聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

中宮寺の前身となった宮の仏堂は若草伽藍の創建瓦を使用:清水昭博「中宮寺軒丸瓦3Bb・4Aの評価」

2023年05月29日 | 論文・研究書紹介

 斑鳩宮が画期的な都市計画に基づいて造営されたとする主張を疑うものの、妃たちの宮が集中している点は斑鳩の特徴だとする説を前回紹介しました。飛鳥の都にかなり似ていたものの、違う面もあったことは確かですね。

 当時の結婚形態では、相手の女性は実家におり、そこを男性が訪れる形式であったのに対し、斑鳩宮では主要な妃たちは斑鳩の地のそれぞれ別の宮で暮らしていたことが知られています。

 その点では、従来と違った形であることは間違いありません。重要なのは、そうした宮には、瓦葺きの小さな仏堂を建てられていたことです。この点を中宮寺の前身となった宮について論証した最近の論文が、

清水昭博「中宮寺軒丸瓦3Bb・4Aの評価」
(『帝塚山大学考古学研究所研究報告』XXⅣ、2022年)

です。

 帝塚山大学考古学研究所は、奈良国立博物館とともに寺院遺跡の調査をおこなっており、上記の『報告』はその一環であって、清水氏のこの短い報告は、中宮寺の瓦の調査に基づいて判明したことをまとめたものです。

 まず、清水氏は、中宮寺に関するこれまでの調査では、若草伽藍の創建瓦である3Bbが1点、4Aが6点、発見されていると述べ、飛鳥時代前期のM1が17点、M2が98点出ているのと大きな違いだとします。

 このうち、3Bb と 4A は、法隆寺の瓦の分類をそのまま用いたものであって、3Bbは飛鳥寺で用いられたものと同笵です。この笵は、豊浦寺の瓦に使われたのち、法隆寺の造瓦所である生駒市北倭村窯で使われました。4Aの方は、法隆寺で新造された瓦笵であって、三郷町北垣内窯で使われ、かなり古くなったものが八幡市楠葉平野山窯に移され、そこで四天王寺の瓦のために使われたものです。

 3Bb と 4A は若草伽藍の金堂の主体となっていますが、上で触れたように、中宮寺では僅かしか出ていません。中宮寺で大量に出ている M1は豊浦寺で用いられたものであり、M2は奥山廃寺式であって、いずれも620年頃のものと推測されています。したがって、推古21年(621)に聖徳太子の母である間人皇后が亡くなり、その宮が中宮寺に改められたという伝承と合うことになります。

 一方、3Bbと4Aはそれより様式が古く、若草伽藍の創建瓦として使われていたものです。聖徳太子の斑鳩宮造営が始まったのが推古9年(601)で、推古13年(605)に移住しています。法隆寺金堂の薬師仏は、仏像自体は後代の作と推定されており、銘文も推古天皇と聖徳太子が造ったとしている点は信頼できないものの、推古15年(607)にこの像と寺を造ったという部分だけは、何らかの伝承に基づいていて信頼できるとされており、清水氏もそれを認めます。

 すると、その時期に若草伽藍で使われた 3Bb と 4Aが僅かながら中宮寺跡から出土したということは、その前身となる宮に瓦葺きの小さな仏堂があり、若草伽藍と同じ時期に造られたことになる、と清水氏は説きます。

 斑鳩宮についても、若草伽藍の33Bや215Aの瓦が発見されており、宮殿内に仏堂があったと推定されていますし、岡本宮を改めたという伝承がある法起寺からも、寺の創建より古い時期の瓦が出ていることに清水氏は注意します。そして、日常的な礼拝はどの儀礼は、身近にある仏堂で行われたと推測するのです。

 もっともな推定ですね。こうして見ると、瓦の状況は『日本書紀』や早い時期の伝承と合うことになります。斑鳩は藤原京のような中国風の整然とした都ではなかったものの、若草伽藍とそして仏堂を備えた宮々が配置された、それまでに無い様式の地域であったことが分かりますね。


聖徳太子による斑鳩の整然とした都市計画を疑う:相原嘉之「古代斑鳩の都市構造」

2023年05月25日 | 論文・研究書紹介

 少し前に、聖徳太子の斑鳩移住は、画期的な斑鳩京の造成をめざしたものと見る前園美知雄氏の主張を紹介し、評価しすぎではないかと述べました(こちら)。そうしたら、斑鳩に見られる地割の特殊さを重視する立場に対して慎重な論文が出てました。

相原嘉之「古代斑鳩の都市構造」
(『奈良大学紀要』第51号、2023年2月)

です。相原氏は、飛鳥の遺跡を考古学的観点から研究して『古代飛鳥の都市構造』(吉川弘文館、2017年)を出している研究者です。

 この論文では、斑鳩地域の都市景観を復元し、当時の都であった飛鳥と比較して、斑鳩地域の実態を明らかにしようとしたものです。

 斑鳩については、約20度西に傾いた方位による地割が見られることが知られています。これを最初に指摘したのは、1949年の田村吉永氏の論文でした。田村氏は、この方位にそった範囲を法隆寺の所領とみなしました。

