理想像が見えてきますね。聖徳太子信仰の変遷は、そのまま日本仏教史でもあることがよく分かります。

 問題は、その四天王寺と法隆寺の対抗関係がいつ始まり、いつ強くなったかです。吉田さんは、『日本書紀』においては、四天王寺は厩戸皇子の発願・創建の寺であることが明記され、日本における仏教興隆と関連づけて描かれているのに対し、法隆寺(斑鳩寺)の記述は少なく、扱いが冷たいことを指摘します。これはその通りなのですが、これについて吉田さんはこう書いています。

私は、『日本書紀』の四天王寺関係の記述は、四天王寺自身による寺の由緒の作成と同時並行的に進められていったと推考しており、『日本書紀』の編集・作成者のなかに四天王寺と関係をもつ人物がいて、その影響力のもとに『日本書紀』の関係記事が述作されたと考えている。(29頁)

 さあ、どうでしょう。これは、吉田さんのこれまでの主張を大きく変更した発言ではないでしょうか。聖徳太子関連記事を含む『日本書紀』の仏教関連記事については、16年に及ぶ留学を終えて718年に唐から帰国した博学で文章の名手であった道慈が「まさに主筆として関与したと考えられる」(吉田「道慈の文章」、大山誠一編『聖徳太子の真実』平凡社、2003年、303頁)というのが、吉田説の根本の立場でした。しかし、上の引用部分だけでなく、今回の論文には「道慈」という言葉が一回も見えません。

 道慈は、唐から帰った後は「藤原寺(興福寺)」にいたらしいことは、森下和貴子「藤原寺考--律師道慈をめぐって--」(『美術史研究』第26冊、1987年)が指摘している通りです。道慈は帰国するとすぐ登用されて活躍したものの、やがて為政者に強硬な諌言をして衝突したらしく、律師を辞任し(ないし解任され)、後にまた召されて大安寺の創建と経営に尽力しています。

 大和田岳彦「大仏造立以前の南都寺院伽藍--道慈の構想と理念--」(『日本歴史』1997年5月号)は、技術者たちを感心させるほど寺院の模型の制作が巧みであったと卒伝に記される道慈は、諸資料や発掘成果から見て、帰朝早々、元興寺の補修に関わるとともに、進行していた平城京の薬師寺と新元興寺の造営に参加し、設計の一部を唐の最新様式に変更させたのであって、その手腕を買われて天平元年(729)から大安寺の造営を任された、と推定しています。また道慈は、『日本書紀』以後のことになりますが、天平8年(736)には、行信が聖徳太子信仰を宣揚していた法隆寺に招かれ、法隆寺側の伝承が太子の命日とする2月22日に法隆寺で『法華経』の講説をおこなっています。

 その道慈が、帰国してすぐ「四天王寺自身による寺の由緒の作成」をすると同時に、『日本書紀』編纂にも関わり、四天王寺を中心にした仏教受容記事を書いて太子の命日を2月5日と定めたとは考えがたいですね。道慈がもし『日本書紀』編纂に関わっていたなら、興福寺の前身である山階寺・廐坂寺などについても詳しい記事を書き、その重要性を強調しそうなものですが、『日本書紀』にはそうした個所は全くありません。

 それに、道慈の出身母体であった額田部氏の本拠地は、斑鳩のすぐ東南です。その地に太子が作らせた熊凝の道場が、やがて完成を願う太子の遺志を受けた舒明天皇によって移されて百済大寺となり、さらに平城京に移されて大安寺となった、というのが大安寺の主張であって、熊凝道場の跡には道慈が額安寺を建立したという後代の伝承がありますが、額安寺は額田部氏の氏寺とも言われています。

 7世紀末から8世紀初めにかけては、法隆寺が再建されたばかりでなく、斑鳩周辺の聖徳太子と関係の深い寺々で「法隆寺式軒丸瓦」と言われる再建法隆寺系の瓦を用いて一斉に改修や新造の工事が始まっていたことは、考古学や建築学の成果が示している通りであり、このブログでも紹介しました。そうした寺院の造営ラッシュは、上宮王敬慕の高まりと無関係であったとは思われません。しかも、額安寺からも「法隆寺式軒丸瓦」が出土しています。斑鳩寺と関係があったかどうかはともかく、再建された法隆寺と額安寺とが近しい関係にあったことは間違いありません。つまり、斑鳩に隣接する額安寺近辺を本拠地とする額田部氏は、再建された法隆寺の文化圏に属していたのです。

