聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

「世界一受けたい授業」などでおなじみの河合敦氏の聖徳太子虚構説評価と教科書論義

2021年01月19日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報

 大山誠一氏の聖徳太子虚構説は、発表してしばらくの間は大いに話題になり、古代史関連の研究論文でもしばしば言及されたうえ、賛同者たちもいましたが、様々な批判がなされた結果、次第に取り上げられなくなりました。CiNiiなどで検索して関連論文を読んでみれば分かりますが、この10年ほどは、道慈執筆説を死守する盟友の吉田一彦氏を除けば、古代史研究者の論文で大山説を明確に支持して書かれた論文は、ほとんど目にしません。言及されることも稀になっており、触れている場合は否定するためのものばかりです。

 学界はそうした状況であるにもかかわらず、聖徳太子について語る際、大山説を基調として論じ続けているのが、河合敦氏です。河合氏は、日本テレビの「世界一受けたい授業」、NHKの「変わる日本史」その他のテレビ番組によく登場し、著書や雑誌などの寄稿も多い歴史研究家です。

 温厚な容貌の河合氏は、穏やかな語り口によってわかりやすく解説しており、歴史学と一般の人たちをつなぐ役割を果たしておられますが、聖徳太子については、この10年以上、1999年当時の大山説をやや穏健にしたような内容を説き続けていることから見て、研究の進展状況についてはご存知ないようです。

 最近では、雑誌『ノジュール』2020年11月号の抜粋としてネット公開されている「河合敦の日本史の新常識 第2回『聖徳太子は本当に実在したのか-明言できない教科書の裏事情』」(こちら)がその一例です。氏は、教科書における聖徳太子の描き方が変わってきたと述べて、かつては太子の役割が強調されていたのに対し、最近の高校の教科書には「厩戸王<うまやどのおう>(聖徳太子)」と呼び、推古天皇の協力者として扱い、功績もはっきりしない書き方にしているものがあると説きます。

 氏は、そうなった背景として1999年刊行の大山氏の『<聖徳太子>の誕生』(吉川弘文館)の内容を概説したのち、2017年に文科省が社会科の指導要領案で中学校では「厩戸王(聖徳太子)」、小学校では「聖徳太子(厩戸王)」としようとしてパブリック・コメントを求めたところ、猛烈な反対をくらい、中学校・小学校とも「聖徳太子」に統一されたとし、このため、小学校・中学校では聖徳太子は英雄だと学び、高校になって脇役だったと習うという奇妙な状況になっていると批判的に述べています。

 文科省はその変更の理由として、<最近の歴史研究などを反映させた変更だったが、一般からの意見公募で、「表記が変わると教えづらい」といった声が教員などから多く寄せられた>ためと説明したのですが、河合氏は、これを問題にするのです。

 その批判の背景について詳しく述べているのは、講談社のネットサイトである『現代ビジネス』に、2017年4月6日に「聖徳太子、鎖国… 「教えづらい」のひと言で歴史が歪められる驚き 「教師が基準」でいいのか」という題で発表された氏の文章です(こちら)。

 つまり、「表記が変わると教えづらい」という理由で文科省が「厩戸王」を前面に出す変更をとりやめたのは、素人の意見に流されたものであり、古代史学の最新の研究成果を無視するものだ、という憤りがあるのです。この憤り自体は、歴史研究者としてはまっとうなものです。

 ただ、問題は、河合氏が評価している大山説は最新の説得力に富んだ学問成果でないことです。また、このブログで何度も書いてきたように、文科省が方針を変更したのは、「厩戸王」という名は、聖徳太子伝説のイメージに縛られずに研究しようとしていた誠実な研究者である広島大学の小倉豊文が、戦後になって仮に想定して用いたものであって文献には見えない、という事実を私がパブリックコメントで知らせたうえ、私の主張を知っている多くの仏教学者たちが同様のコメントを送ってくれたことが一番の原因と考えています(こちら)。

