聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

建立は金堂が先だが設計概念は五重塔が元: 木本次憲氏・稲山正弘氏の建築学史発表

2011年04月30日 | 論文・研究書紹介
 前回、金堂の複製壁画の展覧会を紹介しましたので、続けて金堂に関する最近の論文をとりあげます。環境計画事務所長の木本氏と、木造建築工学を専門とする東大准教授の稲山氏による、実験に基づく考察です。

木本次憲・稲山正弘「法隆寺金堂の構造概念に関する一考察」
(日本建築学会『学術講演梗概集』[2010 F-2 建築歴史・意匠]、2010年9月)

 学会での発表梗概であるため、僅か2頁ですが、写真がたくさん載っており、勉強になりました。

 この発表では、両氏が金堂初層の軒先隅部の2分の1縮尺モデルを用いて行った荷重実験、昭和の大修理工事の報告書、西岡常一棟梁の談話に基づき、「現存法隆寺の創建当時の構造的意図を推測」しています。

 専門的な内容は省きますが、実験の結果、金堂の軒先は、「鉛直荷重に対して全体として立体的にバランス」がとれる構造になっていることが確認された由。一方、法隆寺の五重塔は「詳細から架構概念まで金堂と殆ど同じ」であり、薬師寺東塔も、やや異なる点がありながら、法隆寺で採用された構造特性を保っているように見えるとします。

 そうなると、法隆寺金堂が以後の諸寺の五重塔の構造設計の元になったようであって、実際、言われているように建築順序はその通りだったと考えると述べたうえで、しかし、構造の概念は塔の方が先だったのではないか、と両氏は推測します。

 つまり、漢代の墓から出土している陶製の楼閣の中には、薬師寺東塔そっくりのものもあるため(写真を見ると、ビックリするほど似てます)、木造楼閣の原型は、構造の詳細を含めて、中国漢代に既に完成していたと考えられるとするのです。

 このため、法隆寺の金堂の構造設計は、既に完成されていた「五重塔の建て方」を基本としつつ、「限界ぎりぎりの条件で最も大きく見せ、かつ内部空間が最大となる」よう目指した結果ではないか、というのが両氏の考えです。

 本発表の末尾は、以下のように結ばれています。

「法隆寺金堂は、軒先にかかる鉛直荷重を立体的に支持させ、内陣に天井の高い空間を創出しようとした」1300年前の技術者の構造設計意図と、力の流れを意識した仕口加工の巧みさを読み取ることができる。(14頁左)

 厳しい枚数制限の範囲で詰め込みすぎたせいか、文章は少々おかしいですが、伝わって来るものがありますね。この両氏や西岡・小川の両棟梁たちは、まさに敬意を払いつつ1300年前の技術者たちの心に迫ろうとしており、文献学に携わる者としては反省させられたことでした。

 なお、この発表梗概は最新のものであるため、まだ印刷本で読むしかありませんが、この梗概集は刊行してしばらくするとネット公開されており、少し前の両氏の発表、「法隆寺金堂:隠されたトラス架構の新解釈」や「庇から考察する山田寺と法隆寺」については、CiNiiからPDFで読むことができます。

原寸大の壁画複製による法隆寺金堂内部の臨場感:女子美アートミュージアム展覧会

2011年04月26日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報
 女子美術大学が昨年の創立110周年に当たって入手したコレクションの一部である法隆寺金堂壁画のモノトーン原寸大コロタイプ複製が、学内の美術館で展示されています。複製といっても、昭和10年に、京都の便利堂が75日かけて最新の方法で撮影し、最高の技術を駆使して原寸大のコロタイプ版を作成したのですから、それ自体、技術史に残る力作です。

 会場では、そのコロタイプ複製12幅を一堂に並べることにより、金堂の中にいるかのような臨場感を味わうことができるとのことです。また、そのコロタイプなどに基づいて描かれ、他の美術館に所蔵されている安田靫彦・吉岡堅二・橋本明治による着色模写図も、あわせて展示されている由。

