聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

再建法隆寺の伽藍配置は唐尺に基づく:伊藤美香子・溝口昭則「法隆寺式伽藍の配置計画について」

2020年10月27日 | 論文・研究書紹介
 中国美術史の研究者だった小杉一雄は、大橋一章編『寧楽美術の争点』(グラフ社、1984年)への「序」で次のように述べました。
 
 「思えば日本美術史学史が法隆寺再建非再建論争で幕を開けたことは、まことに倖せであった。もしあれが法隆寺でなく、室町の仏像とか江戸の文人画をめぐる論争であったなら、われわれの先輩たちは恐らくあのように白熱した論争を展開しなかったに違いない。……以来三代にわたるあの大論争に投ぜられた幾多の俊敏にして透徹した頭脳によって、今日の日本美術史学が築き上られたのである。つまり日本美術史学研究史の第一頁が、中世美術でも近世美術でもなく、上代美術であり、しかも熾烈きわまる論争史であったことは、日本美術史学発展のためまことに幸福であったのだ。玉磨かざればの譬えの如く切磋琢磨こそが、学を成就する唯一つの道であり、個人においても学界においてもこの要諦にかわりはない。」

 この指摘は、今でも有効です。その再建論争のきっかけとなったのは、すぐれた建築史学者であった関野貞が、1905年に「法隆寺金堂塔婆及中門非再建論」(『建築雑誌』218号)を発表したことでした。『日本書紀』では、斑鳩寺は670年に火災で焼けたと記されています。

 しかし、関野は、法隆寺は7世紀後半に建立された薬師寺など他の寺に比べて様式が古すぎるとし、また建築の基準となる尺度が、遣唐使派遣よりかなり後になって採用された唐尺ではなく、日本では高麗尺と呼ばれる朝鮮半島で用いられていた古い尺度であったと推定されることから、現存の法隆寺は再建されたものではないと論じたのです。

 以後、高麗尺を用いているのは確かだが、焼ける前の寺に近い形で再建するため、あえて髙麗尺を用いて古い様式で再建したのだ、といった説を始めとして、盛んに論争がなされました。比較的最近になってこの問題を取り上げたのが、

伊藤美香子・溝口昭則「法隆寺式伽藍の配置計画について」
(『日本建築学会 東海支部研究報告書』第51号、2013年2月)

です。この論文では、溝口氏の先行論文により、次のような再現図を推定しています。回廊の中のうち、左部分が五重塔、右のやや大きい部分が金堂、下の中心が中門です。



 そして、法隆寺は唐尺での100尺を単位とし、東西が300尺、南北が200尺という配置を基本としているものの、五重塔と金堂の大きさのバランスを考え、中門の右側の回廊を1間だけ長くしたため、東西の中央部は105尺となり、また南北は、中門と建物の間隔をあけ、南北の回廊の中央に扉口を作れるように1間分増やして奇数の柱間にした結果、南北は212.5尺となったとします。

 これなら、「唐尺で建てたとすると半端な数字となるため、高麗尺で建てたと見るべきだ」という説に反論できることになります。この論文では、以下、山田寺、長林寺、観世音寺、吉備池廃寺などの伽藍配置を検討しており、いずれも唐尺を基本とし、個々の寺の事情によって微調整したものと推定できると論じています。

 これは全体の配置の尺度の話であって、個々の建物については、また別な検討が必要ですが、100年以上も議論されてきた問題が少しづつ解決されていくのは嬉しいものです。

黒上正一郎の聖徳太子研究が学生に与えた影響(3):一高の瑞穂会

2020年10月22日 | 聖徳太子信仰の歴史
 少し前の記事で、一高内の日本精神団体であった瑞穂会に属していた学生たちが、黒上正一郎を指導者と仰ぐようになり、瑞穂会から分かれて聖徳太子と明治天皇を尊崇する国家主義の学生団体である昭信会を設立したことについて述べました。

 その瑞穂会を創設したのは、瓊音と号していた沼波武夫(1877~1927)です。東大国文科を卒業し、文部省や出版社に務めたのち、東洋大学の講師などをしていた瓊音は、すぐれた国文学者であって、特に俳諧研究で有名でした。ただ、感情の起伏が激しかったため、神経衰弱になった時期もあり、一時期は新興宗教である至誠殿にはまってしまい、女教祖の指導を受け、皆で法悦の踊りを踊ったりしていました。