 大安寺の創建は『日本書紀』以後ですし、上で述べたような大安寺の伝承は伽藍完成頃か、さらに後に成立したものでしょうが、道慈が『日本書紀』に関与したなら、出身氏族と関係深い熊凝の寺と太子の関係を強調しそうなものです。しかし、『日本書紀』にはそうした記述もありません。額田部氏出身の道慈は、難波の四天王寺に属していて、あるいは四天王寺を応援していて出身地の近隣にある法隆寺に冷たい記事を書いた、ということになるのでしょうか。

 そもそも、聖徳太子記事を含む『日本書紀』の仏教関連記事については、倭習が目立つ拙劣な漢文で書かれているため、唐に16年も留学し、玄宗の命によって百人の僧が『仁王経』を講説した際はその一人として選ばれたこともある道慈の筆とは考えられないことは、森博達さんと私が何度も指摘したことです。

 「四天王寺と関係をもつ人物がいて、その影響力のもとに『日本書紀』の関係記事が述作された」と言うのであれば、聖徳太子関連を含む『日本書紀』の仏教関係記事は道慈が主筆となってまとめあげたとする説は撤回した、と明言すべきですね。

 撤回したのでないなら、道慈こそがその「四天王寺と関係をもつ人物」であって「四天王寺自身による寺の由緒の作成」にも関わっていた証拠、あるいはそうした人物と道慈がきわめて近い関係にあったことを示す必要があるでしょう。しかし、今回の論文では、そのような可能性を示唆するどころか、道慈という名前そのものが一回も出てこないのです。吉田説の大前提であった道慈は、一体どこへ行ってしまったのでしょう?

 それに、四天王寺側の主張が『日本書紀』に色濃く反映しているのは事実ですが、『日本書紀』の四天王寺関係の記述が「四天王寺自身による寺の由緒の作成と同時並行的に進められていった」ことを示す具体的な証拠はありません。四天王寺がそうした由来を既に文書で提示しており、『日本書紀』の編者がそれを利用して書いたと見る方が自然でしょう(ただし、『日本書紀』が四天王寺関係以外の様々な史料も用いていたことは、記事によって太子に対する呼称が違いすぎることからも推察されます)。

 今回の吉田論文のように、法隆寺と四天王寺が対抗関係にあったとするなら、法隆寺が再建されて復興していく様子を目にした四天王寺側が、法隆寺の前身である斑鳩寺(若草伽藍)造営より少し遅れて工事が始まり、斑鳩寺で使ってかなり摩滅してきた瓦当笵で作った瓦を用いて現在地に造営された四天王寺と聖徳太子の関係をこれまで以上に強調し、四天王寺を中心とした仏教受容史を主張するようになったとしても不思議はありません。

 つまり、そうした由緒の作成を、718年12月の道慈帰朝から720年5月の『日本書紀』献上に至る『日本書紀』の最終編纂時期と同じ頃とみなす必要はないのです。7世紀末から8世紀初めにかけて、斑鳩で法隆寺や太子関連の寺々の修造・新造と太子敬慕の風潮が進みつつあった頃に、四天王寺側も聖徳太子と四天王寺の関係を強調しつつ寺の由来を補強していったと考える方が自然ではないでしょうか。たとえば、造営当初は蘇我氏の援助も大きかったのに、そうした記述を削るといった作為は、十分考えられることです。

 いずれにしても、道慈の出る幕は無くなりました。

 大山誠一氏と吉田一彦さんは、道慈の関与という点を「聖徳太子虚構説」の中軸としていたのですから、その根本が崩れたことになります。空想ばかりの大山氏と違い、吉田さんは文献に即して検討していくため、個々の考察にはすぐれたものがあるのですが、そうした考察は、かえって大山・吉田流の「聖徳太子虚構説」を突き崩すものである場合も少なくないのが実状です。

