聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

【番外編】久留米大学の九州王朝論講座は、自ら「聞きかじりの知識」に基づく「我田引水の歴史学」と称する経済学部教授が推進

2022年06月16日 | 聖徳太子をめぐる珍説奇説

 久留米大学が何年も九州王朝説に関する公開講座をやっていることは、以前の記事で触れ、旧石器発見ブームにとびついて町おこしをしようとし、後で捏造とわかって撤退した地方自治体の二の舞にならないよう望む、と書いておきました(こちら)。

 その後、調べてみたら、この公開講座は、まさに久留米の町おこしと結びついていたことがわかりました。そのことを良く示しているのが、この『壬申の乱の舞台を歩くー九州王朝説』(梓書院、2013年)という本です。



 壬申の乱の舞台は九州だというトンデモ本であって、著者は、久留米大学経済学部の教授でケインズ経済学や地方創生などの研究者である大矢野栄次氏。

 衆議院議員の鳩山邦夫氏が推薦文を書いているため、鳩山氏は東京生まれで東大出身のはずだがと不思議に思ったところ、東京を選挙区としていた鳩山氏は、2005年に、母方の祖父であってブリヂストンの創業者である石橋正二郎の出身地、久留米市を中心とする福岡6区へ移っていたんですね。

 鳩山氏は、宣伝の帯の裏表紙側では、

経済学がご専門で、私の指南役でもある大矢野先生がすばらしい歴史本を書かれました。……
「天智天皇、さらには持統天皇までもが九州の菊池や久留米で活躍をした、ということは飛鳥宮や藤原京までもがこの地である。」
この説には非常に興味があり、改めて歴史の奥深さを感じました。
「これぞ歴史」ですね!!

と書いています。「これぞ真実の歴史」と断言するのではなく、「興味があり」、「歴史の奥深さを感じ」ると書いており、「こうした見方もできるところが歴史の面白さだ」という表現にしてあるのは賢いやり方です。そうではあるものの、結局は、久留米が歴史上、重要な地であったとする本を推薦し、選挙地盤である久留米の人たちアピールしているのです。

(難波宮や飛鳥宮や藤原宮については考古学の発掘研究が進んでいます。この本が出される前にそうした研究状況をわかりやすく説き、PDFも公開されていて読める一例は、こちら

 大矢野氏は、この本の「プロローグ 『古事記』と『日本書紀』」の冒頭で、

考古学者はこの二つの書を無視しているのである。国語学者は……読むのである。しかし、……無いのである。そして、歴史学者は……無視するのである。
 神道の世界においては……が全てである。
『古事記』は……命じたものである。壬申の乱(六七二)の九年後である。
(1頁)

と記しており、「である」の7連発、それもアジ演説のような調子の断定続きとなっています。これだけ見てもこの本のレベルが推察されますね。

 ただ、理系では論文は英語で書くのが普通である分野も多く、日本語で書くのは苦手という研究者もいますので、ケインズ経済学などを専門とする大矢野氏も、海外の学術誌に英語論文ばかり書いているタイプなのかと思い、論文サイトである CiNiiで検索したところ、英語論文は1985年と1986年に国内の雑誌に書いていただけでしたので、日本語で書くのは不慣れというわけではなさそうです。

 それはともかく、問題は「あとがき」です。氏は、九州新幹線が開通するにあたり、久留米駅にとまるか鳥栖駅にとまるか議論された際、長崎本線との乗り換え駅である鳥栖駅に比べて久留米駅は不利であるため、「久留米の魅力を発信し、久留米に観光客が沢山来るように久留米の観光資源を創るべきだと考えた」そうです。

 しかし、久留米には有名人もおり名所もあるものの「何か物足りない思いがあった」という氏は、菊池川流域には装飾古墳が多く、築後平野には奈良にある地名と良く似た地名が無数にあるという「聞きかじりの知識を元に、我田引水の歴史学をやろうと思いついたのである」(185頁)と告白しています。正直ですね。こういう表現は普通は謙遜の言葉ですが、読んでみたら、氏の本はまさにこの言葉通りの内容になっていました。

