聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

奈良時代に書かれた「憲法十七条」の最古の注釈を検討:金沢英之「『聖徳太子十七憲章并序註』について」

2023年04月27日 | 論文・研究書紹介

 少し前の記事で、聖徳太子は日本の国体を守ろうとしたのだと論ずる国体論者の相澤宏明氏の近刊書を紹介しました(こちら)。「憲法十七条」を自説に都合良く解釈しており、まったくの時代錯誤の主張であって誤りなのですが、この本とは反対に、着実に文献を検討したのが、

金沢英之「『聖徳太子十七憲章并序註』について」
(『北大文学研究院紀要』169号、2023年3月。PDFは、こちら

です。金沢氏は、「天寿国繍帳銘」に見える年月日の記述は後代の儀鳳暦に基づくことを論じ、後代制作説の根拠とされるようになった論文で有名ですが、これに対する北康宏氏の批判は、ここで紹介しました(こちら)。

 この『聖徳太子十七憲章并序註』は、現存最古の「憲法十七条」注釈であり、聖徳太子の伝記および関連資料をまとめた『異本上宮太子伝』と合わせて一冊とした形で伝えられてきたものです。

 こ本については、江戸末の国学者、黒川春村(1799-1867)が書写したものをさらに書写したものが2部残っており、一つは戦後になって「厩戸王」という呼び方を仮定した小倉豊文(こちら)が入手し、現在は広島大学図書館に所蔵されているものです。これについては、昨年、申請して撮影してきました。

 もう一つは、明治45年に転写され、現在は日本大学総合学術情報センター所蔵となっているものであって、これがさらに転写されたものが東京国立博物館に所蔵されており、デジタルライブラリーで閲覧できます(こちら)。

 このうち『憲章序註』は、11世紀の法隆寺僧千夏の所持本と推定されており、書写自体も平安中期頃と考えられています。

 金沢氏は、この『憲章序註』は、第二条の「三宝者仏法僧也」の部分の注釈が、在家も含めた菩薩戒である三聚浄戒を強調し、しかも牽強附会としか言えない強引な注釈をほどこしている点、また第二条以外では仏教に触れていない点から見て、この注釈者は仏教を専門とする者でなかったと推定します。

 そして制作時期については、「国造」に対する注釈の仕方、また「序」の部分に見える律令に関する文から考えて、「大宝律令」を念頭に置いたものであって天平勝宝9年(757)に「養老律令」が定められる前の作と見ます。つまり、天平年間(729-749)後半から天平宝字元年(757)の間のどこかの時期に書かれたとするのです(なお、氏が「天平宝字九年に至る」と記しているのは、誤記)。

 金沢氏は、「序」が語る太子像を検討していますが、それによると、「序」は、太子以前は未開の状態であって、火の使い方、親子の秩序や文化も知らず、文字も無かったところに、天地の理を体現した聖人、聖徳太子が現れ、守屋を打倒し、中国に文書を送り、外典(中国思想の文献)と内典である仏教を用いて、政治と信仰の両面で活動し、謙虚な姿勢で国を繁栄させたのであって、「憲法十七条」は律令の淵源だ、ということになります。

 これは、百済から仏教を入れることによって文字を知ったなどと説く中国の史書の倭国の記述に基づくものですね。

 金沢氏は、光明皇后、母の県犬養三千代、阿部内親王(孝謙天皇)、橘古那可智(聖武天皇夫人)、無漏王(光明皇后の異母妹)などの『法華経』信仰が、天平期以後の太子信仰の普及の基盤となったとする若井敏明氏の説を引き、これが天台大師の師である南岳慧思が日本に聖徳太子として生まれ代わったとする説と結びついたことに注意しています。だから、『異本上宮太子伝』では、南岳慧思に関わる伝承が説かれているとするのですね。

 金沢氏は、末尾で、後代の『太子伝玉林抄』が「明一伝」の名で引く『憲法序註』、文永9年(1272)年に法隆寺宝光院で学僧たちが作成した成簣堂文庫所蔵の『聖徳太子十七ケ条之憲法并註』、広島大学本の『憲章序註』のテキストを簡単に対比し、検討しています。

 氏は書いていませんが、これらに共通して見えることは、仏教の立場の解釈が意外に少ないことですね。確かに、儒教の古典からの引用が目立つため無理もないのですが、実際には『優婆塞戒経』を用いるなどしていることは、私が発見しており、このブログでも紹介してあります(こちら)。

 

 

 

 


考古学者が厩戸皇子の斑鳩移転を画期的な「斑鳩京」をめざしたものと推定:前園美知雄『律令国家前夜』

2023年04月27日 | 論文・研究書紹介

 斑鳩宮の評価については、馬子との権力闘争に敗れて隠遁したように見る説も一時はかなり説かれており、逆に、宮や若草伽藍の周辺には独特の方格地割が見られることを理由に都として整備しようとする計画があったとする説もあります。そこで、この問題について考古学者が論じた最近の本を取り上げましょう。

前園美知雄『律令国家前夜-遺跡から探る飛鳥時代の大変革-』
(新泉社、2022年)

です。

 前園氏は、奈良県立橿原考古学研究所に勤務し、太安万侶墓、藤ノ木古墳、法隆寺、唐招提寺などの発掘調査をおこなった研究者であり、この本は、王宮の遺跡、寺院、古墳などを通して飛鳥時代について考察したものです。その構成は以下の通り。

 【飛鳥】
  三輪山との別離
  新しい信仰:飛鳥の寺院
  王たちの奥津城
 【斑鳩】
  律令制国家前夜:厩戸皇子の斑鳩宮
  上宮王家の奥津城
  大王家の系譜   

