聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

明治期は「憲法十七条」より江戸時代の偽作である「聖徳太子五憲法」の方が人気だった

2022年10月28日 | 偽作の『五憲法』と『先代旧事本紀大成経』関連

 先日、真宗大谷派の九州教学研究所で「近代の聖徳太子信仰と国家主義」と題する連続講義をしてきました。その際、強調したのは、明治初期には本物の「憲法十七条」よりも、江戸時代の偽作である『聖徳太子五憲法』の方が人気があったという点です。この講義録が活字になるのは来年でしょう。

  明治5年(1872)に政府は「敬神愛国・天理人道・皇上奉戴」を柱とする「三条教則」に基づいて布教するよう命じたため、仏教諸宗はその説法の資料として、神道・儒教・仏教の三教融合を説く「五憲法」に頼ったのです。何しろ、本物の「憲法十七条」は「篤く三宝を敬え」と命じただけであって、「神」に一言も触れず、儒教の「孝」も説きませんので。

 偽書である『先代旧事本紀大成経』に含まれるこの偽作の憲法については、これまで何度か触れてきました(こちらや、こちら)。偽憲法の信奉者は現代でもかなりおり、かの三波春夫などは解説本まで書いていることも紹介してあります(こちら)。

 下の写真のうち、「地」と記してある『聖徳太子五憲法』は、江戸室町三丁目の戸嶋摠兵衛が延宝三年(1675)五月に刊行した最古の版です。これは下巻であって、「天」に当たる上巻は、『先代旧事本紀』中の聖徳太子の伝記にあたる「聖皇本紀」などです。

 真ん中の『説教用意 新刻五憲法』と右端の『復神武帝 勅五憲法』は、京都の浄土宗勧学院が明治5年(1872)に刊行したものです。まさに「三条教則」に対応するための泥縄対策であって、どちらも裏表紙に「官許」と記されています。

 いずれも私の所蔵本ですが、こうした本が今でも手に入るほど多数印刷されたのです。 

 延宝3年本の冒頭は、太子の画像です。伝統的な『勝鬘経』講経図などではなく、明・清の中国の小説類の挿絵みたいですね。江戸時代には、そうした本が大量に輸入され、日本で印刷刊行されており、訓読本や翻案本なども出されていたのです。

 この絵では、太子は髪を美豆良(みずら)に結っており、筆を持っていますが、経典を思わせるものは置いていないため、「五憲法」をどう書こうかと考えている姿なのでしょう。

 面白いのは、浄土宗は上記のように「五憲法」重視で廃仏毀釈以後の厳しい状況を乗り越えようとしたのに対し、「和国の教主、聖徳皇」という親鸞の和讃が示すように熱烈に聖徳太子を尊崇してきた真宗では、意外にも「五憲法」を尊重しなかったようです。

 かなり後になりますが、真宗本願寺派の学者であった佐々木憲徳は「聖徳太子五憲法に就て」(『日本仏教史学』第二巻第四号、昭和19年1月)では、「五憲法」は徳川時代に神道・儒教・仏教の三教一致が要請される状況のもとで造作された偽物であるのに、現在の神道重視の時勢に合っているため、「真物より却つて偽作の贋物の方よいように思われ、つい誤魔化されることになる」と警告しています。これは重要な指摘です。

 その三教一致の風潮を利用し、「五憲法」を含む『大成経』を作り上げた偽作者については諸説ありますが、有力候補は長野采女です。この長野は、上野(こうずけ)の大守の子孫であって、先祖は在原業平だと称していました。偽書を作る人間は、このように自分の系譜についても誇大な主張をすることが多いですね。

 この手の人間は、嘘をついているという自覚が弱く、トランプ大統領などもそうですが、自分に都合の良い主張を繰り返し声高に述べているうちに、自分でも本当にその気になってしまいがちです。それだけに自信満々で述べるため、素人がだまされ、信奉者が増えてしまうのが困ったところです。

 現代になっても「五憲法」は次々と刊行されています。青沼やまと編『聖徳太子に学ぶ十七條五憲法』(総合出版、1995年)には、元皇族で明治神宮果道敬神会名誉総裁(当時)の梨本徳彦氏、また藤原五摂家の一つである二條家の三十代当主であって二條良基公顕彰会会長(当時)の二條基敬氏などが推薦文を寄せており、こうした人の支持を得ていることが分かります。

