先日、真宗大谷派の九州教学研究所で「近代の聖徳太子信仰と国家主義」と題する連続講義をしてきました。その際、強調したのは、明治初期には本物の「憲法十七条」よりも、江戸時代の偽作である『聖徳太子五憲法』の方が人気があったという点です。この講義録が活字になるのは来年でしょう。
明治5年(1872)に政府は「敬神愛国・天理人道・皇上奉戴」を柱とする「三条教則」に基づいて布教するよう命じたため、仏教諸宗はその説法の資料として、神道・儒教・仏教の三教融合を説く「五憲法」に頼ったのです。何しろ、本物の「憲法十七条」は「篤く三宝を敬え」と命じただけであって、「神」に一言も触れず、儒教の「孝」も説きませんので。
偽書である『先代旧事本紀大成経』に含まれるこの偽作の憲法については、これまで何度か触れてきました(こちらや、こちら)。偽憲法の信奉者は現代でもかなりおり、かの三波春夫などは解説本まで書いていることも紹介してあります(こちら)。
下の写真のうち、「地」と記してある『聖徳太子五憲法』は、江戸室町三丁目の戸嶋摠兵衛が延宝三年(1675)五月に刊行した最古の版です。これは下巻であって、「天」に当たる上巻は、『先代旧事本紀』中の聖徳太子の伝記にあたる「聖皇本紀」などです。
真ん中の『説教用意 新刻五憲法』と右端の『復神武帝 勅五憲法』は、京都の浄土宗勧学院が明治5年(1872)に刊行したものです。まさに「三条教則」に対応するための泥縄対策であって、どちらも裏表紙に「官許」と記されています。
いずれも私の所蔵本ですが、こうした本が今でも手に入るほど多数印刷されたのです。
延宝3年本の冒頭は、太子の画像です。伝統的な『勝鬘経』講経図などではなく、明・清の中国の小説類の挿絵みたいですね。江戸時代には、そうした本が大量に輸入され、日本で印刷刊行されており、訓読本や翻案本なども出されていたのです。
この絵では、太子は髪を美豆良(みずら)に結っており、筆を持っていますが、経典を思わせるものは置いていないため、「五憲法」をどう書こうかと考えている姿なのでしょう。
面白いのは、浄土宗は上記のように「五憲法」重視で廃仏毀釈以後の厳しい状況を乗り越えようとしたのに対し、「和国の教主、聖徳皇」という親鸞の和讃が示すように熱烈に聖徳太子を尊崇してきた真宗では、意外にも「五憲法」を尊重しなかったようです。
かなり後になりますが、真宗本願寺派の学者であった佐々木憲徳は「聖徳太子五憲法に就て」(『日本仏教史学』第二巻第四号、昭和19年1月)では、「五憲法」は徳川時代に神道・儒教・仏教の三教一致が要請される状況のもとで造作された偽物であるのに、現在の神道重視の時勢に合っているため、「真物より却つて偽作の贋物の方よいように思われ、つい誤魔化されることになる」と警告しています。これは重要な指摘です。
その三教一致の風潮を利用し、「五憲法」を含む『大成経』を作り上げた偽作者については諸説ありますが、有力候補は長野采女です。この長野は、上野(こうずけ)の大守の子孫であって、先祖は在原業平だと称していました。偽書を作る人間は、このように自分の系譜についても誇大な主張をすることが多いですね。
この手の人間は、嘘をついているという自覚が弱く、トランプ大統領などもそうですが、自分に都合の良い主張を繰り返し声高に述べているうちに、自分でも本当にその気になってしまいがちです。それだけに自信満々で述べるため、素人がだまされ、信奉者が増えてしまうのが困ったところです。
現代になっても「五憲法」は次々と刊行されています。青沼やまと編『聖徳太子に学ぶ十七條五憲法』(総合出版、1995年)には、元皇族で明治神宮果道敬神会名誉総裁(当時)の梨本徳彦氏、また藤原五摂家の一つである二條家の三十代当主であって二條良基公顕彰会会長(当時)の二條基敬氏などが推薦文を寄せており、こうした人の支持を得ていることが分かります。
編者の青山氏は「まえがき」では、「五憲法」の真偽をめぐる学術論争には参加しないと宣言し、「内容それ自体に……日本人の指針たりえる価値」があるため、それを世に伝えるために本書を刊行すると述べています。
「世間虚仮」とつぶやいた聖徳太子を敬慕していたからこそ、その真実のあり方を追求し、太子に仮託された偽「五憲法」の利用を激しく批判した小倉豊文(こちら)とは、立場がまったく異なりますね。