 なにしろ、誰が答弁の原稿を書いたのかわかりませんが、文部科学大臣が国会で「厩戸王」の語は『古事記』や『日本書紀』に見えるのでなどと答弁したのですから、文科省としてはパブリックコメントを見て困ってしまい、教育現場の声に配慮したような言い方をせざるをえなかったのでしょう。河合氏は、「厩戸王」という呼称が適切であるとする立場で論じていますので、私の指摘は見ておられないようです。それに、「厩戸」の「戸」は「元興寺露盤銘」に「有麻移刀」という訓があることが示すように、清音ですので、「うまやど」と濁らずに「うまやと」とすべきですね。

 河合氏が聖徳太子に関する最近の研究状況を調べていない例は、他にも複数あります。たとえば、2016年6月16日に『現代タイムズ』に乗せた「聖徳太子が歴史から消える日~ 『世界一受けたい授業』河合敦さんが教える、日本史教科書のミステリー」(こちら)では、「唐本の御影」として知られる有名な聖徳太子の肖像について、「太子を描いたものではない」という説が強くなっていると述べておられますが、実際には逆です。

 東大史料編纂所長の今枝愛真氏が、1982年にその肖像画の表具の絹に「川原寺」と読める字をすり消したような跡があるとして、太子の肖像であることを否定し、これがニュースとして広く流れました。しかし、間近で観察した東野治之氏は、掛け軸に「寿」とか「康」といっためでたい字が銀糸で縫い込まれていたものが変色したのを、今枝氏が薄暗い照明のもとで見て「川原寺」と読み誤ったらしいと推定し、この肖像画は奈良時代前半に聖徳太子像として想像で描かれたものと説きました(東野『書の古代史』「聖徳太子画像の「墨書」」、岩波書店、1994年。同「太子ゆかりの名品二点『聖徳太子画像』と『法華義疏』」、『朝日百科 皇室の名宝』、朝日新聞社、1999年)。

 また、衣服史研究の第一人者である武田佐知子氏は、その掛け軸部分は江戸時代半ば以後の中国の絹が使われているため問題外であるとし、この絵は複数の証拠から見て、唐の絵を真似て奈良朝の日本で描かれたものであり、肖像画などは信仰の対象としてしか描かれなかった古代日本において、在家の姿で尊崇して描かれうる存在は聖徳太子しかありえないと明言しています(武田佐知子「「唐本の御影」は聖徳太子像か」、上田・千田編『聖徳太子を読む』文英堂、2008年。「唐本の御影」に関する詳細な検討は、武田『信仰の王権 聖徳太子--太子像をよみとく』中公新書、1993年)。

 河合氏は、大山説が「学界で定着しはじめ」ているとも説くのですが、これは大山氏がそう自称しているだけのことであり、上で述べたように事実ではありません。太子が時代を主導していたような見方を疑うのは、古代史学界では前から常識でした。

 大山説の核心は、藤原不比等・長屋王・道慈が『日本書紀』の最終編集段階で儒教・道教・仏教を体現した理想的な天皇像の模範とし<聖徳太子>を作りだしたという点であって、この肝心要の主張が近年の古代史学界ではまったく相手にされていないのです。大山氏を囲む研究会に集まり、大山説に近い立場で書いていた人たちは、「憲法十七条」を含め『日本書紀』の太子関連記述は倭習が目立つため、唐に16年も留学した道慈が書いたとは考えられないとする批判を受け、道慈執筆説から「道慈=プロデューサー説」に転じたものの、そのプロデューサー説も批判されると、次第にこの問題については沈黙するようになり、聖徳太子研究から離れていったというのが実情です。

 大山説を裏付ける新しい証拠を示すような論文は、長期にわたって発表されていません。逆に、斑鳩と飛鳥を斜め一直線に結ぶ太子道は幅20メートル、左右の側溝が3メートルほどもある広壮な道であったこと、若草伽藍は日本初の彩色壁画で飾られた最先端の大寺院であったことを初めとする考古学や美術史の研究成果は、厩戸王は国政に関わるほどの力はない王族にすぎなかったとする大山説を否定するものばかりであることは、このブログで紹介してきた通りです。

 河合氏はテレビに登場することが多く、また多くの著書を書いており、一般の人に対する影響力が大きいのですから、日本史上の重要人物である聖徳太子について発言する際は、最近の研究動向を確かめていただきたいものです。むろん、歴史的な意義に関する評価は人それぞれで違っていて当然ですが、明らかになっている事実は尊重すべきでしょう。

