聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

研究成果を学ばず、参考にした文献も表示しない粗雑な思いつき本:井沢元彦『聖徳太子のひみつ』

2022年01月31日 | 聖徳太子をめぐる珍説奇説
 「時空を越えた極上の歴史エンターテインメント!」と謳っているものの、勉強不足で思いつきばかりが目立つ粗雑な聖徳太子本が刊行されました。

井沢元彦『聖徳太子のひみつ』
(ビジネス社、2021年12月)

です。表紙では、題名の横に「「日本教」をつくった」と記されています。

 井沢氏は、研究者の研究を軽んじて空想をくりひろげた梅原猛路線を受け継ぎ、問題の多い歴史本を数多く出していることで有名です。今回の本もその一つですが、そもそも副題のような「「日本教」をつくった」という部分が問題です。

 「日本教」という言葉を書物の題名にして有名にしたのは、イザヤ・ベンダサン著・山本七平訳という形で『日本人とユダヤ人』を、山本氏が社主をつとめる山本書店から1970年に刊行してベストセラーとなり、続く『日本教について』(文藝春秋、1972年)でも大いに話題を呼んだ山本七平氏です。
 
 山本氏は、1977年には『「空気」の研究』(文藝春秋)も刊行しており、日本では方針を決定するのはその場の空気であり、責任者が曖昧だと主張し、多大な影響を与えました。

 井沢氏のこの本は、「日本教」とは「話し合い教」であって日本は「和」を重んじる国であるとし、それを明言した「憲法十七条」を高く評価しています。日本人の特徴は「和」であり、「太子の生きた飛鳥時代には、すでにそれが日本人の特質になっていた」(79頁)と説くのです。つまり、「日本教」という語を創った山本氏が説く「空気」を「話し合い」に変えたように見えます。

 しかし、だったらなぜ、太子の少し前には群臣会議がもめて死者が出る争いが続いていたうえ、太子没後も推古天皇の後継を決める会議で群臣が怒って意見が割れ、争いになって死者が出ているのでしょう? 井沢氏は、『日本書紀』をきちんと読んでいないとしか考えられません。「憲法十七条」で「和」が強調されるのは、和でない状況であったためというのが常識だと思うのですが(こちら)。

 「まえがき」では、外国語と比較しないと自国語の特徴は分からないため、ゲーテは「ひとつの外国語を知らざるものは母国語を知らず」と語ったが、「この教訓をもっとも生かしていないのが……日本の歴史学者です」と述べ、日本の歴史学者ほど「世界史を知らない人間はいません」が、「わたしはそれをやっています」と説き、その大先輩が聖徳太子だと述べています(5~6頁)。

 日中交渉史・日韓交渉史・東西交渉史を含め、歴史学者たちの専門や学風や主張は様々であるのに、それを無視してひとまとめにして否定するのは、井沢氏が歴史学者たちの著書や論文を幅広く読んでいないためのように見えます。

 話し合いが「日本教」だとする自分の図式の元型を作った山本七平氏にもひと言も触れないところを見ると、研究者の最近の研究成果を参照せず、古い説や専門家でない小説家などの推測に基づいて自分の考えだけで書いているのか、それとも、自説に都合の良い部分についてはこっそり利用していながら、否定だけして名をあげない方針なのか。

 ちなみに、井沢氏は指導要領改訂騒ぎの際、聖徳太子の本名は「厩戸皇子」ないし「厩戸王」なので、歴史学者が本名の「厩戸王」で呼ぶのは悪いことではないと述べたうえで、歴史学者の批判をしてますね(こちら)。私の本でも論文でもこのブログでも書いているように、「厩戸王」は古代の文献には見えず、戦後になって想定された名なのですが(こちら)。
 
 歴史小説なら、参考文献をいちいちあげなくても良いわけですが、この本で名前があげられているのは、歴史学者というよりSF作家・歴史小説家であって、聖徳太子はノイローゼであったと説いた『聖徳太子の悲劇』の豊田有恒氏と、かの『隠された十字架』の梅原大先生くらいです(梅原説のトンデモさについては、こちらこちらこちら)。

 あと、「しらぎ(新羅)」という語の由来に関する朴炳植氏の説を紹介してますが、建築業から言語研究に転じた朴炳植氏の説は、言語学の専門家からは素人のトンデモ説とみなされています。井沢氏は、見事なまでにそうした人の説に頼って書いているのですね。

 私は、歴史小説や芸能は史実通りでなくてはいけないとは考えておらず、無頼派作家であった坂口安吾が推測を交えて書いた歴史読み物が大好きです。また、自分自身、『<ものまね>の歴史ー仏教・笑い・芸能ー』を書いたことが示すように、エンターテインメント好きであって、山岸凉子のBL漫画『日出処の天子』も認めていますし、脳みそ夫が飛鳥中学の女子中学生や飛鳥商事のOLという設定で聖徳太子を演じてみせるコント(こちら)などもお気に入りであって、ライブに出かけたくらいです。

 豊田氏については、島根県立大学で日韓シンポジウムを開催した際、同大学の教授だった温和な豊田氏とお会いしてますし、『聖徳太子の悲劇』は真面目な姿勢で書かれた本なので、言いにくいのですが、太子は、父の用明天皇が亡くなった後、母の間人皇后が、夫の用明天皇と他の妃の間にできた子、つまり義理の息子であって太子の異母兄となる田目王と結婚したため、ショックを受けてノイローゼになり、伊予の温泉で長らく湯治して直ったという説は無理ですね。

 温湯碑文は難解なので、様々な解釈が出るのは無理もないのですが、典拠に注意してきちんと読めば、そうした様子はうかがわれません(碑文については、こちらと、こちら)。また豊田氏も、その推測に基づいている井沢氏も、太子に同道したのは高句麗の慧慈だとしてあれこれ論じているものの、訂正される前の原文では「恵忩法師」となっていますので、百済の慧聡とするのが自然ということになります。

 なお、豊田氏が「太子の母親が、異母兄と結婚した」(157頁)と普通に書いているところを、井沢氏は「母が太子の異母兄と密通する」(51頁)という、事実と異なるセンセーショナルな言い方をしています。しかし、当時の皇族における近親結婚の多さについては、近年は研究が進んでいて理由があったことが明らかになっており、このブログでも紹介しました(こちら)。

 聖徳太子は、母后と斑鳩で一緒に住んでおり、母后が太子の異母兄と結婚して生んだ佐富女王を、自分と最愛の妃との間に生まれた長谷王と結婚させています。母后とは仲良くしていたとしか考えられません(太子を含めた当時の皇族の近親結婚の多さについては、12月に浅草寺で講演しました。講演録が8月に刊行される予定です)。

 なお、蘇我馬子が命じて崇峻天皇を暗殺させた東漢直駒は、その後で、馬子の娘である河上娘と通じたという理由で馬子に殺されますが、井沢氏は、豊田氏は河上娘とは聖徳太子の妻であった刀自古郎女だと指摘しているとして「(駒と)不倫関係にあった」という表現で紹介し、「ちなみに、この太子の妻は、東漢直駒が処刑されると、そのあとを追って自殺してしまったといいます」(46頁)と述べています。

 しかし、崇峻天皇が暗殺された時、聖徳太子は18歳であり、『法王帝説』によれば、刀自古郎女は太子の子として山背大兄王・財王・日置王・片岡女王の三男一女を生んでいます。すると、刀自古郎女は十代前半か半ばであった太子と結婚し、毎年のように4人も子供を産んでいながら他の男と不倫関係となり、それがばれて自殺するわけですね。不倫関係が続いていたとすると、駒の子もまじっていることになりますか? 刀自古郎女は、河上娘の妹とする説もありますけど。

 なお、豊田氏の本では、刀自古郎女については記録がないとしたうえで、駒が殺されて「ほどなく死んだと考えるべきだろう。駒の死を知って、自殺したのか、あるいは、駒と心中したのか、たぶん、そんなところだろう」(148頁)と書いています。「あとを追って自殺してしまったといいます」と書く井沢氏の紹介とはかなり違いますね。ほかにも同様な箇所が見られるため、井沢氏は元になった資料を、「エンターテインメント」のためなのか、こうした調子で書き換える癖があるようです。

 井沢氏は、伝説化が進んだ太子伝に基づいて太子自殺説をとり、異常死した人物は「未完成の霊」として復活するとして、大昔に否定された梅原の怨霊説を高く評価します。「未完成の霊」って、何でしょう? 没後すぐに創られた「天寿国繍帳銘」によれば、太子は「天寿国」に往生したとされてますし、後代には怨霊として恐れられるどころか、観音の化身とされ、極楽浄土への導き手とされるようになってますが。 

 また井沢氏は、太子=御霊説を説く際、聖徳太子一族は根絶やしにされたことをその理由の一つとするのですが、滅ぼされたのは、太子の大勢いる息子・娘たちのうち、山背大兄とその家族だけです。後の伝記になればなるほど、話が大げさになって殺されたという人数がどんどん増えていき、一族が皆殺しになったように説かれるのです。太子没後50年ほどになって再建された法隆寺に金銅の潅頂幡を施入した「片岡御祖命」は、山背大兄の妹である片岡女王だとするのが通説です。

太子の十七条憲法で説かれている「和」の精神にしても、これはは「仏教」由来でなく、「日本教」とも言うべき日本独特の伝統的でユニークな考え方であるということを私は解き明かしました。(176頁)

と誇っているということは、博学な井沢氏は仏教にも通じていて、仏教では「和」を説かないと断言できるんですね?