 この構成が示すように、前園氏が重視するのは、宗教的権威としての三輪山です。『古事記』『日本書紀』に記されたヤマト政権の大王の宮の多くは、三輪山の麓か、三輪山を眺めることができる地域、つまり、磯城・磐余の地に置かれていました。

 物部守屋を打倒した蘇我馬子が、蘇我氏の血を引く崇峻を天皇に擁立します。倉梯にあったとされる崇峻の宮は、遺跡は発見されていないものの、桜井市の倉橋付近にあったと考えられています。

 ところが、その崇峻が殺され、同じく蘇我氏の血を引く推古が天皇になると、豊浦宮で即位しており、政権の地が、磯城・磐余から飛鳥に移ります。以後、宮は長く飛鳥に置かれました。

 前園氏はこれに続いて、「予想だにしていなかったと思われることも起きている」と述べ、それは、蘇我系である「厩戸皇子が皇太子になって摂政になり、理想の政治を追いはじめたことだ」と述べます。そして、厩戸皇子の活躍に触れた後、「飛鳥を離れ、斑鳩に居を移して次世代の王としての地歩を固めつつあった」と述べるのです。

 以下、諸天皇の宮の概説が続きますが、舒明天皇(田村皇子)の即位については、蘇我蝦夷の妹である法提郎女と結婚し、古人大兄皇子を設けていたことが大きく、「山背大兄王に政権が渡ってしまうと、厩戸皇子に基礎が築かれつつあった大王家を中心とした政権となってしまうおそれがあった」と述べます。

 大丈夫でしょうかね。前園氏は考古学では実績のある方ですが、歴史学の成果はあまり読んでいないのか、『日本書紀』の「皇太子」や「摂政」という言葉をそのまま用い、厩戸皇子は、蘇我氏の意向にさからう天皇家中心の理想的な政治をめざしたような書きぶりです。

 これって、昔の「蘇我氏逆臣説」の図式じゃないですか? 末尾の「参考文献」を見ても、考古学関連の文献が多く、歴史学の吉村武彦『聖徳太子』、東野治之『聖徳太子-ほんとうの姿を求めて』、そして仏教史系である私の『聖徳太子-実像と伝説の間-』などは挙げられていません。

 中国の北朝や新羅の例を見ても分かるように、豪族の連合政権のような形であったもののが、国王の中央集権が強まっていく際、それを補佐する有力な臣下が外戚として力を振るうのは良くあるパターンです。この場合、国王の権力が増せばその臣下の権勢も増し、逆にその臣下の権勢が増せば国王も他の豪族たちより隔絶した立場になるのであって、国王と有力な臣下は共益関係にあるのです。

 厩戸皇子は、大伯父であって義父でもあった大臣馬子の支援により、斑鳩に宮を建て寺も建て、都の飛鳥と斑鳩を斜め一直線でつなく幅広い太子道を造ったはずですし、太子の後を継ぐべき長男で「大兄」となった山背大兄は、馬子の娘から生まれてますよ。

 遣隋使を派遣し、百済宮と百済大寺を並んで造営した舒明天皇について、厩戸皇子の考えを継ごうとしたという指摘は良いですが、その考えはその皇子たちや義弟の孝徳にも伝わっていたのであり、「彼らの脳裏には未完に終わった斑鳩京があったのではなかろうか」というのは行きすぎのように思われます。
 
 この本のうち、古墳などに関する説明、宮や寺院の跡の発掘に関する記述は有益です。たとえば、現在、各地の発掘現場で見られる、四角く区切られた場所を一定の深さで堀り、そこに丸や四角の柱の跡が並んでいると光景は、斑鳩宮跡が発見された90年前の法隆寺東院の調査が最初であって、それを主導したのは法隆寺国宝保存工事事務所の技師であった浅野清氏だったとし、そうした発掘法について語ったところなどは、飛鳥・斑鳩で多くの調査に携わった人ならではの記述です。

 (瓦については、吉田一彦氏の概説紹介の中で触れた栗田薫「ドクターかおるの考古学ワールド」(季刊『大阪春秋』)の連載(こちら)が、最先端の研究法にたどり着いた経緯を記しており、非常に面白い読み物になってます)。

 しかし、「厩戸皇子は600年に派遣した遣隋使の報告を聞き、奈良盆地の奥まった一角で、蘇我氏の一強体制で進められている政治に危機感を抱いたと思われる。そこで斑鳩を中心とした新しい国づくりをめざしたのであろう」といった部分は、先に書いたように、「蘇我氏横暴説」の図式にひきずられすぎているように思われます。


系図・系譜学者が蘇我氏は本宗家滅亡後も勢力を保った様子を跡づけ:宝賀寿男『蘇我氏』

2023年04月23日 | 論文・研究書紹介

 前回の記事では、国体論者の相澤宏明氏の近著は、皇室を代表とする聖徳太子vs横暴な蘇我氏という図式に縛られていることを指摘しました。

 また、少し前に、蘇我氏をユダヤ系のキリスト教徒とする田中英道氏のトンデモ本を批判しておきました(こちら)。田中氏のこの本によれば、聖徳太子は邪悪な蘇我氏の陰謀から日本を守ろうとして暗殺されたものの、以後、蘇我氏は打破され、天智・天武天皇らによって日本の正しい道が確立された由。

 しかし、その批判記事で指摘したように、聖徳太子は父方母方とも蘇我氏の血を引いていた最初の天皇候補者ですし、天智天皇も、また天武天皇の事業を受け継いだ持統天皇も蘇我氏の血を引いています。

 他にも蘇我氏の血を引いている天皇やその妃はいたうえ、それどころか、蘇我氏に代わって長らく天皇の外戚として日本の政治を担当することになる藤原氏さえ蘇我氏の血を引いていることを示し、蘇我氏の息長さを跡づけた本が、