 編者の青山氏は「まえがき」では、「五憲法」の真偽をめぐる学術論争には参加しないと宣言し、「内容それ自体に……日本人の指針たりえる価値」があるため、それを世に伝えるために本書を刊行すると述べています。

 「世間虚仮」とつぶやいた聖徳太子を敬慕していたからこそ、その真実のあり方を追求し、太子に仮託された偽「五憲法」の利用を激しく批判した小倉豊文(こちら)とは、立場がまったく異なりますね。


叡福寺北古墳はやはり聖徳太子の墓の可能性あり:荊木美行「「磯長墓」小考」

2022年10月23日 | 論文・研究書紹介

『日本書紀研究』最新号における聖徳太子論文の最後は、

荊木美行「「磯長墓」小考-聖徳太子墓と叡福寺北古墳-」
(『日本書紀研究』第34冊、2022年5月)

です。

『風土記』佚文の研究で知られる荊木氏は、叡福寺北古墳は、平成20年の宮内庁書陵部の調査によればいびつな楕円形の三段築成の円墳であって、南北は約43メーター、東西は約53メーターと報告されているとし、楕円形なのは山寄せ式の築成のためであって、南半分は本来は精美な円形だったろうとします。

 聖徳太子、母、妃の三人が埋葬され「三骨一廟」と称されるこの古墳については、小野一之氏が「聖徳太子墓の展開と叡福寺の成立」(『日本史研究』342号、1991年)、「<聖徳太子の墓>誕生」(大山誠一編『聖徳太子の真実』平凡社、2003年)などで詳細に検討していました。

 小野氏は、九条家本『四天王寺事』によれば、治安四年の記事がその墓の所在が不明としているため、『延喜式』以降、太子の墓が不明とされていた時期があるようだとし、叡福寺古墳が太子の墓だとする伝承があやしいことを指摘されたため、以後、これが有力な説とされてきました。

 しかし、荊木氏は、『延喜式』(904年)からさほどたっていない治安四年(1024)に太子の墓が所在不明になっていたというのは信じがたいうえ、康和2年(1100)にも諸陵の管轄がなされ、そこで記されている河内国所在の陵墓の数は『延喜式』の数と一致していると指摘します。

 つまり、『四天王事』のその記述は、聖徳太子を敬仰していた僧侶が不明になっていた太子の墓を発見したと称する伝承によるものであり、大げさなな記述になっているとするのです。

 問題は、その墓を守る叡福寺がいつ造立されたかです。小野氏は、古い記録がないため、12世紀後半から13世紀前半の造営と推測しますが、荊木氏は、瓦の調査をした竹谷俊夫氏の奈良時代後半、「やや疑問の残る東博重弁八葉蓮華文軒丸瓦を含めると7世紀後半にまでさかのぼる可能性がある」という判断を紹介します。記録がないのは、信長によって全山焼失したためとするのです。

 小野氏は竹谷論文に反論していますが、荊木氏は、叡福寺北古墳からは平安時代後期を中心とする古代瓦がかなり出土しており、中には四天王寺と同笵の奈良時代の瓦があるとし、四天王寺の廃材の転用品である可能性が大きく、平安後期には叡福寺ないしその前身となる寺院があったことは疑いないのであって、このことはそれ以前に瓦のない建物が存在した可能性を否定するものでないという白石太一郎説を引きます。

 叡福寺北古墳については、岩屋山古墳との類似が指摘されており、岩屋山古墳は7世紀なかばとする説も出ていますが、荊木氏は、当時における改葬の多さから見て、叡福寺北古墳は改葬の可能性が高いとします。

 そして、太子の墓が磯長に造られたのは確かであり、磯長付近で聖徳太子太子の墓とみなしうる古墳はなく、夾紵棺などから見て太子墓はこことしか考えられないうえ、三段形式は大王一族や皇別氏族の前身となる一族、大王に娘を出した豪族などに限られる点から見て、叡福寺北古墳は依然として聖徳太子の墓の最有力候補だと論じます。

