先に「天寿国繍帳」の絵柄について検討した論文を紹介しました。その「天寿国繍帳」で最も問題になるのは、銘文に「天皇」という語が見えることでした。このため、「天寿国繍帳」の成立時期をめぐって論争が続いてきたわけですが、その天皇の語について興味深い考察をしたのが、
馬梓豪「日本律令時代初期における君主号と天皇号の性格」
(『日中文化学報』第1号、2020年)
です。
馬梓豪氏については、前にも論文を紹介しました(こちら)。今回は、日本人研究者が「天皇」という語に注意しすぎていて、他の称号について十分注意していないとし、他の称号について詳しく検討した論文であって、面白い結論を導きだしています。視点が斬新ですね。
馬氏はまず、天皇号の研究史を概説し、推古朝説から天武天皇時代説へと移り、ついで天智天皇時に既にあったとする説が有力となり、最近では、新たな推古朝説も出てきていると説きます。
そして、基本となる『養老令』の規定から見てゆきます。ここでは、「天子。祭祀に称する所。天皇。詔書に称する所。皇帝。華夷に称する所。陛下。上表に称する所。太上天皇。譲位の帝に称する所。乗輿。服御に称する所。車駕。行幸に称する所」と規定されています。このうち、陛下・乗輿・車駕は正式な称号ではなく、場合による敬称・美称に近いものです。
次に、日本の律令の手本となった唐の律令は失われていますが、『唐令拾遺』に見える対応部分は、こうなっています。「皇帝・天子。華夷之を通称す。陛下。咫尺に対揚す。上表之を通称す。至尊。臣下内外之を通称す。乗輿。服御に称する所。車駕。行幸に称する所」。まさに、そのままであって、ちょっと違うだけですね。
一方、『養老令』の官撰の注釈であって9世紀初めに成立した『令義解』では、「天子」の部分について、「謂ふ、神祇に告ぐるには天子と称す。凡そ天子より車駕に至り、皆な書記に用ふる所。風俗に称する所にいたり、別に文字に依らず。たとひ、皇御孫命(すめみまのみこと)及び須明楽美御徳(すめらみこと)の類なり」とあります。訓は古い形です。
また、9世紀中頃に成立した私撰の注釈である『令集解』でも同じような説明がなされています。つまり、「天子」や「天皇」などは文書に書く際に用いるものであって、口頭の場合は、「スメミマノミコト」とか「スメラミコト」と呼ぶのであって、漢字に依らないとするのであり、これを文書にする場合はいろいろな漢字表記がなされた、ということです。
ただ、『唐丞相曲江張先生文集』巻11の「勅日本国王書」では聖武天皇のことを「日本国王 主明楽美御徳」と呼んでいますし、『続日本紀』にもこの類の呼び方がかなり見えています。
そこで、馬氏は、『養老令』の規定は建て前であって、実際には内政や外交の場でも「スメラミコト」を自称・他称として使う傾向があり、「スメミマノミコト」は『延喜式』の祝詞によく見えるため、祭祀にあたって使う傾向があったと推測します。
馬氏は、唐令では皇帝を天子より先に置いたのに対し、日本では天子号を優先させ、祭祀に用いるとしていることから見て、日本の「天子」号は唐とは異なる概念に基づくものと見ます。つまり、日本の天子号と、唐令には見えない「太上天皇」号は、日本独自のものとするのです。
そして、『養老令』の「公式令詔書式条」によると、「(一)明神と御宇らす日本の天皇が詔旨らまと云ふ。咸く聞きたまへ。(二)明神と御宇らす天皇が詔……(三)明神と御大八州らす天皇が詔……(四)天皇が詔……」とあり、冒頭に置かれていて「明神御宇日本天皇」こそが最も荘重であり、「天皇」だけの場合は簡単な呼び方ということになります。
馬氏はさらに様々な例を検討し、「天皇」というのは、日本独自の君主号の呼び方のうちの書記用の一つにすぎなかったと説きます。そして「スメ~」という語の重要性を強調し、上代文献における「皇」の字に関する白藤禮幸氏の研究では、「皇」は「王」の字の増画であって、「天皇」は日本的な漢語であったとしていることを紹介します。
白藤氏の研究とは、「上代文字研究 各論(一)―「皇」をめぐって―」(万葉七曜会編『論集 上代文学』第一六冊、1988年)であって古いものですが、重要でありながら最近はあまり引用されていないため、このブログでも紹介したいですね。
馬氏は、「王」の語は単独で用いられることが多いのに対し、「皇」の語は熟語で用いられる例が多く、その半分が「天皇」のような日本的漢語であるとする白藤氏の指摘に注目し、『日本書紀』では「吉備嶋皇祖母命(すめみおやのみこと)」などの用例から見て、「スメ(皇)」を含む語の成立は大化前代までさかのぼりうるとします。
そして、「スメラミコト」は「天皇」以外の表記が多く見られることからすると、天皇号の本質は「スメラミコト」のように「スメ」をつけた語、それも書記用でない「風俗用語」にあると説きます。「風俗」とは、それぞれの土地の習慣を指す漢語であって、ここでは当時の日本のしゃべり言葉のことです。「天皇」という称号は、そうした言葉の漢字表記の一つにすぎなかったと見るのです。
馬氏は、さらに「明神」という言葉について検討していきますが、これについては簡単に紹介するにとどめます。馬氏は、天孫神話では、天皇だけでなく他の氏族も天の神の子孫とされていたが、古代の日本では見えない存在であった「神」が、天皇が「アキツカミ」とされることにより、現実にいる神として位置づけられ、別格の存在とされたと説きます。
つまり、「明神」とされた「天皇」は、氏族制時代の呪術的な観念を受け継ぎながら、飛躍的な神格化を達成したのであり、7世紀後半から8世紀初めにかけて成立した律令は、氏族制頃の観念と唐に学んだ律令制の両面をそなえた「過渡期的な性格があった」と結論づけるのです。
前に触れた森田悌氏が、「天皇(てんのう)」は呉音で発音されているため、「皇后・皇太子」のように「皇」を「コウ」と漢音で発音する律令以前の成立とした際、スメラミコトを須弥山(スメール)に依るものとしたのは無理そうですが(こちら)、「スメ」の概念を重視し、「すめらみこと」としての「天皇」の語の成立は早いとするのは大事な点ですね。
「天寿国繍帳」銘同様、律令で定められたはずの「天皇」の語が用いられているという理由で、推古天皇を「大王天皇」と呼ぶ薬師像銘も「法王大王」と記された「湯岡碑文」も後代の作と疑われてきました。しかし、竹内理三「”大王天皇”考」(『日本歴史』第51号、1952年8月)は、薬師像自体は後代の作であるにしても、「大王天皇」などという妙な呼び方をしていることこそが「天皇」の語の成立事情を示すものであるとし、推古朝の呼び方である証拠としていたことが、卓見として思い起こされますね。