 仏法僧の三宝のうち、僧宝たる僧伽(僧団)は「和合」を特質とする、というのがインド以来の伝統解釈であり、釈尊が亡くなって以後の僧伽では、物事は話し合いで決定し、まとまらない場合は投票して決めたんですよ。日本でも、僧兵たちは、他の寺を焼き討ちしようなどという場合を含め、物事は平等な話し合いで決めてますけど。

 仏教の思想そのものではないと説くなら良いですが(私もそう思います)、仏教由来ではない、影響も無かったと説くためには、仏教をかなり知っていないと無理でしょう。この本を読むかぎり、インド・中国・韓国の仏教について具体的な説明がなく、かなりの知識があるようにはまったく見えません。

 話し合いが重要だったことは確かですが、推古朝前後の合議については研究が進められていますので、それらを参考にすべきでしたね。このブログでも、推古朝前後の合議と新羅の全員一致の豪族会議「和白」との類似に着目した鈴木明子氏の論文を紹介したばかりです(こちら)。

 一番の問題は、出版社側の責任とはいえ、冒頭で触れたように、表紙の裏に「極上の歴史エンターテインメント!」とあるものの、実際には明らかな誤りと思いつきが続くばかりで、楽しめないことでしょうか。梅原の『隠された十字架』は、トンデモ本ながら、一般読者の興味をひきつけるおどろおどろしい書きぶりになっていたため、ベストセラーになったのですが。

 あるいは書いた当人は、歴史の真実を「解き明かしました」と主張しているものの、出版社側は「極上の歴史エンターテインメント」と称してこの作を宣伝しつつ、「学術的な研究書ではないんですよ。間違いが多いとか指摘されても困ります」と予防線を張っているのか。

 ちなみに、安吾の歴史物は、今日の研究成果から見ると正しくない部分も散見されますが、文体が生き生きとしていて素晴らしいうえ、するどい洞察があちこちに見えており、まさに「極上の歴史エンターテインメント」です。

【付記】
朝方、公開した記事に多少の訂正と補足を加えました。
 なお、井沢氏は、推古天皇は「腹を痛めた息子」である竹田皇子の天皇後継のライバルとなるため、太子を初めは排除しようとしたものの、竹田皇子が死んでしまうと、「ほかに子どもはいません」ので身内で最も優秀な甥の太子を登用したと述べています(124頁)。しかし、実際には、太子の叔母であり義理の母である推古天皇には尾張皇子という末の息子がおり、その娘である橘大郎女を、後に太子と結婚させていることを、氏は忘れているのではないでしょうか。こうした間違いは他にもたくさんあります。
 たとえば、井沢氏は、歴代天皇で「徳」という字を含む諡号は「不幸な生涯を送り無念の死を遂げた人に贈るものだ」という常識があったとし、「聖徳太子」という号もその一例だとして怨霊説につなげるのですが、聖君とされる仁徳天皇については説明に困っています。そこで、仁徳天皇の頃は「徳を持つ」という意味でこの字を使っていたが、「聖徳太子以降、日本人は……むしろ怨霊鎮魂に使ったのではないでしょうか」と珍説を唱えています(202頁)。仁徳天皇の時代には漢字諡号はなく、数人を除くほとんどの天皇の漢字諡号は、奈良時代半ばすぎに文人の淡海三船がつけたとされていることを忘れているのではないでしょうか。また、現存文献で見る限り、聖徳太子という呼称を最初に使ったのは、その三船のようであり、三船は、太子を南岳慧思の生まれ変わりとして礼賛する文脈で聖徳太子と呼んでいることにも注意してもらいたいところです(こちら)。

【付記:2022年2月1日】
文章を少し訂正しました。論旨に変化はありません。
 本文で、井沢氏は仏教をよく知らないと書きました。それどころか三経義疏をきちんと読んでおらず、三経義疏について意見を述べることができるほど諸論文も読んでいないことは、「当時最新の仏教書であった中国・南北朝時代の書物にも見劣りしないクオリティを持っています」(60頁)と書いていることからも知られます。「当時最新」というなら、同時代の隋の仏教文献でしょう。『法華義疏』が「本義」、つまり種本としたのは、中国で最も仏教信仰が篤く、経典の講義や注釈で知られる梁の武帝の時代の三大法師の一人である光宅寺法雲(467-529)の『法華義記』であり、『勝鬘経義疏』の「本義」はおそらく三大法師の荘厳寺僧旻(-510-)の注釈であって、隋の仏教者からは古くさい不十分な解釈とされて批判されていたものです。「当時の倭国にとって最新だった、という意味だ」と弁解されるかもしれませんが、太子の仏教の師となった慧聡や慧慈の母国である百済や高句麗では、その頃には既に梁の仏教より新しい三論教学や唯識教学などが伝わり始めていました。三経義疏が「本義」として梁武帝時代の代表的な注釈を選んだのは、それなりの理由があると考えるべきでしょう。
 「クオリティを持っていると言われています」なら、まだ良いですが、井沢氏は実際に中国の南北朝の注釈類を読んで三経義疏と比較したかのように、「持っています」と書いていますね。しかし、太子は仏教を興隆した立役者です。その太子について論じるには仏教について触れざるを得ないはずですし、原文で読むのは無理としても、せめて訓読版でも良いですから三経義疏を読んでいれば、この部分は「憲法十七条」と共通しているなどと指摘することができたでしょう。実際、そうした指摘をしている論文は玉石混交ながらいくつも出ていますが、そのような指摘もまったくなされていません。つまり、仏教を良く知らず、関連論文も読まず、それどころか肝心な三経義疏すら読まないまま、太子の「和」は仏教由来でないと論じているわけです。
 本書で名前があげられているのは、豊田有恒・梅原猛・朴炳植氏などくらいと書きましたが、「憲法十七条」の訳については、中村元先生の訳(『日本の名著 聖徳太子』)を使っていました。井沢氏は、「憲法十七条」の「和」は仏教に基づくとして、インドのアショカ王やチベットのソンツェンガンポ王などの法令と比較して国際的な広い視点で論じている中村先生の説には触れていないのですから、そんな取り上げる価値もない説を出している中村先生の訳など使わず、自分で適切な訳を示せば良いと思うのですが。
 井沢氏は「憲法十七条」の「和」は日本独自の宗教である「話し合い教」に基づくとしているものの、「和」は漢語であって、その出典は中国の古典です。井沢氏は、具体的な仏教文献だけでなく、そうした中国の古典にも触れていません。世界史に通じていると自認し、外国と比較しないと自国のことは分からないと説く博学な井沢氏のことなのですから、「憲法十七条」の「和」は、典拠となった中国の複数の古典の用例とどこが違うのか、わかりやすく説明していたら、説得力が増したと思うのですが、なぜやらないのか。言行不一致なのか、できないのか。

