聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

梅原猛の珍説(2):救世観音の頭に打ち込まれた呪いの釘

2020年12月30日 | 聖徳太子をめぐる珍説奇説
  梅原猛氏は、妄想を「直感」と呼ぶという発明をし、その「直感」に基づく記述で満たした『隠された十字架』をベストセラーにすることによって、古代史については空想に基づく大胆な説を大げさに書いても良いのだとする風潮を作りだしました。梅原氏のもう一つの発明は、事実の間違いを指摘されても、自分の説に対する本質的な反論になっていないと言い張って推し通すという手法です。この手法の後継者が、自分の太子虚構説に関する学問的な反論は一切ないと断言し続けている大山誠一氏です。

 文献や先行研究を重視せず、思いつきで書く梅原氏の姿勢を厳しく批判した一人が、古代史学者の直木孝次郞氏(1919-2019)でした。直木氏は、『わたしの法隆寺』(塙書房、1979年)、『法隆寺の里』(旺文社文庫、1984年)などで梅原説を批判したのち、「法隆寺は怨霊の寺か-梅原猛氏『隠された十字架』批判-」(歴史教育者協議会編『危険な日本史像とその背景』、あゆみ出版、1986年。後、『直木孝次郞古代をかたる9 飛鳥寺と法隆寺』吉川弘文館、2009年に再録)において、さらに詳細に論じるに至りました。というのは、梅原氏が、事実誤認を指摘した直木氏や田村圓澄氏や坂本太郎氏の反論にきちんと答えようとしなかったためです。
 
 梅原氏は、『隠された十字架』に続いて古代史に関する本を次々に刊行したうえ、『聖徳太子』4巻(小学館、1980~85年)を出しますが、その第一巻の冒頭で、現在の法隆寺は和銅年間(708~715)の再建であって、「子孫二十五人が虐殺されたこの地において、聖徳太子一家の怨霊を鎮魂するために建てられた寺である」(8頁)という自説について、「この説は、今はあまねく知られているが、根本的な反論は、まだでていないと思う」(同)と述べています。

 そして、「私の著書にたいする反論は、すべて部分に偏している。多くは多少調子にのって私がいいすぎた言葉じりをとらえて難じたもの」(9頁)にすぎず、法隆寺がどんな寺かを「己の問題として問う姿勢がまったくといってよいほどない」と断言します(10頁)。つまり、「多少調子にのって」間違いを書いても、それは些細な点なのだから批判しても部分的な反論にすぎず、これまでの研究は法隆寺を「己の問題として」問うていないから不十分だというのです。

 実際には、本全体が「調子にのって……いいすぎた」ものになってますし、「多くは~難じたもの」とある以上、一部は本質的な批判もあったことになりますが、それについては知らんぷりをするのです。「己の問題として」問うていないというのは、客観的に論じるばかりで、自分の「直感」を強く打ち出してないということでしょうか。直木氏は、「法隆寺は怨霊の寺か」において、梅原氏のこうした対応は「学問に対する誠実な態度ではない。普通はこれを逃げ口上という」(95頁)と批判しています(『危険な日本史像とその背景』所載の文では「強弁にすぎるのではないか」[60頁]となっていましたが、それ以後も誠実な応答がないので、再録する際、強い調子に書き改めたのでしょう)。

 その直木氏が問題としている多くの点の中で最も重要なのは、大げさな調子で書かれた『隠された十字架』の中でも最もおどろおどろしい描写で話題になった箇所、すなわち、太子と同一視される夢殿の救世観音像について「光背が直接、太い大きな釘で、仏像の頭の真後ろにうちつけられている」(新潮社、初版、398頁)と断定し、怨霊が活動しないようにするための「呪詛の行為」だと説いた箇所でしょう。梅原氏は、「それは想像するだに恐ろしいことである。ここまできて、私の筆も恐ろしさにふるえる。全く恐ろしいことであるが、この恐ろしいことが事実なのである」(399頁)とあおっています。釘は「頭の真後ろから深く突き刺さっている」(404頁)のだそうです。

 呪いの釘を打ち込んでいるところを見たような書きぶりですね。おそらく、氏にはその光景が目に浮かんだのでしょう。「あとがき」によれば、連載をしている際は、「ひどく高ぶった気持の中で、筆が自ら、走っていくという思いであった。三日で百五十枚、一日に八十枚も書けることがあった。私が書いているのではなくて、何かが私をして書かしめているのではないかという気さえした」(417頁)そうです。基本文献や先行研究など確かめず、怨霊に憑依されるまま書きまくったんでしょう。

 しかし、直木氏は、『奈良六大寺大観』第4巻、久野健・田枝幹宏『古代朝鮮仏と飛鳥仏』、村田治郎・上田照夫・佐野辰三『法隆寺』などによって、釘をうちこんでいるのではないことを説明します。これは、像の後頭部にあらかじめ作られた四角いほぞ穴にの形をした銅製の金具の水平部分を差し込み、その金具の垂直の部分を光背に付けられた2個の半円形の金具にさしこんで止めているだけなのです。以下は、上の『法隆寺』(毎日新聞社、1960年)の図版121などに基づいて私が作成した図です。こうした光背の止め方は、他にも例があるそうです。