 以後、この西偏した地割について議論がなされましたが、相原氏は、この西偏は、龍田道の東半で顕著に見られるが、その西延長上では見られず、法隆寺東院の南東から中宮寺跡南辺にも顕著に見られ、西院伽藍の西側とさらに西の龍田一丁目あたりでも断片的に見られるとします。

 つまり、「斑鳩大路」の北側の西里・東里・幸前地区で見られるが、「斑鳩大路」と龍田道の間には見られないうえ、「斑鳩大路」と直交する遺存地割はあるものの、平行するものは意外に少ないと述べます。そして、「斑鳩大路」は存在していたものの、方格地割の存在を積極的に認めることは難しいとします。

 若草伽藍や斑鳩宮は、尾根の延長上にあたるやや高い場所に立地しているため、「斑鳩大路」は一直線には建設できず、それらを避けて南に張り出した形になっていたと推定します。つまり、この地域では直線の構成を志向したものの、丘陵などの地形を考慮して道や建物が建てられたのであり、碁盤の目のような完全な方格にはなっていなかったと見るのです。

 つまり、この地の遺跡にはばらつきがあるのであって、山本崇氏などがそれを整理したのですが、相原氏はそれらを検討し直し、やはりばらつきがあることを確認します。しかも、7世紀前半でも太子没後に建立された最初期の法起寺は正方位に近い3度西偏、中宮寺も4~5度の西偏で建てられており、正方位が意識されていたとします。

 これに対して、法輪寺の前身寺院は、16度西偏していますが、相原氏はこれは地形の制約によるものと見ます。

 こうした不統一さから見て、相原氏は、斑鳩は、直線を意識しつつ地形の制約で不安定に蛇行していた「斑鳩大路」を基軸とし、それを意識しながら地形に制約されつつ建物や道路が建設されたと見るのです。

 ただ、20~26度西偏している岡本宮については、すぐ近くを通過する太子道(筋違道)に規制されたものと見ます。

 そして、こうしたあり方は、7世紀初頭の飛鳥の状況と類似すると、相原氏は説きます。飛鳥の建物を規制している古山田道は、直線を志向していたものの、障害物があるとすぐ迂回する不安定な幹線道路であって、斑鳩も同様だったとするのです。

 斑鳩の特徴として、相原氏は、妃たちの宮が配置されていたことに注目します。つまり、それまでは、婚姻を結んでも女性は実家に残り、そこに男性が通う形態であったのに、太子は一族を引き連れて斑鳩に移ったことになるというのです。その結果、斑鳩は上宮王家の王都となり、当時としては飛鳥の都に対する副都心的な位置づけとなった、というのが相原氏の見解です。


【珍説奇説】形式・内容とも論文になっていない善徳=入鹿=聖徳太子説:関裕二「蘇我入鹿の研究」

2023年05月20日 | 聖徳太子をめぐる珍説奇説

 聖徳太子関連の最近の論文をCiNiiで検索していたら、ヒットしたのが、

関 裕二「蘇我入鹿の研究」
(『武蔵野短期大学研究紀要』第36号、2022年)

 関裕二と言えば、四天王寺で講演した「「聖徳太子はいなかった」説の誕生と終焉」(こちら)でも、聖徳太子に関する珍説を書いた戦後のトンデモ歴史ライターの系譜の中で紹介した一人です。そうしたライターが、なぜ大学の研究紀要に書くのか。

 調べてみたら、関氏は、武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェローとなっていました。誰が呼んだんでしょう。武蔵野学院大学に古代史で活躍している教員がいるかどうか知りませんが、少なくともこの研究所にはそうした研究者はいませんので、注目されるために歴史方面の有名人を呼んでみたということでしょうか。質を考えてほしいですが。

 いずれにしても、大学の紀要に書くとなれば、学術論文の形式・内容でないといけないはずです。しかし、上記論文をコピーして読んでみたら、最初のところでこけました。

 横書き論文なのですが、「蘇我入鹿の研究」という題名の下に、英文タイトルが掲げられており、「A Study of Soganoiruka」となっています。Soga no Iruka でしょ? 

 そして、「キーワード」として、

 ①大化改新
 ②『日本書紀』
 ③『先代旧事本紀』
 …
 ⑪藤原不比等

と縦にずらっと並べたうえで本文が始まってます。横書き論文の場合、キーワードは、論文の末尾に、

 【キーワード】
 大化改新、『日本書紀』、『先代旧事本紀』、藤原不比等

などといった形で4つから5つほど付けるのが普通であって、冒頭に置く場合もありますが、論文冒頭で内容の簡単な目次を記しておくならともかく、①②③を付けてキーワードを11個も縦に並べるなどという形は、学術論文では見たことがありません。SNSのハッシュタグと間違えているのか。