法隆寺金堂をうつす コロタイプと画家による模写制作展
女子美術大学相模原キャンパス、女子美アートミュージアム
4月22日(金)~5月15日(日) *火曜休館
[※5月3日(火)・4日(水)・5日(木)は開館]

 企画監修に携わられた女子美の稲木吉一先生から、この展覧会の「図録」を送って頂きました。「法隆寺金堂壁画をめぐる営み」と題して、6頁にわたる稲木先生の解説が掲載されています。写真撮影とコロタイプ複製の作成、日本画家たちによる模写が続けられていたさなかの昭和24年1月に火災で損なわれた金堂の壁画とその模写画、そしてその後でコロタイプを活用して新たになされた模写の制作経緯について、今回の大震災の後になって書かれたものだけに、「大切なものを遺したい」という多くの人々の営みの重さに思いを寄せた文章になっています。

 なお、稲木先生には、「天寿国繍帳」の「天寿国」は兜率天だとする論文、

稲木「聖徳太子と弥勒信仰: 聖徳太子ゆかりの弥勒像と天寿国繍帳を中心に」
(『東洋美術史論叢:吉村怜博士古稀記念』雄山閣出版、1999年)

があります。

 展覧期間中には以下の催しがある由。いずれも参加無料・申込不要です。

(1)女子美 コロタイプ・フォーラム
 日時:5月7日(土)13:00~16:20 
 会場:相模原キャンパス10号館1階1011教室
 ・講演「法隆寺金堂壁画の魅力」:女子美術大学名誉教授 永井信一(美術史家)
 ・講演「壁画模写制作の回想」: 女子美術大学名誉教授 松本俊喬(日本画家)
 ・ワークショップ「コロタイプ印刷を体験しよう」:便利堂コロタイプ工房 山本修
 
(2)ギャラリートーク:稲木吉一(女子美術大学教授)
 日時:4月30日(土)・5月14日(土)13:30~14:00
 会場:女子美アートミュージアム


有力な皇子は国政参与したのか: 原朋志「令制以前のマヘツキミと合議」

2011年04月22日 | 論文・研究書紹介
 『日本書紀』が推古朝を皇太子としての厩戸と蘇我馬子大臣を中心に描いていることについては、早くから疑問が呈されてきました。

 そのうち、「皇太子」という呼称が後代のものであることは確定していますが、有力な皇子と有力な臣が大夫・群臣・群卿などと表記される「マヘツキミ」たちを率いるということがあり得たのか。また、王族たちは「マヘツキミ」のうちに含まれるのかどうか、すなわち、国政に関わったのかどうか、という問題について論じたのが、

原朋志「令制以前のマヘツキミと合議」
(『ヒストリア』209号、2008年3月)

です。

 原氏は、用例から見て、「大臣・大連は、マヘツキミを代表しうる有力者ではあるが、マヘツキミを超越した存在ではなく、あくまでもマヘツキミに含まれる存在であったと思われる」と説きます。

 そして、マヘツキキたちは、畿内の有力氏族が原則であり、一氏から一名を原則とするが、必ずしも世襲されず、有力氏族以外で大王の寵愛を受けた者も含まれており、冠位十二階を契機として大夫層が確立ないし拡大した、とします。

 本論文で重要なのは、有力王族も早くからマヘツキミの一員として国政に関わっていたのであって、「有力王族と大臣とは、国政上ほぼ同格とみなしうる」としていることでしょう。これが変化して王族とマヘツキミを区別した表記をするようになったのは、乙巳の変から天武朝にかけてのことであり、律令的官僚制の形成が始まった天武朝ではマヘツキミの重要性が低下したと、氏は推測しています。

 論文末尾には、この論文のもとになった学会報告の後の質疑も掲載されていますが、そこでは、氏は、厩戸皇子が政治の中枢に存在したことは認めてよいと考えられるとし、その縁者にあたる来目皇子・当麻皇子が征新羅将軍となったとする『書紀』の記述は信用してよいと考える、と答えています。