【追記:2011年12月24日】
朝、公開しましたが、額安寺のことを明記し忘れたので、改訂版として更新し直します。
【追記:2012年1月11日】
道慈と額安寺の関係については、興福寺西金堂の帝釈、四天王、八部衆像などはもともとは大和の額安寺の像であったとか、それらの像が西金堂に運ばれて以来、寺中でもめごとが絶えないため返却したといった伝承があり、これは道慈と額安寺の関わりによるものであるとする説などが、村松哲文「十大弟子像と八部衆像」(大西一章・片岡直樹編著『興福寺--美術史研究のあゆみ--』里文出版、2011年11月)で紹介されています。乾漆像の十大弟子と八部衆という点は大安寺の仏殿も同様であったようですが、村松さんは、十大弟子と八部衆の優れた乾漆像という点で、興福寺・大安寺・額安寺をつなげる存在として道慈に注目しています。

公伝より大寺院建立が問題: 崔鈆植「六世紀の東アジア地域における仏教伝播過程についての再検討」

2011年12月20日 | 論文・研究書紹介
 前回紹介した最新刊の吉田一彦編『変貌する聖徳太子』(平凡社)については、吉田さんの論文「聖徳太子信仰の基調--四天王寺と法隆寺--」から検討していく予定でしたが、その前に押さえておくべき成果があります。つい最近の発表、

崔鈆植「六世紀の東アジア地域における仏教伝播過程についての再検討--百済の仏教治国策の成立と周辺国家への影響を中心に--」
(「国際シンポジウム 「仏教」文明の東方移動--その受容と抵抗--:要旨集」、2011年12月9日、早稲田大学・東アジア「仏教」文明研究所)

です。

 親しい研究仲間である韓国国立木浦大学の崔鈆植(チェ・ヨンシク)さんは、韓国仏教史を中心にして幅広く研究しており、日本や中国の研究成果を踏まえたうえで新たな視点による様々見直しができる研究者です。中国三論宗の著作とされてきた慧均『大乗四論玄義記』は、実際には中国に渡って学んだ慧均が百済に帰国した後に著したものであり、現存する韓国最古の書物であることを発見した際は、新聞などでも報道されました。古代日本仏教に関しても、いくつかの発見をしています。

 先日のシンポジウムでの日本語発表は、少し前に韓国でおこなった発表に基づくもので、雑誌論文として刊行されるのはそちらの方が早いでしょう。今回の発表では、崔さんは、「仏教公伝は本当は何年か」という問題になぜこだわるのか、という疑問を提示しました。同盟を結んでいた新羅との関係が悪化した百済は、日本との関係強化を求めて様々なものをしきりに日本に提供したのであり、仏教はその一つなのだから、何度伝えられていても不思議はない、とするのです。

 それに対し、崔さんが注目するのは大伽藍の建設です。仏教国家である梁を模範とし、転輪聖王たらんとしていた百済の聖王は、梁と交流して武帝の経典注釈や寺の建築技術を初めとする様々な文物や技術を導入しました。聖王は、梁の大通元年(527)には梁の武帝のために、百済で初めての本格的な伽藍である大通寺を建立しています。

 この年に新羅で仏教受容をめぐって騒動が起きていますが、史料をよく読めば、これは仏教受容をめぐる論争というよりは、大寺院創建をめぐる争いなのであって、新羅との軍事協力を深めるために、百済が大通寺を建立した技術者たちを新羅に派遣し、大寺院建立を支援しようとした点が重要、と崔さんは論じます。つまり、膨大な費用がかかる大寺院建立は、宗教問題であるだけでなく、外交問題でも財政問題でもあるのです。

 新羅の初期の寺院跡からは、百済寺院の形式の瓦などの遺物が発見されていることが示すように、新羅はこの時期、百済の仏教を受け入れ、百済の媒介で梁への朝貢を始めるなど、百済との関係を深めます。ただ、新羅は次第に自立の姿勢を強めていき、受容した百済仏教の上に、中国と高句麗の仏教を重ねて受け入れながら独自の仏教文化を形成し、強力になっていきます。

 日本への仏教伝来はどうかと言えば、民間での流布は早かったものの、王室への伝来という点では、古記録による538年は百済が高句麗の圧力を受けて泗沘に遷都した年、また『日本書紀』が重視する552年は、百済と新羅の国交断絶の年であることに、崔さんは注目します。

 つまり、新羅に仏教を伝え、新羅と梁の外交の仲立ちもした百済は、近隣国との関係が悪化するにつれて日本との関係強化に力を入れるようになり、仏教外交を展開するようになったのだ、そのため日本に何度も仏教を送ったのであって、伝来の年代が複数あっても差し支えない、というのが崔さんの主張です。