 瓊音は、その宗教団体から離れると、次第に国家主義を強め、大川周明や安岡正篤などの日本精神論者と交流してともに活動するようになります。

 大正10年には第一高等学校講師(翌年に教授)、東京帝国大学講師となりましたが、同12年に無政府主義者の難波大助が皇太子(後の昭和天皇)を狙撃する事件が起きると、大変なショックを受けます。ただ、きまじめな瓊音は難波を非難するのではなく、この事件を日本の危機を座視してきた自分への戒めと受け止め、その点でむしろ難波に感謝するのです。

 こうしたタイプの人物であった瓊音は、若者に日本精神を広める活動に専念するため、一高以外の複数の大学講師はやめてしまいます。そして、大正15年には一高内に瑞穂会を創設し、日本精神を学ぶ研究会としました。

 この会は盛んに活動しており、全国の学生たちにもかなりの影響を与えました。瓊音が病没すると、著名な学者たちを含む多くの有名人や瑞穂会の会員から追悼文を寄せてもらい、瑞穂会編『噫 瓊音沼波武夫先生』(1928年)という立派な追悼文集を刊行しています。

 瓊音は、早くから聖徳太子を尊崇していましたが、仏教学者や宗派の僧侶が三経義疏について書いたものには飽き足らず、またインドや中国の仏教には不満を覚えていたようです。その瓊音が胸の病気で苦しみ、活動ができず焦躁していた際に出会ったのが黒上正一郎でした。喜んだ瓊音は、黒沼の聖徳太子研究について、「千三百年来唯だ此の一人」とまで賞賛したと、上記の本で瑞穂会の学生が思い出を記しています(316頁)。

 瓊音と黒上の交流については、打越孝明「瑞穂会の結成および初期の活動に関する一考察-沼波瓊音、黒上正一郎、そして大倉邦彦-」(『大倉山論集』49号、2003年3月)、また最近刊行された中島岳志「『原理日本と聖徳太子-井上右近・黒上正一郎・蓑田胸喜を中心に-』」(石井公成監修、近藤俊太郎・名和達宣編『近代の仏教思想と日本主義』、法藏館、2020年)が紹介しており、近年になって注目されつつあります。

 瓊音の上記の評価は、黒上のひたむきな態度と国家主義的な解釈に感銘を受けてのものであって、かなり感情的なものです。仏教学や歴史学の教育・訓練を受けていない黒上の三経義疏研究は、思い込みが強く、礼賛先行であって、先行する中国の仏教文献などとの比較は充分になされていません。

 『勝鬘経義疏』については、7割ほどが一致する注釈の断片が敦煌文書中から発見されており(奈93、あるいはE本と呼ばれています)、太子独自の素晴らしい解釈とされてきたものが、実は先行文献にかなり記してあったことが知られています。これは戦後の発見ですので、黒上は利用できなかったわけですが、黒上当時においても、もう少し比較検討はできたはずです。

 いずれにしても、求道者のような生き方をした黒上の聖徳太子研究は、揺れ動く社会状況の中で悩み、迷っていた瓊音や学生たちに大きな影響を与え、彼らを日本礼賛・国家主義の方向に推し進めたのでした。上記の追悼集のうち、瑞穂会同人の筆になる刊行の序の末尾は、

  「鄙を蹂躙し、悪を寸断し、冷静を鞭打つ」の使命は正に我瑞穂会の使命
  である。而して大日本帝国の旗を翻し、大日本帝国の鼓を鳴らす事が先生
  を慰めまつる唯一の道であらう。(4頁)

となっています。鼓を鳴らすとは、むろん、不義を討つ戦陣での鼓舞の鼓です。この人たちは皆なまじめで、ひたむきで、きわめて攻撃的だったのであって、原理日本社などとかなり共通した性格を持っていたのです。