 肝心の本文では、大化の改新がどのように研究されてきたかを最初に紹介しているのですが、

津田左右吉は……国家に移っただけにすぎないこと(1)、これは政治上の制度の改新であって、社会組織の変革ではないと主張した(2)。

と述べて注番号を付けていました。そこで、論文末尾の注を見てみると、

 1、津田左右吉『津田左右吉全集 第三巻』岩波書店、1964 162頁
 2、同書 260頁

となっています。何ですか、これは? こんな書き方では、いつ刊行されたどの雑誌にどのような題名で発表したのか分かりませんし、1と2が同じ論文なのか別の論文なのかも分かりません。

 研究史を厳密に紹介するなら、その論文の題名、初出の雑誌の名、号数、刊行年月などを示し、後に他の本や全集・著作集などに掲載されたなら、それについても付記しておく、といった形にする必要があります。後年の編集である全集の刊行年を示すだけでは、諸研究者が発表した説の前後が分かりませんので。

 関氏は、他の研究者についてもこうした注の付け方をしてますが、もっとひどい例があります。関氏は、『先代旧事本紀』は物部氏に残っていた古い伝承に基づいて編纂されたとする鎌田純一氏の説を紹介した際、そこを注33としているのですが、論文末尾の注33を見たら、

 33、鎌田純一『奇書『先代旧事本紀』の謎をさぐる』安本美典編 批評社 2007 111~112頁

となってました。この書き方だと、鎌田氏の本のように見えますが、実際は、安本美典氏が編集した本に掲載された論文なのですから、

33. 鎌田純一「『先代旧事本紀』の成立について」(安本美典編『奇書『先代旧事本紀』の謎をさぐる』、批評社、2007年)111~112頁。

などといった形で表記する必要があります。

 大学1年生がこんなレポートの書き方をしたら、先生に怒られるでしょう。古代について何十年もあれこれ書いていながら、漢文が読めず、引用の仕方も含め、学術論文の形で書けない点は、トンデモ説仲間である古田史学の会の会長・事務局長・編集長などと同じですね(こちらや、こちらなど)。

 論文の中身は、以前出していた『聖徳太子は蘇我入鹿である』その他のトンデモ本を論文の形式にしたもののようです。ただ、思いつき先行で大げさに書く日頃の古代史本ではなく、大学の紀要ということで論文らしくしようとしているものの、論文は書き慣れていないため、文章のつながりが悪いうえ、「~わけである。~わけである」が続くなど、粗雑な文章となっています。

 このように書くと、論文ではない歴史小説は認めていないようですが、私が尊敬しているのは幸田露伴であって、その最高傑作は歴史小説『連環記』だと信じています。歴史学者が遠く及ばない博学に基づき、西鶴以来の近世文学の到達点と呼びたいような素晴らしい軽妙な文体で物語が進んでいきます。破天荒な坂口安吾の歴史物も、すぐれた着想と安吾らしいくだけた文体が楽しめるので大好きです。小説は史実通りでなくてかまいません。

 それに反し、関口氏は、歴史小説家と呼べるほどの文体を持っておらず、また研究者を感心させるような知識見識に基づく歴史小説を書くことができず、まして学術的な論文はまったく無理、ということなのです。だからこそ、歴史の知識も文学の素養もない素人たちにうけるのかも。

 形式がこれだけひどいと読む必要はないのですが、内容の問題点も指摘しておきましょう。まず、関氏は、蘇我馬子が物部守屋の妹と結婚したことは、物部氏と蘇我氏が和解したことを示すのであり、『日本書紀』が蘇我氏と物部氏が対立したように描くのは事実と異なるとします。

 そして、『日本書紀』作成者である藤原不比等は、祖先である中臣鎌足が中大兄を見いだして蘇我本宗家を滅ぼしたことにしたいのだが、そのために蘇我氏の悪業を強調せねばならず、立派な人物であった蘇我入鹿を大悪人とし、その業績を厩戸皇子という聖人に仮託したのだとします。そして、入鹿は馬子の孫ではなく、子であって、法興寺を建てる主役であった善徳だとします。

 その証拠として、『先代旧事本紀』の序がこの書は厩戸皇子と蘇我馬子の撰集であるとしているのは、『日本書紀』が描く蘇我氏と物部氏の対立の図式は正確でないことを訴えたかったためだろうと推測します。しかし、学界では、この序は内容がでたらめであって、後になって付け加えられたことは早くから通説になっており、上記の鎌田氏の論文自体、「(五)序文添加の時期」という節を設けて検討し、平安末期から鎌倉中期の作としています。関氏は、自説に不利な点は無視するのです。

 また関氏は、『元興寺伽藍縁起』が、最初は推古天皇と廐戸皇子を中心に描いていながら、末尾で「高句麗の慧慈法師らとともに、蘇我馬子の長子の善徳を責任者にして、元興寺を建てさせた」と述べているのは、「本当は、善徳が主役だった」ことを示すとします。

 しかし、『伽藍縁起』は、推古天皇が用明天皇の遺志を継ぎ、用明の子である厩戸皇子と蘇我大臣に命じ、百済の慧聡・高句麗の恵慈法師、そして蘇我馬子大臣の長子である善德を「領」として元興寺をお建てになった、と述べているだけです。