 いや、ここまできて、私の筆も恐ろしさにふるえます。こうしたデタラメを書いた梅原本がベストセラーになり、今でもこの説を信じてネットなどで紹介している人がいるという、この恐ろしいことが事実なのです。

 なお、梅原氏は本質的な反論はまったくないと胸をはっているものの、実は重要な主張を変えています。『隠された十字架』では、太子の怨霊しか問題にしていなかったにもかかわらず、上で触れた『聖徳太子』第一巻では、古代では怨霊になるのは殺された人などだけだといった批判を考慮したのか、いつのまにか法隆寺は「聖徳太子一家の怨霊を鎮魂」する寺だと前から論じていたことになっているのです。恐ろしいですね。梅原氏の記憶が都合良く変容したのは、怨霊の呪いによるものなのでしょうか。

 なお、この記事を書くにあたって、ネットの状況はどうか検索してみたところ、梅原氏の主張を真に受け、「梅原説に対する学界の反論はないため、定説になっていると見てよい」などと書いている記事も複数見受けられました。そうした中で、落ち着いた調子で学術的な批判をしていたのは、梅原氏が亡くなった際、仏教新聞である『中外日報』紙に美術史研究者の大橋一章先生が寄せた「『隠された十字架』をめぐって」(こちら)でした。

新羅の積極外交と秦寺・四天王寺:近藤浩一「新羅・真平王代後期の対倭外交」

2020年12月26日 | 論文・研究書紹介
 推古朝当時の朝鮮半島は、高句麗・百済・新羅が対立したり手を結んだりする複雑な関係にありました。そうした中で、これらの三国は、倭国の軍事・外交面などの支援を望み、仏教関係の贈り物をしてきたというのが外交史の通説です。

 ただ、これはあくまでも『日本書紀』を資料とした日本側の視点であって、三国側の観点から見ると、また違った面が見えてきます。そうした試みの一つして新羅の側から検討してみた論文が、

近藤浩一「新羅・真平王代後期の対倭外交ー真平王時代の対倭制作と関連してー」
(『京都産業大学論集  人文科学系列』52号、2019年3月)

です。近藤氏は、新羅史を専門とし、様々な問題を論じている研究者です。

 この論文では、新羅の真平王(在位:579-632)の父である真興王(在位:540-576)の代から国王を仏教的世界観における聖王である転輪聖王とみなしたり、釈迦仏になぞらえたり、貴族を弥勒菩薩とみなしたりして秩序を構成してしていたことを確認します。つまり、仏教推進は国王の権力強化と重なっているのです。

 仏教やヒンドゥー教を利用したこういう権威づけはいろいろな国で見られるものですが、日本の資料しか知らず、「仏扱いするなどありえない」などと現代の常識で判断する研究者が多いのは困ったものです。隋を建国して仏教を復興し、菩薩天子と仰がれた文帝も、仏の化身とされていますし、女性の身で中国初の皇帝となった則天武后は弥勒の化身と宣伝されました。

 さて、真平王は、即位した年に倭国に仏像を送っていますが、以後は、百済との対立が激化したためか、百済と連携している倭国と新羅の関係は悪くなります。その間に、真平王16年(594)に隋に使者を送り、さらに唐が建国されると唐にも使者を送って領典客を設置し、外交関係を深めます。
 
 推古朝では、新羅との関係が悪化した時期に太子の弟を将軍として再三出兵しようとしておりながら、いずれも中止となっていますが、その後は新羅側が倭国に使いと品物を送ってきており、推古24年には仏像を送ってきています。これについて、近藤氏は、国王を頂点とする官制を整備し、唐との外交も充実させて国力を増した新羅が、自信をもって仏教外交を展開してきたものと説きます。実際、その数十年後に新羅は朝鮮半島を統一するに至っています。

 近藤氏は、新羅のこうした働きかけについて、新羅の仏教思想を伝播しようとした面もあったと推測しています。氏は触れていませんが、この頃には新羅の仏像作成技術は百済や高句麗を上回るようになっており、見事な仏像が造られています。

 近藤氏が着目するのは、真平王44年(622、に新羅使が持参した仏像は秦河勝の秦寺(広隆寺)に、また仏舎利・金塔・潅頂幡・小幡などは四天王寺に収められたことです。つまり、百済・高句麗の僧が住していて百済・高句麗と関係深い飛鳥寺は避けられ、聖徳太子と関係の深い寺に収められているのです。近藤氏は触れないものの、これは太子が新羅外交と関わっていたことを示すように思われます。蘇我馬子と百済との関係の深さは有名ですので。

 もう一つ近藤氏が重視するのは、この時、新羅使が唐に留学していた恵光その他の倭国の僧侶を送り届けていることです。このことは、長安で新羅の留学僧などを通じて新羅が倭国の留学生たちと交流していたことを示すものであり、そうした状況で新羅に送ってもらった以上、彼らは帰国後は唐と新羅に対して好意的な発言をすることになるでしょうし、それは倭国の外交政策にも影響を及ぼすでしょう。実際、これ以後、舒明天皇4年(632)、同11年(639)、同12年(640)と三回続けて新羅が倭国の留学僧や儒教の留学生を倭国に送り届けています。