【追記:2022年2月2日】
 ゲーテの言葉の部分を追加するなど、少し変更しました。エンターテインメントとして「楽しめない」というのは、聖徳太子のことを研究しており、またアジア諸国の古典文学や芸能にも関心があって論文を書き、エンターテインメントが好きで「日本笑い史年表」(『早稲田学報』1244号、2020年12月)をまとめたり、「笑い」と「お笑い」の違いについてその歴史を書いたりしている(こちら)私個人の感想です。古代史を知らず、史実と異なる「母が太子の異母兄と密通する」といった井沢氏流の表現を好む読者は、「目からウロコだった。おもしろい」と思うかもしれませんので。
 なお、「憲法十七条」には2箇所、不自然な箇所があります。これまでは典拠の解明が不十分であって、私自身を含め、その部分を説明できていませんでした。井沢氏もその不自然さに気づいておらず、指摘していませんが、在家の仏教信者向けの大乗戒経の漢訳と「楽(がく)」に関する中国の文献が典拠だと発見できたおかげで、謎が解けました(第一条は、こちら。第二条は、前回の記事である こちら)。
 このように、古代の漢文を読む際は典拠を確認することが大事なのです。井沢氏は第一条の「上和下睦」を「上下の区別なく」と受け止め、「人は皆な平等だ」と述べているとしています(71頁)が、これは誤読です。典拠となった『千字文』では「上和下睦、夫唱婦随」であって平等主義ではないですし、中村元訳もそんな風になっていません。「憲法十七条」は「礼」を強調しており、身分の上下のあり方を守るよう説きつつ、そのうえで「なごやかに話し合え」と命じているだけです。「憲法十七条」は、凡人であって嫉妬しがちな群臣たちと、国の方針を示しうる「賢聖」とを区別していることは、第十四条が説いている通りです(ちなみに、第十四条の嫉妬禁止は、大乗戒経の『優婆塞戒経』に基づきます)。井沢氏は、典拠の意義を理解していませんし、他にも誤解が目につきますが、きりがないので、ここらでやめておきます。
【追記:2022年2月6日】
 ここらでやめるはずでしたが、上記の記事を読み直していて気になる箇所がありました。井沢氏は「日本を代表する仏教学者である故中村元氏の訳文を見てみましょう。(『日本の名著 聖徳太子』中央公論社)」(68頁)と記しており、珍しく書名や出版社を記していましたが、この本を引っ張り出してみたところ、中村先生は「責任編集」であって冒頭に「聖徳太子と奈良仏教」と題する概説を書いており、「憲法十七条」の現代語訳は「中村元・瀧藤尊教訳」となってました。瀧藤氏は、中村先生の東大印哲の後輩で後に四天王寺管長となった人です。「中村・瀧藤訳」としない井沢氏の書き方は、事実を歪め、「日本を代表する」有名な仏教学者の権威を利用したものですね。この第一条の口語訳は「諧於~」の部分が訳されていないので、いずれ記事でとりあげましょう。
【追記:2022年2月8日】
本文では、豊田氏の『聖徳太子の悲劇』では「結婚」と記しているところを、井沢氏が「太子の異母兄との密通」といったセンセーショナルな書き方をしていると記したのですが、聖徳太子だけを扱っている同書ではなく、古代史ミステリーを12並べ、その6で聖徳太子をとりあげている豊田氏の『聖徳太子はなぜ天皇になれなかったのか』(PHP研究所、1994年)には、「太子の実母と異母兄の密通」(106頁)と記してありました。井沢氏は『聖徳太子のひみつ』では、豊田氏の説に基づくと何度か書いているものの書名をあげていませんが、実際には多くの箇所で豊田氏の推測と文をそのまま使っていることが分かりました。『逆説の日本史』の聖徳太子やその近辺の記述も同様ですね。一般読者はだまされて、「井沢先生の独創であって、目からウロコ」と感心するのでしょうが。
【追記:2022年2月12日】
「未完成の霊」については、『逆説の古代史2』の聖徳太子の部分を読んだら、変死者の「未完成の霊」について論じた民俗学の谷川健一氏の文章を引いてました。これですね。しかし、民俗学の説、それも折口信夫系の説をそのまま古代に適用するには注意が必要ですので、その部分の本文を少し補足しました。

【追記:2022年2月20日】
あまりにもひどいので、元となった『逆説の日本史2』を読んでみたら、こちらもすさまじい間違いの連続でしたので、3回に分けて、この「珍説・奇説コーナー」で批判しておきました(こちら)。

【追記:2022年2月22日】
 井沢氏が中村元先生の権威を利用して『日本の名著 聖徳太子』の「憲法十七条」の現代語訳を中村元訳としていた件ですが、中村先生は仏教にも通じていたインド哲学者です。大学者ではあるものの、中国思想の専門家ではありません。「憲法十七条」は仏教文献を利用した箇所は少なく、中国の文献に基づいている部分が圧倒的に多いのですから、正確な理解をめざすなら、中国古典の専門家の解釈を参照すべきでしょう。たとえば、和漢比較文学の第一人者であった小島憲之先生は、『日本の名著』の「憲法十七条」の現代語訳が全面否定の表現である第十条の「我必非聖」の「必非」を「かならずしも」と訳していることを「誤訳」と断定しており(小島『万葉以前』「第1章 太子聖徳の文藻」(岩波書店、1986年、47頁)、このことは研究者の間ではかなり知られています。この部分の解釈は、「憲法十七条」全体のイメージ、また聖徳太子のイメージに関わる重要な問題です。ちなみに、井沢氏が日本の歴史学者の三大欠陥とするものの一つは、「権威主義」でした。

【重要】「憲法十七条」の「和」の背景となったのは『史記』の「楽書」だった:「仏教タイムス」紙に連載

2022年01月28日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報

 「憲法十七条」第一条には不自然な箇所があります。第一条では、人は党派を組みがちであり、また対立を離れて物事を見ることができる「達者」は少ないため、「あるいは君父に順わず、また隣里に違(たが)う」と述べたうえで、「上和下睦」してなごやかに話し合えばうまくいくと述べています。

 しかし、君主と臣下、父親と子供なら上下の対立ですので、「上和下睦」しておだやかに話しあえばまとまるかもしれませんが、「隣里と違う」、つまり近隣との仲違いというのは、横の対立です。

 この点については、これまで検討されてきていませんが、こうした不自然な表現になったのは、典拠となった文献を強引に要約したためです。その典拠を指摘して説明した拙文、「 「憲法十七条」の「和」の典拠を発見(上)」が「仏教タイムス」紙の1月27日版に掲載されました。

 その典拠とは、司馬遷『史記』のうち、音楽の働きについて儒教の立場で解説した「楽書」です。「楽書」では、君主の先祖を祀る廟において「上下」がともに音楽を聞くと「和敬」しないことがなく、「族長鄉」、つまり大きさの異なる集落・村落において「長幼」がともに音楽を聞くと「和」しないことがなく、家庭において「子兄弟」がともに音楽を聞くと、「和親」しないことがないと説いています。

 「礼」は上下関係を律する行動規範ですが、これを強調すると、どうしても上下の緊張・対立が高まりますので、それを上下の異なる音が調和して美しい和音(ハーモニー)を生む「楽」によって和らげることが必要になります。ですから、儒教の教育は、「礼」と「楽」が柱となっているのです。

 ただ、当時の倭国ではそうした教育はなされておらず、また伝統的に「和音」にはなじみがないため、「楽」に触れずにこの「楽書」の部分を無理にまとめ、「長幼」という点を省いて逆の状況の対句にすると、人は「君父わず、隣に違」いがちだが「睦すればうまくいく」という第一条ができあがることになります。
  
 また、第一条が説く「以和為貴」は「和」、第二条が説く「篤敬三宝」は「敬」であって、合わせれば、まさに「君臣上下」の「和敬」であって当時の倭国の朝廷が最も必要とするものですし、「和敬」は仏教が和合をもたらすものとして尊重する「六和敬」とも重なります。

 「憲法十七条」の「和」は『論語』が「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」と説くような「和」ではなく(こちら)、むしろ儒教が戒める「同」であって、和合のために相手に「同」ずる六和敬に近いですね。

 第一条冒頭の「以和為貴」については、文言は『礼記』「楽記」の「礼之以和為貴」に基づくとされ、内容は『論語』の「礼之用和為貴」に近いなどと言われています。しかし、この句を用いたのは、冒頭に有名な四字句を持ってきて権威づけるためでしょう。『礼記』の用例は、「楽」について述べた箇所ですし。

 第一条全体を支えているのは、上記の『史記』「楽書」、そして似たような内容を説いて「上和下睦」の句の元となった『孝経』であって、「憲法十七条」はそれらの儒教の立場を無視した使い方をしており、実質は仏教が支えているという構図です。

 これで、「憲法十七条」第一条の不自然な表現の理由もわかりましたし、「憲法十七条」全体の意図も見えてきました。三経義疏はいずれも冒頭の大事な箇所で、「楽」の効用について述べた『孝経』の文を利用していながら「楽」に触れておらず、その点は「憲法十七条」と共通しています。

 「憲法十七条」は、天皇という称号とその権威を確定した律令以前、神話によって天皇を権威づけしようとした天武朝以前の作であること、そして『勝鬘経義疏』を書いたのと同じ人が書いたことは間違いありません(こちら)。天武天皇は、全国から「楽人」を集め、「楽」を重視しようとしてましたが。