 日本では仏教の公的受容は遅れていましたが、受容しようとする勢力、百済との関係を重視する勢力が強くなった結果、587年には本格伽藍である法興寺の造営開始に至ります。ここで百済の最新技術が一気に活用され、「仏教の理想的な君主像」も採用されるようになった結果、百済と対立していた高句麗や新羅も、百済に続いて日本に仏像や僧侶その他を送り、仏教外交を展開した、という流れだと見るのです。

 崔さんは、従来は、新羅の仏教受容を論ずるに当たっては、中国の影響や国内の在来信仰との軋轢などが重視されてきたが、百済の積極的な働きかけにも注目すべきだと主張します。そして、それと同じことが日本への仏教伝来にも見られるとし、当時の東アジア外交における百済の能動的な役割に注意します。

 百済の外交的働きかけという点は、先にこのブログでとりあげた徐甫京「百済を媒介とする高句麗と倭との交渉」論文も、着目していたことですね。いずれにしても、日本の仏教受容というのは、中国大陸での動向を大きな背景としつつも、直接には朝鮮半島諸国の複雑な関係と結びついてなされた出来事であった、ということを改めて念頭に置くべきなのでしょう。

 以前、私は、仏教公伝というのは、近隣国との激しい対立が続く中で、自国に味方してくれそうな国に対して技術と資金の援助を行って原子力発電所の建設を支援し、その国から留学して来る技術者の養成も引き受けるなど、長く続く親しい関係になっていることを他の諸国にアピールするようなものだと書いたことがあります(石井「仏教受容期の国家と仏教--朝鮮・日本の場合--」、高崎直道・木村清孝編『東アジア社会と仏教文化』、春秋社、1996年)。崔さんの発表を聞き、また現在の国際情勢を見ると、昔も今も状況はあまり変わっていないことを痛感します。

吉田一彦編『変貌する聖徳太子--日本人は聖徳太子をどのように信仰してきたか--』

2011年12月15日 | 論文・研究書紹介
 大山誠一編『日本書紀の謎と聖徳太子』(2011年6月、平凡社)の続編が送られて来ました(吉田さん、増尾さん、有り難うございます)。

吉田一彦編『変貌する聖徳太子--日本人は聖徳太子をどのように信仰してきたか--』
(平凡社、2011年11月、2600円税別)

です。前編の『日本書紀の謎と聖徳太子』のうち、まだ取り上げていない論文もありますし、森博達さん・井上亘さん・石井公成の三者による論争も途中で止まっているうちに、聖徳太子信仰の変遷を探る続編が出てしまいました。前編の残っている論文についても、このブログで論じていくことになるでしょうが、とりあえず、今回の本の全体の構成を紹介しておきます。

 序論「聖徳太子信仰を解き明かす」  吉田一彦

 第I部 信仰の対象となった「聖徳太子」
  「聖徳太子信仰の基調--四天王寺と法隆寺」 吉田一彦
  「上宮王院と法隆寺僧行信--奈良時代前期における太子信仰の一面」 増尾伸一郎
  「聖徳太子慧思託生説と『延暦僧録』「上宮太子菩薩伝」 蔵中しのぶ
  【コラム】「「異本上宮太子伝」の写本と内容」 吉田一彦

 第II部 深化する聖徳太子信仰
  「聖徳太子霊場の形成--法隆寺・四天王寺と権門寺院」 藤井由紀子
  【コラム】「聖地としての聖徳太子<生誕地>」 小野一之
  「聖徳太子信仰と蝦夷」 永田一
  「『四天王寺縁起』と「聖徳太子未来記」」 榊原史子
 
 第III部 民衆へと広がる聖徳太子信仰の展開
  「聖徳太子の再生--律宗の太子信仰」 小野一之
  「専修念仏運動における親鸞の太子信仰
    --『皇太子聖徳奉讃』七十五首を中心の素材として」 早島有毅
  【コラム】「親鸞の聖徳太子信仰の系譜」 吉田一彦
  「聖徳太子絵伝の世界
    --聖徳太子十四歳廃仏の場面から」 脊古真哉