「天寿国繍帳」を作った技術者たちの氏族を検証:吉川敏子「天寿国繍帳制作の一背景」

2020年10月18日 | 論文・研究書紹介
 「天寿国繍帳」の銘(以下、銘文と記します)については、記載されている内容通りに推古朝に作られたとする説の他に、天武・持統朝に作り直されたとする説、奈良時代の偽作説など、様々な説が出されています。こうした場合、何より大事なのは、実物の精査、そして絵柄と一体となって刺繍されていた銘文の正確な読解です。銘文は有名であるものの、検討すべきことがまだまだ多いのです。このブログでも、かなり前にそうした見直しの一例である近藤有宜氏の論文をとりあげて紹介したことがあります(こちら)。

 この近藤論文の4年後に、同様に精密な読解に取り組んだ例が、

吉川敏子「天寿国繍帳制作の一背景」
(『文化財学報』31号、2013年3月)

です。

 吉川氏は、奈良大学文化財学科の教授であって古代史の研究者です。この論文は、先にとりあげた酒井龍一氏の退職記念論集に掲載されたものです。

 吉川氏は、この論文当時までの研究成果から見て、「七世紀前半の文章であるか、もしくはその頃の原資料に依拠した文章である可能性は高い」と述べ、銘文の末尾に記された制作者たちの構成を考えると、「七世紀後半の手が加えられた可能性を完全には排除できないにしても、概ね推古朝に一括して書かれた内容を伝えていることを補強できるのではないか」(18頁下)とします。

 銘文の末尾はこうなっています。

  画者東漢末賢 高麗加西溢 又漢奴加己利 令者椋部秦久麻
 (画ける者は東漢末賢[やまとのあやのまけん]、高麗加世溢[こまのかせい]、又た漢奴加己利[あやのぬかこり]、令せる者は椋部秦久麻[くらべのはたのくま]なり)

 「令者」、つまり監督者とされる椋部秦久麻について、吉川氏は鞍部村主という渡来系の氏族に着目します。かの鞍作鳥(止利)もその一族であって、鳥は「鞍部鳥」とも記されます。鳥については、祖父の鞍部村主司馬達等は蘇我馬子の仏教受容を手助けをした人物、叔母の嶋は日本最初の尼、父の多須那は用明天皇の病気恢復祈願のために出家と寺の建立を誓い、天皇の没後にそれを実行しています。また、蘇我馬子の孫の入鹿は鞍作と呼ばれており、この氏族に養育されたことが推定されています。このため、吉川氏は、椋部秦久麻はこの鞍部の人間と見ます。

 次に加西溢の属する高麗氏については、『日本書紀』斉明5年条に、高麗の使者と同族の扱いで「高麗画師子麻呂」なる人物が登場します。また、白雉4年条では、亡くなった旻法師のために画工の狛[こま]堅部子麻呂らに仏菩薩像を造らせたとあり、これが銘文の子麻呂と同じ人物とします。なお、馬子は、仏像を祀らせるために嶋などを尼とさせた際、還俗していた髙麗恵便を師として迎え入れたことで知られており、ここにも高麗氏の名が見えます。吉川氏は、高麗加西溢はその一族と見るのです。

 次に東漢末賢の氏族である東漢氏については、馬子が渡来氏族であるこの氏族を配下に置き、東漢直駒に崇峻天皇を暗殺させたことで知られています。最後の漢奴加己利も渡来氏族ですが、嶋とともに出家して尼となった禅蔵尼の俗姓が漢人です。

 以上のように、「天寿国繍帳」の監督者・制作者と記された者たちの氏族は、いずれも馬子と関係が深く、東漢末賢以外の3人については、すべて蘇我氏の仏教信仰に関わる一族でした。吉川氏はこの点を重視するのです。そして、日本の仏教は百済から受容したものの、推古朝については、高句麗の仏教の影響も考えるべきだと述べています。実際、飛鳥寺などには高句麗仏教の影響があったうえ、聖徳太子の師も百済の恵聡の他に高句麗の慧慈がおり、『日本書紀』では恵聡以上に重視されていますね。

 大山誠一氏は、「天寿国繍帳」と銘文は、藤原氏の危機的な状況の中で太子信仰にすがっていた光明皇后が作らせたものであり、多至波奈大女娘は光明皇后が自らを形象化した架空人物であって光明皇后の「情念の産物」だという珍妙な空想を述べていました(実は、光明皇后との関係を強調する先行説があったのに触れていないことは、こちら)。