 むろん、候補であって確定したわけではないため、終末期古墳研究の進展を願って論文を閉じています。


古代の戦争はそれぞれが奉ずる神と神との戦い:平林章仁「廐戸皇子の四天王誓願と物部守屋の稲城」

2022年10月18日 | 論文・研究書紹介

 『日本書紀研究』第34冊シリーズの続きです。今回は、このブログでは何度も紹介してきた平林氏の新論文、

平林章仁「廐戸皇子の四天王誓願と物部守屋の稲城」
(『日本書紀研究』第34冊、2022年5月)

です。

 守屋合戦において劣勢になった際、廐戸皇子が白膠木を刻んで四天王の像を作り、戦いに勝たせてくれたら四天王のために寺を建てますと誓ったために勝利することができ、後に四天王寺を建立したという話は有名です。

 ただ、14歳だった廐戸がそこまで活躍するはずがないため、懐疑派は、四天王寺が宣伝のために作り上げた説話だろうとしてきました。

 ただ、そうした文献批判の時期を経て、ある程度史実を反映しているとする説が出てきたとして、平林氏は、吉村武彦『聖徳太子』(岩波新書、2002年)の説を紹介します。

 吉村氏は、馬子は病気治癒を仏教の加護を求めていた以上、守屋との戦いの際に加護を求めるのは自然であり、古代では戦いに呪術はつきものだとしつつ、実際には四天王寺建立からさかのぼって廐戸王子の伝承が作られた可能性が高いとするのですが、平林氏は最後の部分は通説に戻ってしまったことが惜しまれると評します。

 次に某石井公成氏の『聖徳太子』(春秋社、2016年)をとりあげ、戦勝儀礼がなされるのは当然であり、馬子が主導して造寺を誓う誓願がなされ、皇子や豪族が参加したのが実状であり、それが太子を中心にして劇的に描いたと「ほぼ肯定的」に述べておりながら、結論は吉村氏と大同小異だとし、ただ、廐戸が四天王を刻んだとされる白膠木は密教で儀礼をおこなう時に用いるとした指摘は参考になると説きます。

 えー、私の書き方が悪かったですね。私の主眼は「誓願」の重要性であって、廐戸が四天王に戦勝を誓願したことは事実だと考えてます。ただ、『日本書紀』が描くような劇的な形ではなかったろうというということなのですが。

 平林氏は、廐戸がその時の宗教儀礼の中心となったと見ており、そのことを守屋側が築いた「稲城」を手がかりにして検討してゆきます。その結果、稲城は攻撃に備えて急いで作るもの、稲を用いて構えるものであって、堅牢で打ち破ることが難しいものの、最後には火を放たれ、守る側は敗死する、という特徴がある由。

 そして、「古代の戦いは神と神の戦い」であるとし、稲城については相手の攻撃を躊躇させる宗教的な堅牢さを感じさせる存在であり、その中に霊威強大と信じられた神が祀られていたとします。

 古代の戦いにおいては、それぞれが自らが頼む宗教的権威に基づく矢を放つ例が、各種の聖徳太子伝にも見られることを確認し、守屋合戦の記述においては、守屋の稲城構築と廐戸皇子の四天王誓願が対照的に描かれていること、そして廐戸が「束髪於額し」たという童子の姿は、発願と関わるものであって呪術者としての廐戸皇子像を示している渡辺信和氏の指摘に注意します。

 平林氏は、こうした検討によって、これまで疑われがちであった廐戸の四天王誓願の位置づけが明確になり、聖徳太子の実像はもちろんのこと、蘇我・物部戦争についても新たな視点から考察する手がかりとなる、と説いてしめくくっています。

 

 

 

 


聖徳太子に関する最近の説の代表は馬子との共同執政で外交では天皇を代行:塚口義信「聖徳太子と推古朝の外交政策」

2022年10月13日 | 論文・研究書紹介

 前回は2016年刊行の『日本書紀研究』第31冊の論文を紹介しましたが、聖徳太子1400年遠忌の時の研究会で発表された太子関連の内容が、本年になって刊行された第34冊に3本収録されています。すべて、太子の役割ないし伝承の一部をある程度認める立場の論文です。

 その巻頭に置かれているのが、

塚口義信「聖徳太子と推古朝の外交政策」
(日本書紀研究会編『日本書紀研究』第34冊、2022年5月)