 いずれにせよ、先の河上さんの論文紹介でも見たように、仏教は外交とも国内の秩序整備にも密接に結びついていました。国内で仏教流布を主導する者が、重要な国政や外交に関わらなかったなどということは考えられません。

神が出てこない「憲法十七条」と神社の無い都:鈴木明子「古代都城と神の祭り」

2020年12月22日 | 論文・研究書紹介
 奈良の都にしても平安京にしても、大きな寺は建設されましたが、神を祀る巨大な建物はありませんでした。この問題を、神が登場しない「憲法十七条」とからめて追求したのが、

鈴木明子「古代都城と神の祭り-都城と神・仏-」
(『都城制研究』8号、2013年3月)

です。

 鈴木氏は、宮と寺が一体となって建てられた最初は厩戸皇子の斑鳩宮と斑鳩寺だとする山中章説、推古朝の小墾田宮と飛鳥寺と見る古市晃説を紹介した後、推古朝は太子と馬子の共同補弼体制であったとする『日本書紀』や『法王帝説』の記述を史実とみなし、太子は一王族にすぎなかったとする大山説を批判します。

 そして、宮と寺を一対のものとして建設することは、仏教を重視して神に触れない「憲法十七条」と関連していると説きます。「憲法十七条」は、後代の用語で書き換えられた部分はあるとしても、基本は推古朝の作と見るのです。

 氏は、高句麗でも新羅でも、仏教の正式な開始と律令の発布とは、同じ王のもとで数年のうちに続けて行われていることに注目します。それが仏法興隆を宣言した推古朝で不十分な形でなされたのが、「憲法十七条」であったとするのです。そして、『日本書紀』では「仏」と「法」の語が頻用されており、特に「憲法十七条」ではそれが目立つのに対し、天武朝以後の神祇観・天皇観を反映した『古事記』では、仏教に全く触れず、「仏」の語も「法」の語も一切出てこないことに注目します。

 そこで氏は、「仏」と「法」を柱とし、儒教であれば「礼」と結びつけて語られる「和」を「礼」と切り離して法家的な内容の条と接続させる「憲法十七条」は、斑鳩宮と斑鳩寺を対とすることと連動しており、その斑鳩のあり方が、以後の古代日本の都城のあり方を規定したと結論づけます。つまり、神の祭祀を都の外でなすことにより、都城の差別化、中心性の創出がはかられたのであって、そのきっかけとなったのが、宮と寺を対にして建設し、仏と法だけを説いて神に触れない「憲法十七条」を作成した太子だったとするのです。

 この問題は、出雲などと違って、巨大な建物を立てて神を祀る習慣がなかった大和の状況とからめて検討すべきですが、推古紀において神を祭る記事は、推古7年に地震が起きた際、「地震神」を祭らせたという記事と、『日本書紀』編纂後期における挿入と推定されている15年2月のわざとらしい神祇祭拝記事をくらいであって、「憲法十七条」に限らず、仏教関連の記事ばかりであることは確かですね。推古26年には雷神を祭る記事がありますが、雷神も天皇の威霊には及ばないという否定的な文脈です。

【付記:2021年1月9日】
都における宗教的な建物について検討するなら、唐における仏教の寺院と道教の道観の並立、そして皇帝の祖廟の位置などについても調べ、さらに韓国やベトナムの例も調べると、もっと説得力に富んだ論文となったことでしょう。今後の研究の進展を期待します。

梅原猛の珍説(1):太子の怨霊である「蘇莫者」は「蘇我の莫(な)き者」

2020年12月19日 | 聖徳太子をめぐる珍説奇説

 「いなかった説」の前に聖徳太子に関して大きな議論を巻き起こしたのは、梅原猛の「法隆寺=聖徳太子の怨霊鎮めの寺」説でした。周知のように、梅原は西洋哲学の研究者であって、次第に仏教に関する関心を深めていった学者です。

 雑誌『すばる』に連載され、昭和47年(1972)に新潮社から刊行された梅原の『隠された十字架』は、湯川秀樹などに斬新さを賞賛されたこともあって大変な話題となり、毎日出版文化賞を受賞するに至りました。

 こうした評価の結果、専門家でなくても古代史に関して大胆な説を出して良いのだ、いや専門家は伝統説にとらわれすぎているため非専門家が新たな視点を提示すべきなんだ、という雰囲気が広まったように思われます。代表的な太子研究家であった日本史学の重鎮、坂本太郎が「法隆寺怨霊寺説について」(『日本歴史』第300号、1973年)を発表して批判し、梅原の本は読み物としてはきわめて面白いものの、文献の性格をわきまえた着実な研究となっていないことを指摘したのですが、こうした意見は一般には浸透しませんでした。

 梅原が「太子=怨霊説」を思いついたのは、昭和46年(1971)4月2日に、太子を祀る法隆寺の聖霊会において舞楽の「蘇莫者(そまくしゃ)」を見た際、強い印象を受けたのがきっかけです。梅原は、舞台に現れた蘇莫者を太子の霊だと直感し、次のように書いています。