 いやあ、典拠を明らかにすることは大事ですね。「仏教タイムス」は週刊ですので、(下)は来週の2月3日版に掲載されますが、そちらでは、「憲法十七条」が重視している仏教を尊重するよう命じた「篤敬三宝」が第二条、君主への服従を説く「承詔必謹」が第三条に配され、第一条が「和」の強調となっている理由について説明しています。
【付記】
現在の『史記』「楽書」は、後に補われたものですが、その内容は、『荀子』「楽論」とほぼ重なります。いずれにしても、「憲法十七条」の作者は、類書で見たか、または、隋の劉炫『孝経述義』が問題部分を引用していますので、専攻する南朝の『孝経』の注釈のうち「楽」の部分などに引用された形で見ていたと思われます。
「2月27日版」と誤記してあった部分を「1月27日版」に訂正しました。

【追記:2022年6月25日】

大発見のように書いてしまいましたが、『史記』楽書ではなく、楽書が基づいた根本の『礼記』楽記ですね。お恥ずかしい。7月9日の聖徳太子太子シンポジウムで訂正します。


『上宮記』は天皇たらんとした山背大兄が聖徳太子の権威を後ろ盾にするために編纂:関根淳『六国史以前』

2022年01月26日 | 論文・研究書紹介
 これまで、聖徳太子関連の文献についていろいろ書いてきましたが、脱けていたなと気づいたのが、『上宮記』でした。名前が示すように、上宮王家の記録ですが現存せず、ごく一部が引用の形で残っているだけです。

 『日本書紀』に至るまでの歴史記録類を検討し、この『上宮記』についても詳細に論じている最近の研究が、

関根淳『六国史以前ー日本書紀への道のり』
(吉川弘文館、2020年)

です。関根氏については、以前、天皇号に関する論文を紹介したことがあります(こちら)。『六国史以前』は、刊行された直後に紹介しようと思いながら、そのままになっていました。

 さて、『日本書紀』推古28年(620)是歳条では、「皇太子・嶋大臣、共に議(はか)りて、天皇記及び国記、臣連伴造国造百八十部并公民等の本紀を録す」という有名な記事があり、皇極4年(645)六月己酉条では、蘇我蝦夷が殺される際、「悉く天皇記・国記・珍宝を焼」いたものの、船史恵尺が焼かれる「国記」を取り出して中大兄に献上したとされています。

 いずれも問題の多くて議論になっている記事ですが、関根氏は、天皇記と国記は、従来の帝紀と氏族系譜を時代に合わせてバージョンアップさせたものと見ます。そして、蘇我邸にあったとはいえ、書き方から見て「天皇記」は完成していたようであるうえ、一本だけが作成されるはずがなく、朝廷に原本ないし副本があったと推測します。

 そして、新羅への出兵にあたっては各地の国造が差配した以上、徴兵を可能にするために氏族の系譜の台帳として国記が作成されていたと説きます。

 いずれにしても、帝紀・旧辞、天皇記・国記は現存しないのですが、同様に、聖徳太子が作ったという伝承も残る『上宮記』も現存しておらず、成立については、七世紀前半から平安前紀まで様々な説があるうえ、『日本書紀』講書のなかから生まれた偽書とする説もあります。

 関根氏は、鎌倉時代の『釈日本紀』に「上宮記、一云~」の形で記される系譜における父方・母方の記述のしかたから見て、『上宮記』は王統を記した帝紀であり、「一云」の資料の段階では「王」「大王」「大公主」など呼称がばらばらであることから、この時期には天皇号は確立していなかったと推測します。

 『聖徳太子平氏雑勘文』が引く『上宮記』下巻三では、太子の子たちの名が列記されており、関根氏はこれを「注」の部分と見て説明しています。その説明のうち、「法大王」について、「仏教を信仰した偉大な王」と説明しているのは不適切ですね。拙論(こちら)で述べたように、「講経に巧みなことで有名な皇子」という意味でしょう。そこに、「法王」としての釈尊のイメージも重ねてある、といった程度ですね。
 
 関根氏は、この部分で山背大兄だけが「尻大王」と呼ばれ、太子と山背大兄だけが「大王」と呼ばれていることに注意し、両者を軸とする上宮王家を称揚する意図が見られるとします。

 そして、いろいろな文献の前後関係を検討したうえで、天皇になりたくて盛んに動いた山背大兄と、そちらに王統が移ってしまうと影響力が弱まることを懸念した蘇我蝦夷の対立に触れ、『上宮記』は、山背大兄が自らの権威づけのために聖徳太子を賞賛した史書を作成させたものとし、その注は、太子信仰を生み出していっていた法隆寺の僧侶が書いたものと推定します。

 つまり、『上宮記』は、蘇我氏との関係を強調して作成された天皇記を、太子を柱とする系譜に改作したものであって、上宮王家が滅亡した後も伝えられ、後に聖徳太子伝として展開する元となったとするのです。

 『日本書紀』の厩戸皇子関連の記事は、呼称がばらばらであり、また伝記を利用した可能性も指摘されていますが、『上宮記』は、上記のような関根氏の推測から見ると、さらに詳細に比較検討する価値がありますね。 

倭国では「王」も「大王」も「皇」も「大皇」もオオキミ:冨谷至「天皇号の成立」

2022年01月23日 | 論文・研究書紹介
 前回の続きです。

冨谷至『漢委奴国王から日本国天皇へ』「第八章 天皇号の成立」
(臨川書店、2018年)

 冨谷氏は、「天皇」の語が見える法隆寺金堂薬師如来光背銘については、670年の若草伽藍焼失後になって追刻されたとする説に賛成しつつも、表記が「治天下天皇」「大王天皇」「治天下大王天皇」とあって統一されていないため、「確立した称号表記になっていなかった」と推測します。

 この銘が律令制以前のものであることは竹内理三氏が早くに指摘したことですが、問題は、こうした過渡期の用例がいつ頃生まれたかですね。これらのおかしな表記については、後代の偽作だとする証拠とされることが多かったのですが、律令制で天皇の称号が確定した後になって、このような奇妙な表記を用いて偽作することは考えにくいです。

 冨谷氏は、最近は、「天皇」の語は天武朝初期には用いられていたとする説が有力になっているとしたうえで、光背銘が追刻されたのは若草伽藍焼失後だとしても、「大王天皇」という呼び方はその前からあったと考えることも可能とします。

 ただ、冨谷氏は、天寿国繍帳銘については不明な点が多いため、天皇号登場の資料として用いることはできないとし、船王後墓誌についても、天武朝末年以前頃の追葬時のものとする説に賛成します。

 論争が重ねられてきた野中寺金銅弥勒菩薩台座銘のうち、「詣中宮天皇」の部分については、漢代の行政文書には「詣官」という表現が頻出するため、「中宮天皇」と呼んでいるのではなく、「中宮に詣る。天皇~」と切って読むべきだとします。

 そして、像自体は早くに造られていたとしても、銘は「皇后」や「皇太后」の称号が定められ、その機関である「中宮」成立するのは、飛鳥浄御原令からと考えられるため、銘はそれ以後と見られると論じます。

 「天皇」の前に「天王」が使われていた可能性があるとする説については、冨谷氏は否定し、元の称号は「大王」であって、『日本書紀』はそれを「天皇」と書き換えたとしたうえで、「王」や「皇」の「和訓に注目します。

 つまり、倭国では首長は「オオキミ」と呼ばれており、これを漢字表記する際、「王」や「大王」という文字を使っていたのであって、『万葉集』頃には「皇」「大皇」も「オオキミ」にあたる語として用いられているという点です。

 倭国では、中国の南朝に朝貢して皇帝から「倭王」の称号を与えられていた五王時代と違い、「王」号を忌避するようになりますが、その際、「王」も「大王」も「皇」も「大皇」も「オオキミ」の漢字表現として使われていたことが、「大王」が「天皇」へと移る際の潤滑油になったとするのです。

 その結果、7世紀の倭国では、自分たちも「皇帝」が君臨する中国のように諸国を支配下に置いている大国なのだという自覚に基づいて「天皇」の語が造られ、新たに「スメラミコト」という訓をあてたうえで、中国とのやりとりに際しては、「皇」の字を使うことを避け、「スメラミコト」の漢字音写である「主明楽美御徳」を用いるようになったとするのです。