 ともかく、氏はそうした状況で「古事記を築後で読む」という公開講座を始めた由。何年も研究してからならともかく、いきなり講座で講義し始めるのですから、凄い度胸ですね。「そんなおり文学部の大家教授から古田武彦氏を呼んで公開講座『邪馬台国九州説』をやるから『お前も何か話せ」と言われ」たものの、古田武彦については知らず、本も読んでいなかったそうです。

 好評であって毎年やることになったこの講座は、多くの古代史ファンを集め、3年続いたところ、「隠し撮り・隠し録音」をネットで公開している人がいるのはけしからん、という理由で古田氏は登壇しなくなった由。

 古田氏の九州王朝説に接して刺激を受けた大矢野氏は、いよいよ熱心になったようです。ただ、菊池を始めとする九州の地を調べていた九州王朝説論者の講座参加者、「秀島哲夫さん」から「先生も調べてくだい」ということで資料をもらったものの、「興味深い内容だったが、とんでもない話だと思った」程度だったとか。

 ところが、「秀島哲夫さんは、ネット上で私を近畿派のスパイとして攻撃」するようになったと書いています。大矢野氏は九州王朝説ではあるが、「九州王朝の歴史を近畿王朝が盗ったというような関係ではないというのが私の考え」だからだそうです(187-188頁)。

 つまり、679年の筑後の大地震などの災害が続いて九州から近畿へ移る人々が増え、政治の中心も移らざるを得なくなった結果、近畿王朝(奈良朝)が成立し、「その自然災害の責任を為政者として神に言挙げして、九州王朝を再建しようとしたのが『日本書紀』であるというのが私の歴史観」であって、「天武天皇と持統天皇の再建計画は尺の許すところとならず、希望は叶わなかった」が、「近畿に移った人々が、先に奈良に入っていた藤原不比等を中心として、新しい日本国(やまとのくに)を創るために平城京を始めた」由(同)。

 考古学や歴史学の研究成果を無視したトンデモ説であるうえ、「その自然災害の責任を為政者として神に言挙げして、九州王朝を再建しようとした」などと、わけのわからないことを書いています。この「珍説奇説」コーナーの第1回目にとりあげた「法隆寺の五重塔は送電塔がモデル」と主張した某大学の某先生が思い出されます(こちら)。

 そもそも、「言挙げ」の意味が分かって書いているのかどうか。「言挙げ」については、このブログでもイグナシオ・キロスさんの「コトアゲ」と「憲法十七条」に関する論文を紹介したことがありますが(こちら)、キロスさんは先行研究をしっかり押さえたうえで論じてますよ。

 大矢野氏の主張は、古田史学の会と良い勝負のトンデモ説であって、粗雑なところも良く似ています。たとえば、「文学部の大家教授」とありますが、「久留米大学文学部 大家教授」で検索するとヒットしないため、これは、久留米大学をアピールしようとしていろいろな催しをやり、盛んに活動した法学部の大家重夫教授でしょう。大家氏の場合も、著作権法などを専門としており、古代史の専門家でなかったのは大矢野氏と同様です。

 また、「秀島哲夫さん」という名前が2度出ており、九州王朝論者であった受講者の秀島さんから「先生も調べてください」ということで資料を渡されたと書いてありますが、秀島氏がネットにあげている記事では、秀島氏が既に調査した内容を「壬申の乱は九州」と題したプリントにし、大矢野氏や他の受講者たちに渡したというのが事実であるうえ、「哲夫」とあるのは正しくは「哲雄」だそうです。秀島氏は、公開講座を推進する大矢野氏の古代史の知識は受講生以下と酷評しています(こちら)。

