聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

法隆寺再建説でも非再建説でもない自説を92歳で補強:鈴木嘉吉「白鳳時代の建物は遺存するのか」

2024年06月08日 | 論文・研究書紹介
 近代日本の美術史・建築史を発展させたのは、100年以上続いた法隆寺の再建・非再建に関する大論争でした。この論争は、昭和14年(1939)12月に始められた法隆寺西院伽藍の南東部の発掘調査により、聖徳太子が創建した法隆寺=斑鳩寺(若草伽藍)は焼失したこと、それとほぼ同規模である現在の法隆寺西院伽藍は後代の造営であることが確定しました。
 
 ところが、論争はまだ続いています。というのは、西院伽藍が当初の法隆寺ではないことは確定したものの、天智天皇9年(670)に全焼した後に現在の地で建て直したにしては、金堂の様式や本尊である釈迦三尊の様式が古すぎたからです。
 
 むろん、再建に当たっては、建物にしてもそこに安置する仏像にしても、以前の様式を受け継ごうとするでしょうが、それにしても、670年以後、8世紀初め頃までに造営された他の寺院の建物や仏像と比べて古式な点が目立つのです。非再建説が提唱されたのもそのためでした。
 
 そのため、釈迦三尊像については、火事から救出されたとする説(たとえば、こちら)があるほか、現在の金堂の本尊としては小さすぎるため、他の太子関連の寺、ないし、斑鳩宮内にあった仏堂に安置されていた仏像を再建法隆寺の本尊としたのだとする説(たとえば、こちら)などが出されました。
 
 また、金堂についても、九州王朝の寺を解体して斑鳩まで運んできて建てたなどというトンデモ説はさておき、大和の他の地域から移築したとする説も出されました(こちら)。
 
 このように諸説が乱立する中で、東大の建築科出身の建築史研究者であって、奈良文化財研究所に発足時から勤務して長年、奈良の古寺の修理に携わり、最後にはその所長も務めた鈴木嘉吉氏は、昭和61年(1986)に新説として「法隆寺新再建論」を発表しました。
 
 つまり、金堂は若草伽藍の焼失前に、聖徳太子を偲ぶ堂として造営され始めていたのであって、釈迦三尊像は斑鳩宮内の仏堂に安置されていたと主張したのです。
 
 以後、法隆寺については修理にともなって研究がさらに進み、年輪調査による木材の伐採年調査の成果なども出て議論が再び活発になりました。そうした中で、鈴木氏が最後に発表したのが、

鈴木嘉吉「白鳳時代の建物は遺存するのか」
(『仏教芸術』第8号、2022年3月)

であって、鈴木氏はこの年の12月に93歳で亡くなっています。論文が出たのが3月となると、提出はその半年ほど前でしょう。つまり、この論文は生涯をかけた研究の結論となる遺作なのです。

 この論文では、法隆寺再建非再建論争をざっと振り返り、昭和の大修理では、金堂の礎石は他から転用されたものが混じっていること、また修理工事の責任者であった竹島卓一は、まず金堂だけを独立して建て、後になって五重塔などを加えて伽藍を整備することになった結果、全体の地盤を現在の状態まで掘り下げたと指摘したことに注意します。

 そして、自分はこれらの問題を説明できる説として、昭和61年(1986)に「法隆寺新再建論」を発表したと述べます。その論文は、現在の西院伽藍の金堂は、内陣が四方吹き放しの開放的な造りであり、扉が外開きであるのも異例であるうえ、釈迦三尊像などが建物の中心より前寄りに安置されていることなどから見て、金堂は、最初は若草伽藍の西北の小高い場所、つまり現在の場所に建てられた聖徳太子を偲ぶ廟堂だったと説いた、と紹介します。釈迦三尊像は、隣接する斑鳩寺の宮のうちにあったと推定されている仏堂に置かれていたと推測したのです。

 鈴木氏は、これらは状況証拠に基づく議論だったが、平成15~16年におこなった年輪年代調査によって、西院伽藍の造営年代が分かったことにより、上記の推定が「ほぼ確実になった」と述べます。

 というのは、金堂の初重(一階部分)の天井板は、内陣・外陣部分は主に667年・668年に伐採されたものでした。つまり、670年に若草伽藍が焼ける前に準備されていたのであって、火事の時には初重は既に完成していたと見るのです。