 「群臣」やその合議の実態については、最近、論文がいくつか出ていますが、上代史を考えるには、これは避けては通れない問題です。

 なお、原氏は、『日本書紀』における「マヘツキミ」の漢字表記一覧(105頁)を作成しており、孝徳天皇の代には「群卿」は2度見えるとしていますが、3度の誤りです。

 興味深いことに、氏の一覧によれば、「群臣」という語は『書紀』の多くの巻にほぼ偏りなく見えているのに対し、この「群卿」の方は、巻14から巻21までのα群ではまったく用いられていません。ところが、同じα群の巻24から巻27では、皇極朝と孝徳朝だけに見えており、しかも、皇極朝では高句麗と百済の朝貢記事、孝徳朝では問題の多い詔の中にだけ登場しているのは、やや不自然な印象を受けます。

 ちなみに、β群に属する推古紀のうち、「憲法十七条」には「群臣」と「群卿」がともに用いられており、第四条などは一つの条のうちに両方見えてますね。さて、これはどう考えればよいのか。

柱の年代から法隆寺創建と再建を解く: 松浦正昭「年輪に秘められた法隆寺創建」

2011年04月18日 | 論文・研究書紹介
 前回、とりあげた来村氏の論考が載っている『古代大和の謎』は、近鉄が主催する「大和文化会」での研究者たちの講演や、その増補版を編集したものです。そのため、収録されている諸氏の文章は、いずれも「ですます調」であって一般向けの内容ですが、ただ一人、「である」調の論文にまとめあげ、「法隆寺の謎を解いた」と明言しているのが、

松浦正昭「年輪に秘められた法隆寺創建--法隆寺論の美術--」
(大和文化会編『古代大和の謎』、学生社、2010年)

です。

 その基本は、松浦氏の『飛鳥白鳳の仏像--古代仏教のかたち--』日本の美術・455(国立博物館[東京 京都 奈良]・文化財研究所[東京 奈良]、2004年)で述べられた主張と同じです。

 氏は、奈良文化財研究所の光谷拓実氏が年輪年代法によって法隆寺五重塔心柱の伐採年代は594年と判定したことを評価し、ここから考察を始めます。心柱がそれだけ古いのに、現在の金堂は若草伽藍時代の仏像たちが主となっていることに注目し、若草伽藍発掘によって法隆寺再建が確定した結果、かえって謎が深まったのが現状だとするのです。

 氏は、法隆寺の北辺を限る掘立柱塀の柱根が発掘されている以上、「一屋も余す無し」と記された天智9年(670)の火災も、この塀やその外側にある建物までは及ばなかったと見ます。そして、現在の金堂は、古い楚石を転用しつつも前より太い柱を用いているうえ、現在の講堂の前身となった食堂と東室も、古い楚石を転用して元の柱を切り縮めた転用材を用いていることから見て、現在のそれらの建物に楚石や用材を供給した大規模な建物群が若草伽藍・斑鳩宮にあったと、説く鈴木嘉吉氏の主張を評価します。

 ただ、松浦氏は、太子追善のために造立された釈迦三尊像を祀っていた堂は斑鳩宮にあったとする鈴木説には反対し、若草伽藍の北方にあった建物こそがそれであろうと説きます。『法隆寺資財帳』に記される「丈六」とは、いわゆる丈六の大きな仏像ではなく、光背を含む「通光座高」なのであって、龍首水瓶に墨書で記されている「北堂」、つまり、北方建物に安置されていて現在の金堂に移された釈迦三尊像を指すのだ、というのが氏の主張です。

 北方建物の旧楚石を転用しながら、元の建物より太い柱にしたのは、焼け残った北方建物を移築するのではなく、若草伽藍金堂の再建をめざしたためだろうと、氏は推測します。

 では、その再建金堂より後に、663年以後に伐採された用材を用いて建立され、和銅4年(711)の塔本塑像の造立によって完成を見た五重塔が、どうして594年伐採の古い心柱を用いているのか。