ですので、これが聖徳太子に関する最新の論文ということになりますが、実在説どころではなく、王として外交を担当したという説です。

 塚口氏は、まず太子の長子である山背大兄が大兄と呼ばれていることに着目します。これは既に指摘されていますが、『日本書紀』で大兄と呼ばれている7人のうち、山背大兄以外はすべて天皇の長子であって、全体のうち3人が即位しており、あとの4人は若くして亡くなったか、皇位を争って敗れたかとなっています。となれば、太子は天皇に準ずる存在だったということになります。

 次に、『隋書』では、倭国の王は姓は「阿毎」、字(あざな)は「多利思比孤」としています。塚口氏は、『日本書紀』では欽明から天武までの7人の天皇のうち、5人までが和風諡号に「アメ」もしくは「アマ」の語を含んでいることに注意します。そして、「タラシ」の名を含むのは、天皇・皇后・妃・皇子・皇女しかいないと指摘します。

 となると、姓と字という呼び方はともかく、『隋書』は日本の王のあり方をそれなりに捉えていることになります。そこで塚口氏が提起するのは、「倭王」は即位していなくてもありうるという点です。

 というのは、『宋書』は安康天皇と見られる興は、父の済の没後の大明4年(460)に宋に「世子興」、つまり、「父王の後継の興」という立場を認められ、同6年に父と同様の「安東将軍倭国王」の称号を授けられています。その時、興はまだ即位しておらず、身分は前と同じでした。つまり、「倭王世子興(倭王の継子である興)」のまま「倭国王」とみなされたのです。

 このことから考えると、太子は叔母の推古天皇から外交権の大部分を委任されていたのであって、「倭王」と名乗っても不思議はないと、塚口氏は説きます。『日本書紀』が「天皇事したまふ」と記しているのはそのためだとするのです。

 これは、新羅の女王に対する唐の態度を見てもわかるように、中国は女性の王を認めなかったからだとします。卑弥呼は例外であり、当時の中国は三国に分かれて争い、魏は強敵である呉の東に大国の倭があると誤認して「親魏倭王」の称号を与えたと推測します。最後の部分はちょっと弱いですね。

 あとは、中国風に漢字1字の名を名乗り、朝貢して臣属していた時期と違い、「アメタリシヒコ」という和名で通しているのは、対等外交を狙ったからだと説きます。

 ただ、そうした日本のあり方、姿勢が実際に隋に受け入れられたかどうかについては否定的とならざるを得ないとします。『隋書』によれば、倭王は、「我は夷人、海隅に僻在して礼儀を聞かず」と語っているからです。これも議論のあるところでしょう。

 次に塚口氏が着目するのは、唐が新羅の女王を認めようとしなかったことです。王とされた卑弥呼の例がありますが、これは中国で三国が抗争していた時代であって、魏が倭のことを、対立していた呉の東にある勢力を持った国と誤認してのことと見ます。

 『隋書』の記述が疑われるのは、「倭王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す」とあることも一因ですが、塚口氏は、これは倭王が天や日と同次元の存在とみなされていたことを示すとします。そして、6~7世紀の天皇は、安閑(ヒロクニオシタケカナヒ、広国押武金日)、用明(タチバナノトヨヒ、橘豊日)のように和風諡号に「ヒ(日)」が含まれる場合が多いことがその証拠とします。

 そして、遣隋使の主な目的は仏教を学ぶことだったが、天皇の場合は神祇を祀ることが第一であって、勅願寺を造営したのは舒明天皇からであることから、推古は三宝興隆の命は出しても自分が仏教受容の中心となることはできなかったと見ます。

 また、唐が新羅の女王を認めようとしなかったことを考慮し(卑弥呼は、三国が抗争した時代であって、魏は倭のことを対立していた呉の東にある大国と誤認していたため例外)、外交と仏教受容の主体は太子だったと説きます。

 斑鳩宮造営も、外交促進のために、難波の港に近い交通の要衝に移ったのだから、この時期の外交のイニシアチブをとったのは、馬子ではなく、推古から外交の権限の大部分を委任され、事実上の「倭王」としてあたった太子だったのであって、だからこそ「天皇事」をおこなったという記述がなされたとするのです。

 いろいろな業務は氏族が分担していた時代ですから、百済や高句麗との外交は蘇我氏、隋との外交を太子が仕切ったと見ることもできるでしょうし、その他いろいろと異論も出るでしょうが、これが2022年5月に刊行された聖徳太子に関する最新論文です。