 しかし、そうであるなら、銘文は字数が限られているのに、なぜ、すがるべき太子の素晴らしさを強調したり、自分に対する太子の予言などを記したりせず、前半で太子と多至波奈大女娘の尊貴な系譜を長々と述べたてて限られた字数の半分を使い、末尾でも上記のような著名でない制作者たちの名前を詳しく記して貴重な字数を無駄に使うのでしょう。

太子道、飛鳥の方位も傾くか?:酒井龍一「推古朝都市計画の復原」

2020年10月14日 | 論文・研究書紹介
 この前に掲載した2篇の記事では、若草伽藍を初めとする斑鳩の建物や太子道が西に傾いた方位で建設されていることに触れました。ところが、唐の都である長安などは、条坊制と呼ばれる形になっています。つまり東西南北の方向に合わせた四角い土地が碁盤の目のように整然と区切られ、尊貴な存在である皇帝の宮殿が、世界の方位の基点となる北極星のように都の北端に位置していました。日本では、藤原京からこの条坊制が採用され、平城京・平安京に引き継がれますが、斑鳩の地割りはそうではなかったのです。

 では、飛鳥の都はどうなっていたのか。当時、最も巨大であって、最新技術を用いて建設され、推古4年(596)に完成した飛鳥寺(法興寺)は、正方位、すなわち正確に南北の軸にそって建設されていました。斑鳩の建物はこの様式に反することになりますが、これは聖徳太子が推古天皇や蘇我馬子にさからったということになるのか。

 この問題をとりあげ、斑鳩だけでなく、推古朝では飛鳥の都も斑鳩と同様に「西偏二〇度前後」の方位で都市計画がなされ、その方位に合わせて建物が建設されただろうと推測しているのが、

酒井龍一「推古朝都市計画の復原-斑鳩と飛鳥を結ぶ太子道」
(奈良大学編、酒井龍一・荒木浩司・相原嘉之・東野治之著『飛鳥と斑鳩-道で結ばれた実やと寺-』、ナカニシヤ出版、2013年)

です。酒井氏は、考古学者ですが、専門を「世界考古学、考古学者の考古学」と記していることが示すように、こつこつ発掘にうちこんで実証するタイプではなく、アリゾナ大学留学時に学んだ学問を基にし、「仮説モデル」を提唱して発掘成果によって是正していく特異な学風です。上にあげたのは、シンポジウムでの発表をまとめたものです。

 副題が五・七・五になっていることからも分かるように、氏のすべての論文では、題名や副題や節の名はこうした形になっており、論文末尾にその内容や課題をまとめた川柳が複数並べられることもあります。これが話題になり、氏はこれらの考古学関連の川柳を集めた『発掘川柳』といった本まで出しています。(今回の題名は、氏にならって川柳っぽい形にしておきました)

 酒井氏は、太子道の跡は推古天皇の豊浦宮(法興寺に続いて豊浦寺に建て替え)の西側すぐ手前でも確認されているため、豊浦宮(豊浦寺)の西側が太子道の終点であるとします。そして、道はそこで直角に左折して飛鳥の中央部に至ると右折し、太子道と並行する西偏二〇度前後で飛鳥を貫く大道となって東南に向い、正方位の飛鳥寺の橫を通って蘇我馬子がいた嶋宮まで至っていたと推測します。この大道を氏は「飛鳥縦大路」と称しています。

 氏は、小墾田宮は飛鳥寺の北側にあったと推測し、この地域からは「西偏する建物や水路が各所で発掘されています」と述べます。さらに、飛鳥板蓋宮伝承地の井戸の北側の深い位置では、西偏二〇度の石敷暗渠が発掘されているとしてその写真を示し、飛鳥岡本宮と推測される地域では上層の宮殿跡は正方位だが、下層には西偏二〇度前後の建物跡が確認されつつあると述べます。上記の暗渠は、上層から発掘された南北の方向で建設された用水路の下に斜めにもぐりこむような形で暗渠が掘られていたのです。

 氏は上記の書物末尾に掲載されている討議「飛鳥と斑鳩-古代の都市景観を考える」では、推古朝は「『斑鳩-連結道路ー飛鳥』を一体で造った」という説(70頁下)を提唱しています。ただ、この場合の都市計画とは、厳密な意味での条坊制ではなく、おおざっぱな「方形の土地枠組制」程度であったというのが氏の考えです。

