聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

【重要】「憲法十七条」の基調となる経典を発見、「憲法十七条」も三経義疏も遣隋使も聖徳太子の作成・主導で確定

2021年07月19日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報

 この3月に駒澤大学仏教学部を定年退職しましたが、コロナ禍ということもあって最終講義はやらず、感染がおさまってきたところで学部の公開講演会での講演という形でやることになっていました。

 しかし、いつになっても感染者が減らず、また他の事情も重なったため、Web会議の形でやらざるをえなくなりました。そこで、本日19日に、学部の仏教学会の第2回定例研究会でのリモート発表という形で聖徳太子に関する重要な発見の紹介をおこない、資料をPDFで配布した次第です。

 この研究会は会員中心ですが、一般にも公開されていましたので、聖徳太子研究に関わっている他大学の研究者の方たちや、太子関連の特集をしている新聞、関連番組を作成しているテレビ局の方なども、多少参加されていました。ただ、リモート会議室は入れる人数の制限があるため、このブログでは告知していませんでした。

 発表の題名は、

  聖徳太子は「海東の菩薩天子」たらんとしたか
   ー「憲法十七条」と『勝鬘経義疏』の共通部分を手がかりとしてー

です。本日の発表内容より詳しい版が、『駒澤大学仏教学部論集』第52号に掲載される予定であって、刊行日程の都合上、既に印刷工程に入っています。

 さて、「憲法十七条」第一条冒頭の「和を以て貴しと為し、忤うこと無きを宗と為せ(以和為貴、無忤為宗)」のうち、前半については『礼記』や『論語』などが典拠とされていましたが、後半の典拠は知られていませんでした。

 しかし、「無忤」については、三経義疏が種本としていた中国の南朝仏教の主流であった成実涅槃学派(小乗ながら大乗に似た面がある『成実論』の法相に基づいて『涅槃経』その他の大乗経典を研究する学派)の僧尼たちが重視していた徳目であり、特に朝鮮諸国から尊敬されていた陳の宝瓊の伝記に見えることは、かなり前に私が発見して論文で指摘しておきました(こちら)。

 その後、「憲法十七条」の典拠に関する研究は進んでいませんでした。法家の影響もあることは早くから指摘されていましたが、富国強兵と臣民統治の策略を説き、雑家的とも言われる法家の『管子』に基づいている箇所が多く、むしろ『管子』が基調とも見られることを、山下洋平氏が明らかにしたため、このブログでも紹介しておきました(こちら)。

 実は、山下氏が指摘したもの以外にも重要な箇所で『管子』が用いられており、確かに『管子』が「憲法十七条」の構成において重要な役割を果たしていました。しかも、『管子』のその箇所のすぐ後では、爵位とそれに相当する衣を尊重させるべきことを説いています。

 「憲法十七条」がその直前に出された冠位十二階と密接な関係にあることは、多くの研究者が認めていることです。そもそも、十七条の教誡を「(憲)法」という形で示すこと自体、道徳重視の儒教ではなく、法による統治を説く『管子』の影響によると見るべきですし、それを裏付ける箇所も発見しました。

 ただ、それでも残っている最大の問題は、「憲法十七条」全体の基調となる第二条はどの文献に基づいているかということでした。第二条は「篤く三宝を敬え」で始まり、末尾では、「尤悪(きわめて悪い)」の者は少ないため「よく教えれば従う」ものだとしつつ、「三宝に帰依しなければ、どうして曲がったことを直すことができようか」と強調しています。

 以後の条ではこれに基づいて、「曲がったこと」に当たるやってはいけない事柄、おこなうべき事柄が説かれているのですから、「憲法十七条」全体を支えているのは、この第二条ということになります。

 しかし、「三宝を敬え」というのは、一般的な言葉すぎるためか、岩波の日本思想大系『聖徳太子』を初めとするこれまで注釈書では、出典は示されてきませんでした。また不思議なのは、その第二条の冒頭では「三宝を信じよ」とか「三宝に帰依せよ」などと命じておらず、「敬え」となっていることです。

