聖徳太子研究の最前線

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伊予温湯碑文が描く温泉は間欠泉か

2010年06月15日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報
 伊予温湯碑文の難解箇所のうち、今回は拙論で触れた「随華台而開合」の句について補足しておきます。伊予温湯というのは道後温泉ではないとか、聖徳太子は伊予には来ていないとか、いや伊予には法隆寺の莊園があったとか、様々な説があるわけですが、今回はそうした問題は扱いません。まず、碑文そのものを、じっくり読んでみることが目的ですので。

 拙論では、「碑文の『隨華台而開合』は、噴き上げては閉じる間欠泉(24)を意識した表現であろうから、池から蓮の茎が伸びて上で華が拡がり、それぞれの華から往生人が生まれつつある『天寿国繍帳』中の蓮華化生の図を考えると分かりやすいだろう。」と書きました。そして、注24の註記では、上代文献を読む会編『風土記逸文注釈』(翰林書房、2001年)が、「開合」は「華台」の開合を意味するが、比喩上では泉源の様を意味するとし、「或いは伊予の湯が間欠泉であったことを意味するものか」(534頁)と述べていることに触れ、妥当な解釈と評価しました。

 「随華台而開合」というのは難解箇所の一つであって、小島憲之先生も苦労されたところです。「何異于寿国」という句に続いている以上、温泉の様子と重なる寿国の様子について述べているはずであるため、小島先生は、「失はれた伊予道後湯岡碑文私見」(『愛媛国文研究』15号、1965年12月)では、「天寿国の華の如きうてなに沿って、天の池の水が或は開くが如く或は合ふが如く湧き出るの意となるであろう。『開合』は煙霧や水などの形容に用ゐられることが多い」としています。つまり、「華台」を、天寿国にある華麗な楼台と解するのです。

 右の『風土記逸文注釈』において、湯岡碑文を含む「伊社迩波之岡」部分を担当された廣岡義隆氏は、「この所説の通りであろう」としたうえで、「この『開合』は直接的には『華の台[うてな]』の『開合』を意味するが、比喩上は泉源の様を意味していよう。或いは伊予の湯が間欠泉であったことを意味するものか」と述べています。

 伊予の湯は間欠泉であったかとする解釈には賛成です。ただ、廣岡氏は、「この所説の通りであろう」として小島説に賛同しているものの、実は小島説とは一致していません。小島説では、楼台に沿って天の池の水が開いたり閉じたりするような形で湧き出ると解しているのに対し、廣岡氏は、直接的には「華台」と称されている楼台自体が開合する様子を描いていると解しているからです。

 しかし、楼台自体が「開合」するとはどういうことなのか。藤岡氏の訳のうち、「花弁の開合に合わせるように泉源は開合し」とある箇所もよく分かりません。ここで注目されるのは、藤岡訳では、「随」の語の解釈が曖昧なことでしょう。「花弁の開合に合わせるように」とあるうちの「合わせるように」が「随」の訳なのかもしれませんが、花弁が開く時にそれに合わせて泉が湧き出て、しぼむ頃に泉源が閉じるというのも不自然です。ということは、碑文の「随」は、「~に随って」という用法とは考えにくいということになります。

 その点、小島説では「楼台に沿って」となっていて、「随」は「沿って」として明確に訳されていますが、「天寿国のうるわしい楼台に沿って温湯は激しく動き、湧き上がりつつ重なりまた散る」とする小島説も落ち着きません。経典における浄土の記述にあっては、泉から流れ出る宝石のような清流といった記述はよく見られるものの、「激しく動き……」といった様子の表現は見たことがありません。だからこそ、藤岡説では、伊予温湯は間欠泉だったか、と推測したわけです。ただ、これだと天の池の描写としてはふさわしくなさそうです。

 「開合」という点から言えば、『観無量寿経』に見える記述、すなわち、自分が蓮華の中に結跏趺坐したと観じ、蓮華が「合」したと観じ、蓮華が「開」いたと観じると、極楽浄土に生まれているのを見る、とする箇所を踏まえるとした福永先生の解釈が正しいと思われます(こうした点はさすがです)。これを浄土の図として描くと、池から蓮の茎が伸び、華がふくらんで開くと、往生人がその中に入っていて、浄土に生まれてくるわけです。そう考えてみると、「随」は何かに従うの意味ではなく、漢訳経典にしばしば見られる「~ごとに」の意の用法と考えるのが自然ということになりそうです。「随」は介詞にはなりきっておらず、動詞の意味合いがまだ残っているでしょうが。

 つまり、華台の上に一人の往生人が載っている蓮華がこちらで開くと、あちらではまた華台に載った別な往生人を包み込んだ蓮華が開く、という感じでそれぞれの蓮華が開いたり閉じたりするという情景です。「何ぞ寿国と異ならむ」と言われる温泉に関して、これと似た光景を捜すとなれば、噴き上げては静まり、そしてまた噴き上げては静まる間欠泉しか考えられません。その点、天寿国繍帳に見られる往生人は、上にいくほど拡がっている蓮花に載っている点で、噴き広がる間欠泉と似た面があります。「何ぞ異ならむ」とは、この点をも含むのではないでしょうか。まあ、これも試論にとどまります。

 なお、『伊予国風土記』では「高麗恵総僧」となっているのを、通説のように、簡単に高麗の「慧慈」の誤りとしてしまうのはためらわれます。碑文そのものは、「恵{公/心}法師」と言っているだけであって、高麗僧とは言ってませんので、それを尊重すべきでしょう。「高麗恵総僧」というのは、百済の恵総を高麗の慧慈と取り違えた可能性もあるわけですし。『伊予風土記』の地の文と、そこで引用されている碑文とで人名表記が違うのは、『伊予風土記』の編者が前から伝わっていた碑文を尊重してその古い表記のまま引用し、地の文では一般的な表記法を用いて説明した証拠とも考えられます。

 高句麗や百済と言えば、『伊予風土記』では、多くの天皇たちがこの温泉に訪れたことを記す際、「降坐五度(くだりまししこといつたびなり)」という強烈な和風文体の中で、「降」という語を用いているのが注目されます。これは、高句麗・百済・新羅の仏教関連伝承を集成した高麗の『三国異事』が、貴人の来臨について述べる際によく用いている語法であり、中国から高僧がやってくる場合にも「降」の語を用いています。天から降臨される神のように、という扱いですね。小島先生は、碑文の文章は稚拙であることに触れた際、「和習的な匂い-或いは高麗的な匂い-を文章に漂わせている」(「続・聖徳太子団の文学--湯岡碑文記・憲法十七條を中心に--」、『學燈』95巻5号、1998年5月)と述べておられますが、それは『伊予風土記』の地の文章にも言えることです。ただ、百済の影響の可能性もあるわけですから、「高麗的」と限定する必要はないと思われます。
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