 文献資料の着実な研究で知られ、聖徳太子研究でも成果をあげている東野治之氏は、討議でこの説に対し、道が「斑鳩から、当時の権力者の蘇我馬子の邸宅まで走っているというのは、本当に象徴的なことだと思うのです」と述べ、太子が斑鳩に引退したという説は成り立たず、「政権の別の拠点が斑鳩にあった、と考えるべきじゃないか」(76頁)と提案しています。太子は、馬子の娘を妃としていたことが想起されますね。

 酒井説は、当人が「モデル」であって「事実」ではないと強調している通り、あくまでも仮説です。実際、考古学者の相原氏は、隋との交流が始まって以後であるため、小墾田宮は中国風に正方位で建てられていたと思われると述べています(55頁)。ただ、酒井氏が例をいくつもあげているように、飛鳥でも西に傾いた方位で造られた遺構が次々に発掘されていることも事実です。今後の発掘の進展に期待しましょう。

中之島 香雪美術館での聖徳太子関連特別展ならびに講演会

2020年10月11日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報
 大阪の「中之島 香雪美術館」で、

2020年10月31日(土)~12月13日(日)
「聖徳太子 ―時空をつなぐものがたり―
聖徳太子像・聖徳太子絵伝 修理完成記念 特別展」

という特別展がおこなわれ(こちら)、会期中に記念講演が2回開催されます。

石井公成(駒澤大学教授)
「三経義疏<さんぎょうぎしょ>から浮かびあがる聖徳太子の人間像」
2020年11月14日(土)14時~15時30分(13時30分 受付開始)

米倉 迪夫(東京文化財研究所名誉研究員)
「聖徳太子信仰の場と太子絵伝<たいしえでん>の制作」
2020年11月28日(土)14時~15時30分(13時30分 受付開始)

 ※状況により中止の可能性があります

会場:中之島会館(大阪市北区中之島3-2-4中之島フェスティバルタワー・ウエスト4階、中之島香雪美術館隣)
参加料:500円(展覧会観覧には別途入館料が必要)

参加は先着順の由。申込方法は上記の展示のサイトに記されています。

 聖徳太子については、このブログや本や論文や講演などで、あれこれ書いたり話したりしており、新たに話すこともないので辞退しようかとも思ったのですが、三経義疏については変格語法について論じるばかりであって、内容には踏み込んでいなかったため、そちらで話すことにしました。

太子道の発掘:唐古・鍵考古学ミュージアム『太子道の巷を掘る』

2020年10月08日 | 論文・研究書紹介
 斑鳩の東南にあたる川西町や三宅町田原本周辺には、若草伽藍や斑鳩宮跡や法起寺下層跡などと同様に、真北より西に22度ほど傾いた道路跡が残っています。これが『聖徳太子伝私記』が「須知迦部(すちかへ)道」と呼んでいる筋違道、つまり太子道の跡です。

 保津・宮古遺跡の第14次調査では、道路跡の西側に幅3メートル、深さ50センチほどの側溝がくっきりと掘られ、斑鳩方面に向かって続いているのが発見され、この側溝は22度西に傾いていました。これによって、太子道の存在が証明されたのです。側溝の下層から出土した土器は、6世紀後半の製作と推定されていますが、『日本書紀』によれば、厩戸皇子が斑鳩で宮の建築を始めたのは推古9年(602)、移り住んだのは推古13年(606)ですので、まさにその少し前です。

 こうした調査について簡単に紹介したのが、田原本町の唐古・鍵考古学ミュージアムが平成18年度春期企画展の図録として刊行した『太子道の巷を掘る~保津・宮古の遺跡と文化財~』(2006年4月)です。この図録には側溝の様子や、この付近から出た土器や建物の掘立柱穴跡などが豊富なカラー写真を添えて紹介されています。

 道路の両側に掘られたはずの側溝がそれぞれ3メートル程度の幅なのですから、道幅がどれほど広かったか想像できるでしょう。現在のところ、太子道そのものの幅は20メートルほどであったと推測されています。これまで太子道の幅は20メートルから30メートル程度と推定されていて差があるのは、側溝を含めるかどうかという点も関わっているのでしょう。