 これについては、国家統治は「礼」が根本であり、「礼」とは「敬」にほかならず、上に立つ1人を「敬」すればその下の多くの人が喜ぶと説く『孝経』広要道章に基づくことは、以前の論文で指摘しました(こちら)。『孝経』では、その1人とは「父」や「兄」や「君」なのですが、「憲法十七条」では、それを「万国」で敬われている「三宝(=仏)」としたのです。

 仏教を尊重すれば、南朝の梁を初めとする仏教を奉ずる大国との外交・交易の道も開けることは、河上麻由子さんの画期的な『古代アジア世界の対外交渉と仏教』( 山川出版社、2011年)が示している通りです。

 このようにして、典拠が少しづつ明らかになってきたのですが、このたび、その第二条の根拠となった文献、つまりは「憲法十七条」全体を支える役割を果たしているのは、在家の大乗信者が守るべき事柄を説いた曇無讖訳『優婆塞戒経』であることを発見しました。

 この『優婆塞戒経』は、大乗の信者すべてを「菩薩」と呼んで「在家菩薩」と「出家菩薩」に分け、「在家菩薩」の特質とやるべきことを述べた経典です。この『優婆塞戒経』では、「三宝に帰依しないで受戒しても、その戒は堅固でない」と説いていました。

 この部分については、国王妃であって在家菩薩である勝鬘夫人が説法する『勝鬘経』を注釈した『勝鬘経義疏』でも、『優婆塞戒経』の名をあげて引用していました。それも、まさに勝鬘夫人が仏に「帰依」する場面を説明する箇所で、『優婆塞戒経』が三宝帰依を説いている部分を引用していたのです。

 このことは戦前から指摘されており、何人かが論文で「憲法十七条」の「篤敬三宝」は『優婆塞戒経』が説く帰依三宝のことだとしていましたが、三宝の解釈に関する繁雑な教理論議をして太子の理解の深さを賞賛するばかりであって、『優婆塞戒経』全体を読んでみて「憲法十七条」との関係を検討する作業はなされていませんでした。

 そこで、この『優婆塞戒経』全体を精読してみたところ、「三宝に帰依しないで受戒しても、その戒は堅固でない」という部分の直後で、三宝に帰依しない教誡は世俗の道徳にすぎず、「三宝に帰依しなければ悪業を滅することはできない」とも説いていました。

 「三宝に帰依しないと悪業を滅することはできない」というのは、第二条が「三宝に帰せずんば、何を以て枉(まが)れるを直くせん」と述べているのと同じです。「まがったものを直す」というのは『論語』に基づく言葉ですが。

 しかも、『優婆塞戒経』の別の箇所では、己より勝る者への嫉妬の禁止を説いていました。己より勝る者を見ても嫉妬しないというのは、「憲法十七条」のうち、嫉妬の害を説いた第十四条が述べていることです。しかも、『優婆塞戒経』のその箇所では、「在家菩薩」が「大国主」となった場合、人々を「教え」て「悪」から離れさせなければならないとしたうえで、その教誡のひとつとして、己より勝る者を見ても嫉妬しないことをあげていたのです。

 このうち、「教え」て「悪」から離れさせるというのは、「憲法十七条」第二条の後半が、極「悪」の者は少ないため、「よく教えれば」は人々は従うものだという箇所と一致します。つまり、三宝に帰依しないと悪を除くことはできないとする「憲法十七条」は、『優婆塞戒経』に基づき、「在家菩薩」が国王となった場合におこなうべき教誡を述べていたのです。

 そのうえ、「憲法十七条」が基づいている『優婆塞戒経』の箇所を引用する『勝鬘経義疏』は、仏教経典の注釈でありながら、冒頭で上で見た「憲法十七条」第二条が基づく『孝経』広要道章のすぐ前の句を引用しており(『法華義疏』も『維摩経義疏』も同様です)、また「憲法十七条」が重視する『管子』の引用もおこなっていました。