 これについて、松浦氏は、飛鳥初期の伽藍建設は、まず刹柱建立から始まっていることを指摘します。舎利を先端に納めた高い刹柱を立てて仏塔とし、後に、その舎利を石の心楚中に納め、その刹柱を軸とする五重塔や三重塔を建立するのです。法隆寺の場合も、五重塔を再建するにあたっては、その心柱に、太子ゆかりの由緒ある刹柱を用いたはずだ、というのが氏の解釈です。

 現在の五重塔の心柱は、基壇上面から3メートル下の心楚の上に立てられていますが、その根元は腐食して大きな空洞ができています。その心柱が垂れ下がるのを防ぐために、腐食部をかきとり、板石と日乾煉瓦を挿入して埋め、五重塔の各重に井桁の枠組みを設けて心柱を釘止めしてあります。

 その防止対策がなされたのは、腐食部に入れた日乾煉瓦と同じ煉瓦を用いている五重塔軸部の建造時期、つまり、711年頃と推測されると、氏は説きます。

 つまり、再建五重塔は、もともと腐食していた用材を敢えて用いて建立し、しばらくして腐食部分を処理して補強したことになります。そうなると、よほど由緒のある柱ということになりますが、『聖徳太子伝古今目録抄』では、法隆寺建立は太子の「御年廿二歳」、594年の時としています。これは、まさに五重塔心柱の伐採年代と同じです。

 そこで、松浦氏は、法隆寺創建とされるその年は、実際には刹柱を準備した年だとします。西院の地には、金銅の相輪部を載せた刹柱塔が聖徳太子によって、おそらく、598年の『法華経』講説の際に建てられていたため、若草伽藍焼失後、その地において、その柱を利用して五重塔が再建されたのだ、というのが氏の推測です。

 松浦説には、反論もなされています。たとえば、氏の主張する若草伽藍北方建物については、現在の建物と重なることもありますが、遺跡が発掘されていないというのもその一つです。

 また、598年という早い時期に刹柱が建てられたなら、なぜその刹柱が若草伽藍の五重塔に用いられなかったのか、という疑問もありえるでしょう。いずれにせよ、年輪年代法による成果、法隆寺解体工事にともなう調査、文献資料を組み合わせての主張ですので、松浦説に関して盛んな議論がなされることを期待しています。

聖徳太子の墓所は用明天皇陵の谷: 来村多加史「天皇陵にみる風水思想」

2011年04月14日 | 論文・研究書紹介
 前回、磯長の太子廟を聖徳太子の墓とする伝承を疑う説を取り上げましたので、今回は、異なる意見を紹介します。

来村多加史「天皇陵にみる風水思想」
(大和文化会編『古代大和の謎』、学生社、2010年3月)

 来村氏は、1985年から88年までの2年半、北京大学に留学した際、最初の半年以後はもっぱら各地の皇帝陵や都城遺跡を調査していた由。南京郊外の30数カ所の陵墓については、特に重視してすべて踏査したところ、大半の陵墓は一筋の谷を兆域としていることが分かったそうです。

 現在、風水師たちが用いている地形の模式図は、後代の成立ですが、「私が南朝の陵墓で調べてきた地形によく似て」いるのは、南北朝頃の「堪輿術」、つまり地形占いの術が継承されたためだろうというのが、氏の推測です。「風水」という言葉自体は明代に登場する新しい用語であることも、むろん付け加えています。

 帰国して奈良の古墳を回るうちに、南朝の陵墓と似た地形に築かれているものがあり、なかでも明日香村には「風水の影響を色濃く受けたとしか考えられない古墳が多く見られ」ることに気づいたとか。

 来村氏は、本稿では様々な古墳を取り上げていますが、そのうち、磯長の太子廟が実際に聖徳太子の墓所であるとする伝承については、太子の没年と石室の様式の年代との違いなどによって疑問視する説に触れたうえで、太子墓と「信じてもよいように思います」とします。

 古墳については「時には思い切って被葬者を特定し、前に進む勇気も持たねばなりません。そうでない確証が得られたときには、いさぎよく説を撤回します。ということで、ここではその古墳が聖徳太子墓であることを前提として話をさせていただきます」というのが氏の立場です。これは、すっきりしてますね。