 現在の金堂初重の内陣上方で井桁型になっている天井桁の両端には、上の部分を支える柱を据える柱盤が組みめぐらされていますが、そこには別のほぞ穴が残っており、現在の上重の切妻屋根部分をその上に載せると、玉虫厨子のような一重錣葺の屋根が作れると竹島が指摘していると述べ、鈴木氏はそれに賛成します。

 つまり、金堂は初めは単層の廟堂として建てられたのであって、670年段階ではまだ瓦を葺くには至っていなかったと見るのです。寺では、どの場合でも瓦は最後に葺かれ、それまでは木の板で覆われます。

 記録によれば、火災の後、しばらく寺地が定まらず、一部の僧侶や役人が他の寺に移ったとされていますが、鈴木氏は、これを、元の若草伽藍の地に建て直そうとした派と、初重まで造られていた現在の地の廟堂を中心として伽藍を整備しようとした派の対立を示すものと見ます。

 結局、この廟堂を中心にして再整備することに決まり、廟堂の周囲を堀り下げて伽藍の地を造成した結果、廟堂の基壇はそれまでの倍の高さの二重基壇となり、それまで一重だった廟堂の上に、当時の寺院の型式に合わせて二重目を載せて伽藍の中心となる金堂とした、と鈴木氏は推測します。

 そして、若草伽藍では中門、金堂、五重塔は南北に並んでいたものの、再建法隆寺では、最初の勅願寺となった舒明天皇の百済大寺にならい、塔は金堂の西に並べることにし、当時は地上に心礎を据えるのが普通になっていたものの、飛鳥寺や若草伽藍と同様に、地中深くに心礎を据える古い型式で塔を造営したと見ます。

 塔の二重目の西北隅肘木の年輪年代は673年であって、伐採は塔の建立年代に近いと考えられるため、670年代の後半には塔の建立も始まったものの、大化4年(648)以来与えられていた食封300戸が天武8年(679)に停止されたたため、塔の工事は中断されたと見ます。塔の心柱に風触の跡が見られるのはそのためとするのです。

 この工事が再開されたのは、持統7年(693)に法隆寺を含めた諸自院で行わせた仁王会であったと鈴木氏は推測します。『法隆寺伽藍并流記資材帳』ではこの時、持統天皇から紫の(天)盖、経台、帳などが施入されたとしており、これまではこの記事によって、少なくとも金堂はこの時期には再建されていた、と見られていました。

 鈴木氏は、平成16年の天蓋修理の際、中の間と西の間の仏像の上の重厚な金属製の箱形天蓋をつるす金具は当初のものと判定されたものの、東の間に安置された薬師如来像の頭の上に現在は使われていない吊金具、それも軽量のもの用の金具を後から付けてあることが発見されたことに注目します。

 というのは、『資材帳』で持統天皇が施入した天蓋は「紫」と記されているのは、当時流行していた軽い布製の天蓋であったことを示すのであり、それが薬師像の上に設置されたのは、薬師像の光背銘が朝廷から認められたことを示す、と鈴木氏は説きます。

 そして、これをきっかけにして伽藍整備が進み、聖徳太子を敬慕する近隣の者たちの助成もなされたと推定します。中門は大斗の年輪から700年頃から着工されたようです。

 鈴木氏は、薬師像銘については有名であるためか、内容に触れていませんが、この銘は病状が重くなった「池辺大宮治天下天皇(用明天皇)」が、「大王天皇」と「太子」に造寺造像を命じたものの、亡くなったため、「小治田大宮治天下大王天皇(推古天皇)及び東宮聖王」が遺命にしたがって建立した、と述べており、「天皇」の語が見えるため後代の偽作とされてきたものです。

 しかし、竹内理三は、「大王天皇」などと呼んでいるのは律令以前の表現である証拠としていました。今回の鈴木氏の遺作論文により、そのことが立証されることになりましたね。

 むろん、薬師像は釈迦三尊像より後の時期の作ですし、像よりさらに遅れるであろう光背銘の内容は事実ではありませんが、法隆寺を復興させようとした者たちがこれまで推測されていた7世紀後半よりも早い時期、少なくとも律令が制定される前に作成した可能性が高いということになるのです。

 鈴木氏は、ここでは紹介しませんが、法隆寺の次に、白鳳建築ないしそれに近いものとして伊勢神宮と薬師寺東西塔について検討しています。92歳だったのですから、その学問的な努力に頭が下がります。

 なお、鈴木氏については、氏に鍛えられた建築史学者の藤井恵介が、『仏教芸術』第10号(2023年3月)に「鈴木嘉吉先生を偲ぶ」という追悼文を寄せています。