宝賀寿男『蘇我氏ー権勢を誇った謎多き古代大族』
(青垣出版、2019年)

です。

 宝賀氏は、東大法学部を出て大蔵省官僚となり、国税局勤務中に詳細な『古代氏族系譜集成』を出版して評価され、弁護士に転じてからは系図・系譜に関する本を続々と刊行しています。原史料や研究成果を博捜し、新たな事実を明らかにされていますが、時にやや強引な推測や断定がまじることもあるようです。

 この本では、蘇我氏の遠祖の探求に始まり、奈良時代以後の蘇我氏系の氏族の活動までを扱っていますが、ここでは聖徳太子関連の部分だけをとりあげます。なお、冒頭では、蘇我氏に関するこれまでの膨大な研究状況をまとめており、有益です。

 まず、祖とされる武内宿祢については、長寿とされた点や史料の混乱などを除けば、実在したと見てさしつかえないが、その後裔と称する氏族の伝承の成立は遅く、事実ではないとします。

 ここの詳しい紹介は省きますが、先祖伝承は信用できないものが多い以上、他の氏族との通婚の様子や関連する事柄を調べることによってその氏族の性格が分かるとする指摘は重要でしょう。

 蘇我氏を渡来系と説く説については、その形跡が見られないとし、石川宿祢以後の系図は、命名・通称はともかく、実在人物の系図と見て良いとし、河内の石川という地の重要性を強調します。

 大和国高市郡の式内社に宗我坐宗我都比古神社があるうえ、河内には「ソガ」という地名はないため、蘇我氏は初期にはこの神社の地あたり、つまり曽我に居住していたと推定されると説きます。

 畝傍山の北にあたる曽我あたりを根拠地とし、飛鳥時代に曽我川に沿って南方で軽・飛鳥方面に勢力を伸ばしていったと見るのです。飛鳥には、百済から渡来した東漢氏が多く住み着いており、彼らを配下として活動したため、曽我の地から飛鳥へと本拠地を移したと見ます。

 曽我でなく、稻目の邸宅があった軽あたりを本来の居住地とする説もありますが、これについては別の観点からその可能性を認め、軽、ないし軽から曽我にかけての地に当初は本拠地を置いた可能性があると説きます。馬子の弟、境部摩理勢が軽あたりにいて曽我にも田家を持っていた以上、それが摩理勢が重きをなした一因だった可能性があるとするのです。

 ただ、本拠は大王に妃を送り込んだ葛城氏の地であったとか、稻目は葛城氏出身かといった説については、根拠なしとして否定します。

 そして、蘇我氏の仏教受容などに話を進めますが、「この頃の出来事を記す当時の紀年、暦法には何種か並行して」いたことに注意します。また、仏教受容と氏族としての祖先神祭祀の保持とは別問題と説きます。これは、このブログでも何度かとりあげた平林章仁氏も同意見だったものです。

 馬子については、大臣としての手腕を発揮した最初は高句麗外交の開始とし、これについては物部守屋らの反対を受けたが、遣隋使を派遣しており、その必要上、難波津を重視したとします。

 また馬子は、稻目の娘であって欽明天皇の妃となり推古天皇を生んだ堅塩媛を欽明天皇陵に合葬したうえ、娘の刀自古の郎女を蘇我系である廐戸皇子の妃とするとともに、田村皇子(後の舒明天皇)にも娘の法堤郎女を妃として配して血縁関係を深めたことから見て、推古15年には大和・山背・河内に池が作られ、国ごとに屯倉が設置されたことなどは、馬子の主導と見ます。

 つまり、「推古朝の事業活動に関し、聖徳太子の果たした役割は多少割り引いて考えることも必要か」と延べるのです。これは妥当ですね。ただ、内容によって馬子と太子が担当をある程度分担したことは考えられますが。

 宝賀氏の記述で気になるのは、飛鳥寺の初代の寺司とされた蘇我善徳臣の件です。蝦夷は『日本書紀』では推古18年(610)に新羅・任那の使者を迎える場面で初めて登場しますが、『扶桑略記』ではこの時、25才としており、推古4年(596)の飛鳥寺完成時に寺司となるのは無理です。

 ただ、中田憲信編『皇胤志』では善徳の子として志慈(御炊朝臣の祖)をあげ、宝賀氏が見いだした鈴木真年の『史略名称訓義』では、壬申の乱の近江方の御史大夫蘇我果安が「善徳の子」と帰されています。

 基づいた史料は不明ですが、果安という名は『皇胤志』では馬子の二男である倉麻呂の子として、赤兄の弟として置かれ、その弟として大炊という者が置かれています。このため、宝賀氏は、善徳は僧名であって、後に還俗して子をもうけたと推定します。

 そして注目するのは、推古31年(623)に大徳の冠位で見えており、数万の軍勢を率いて新羅出世したとされる境部雄摩侶です。雄摩侶については、境部摩理勢の近親ないし子とする説が有力ですが、摩理勢は蝦夷に滅ぼされており、その際、長男の毛津、二男の阿椰も死んでいますので、雄摩侶は摩理勢の子ではないとします。

 そこで宝賀氏は、雄摩侶とは還俗した善徳の名であって、「蘇我一族の中では、倉麻呂(一名雄正、又雄當)の名で知られる者と同人であった」と断定します。推古天皇没後に後継者問題でもめた際、雄摩侶はただちには名をあげられないとして、どっちつかずの態度をとっているため、山背大兄を押す摩理勢とは立場が異なるとするのです。