 この『日本書紀研究』第34冊には、あと2本、太子関連論文が載っていますが、2本とも太子の活動ないし伝承の一部を認める立場ですので、続けて紹介してゆきます。


「憲法十七条」は「百姓」問題対処を試みた最初の法令で大化改新の先駆:神崎勝「大化改新の実像」

2022年10月08日 | 論文・研究書紹介

 このところ、古い内容の聖徳太子論をいくつか紹介しました。そこで今回は、『日本書紀研究』誌に出た2016年以後の論文を4篇紹介します。最初は、

神崎勝「大化改新の実像」
(『日本書紀研究』第31冊、2016年8月)

であって、74頁もある大作です。

 日本史学の主流派であった坂本太郎は、聖徳太子→大化改新→律令制、という図式を提示し、これに対する反論・再検討がなされてきたわけですが、神崎氏は大化改新の研究史を5期に分けます。

 第一期は、明治期において大化改新の概念が固まり、明治維新と結びついた形で語られるようになった時期です。ただ、この当時既に国際的な契機に注意したり、氏姓制度の変革と見る視点も提起されていたとされます。

 第二期は、津田左右吉によって文献批判が始まり、孝徳紀の記載は近江令に基づいて潤色・造作・後補されたという見方が出された時期です。この時期には、唯物論に基づく研究も始まっています。

 第三期は、坂本太郎が津田説を評価しつつも、要所に反論を加え、大化改新を律令制の起点と位置づけた時期です。井上光貞はそれを受け継ぎつつも、改新の詔の疑問点をさらに示し、曽我部静雄は三韓系の評から中国系の郡への推移を説きました。この頃から、個々の要素に関する研究が進み、様々な改新論が出されたうえ、鶴岡静夫は改新の実態は天武朝の内容として改新虚構論の先駆となりました。

 第四期は、坂本説の継承と批判の面で研究が進んだ時期です。関晃は、これまでの改新研究は原因論が欠けているとし、舒明・皇極朝を胎動期と位置づけ、改新の直接のきっかけを海外情勢に求めます。また、改新の諸詔については、すぐに実施されたとは限らないという立場を取り、実際には前代の方式が併用されたとします。

 井上光貞も海外情勢に注意する中で、律令形成が実際に具体化するのは天智・天武朝以後だとする傾向が強まります。「評」については、大量の木簡が出たため解決しましたが、戸籍の研究を進めた岸俊男は、関連する造藉記事や詔を疑います。

 第五期は、この岸の疑問を受け、『日本書紀』編者の歴史観からの解放をうたって登場した改新虚構論が論じられた時期です(この図式は、聖徳太子いなかった説でも見られましたね)。

 神崎氏は、虚構論者たちは、律令形成はどのような過程を経たのかという命題と、大化改新は何であったかという命題を分けて考えず、従来の説を一蹴して天武朝の意義を強調したため、大化改新は蘇我氏本宗家を打倒したというだけの事件になったと批判します。ただ、この時期には考古学の発見が相次ぎ、また個別の要素に関する研究も進んでいます。

 第六期は、これまでの研究を反省した諸説が出てきた時期であって、改新の諸詔は海外情勢と直接結びつかないということで、農民上層部の勢力向上による地方支配の弛緩、それに対する国家の対応などに着目した井上は、推古朝はやはり大化改新の前提となるものだとします。

 また最近の諸研究者からは半島経由で受容したプレ律令制から唐の律令制志向への変革と見る説も出ているものの、神崎氏は、改新諸詔には律令制への志向は見られないとし、やはり公民(部民)と公地(屯倉)に関わる問題を、改新諸詔の分析を通して明らかにしていくという王道によるほかない、と説きます。

 そして、『日本書紀』を読む際、平安期の古訓に基づいて読むのが通例だが、あくまでも平安期の訓読であって、しかも敬語表現が加えられているため、やはりまず漢文として訓み下すべきだとします(これは私もその立場です)。そして、指摘されている改新諸詔の倭臭の多さについては、編者の漢文素養の低さというより、原資料となった詔勅類を尊重して忠実に記そうとした方針と見るべきだと論じます。これだと、原詔勅を認める立場ですね。