 聖徳太子墓の前方には東から西へ下る長い谷が広がっており、その谷をさかのぼった奧に、谷をY字形に分岐させる尾根の上に用明天皇陵があります。その南にある推古天皇陵も、同様に谷をY字形に分岐させる尾根の上に乗っていて、偶然とは思えない共通性を持っていると氏は述べます。

 太子墓は、その谷の側面に、斜面をえぐって平坦にする「山寄せ」の技法で造られているため、「聖徳太子は父親が葬られた谷の側面に葬られた」と見ることができると説かれています。

 その太子墓に立地が似ているとされるのが、不確かなものが多い宮内庁治定の天皇陵のうち、間違いないとされるものの一つである舒明天皇陵です。舒明天皇は、聖徳太子が没してから20年ほど後に亡くなってますので、ほぼ同時期とみなしうるものであり、その二つの墓所の「類似性が単なる偶然ではないことが想像できる」と、氏は述べています。

 舒明天皇陵は、墳丘が八角形になっていますが、前回触れた今尾文昭氏の「聖徳太子墓への疑問」(『東アジアの古代文化』88号、1996年)では、太子墓を「叡福寺北古墳」と呼んだうえで、その墳丘は「円墳ではなくて、実は八角形ではないかと思っています」と述べています。来村氏とは逆に、叡福寺北古墳は、改葬された舒明天皇陵に似ているため、太子より後の時代のものではないか、と見るのです。同じ事実が反対の意見の根拠となる一例ですね。

 どのような結果になるにせよ、より詳細な調査が進むことを期待しましょう。

次々に創作されてゆく太子関連の聖地: 小野一之「聖徳太子<生誕地>の誕生」

2011年04月10日 | 論文・研究書紹介
 先日、橘寺の横を通る機会があったので、関連論文を紹介しておきます。

小野一之「聖徳太子<生誕地>の誕生」
(中部大学国際人間学研究所編『アリーナ 2008』、2008年3月)

 大山誠一氏が中心となって組まれた【第2特集 天翔る皇子、聖徳太子】のうちの一篇です。

 前半は、小野氏が早くに論文を発表し、大山誠一編『聖徳太子の真実』(平凡社、2003年)収録の同氏の論文、「<聖徳太子の墓>誕生」でも論じていた太子の墓の問題です。つまり、現在では太子供養の叡福寺に隣接する太子廟こそが太子の墓所とされているものの、治安四年(1024)頃は、太子と関わりの深い寺の僧でも太子の墓の場所が分からなくなっていたというのです。

 これは驚きの話ですね。太子の墓については、10世紀初め頃までは確実に国家が維持管理しており、聖徳太子信仰そのものは、四天王寺や法隆寺を中心にしてどんどん盛んになるのに、墓所に対しては関心が向けられていなかったのです。

 その僧が、たまたま発見した『延喜諸陵式』に太子の墓として「磯長墓」が記されており、11世紀半ばにはその地からいわゆる太子の「未来記」が発見されたことにより、13世紀初めまでにはこの地に太子を祀る伽藍が整備され、やがて叡福寺と呼ばれるようになったのであって、この動きには四天王寺が関わっていた可能性があると、小野氏は見ます。

 後には浄土教の僧侶たちが盛んに宣伝活動を行うようになり、四天王寺--太子廟--当麻寺という「浄土信仰と太子信仰の聖地を連ねるネットワーク」が誕生しますが、氏は、この磯長の墓については、「本来の厩戸王の墓であったか、考古学的にも問題が残る」と述べています。これは、小野氏の論文を読んで共感した今尾文昭氏が、太子墓に関する見解を提示した「聖徳太子墓への疑問」(『東アジアの古代文化』88、1996年)などを指します。