 『日本書紀』では、馬子の長子である善徳を法興寺の「寺司」とした、と述べています。つまり、建立した主体ではなく、寺の建築や維持の実務責任者ですので、その点は『伽藍縁起』の記述と矛盾しません。

 また関氏は、『伽藍縁起』について、学界では推古天皇と解釈されている「大々王」が厩戸皇子とされる「聡耳皇子」に「我が子」と呼びかけているが、「大々王」は推古ではなく、『先代旧事本紀』に見える蘇我馬子の妻である「物部鎌姫大刀自連公」だとします。しかし、皇族でない女性を「大王」「大々王」「王」などと呼ぶ習慣は日本にはありません。

 『日本書紀』では馬子の子は豊浦大臣と呼ばれた蝦夷、その蝦夷の子が入鹿とされていますが、『先代旧事本紀』では、「物部鎌姫連公」は「宗我嶋大臣(馬子)」の妻となって、豊浦大臣を生み、その名は入鹿連公、としています。

 普通に考えれば、豊浦大臣は蝦夷、その子が入鹿とすべきところ、書写する際、途中の部分が抜けたとなりますが、関氏は、これそそのまま受け取り、豊浦大臣が入鹿であるため入鹿は馬子の長男だとし、したがって馬子の長子とされる善徳と同一人物だとするのです。

 しかし、「天寿国繍帳銘」では、孫娘である橘大郎女が「我大皇」「我大王」、つまり聖徳太子と死別した悲しみを訴え、往生した様子を図で見たいとお願いすると、推古天皇は「我が子」が申すことはもっともだと同情して繍帳を作らせています。可愛い孫娘を「我が子」と呼んでいるのです。そのうえ、厩戸皇子は、推古天皇の甥であり、かつ推古の娘である菟道貝鮹皇女を娶っており、義理の子ということになります。

 また、入鹿が馬子の長子だとすると、蝦夷はどうなるのでしょう。『日本書紀』では、蘇我本宗家の絶頂時代に、蝦夷が自分と息子の入鹿のために巨大な墓を二つ並べた形で生前に作り始めたが、蝦夷と入鹿が殺された後、その巨大な並び墓が取り壊され、後に小さめの墓を二つ作ることを許したとしており、実際に、二つの巨大な墓の跡と、少し離れた場所に作られた小ぶりな二つの墓が発見されていますが(こちら)。

 関氏は、『先代旧事本紀』と『元興寺伽藍縁起并流記資材帳』について、「『日本書紀』のトリックを暴くために、隠語を駆使して告発の書を用意したのではないか」と述べるのですが、これはトンデモ本に多い「〜の暗号」のパターンですね。

 しかし、物部氏に関する最新の研究書、篠川賢『物部氏ー古代氏族の起源と盛衰』(吉川弘文館、2022年)では、物部氏は守屋が殺された後もかなりの勢力を保っており、特に物部連から石上朝臣と改姓していた石上麻呂は、持統・文武・元明・元正朝にかけて活躍し、晩年は14年間にわたって太政官の首座にあったことに注意しています。

 しかも、麻呂は舎人親王を総裁とした『日本書紀』編者の一人であって、『日本書紀』の記事は物部氏を顕彰しようとする方向で書き換えられた(あるいは加えられた)と考えられる箇所が多く、これは麻呂の存在によるところが多いとしています。

 『日本書紀』が当時の権力者である藤原不比等などに都合良く書かれている部分があるのは当然であって、このことは前から指摘されていますが、だからといって、多くの有力氏族が提出した資料に基づいて編集され、完成したらすぐ公開での講義がなされた『日本書紀』を、あまりにも藤原氏だけに都合良く書き換えるのは不可能だというのが、最近の学界の定説です。

 関説は、要するに不比等が独断で強引に書き換えたとする陰謀説であって、不比等が中心となって聖人の<聖徳太子>を捏造したとする大山誠一氏の「いなかった」説と共通する面がありますね。

 大学の紀要に載った論文ですので、「論文・研究所紹介」のコーナーで扱うべきですが、これまで見てきたように、形式・内容とも論文のレベルに達していないため、「珍説奇説」コーナーに置くことにした次第です。


用明天皇の御名代と大王を支えた中部・関東の舎人:田島公「古代地域史研究・古典学の進展と『原史学』」

2023年05月16日 | 論文・研究書紹介

 これまで聖徳太子周辺のいろいろな人物に関する論文を紹介してきましたが、抜けている人物がいることに気づきました。父の用明天皇です。そもそも、単独の論文がない。そうした中で見つけたのが、

田島 公「古代地域史研究・古典学の進展と『原史学』」
(原秀三郎先生傘寿記念文集刊行会編『学縁』、2014年)

です。

 原秀三郎は、マルクス主義の立場から大化改新否定論を唱えて戦後の史学界に大きな影響を与えたバリバリの左翼学者だったのですが、後になると、神がかった皇国史観の代表であった平泉澄の弟子、田中卓の影響を受け(平泉も田中も文献研究者としてはすぐれた面もありますが)、意外にも敬神愛国を説くようになりました。