 さてどうでしょうか。宝賀氏も、御炊朝臣の系譜は『姓氏録』に馬背宿祢の後とだけ見えており、蘇我本宗家からの分岐過程は史料には見えないとしていて、状況証拠だけですので、断定するのは無理でないでしょうか。記紀には同人異名の例が多く、逆に異人同名の例も若干見られるため、その点に注意しないと系譜記事は理解できないとする主張は妥当だと思われますが。

 宝賀氏は、系図・系譜の素養を発揮し、御炊朝臣が後の史料にどう見えているかなどを検討しています。その倉麻呂の長子である倉山田石川麻呂は、乙巳の変で協力し、改新政府では右大臣となり、娘の遠媛と姪娘を中大兄(天智天皇)の妃としており、遠媛が生んだ皇女が天武天皇の皇后となった持統天皇、姪娘が生んだ皇女が元明天皇です。

 さらに、倉麻呂の子である連子の長女である娼子は、藤原不比等の妻であって、武智麻呂、房前、宇合(異説あり)を生んでいます。つまり、藤原氏の主流となった北家は、蘇我氏の女性に発しているのです。

 馬子の妻、つまり、蝦夷の母は、物部守屋の妹であったことは有名ですが、『紀氏家牒』では、蝦夷は守屋の弟の娘である鎌姫刀自を妻として入鹿と畝傍を生んだとしています。ここら辺は、有力者同士の入り組んだ婚姻関係になっているのです。

 『先代旧事本紀』の「天孫本紀」には混乱があるものの、物部鎌姫大刀自が推古朝に石上神宮に奉斎し、「宗我嶋大臣(馬子)の子、豊浦大臣(蝦夷)の妻となりて、入鹿連(臣の誤記か)を生む」と読むのが妥当だと、宝賀氏は説きます。

 蘇我本宗家は亡びたものの、支流の石上家は存続し、奈良時代に石上朝臣と名乗り、左大臣麻呂、中納言乙麻呂、大納言宅嗣という三代の議政官を出していることに宝賀氏は注意します。

 聖徳太子にしても、滅ぼされたのは山背大兄の家族であってその妹とみられる片岡女王などは法隆寺再建まで生きていた有力な者は天皇家や藤原家に妃を送り込み、長く重要な官職に就いて活躍したのです。

 宝賀氏のこの本では、蘇我の祖とされる武内宿祢の実在について論じ、また蘇我本宗家滅亡後の一族の活動について詳しく論じていますので、興味のある方はどうぞ。


聖徳太子は「国体」を守ろうとした?:相澤宏明『聖徳太子・千四百年の真実』

2023年04月19日 | 史実を無視した日本の伝統・国体(国柄)礼賛者による聖徳太子論

 「このブログに関するお知らせ」で説明したように、新しいコーナーを始めました。最初にとりあげるのは、昨年出された、

相澤宏明『聖徳太子・千四百年の真実ー推古改革の謎に迫るー』
(展転社、2022年)

です。

 相澤氏は高校を中退した後、明治期に国家主義的な在家の日蓮主義団体(後の国柱会)を創始し、満州事変を起こした石原莞爾などに影響を与えた田中智学(1861-1931)の系統である鎌倉の獅子王学塾で日蓮学と日本国体学を学び、国家主義的な本などを出版する展転社の会長を務めています。

 田中智学の三男であって、その日本国体学をさらに推し進めた里見岸雄(1897-1974)の影響が強いようで、里見日本文化学研究所の評議員であり、日蓮教学研究会同人代表でもある由。なお、里見は石原莞爾と親しかったことで有名です。

 相澤氏は、「聖徳太子への仰慕心がある」自分の目からすると、世間に数多く出回っている聖徳太子本は物足りないという話で始めます。太子の頃は日本滅亡に至りかねない危険な時期であって、さまざまな改革を必要としており、それをなしとげたのが聖徳太子なのだ、というのが相澤氏の主張です。

 相澤氏が本書の「新しい視点」としてあげるのは、以下の四点です。

  冠位十二階は氏族の横暴を押さえ、天皇に忠誠を誓わせるための制度

  冠は菩薩の宝冠に準えていて、仏教の明かす菩薩道を重視

  十七条憲法の第一条と第二条は、現代の政教関係を原理的に先取り

  仏教の受容と活用は、日本の国体を盤石にするため

以上です。問題なのは、「天皇家vs横暴な氏族(蘇我氏)」という古い図式、また天孫降臨・神武創業以来とする「国体」なるものを大前提としたうえで、聖徳太子は氏族を抑制し、悠久な国体を守ったと主張していることです。

 これは、当時は氏族の対立、横暴がめだっており、文化が停滞していたとする日本仏教史の開拓者、辻善之助(1877-1955)の主張や、神武天皇以来の国体の意義を強調する田中智学、またこれらを受けた里見岸雄の見解、つまり、戦前の図式に基づくものですね。実際、文中でしばしば辻の『日本仏教史』や里見の『聖徳太子』の文を引いて論拠としています。

 しかし、太子が斑鳩に移住してかなり後の頃はともかく、推古朝で改革が進められた時期は、私の「憲法十七条」論文(こちら)で示しておいたように、父方母方とも蘇我氏の血を引き、馬子の娘婿でもあった太子と馬子の共同路線の時期であって、蘇我氏を抑制しようとした形跡はありません。

 また、天孫降臨・神武創業以来という国体なるものは、『日本書紀』がその図式を創りだし、江戸末期になって「国体」の語を用いて主張されるようになり、明治になって井上毅などが「教育勅語」で広めた概念であって、聖徳太子の頃には、そうした概念は全く存在していません。

 だからこそ、「憲法十七条」には「神」という語が一回も見えないのであって、江戸の国学者や神道重視の漢学者たちからは激しく非難されたのです。辻は、「敬神」は改めて言うまでもないから触れなかっただけだという苦しい解釈をしており、相澤氏もこれを受け入れています。