 太子の霊はしずしずと、講堂の前にもうけられた舞台の上に登場し、そこで舞いを舞うたのである。そのとき、太子の顔は真赤であり、白い長い毛が、ふさふさとたれ下り、その赤い顔をかくしていた。そしてその白い長い毛ごしに見えた太子のお顔は、いとも恐ろしい顔であった。眼をかっと見開き、口は大声で何かを叫び、舞いというより、それは、おどりに近い早い動きである。しばらく、太子は舞台で奇怪な舞いを舞い、そして消えた。
 このようにいうと、人は、私が幻影を見たというであろう。しかし、私は、幻影とは思わない。私が見たのはたしかに太子の霊だと思う。(「塔・17」『芸術新潮』昭和46年5月号)


 つまり、これによって「太子は怨霊となって荒れ狂う存在」ということになり、その結果、「法隆寺=太子の怨霊鎮めの寺」説が生まれたのです。以後、梅原は次々に想像を繰り広げた結果、『隠された十字架』では「蘇莫者」について次のように書くに至ります。

文字通りにとれば蘇我の莫(な)き者、蘇我一門の亡霊という意味ではないか。蘇我一門の精神的代表者である太子の霊が、蘇莫者という名で呼ばれても不思議はない。


 想像するのは自由ですが、蘇莫者というのは、古泉圓順「蘇莫者」(『四天王寺女子大学紀要』第12号、昭和55年3月)によれば、シルクロードで盛んになって中国で流行した行事であって、寒い時期に色とりどりの胡服を着、額にはちまきをし、頭に花の冠をつけ、大勢で騎馬し、西域の音楽を演奏して大声で西域の歌を歌ったり踊ったりした由。踊り手の中には、裸となって水をまきちらし、跳んだり跳ねたりして街路を踊りまわる者もいることが示すように、「冬迎え」「年送り」「新年迎え」などのための冬の祭りなのです。こうした裸の水かけ祭りは現代の日本にまで伝わってますね。その祭りの西域の呼び名を漢字で「蘇莫遮」と音写していたのです。

 一方、同じくシルクロードの亀茲(クチャ)には、正月七日に犬の頭や猿の面をつけて男女が昼夜、歌いながら舞う習俗があり、これを「婆羅遮」「婆摩遮」などと称していました。どうも、この二つが中国で混同されるようになった結果、白髪で舌を出した老猿の面をかぶり、蓑を身につけた日本の「蘇莫者」となったらしい、というのが古泉説です。つまり、聖者を意味する「アルハン」の語を「阿羅漢」と漢訳した場合、これ全体が音写であって、「漢」は「悪漢」「痴漢」などのように「人」を意味するのではないのと同様、「蘇莫者」とは「蘇莫の者」ではなく、全体が音写なのです。

 ただ、「婆羅遮」「婆摩遮」は「蘇莫遮」に当たる語の別な漢字音写だという説もあります。また、カシミール出身の般若三蔵が8世紀後半に訳した『大乗理趣六波羅蜜経』では、「老いる」という苦について語る際、「蘇莫遮が帽子をかぶって面を覆い、人々に嘲笑されからかわれるように、人々は老衰という蘇莫遮帽をかぶって、街から街へとさまよい、人々に嘲笑されからかわれる」とあり、これによれば「蘇莫遮」は滑稽な帽子をかぶってさまよい、笑われる道化のような存在のように見えます。また、慧琳『一切経音義』では、その「蘇莫遮帽」について、獣や鬼神など「種種の面具の形状」のものだと説明しています。
 
 帽子であれ仮面であれ、白髪の老猿などが元であれば、梅原が見た蘇莫者が、赤い顔に白いふさふさ髮で大きく口を開け、怒っているようで素早く動き、奇怪な舞いをするのは不思議ではなく、怨霊と見る必要はないことになります。

 そもそも、現在の舞曲の「蘇莫者」は、聖徳太子が尺八を吹くと山神が現れて舞ったという伝承と結びついており、その山神が蘇莫者とされています。太子が蘇莫者ではないのです。王が笛を吹くと山神が現れて舞ったというのは、新羅の伝承にも見えるものですので、何かしら関係があるのでしょう。

 いずれにせよ、現在の「蘇莫者」は、宮川武治「古代のロマン 聖徳太子と尺八-舞楽蘇莫者から-」(『あいち国文』1号、2007年7月)によれば、「八世紀中頃に渡来した林邑楽[筆者注:ベトナム中部の舞楽]の蘇莫者、或は林邑系の楽に、折しも聖徳太子崇拝の高まりの中で、太子を主奏の笛役に仕立て、舞い踊る山神をセットに脚色して、四天王寺楽人の中で舞楽蘇莫者が制作され、秘曲として伝承されたのではないかと推考される」ものだそうです。

 「蘇莫者」が四天王寺に伝えられてきたことは中世の楽書、『教訓抄』にも見えています。法隆寺の聖霊会で奏されるようになった時期は不明ですが、かなり新しそうに思われます。

 つまり、「蘇莫者」は再建法隆寺の建立事情に関わるような舞楽ではなく、赤い顔に白いふさふさ髮をつけ、派手な出で立ちで登場する蘇莫者は荒れ狂う怨霊などではないのです。なお、法隆寺管長となった高田良信師が梅原と対談した際、「先生、怨霊の鎮魂と言わず、太子追善の寺と言ってください」と頼むと、梅原は「それは分かるが、怨霊としないと本が売れんのや」と語った由。やれやれ。