 さて、論文後半は、誕生の地も不確かであったという問題を扱います。上宮があった場所については、早くから坂田寺とする伝承と橘寺とする伝承があったものの、生誕地に関する関心は見られないことに、氏は注目します。ところが、鎌倉初期までには坂田寺の南の地こそが太子生誕の地とされるようになったため、鎌倉末期に橘寺の法空が対抗して、橘寺こそが誕生の地と主張するようになったと見るのです。

 そして、15世紀末に焼き討ちにあった橘寺では、「勝鬘経講説地」説に「生誕地」説を加えてアピールしつつ寺の復興をなしとげ、そうした中で「太子生衣」「育湯之井」などが整えられていったのだとするのが、小野氏の推測です。

 このように、聖者の生誕地や墓所が探され、宗教施設が建てられ、信者が参拝するようになっていく点は、キリスト教におけるベツレヘムの聖降誕教会とエルサレムの聖墳墓教会、法然の誕生寺と知恩院、日蓮の誕生寺と身延山久遠寺などと同様なのであり、橘寺や叡福寺の伝承については、史実というよりは「中世的な宗教活動の展開過程のなかで結実したもの」と見るべきだとしています。

 磯長の墓については反対意見もあるため、次回、紹介しましょう。

厩戸皇子の様々な呼び方に関するお遊び研究ノート: 酒井龍一「聖徳太子の名号を追う」

2011年04月06日 | 論文・研究書紹介
 東野治之氏の研究に縁がある論文をもう一つ。氏から労作『日本古代金石文の研究』を呈されて法隆寺釈迦三尊像光背銘に関する「実証に感銘を受け」、「門外漢ながら」この機会に聖徳太子の名号について調べてみたという、奈良大学文化財学科における東野氏の同僚、酒井龍一氏による、

酒井龍一「聖徳太子の名号を追う--厩戸のいるのいないの百変化--」
(『文化財学報』25集, 2007年3月)

です。

 題名通り、太子に関する多様な呼称を精査したものですが、「厩戸のいるのいないの百変化」という川柳仕立ての副題が示すように、氏が最近書くものは、章や節の名がすべて川柳の形になっており、かなり遊んでます。

 そうした面では、学術論文とは言い難いものの、この「聖徳太子の名号を追う」は、家永三郎による聖徳太子の名号研究その他の先行研究を踏まえつつ、聖徳太子の様々な呼称が史料ごとにずらっと列挙され、整理されているため、きわめて便利です(それにしても、PDFで読める論文が増えましたね)。

 まず、『日本書紀』における呼称については、時期によって、「東宮聖徳」や「豊耳聡聖徳」「法主王」「厩戸皇子」その他を含むA(誕生~皇太子)、[皇太子」という呼称ばかりのB(皇太子~薨去)、「厩戸豊聡耳命」「上宮太子」「太子」その他を含むC(薨去直後)の「3区分」に分けられるとします。そして、「玉石を混ぜ官撰の『日本書紀』」という名の節では、6点を指摘しており、そのうち、1・5・6は次の通りです。

(1)多様な先行史料を参照した。
(5)AとCとでは名号は異なり、依拠史料の差を示す
(6)Bは、「皇太子」に統一し、一括・編集・脚色・執筆した。

 これだけ見ても、『日本書紀』の最終編纂段階、それも718年から720年までの短い期間に一気に理想的な聖徳太子像を捏造したとする聖徳太子虚構説には無理があることが分かりますね。『日本書紀』が厩戸時代にはありえない「皇太子」という点を強調して脚色していることは事実ですけど。

 酒井氏のこの論は、史料や時代による呼称の変化をわかりやすく示すのが第一であって、細かい論証は充分ではありません。ただ、いくつかの箇所では興味深い指摘がなされています。

 たとえば、「聖徳太子」という呼称が初めて登場する『懐風藻』をとりあげた節の名、「『聖徳の太子』なんだか軽すぎる」というのは、なかなか示唆するものがあります。「聖徳太子」というと非常に尊重した呼び方のようですが、既に何らかの伝説を背景としているように見える『古事記』の「上宮之厩戸豊聡耳命」や、奈良時代の法隆寺史料における「東宮上宮聖徳法王」などの長々しい尊称に比べると、確かにあっさりしたものですね。