 なお、「尺の許すところとならず」とは、「天の許すところ」の誤植でしょうか。

 とにかく、こんな調子の記述の連続です。立場が違うので古田氏の系統の九州王朝説論者とは意見が合わないはずですが、九州王朝説の公開講座に熱を入れる大矢野氏は、地域活性化のためならどの説でも良いのか、あるいはそちらに近づいたのか、古田史学系の歴史ファンも講師として招き続けているようです。

 しかも、九州王朝説に立つ久留米地名研究会の会員が2014年8月6日に公開した「久留米大学公開講座(九州王朝論)の拡大」という記事によれば、氏は以下のような力の入れぶりであった由。

 最終日、経済学部の大矢野教授が「来年度は夏と冬の6講座に倍増さ  せ、バス・ハイクやエクスカーションを入れて行く構想を持っている」ことを明らかにしました。
 実現するかどうかは分かりませんが、もし、そうなれば、九州王朝論の立場からの研究発表30セッションが実現することになるわけで、最低でも在野の研究者20人が登壇することになるのです。
 ここまでくると、事実上の椅子取りゲームとなっていた在野の研究者の発表の場が倍増することになり、文字通り、久留米大学は九州王朝研究のメッカ、不抜の拠点となってくる可能性が出てきたのです(こちら)。

 以上です。こんなことが出来るのも、久留米大学文学部には、日本史や考古学の学科がなく、公開講座には久留米大学の教員も参加していないといけないものの、別な分野を専門としていて古代史については素人の先生たちが登場しており、また玉石混淆の「在野の研究者」たちを招いて講座を担当させているからですね。

 「九州王朝研究のメッカ」か……。九州王朝説でも騎馬民族王朝説でも良いですから、きちんと研究して学問的なレベルの論文を発表してもらいたいところです。そう言えば、自分で管理できる公式業績サイトである researchmapで大矢野氏のコーナーを見たら、九州王朝関連で書いたものは「論文」の項目には入っておらず、「MISC」、つまり、「その他、雑」の項目に入っていました(こちら)。

 ちなみに、聖徳太子論文の多くをPDFで公開している私の researchmapのサイトは、こちら。太子に関する講演録も、学術的な内容のものについては、論文の方に入れて公開しています。

 大矢野氏の本と同じ梓書院からは、橿原考古学研究所に務め、大和の遺跡・古墳の発掘に長年携わってきた関川尚功氏が邪馬台国について書いた『考古学から見た邪馬台国大和説 畿内ではありえぬ邪馬台国』(2020年)が出ています。関川氏は、中国の青銅器の出土状況などから見て邪馬台国=大和説が成り立たないことを論じており、説得力がありました。どのような立場の説であれ、こうした実証的な研究であれば歓迎なんですけどね。

 町おこしについて、私の経験を書いておきましょう。かなり前に、中国の四川で生まれた唐代の有名な禅僧、馬祖道一(709-788)に関する国際シンポジウムがその誕生した町で開催され、欧米と日本の禅研究者たちが招かれました。

 ホテルから会場まではパトカーが先導し、次に黒塗りの高級車に県知事にあたる省長と共産党の宗教管轄のお偉方が乗り、我々研究者たちはその後の立派なリムジンバスに乗ったのですが、十字路ではパトカーがサイレンを鳴らして赤信号をぶっちぎりで突破。要所には銃をかまえた兵士だか警官だかが配置され、会場につけば赤いカーペットが敷かれており、ブラスバンドの演奏で迎えられました。ホテルに戻ってテレビをつけると、この地方のニュースでシンポジウムの様子が流されてました。

 町の人は、馬祖のことなどほとんど知らなかったのに、この年から、馬祖の誕生日が町の祝日とされたそうです。古びてこじんまりしていた馬祖ゆかりの寺は、この地方出身の欧米の華僑たちを中心として資金を集め、改装するとのことでしたので、現在は金ピカのお堂になっているのではないかと想像しています。