 斑鳩寺の前を橫に走っていた道は、この何倍も広かったと言われています。それはともかく、太子道がこのような規模のものだった以上、厩戸皇子は蘇我馬子との権力闘争に敗れて斑鳩の地に隠棲したとか、厩戸王は都から遠く離れた斑鳩の地で暮らしていたぱっとしない皇族であって国政に関わる力はなかった、などとする説は成り立たないことが分かります。

斑鳩と飛鳥を斜め一直線に結ぶ太子道:甲斐弓子「筋違道設定に至る道程」

2020年10月03日 | 論文・研究書紹介
 「聖徳太子はいなかった」説の大山誠一氏は、『日本書紀』に見える太子の業績の多くは、最終編纂時に藤原不比等・長屋王・道慈が協議して一気に創作したという立場であって、モデルとして実在したのは、斑鳩などという離れた土地におり、国政に参加するほどの力はなかった、ぱっとしない皇族の厩戸王だとしています。あと、奈良時代の行信や光明皇后も、太子関連文物の偽作・捏造をやってのけたとしています。いわば陰謀作成説ですね。

 このため、『日本書紀』や他の文献・碑銘などの文字史料だけをとりあげ、後からの作文だ、偽作だとして片っ端から切っていったものの、考古学や美術史学の成果、つまり具体的な「物」に関する研究は考慮しませんでした。太子実在説という誤った前提で研究しているからということで、信用していなかったようです。

 ただ、「物」についても検討しないわけにはいかないでしょう。たとえば、20キロほどある斑鳩と飛鳥の間を斜め一直線に結び、太子が馬で往復したとされる太子道(筋違道)は、ぶつぶつと切れた形で遺構が発見されています。考古学による発掘結果によれば、道幅は20メートルから30メートルもあったと推測される由。

 斑鳩を本拠とする太子の一族が滅ぼされた後になって、斑鳩と飛鳥の都を結ぶこんな広い道路が建設されるとは考えられません。また、太子の死後は、長男である山背大兄が斑鳩宮を継ぎますが、山背大兄は、『日本書紀』その他の古代文献による限りでは、荘園などをかなり有していたものの、高い役職にはついておらず、権勢を振るっていたようには見えません。

 となると、太子道は、太子の生存中に、官道として、つまり国家事業として建設された可能性が高くなります。そうした立場で、発掘資料などを利用して書かれた論文が、

甲斐弓子「筋違道設定に至る道程」
(『 帝塚山大学考古学研究所研究報告』11号、2009年3月)
同「筋違道設定に至る道程(承前) 」
(同12号、2010年3月)

です。甲斐氏は、古代の寺々は、交通の拠点に建立され、しかも回りに高い柵をめぐらすなどしているため、戦争時には軍事施設としても使えるよう配慮して建設されたと論じた『わが国古代寺院にみられる軍事的要素の研究』(雄山閣、2010年)で知られる考古学の研究者です。

 筋違道は、斑鳩と飛鳥を結ぶ最短の道だから建設された、あるいは、外国使節を迎えるための立派な道路として建設されたとする説が有力ですが、それだけが理由なのかと甲斐氏は疑います。そして、上記の著作が示すように、甲斐氏は軍事面を重視する研究者ですので、推古朝当時は高句麗・百済・新羅の三国の抗争時代であったこと、また日本と新羅との関係が悪化し、征討軍が派遣されることになって準備が進んだものの、中止になったことなどに注目します。

 そこで、斑鳩から飛鳥までを斜めに結ぶ道が既に有って、それを拡張整備した可能性を認めつつも、筋違道の重要な役割は、いざという時に斑鳩から飛鳥まで安全に行き着くための経路という面が大きかったと推測します。

 これはどうでしょうかね。甲斐氏のこの2論文は、発掘調査などに関するいろいろな情報が示されていて有益ですが、最短の整備された道であれば、外国軍であれ国内の反乱軍であれ、敵も利用しやすいのではないでしょうか。途中にけわしい峠などがあり、そこを封鎖すれば敵を遮断しやすいのでこの経路を作った、とかなら分かりますが、筋違道は平坦な地域を縦断する道です。

この筋違道については、甲斐氏も参照している発掘報告書が出ていますので、次回はそれを紹介しましょう。