【追記】
 古代の日本で怨霊となって暴れたとされるのは、平将門であれ早良親王であれ菅原道真であれ、すべて殺されたり、都から追われて怨みをもって死んだりした人たちです。太子の長男であって天皇になりたがり、蘇我入鹿の軍勢に滅ぼされた山背大兄などなら怨霊とされるのは分かりますが、その場合にしても、蘇我氏が滅ぼしたのですから、「蘇我氏の莫き者」とは言えないでしょう。「蘇我氏が亡き者にした存在」ということにするのか。いずれにしても、病気で亡くなった太子が怨霊となったとする古代の史料は全くありません。蘇莫者のことを良く知らない梅原猛が、直感でそう思っただけです。

【追記:2024年6月7日】
書き忘れていました。本文で説明したように、梅原の珍説は、法隆寺の聖霊会で蘇莫者が演じられるのを見てイメージがひらめいたことによるのですが、奈良時代に法隆寺で聖徳太子の忌日におこなわれ、以後、伝統となった法要は、『法華経』の講経でした。しかも、その法要が行われたのは、現在の法隆寺西院伽藍ではなく、焼き討ちされた斑鳩宮の跡地に建てられた上宮王院、つまり、現在は東院伽藍となっている夢殿でした。ライバルであった四天王寺で行われていた舞楽法要を取り入れて忌日におこなうようになったのは、はるか後代のことです。つまり、蘇莫者は再建当時の法隆寺とは無関係だったのです。


「日出処天子」国書は対等外交ではない:河上麻由子「遣隋使の真の目的は仏教だった」

2020年12月16日 | 論文・研究書紹介
 聖徳太子の事績として賞賛されてきたのが、長らく分裂が続いてきた中国を統一した隋に「日出づる処の天子、日没する処の天子に書を致す。恙なきや」という大胆な呼びかけをし、大国と対等の外交をおこなったという話でしょう。

 国書については、『隋書』に記されているため信頼性は確かですが、倭国の誰が主体となって国書を送ったのか、文面の解釈はどうか、隋の煬帝の反応と、それを知った倭国側の反応はどうだったか、などについては諸説様々です。そのうち、対等外交を意図して書かれているのかという問題を再検討しているのが、

河上麻由子「日出ずる処の天子--遣隋使の真の目的は仏教だった」
(『歴史街道』385号、2020年4月)

です。『歴史街道』は、一般向けの歴史雑誌であって学術論文誌ではありません。ただ、河上氏のこの記事は、中国を中心としたアジア諸国の仏教外交を明らかにした画期的な『古代アジア世界の対外交渉と仏教』(山川出版社、2011年)や、それを踏まえて刊行された『古代日中関係史-倭の五王から遣唐使以降まで』(中公新書、2019年)に基づき、わかりやすく論じていますので、論文に準ずるものと見て良いでしょう。
(河上さん、某テレビ局の「聖徳太子特集」番組では、出演解説を押しつけてしまい、申し訳ありませんでした)

 河上氏は、『宋書』に見える五世紀に宋に使者を派遣して冊封を受けた五人の倭国王の後、中国への使節派遣がなかったのは皇位をめぐる争いが続き、安定した政権でなかったからだとし、欽明天皇の時に「仏教公伝」がなされたのは、ようやく皇位が安定した時期であるとします。そして、「公伝」というものの、実際には倭国が百済に求めて「導入したものであった」と述べます。

 氏は続いて、隋への国書のうち、「日出処天子」の前の部分に注意すべきだとします。そこには、「海西には菩薩天子[隋皇帝のこと]がいて、重ねて仏法を興隆させていると聞き及んでおります。そこで、[使者を]派遣して[菩薩天子に]見(まみ)えて拝礼させ、さらには沙門数十人を遣わして仏教を学ばせたい」と書いてあります。氏はこれこそが派遣の主な目的であったとします。

 そして、この国書を見て煬帝が怒ったとされていますが、文献による限り、「不快」になったのであって、激怒したのではないと論じます。実際、倭国の沙門たちが追い返された記録はないため、彼らは留学生活を送り、日本に帰ってきたのでしょう。ところが、近代になると、煬帝が激怒するほどこの国書は国威を示したといった点が強調されていくようになったというのが、氏の見方です。

 1920年発行の教科書に「支那の国主これをみていかり」とあり、この頃から煬帝激怒というイメージが広がっていくのであって、「対等」の語が教科書に見えるのは1934年の教科書、「国威をお示しになった」は1940年の教科書ですが、明治初期の教科書には遣隋使は「我が国第一の文明開化なり」とある由。時代によって、イメージが変わっているのです。
 
 氏は、当時の倭国は様々な制約の中で「可能な限り情報を収集し、それを綿密に分析し、そしてアジアにおける日本の立ち位置を把握しながら、中国と交渉していたことがうかがえる」と述べ、それは「きわめてクールでスマート」な態度だったと評価しています。

 氏は、あくまでも国家間の外交のあり方の研究に努めており、当時の倭国の権力体勢を明らかにすることが目的ではないため、国書を作成させた者については言及しません。ただ、上記のような指摘は、「国書はこれこれだから太子のはずがない」とか、「高句麗の慧慈のアドバイスによる太子の立案だ」といった議論をする前に、国書とその前後の文章を当時の国際的な状況の中で正しく読むことがまず第一であることを示しています。