 そのせいではないでしょうが、CiNiiBooksによると、この論文集を所蔵している大学図書館は、長年勤務していた静岡大学の図書館と、勤務はしていない東大史料編纂所の図書室だけです。

 原氏が大学院で学び、学位を得た京都大学や、一時期、勤務していた千葉大学の図書館にもないのは、なぜなんだ? それどころか、国会図書館でもヒットしません。出版物、それも学術的な内容の本を送ってないのは納本義務違反ですね。

 それはともかく、田島論文は、冒頭で原氏の傘寿と瑞宝中綬章の受賞を祝ったのち、原氏の研究は大別すれば、(1)修論で扱った初期荘園の研究、(2)マルクス主義歴史学の立場からする大化改新否定論、(3)勤務先であった静岡大学周辺の遠江・駿河・伊豆を中心とした地域史、(4)(田中卓の影響を受けた)邪馬台国や古代王権の研究、ということになるとします。

 そして田島氏は、原氏の思い出を簡単に記した後、原氏の論文をヒントとして解明した例として、用明天皇の御名代の部・宮号舎人について説明していきます。

 ヤマト王権の大王については、その大王に仕える部が定められ、その地の族長の子弟などが王宮に出向き、舎人として奉仕していましたが、用明天皇の王宮の御名代(子代)として設定・伝領された部と仕えた舎人は不明でした。

 普通、大化前代の大王の御名代は、王宮のあった地名がつけられ、その宮に仕えた舎人もその地名で呼ばれています。ところが、継体天皇と用明天皇(タチバナノトヨヒ=橘豊日)については、これが不明だったのです。古市晃氏は、用明天皇の名代を「橘戸」と推定していますが、田島氏は十分な論証がないと批判します。

 そして、用明天皇の宮は磐余(伊波礼)池辺双槻宮・池辺双槻宮であることから、用明の御名代は「伊波礼部」か「池辺部」だろうと推測されていましたが、資料に見えないと述べます。

 そこで田島氏が注目するのが、王宮名が不明な宮号舎人として伝えられてきた「行田舎人」です。天平宝字4年(760)の東大寺写経文書によると、経師の一人として、「大学書博士正八位下 行田舎人千足」という人物が記されています。この他、延久2年(1070)の出雲国の税に関する文書に、「外従五位下 池田舎人安子」なる人物が見えます。

 用明天皇の磐余池辺双槻宮と推定される地の近くに、「生田(いけた)」や「西池田」「東池田」「南池田」などの小字があることから、田島氏は、「行田舎人」の「行田」は「いけた(生田・池田)」であって、これが用明天皇の宮号舎人であったと推測します。

 そうなると興味深いのは、壬申の乱の際、大海皇子の経済・軍事拠点となった三野(美濃)国安八磨評に存在し、皇子を支える湯沐令多品治が支配していたと推定される安八郡(のちの池田郡)池田郷です。

 この池田郡は、額田郷・壬生郷・小島郷・伊福郷・池田郷・春日郷という六郷から成っており、小島郷以外は、六世紀後半から七世紀初頭のヤマト王権の大王・大后・太子の御名代に由来していることになります。

 このうち、壬生部は、特定の子女の名ではなく、大王家の子女の養育の部として成立したものであり、具体的には廐戸皇子の為に設定され、上宮王家に伝領された部ですね。

 推古天皇の最初の宮である桜井豊浦宮に奉仕した桜井舎人の生活費を供給した桜井舎人部は、上総国武射郡長倉郷に存在したことが川尻秋生氏によって発見されています。

 田島氏は、これらの発見を、地域史の研究と古典研究の融合がもたらしたものとし、原氏の研究に基づく研究法として進展を望んで論文をしめくくっています。

 こうして見ると、この時期のヤマト王権が、中部から関東までを支配し、その地の豪族に奉仕させていたことが分かりますね。山背大兄が入鹿の軍勢に攻められた時、東国に逃れて乳部(壬生)の軍勢を組織して戦えば勝てると進言されたものの、民をそこないたくないと断ったとするのは、山背大兄を美化する伝承かもしれませんが、上宮王家が東国にかなりの領地を有していたのは事実であったことになります。

 『日本書紀』の記述は、かなり伝説化されたものが多いのですが、まったくの机上の創作ではなく、その由来となる何らかの事実があったものも含まれているのです。


神道派の陸軍参与が聖徳太子を批判し、非難されて辞職:寺戸尚隆「昭和初期における聖徳太子誹議と仏教界の動向」(2)

2023年05月12日 | 論文・研究書紹介

 前回の『日本国家と聖徳太子』の続きです。

(昼前に公開したものの、数行しか書いてない下書き版が保存されていたため、それを削除しようとしたら、公開した版が上書きされて消えてしまいました。再度、書き直して午後に公開しなおしたものも、またミスで消してしまったようです。老人ぼけなのか、あるいは不法にアクセスされているのか……。仕方ないので、再々訂正版を公開します。今度からは、記事を別ファイルにして保存しておかないと……)