 ただ、「スメラミコト」という呼称の由来については定説がないとするのみで、独自の説は示されておらず、仏教的世界観に基づくとする森田悌氏の主張にも触れていません。また、「天皇」という漢字表記と「すめらみこと」という和訓が同時に作成されたかどうかは明確に示されていません。

 結論として「確実にいえること」として、天武朝には天皇号が登場しており、皇后の語も大宝令に先立つ飛鳥浄御原令に存在していたが、推古朝・天智朝に既に登場していたことを示す資料はない、と述べています。

 さて、どうでしょう。倭国は隋に対して仏教外交をしようとしていたのですから、森田説の是非はともかく、「天皇」という号について仏教の面から考察することはあっても良いと思うのですが。

 「天王」や天皇号については、近年では三浦啓伯氏が精力的に書いていますので、近いうちにそれを紹介することにします。三浦氏も仏教には触れてませんが。

煬帝は「海西菩薩天子」と言われて不快だった?:冨谷至「日出る国の天子」

2022年01月20日 | 論文・研究書紹介

 倭国が隋の皇帝を「海西菩薩天子」と称したのは、こちらも仏教再興に努める海東の菩薩天子ですよという自覚に基づくものであり、その自覚は、大乗仏教の信者をすべて「菩薩」と呼んで心構えを説き、「在家菩薩」が国王となった場合になすべき訓戒も説いていた『優婆塞戒経』に基づくことは、論文として発表し、このブログでも紹介しました(こちらや、こちら)。

 その論文が刊行される3年前に刊行されたものですが、「海西菩薩天子」について論じた章を含む本が出ています。

冨谷至『漢倭奴国王から日本国天皇へ』
(臨川書店、2018年)

です。中国法制史の研究者である冨谷氏は、「第七章 日出る国の天子ー遣隋使の時代」「第八章 天皇号の成立」で聖徳太子に関わる問題を論じていますので、この記事では、第七章について紹介し、次回で第八章をとりあげます。

 面白いのは、各章の冒頭では、その章でとりあげる問題について、2社の高校の歴史教科書の記述を載せてあり、現在はどう教えられているかを示していることです。

 さて、開皇20年(600)の遣隋使については諸説様々であり、国書に触れられていないということで正式な使者ではないとする説もありますが、冨谷氏は、『隋書』では倭王が「使いを遣わして闕に至らしむ」としている以上、正式の使者と見るべきだとします。

 そして、次回の遣隋使の使者が、「海西の菩薩天子」が仏教を盛んにしていると聞いたと言上し、「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す」で始まる国書を呈したため、煬帝は「之を見て悦ばず」と記されていますが、この点について、冨谷氏は「煬帝に聞いてみなければわからない」としたうえで、『日本書紀』に載っている煬帝の返書に着目します。

 「皇帝、倭皇に問う」で始まる返書では、「知るに、皇は海表に介居し~」と述べています。「倭皇」は「倭王」、「皇は」は「王」が本来の表記だったろうという通説に冨谷氏は賛成し、「知るに~」というのは、六朝・隋の書簡で用いられる、来書の内容を反復確認する常套表現であって、特に上位の者が下位の者に対する返事で使い、下位の場合は「承るに~」とすると指摘します。

 そして、煬帝が怒ったのは、隋を「日没処」と呼んだことより、「日出処天子」として「天子」の語を用いたことだとします。隋の文帝の娘を妃としていた突厥の可汗(王)であった沙鉢略が、「天の生みし大突厥天下賢聖天子……書を大隋皇帝に致す」として「致書」の形で送った国書に対し、文帝は「大隋天子、書を大突厥~沙鉢略可汗に貽(おく)る」と返事しており、突厥には「天子」の号を認めておらず、同等の「書を致す」でなく、下位に対する「書を貽る(貽書)」の表現を用いていることに注意します。

 突厥は中国から見れば蛮夷ですが、強大であったうえ、文帝の娘を嫁がせているという関係でもあるため、文帝は沙鉢略が突厥の伝統に基づいて「天子」と名乗ったことをとがめてはいませんが、自分側としては「天子」の号は許さないのです。

 冨谷氏はさらに、煬帝を不興にさせた可能性がある表現として、「海西菩薩天子」という表現に注意します。というのは、これだと皇帝は菩薩ということになり、実際に梁武帝以来、南朝では「皇帝菩薩」の語が用いられたものの、北朝では「皇帝=如来」とすることがしばしばあったからです。隋は北朝の系統であって南北統一したのだから、煬帝は「菩薩天子」では不満だったのではないか、と推測するのです。

 また、煬帝が仏教を保護するだけでなく、統制もおこなっていたことに注目します。しかし、煬帝は、梁武帝以来の伝統を守り、自ら「菩薩戒弟子皇帝」と称しているため、この推測は当たらないでしょう。

 冨谷氏は、倭国は状況をあまり把握しておらず、その言辞は「誤解を与える箇所が少なくなく、あまりに不用意、脇の甘い表現が多いことは、否めない」と評します。中国との国交が断たれていた期間が長く、国交再開にあたって自ら「王」と名乗って臣属しようとしてはいなかったものの、「ことさら上下関係からの脱却と対等の確立を意識した」のではないだろうと推測するのです。私の考えもこれに近いですね。

【追記】
冨谷氏があげていた『魏書』「釈老志」では、北魏の皇帝自身が「自分は如来だ」と言っているわけではないと書いたのですが、北周の廃仏の場合は、武帝は帝王こそが如来で王公は菩薩だと称して教団仏教の権威を否定していますので、その部分は削除しました。ただ、煬帝は仏教を復興させる一方、税金逃れなどが目立つ仏教界に統制を加えたことは事実ですが、基本的には梁の武帝以来の伝統に順っており、北周の武帝を思わせる言動はしていません。

【追記:2023年1月19日】
冒頭の文章の一部が抜けていたのを訂正しました。


蘇我馬子の仏教理解は仏を神と同一視する程度のものだったか:中野聡「蘇我馬子の仏教信仰と飛鳥大仏」

2022年01月17日 | 論文・研究書紹介
 仏教伝来期については、仏教理解の程度は低いものとされてきました。欽明天皇13年に、百済の聖明王が仏像を送ってきたところ、欽明天皇がその様子がきらきらしていることに驚いて祀るべきかどうか群臣に尋ね、物部大連尾輿と中臣連鎌子が「蕃神を拝す」べきでないと反対したとする『日本書紀』の記述が影響を与えているのでしょう。

 また、この部分は、703年に訳された『金光明最勝王経』の文言によって潤色されているため、疑いがさらに増しています。

 しかし、伝来期の蘇我稲目の頃ならともかく、壮大な飛鳥寺を建立する馬子の頃の仏教理解は進んでいたはずです。馬子の仏教信仰を伝統的な祖先信仰、呪術的なものとみなすことが果たして正しいのか。この問題に取り組んだのが、

中野聡「蘇我馬子の仏教信仰と飛鳥大仏ー仏教彫像の機能からみた飛鳥時代初期の信仰ー」
(『仏教史研究』第59号、2021年3月)

です。

 中野氏は、飛鳥寺の本尊である丈六仏を、願主である馬子がいかなる宗教的機能を期待して造立したか、という観点で論じ始めます。

 飛鳥寺については、まず仏舎利を祀る五重塔の造営から始まり、推古元年に塔の心楚に仏舎利を奉納してから間もない推古4年に、早くも塔が完成したこと、また塔の回りに三金堂を配するという形式から見て、馬子がいかに仏舎利を尊重していたかが知られるとします。

 この心楚からは、古墳祭祀に用いられるのと同様の宝物が出土したため、民族的な信仰そのままと解釈されてきましたが、近年になって百済の王興寺の塔心楚埋納品が発見され、共通性が注目されるようになって見方が変わってきまました。

 つまり、きらきらした金銅の仏像にただ驚くばかりで、寺を古墳と同じようなものとみなした、といった程度の理解でなく、中国南朝の仏教を取り入れた百済の最新の仏教を導入しようとしたと考えるのです。

 中野氏は、①仏教を従来の神祇信仰の枠の中でとらえ、現世での恵みやたたりをもたらす存在と見て祀る段階、②呪術的な舎利信仰を受け入れつつ、現世?利益だけでなく来世の浄土往生をも願う段階、③経典の内容を理解し、講義・注釈をおこなって、大乗仏教に基づくおこないをする段階、に分けます。

 中野氏は、伝来期は①、次の段階を②と見、③に至ったのは当時は聖徳太子のみとし、私の論文を引いて中国の南朝仏教の影響を指摘しています。そして問題の馬子については、②の可能性があったとします。