 なお、氏が説くように、国書を添えて留学僧たちを派遣したのは、隋のことを仏教を復興させ、菩薩天子が統治する強大国として尊重し、仏教を導入させてもらうためであって、対等の外交関係をめざすのが目的ではなかったでしょうが、東の「天子」が西の「天子」に「書を致す」という書き出しは、隋を兄貴分扱いしたものであって、当時の倭国の国力を考えると、中国皇帝に対する敬意が足りない書き方であることも事実ですね。私はこの点は倭国の認識不足であったと考えていますので、いずれ関連論文を紹介する際に触れることにします。

法隆寺金堂釈迦三尊像の様式:金子啓明「日本古代彫刻の様式問題」

2020年12月12日 | 論文・研究書紹介
 論争が続いていて珍説奇説も多いのが法隆寺の特徴であり、再建非再建論争と並んで議論が盛んだったのが、金堂の釈迦三尊像の成立年代です。この三尊像については、光背および光背銘についても考えないといけないのですが、とりあえず、三尊像に関する最近の研究を紹介しておきましょう。

金子啓明「日本古代彫刻の様式問題-法隆寺金堂釈迦三尊像(六二三年)と伝橘夫人念持仏阿弥陀三尊像(七〇〇年頃)-」
(『芸術学』第19号、2016年3月)

です。金子氏は東京国立博物館において主に古代から中世の彫刻の研究を担当し、法隆寺宝物室長や博物館の副館長をつとめた美術史研究者です。

 金子氏は、研究が細分化し、研究方法も多様化している現在、ルネッサンス期の絵画に取り組んで近代的な様式論を確立したハインリヒ・ヴェルフリンの研究法を見直すべきだとし、法隆寺金堂の釈迦三尊像と、同じく法隆寺に伝わる橘夫人の阿弥陀三尊像の様式の違いを論じていきます。

 この阿弥陀三尊像は、藤原不比等と結婚して光明子を生んだ県犬養橘宿禰三千代(?~733)の念持仏と伝えられるものであって、制作時期は台座内の墨書から見て700年頃と推測されています。

 金子氏は、法隆寺金堂の釈迦三尊像については、太子没後の623年に建立したと記す光背銘の記述に基づいており、以下のように述べています。
彫刻でありながら立体性が抑制され、《両脇侍像》ではあたかも銅板をU字形に後方に曲げたようにつくって背面を制作せず凹面をいたで塞いでいる(図2)。《釈迦像》も背面は簡略化しており平らである。三尊像で重要なのは正面性であり、背面の造形は無視されている。また肢体の動きはきわめて少なく立体造形でありながら浮彫的な性格を強く持つ。


 これに対して、軸の先に咲く蓮華の上に阿弥陀如来が坐し、蓮華のつぼみのうえに両脇侍が立つ阿弥陀三尊像のについては、「宙に浮いた印象がつよい。……ここではあたかも小舞台のような立体空間が設けられている」と述べ、釈迦三尊像のような平面的な造りとは「まったく異なる」と断定します。つまり、両者の様式の違いはきわめて大きく、当然ながら制作時期もかなり離れているとするのです。

 平面的な造りという点では、日本最古の飛鳥寺の釈尊像がその典型ですね。金子氏は、法隆寺の釈迦像については、前方の方向性や光明の造形ぶりなどから見て、「釈迦像としての霊的な救済力を持つ形体の「実在性」をつよく保持している」のであって、「飛鳥時代の彫刻様式のひとつの典型とみなしてよいであろう」と結論づけています。

 金子氏は触れていませんが、飛鳥時代の作であることが確定している飛鳥寺の釈迦三尊像(現在は仏頭など一部だけが現存)については、精密な調査および復元作業がなされています。その結果、分かってきたのは、法隆寺金堂の釈迦三尊像との類似ということでした。釈迦三尊像の光背銘によれば、その制作は止利仏師であって、まさに飛鳥寺の大仏を造った仏師なのですから、似ているのは当たり前ですね。このことは、法隆寺釈迦三尊像の制作時期、および光背銘の真偽論争について考える際、重要な点です。

【珍説奇説】法隆寺の五重塔は送電塔がモデル

2020年12月06日 | 聖徳太子をめぐる珍説奇説
 聖徳太子や法隆寺については、珍説奇説が多いものの、新たに始める「聖徳太子をめぐる珍説奇説」シリーズの第1回でとりあげる名誉ある論文は、

大塚清恵「日本・イスラエル比較文化研究(2) ―日本列島は誰が創った?―」(『鹿児島大学教育学部研究紀要 人文・社会科学編』vol.61、2009年)

です。これは、以前、師茂樹さんが紹介していたということで、このブログでもちょっとだけ触れたことがありますが(こちら)、ダントツですね。なにしろ、法隆寺の五重塔は送電塔の模型だというんですよ。今でも鹿児島大の機関レポジトリで読むことができます(こちら)。当人が書かれたものでしょうが、その機関リポジトリに示されていた概要は、以下の通りです。