 『優婆塞戒経』は仏教、『孝経』は儒教、そしてともに引いている『管子』は法による臣民統治を説く法家です。ここまで一致するものでしょうか。『論語』と『法華経』をともに引用しているといった程度の一致なら、よくあることですが。

 『勝鬘経義疏』と「憲法十七条」は同じ人が作成したとしか考えられません。むろん、両方とも百済・高句麗から来た儒教の学者や仏教僧の手助けを得て作成したことでしょうが。なお、その『勝鬘経義疏』を初めとする三経義疏は、独自の用語・語法が共通していて同じ人物が書いていること、しかも変格語法が目立つため中国撰述でないことは、論文をいくつも書き、このブログでも紹介してきました(たとえば、こちら)。

 「憲法十七条」は国王となった在家菩薩の立場で書かれていたことが分かると、大業3年の遣隋使が隋の煬帝に対して、「海西の菩薩天子が仏教を重ねて復興していると聞きました」と述べ、「こちらは海東の菩薩天子です。よろしく」といった感じでの言上をしていた背景が理解されます。仏教を復興した推古天皇は、そうした菩薩天子の仲間ということになり、厩戸皇子はその後継予定者であって職務の一部代行者ということになるからです。

 「憲法十七条」は推古12年、『勝鬘経』の講経は推古14年、そして遣隋使派遣は推古15年であって、これらは一連の出来事であり、密接に関連していたことが明らかになりました(『法王帝説』だと年立てが多少違っており、『勝鬘経』講経が最初となります)。「憲法十七条」の前年における冠位十二階制定も、「憲法十七条」が重視していた『管子』では、「憲法十七条」第四条に関わる内容を説いた箇所で、法を立てて爵位と衣をきちんと定めるべきことを説いていましたので、同じ流れに位置づけられます。

 そもそも、梁の前の王朝であって梁の武帝に仏教面で大きな影響を与えた南斉では、仏教信者で仏教に関する著作をたくさん著し、太宰(宰相)をつとめて皇帝を補佐していた皇子の竟陵王(梁の武帝の親しい親戚です)が、当時を代表する成実涅槃学派の学僧であって『勝鬘経』を42回、『優婆塞戒経』を10回近く講義していた宝亮を尊崇して師事していました。

 また、竟陵王は、「無忤」と「和顔」で知られていて人々が「宗とし(根本の立場として尊ぶ)」ていた尼の妙智を支援していました。妙智は、宮中に招かれて皇帝の前で『勝鬘経』と『維摩経』の講義をしています。

 つまり、皇帝を補佐する仏教に通じた皇子、国王となった在家菩薩の心得を説いている『優婆塞戒経』の重視、「無忤」「和」「宗とする」、そして『勝鬘経』講経と揃っているのです。

 なお、「憲法十七条」第二条は、三宝は「万国の極宗」だと説いています。この「極宗」という言葉は早い時期の中国古典には見えず、これまで典拠が指摘されていませんが、これも実は竟陵王と知識人の臣下との仏教問答の中で用いられていた言葉でした。

 推古朝における「憲法十七条」や『勝鬘経』講経が、こうした南朝仏教を手本としていたことは明らかでしょう。しかも、その竟陵王が師事したり後援したりしていた学僧たちは、まさに三経義疏が手本としていた江南の成実涅槃学派の僧たちであり、梁の三大法師の1人、僧旻も含まれていました。『勝鬘経義疏』の種本となった注釈は僧旻の作と推定されていますし、『法華義疏』の種本である『法華義記』を書いた光宅寺法雲は、上記の宝亮の弟子です。

 大乗戒については、梁代以後は『梵網経』が主流となったため、『優婆塞戒経』は次第に読まれなくなっていきます。また、天台大師や三論宗の吉蔵など、隋を代表する三大法師たちは、梁の三大法師を代表とする成実涅槃学派の仏教解釈を批判して新しい仏教を打ち立てていました。特に吉蔵は厳しく批判しています。さらに、唐代になって645年に玄奘がインドから帰国し、新しい訳語を用いて最新の経論を次々に訳すと大論争となり、隋代の仏教を乗り越える形で唐代仏教が展開されます。