 というのは、馬子が百済の弥勒の石像を鹿深臣から請い受けて、自発的に自邸の東の仏殿に安置して信奉したうえ、この石像が飛鳥寺の東金堂、あるいは北僧坊に祀られていたという記録から見て、史実と判断します。

 そして、当時の中国では、弥勒信仰は無量寿仏信仰と密接に結合しており、弥勒の兜率天も無量寿仏の極楽浄土も、漢民族の神仙思想の中で受容されていたことに注意します。実際、そうした銘文が高句麗の景4年(571)の金銅無量寿仏三尊像によって、朝鮮にも伝わっていたことを指摘します。

 また、馬子と舎利出現に関す奇瑞の記述は、中国の仏教文献の記述を利用して書かれていることは早くから指摘されていますが、中野氏は、それは潤色であって机上の創作ではないとするのです。そして、仏のことを「蕃神」とか「仏神」とか呼んでいるのは、祟りを恐れている者たちであって、馬子自身はそうした呼び方はしていない点に着目するのです。

 そして、『元興寺縁起』が伝える丈六光銘について中国の願文と比較するのですが、「含識」の語が龍門石窟の造像銘に見える「含生有識」と類似するとしているのは不適切です。衆生と訳されるsattvaの訳語である「含識」は、北周や隋の頃の訳経などにもごく僅かながら見えますが、この訳語を盛んに用いたのは玄奘ですので、龍門の造像銘は参考になりません。

 ついでながら、「遍及せる含識」(25頁)という読みは間違いであり、「遍く含識に及び(及ぶまで)」です。

 ただ、中野氏が南朝や百済の舎利信仰の例をあげて馬子の信仰を推測しようとしているのは有意義な試みです。

 飛鳥寺の塔心楚からは、こうした埋納物としては珍しい挂甲や馬具が出ていますが、中野氏は松木裕美氏や坪井清足氏の推定に基づき、これらは馬子が守屋合戦において使用していた可能性があるとし、そうした貴重な品によって仏舎利を供養し、蘇我氏およびその権力のよりどころであった王権(蘇我氏系皇統)の現世と来世での安寧を期待したものと推定します。

 馬子の仏教信仰を呪術的とするのは、二葉憲香氏の説の影響もあるように思われるため、戦後しばらくしての古い説ですが、いずれ二葉説を検討してみましょう。

藤原不比等は『日本書紀』の内容にまでは介入していない:水谷千秋「『日本書紀』の編者をめぐる諸問題」

2022年01月14日 | 論文・研究書紹介
 『日本書紀』の編纂にあたっては、権力を握っていた藤原不比等が影響力を及ぼし、藤原氏に有利なように書かせたとする見方が早くからありました。これを疑った近年の論文が、

水谷千秋「『日本書紀』の編者をめぐる諸問題」
(塚口義信博士古稀記念会『日本古代学論叢』、和泉書院、2016年)

です。

 『続日本紀』養老4年条では、舎人親王が勅を承けて『日本紀』を修し、紀三十巻・系図一巻が完成したと述べていますが、水口氏は、舎人親王は事業の総裁であって、実際の編者は不明と言うほかないとします。

 そして、『日本書紀』の天武十年三月条では、川嶋皇子・忍壁皇子・広瀬王・竹田王・桑田王・三野王・上毛野君三千・忌部連首・阿曇連稲敷・難波連中大形・中臣連大嶋・平群臣子首の十二名に「帝紀及び上古の諸事を記定せしめ、大嶋・子首、親しく筆を執りて以て録」したと述べており、また『古事記』序では阿礼に「帝皇の日継、及び先代の旧辞を誦せしめ」たとしているものの、いずれもこの段階では『日本書紀』のような本格的な史書の編纂がめざされていたのではないとします。

 筆をとったとされる二人のうち、子首の没年は不明であって、大嶋は持統7年3月に近い頃に亡くなったようですが、過半は天武の命以後、15年を過ぎても健在であったと水谷氏は指摘します。そして、王族が多く、石川氏(蘇我氏)・大伴氏・石上氏(物部氏)など最有力の氏族こそいないものの、伝統的な名族が多いこと、またこれまで文筆を担当してきた渡来系氏族がいないことに注目します。

 最有力でない上記の参加氏族たちが、有力氏族をさしのけて自らの氏族の伝承を国史に定着させられたとは考えがたいとし、氏族伝承が取り込まれるのは、持統5年に18氏族に対して祖先の墓記などを提出させてからのことと見ます。実際、この時の18氏には、石川・石上・大伴・春日などの最有力氏族が含まれているのです。

 『日本書紀』完成の6年前となる和銅7年(714)2月となると、『続日本紀』では、紀朝臣清人と三宅藤麻呂に「国史を撰しめ」たという記述が出てきます。清人は、翌年正月に位階をあげられたうえ、半年後に「穀」を賜っており、2年後の養老元年にも「穀」を賜っているのは、『日本書紀』編纂の褒賞と考えられており、水谷氏もこれに賛成します。

 『日本書紀』完成の翌年、養老5年(721)、「文人武人」で模範となる官人18名が表彰されていて、清人も入っています。藤麻呂が見えないのは、正八位下という身分の低さから見て、実際に執筆したというより実務の補助をしていた可能性もあると、水谷氏は説きます。もう一つの可能性は、亡くなっていたことですね。

 清人と同様に賞された文章博士は、山田史三方、下毛野朝臣虫麻呂、楽浪河内であって、加藤謙吉氏が述べているように、この人たちは『日本書紀』編纂メンバーに含まれていたと見てよいと水谷氏は説きます。新羅留学の経験を持ち、還俗して官吏となった山田史三方は、森博達さんがβ群の重要な執筆者とみなした人物ですね。

 水谷氏がさらに注目するのは、『日本書紀』完成直後の五月に16人の人物が、「退庁の後、東宮に侍せしむ」とされていることです。水谷氏は、この中には清人、三方、河内も見えているため、この16人に期待されたのは皇太子に『日本書紀』を講ずることであったろうとします。

 そして、清人に加えて紀朝臣男人も含まれており、紀氏から二人も選ばれているるのは、清人が『日本書紀』編者であったため、特例として加えられたのではないかと推測します。

 16人の名があげられたうちの最後となるのは刀利宣令です。かつて大学博士となった父の刀利康嗣は、百済滅亡時に亡命してきた渡来人と思われるため、この親子は2代にわたって『日本書紀』編纂に関わった可能性があるとします。

 『日本書紀』編纂に関わったとされる人物に太安万侶がいますが、水谷氏は、『日本書紀』と『古事記』は方針が違いすぎるうえ、『日本書紀』は『古事記』を無視しており、むしろ対立する立場にあったとし、安万侶編者説を否定します。

 『日本書紀』編纂に関与したとされる人物には、藤原不比等と接点を持つ人物が多いことは、加藤氏が触れており、加藤氏は不比等が影響力を行使したと見ていました。
 
 しかし、水谷氏は、不比等と交わっていたという上記の文人たちは、長屋王の詩宴にも多くが参加しており、不比等だけに従属していたのではないとしたうえで、『日本書紀』では不比等の父の鎌足の活躍が描かれるのは皇極紀と天智紀だけに限られており、鎌足の父の名も記されないことに注目します。

 中臣氏の場合、「中臣鎌子」が物部氏とともに仏教導入に反対したという不名誉な記述もあるため、『日本書紀』全体が藤原(中臣)氏を持ち上げ、鎌足を賛美しようとしたと見ることはできない、とするのです。しかも、肝心の不比等自身についても、持統2年に他の9人とともに「藤原朝臣史」が判事に任命されたと記されるのみです。

 これは、『藤氏家伝』では鎌足と彼が仕えた中大兄(天智天皇)を賛美することが主要な目的であるのとは大きな違いであり、水谷氏は、『日本書紀』には天智朝を賞賛する部分と批判的な姿勢を示す部分がともにあることに注意します。

 『日本書紀』編纂当時、権勢盛んであった不比等の藤原氏について考慮はされたでしょうが、『日本書紀』はあくまでも天皇家の起源とそれに従う氏族の歴史書です。内容を見ても、藤原氏のための史書とはなっていないため、不比等の役割と影響力を重視しすぎるのは『日本書紀』の本質を矮小化するものだと、水谷氏は結論づけています。

夢殿の救世観音菩薩像が持つ宝珠から見た造像の意図:大西純子「法隆寺救世観音像への道」

2022年01月11日 | 論文・研究書紹介
 聖徳太子等身とも言われる夢殿の救世観世音像は、両手を胸の前で交差させ、左手の指で火炎を放つ丸い宝珠が載った蓮華座を下から支え、右手の指を宝珠の上に置いています。この形式は、仏像の手の印相を記述した経典には見えない特殊なものです。

