聖徳太子研究の最前線

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拙論「『人間聖徳太子』の誕生--戦中から戦後にかけての聖徳太子観の変遷--」刊行

2012年05月19日 | 論文・研究書紹介
拙論「『人間聖徳太子』の誕生--戦中から戦後にかけての聖徳太子観の変遷--」刊行

 昨年度末以来、更新がとまっていましたが、そろそろ復帰します。その最初は、自分の論文ですみませんが、

石井公成「『人間聖徳太子』の誕生--戦中から戦後にかけての聖徳太子観の変遷--」
(『近代仏教』第19号、2012年5月)

です。

 この内容については、以前、少し触れました。聖徳太子を一人の悩む人間としてとらえようとする傾向は、いつ頃、誰が始め、どのように広まっていったのかに関する試論です。

 結論としては、『歎異抄』などの影響が大きく、直接には倉田百三『出家とその弟子』あたりが大きな役割を果たしたのであって、そうした視点が、戦時中に精神的な居場所を見いだせずに悩んでいた亀井勝一郎、小倉豊文、家永三郎の太子観に影響を及ぼしたと論じています。

 戦時中の国家主義的聖徳太子観のうち、注目されるのは、金子大栄が文部省関連で刊行している著作の多さです。文部省は若者が社会主義に染まらないよう国家主義を強調する一方で、西洋風な科学教育をおこなって軍事技術と産業を盛んにするため、聖徳太子を利用しようとしたようです。つまり、けがらわしい毛唐どもから学ぶことなど無いといった偏狭な超国家主義では困るため、聖徳太子のことを、海外の文化を選別しつつ積極的に取り入れ、元のもの以上に磨き上げた偉大な先人とまつりあげ、それにならおうとしたのです。

 なお、戦時中にその文部省とつながり、聖徳太子のことを「承詔必謹」を説いた国家主義者として強調していた人たちのほとんどは、戦後は一転して平和主義者・民主主義者になりましたが、その場合も、根拠は聖徳太子でした。

 その代表は、戦後になると進駐軍こそ太子のいう「枉を直す」ものとして歓迎した紀平正美や、敗戦の翌日から太子が示したような文化国家日本の建設のために、『勝鬘経義疏』の注釈に取り組んだ花山信勝などでしょう。

 こうした人たちは、当然ながら、ろくに反省しません。一方、金子大栄などは、常に凡夫としての我が身を慚愧し、深刻に悩みながら時代に流されるばかりであって、時流の先兵になる場合も多いタイプと言えましょうか。

 これについては、真宗、とりわけ『歎異抄』の影響が強い系統では、慚愧慣れした慚愧が繰り返されるだけであり、「自分の言動を客観視して問題を見いだし、自分なりに責任をとろうとする姿勢が生まれにくい」と書きました。『歎異抄』がもたらした弊害は大きなものがあります。

 面白いのは、これとは反対に、戦時中に「世間虚仮」の語に着目し、「悩む人間としての聖徳太子」を強調していた亀井、小倉、家永などは、戦後数年は太子についてあまり語らなかったことです。

 そうした沈黙を破って家永が昭和26年に書いた太子関連の文章は、少年向けに書かれた偉人伝でした。日本文化のすばらしさを強調する偉人伝集の企画で、聖徳太子を担当し、小説風に書いていたのです。

「殿下、お呼びでございますか。」
太子は、慧慈が入って来たことにさえ気がつかないほど夢中になって、考えごとにふけっておられたのである。
慧慈の声に、太子ははっと顔をあげられた。(七頁)

などと書いてます。

 こういうのを見ると、我々は客観的研究などと言っておりながら、実際には自分が好ましいと思われる聖徳太子像を資料に投影させているだけの場合が多いことを反省させられますね。

 家永の太子関連論文については、やはり家永流の太子観が多少は読み込まれているとはいえ、研究はなるべく文献学の範囲に止め、想像については少年向けの小説や一般向けの戯曲として書くにとどめようとしたことについては、むしろ感心させられます。