聖徳太子研究の最前線

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【珍説奇説】新刊の木村勲『聖徳太子は長屋王である』

2021年02月22日 | 聖徳太子をめぐる珍説奇説
 この10年ほど、学界で大山誠一氏の虚構説を明確に支持して論文を書く人は、盟友の吉田一彦氏以外には見かけなくなったように思いますが(こちら)、そうした中で大山説を受け継ぎ、さらに空想を重ねていった本がまともな出版社から刊行されました。
 
木村勲『聖徳太子は長屋王であるーー冤罪「王の変」と再建法隆寺』
(国書刊行会、2020年10月)

です。木村氏は、古代にも関心を持つ日本社会史・近代文芸の研究者である由。

 国書刊行会は、近年は様々な系統の本を出版していますが、仏教・神道・近代民間信仰などについては、きわめて地味で学術的な書物を数多く出してきました。韓国の金剛大学仏教文化研究所が編集した中国の地論宗に関する韓国・日本・中国の研究者たちの論文集、『地論思想の形成と変容』(2010年、こちら)では、私は「序章」を執筆させてもらっています。

 また、国書刊行会から出版された大竹晋『大乗起信論成立問題の研究』(2017年)については、長年の真偽論争に決着をつけた画期的な書物だと高く評価し、いちはやく書評を書いたくらいです。そうした優れた学術書を世に送ってきた国書刊行会が、世間によくある『聖徳太子は実は誰々だった!』といった類の本を出すというのは驚きです。

 木村氏は、冒頭の「プロローグ」を「古代は近代史を学ぶ私にとって基本的にロマンである」という言葉で書き始めています。つまり、近代については学問的に取り組むが、古代は趣味でロマンを追う、ということのようです。ですから、史実の解明を期待する人であれば、題名を見た段階で「トンデモ本だな」と判断し、この最初の文を読んで「やはりそうか。ロマンとなれば梅原流か?」と思って放り投げるのが正解です。

 しかし、国書刊行会の本ですので、多少は役に立つ考察もなされているのではないかと、我慢してぱらぱら読んでいくと、大山誠一説への高い評価が書かれており、道慈が果たした役割が強調されています。ところが、その後に続いているのが、森博達氏の『日本書紀』α群β群説の紹介と賞賛なのです。森さんは、大山氏の道慈執筆説は「妄想」にすぎないと断定して強く批判しているんですが……(こちら)。

 以下も、こうした不統一と不勉強な記述が続き、学界の通説を無視した空想が書き連ねてあります。たとえば、法隆寺金堂の釈迦三尊像銘は、「聖徳法皇なる人物の死(書紀の厩戸は六二二年)にこと寄せて、長屋王一家の死を書いているのだ。つまり、銘文は七二九年二月十二日以降の製作なのである(あらかじめ言っておけば七三六年までには完成している)」(113頁)んだそうです。銘文では「上宮法皇」であって「聖徳法皇」ではないですけど……。

 学界の通説は研究の進展によって変わっていくものですので、通説を批判するのは結構なのですが、その場合は、きちんとした論証が必要でしょう。近代の研究者である木村氏は、基礎となる漢文資料が読めておらず、思いつきばかりで論証がなされていません。

 木村氏は、釈迦三尊像と銘を刻んだ光背とは一体として推古朝に作られたとする東野治之氏の説のうち、一体説の部分だけを承認して時代判定を大幅に変え、釈迦三尊像も光背も「長屋王の変の後に改めて、元の飛鳥古風で作り直されたのだ……何より優れた総合プロデューサーの監督下で」(111頁)と論じるのです。「総合プロデューサー」というのは、道慈ですね。道慈は法隆寺と交渉はあったものの、そこまで深く関わっていたことを示す資料はないですが。まあ、この辺が滅ぼされた上宮王家と長屋王一家の悲劇をつなぐロマンなんでしょう。

 釈迦像に鋳造の失敗と見られる跡があることが指摘されているのは、これまで言われているように推古朝頃の技術が未熟だったためではなく、奈良時代になって古風な仏像の精巧な模造品を作るのは困難だったためだろうというのが、その論証らしきものです(釈迦三尊像に関する美術史研究者の見解はまったく違いますので、次回の記事で最新の説を紹介しましょう)。

 木村氏は、「憲法十七条」については、元明女帝の敕や元正女帝が発した敕のうちの仏教関連の内容と関係があり、それに基づいて道慈が書いたと論じます。そこまでは大山説に近いですが、氏はさらに『法華義疏』も道慈が718年に書いたと論じています。帰国してまもない時ですね。大山説においては説明に困るといつも道慈がやったとされるのですが、木村氏が説く道慈は、大山説以上に、超人的な万能ぶりを発揮しているのです。

 しかし、道慈は、木村氏自身が「まず三論の僧であった」(154頁)と書いているように、攻撃的な論調で知られ、中国では反発をくらって数人が殺されている三論宗の僧侶ですよ。実際、道慈は「硬骨」で衝突しがちであって、日本仏教のあり方を批判する『愚志』を書いたと伝えられていますので、まさに三論宗の特徴と合致します。そのうえ、道慈は長屋王から宴席への参加を誘われた際、僧侶と俗人は立場が違うと謝絶する漢詩を送ったことで知られています。

 その三論宗を大成した攻撃的な学風の吉蔵(549-623)は、『法華義疏』の「本義」である『法華経義記』を書いた光宅寺法雲(467-529)のことを、小乗にすぎない『成実論』に基づく「成実論師」と呼んでいました。そして、法雲については『法華経』の素晴らしい意義を知らず、すべての衆生に仏性が有ると説いている『涅槃経』と違って『法華経』は仏性を説いていないため『涅槃経』より劣る経典と位置づけたとして激しく批判し、『法華経』も実質的には仏性を説いていることを力説していました。