 また、神武天皇を仏教、それも『法華経』と結びつけたのは、セイロンの仏教活動家であったアナガーリカ・ダルマパーラ(1864-1933)が田中智学にセイロンの古伝承を伝えたことがきっかけとなり、田中智学やその同級生だった日蓮宗の清水梁山(1864-1928)などが唱えだしたことです。

 このことは、石井公成監修、近藤俊太郎・名和達宣編『近代の仏教思想と日本主義』(法藏館、2020年)冒頭の「総論 仏教と日本主義」で述べておきました。清水梁山はついには天皇こそが『法華経』の本尊だとする極端な説まで唱えるに至っており、一時期はこれが日蓮宗でも採用されたのですが、このことについては、近代仏教史研究会で発表しており、来年、『近代仏教』誌に論文を掲載する予定です。

 ですから、相澤氏の場合、根本となる前提が間違っているため、「第一条は、天皇を中心に置いたわが国の根源的基礎社会を説いた国体条項と言わねばなりません」(68頁)といった無理な主張が続くことになるのです。

 そもそも「憲法十七条」では「天皇」の語は用いられていませんし、第一条が説いているのは、人々は党派を作って争いがちなので「和」に努めよ、ということであって、日本の国体などにはまったく触れていません。

 相澤氏は「国史編纂こそ国体意識の昂揚」を示す(71頁)と説くのですが、太子より100年後の『日本書紀』ですら、崇峻天皇を臣下の馬子が弑逆し、その馬子が大臣、廐戸皇子が皇太子となって政治にあたったと書いています。馬子が生きている間に、その娘婿である太子がどうやって天皇絶対の国体意識を示す歴史書を編纂できるのか。

 ここら辺は、「聖徳太子はこうであってほしい」という願望以外の何ものでもありません。

 また、「憲法十七条」は役人たちに菩薩として行動するよう求めたものであり、冠位十二階の「冠」は袋状になって飾りがついていたと記されているため、菩薩の「宝冠」に似せたのだと相澤氏は推測しますが、「冠」という点が共通しているだけであって、文献や絵図などの根拠がありません。

 『勝鬘経義疏』の中国撰述説については、私を含めた何人も研究者が証拠を示して否定したのに、「詳細な資料を持ち合わせていませんが、似ているからと聖徳太子の作ではないと短絡させ、かつ断定するのは、あまりにも偏見であり、危険だと思います」(75頁)と述べています。三経義疏を読みこんでおらず、関連論文を読まずに、一般論として希望的観測を述べているだけです。不勉強ですね。

 それに、『法華義疏』は、如来常住と仏性説を強調する『涅槃経』より『法華経』を下に見る梁の光宅寺法雲の『法華義記』を「本義」としているため、その法雲を厳しく批判した天台大師の学統を継ぐ日蓮の立場からすれば認められないはずです。実際、日蓮は、太子については『法華経』を重んじたという点を尊重するのみであって、『法華義疏』の内容を賞賛したことはなく、太子を『法華経』の正系の師に入れていません。日蓮教学信奉者の相澤氏は、太子の義疏をとるのか、日蓮の教学をとるのか。

 この本の末尾には「憲法十七条」が付され、それぞれの条に対する相澤氏の和歌が載せられており、どれも相澤氏の国体論を「憲法十七条」のうちに読み込んだ内容となっています。たとえば、第二条については、

 枉(まが)れをる民らのさがをたゞすため三つのみ宝篤く敬へ(122頁)

という歌が付けられいますが、「憲法十七条」が訓誡の対象とし、「枉を直す」と述べたのは役人たちであって、民は考慮されていません。「憲法十七条」の対象に関する良い論文の例は、このブログで紹介した神崎勝氏の論文です(こちら)。

 このように、相澤氏のこの本は、文献的な根拠のない主張ばかりであって、「憲法十七条」や三経義疏の研究になっておらず、氏自らの希望をそこに読み込んだものにすぎません。

 なお、この本の末尾の著者紹介によれば、相澤氏はNPO法人 昭和の日ネットワーク前理事長、明治の日推進協議会事務局長などの職にあるそうです。そうした立場で活動しているのでしょう。法隆寺や四天王寺が、史実を無視して聖徳太子を持ち上げるこうした国体主義の人々の運動に簡単に乗っからないよう願うばかりです。

【追記:2023年4月20日】
明治期に在家の日蓮主義団体である国柱会を創始したと書きましたが、国柱会という名に改称されたのは、大正3年(1914)ですので、訂正しました。

【追記:2023年4月25日】
 里見岸雄の『聖徳太子』について、辻善之助や田中智学の解釈を承けた戦前の見解と書きました。里見の『聖徳太子』(里見日本文化学研究所、1974年)は、戦後の出版ですが、「教育勅語」の国体論に基づき、また憲法は勅命によるものである以上、「聖徳太子の憲法」というのは適当でないとした川合清丸と同意見であって、「推古憲法」「推古天皇の憲法」と呼ぶべきだと説くなど、完全に戦前の図式に基づいています。


新コーナー「国家主義的な日本礼賛者による強引な聖徳太子論」を始めます

2023年04月19日 | このブログに関するお知らせ

 「聖徳太子はいなかった」説は撃破されましたが、珍説奇説は以後もあとを絶ちません。また、戦前から戦中にかけて盛んだった国家主義的な聖徳太子礼賛は、今も根強く残っています。このため、「いなかった」説が消えると、今度は国家主義に基づく強引な聖徳太子論が流行する可能性があります。

 少し前に紹介した田中英道氏の本もその一つですが(こちら)、あのような妄想だらけのトンデモ本と違い、生真面目に聖徳太子に取り組み、我が国体を守った偉大な英雄として賞賛しようとする人たちがいます。