 この場合は、馬祖は実在人物であって、中国禅宗を確立した大立て者ですので、顕彰するのは良いのですが、聞いた話では、中国では省ごとの愛郷心・対抗心がすごいため、隣の省でもその省出身の禅僧を持ち上げ、その寺を観光と結びつける試みがなされることになったとか。

 こうした催しの中には、史実でない後代の伝承に基づくものもあります。菩提達磨ゆかりの熊耳山空相寺などは、倉庫に使っていた古い小屋と数本の石碑が残っていただけであったのを、調査した小島岱山氏が、達磨が没した直後に梁武帝が賞賛の文章を書いてそれを刻させたと記してある石碑は本物だと発表し、ニュースとなりました。

 小島氏からその話を聞いた私がこの石碑をとりあげ、論文を数本書いたことが中国を含めた諸国でこの寺と石碑が有名になる一因だったのに、寺の盛大な再建式には私は呼ばれませんでした。著名ではあるものの、この方面の専門家ではない研究者たちが呼ばれたようです。高速道路からその寺に至る道路も整備されたそうで、元になる絵も何もないまま寺が「再建」され、観光名所となっています。

 私が呼ばれなかったのは、梁の武帝が自ら書いた碑文を刻んだ石碑を建てさせたとされているものの、そうした史実はなく、碑銘は実際には唐代になって偽作されたものであって、石碑は後代に建てられたものだと書いたのがまずかったのでしょう(この石碑の画像やこの騒動については、こちら)。

 そうしたこともあったため、私は中国の大学や研究所が開催する学問的なシンポジウムや講演は引き受けていますが、寺や地方が主催して観光狙いで派手にやる催しはすべて断るようにしています。

 しかし、大学や研究所には予算が無く、仏教を排撃した文革が終わってから復興して裕福になったお寺や、政治的野心を持った財界人の居士などがシンポジウムの資金を出している場合もあります。そうした状況は行ってみないとわからないこともあるため、最近は古くから知っていてつきあいのある大学や研究所の催しにしか行かなくなり、その数も減りました。

 ともかく、久留米大は「九州王朝研究のメッカ」だそうですので、今年も九州王朝論の公開講座が開催され、大矢野氏(現在は名誉教授)やら古田史学の会の代表やら事務局長やらも講義をし、善男善女が九州の意義を強調した有り難いお話を聞くのでしょう。

 九州北部では、青銅器その他の中国の文物が大和など問題にならないほど多数出土しており、古代にあっては海外と盛んに交流していた先進地域であったことは間違いないのですから、そうした資料に基づく着実な内容の講座を望みたいところです。

【追加】
久留米大学の公開講座について何か書いていないかと思い、古田史学の会の代表氏のブログ「洛中洛外日記」をのぞいてみたら、

「第2759話 2022/06/11
古賀達也「神籠石山城 鬼ノ城西門と北魏永寧寺九重塔の造営尺」

という記事で、永寧寺について説明する際、『洛陽伽藍記』の文書を示していました。

「時に西域の沙門で菩提達摩という者有り、波斯国(ペルシア)の胡人也。起ちて荒裔なる自り中土に来遊す。(永寧寺塔の)金盤日に荽き、光は雲表に照り、宝鐸の風を含みて天外に響出するを見て、歌を詠じて実に是れ神功なりと讚歎す。自ら年一百五十歳なりとて諸国を歴渉し、遍く周らざる靡く、而して此の寺精麗にして閻浮所にも無い也、極物・境界にも亦た未だ有らざると云えり。此の口に南無と唱え、連日合掌す。」『洛陽伽藍記』巻一