 あとがき
 執筆者紹介

以上です。

 このうち、「あとがき」は、編者だけでなく、各執筆者による小文が載せられています。吉田さんの「あとがき」の冒頭はこうです。

 「聖徳太子」を解明するには聖徳太子信仰の展開を明らかにしなければならない。なぜなら、聖徳太子関係史料は、そのすべてが聖徳太子信仰のなかで形成されたものだからだ。最初はそう考えた。次には、聖徳太子信仰の研究こそが聖徳太子研究の本体になる。なぜなら、尾ひれこそが聖徳太子の実体だからだ。そう考えるようになった。今では、聖徳太子信仰を解明することは、聖徳太子の解明を離れても、日本の思想や文化を明らかにする上で重要課題になると考えるようになっている。(334頁)

 これはもっともな考えですね。信仰史こそが重要だという点は賛成です。吉田さんと私の違いは、吉田さんは「理想的な聖人としての聖徳太子は『日本書紀』によって生み出された」と主張するのに対し、私は「厩戸皇子はおそらく生前から神格化されており、それがさらに何段階かの神話化・伝説化を経て『日本書紀』が描く皇太子としての上宮廐戸豊聡耳太子になった」と考えている点です。

 また、吉田さんの序論は、「日本には、聖徳太子を仏や菩薩と同じような聖人として信仰する『聖徳太子信仰』が広くみられる」という言葉で始まってます。これは正しい指摘なのですが、中国の北朝では「皇帝=如来」が主張され、南朝では梁の武帝が「菩薩天子」とされていたほか、天下を統一した隋の文帝・煬帝なども武帝以来の伝統を受けて「菩薩天子」としてふるまっていたことなどにも触れ、そうした政治がらみの生前からの神格化との比較もしてもらいたかったところです。

 私自身は、今回の吉田論文では取り上げられなかった三経義疏の研究を中心としていますし、最近は、日本では仏菩薩がいかに通俗化・人間化されたかという問題を調べており(先日、刊行された拙論「仏法僧を尊ばない「ことわざ」」[『文学』2011年11・12月号、岩波書店]でもこの問題を扱いました)、聖徳太子信仰史については、戦時中から始まった「人間聖徳太子」という考え方が成立した背景を探る、といった研究をしています(来年5月刊行予定です)。

 つまり、今回の『変貌する聖徳太子』が扱っている時代の前と後をやっていることになりますが、その「人間聖徳太子」という考えは、「悩みに満ちた一人の人間としての聖徳太子」という形で太子に共感し、太子のうちに人生の手本を見いだす点で、『歎異抄』とキリスト教の影響を受けた近代的な「聖徳太子信仰」の一形態と見ることが出来るかもしれません。

 本書に収められた諸氏の論文は冒頭の吉田論文を初めとして、後代の聖徳太子信仰のあり方を解明しようとするに当たって、どのような人物や寺がどのような状況で太子信仰を強調したかという点に力をそそいでおり、非常に有益なものです。ただ、吉田論文では、『日本書紀』における四天王寺の記事の扱いや法隆寺金堂薬師仏の制作年代など、賛成しがたい個所もあるので、以後、個別の論文ごとに紹介していくことにします。

 それにしても、今回の吉田論文では道慈の名が一度も出てこないけど、道慈はどこへ行ってしまったんだろう?

百済観音は止利様式でないものの法隆寺系:高柴季史子「法隆寺百済観音像私考」

2011年12月06日 | 論文・研究書紹介
 ベトナムにおける古書の多くを所蔵する漢喃研究院などを回って、ホテルに戻ってきました。帰国の飛行機は深夜発なので、それまでの時間を利用して更新しておきます。

 前回は三経義疏の変格漢文について触れたため、その関連で、本題に入る前にベトナムにおける変格表記の例を紹介しておきましょう。その漢喃研究院の額です。

 

 見てわかるように、形容する言葉が後に回るベトナム語の語順に随って「院・研究・漢喃」と書かれており、この通りの順で左からベトナム風の漢字音で発音します。ベトナムでは、こうした語順になっている個所を含む漢文が少数ながら見受けられます。

 さて、メモを書きためてあるブログ材料のうち、今回は、久しぶりに法隆寺の仏像について論じた最近の論文をとりあげてみます。

高柴季史子「法隆寺百済観音像私考」
(『帝塚山大学大学院人文科学研究科紀要』第12号、2010年3月)