 このように両手で何かを捧げ持つ形の仏像を奉持像と呼びますが、その形式の変化について概説し、救世観音像の特質を論じたのが、

大西純子「法隆寺救世観音像への道-宝珠奉持像の研究史を中心として-」
(井出誠之輔・朴亨國編『アジア仏教美術論集 東アジアⅥ 朝鮮半島』、中央公論美術出版、2018年)

です。

 中国の奉持像は、壺や合子を持つことが多く、宝珠を持つ場合、宝珠の本体である水晶の結晶の形あるいは球形に火炎や蓮台、またはその両方が付されるのが通例であって、そうした飾りがつかない球形になるのは、隋代以降だとか。朝鮮半島の例は、横長の蓋付き合子のようなもの、手の中にすっぽり隠れるくらいの球形または合子の形が多く、宝珠なのか舎利容器なのか見分けられないそうです。日本では、救世観音像以外はほぼ球形である由。

 宝珠とは、インドでは摩尼(maṇi)と呼ばれる特殊な宝玉であって、様々な不思議な働きをするとされています。昔、論文を書いたことがありますが(こちら)、水晶がレンズのように太陽の光を集めてものを燃やす力があることが注目されたようです。

 八木春生氏によれば、中国では奉持像が持つのは舎利または舎利容器であったものが、百済で人々を救済する力のある宝珠と認識され、球形化が進んだとします。また、大西修也氏は、弥勒の浄土に往生するには舎利供養が必要であるため、舎利容器が次第に宝珠に形を変えたとします。

 ただ、舎利と摩尼宝珠は同一視されるようになりますし、奉持像の形式は中国より西方に起源があり、聖なるものを供養するものだったとか。それはともかく、日本の他の奉持像と違い、救世観音像の持ち物だけがなぜ火炎を付けているのか。

 救世観音像は隋の様式と異なっていて古様ですが、救世観音と同様に太子等身とされる金堂の釈迦三尊像も、両脇侍の両肩や宝冠脇の装飾用の宝珠に光明の表現である火炎が付いているため、大西氏は、「ほとんど同時代の制作と推測される釈迦三尊像と救世観音には共通する祈願があったと考えられ」ると説きます。

 その祈願とは、亡くなった人が兜率天に昇ることを願うことであったと、長岡龍作氏は推測していました。それは太子の生前の願いであり、この像を造った者たちは、太子の兜率往生を願うとともに、この像を造った人たちも釈迦に随う観音像に導かれて兜率天に登ることを願って造像したものと推測するのです。

 観音は後には阿弥陀仏国への往生を手助けする存在として信仰されるようになりますが、推古朝時代に、弥勒の兜率天に往生する導きをする存在とされていたかは不明です。また、兜率天往生と宝珠に火炎をとりつけることとの関係も不明です。

 この論文では、そうした点は推測にとどまっており、奉持像と兜率天往生・弥勒信仰との関係を示す中国や韓国の実例の提示がほしいところです。ただ、特異な面を持つ救世観音像が釈迦三尊像と似た点があり、太子自身の信仰と、太子を敬慕して像を造った人達の信仰を反映していることは確かでしょう。 

聖徳太子前後頃の群臣の会議に天皇や大臣は参加したか:鈴木明子「推古朝の合議」

2022年01月08日 | 論文・研究書紹介
 「憲法十七条の典拠について、先日書いた発見(こちら)を補足する発見があり、おかげで「憲法十七条」全体の意図が見えてきました。逆に言うと、私自身を含め、これまでいかに表面の言葉に引きずられ、「憲法十七条」の背景や作成の意図を理解できずにきたか、というこということになります。

 その典拠と関わる重要な問題は群臣会議ですが、これに関する最新の論文が刊行されました。

鈴木明子「推古朝の合議-大夫合議制の変質と冠位十二階・憲法十七条」
(小路田泰直・斉藤恵美編『聖徳太子像の再構築』、敬文社、2021年)

 鈴木氏の論文については、これまで旧姓の宮地明子名のものも含め、論文を2篇紹介してきました(こちらと、こちら)。

 今回の論文は、昨年5月に奈良女子大学がライブ配信した「けいはんな公開シンポジウム 聖徳太子像の再構築」を書物として刊行した論文集に収録されたものです。奥付によれば、刊行は12月10日、しかも、実際は少し遅れたようなので、まさに出たてのほやほやです(鈴木さん、有難うございます)。

 鈴木氏は、大化前代に「大夫」たちが形成していた合議体に関する諸説の整理から始めます。有名なのは、合議を(A型)臣下が自分の見解を大王に個別に奏上する形であって、中国の「議」に相する、(B型)臣下が合議をおこない見解を一本化して奏上するもので、日本の論奏、中国の宰相会議にあたるタイプに分け、大化前代の倭国の合議はA型であって、そうした合議制が太政官合議へと変化するには重要なインパクトが必要だとする川尻秋生氏の説です。

 川尻氏は、舒明天皇即位前紀における天皇後継者をめぐる合議は大臣の私邸でおこなわれており、しかも天皇も参加していないとして合議の例から外します。しかし、鈴木氏は、川尻氏の研究を評価したうえで、①推古朝には大臣不参加の合議が他にも存在する、②私的な根回しの会としては大臣の発言がない、③政府の機能や施設は群臣の私邸に置かれる場合があった、などの理由にこれに反対し、推古朝の大夫合議制は冠位十二階と関連していると説きます。

 つまり、合議の場で大王が群臣ひとりに直接問う「歴問」の形は欽明朝以後は見られないとし、推古朝の特徴は大王ばかりか大臣が参加しないことだと述べます。かつては大臣は群臣の筆頭として発言していたのと違い、推古朝以後に冠位十二階を授ける側となった大臣は、合議を開催して議論させ、とりまとめたのであって、その合議では全員一致がめざされたとするのです。

 鈴木氏は、このため、大夫たちの合意が天皇によって認められると、合議の合意と天皇の意志がイコールになり、皇帝がすべてにおいて最終的な決済をする中国と違い、天皇の責任の所在が曖昧になると指摘します。

 そうした観点で「憲法十七条」を見ると、合議こそが「憲法十七条」の主要テーマであることがわかると述べます。『日本書紀』に掲載される「憲法十七条」は、文章そのものは改変を受けているが、内容は推古朝の状況を反映しているとし、上下和睦して議論を成立させるとする第一条も、大事なことについては独断を排して衆議によって決せよと説く第十七条も、合議における意見の一致をめざしていたとするのですね。

 そして、こうした衆議の背景には合議制と親和的な要素を含む仏教があるとし、また新羅の合議制度である「和白」では一人でも異論があればやめることになっていたことに注意します。ただ、鈴木氏は推古朝でのこうした変化を指摘するものの、「依然として氏族合議体の要素を色濃く残存させていたとみられる」と説きます。これは、冠位十二階も同様でしょう。

 近代には「憲法十七条」の「和」の精神なるものが強調されるようになり、「日本は和の国だ」「日本は古来から和を尊んできた」などと言われるようになりましたが、「憲法十七条」そのものは、国民一般の「和」などではなく、あくまでも群臣の合議、範囲を広げてもそれぞの官における官人たちの「和」を問題としているのだ、ということを覚えておく必要がありますね。

聖徳太子は王統の正統を継ぐ存在とされた:水谷千秋「『上宮聖徳法王帝説』の「無雑他人治天下也」について」

2022年01月05日 | 論文・研究書紹介

 誰もが知っている史料をどう読むかが重要であるということの前振りです。今回、とりあげるその史料とは、『上宮聖徳法王帝説』、それも、欽明天皇に始まる天皇の系譜について述べたのち、これらの五人は「他人を雑えることなく天下を治む(無雑他人治天下也)」と説いている文です。

 有名な箇所であって、解釈は様ざまですが、聖徳太子との関係に基づいて書かれていると論じた近年の論文が、

水谷千秋「付論 『上宮聖徳法王帝説』の「無雑他人治天下也」について」
(水谷『日本古代の思想と天皇』、和泉書院、2020年)