本稿は、鹿児島大学教育学部研究紀要(人文・社会科学編)第58 号に掲載された「日本・イスラエル比較文化研究 ―日猶同祖論考―」の続編である。一般的に「秦氏」と呼ばれる3 世紀末から5 世紀にかけて朝鮮半島から渡って来たシルクロード渡来人は、時代を超越した高度な知識と技術を持っていた。彼らは、古代日本に技術革命をもたらし、政治・宗教・生産活動・文化を大きく発展させた殖産豪族集団である。……なぜ全国各地に奇妙な三本鳥居の神社を建てたのか?という日本史の謎に対して大胆な一つの仮説を立てた。

だそうです。初耳ですね、「時代を超越した高度な知識と技術を持っていた」そうですよ。その例として示されているのが、以下の写真です。



 ただ、論証がまったくありません。上の画像に表示されているように、「その設計図から見て、明らかに送電塔の模型である」とあるだけです。

 論証の代わりに示されているのが、同様の例なのですが、塔がいくつもそびえているヨーロッパや中東やインドの城は、燃料タンクをいくつもつけたスペースシャトルと似ているといった種類の写真がならんでいます。きわめつけは、秦氏が建立した広隆寺の近くにある「蚕の社」と呼ばれている神社の三柱鳥居は、「20 世紀ハイテク文明の落とし子の一つ」であって、「それは、月着陸船である。三柱鳥居は月着陸船の三脚部分と考えて間違いない」のだそうです。その「時代を超越」している証拠写真がこちら。



 やはり、病院に行って診察してもらう必要がありますね。大塚氏は既に亡くなられたそうですが、大塚氏の論文以上に不思議なのは、この論文が鹿児島大学の紀要に掲載されたことでしょうか。

【12月7日付記】
「大塚」氏を「大島」氏と書いてましたので訂正します。大塚氏の論文では、607年に建てられた法隆寺の五重塔が日本の五重塔第1号としていますが、607年に建てられたとする記録はありませんし、日本最古の五重塔は、飛鳥寺の塔です。また、秦の始皇帝は月氏の出身だとする点も根拠がありません。
なお、大塚氏に習った学生さんが、氏について書いていましたが、氏は英語圏の文学や女性学を扱っており、授業を聞いた限りでは、特に変な印象は受けなかった由(こちら)。

「聖徳太子をめぐる珍説奇説」というカテゴリーの追加

2020年12月06日 | このブログに関するお知らせ
 8月にこのブログを復活させて以来、めちゃくちゃ忙しいのに結構書いてきました。読みかえしてみると、「論文・研究書紹介」の固い記事が多いですね。かつては、エイプリルフールに太子関連のおふざけ記事をアップロードしていた身、また3週間ほど前に出た『早稲田学報』の最新号に「日本笑い史年表」を寄せたほどの笑い好きの身としては、ちょっと遊びたくなってきます。

 そこで、これまでの記事とカテゴリーを見直したところ、内容とカテゴリーが合ってない記事が目についたので、この際、記事が5本しかなかった「聖徳太子・法隆寺研究史」というカテゴリーを廃止して、それらの記事を「聖徳太子・法隆寺研究の関連情報」に移し、代わって「聖徳太子をめぐる珍説奇説」という気楽なコーナーを設けました。

 学問ではいろいろな説が出るのが当然ですが、その枠を越えると空想小説、あるいは珍説奇説と呼ぶほかなくなります。大山氏の聖徳太子虚構説は、学問的上の新説・異説としてスタートしたものの、次第に空想小説・珍説奇説に近い主張が加えられていきましたね。

 珍説奇説カテゴリーの記事の第1回は、このブログでもちょっとだけ触れたことがある(こちら)法隆寺の五重塔は送電塔をモデルにして設計されたというトホホ説です。国立大学の紀要に載ったのだから、すさまじいですね。

 なお、このカテゴリーの記事については、本気でとりあげていると思われないように、題名の冒頭に 【珍説奇説】という注意を記しておくことにします。 

『日本書紀』の推古紀は最終段階で上書き:瀬間正之「『日本書紀』β群の編述順序」

2020年12月01日 | 論文・研究書紹介
 前の記事は、『日本書紀』研究がまだ不十分なので恣意的な解釈が出てくるという話でした。

 『日本書紀』に書かれた記事について論じるには、『日本書紀』そのものの成立について考えておく必要があります。『日本書紀』の成立に関する研究を画期的に進めたのは、森博達さんによる区分論、すなわち、隋唐の漢字音による表記と標準的な漢文の語法で書かれたα群、日本化された漢字音表記と和習が目立つβ群、そしてそれ以外の巻30という区分でした。

 森説のうち、α群が中国人によって書かれたとする点については、このブログでの井上亘さんとの論争が決着しないままになっていますが、『日本書紀』がα群、β群、巻30という順序で書き進められたことは学界でおおむね承認されており、β群は文武朝あたりから執筆が開始されたことも確実視されていることを確認したうえで、β群の述作順序の検討を試みたのが、届いたばかりの、

瀬間正之「『日本書紀』β群の編述順序-神武紀・景行紀の比較から-」
(『國學院雑誌』第121巻第11号[特集『日本書紀』研究の現在と未来]、2020年11月15日)

です(葛西太一さん、葛西さんの日本武尊関係記事論文も載っている雑誌、有り難うございました。葛西さんは、我々漢字文献情報処理研究会の仲間で開発・改善したN-gram分析[こちら]を『日本書紀』研究に活用して成果をあげているため、期待しています)。