 なお、聖徳太子虚構説は、『日本書紀』が「聖徳太子」なる理想的人物をでっちあげ、光明皇后や行信がさらに捏造を進めたのだという論調で始まったのですが、『日本書紀』でも光明皇后・行信関連資料でも「聖徳太子」という表現そのものは用いていないことは、前に書いた通りです。

 それにしても、「『法王』と呼んで尊ぶ法隆寺」とか、「名号を連結しては格を上げ」とかは史料に応じたものですが、「『聖徳』がでたか いよいよ御本命?」や「改造の噂 薬師の眼に涙」あたりは、何とも……。もっとも、私自身、昔から江戸の狂歌・川柳を愛好しており、現在も、言葉遊びや近世狂歌と仏教の関係に関する論文を準備中であるため、「アルケオロジー」ならぬ「歩けオロジー」を提唱する酒井氏と、駄洒落好きの点は似ているかもしれませんが……。

『日本書紀』の仏教関連記事の筆録者は道慈でない: 直林不退「『日本書紀』と戒律」

2011年04月02日 | 論文・研究書紹介
 このブログでは「聖徳太子研究の最前線」という名が示すように、この数年のうちに刊行された論文や著書を中心にして紹介してきました。ただ、年度も変わったので、今後は、かなり前の刊行であっても、「これまであまり知られていない重要な研究」や「聖徳太子虚構説論者たちが触れていない重要論文」などであれば取り上げていくことにします。

 その第一弾は、『日本書紀』への道慈の関与を否定した11年前の論文、

直林不退「『日本書紀』と戒律」
(山田明爾編『山田明爾教授還暦記念論文集 世界文化と仏教』、同朋社、2000年)

です。

 大山誠一氏と吉田一彦氏の聖徳太子虚構説にあっては、道慈の『日本書紀』関与という仮説が議論の大前提となっています。確かに、『書紀』の仏教伝来記事については、井上薫氏の道慈筆録説が史学界ではかなり有力でした。井上氏は、仏教伝来記事は、『書紀』の完成(720年)の直前である703年に義浄が長安の西明寺で漢訳した『金光明最勝王経』の表現を用いているため、その長安の西明寺で学んで718年に帰国した道慈が『金光明最勝王経』をもたらしてそれで潤色したのであり、道慈は仏教を儒教の上に置いたうえで国家のための仏教整備に努めた人物であって、『書紀』の仏教関連記事にも関係したと説いていました。

 それを拡張し、道慈は仏教伝来記事だけでなく、大幅に関与しており、不比等と長屋王の意向を受けて聖徳太子という理想的人物の捏造も行ったとするのが、大山・吉田説です(大山氏は、最近は、以前と違って道慈が書いたという点を強調せず、道慈は指示する役割だったといった言い方をすることもありますが)。

 しかし、決定的な証拠はありません。また、『最勝王経』は道慈以前にもたらされた可能性があると説く研究者も複数いますし、井上氏の説く道慈像に反対する論文を発表した研究者もこれまで何人もいます。今回の直林氏の場合は、戒律関連の記事から見て、『書紀』の仏教関連記事を書いた人物は、道慈とは考えられないとするものです。

 まず、氏は、善信尼は11歳で還俗僧ただ一人を師主として得度しているうえ、彼女たちの百済での修学期間が短すぎるなど、戒律に合致しない点が多いことを指摘し、これに対して後代の『元興寺縁起』や凝然の『律宗綱要』では、律に合致した形に近づけようとして伝承を改変した形跡があると述べます。また、『続日本紀』の場合は、『書紀』より戒律に関する理解が正確であるとします。つまり、『書紀』の仏教関連記事の筆録者は、律の観点から見た不備には注意しないまま仏教受容の過程を描いているというのです。