 この系統の人たちの中には、日本会議や自民党の右派や神社本庁などと結び着いて政治運動としての太子礼賛をやるタイプも見られますが、問題はその太子解釈が史実を無視していることであり、自らの国家主義を太子の事績に読み込もうとしがちなことです。

 そうした人が日本を危険な方向に持っていきがちであることは、津田左右吉が強く警告したことであり(こちら)、また小倉豊文が恐れたことでした(こちら)。私は聖徳太子に関する津田や小倉の個別の説については批判していますが、津田のひ孫弟子として、津田のそのような批判的姿勢は受け継いでいますし、小倉の考え方にも賛同しています。

 そこで、このブログでは、「国家主義的な日本礼賛者による強引な聖徳太子論」というコーナーを作り、国家主義者、特に国体論者たちによる聖徳太子解釈の問題点を指摘することにした次第です。

 初めは「国体論者による~」とか「日本主義者による~」といったコーナー名にしようと思ったのですが、そうした伝統を踏まえていないタイプの日本礼賛者による聖徳太子礼賛の文章もたくさんあるため、今回のような名になりました。

 なお、私自身は「ものまね」を柱とする日本芸能の歴史の本を出しているほか、古典文学関連の論文も多く、年内に日本の文学と仏教の関係に関する本も出す予定になっているほどの日本文化好きですが、アジア諸国の文化もある程度知っていますので、日本だけを異常に持ち上げて他国をおとしめるような発言は無知の証拠としか思われません。このコーナーでいう「日本礼賛者」とは、世界無比の国体を誇って日本の素晴らしさだけを礼賛し、他国を軽んじるタイプの人たちを指しています。

【追記】
「日本礼賛者による強引な聖徳太子解釈」というコーナー名で早朝に公開したのですが、誤解を避けるため、「国家主義的な日本礼賛者による強引な聖徳太子論」と改めました。また、こうした人たちとの協同が案じられる相手に「日本会議」を加えました。


三経義疏の「義疏」は「注」とどう違うのか:王孫涵之「義疏概念の形成と確立」

2023年04月15日 | 論文・研究書紹介

 『法華義疏』『勝鬘経義疏』『維摩経義疏』から成る三経義疏については、熱烈な太子信奉者であった花山信勝、金治勇、望月一憲などの研究者が亡くなって以後は、論文が少なくなってしまいました。理解を深めるためには、中国や韓国の『法華経』『勝鬘経』『維摩経』の注釈、特に活字化が進んでいない敦煌写本中の古い注釈との詳細な比較が必要であるため、若手がそうした研究に取り組んでくれることを期待しています。

 さて、三経義疏はそれぞれ「~義疏」という題名が付けられているわけですが、実は、経典の注釈を「義疏」と称することは、六朝時代の初期から始まっていますが、仏教経典の注釈で現存するのは、数少ない例外である唐代の慧沼の『十一面観音経義疏』や宋代の元照(1048-1116)の『阿弥陀経義疏』などを除けば、六朝後半から初唐あたりの時期に限られており、それほど多くはありません

 そこで、今回は「義疏」という注釈の形がいかにして生まれたかに関する論文を紹介します。

王孫涵之「義疏概念の形成と確立」
(『東方学報 京都』第97冊、2022年12月)

であって、刊行されたばかりです。王孫氏は中国では多くない二字の姓であって、華南師範大学、北京大学大学院修士課程、京都大学博士課程と進み、現在は弘前大学の助教を務めている由。中国における注釈の形式の変遷に関する研究をしています。

 王孫氏は、「義疏」は儒教・仏教・道教と密接に関わっているが、その起源は明らかになっておらず、問答体であること、また科段、つまり、詳細な目次のように経典を区分したうえで解釈するやり方が特徴とされるものの、両方をそなえたものは少ないことに注意します。

 まず、従来の研究では、「義疏」の語が見える注釈としては、仏教では東晋の太和6年(372)から太元16年(391)頃に成立したと推測される竺法崇の『法華義疏』があり、儒教では南朝の宋に東宮、つまり皇太子が講じた『孝経義疏』が早く、仏教が先行していて儒教に影響を与えたとされていました。

 しかし、太元年間以前の晋での釈奠儀礼と結び着いていた『孝経』の解説である『孝経講義』は、既に義疏の性質を持っていたことが指摘されています。また、王孫氏は、文献に「義疏」とあっても、作成された当時、そのように呼ばれていたかどうかは別の問題だとします。つまり、古い時期に『~疏(儒教系では「そ」、仏教系では「しょ」)』とあった注釈が、後の文献では『~義疏』と呼ばれている例を示します。
 
 「義疏」については、経典とその「注」に対する二次的な注釈と見る説もあり、また講義を文献化した「講疏」だとする説もあります。
 
 まず、「問いて曰く~答えて曰く」という形で説明を進める問答体については、仏教由来とする説もありますが、仏教文献の早い注釈には問答体が見られないものもあります。ここで王孫氏が注目するのが、(聖徳太子の手本であったと推定される)梁の武帝(在位502-549)の同泰寺での講義に基づく『御出同泰寺講金字般若経義疏并問答』です。

 この「問答」部分は残っていませんが、「義疏」、すなわち経典の解釈とその後での聴衆との「問答」が別扱いされていたことが分かります。当時、清談の余波を受けて問答が盛んであったため、それが仏教の講義に取り込まれたのであり、さらに後になって講義の中に問答が組み込まれるようになったのです。なお、武帝の散佚した『注解大品(般若経)』では、経を五段に分けていた由。

 ただ、科段を用いることは、儒教の経典注釈では早くから用いられており、広く読まれた『論語義疏』を著した皇侃(488-545)は、漢代の章句に由来するものと見ていたようです。