 神崎氏は、こうした立場で『日本書紀』を見ていくのですが、漢語の「百姓」は下級官人と民という二義があり、『日本書紀』には118例見え、その多くは「民」の意味ですが、21例見える孝徳紀では5例は下級官人の意で使われていることに津田が注意し、不用意な書き換えとしていますが、神崎氏は反対します。「十七条憲法」に見えるからです。

 神崎氏は、中小首長たちを「国造伴造」配下の下級官人とみなしたのは「十七條憲法」第四条が最初とし、「十七條憲法」については一般的な訓戒を述べたもの、あるいは、官人服務規程とする説はとらないと明言し、目下の情勢に対して、現在の効果をまず要求するものと見ます。つまり、文字の潤色などはあるにせよ、推古朝の作とするのです。

 そして、十七条は類似項目があり、現実的なものと理念的なものがあるため、具体的な条文が主文であって理念的な条目は副文とする関係になっていたのではないかと論じします。

 ここら辺は、推測が目立つところであって、特に「十七條憲法」に見える仏教尊崇の面は、『日本書紀』編纂説時の仏家の手に加上された可能性が高い、と説くのですが、これは私が出典を解明する前の論文であって、そもそも仏教や中国思想に関する論述が見えないことからしても、神崎氏は仏教や中国思想には通じていないことは明らかです。

 以下、神崎氏は「十七條憲法」の内容と孝徳朝の詔と比較し、

このように憲法が掲げた諸問題の多くは孝徳朝に持ち越され、大化改新の主要課題になった。すなわち憲法は、「百姓」問題に対処しようとした最初の法令であり、大化改新の先駆をなす改革であったといえる。(108-109頁)

と断定しています。「むすび」では、「十七條憲法」第四条によって、礼的身分秩序の末端に位置づけられ、改新後は、中央では百官の末端に、地方では新設された評の官人となったのであり、朝廷は、これまで国造伴造どまりだった支配の基盤を、より下層の百姓層まで深めたとしています。

 公地・公民の問題も「十七條憲法」が提起したものであり、憲法第五条の内容を具体化したのが鍾匱制だとし、これによって訴訟の処理が迅速化されたと説きます。

 肝心な論証部分を略してしまいましたが、要するに「十七條憲法」真作説であって、改新諸詔の先駆とするのです。問題は、推古朝において「十七條憲法」がどれだけ実施されたか、実施には至らなくても、その方向で改革がなされたかですが、その辺りは推測になるためか説かれていません。


1400年遠忌前後に盛んに出された最新でない太子研究の一例:本郷真紹「『日本書紀』厩戸皇子像の再検討」

2022年10月03日 | 論文・研究書紹介

 前回は古い論文を紹介しました。ただ、最近刊行された論文でも、内容が新しいとは限りません。

 聖徳太子1400年遠忌ということで、太子関連の展覧会やシンポジウムが多くもよおされ、関連論文もたくさん出されました。ただ、そうした論文の多くは、10年以上前の研究状況をまとめ、少しだけ自分の考えを加えた程度のものが少なくありませんでした。抜刷を頂いておりながら申し訳ないのですが、以下の論文は、まさにその一つです。

本郷真紹「『日本書紀』厩戸皇子像の再検討」
(『立命館文学』第677号、2022年3月)

 本郷氏は、『和国の教主 聖徳太子』(吉川弘文館、2004年)を出されており、専門家ではあるものの、最近は 学校法人立命館の副総長という激職を務めておられていますので多忙でしょうし、論文末尾には、科研費(19K00966:研究課題「平安期仏教説話の社会史思想史的考察-日本霊異記・三宝絵を中心に-」)による研究成果の一部、と記されていました。実際、刊行されたものを見ると、この数年は『日本霊異記』研究に力を入れておられたようです。

 『日本霊異記』では聖徳太子は尊重されて重要な役割を果たしていますので、『日本霊異記』の太子観については書くべきことは多いはずですが、それは他のところに書き、この論文は以前の単著を出された当時とその少し後くらいの研究に基づいてとにかくまとめてみた、ということでしょうか。

 実際、冒頭で1998年に始まる大山誠一氏の一連の主張が「改めて議論を呼ぶ状況となっている」(15頁上)と言われており、引用されているのは単著が出された前後のものがが多く、最も新しいものでも2007年の論文です。私の1992年の旧論文も引いてくださっていて有り難いのですが、この10年ほどの研究は見ておられない感じですね。