 寺戸氏は、本書がいきなり聖徳太子について語るのではなく、冒頭で歴史研究の仕方について論じられている部分に注目します。つまり、歴史研究は公平無私に事実を把握することが大事であって、先入観を持って研究に望むと有害な結果を招くのであり、これまでの太子に関する評価は賞賛と誹議が激しく交錯してきており、仏教側の一部が太子を超人的な存在として「盲目的」に賞賛したため、反動として非難が起こり、かえって太子に禍いを与えたと、本書は述べるのです。

 そのうえで、客観的・学術的な議論としてこれまでの太子観を検討していくのですが、林羅山・荻生徂徠・頼山陽・平田篤胤などの太子非難は、自分たちが学んだ立場に縛られての独断であり、客観的な歴史研究ではでないとします。

 ただ、それらを批判する本書にしても、「完全なる国家統制を実現」した太子の「御偉業」を明確にして、太子批判が不当であることを示すことを目的としたと述べており、自ら矛盾したことをしていることの自覚がないと寺戸氏は指摘します。

 太子が神祇を軽視したという批判については、推古15年(607)に天皇が神祇祭拝を命じ、太子が馬子大臣や百官を率いて神祇を祀ったところに敬神の姿勢が見られるとします。また、当時、天皇は「地上の神」と見られていた以上、皇族であって天皇を補弼した皇太子が神祇を軽視するはずはないとします。神祇祭拝は太子の発案でないですし、「軽視するはずがない」というのは証拠不足で苦しいですね。

 そして本書は、「十七憲法」が「君を則ち天とす」と述べているのは、神祇祭拝の詔が「敦く神祇を礼び、周く山川を祀る」ことによって天地がなめらかに運行するとしていることと対応するとします。

 なお、この当時「十七憲法」という言い方が多いのは、太子と明治天皇を重ね合わせ、「明治憲法」に先行する憲法という見方であるためです。

 太子が仏教を信奉しながら実際の政治面では儒教を重視したという批判については、本書は、第十条で「凡夫」という仏教用語が使われているうえ、第一条の「和」は儒教ではなく、仏教の団体和合の精神であるとします。しかし、儒教側からこうした批判が出るとは考えられず、「憲法十七条」における仏教の意義を強調するための議論ですね。

 最も重要な馬子による崇峻天皇の暗殺を黙認したという批判については、当時の馬子の権勢が強く、ともに政治をとるしかなかったとします。そして、太子は皇室中心の「一大国家統制」を実現することをめざしたものの、慎重に進めるほかないため、国民全体の教養を高め、精神的基盤を確立しようとしたのであって、その成果が、太子が没して20年後に「第二の聖徳太子」たる中大兄によって蘇我氏が滅ぼされ、氏族制を廃したことだと論じます。

 寺戸氏はこれについてコメントしてませんが、この議論は無理ですね。大化改新以後も、蘇我氏は重用されてましたし、そもそも太子は馬子の娘と結婚することによって馬子に支援されていたわけですので。

 寺戸氏は、本書は要するに、太子が国体を乱したのではなく、仏教精神を基調とする十七憲法を制定し、大化改新につながる国家統制を準備し、国体の確立者と位置づけようとしたとまとめます。

 そして、石井公成が本書では「世間虚仮」の語に触れないのは、神国日本に抵触するためと説いたが、注では2箇所で触れており、仏教信仰の確立こそが健全な国家を構成し、「真の上下和睦」「真の承詔必謹」が徹底されるという文脈で用いていると指摘します。見落として失礼しました。暁烏敏は、当時の馬子体制が「世間虚仮」だと見ていたようです。

 寺戸氏は、津田左右吉の説を右翼が「不敬」だと論難した事件は、公権力を利用して歴史科学を攻撃したのに対し、本書は学術性を強調しているものの、仏教と国家主義を結びつけ、太子に対する批判を皇室に対する「不敬」と見られる言説を批判し、結局は国体を支える役割を果たそうとした点で、右翼の津田攻撃の立場に通じるものだったと総括しています。

 ただ、こうした太子評価は仏教側だけのものではなく、神道本局管長の神崎一作は、昭和12年(1937)7月の日中戦争勃発直後に、仏教者だけでなく、「神道家も太子の十七憲法の御精神を体」して非常時局に対応すべきであって、憲法の「和」は日本精神の「和魂」に由来すると述べたとします。

 そして、仏教を激しく攻撃した國學院大學教授の松永材は、仏教側が太子の十七憲法を逃げ込む鉄壁としているとし、彼らが説くように王法と仏法が一体であるなら、「皇道一色でよい」と述べる一方で、太子が神祇祭拝をおこなったことに触れ、戦死した英霊には仏教式の葬儀でなく神道式による公葬をおこなうべきだと論じ、太子に依拠して国体明徴・戦争翼賛を展開したと述べてこの論文をしめくくっています。

 つまり、この時期には松永のような国家主義者も皇族である太子の批判はしにくくなっていたのです。これは、極端な排外主義は産業に害があるため、諸国の文化を取り入れて日本化するところを日本の特質とみなす紀平正美などをリーダーとして「国体の本義」を作成した文部省の立場も関わっているでしょうから、この点は別に論じることにします。