 一方、問答を用いた説明は、『注維摩』に載る鳩摩羅什の注の部分に見えており、曇鸞(476-542)の『無量寿経優婆提舍願生解』(『往生論註』)では、問答体と科段の両方を備えています。

 儒教の注釈は簡潔さを尊んでいたため、長い説明をし、逸話などまで加える仏教の詳細な注釈については、西域から持ち込まれたようです。ただ、梵文の注釈には問答は見えるものの科段はなく、これは詳細な鳩摩羅什の注も同様です。

 「義疏」は意義・意味をあらわす「義」と、記録を意味する「疏」から成っています。このため、「義記」と題した注釈も多く残っており、北周保定5年に書写された敦煌文書のP2104は、尾題は『十地義疏』となっているのに対し、書写した人が加えた跋文では「十地義記」と呼んでいるほどです。

 では、なぜ詳細な「義疏」が登場したかと言うと、儒教の経典だけでなく、その経典について書かれた漢代の鄭玄などの簡潔な注も、経典に近い権威を持つようになったことが一因です。仏教も中国に導入されてすぐの時期は、仏教の聖典を儒教の場合と同様に「~経」と訳し、それに「注」をつけました。

 ところが、経典と注をまとめたものに注釈をつけるようになると、複数の注を考慮したもの、経典全体ではなく、その重要な箇所とそれに対する複数の注などについて論じた「~義」と題される注釈書が書かれました。このほか、「注」以外の形式の注釈は多様であったようです。

 もう一つ重要な要素は、口頭での議論です。六朝は講義の席でのやりとりが盛んになされ、また清談も大いに流行しました。それを踏まえた注釈が生まれたのであって、梁代の天監17年(518)に完成した仏教書の目録である宝唱『梁與衆経目録』では、「経」と「注」以外に、「義記」という区分がなされるに至ります。なんせ、梁の武帝は、仏教、儒教、老荘の書物を講義し、資料を整理したり助言したりする僧や学者の支援を受けてのこととはいえ、およそ200巻もの経典の「義記」を著しています。

 その時代に、聖徳太子の『法華義疏』の「本義」、つまり種本となった『法華義記』を著した光宅寺法雲(467-529)は、『成実論』の内容を分類し、詳細な42巻の『成實義疏』を作っています。

 当時は、講義をまとめて「義疏」としたり、逆に綱要書を著してからこれを講義することもあったようでで、宝雲は、武帝の命によって『成実義記』を二度講義しています。

 以下、王孫氏は、「義疏」についてさらに細かく検討していってますが、このブログとしては、聖徳太子が模範としたと思われる梁の武帝、そして、『法華義疏』の種本を書いた宝雲が、「義疏」というものとどのような関係にあったかが重要ですので、ここまでにしておきます。

 なお、『日本書紀』が編纂された720年頃は、唐や新羅では「~義疏」という題名の注釈はほとんど書かれなくなっています。三経義疏は後代に作られたと主張した人もいましたが、聖徳太子信仰が盛んになった頃になって、三経義疏みたいに古い学風、また古くさい題名の注釈を偽作するためには、ものすごい時代考証をやらねばならず、絶対に無理です。

 唐や百済・新羅・高句麗などから適当な注釈を拾い集めてきて、聖徳太子作としたという説も無理です。三経義疏は、三経義疏だけに共通し、中国・韓国の注釈書に見えない和習の表現がけっこうあるので。


早稲田での聖徳太子シンポジウム刊行:吉原浩人「磯長聖徳太子廟と「廟崛偈」をめぐる言説」

2023年04月12日 | 聖徳太子信仰の歴史

 早稲田での聖徳太子シンポジウムの最後の発表です。

吉原浩人「磯長聖徳太子廟と「廟崛偈」をめぐる言説」
(『多元文化』第12号、2023年2月)

 私の発表は太子そのもの、阿部さんの発表は平安初期の太子信仰であったのに対し、最後の発表の吉原さんのテーマは、太子信仰が異様に盛んになって偽作の文献や文物が大量に作成された鎌倉時代の太子伝説のうち、太子が生前に磯長に自分の墓を造らせ、その石室に記したとされる「廟崛偈」です。

 平安中頃から鎌倉時代にかけて、太子信仰が高まって伝記研究が進むと、現代の常識からすると荒唐無稽としか言いようがない解釈やら太子伝説やらが、秘事として次から次へと生まれます。それを伝述するための特殊な太子伝も作成されたうえ、当時流行していた太子絵伝の中には、そうした秘事口伝の内容を描いたものも登場します。

 つまり、秘事口伝を受けた者だけがその絵の本当の意味を解説できる、ということになるのです。聖徳太子が生身(しょうじん)、つまり生きている存在として信仰を集めた信濃善光寺の善光寺如来(像)と手紙のやりとりをしたという伝説もそうした秘事の一つでしたが、次第に知られるようになっていき、やりとりは一度だけではなかったということで、応答の回数が次第に増えていって五回もなされたとされ、和歌の応答があったという話まで生まれます。

 この手紙については、中世に流行した偽作の年号が使われているため、九州王朝説信者たちが「九州年号だ、本物だ」と大喜びし、病気になった九州王朝の太子が信濃の善光寺如来あてに送った手紙だという妄想を大真面目で書きたてていたため、善光寺信仰の専門家である吉原さんの論文をこのブログで紹介してあります(こちら)。

 吉原さんは、この種の伝説は近代以後は荒唐無稽だとして注目されなくなったが、そうした言説にこそ、太子信仰の本質があるとします。聖徳太子と善光寺如来(像)が手紙でやりとりするというのは、現代の常識では考えられないことですが、親鸞が「廟崛偈」を書写していたことが示すように、末法思想におののき、浄土往生を願っていた中世の人々は、そうした伝説を熱心に信じていたのです。