です。

 『帝説』の冒頭部では、聖徳太子の父母や兄弟、太子の妻子たちについて述べたのち、欽明天皇が宣化天皇の女子である石姫を娶って生まれたのが敏達天皇であり、欽明が蘇我稲目の女子である堅塩媛を娶って生まれたのが用明天皇と推古天皇、また欽明が堅塩媛の同母妹である小姉君を娶って生まれたのが崇峻天皇、その姉が太子の母である間人王であると述べた後、「右の五天皇は、他人を雑える無く天下をおさむ( 五天皇無雑他人治天下也)」と説いています(実際には、音写漢字を用いていますが、わかりやすい人名表記にしてあります)。

 問題は、宣化天皇は、「右五人」に入っていないことです。つまり、欽明・敏達・用明・崇峻・推古だけが同じ系譜に属すとされているのです。蘇我氏が関わっているのですが、蘇我氏の血を引かない敏達天皇が入っているため、蘇我系王族の系譜と見ることはできません。

 これについて、欽明天皇を祖とする系譜であることが注目され、仁藤敦史や義江明子氏は、この段階に至って世襲の王権が形成されたことを意味するとします。

 水谷氏は、両氏の指摘の意義を認めたうえで、それだけではなく、この系譜は「聖徳太子に関わるもの」という点に注意します。『帝説』では、これらの五天皇について、注で聖徳太子との続柄が記されているためです。

 まず、欽明は、「聖王(聖徳太子)の祖父」、敏達天皇は「聖王の伯叔」、用明天皇は「聖王の父」、推古天皇は「聖王の姨母」、崇峻天皇は「聖王の伯叔」と記したうえで、「右の五人は~」と述べているのです。

 この文脈からすれば、太子から見てすべて親族であって「他人」は一人も含まれていないことになります。このことは、「太子が当時の王統の正統ともいうべき立場だったこと、本来は天皇になるべき生まれであったことを示唆しているのであろう」というのが、水谷氏の解釈です。

 水谷氏のこの主張は、『宋書』倭国伝では、五王のうち珍と済の関係が記されていないため、この段階では大王は世襲ではなく、上記の欽明天皇から世襲が始まったとする仁藤氏・義江氏の説に対する反論でもある由。難しい問題ですが、『帝説』の記述はあくまでも聖徳太子を基準として述べられたものである、という点は重要ですね。


「排仏崇仏論争」という図式は近代の成立:有働智奘「神祇と仏教伝来」

2022年01月02日 | 論文・研究書紹介
 古代を考える場合、どうしても何らかの図式で眺めてしまいがちですが、その一例が、仏教導入時における排仏派と崇仏派の争いという図式です。この図式は、次第に疑われるようになっており、天皇後継者をめぐる物部氏と蘇我氏の対立という面が強かったと言われるようになっています。

 この問題を再検討し、排仏派と崇仏派の争いという図式が生まれたのは明治時代以後であると論じたのが、

有働智奘「神祇と仏教伝来」
(岡田荘司編『古代の信仰・祭祀』、竹林舎、2018年)

です。この論文に続く同氏の「日本における仏教伝来の虚構と実像-近世、近代の『日本書紀』解釈を通じて-」(『古代史の海』100号、2020年8月)もこの問題を扱い、副題の面を加筆しています。

 有働氏は、仏の像らしきものの鋳出されている鏡、あるいは佐波理椀や華瓶など仏具と思われるような品が6世紀の各地の古墳などから出ていると述べ、中国南朝の仏獸鏡の性格に触れたうえで、日本のそうした古墳では仏教祭祀をした形跡がないため、それらは貴重な供具として祭祀で用いられただけであって、仏教の信仰とはみなせないと説きます。そもそも、こうした鏡の像を仏と認定するようになったのは、明治以後の由。

 ついで、『元興寺縁起』が538年とし、『日本書紀』では552年とする仏教公伝の年をめぐる諸説について概説し、百済の暦に基づく松木裕美氏らの548年説については論じられることが少ないと述べます。そして、古代朝鮮三国の仏教史である『三国遺事』と百済の歴代王の年表である「百済王暦」は年代が14年ずれているとし、このずれはまさに538年と552年の違いと一致すると指摘します。つまり、『日本書紀』は『三国遺事』の系列の資料、『元興寺縁起』は「百済王暦」の系統の資料に基づいている可能性があるのです。

 そして、538年は百済が高句麗の圧力を受けて泗沘に遷都した年、552年は百済と新羅の国交断絶の年であることに注目したのち、近年になって百済の聖明王の即位の年が523年であることが明らかになったことから見て、聖明王26年時の日本への仏教公伝は、548年にとなると説きます。

 次に、公伝をめぐる物部氏や蘇我氏の争いについて検討し、物部氏が仏教を排除したとは断定できないとします。物部氏が関与した『先代旧事本紀』では廃仏関連の記述がなく、物部氏には関連する寺があったというのがその理由です。

 まず、物部氏の本拠地である渋川にあった寺は推古朝になってからの遺構であるため、守屋が創建したものではなく、物部氏が仏教を容認していたとは言えないとする説を紹介します。これについては、このブログでもとりあげました(こちら)。

 ただ、有働氏は、渋川廃寺以外にも物部氏の創建と考えられる寺として、愛知県最古の寺である北野廃寺をあげ、近隣の真福寺は守屋の息子の真福が創建したという伝承があって、白鳳時代の仏頭が残っているとし、さらに物部氏の領地が多かった関東では、東日本最古の寺跡である寺谷廃寺も物部氏が関与していたことが指摘されていると述べます。

 さらに、物部氏は百済との交流に関わっていた者も多く見られるため、仏教を知らなかった可能性は低いとします。また、物部氏は祭祀や軍事のほか、刑罰も担当していたうえ、仏教排除の行動は勅命によっているため、廃仏を立場としていたとは言えないとし、崇仏派とされる蘇我氏も神祇を祀っていたことを指摘します。

 そこで問題になる仏教公伝をめぐる争いですが、この関連記事を崇仏派と廃仏派の抗争という形でとらえるようになるのは明治からだと有働氏は説きます。中世までの史書には、排仏・崇仏の争いとする記述は見えず、「排仏・崇仏」という用語自体、明治後期の国定教科書以前には見えない由。

 このため、有働氏は、祭祀を担当していた物部・中臣氏が反対したのは、蕃神である仏陀の祭祀を宮中祭祀に組み込むことであったと推測します。蘇我氏が仏教を推進したのは、亡くなった三橋正氏が説いたように朝廷が氏族に「依託祭祀」させたものとし、敏達朝の仏教排除は、疫病をもたらした神を祓い、そうした神を信奉した人々を処罰したものと説くのです。

 さて、いかがでしょう。公伝から仏教受容に至る過程を排仏・崇仏の争いとするのは、自寺の歴史と意義を強調する四天王寺などの資料に基づく面も大きいため、その図式をそのまま認めるわけにはいきませんし、この有働論文が指摘しているような面も考慮する必要があることは確かですね。

 この論文では、排仏・崇仏という図式は明治以後とされていますが、上記の「日本における仏教伝来の虚構と実像」論文では、「排仏」「崇仏」という語を用いたのは、江戸時代の博学な国学者であった谷川士清の『日本書紀通証』であることを報告しています。ただ、谷川は「排仏」を儒者側の認識とするのみで神道側の認識には触れておらず、守屋については神道を守った人物としつつ、推古天皇を犯そうとした穴穂部皇子を擁護した朝敵と認識していたと述べています。

 有働氏のこの2本の論文は、後代に生まれた図式であることを知らずに、その図式で割り切ろうとする姿勢の危険さを示していて有益です。ただ、氏は排仏・崇仏の図式を否定しようとして、物部氏も仏教を信奉していたことを強調しようとする傾向が見られるように思われます。

 たとえば、氏は、物部氏も仏教を知っていたとする際、東日本で最も古い寺谷廃寺は物部氏が関与していたという点に着目しています。しかし、氏が依拠した酒井清治「埼玉県寺谷廃寺から勝呂は意義への変遷」(『駒沢史学』82号、2014年3月)では、酒井氏は、聖徳太子の舎人を務めた後に武蔵国造となったとされる物部連兄麻呂が比企の地を本拠地とし、そこに寺谷廃寺を創建した可能性があるとする森田悌氏の説を紹介し、「可能性の一つとして注目される」と述べていました。

 これが正しい場合、寺谷廃寺は、物部氏の古くからの仏教信仰を示すというより、蘇我氏や聖徳太子の仏教興隆の動きの中で建立されたことになります。もう一つ重要なのは、物部氏とともに仏教導入に反対したとされる中臣氏が、後に藤原氏となって『日本書紀』の最終編纂時には強大となり、また熱心な仏教推進派となっていたことですね。

 いずれにしても、近代以後の教科書的な図式は一度疑ってみる必要がありそうです。