神道派の陸軍参与が聖徳太子を批判し、非難されて辞職:寺戸尚隆「昭和初期における聖徳太子誹議と仏教界の動向」(1)

2023年05月07日 | 論文・研究書紹介

 聖徳太子は長い歴史にわたって尊敬され続けてきました。江戸時代になって儒学者や国学者から非難されるようになったことは良く知られていますが、明治から大正時代にかけて再評価がなされ、敗戦によって国家主義的な聖徳太子観が一変したにもかかわらず、尊崇されることは変わらず、お札にも登場し続けたのです。

 ただ、ナショナリズムが高まった昭和の初期には、太子を批判する声もありました。そのうちの一つは事件にまでなったのですが、それを取り上げた最近の論文が、

寺戸尚隆「昭和初期における聖徳太子誹議と仏教界の動向-石井三郎事件をめぐって-」
(『仏教史学研究』第64巻第1号、2022年12月)

です。寺戸氏は近代仏教史の若手研究者であって、先日、私が浪曲・講談調の聖徳太子講演をやった龍谷大学の非常勤講師であって、この論文は、十五年戦争時期には、仏教界は「聖徳太子を前面に押し出す形で、国体明徴・戦争翼賛運動を展開していった、という指摘で始まります。

 この部分に注(1)として付けられた注では、この時期における太子鑚仰の状況について、私の二篇の論文や、私が監修した近藤俊太郎・名和達宣編『近代の仏教思想と日本主義』所載の東真行さんや中島岳志さんの論文があげられ(有難うございます)、そして寺戸氏自身の論文などがあげられていますが、これらの先行研究である市川白弦についても触れておいてほしかったですね。

 さて、私は「人間聖徳太子の誕生」という論文で、白弦の指摘をふまえ、昭和12年(1937)に刊行された真宗各派協和会編『日本国家と聖徳太子』は、神道系の国家主義者が仏教攻撃をおこなったため、皇室代表である聖徳太子の「憲法十七条」を持ち出すことによって真宗弁護をおこなったと書きました。

 寺戸氏は、この石井論文を含め、先行研究ではこの本の背景が検討されていないとして、きっかけとなった事件について述べていきます。研究はこうして改善されていくものですので、石井論文の不備を補ってくださったことに対して感謝するばかりです。  

 寺戸氏は、明治天皇の侍講として信頼があつく、「教育勅語」に関わった元田永孚は、水戸学の影響を受けており、明治天皇に『論語』を進講した際、廐戸皇子の仏法尊信、吉備真備の儒教の学識も取るに足らず「国教を害する」ものであって、現在の欧米流の教育もそれと同様で害があると論じたと紹介します。

 そして、1921年に貴族院議員の中島久吉が、足利尊氏の人格を賞賛する文章を書いた際、右翼雑誌が尊氏は後醍醐天皇に背いた「逆臣」だとして非難攻撃し、大臣の地位を追われたように、昭和になると、ちょっとでも「不敬」とみなされる言動に対しては「言い掛かり」のように封殺する動きが顕著になったとします。

  そうした中で生じたのが、陸軍参与だった石井三郎の事件です。衆議院議員であった石井は、幼い頃から水戸学になじんだ国家主義者であって、邸内に東武館という剣道場をもうけて若手を集め、「剣道精神の極致は要するに君のために命を捧げるといふ一事に帰す」などと説き、皇道義会を組織するような人物であった由。そうした言動のためか、1932年の斉藤実内閣において陸軍参与官に就任し、1934年の岡田啓介内閣でもその職についていました。

 その石井が『青年日本』に聖徳太子批判の文章を載せたのです。寺戸氏によると、その論文は確認できないものの、批判した『文化時報』に紹介された部分によれば、仏教などという外来思想が入ってきたため、馬子や入鹿のような大反逆を「仏教因果の理に記し平気で居た聖徳太子を見るに至つた」のであって、日本国家の一大危機だったとしたうえ、太子のことを「ハイカラの代表とも云ふべき聖徳太子」と評していた由。このため、太子を侮蔑・嘲笑したものとして大問題になったのです。

 これについて攻撃したのが、東京第一高等学校昭信会であって、「石井三郎氏、聖徳太子論の徹底的批判」と題する冊子を全国の仏教諸団体、日本主義団体、日本史研究者などに送付しました。昭信会というのは、このブログでも紹介しましたが、聖徳太子礼賛の黒上正一郎を仰いだ国家主義学生団体です(こちら)。

 昭信会はそれ以上の運動はしなかったようですが、これに激発され、『文化時報』では毎日のように特集記事を組んだうえ、いくつもの団体が石井に強烈に抗議した由。関西の仏教徒有志によって組織された大阪仏教社では、辞職勧告文を送りつけています。

 大騒ぎになったため、内閣では石井を辞職させる代わりに国会などで問題にせず、幕引きしようとはかったものの、うまくいきませんでした。一方、石井は、あの論文は自分が書いたのではなく、水戸学の敬神崇儒排仏の思想を持った小倉老人なる人物に口述筆記させたものであって、その人物の思想が反映されたものだなどと弁解した由。