です。決定的な証拠や新しい見方とかはないものの、従来の研究史を整理したうえで穏健な見解が示されており、参考になります。

 ほっそりした優美な姿で人気が高い百済観音は、古い文献には見えず、江戸時代の記録では金銅の仏菩薩像の第三番目、つまり、薬師三尊像、釈迦三尊像の次として、「虚空蔵菩薩。百済国ヨリ渡来。但し天竺像也」と記されていた由。

 明治44年に寺の倉庫から正面に化仏を表した宝冠が見つかり、その虚空蔵菩薩の頭にぴたりと合うものであったため、観音菩薩であることが知られ、やがて「百済観音」と呼ばれるようになったとか。毎夜、灯明を奉ずると記されていることから、非常に尊重されていたことが知られます。

 この百済観音は早くから法隆寺に蔵されていたのか、橘寺や中宮寺などの他寺から運び込んできたのか、諸説がありますが、この論文でも紹介したように、東野治之氏は法隆寺旧蔵説です。

 制作時期についても異説が林立しており、論点は止利仏師の様式に近いかどうかに絞られます。つまり、七世紀前半の作か、中期か、後期の作かということですね。木屎漆(こくそうるし)を用いていること、耳の形、彩色法などが独自である一方で、光背の文様が法隆寺の蔵する伝橘夫人念持仏廚司中に安置される阿弥陀三尊像の頭光の文様に似ているなど、法隆寺とのつながりを重視する見解もあり、意見が分かれていました。

 高柴氏は、正面観照性が強く、個々の部分を積み上げたようであって、厳かさを感じさせる厳しい造形をおこなっている止利様式と、木屎漆を用いて柔らな起伏を表現した百済観音とは、やはり時代が異なるとします。ただ、全く法隆寺とは関係がないとするのではなく、法隆寺に伝えられてきた早い時期の小型金銅像のうち、止利様式とは異なる様式のもののうちにその先駆を見いだします。

 つまり、「柔らかで軽快な雰囲気」は、献納宝物第165号(辛亥年銘)や同143号に通じ、小さな頭部や長身痩躯の像容では同第151号や同156号(丙寅年銘)と共通し、垂直方向に浅く刻まれた衣文の構成は同143号などに似、反転する天衣は七世紀中頃とされる法隆寺金堂四天王像に近いとするのです。

 そこで、成立年代については、「七世紀半ばから末の頃と考えられる。とくにより立体把握への意識が芽生えていることや、木屎漆の使用を勘案すると年代はやや降ると見てもよいであろう」と述べて結論としています。無難な見解ではないでしょうか。

三経義疏の変格語法に関する論文の続編を提出

2011年12月01日 | 三経義疏
 今、ハノイのホテルです。明日からハノイ国家大学で短期集中講義をし、漢喃研究院などで古書の調査をして7日に帰国します。

 締め切り遅れの仕事に追われていましたが、「三経義疏の共通表現と変則語法(上)」の続編については、ベトナム出張前に某記念論集の編集事務局あてに何とか提出できました。刊行期日はいつになるか聞いていません。おそらく3月末か4月あたりになるものと推測しています。

 今回の拙論は続編であるため、「三経義疏の共通表現と変則語法(下)」という題名にしてありますが、森博達さんのご教示により、今後は「変格漢文」という呼び方にすることにしました。今回の論文でも、本文では「変格」の語を用いています。

 (上)論文では主に『勝鬘経義疏』を扱いましたので、今回の(下)論文では、『法華義疏』と『維摩経義疏』を中心にしました。今回は(中)として『法華義疏』だけ取り上げ、『維摩経義疏』の用例は(下)に回そうかとも考えたのですが、どの疏も変格語法がどっさりあり、詳しく検討していると『法華義疏』だけでも(中の一)(中の二)(中の三)……などとなっていきそうでした。

 そこで、(上)や(下)という題名で変格語法については論ずるのは今回で終りにすることとし、思想に関する論文を一本書いたうえで、以後、語法関連の論文については、「三経義疏における尊敬と謙譲の表現」といった形で、個別のテーマごとに扱っていくことにした次第です。