 この他にも、『書紀』の戒律関連の記述には問題が多いため、氏は次の三点を指摘します。

一、現行の戒律制度に対する批判的視点が欠けており、戒律が順調に受容されていったように描く。
二、戒律理解の水準が低い
三、道宣の『四分律行事鈔』や義浄の根本有部律との関わりがない

 ところが、道慈は、世俗の権力に対して出家の立場を強く主張して戒律厳守運動を展開した道宣(596-667)と義浄(635-713)が住した西明寺で学んでいます。しかも、帰国後に書かれた道慈の『愚志』は、その抄文によれば、中国仏教とは異なる日本の出家や在家信者の法に外れたあり方を強い調子で批判したものでした。

 そうした人物、しかも、長屋王邸での詩宴に招待された際、出家と在家の違いを強調して固辞した人物が、『書紀』のような記述をするか疑わしい、と氏は説きます。氏はさらに、道慈が最新の義浄訳『金光明最勝王経』を持ち帰って『書紀』で盛んに用いて潤色したというなら、『最勝王経』と同じ時期に同じ義浄によって訳された律典、『根本説一切有部毘奈耶』を『書紀』が全く使っていない理由を説明する必要があるだろうとも述べています。

 氏の主張には、やや理念的すぎる面も見られますが、提示された疑問の多くは妥当なものであり、これらの点が解明されないまま、道慈を『書紀』の仏教関連記事の筆録者とすることはできません。まして、道慈が厩戸皇子をモデルとして聖徳太子という架空人物を捏造したとするには、確実な証拠と論証が必要であり、大山氏や吉田氏たちのこれまでの議論では不十分です。

聖徳太子の自筆の交換日記出現か(4月1日限定:特別記事)

2011年04月01日 | その他

 朝早く書斎を片付けていたら、椅子がぶつかって壁が剥がれ、そこから推古朝頃かと思われる古い巻物が出てきました。巻頭に「日記」と記され、その下に「此是聖徳太子詩集非会議本(此は是れ聖徳太子の詩集にして会議の本に非ず)」と記されていました。本文とは少し字体が違うようです。

 その本文を読んでみたところ、詩の形を用いた男女のやりとりであって、「聖徳」という男性と、「太子」という愛称で呼ばれている「多至波奈太郎女」という女性の交換日記でした。「多至波奈太女郎」は「たちばなのふといらつめ」、「太子」は「ふとこ」と訓むんでしょう。「ふとこ」さんは、時々、署名の下に朱筆でハートマークを記していました。可愛いですね。

 壁の中から古文書が出てくる例は、中国ではお馴染みであるものの、我が家は古い土蔵が残っている奈良の旧家などではなく、築15年になる千葉の中古マンションです。推古朝頃の文書がコンクリートの壁に塗り込まれているはずはないのですが、これこそが奇跡というものなのでしょう。

 「ふとこ」さんは、聖徳様ご自慢の黒駒に二人で乗って玉虫の羽を集めに行ったのが楽しい思い出だと記しており、また、四天王寺の門前の屋台で食べた「菟道貝鮹炒」は、ソースがおいしかったものの、青海苔が歯について笑われたのが恥ずかしい、と書いています。「たこ焼き海鮮版」みたいなものでしょうか。

 なお、聖徳さんはクリスマスの日に厩で生まれたのに、小さい頃は乗馬の練習が嫌いで、いつも「馬、やだよー!」と泣いていたため、「馬やだ王」と呼ばれていたそうです。

 このほか興味深い記述満載でした。今日は忙しいため、後日、詳しくご紹介したいのですが、空気に触れたためか、急激に風化が進んで黒ずみつつありますので、この交換日記が読めるのは、つまり賞味期限は今日のうちだけかもしれません。

 *なお、この記事は4月1日(エイプリルフール)限定の記事であることを申し添えます。

【2020年9月10日:追記】
「此是聖徳太子詩集非会議本」というのは、『法華義疏』冒頭の「此是上宮王私集非海彼本(此れは是れ上宮王の私集にして海彼の本に非ず=これは上宮王が個人的に編纂されたものであり、海外の種本ではない)」という文をもじったものです。