と書いているものの、これだけ短い文章のうちに10箇所以上の不適切なところがあります。そもそも、訓読では古文の形にするのが通例なのに、「沙門で(→「で」は不要)」とか「にも無い也(→に無き也)」などのように現代口語の表現が混じっているうえ、「有らざると云えり(→有らずと云う)」と記すなど、古文めかした妙ちきりんな言い方になっています。古文の基礎ができてないですね。また、「起ちて荒裔なる自り」としてますが、「起自」は「起ちて~より」ではなく、この2語で「~から(始まり)」の意であって、訓としては「荒裔より中土に来遊す」で可。「荒裔なる自(よ)り」もおかしいです。「荽」は俀国みたいだけど、正しくは「炫」。しかも、原文の「自云(みずから云う)」の「云」が抜けてるし、「閻浮所にも無い也」は「閻浮(閻浮提=この世界。特にインドを指す)に無き所なり」の間違い。それに「響出する」って何なんだ? 「風鐸、風を含み、響き、天外に出づるを見」でしょ。また、「歌を詠じて」だと、そうした歌があるようだけど、正しくは「詠歌して」であって、「詠歌」は、節を付けて唱えることです。「未だ有らざると云えり。此の口に南無と唱え」としてるけど、口について前に何も記してないのに、「此の口」とするのはおかしいです。これは句読が間違っているのであって、「未有此。口唱南無(未だ此[これ=こんな素晴らしい寺]有らず。口に南無と唱え)」に決まってるでしょ。ネットで見た? 原文の句読の誤りを直せていないし、そもそも漢文の構造を理解してませんね。他にも問題がありますが、もうやめます。ああ、くたびれた。よくここまで間違えられますね。学界が相手にしないのは当然です。
 古文・漢文がこれほどできないからこそ、『東日流外三郡誌』は学の無い雑知識だけの現代人が文法に合わない古文もどきで書いていることに気づかず、本物だと信じ込み、また漢文史料についても誤読して大発見と称するトンデモ解釈を自信満々提示できるわけです。それにしても、この人たちは漢文が読めないのに、自信がない場合は「注釈や現代語訳がある文献についてはそれを参照する」という作業をなぜやらないのか。『洛陽伽藍記』などは、訳や注付きの本が何種も出てるのに。
 久留米大学の伝統ある九州王朝講座に参加し、質問して論旨に関わる資料の読み間違いを片っ端から指摘させてもらおうかな……。代表氏によれば、「学問は批判を歓迎し、真摯な論争は研究を深化発展させ」るそうなので。それにしても、事務局長氏も編集長氏も同様でしたが、古田史学の会の幹部たちは、長年あれこれ調べて書いておりながら、ここまで漢文が読めず、訓読もできないままでいられるというのは不思議です。これも「古代のロマン」の一つでしょうか。

【再追記】九州王朝論者がこの記事だけ見た場合、石井は神話重視の皇国史観寄りの立場で九州王朝説を批判しているのではないかと思うかもしれませんので、書いておきます。前の「古田史学の会」批判の記事にも書いたように、私は『日本書紀』や『古事記』を批判的に検討した津田左右吉のひ孫弟子であり、アジア諸国のナショナリズム、特に近代アジア諸国における仏教とナショナリズムの結びつきについて批判的に検討している研究者の一人です。このブログは一歩距離を置いた客観的な研究をめざしているため、梅原猛、井沢元彦その他のトンデモ説や、史実を無視して聖徳太子を無暗に礼賛する国家主義系の人達についても批判しています。

【追記:2022年6月18日】難波宮や藤原宮に関する考古学の研究成果をリンクで示しておきました。他にも、文章を多少訂正してあります。

【追記:2022年11月3日】「古田史学の会」の主要メンバーの書くものは、漢文が読めず、論文の書き方も分からない大学1年生たちがオカルト同好会の雑誌に書くような内容ばかりであることは、このブログの「珍説奇説」コーナーで指摘しておきました(こちらや、こちらや、こちら)。

この記事についてブログを書く
« 法隆寺の歴史の集大成:法隆... | トップ | 法隆寺の歴史の集大成:法隆... »

聖徳太子をめぐる珍説奇説」カテゴリの最新記事