 『涅槃経遊意』で論じているように、『法華経』がきちんと説いているのに、それを理解できなかった劣った理解力の者たちのために補足として説いたのが『涅槃経』だ、というのが吉蔵の見解です。前の記事でちょっと触れましたが(こちら)、吉蔵の『法華玄論』では、「仏性」の語を何百回も用いて、この問題を熱っぽく論じています。空観と仏性・如来蔵思想を統合しようとした三論宗にとって、この問題はそれほど重要な問題だったのです。吉蔵の兄弟弟子であって吉蔵に似た主張を展開していた百済の慧均(生没年不明)も、『四論玄義記』において「仏性義」という章を設け、仏性について詳しく論じています。

 一方、法雲の『法華経義記』とそれを手本とした太子の『法華義疏』は、「仏性」という言葉を一回も使っていません。木村氏は、道慈が『法華経義記』を参考にして『法華義疏』を作ったと述べていますが、道慈は時代考証されてもばれないように、自分自身が属する三論宗の主張を完璧に隠し、許しがたい成実師路線で『法華義疏』を書いたことになりますね。吉蔵に申し訳ないと思わないのでしょうか。

 なお、福井康順氏は、『維摩経義疏』の太子撰を否定し、道慈が唐から将来したか朝鮮あたりの作を太子作としたかと推定しつつも、道慈の弟子であって、法相宗と激しい論戦をやったいかにも三論宗らしい智光(709?-780?)が、『浄名玄論略述』において『維摩経義疏』を太子の作として何度も引用していることに注意し、説明に困る事柄としています。また、福井氏の説を批判する太子礼賛派の花山信勝氏は、道慈関与なら吉蔵の思想の影響がないのはおかしいと論じていました。

 しかも、道慈は唐代仏教を代表する長安の国際的な学問寺に16年も留学していたのに、日本人である太子の作と見せかけるために、『法華義疏』をわざと誤字や変格語法だらけのつたない漢文で、それも隋頃の古い書風で書いてみせ、別人の筆跡による訂正も加えておいたことになります(こちら)。芸が細かいですねえ。ただ、これだと、太子礼賛にならないんじゃないでしょうか。

 木村氏は、『法華義疏』について新説を出すのであれば、原文を読んで教理について判断するのは無理にしても、せめて『法華義疏』の原物(複製)を最初の方だけでもぱらぱらと眺めてみるべきでした。誤字・誤記が多いことくらいは分かったでしょう。

 一度、無理な説を主張すると、それを支えるためにさらに無理な説を唱えざるをえなくなるものです。たまたま大山氏の『<聖徳太子>の誕生』を読んで「古代逍遙者の身にまたスイッチが入ってしまった」(234頁)という木村氏は、『古事記』の背後には長屋王がいるという大山説をさらに進め、ついには「古事記は書紀から作られた」などと言い出します。

 こうした飛びはねぶりは、大山氏が推古は即位しておらず、蘇我馬子こそが天皇だったと説くようになったことや、その大山氏を太子礼賛の立場で叩いていた新しい歴史教科書をつくる会元会長の田中英道氏が、『高天原は関東にあった』とか『京都はユダヤ人秦氏がつくった』といった類の本を出すようになったことに良く似ていますね。

 そのうえ、木村氏は、国際日本文化研究センターを創った頃の梅原猛を(氏が新聞記者だった頃に?)厳しく批判していたものの、次第に評価が変わったそうで、『隠された十字架』がこれまでの分析的な研究を批判し、総合的な考察をすべきだと説いていることを高く評価します。やはり、梅原の影響もあったか……。

 しかし、総合的な考察をするのだと称して実証的な研究を無視し、直感優先でロマンを追った梅原説がどれほど悲惨な結末に至ったかは、このブログで指摘した通りです(こちらと、こちらと、こちら)。

 いや、困りました。明らかに「古代史小説」とか「古代史エンターテインメント読み物」として出される本なら、それでもかまいませんが、国書刊行会が出す本がこんな内容で良いのか。残念ですね。 

【付記】
「憲法十七条」の第一条の冒頭では、「無忤(さかふること無し)」という姿勢を強調していますが、三論宗の居士であって周囲と激しく対立し、最後は皇帝にまで逆らって怒らせ、獄中で殺された陳朝の傅縡(530年代~580年代)は、成実師たちに対する激しい論難を批判され、「無諍(争わない)」という態度を守るべきだと忠告されると、『明道論』を書いて反論し、異説がとびかう都会では「俗に忤」って真実の教えを広めるべきであって、「無諍」というのは山の中で修行している仲間うちでのみ通用する話だと言い放っています。
 吉蔵に関する記述についても、少し補足しました。
【付記:2021年2月23日】
 三論宗は「破邪顕正」を特徴としており、日本の三論宗も批判的でした。智光は法相宗の行基を非難したため地獄に落ちたと伝えられていることが示すように、奈良朝半ばから平安初期にかけては三論宗は法相宗を激しく攻撃しており、天皇が命じても両宗の争いがやまなかったほどです。その三論宗に属する道慈が「憲法十七条」第一条で「無忤を宗となせ」などと説くか……。
【付記:2021年3月1日】
 上記の付記の末尾でそのように書いたのは、20年前の拙論「「憲法十七条」が想定している争乱」(こちら)で指摘したように、「無忤」というのは、三論宗から攻撃された『成実論』尊重派の僧尼が尊重していた徳目だからです。
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