 「当時の日本仏教の状況を考えると、日本撰述とは思われない」とか、「天才であった聖徳太子以外に書けるはずがない」などと推測だけで断定するなら簡単なのですが、南北朝末から唐初ころの中国・朝鮮の仏教の状況を考慮しつつ、実際に三経義疏の原文に当たって細かく調べていくとなると、けっこう手間がかかります。花山信勝の訓読は労作ですが、親切に説明を補った形で訓んでいるため、変格漢文であることが分からなくなっており、問題が多いですね。

 さて、今回の論文では、確定には至らなかったものの、日本撰述の可能性が高いことに触れました。つまり、「中国の学僧が書いたものではない」と指摘するにとどめてきたこれまでの拙論の論調から、一歩進めたわけです。上宮王撰述かどうかは、さらにその先の問題ですが、平行して書いていた某日本思想史講座の担当個所(受容期から奈良時代の仏教)では、一般向けの概説であって論証過程は書けないため、三経義疏は上宮王撰と見て良いと記してしまいました。御物本の『法華義疏』は、乱雑な訂正がなされた草稿を急いで書写したものであって、見事な書体であれを書いた人は著者とは別人だと思いますが……。

 今回の三経義疏論文を書いてみてよく分かったのは、これまでは、三経義疏のそれぞれの疏の冒頭10行程度くらいさえ正確に読めていなかった、ということですね。その典型は、『法華義疏』の冒頭部分です。そこでは、「釈尊がこの世界に現れた意図は、この『法華経』を説いて、人々にすぐれた修行をさせ、唯一の素晴らしい悟りを得さるためだ」と述べているのですが、次のように句読を切るのが伝統となっています。

  若論釈迦如来応現此土之大意者、将欲宜演此経教、修同帰之妙因、令得莫二之大果。

 この句読に基づく花山信勝『法華義疏(上)』(岩波文庫)では、「将に宜しく此の『経』(法華経)の教を演べて、同帰(万善同じく一如に帰す)の妙因を脩し、莫二(一乗平等)の大果(大乗の極果)を得せしめんと欲してなり」と説明を補足しながら訓んでいます。

 しかし、このように、

  将欲宜演此経教、
  修同帰之妙因、
  令得莫二之大果。

と切ったのでは、七字・六字・七字となって落ち着きません。末尾の二句が対句となるよう考慮し、

  将欲宜演此経、
  教修同帰之妙因、
  令得莫二之大果。

と切り、「まさに宜しく此の経を演[の]べ、同帰の妙因を修せしめ、莫二の大果を得せしめんと欲すればなり」と訓むべきでしょう。「教」は、「教えて」という動詞でなく、「令」と同じく使役の語と見れば「~を修せしめ、~得さしむ」という対句になりますし、実際、古代朝鮮諸国の金石文などでは、「令」以上に「教」の語を使役としてよく用いています。

 普通の漢文であれば、「教~、令~」とせず、「令~、~」だけで「令」が全体にかかるのですが、「教修」という表現も仏教経典にはよく用いられますので、それに引かれたのか。それはともかく、さらに問題なのは「宜演~」です。

 これは訓読では「宜しく~を演[の]ぶべし」となりますが、この経典を演説するのが適当である、というのであれば、直前の「将欲」は不要です。「将欲」は「将」一語と同じ意味であって、「まさに~しようとする」の意ですので。ここのように「将欲」に「宜しく~すべし」の「宜」を続けた用例は、漢訳経論や中国仏教文献にはありません。

 となると、ここでの「宜」は、時期・能力に応じて「宜しく(適切に)」説く、という意味で用いられていることが考えられます。しかし、時機や相手の能力に応じてうまく説くということなら「巧説」その他の言い回しがありますが、「宜演」などという用例は他にありません。「時宜」という言葉は経論では盛んに用いられていますし、『法華経』でも「随宜説法」という表現は何度か見えますが、これは「宜しきに随ひて説法す」であって、「宜しく説法す」ではありません。『法華義疏』が「宜演~」を適切な説き方で法を述べるという意味で用いるのは、「よろし」という訓に引きずられたものであって誤用なのです。

 さあ、どうでしょう? かの『法華義疏』の冒頭は、こうした変格語法がこれ以外にもいくつも見られるんですよ。また、木簡や金石文とこうした経典の注釈とでは性格が違うので、比較することはできないのですが、百済や新羅の金石文や木簡でこれまで報告されている変格漢文の中には、こうした用法は見られません。日本で書かれた可能性は十分有ります。
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