 その葛西さんの師匠であり、私が主催した変格漢文の国際研究プロジェクトに参加してくれていた瀬間さんは、『日本書紀』の神武紀は天武紀をもとにして作成されたとする説に基づき、文字表現から見て景行紀に学んで神武紀が述作されたことを論証してゆきます。

 なぜ、こうした論文を聖徳太子ブログで取り上げるかというと、『日本書紀』の理想的な聖徳太子像は天武天皇の頃に創られたのであって、律令制以後と推測される「憲法十七条」はその証拠だとする説があり、太子虚構説では『日本書紀』編集の最終段階で創られたとされているからです。しかし、もしそうだとしたら、天武天皇時の特徴の一つである神話重視・神祇祭祀重視の傾向が推古紀、とりわけ「憲法十七条」に反映していないのはなぜなのか、という問題が生じます。

 瀬間さんは、『古事記』の用語も考慮したうえで、神武紀と景行紀の共通性を綿密に確かめます。また、神武紀と景行紀がともに『漢書』高帝紀を利用している箇所をこれまで以上にあげていきます。そして、漢籍に由来する語や誤用の例を検討することによって、以下の結論を導きだします。

β群は、巻五(崇神紀)「ハツクニシラスメラミコト」から書き始められ、巻一三まで書かれた。続いて巻二八・二九(天武紀)が書かれた。最終段階で行われたのは、既に存したα群の巻二二・二三の上書きと、巻一~巻四の述作であったのではないかという見通しを持った。(238頁上)

 言うまでもなく、巻二二は太子関連の記述が多い推古紀であり、巻二三は太子の子である山背大兄について記される舒明紀です。森説では、巻二二・二三はβ群ですが、瀬間さんはこの論文に先立つ「日本書紀形成論」(『温故叢誌』73号、2019年11月)では、巻一四から書き始められた『日本書紀』は、巻二七までひと通りα群として完成されており、その後、文武天皇二年以後にβ群である巻一から巻一三までが書かれたと説き、巻二二・二三は大幅に改変された結果、β群に属すようになったと推測していました。

 巻二一の用明紀の注では、太子の姉である酢香手姫については推古紀に見えると記してあるものの、現存の巻二二には見えないため、「原推古紀」とでも呼ぶべきものが存在していたと推定するのです。上の結論は、説明不足ながらこの前提に基づいて書いてあるそうです。

 つまり、天武朝以後の時期になってから、アマテラスの子孫である天皇家がこの国を統治することを保証する天孫降臨神話がβ群の漢字音と文体で書かれ、またα群の漢字音・文体で書かれていた巻二二の聖徳太子記述をβ群の語法で造形し直したと見るのです。大化改新が説かれる巻二五の孝徳紀は、歌謡の漢字音はα群に属すものの、漢文の誤用はβ群であるため、これもα群に属する「原孝徳紀」を大幅に書き改めたのだ、というのが瀬間さんの「日本書紀形成論」です。

 語法に基づく論考ですので確実ですが、ここで注意すべきことは、後から書いたと言っても、その段階でゼロから書いたとは限らないということでしょう。つまり、α群ないしβ群の語法で書かれていた既存の資料を組み合わせ編集して追加した部分と、新たに書き起こした部分を区別する必要があるのですね。

 聖徳太子については、推古紀の中でも、登場する箇所によって呼び方がまったく異なっており、中間部分だけが「皇太子」で統一されていることが知られています。拙著『聖徳太子-実像と伝説の間-』では、その点を次のようにまとめておきました。( )内はその呼称の登場回数です。

 敏達五年: 東宮聖徳
 用明元年: 厩戸皇子(注で異称として豊耳聡聖徳・豊聡耳法大王・法主王)
 崇峻天皇即位前紀: 厩戸皇子(2)・皇子
 推古元年: 厩戸豊聡耳皇子・皇太子・上宮厩戸豊聡耳太子
 同二年~二十八年: 皇太子(18)
 推古二十九年: 厩戸豊聡耳皇子命
 同年是月条: 上宮太子(3)・上宮皇太子・皇太子・上宮豊聡耳皇子・太子
 舒明天皇即位前紀: 皇太子豊聡耳尊・先王(2)・聖皇
 皇極二年: 上宮・上宮王(*斑鳩宮や山背大兄を含むため、回数特定できず)

いかがでしょう。推古二年から二十八年までの記事では一貫して「皇太子」と呼ばれており、呼称の統一がはかられています。程度はどうであれ、まとめて書き換えがなされたことは確かであり、改変した者(たち)は、それほど「皇太子」という点を強調したかったのです。ただ、その推古紀でも、それ以外の箇所では呼称が不統一であるのは、基づいた資料のせいなのでしょう。

 ここで、再度、和習に満ちた「憲法十七条」の問題に戻ります。天武天皇の時代、それ以後の時期、『日本書紀』編集の最終段階、のいずれであれ、それらの時代に書かれたとしたら、「憲法十七条」は天皇の絶対化をはかっているにもかかわらず、天孫降臨神話に基づく天皇の権威付けをしておらず、「神」という言葉すら出てこないのはなぜなのか。