 石井に対する批判が高まる中で、貴族院議員であった本願寺派の要職を歴任した大谷尊由が林銑十郎陸軍大臣を訪ね、善処を要求します。林陸相は、太子信奉者であって、石井論文のような「不敬至極な言論をなせる以上は軍法会議にかけねばならぬ」とすら考えていた人物であったため、内閣も辞職させることで意見がまとまります。そこで、石井は、病気を理由として林陸相に辞表を提出しました。

 この問題に学術的に対応しようとしたのが、真宗各派協和会だったと、寺田氏は説きます。石井三郎の議論は、江戸時代の儒者や国学者の聖徳太子批判と同じなのだから、そうした意見に対して学問的に反論する必要があると考えたのです。協和会は既に刊行していた富樫文能『日本精神と聖徳太子』(一九三四)を数千部増刷して、政府要人・陸軍省・全国の連隊などに送るとともに、反論のための研究を始めました。

 寺戸氏は、大谷派の富樫、本願寺派の深浦正文、他の八派の代表として木辺派の辻円証が選ばれ、さらに大谷大学や龍谷大学の研究者を招いて学術的な書物をめざした結果、石井が辞職した後かなりたった一九三七年十一月に『日本国家と聖徳太子』が刊行されたと説明します。なるほど、そうだったのか。


浪曲・講談・落語調まじりで「講演」ならぬ「口演」:石井公成「『日本書紀』の守屋合戦こそが絵解きの前段階?」

2023年05月03日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報

 現在、龍谷大学の龍谷ミュージアムで親鸞聖人の生誕600年、立教開宗550年記念として「真宗と聖徳太子」展が開催されており、貴重な聖徳太子絵伝や太子像、親鸞の聖徳太子信仰に関わる文献などが展示されています。

 その一環として4月30日にすぐ横の龍谷大学で「聖徳太子絵解きフォーラム:太子絵伝と絵解きの継承」が開催されました。

このように、絵解きの実演がなされました。私も最後に講演したのですが、ポスターを見たら、「特別口演」となってますね(^^;

 まあ、芸能続きの催しですので、私も、

旅~ゆけば~ぁ~、飛鳥の道に血のけむりぃ~と、二代目広沢虎造なら歌ったことでございましょう。推古天皇の前後の時代は、天皇の跡目をめぐり、血で血を洗う争いが繰り返されておりました。かかる争いは、いにしえよりとりどりにこそありしかども、守屋との合戦において、四天王像を刻んで髪に置き、誓願を立てて守屋の軍勢を打ち破りたまへる廐戸の皇子の御ありさま、伝へ承るこそ、心も言葉も及ばれね。頃は崇峻天皇二年秋七月、パパーン!(張り扇を響かせる)」

といった形で始め、漢文の引用のところはこの調子で語り、語りものには笑いがつきものということで、最後は、

毎度皆様お馴染みの、あの聖徳太子に異名が多いが、生まれついての馬嫌い、乗るのはいやだと泣いたので、付けたあだ名が「馬やだ王」とて、ほんとの名前(なまい)は豊聡耳……

と初代相模太郎の「灰神楽三太郎」風で笑わせるなどしてお話した次第です。

 合戦で劣勢になったため、これは誓願でないと難しかろうというので、まだ少年だった廐戸皇子が四天王像を手早く刻んで誓願すると、守屋の軍勢に打ち勝つことができた、というのが話の筋なのですが、その部分については、厩戸皇子に「するってえと何かい。このままじゃ負けるってことかい。ここはひとつ誓願を立てにゃあなるめえ」など江戸弁で語らせたりしながら(これは落語調ですね)解説しました。

 ただ、戦いがおさまった後、太子は四天王寺を建て、馬子は法興寺を建てました、ということで終わって良さそうなものですが、『日本書紀』ではまだ話が続いています。

 つまり、守屋の部下であった捕鳥部万の奮戦が軍談調で描かれ、万が戦死すると、その愛犬が死体を守ったため、朝廷は万の一族に命じて万と犬を葬らせた、という話になっているのです。『日本書紀』ではさらに、戦死した桜井田部連膽渟についても、同様に忠義な犬の話を載せています。

 これは四天王寺建立由来譚とは関係がなく、厩戸皇子の超人ぶりを強調する『日本書紀』編者の姿勢とはまったく異なっていますので、守屋合戦以後、四天王寺に所属させられた彼らの一族が語り伝えた話が、四天王寺における聖徳太子伝のひとコマとして盛り込まれたものですね。語られた物語ですので、『日本書紀』の記述については、浪曲・講談・落語調をまじえて「語りもの」として再現し、「『日本書紀』守屋合戦の段、これにて読み切りといたします。パーン!」と張り扇で叩いてしめくった次第です。お粗末!

 まあ、私はものまね芸の歴史の本(こちら)を出している芸能史研究者でもあって、むしろそっちの方が得意なので。