 そうした時代、特に神話を強調して天皇を権威づけようとした七世紀後半の天武朝以後になって、梁代以後はあまり読まれなくなる『優婆塞戒経』を重視し、「篤敬三宝」を強調するのみで「神」にひと言も触れず、古くさい南朝の学風の『勝鬘経義疏』と共通する部分の多い「憲法十七条」を偽作するでしょうか。

 戦後の古代史学は、聖徳太子と大化の改新を疑うことによって進展してきました。大化の改新は確かにあやしいですし、『日本書紀』の厩戸皇子関連記事が神格化された伝承で色づけられ、「皇太子」と呼ばれていることが示すように『日本書紀』編纂段階で潤色されていることは事実です。

 しかし、「憲法十七条」と『勝鬘経義疏』は、仏教に通じていて南朝の仏教信者の皇帝・皇子と学僧たちの仏教を手本とし、在家菩薩が国王になった場合に教えるべき事柄を説く『優婆塞戒経』を尊び、儒教の『孝経』や法家の『管子』に親しんでいてこの両書が説く国家統治の方法に関心を持っていた人物が作成・主導したと見て間違いありません。そんな『勝鬘経義疏』を、寺にこもって学問と修行に励む僧侶が書くでしょうか。

 ちなみに、「憲法十七条」も『勝鬘経義疏』も『法華義疏』も和風の変格漢文で書かれているうえ、『法華義疏』で使われている紙は、当時としてはきわめて貴重な隋の紙であると推測されています。唐との交流が盛んとなり、国内でも紙が大量に造られるようになった時代に希少な隋の紙など使うでしょうか。

 そうした人物として考えられるのは、南朝仏教を模範としていた百済の学僧などについて学び、講経が巧みという意味の「法主」とみなされ「法主王(のりのぬしのみこ/おおきみ)と呼ばれたただ一人に限られるのではないでしょうか。「無忤」で有名であった南朝の宝瓊も、教学に通じていて説法に巧みであったため、若くして寺の「法主」、つまり講経の担当者(責任者)となっています。

 津田左右吉が『日本上代史研究』(岩波書店、1930年)で「憲法十七条」と三経義疏を疑ったことによって始まった聖徳太子の事績を疑う研究については、「振り出しにもどって検討し直し」ということになるでしょう(津田がなぜそうした論文を発表したかについては、こちら)。

 ただ、津田は上記の本では、太子の講経は「多分梁の武帝などの故事を想ひ浮かべて仏家の造作したもことであらう」(196頁)と述べていたものの、戦後の改訂版である『日本古典の研究(下)』(岩波書店、1950年)では、「多分、斉の竟陵王や梁の武帝など……」として竟陵王を加えていました。

 実際には後の僧が「斉の竟陵王や梁の武帝など」を思い浮かべて造作したのではなく、聖徳太子自身が「斉の竟陵王」や、家僧(家庭教師役の学僧)の支援を得て講経して注釈を作り、周辺国に下賜していた「梁の武帝」などを模範としてそれにならおうとしていたことが今回明らかになったわけですが、さすがは津田左右吉。視野の広い博学な東洋学の大学者は、目のつけどころが違います。 

 なお、「憲法十七条」については、校注本と一般向けの解説本を別々の出版社から出すことになっており、既に準備を始めています。

【付記:2021年7月24日】
今回の発表の核心となった『優婆塞戒経』利用や「菩薩天子」の自覚などについては、本年4月21日版の『中外日報』紙に掲載された、三経義疏の研究状況について書いた記事で簡単に触れており、その記事は4月27日にネット公開されています(こちら)。
【追記:2022年4月19日】
ここで触れた講演録が刊行され、PDF公開もしたのに紹介するのを忘れてました。記事は、こちらで、PDFは、こちらです。

この記事についてブログを書く
« 「聖徳太子と法隆寺」展の図... | トップ | Wikipedia「聖徳太子」記事に... »

聖徳太子・法隆寺研究の関連情報」カテゴリの最新記事