 なお、大山説を評価する河合氏は、「憲法十七条」を否定し、三経義疏を中国成立と説いた大山説を最近の研究成果と見ておられるようです。しかし、私が論文でもこのブログでも書いてきたように、三経義疏は倭習だらけであるため中国撰述ではありえません。

 また、大山氏は、不比等が儒教、長屋王が道教、道慈が仏教を担当し、これらの三教に通じた理想的な天皇像の模範を示すため、聖人としての<聖徳太子>を作ったと強調しているのですが、その象徴となるはずの「憲法十七条」には法家の影響が目立ちます。このことは早くから指摘されていたうえ、最近、その点を強調する説得力に富んだ論文が出ています(こちら)。

 つまり、「憲法十七条」は仏教・法家・儒教が基本であって、道家の語は僅かに見られるものの、教団道教を思わせる部分はまったくありません。日本史研究者の大山氏が道教について説いた内容は誤解に満ちていることは、前に指摘した通りです(こちら)。なお、私は仏教研究者であって道教の専門家ではありませんが、中国道教に関する論文も数本書いているうえ、助手の頃には日本道教学会の幹事として事務を担当し、現在は理事を務めているため、道教の研究動向はある程度わきまえています。

 「憲法十七条」は、実は三経義疏の一つである『勝鬘経義疏』が名をあげて引いている経典の同じ箇所を利用しています(このこと自体は、早くから数人が指摘していましたが、あまり知られておらず、またその意義がきちんと理解されていませんでした)。そのうえ、「憲法十七条」は他の箇所でもその経典の言葉を用いており、しかもそれは、菩薩が国王になった場合、人々を教誡すべきだとして述べている箇所であることを、先日発見しました。このことについては、3月1日に刊行される短いコラムで触れておきましたが、なるべく早く学会などで発表して論文にする予定です。

 最後に付け加えておくと、私は、蘇我氏の血を引く聖徳太子は推古朝にあって義父の馬子とともに活躍していたと考えており、「憲法十七条」も三経義疏も太子の主張を反映していると考えていますが、国家主義を推し進めるために聖徳太子を利用しようとする動きには反対です。近代におけるそうした政治利用に関しては、批判的に検討した論文をいくつも書いてきました。「憲法十七条」を太子1人の作として無暗に礼賛する者、とりわけ戦前のように国家主義的な意義を強調しようとする人たちの解釈は、強引であって学問的でないことが多く、評価できないものがほとんどです。

 逆に、「憲法十七条」や三経義疏を大胆に疑った津田左右吉については、私とは見解が異なるものの、傑出した大学者として長らく尊敬してきました(私は津田が創設した研究室で学びました)。また、太子を敬慕しつつ津田の学問的な立場を受け継いで三経義疏を疑った小倉豊文については、高く評価しています。そのことは、このブログには津田に関するコーナーと小倉関連コーナーを設けていることからも分かるでしょう。「憲法十七条」に関して言えば、これまでの研究で最もバランスがとれていてすぐれているのは、戦時中の講義ノートでありながら「憲法の作者は……所謂日本主義の宣伝家ではなかつた」と説いていた村岡典嗣の「憲法十七条の研究」(『日本思想史上の諸問題 日本思想史研究第Ⅱ巻』)ですね。

【付記:2021年2月22日】
衆議院と参議院の文教委員会において議員たちが文科大臣に質問し、大臣が答弁したのですが、議員たちは聖徳太子に関する学説などは知らないだろうと思っていたところ、どの議員に対して説明したのは不明ですが、新しい歴史教科書をつくる会の理事である高森明勅氏が自分が議員にレクチャーしたと書いていることに気づきましたので、2月6日に記事でその問題点を紹介しておきました(こちら)。
【追記:2022年2月25日】
河合氏は、私がこの内容を別の方経由でお知らせしていたところ、方針転換されたようです。ただ、急いで書かれたのか、問題がかなり残っていることを後のブログ記事で指摘しておいたものの、それを付記しておくことを忘れてました(こちら)。

【追記:2022年7月4日】河合氏が進行役を務める歴史番組の聖徳太子特集で、「いなかった説」を批判する最近の研究状況が詳しく紹介されました。今後は、こうした状況を紹介してくれるでしょう(こちら)。

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