 そして、善光寺如来の信仰を広めていったのは勧進聖と呼ばれる念仏聖たちの集団であって、高野山→四天王寺→善光寺を結ぶことにより、空海に対する信仰、聖徳太子信仰、阿弥陀三尊への信仰が結びつき、空海が太子廟に参詣したととか、空海は聖徳太子の生まれ変わりだといった伝承が生まれるに至ったとします。

 さて、叡福寺の奧にある磯長廟は、現在は墓所周辺のみ宮内庁管理となっています。平安前期に撰述された『上宮聖徳太子伝補闕記』では、太子は生前に墓所を見てまわり、病なくして亡くなったと記すだけでしたが、平安中期に太子伝を集成した『聖徳太子伝暦』は、47才条では、太子は墓を造るよう命じて自ら墓所に入り、子孫が残らないようにするために数カ所を斬らせたとします。そして、48才条では墓内に二つの床を設けさせたと述べ、50才条では、太子と妃が沐浴後に新たな衣装を着て亡くなり、磯長に葬送すると墓を守る鳥が出現したと述べます。

 しかし、現在の磯長廟には三つの棺があり、母である間人皇后も葬られています。現在は墓の入り口に江戸時代の覆屋が置かれていて中に入れませんが、平安時代から出入りする僧侶たちがおり、その内部は、空海が記録したと記された「太子御廟図」に描かれています。それによれば、中央奧に「間人皇女」の棺、手前右側に「上宮」の棺、手前左側に「妃女」の棺が置かれ、間人皇后の棺の左には鏡、その左に「井」、さらに石室の西壁の前に四角い石碑のようなものが描かれて「日記文」とあります。

 この「日記文」が、太子自ら記したという「廟崛偈」です。この偈は、法興元世二年十二月十五日に太子が調子丸を使いとして善光寺如来に派遣した際に託された消息として伝えられています。

 この話については、法隆寺の顕真(1131-1192)の『古今目録抄』巻下の裏書文書「顕真得業口決抄」を初めとして、多くの文献が載せていますが、いずれも鎌倉から室町にかけての文献です。しかも、顕真は、その調子丸の子孫と称して太子と調子丸に関する伝説化を推し進めた人物として有名です。「廟崛偈」は、そうした怪しい人物の口伝と称して残されたものなのです。

 「廟崛偈」では、太子は阿弥陀如来の慈念を強調し、我が身は「救世観世音」、戒定恵の三学のうち定と智恵を備えた妃は「大勢至」、自分を育てた「大悲母」は「西方教主弥陀尊」だと述べ、もとは一体だとし、この「三骨一廟」に参詣すれば、地獄・餓鬼などに生まれず、必ず極楽に往生できると説いています。「新年の初詣では、御利益豊かな〇〇観音へ」といったコマーシャルのようなものですね。

 吉原さんは「救世観世音」という日本独自の称号について説明した後、「廟崛偈」と対になって記録されることが多い空海作とされる「御記文」について検討します。これは、空海が太子廟に参籠して書いたとされるもので、このことが示すように、この時期に弘法大師信仰と聖徳太子信仰と善光寺如来信仰が結びつくのですね。

 さて、「廟崛偈」を利用したのは空海の真言宗だけでなく、親鸞がこの偈を書写した自筆の断簡が残っていることが示すように、真宗でもこの偈は重視されました。真宗で親鸞と太子の関係を協調するのが、1325年の写本が伝わる『聖徳太子内因曼陀羅』です。これは、観音の応現である太子、前世の勝鬘夫人と南岳慧思、善光寺如来との書簡往復、太子の本地、法然・親鸞の伝記について説明した絵解きの台本です。

 このほか、太子廟や太子関連の未来記の偽作その他、「廟崛偈」をめぐる言説がいかに多様で盛んであったかが論じられ、太子廟が浄土信仰の聖地になったことが指摘されており、この問題に関する集大成ともいうべき内容になっています。


早稲田での聖徳太子シンポジウム刊行:阿部泰郎「聖徳太子と達磨の再誕邂逅伝承再考」

2023年04月09日 | 聖徳太子信仰の歴史

 聖徳太子シンポジウムでの2番目の発表です。

阿部泰郎「聖徳太子と達磨の再誕邂逅伝承再考」
(『多元文化』第12号、2023年2月)

 阿部さんは中世の宗教文献と関連する毎柄について幅広く研究してきました。その中心となるのが、聖徳太子信仰の研究であって、これについては、以前、このブログで一例を紹介したことがあります(こちら)。

 その阿部さんが、名古屋大学に創設された人類文化遺産テキスト学研究センターで精力的に推し進めてきたのは、中核となる宗教テキストをめぐって、関連する注釈・伝記その他、「間宗教テキスト」と阿部さんが称するテキストが繁茂し、儀礼がなされ、絵や像が造られ、それらの相互作用の総体がさらに次の段階を生む場となる宗教空間の生成と展開の運動を明らかにするための共同研究です。(その重要メンバーであった近本謙介氏が、先日、パリで急逝されたのは残念なことでした)。

 そうした宗教空間・宗教テキストの世界の柱の一つが聖徳太子伝であり、今回、阿部さんがとりあげた光定の『伝述一心戒文』もその一例です。光定は、最澄の弟子であって、最澄没後に朝廷にあれこれ働きかけ、天台宗の確立に努めた人物ですね。

 太子伝については、天台宗の開祖である天台智顗の師であった南岳慧思の生まれ変わりという伝説が有名であり、さらに、太子が前世で読んでいた『法華経』とされるものが、末尾に唐代の書写識語があったことが知られ、その矛盾を解消するため、南岳衡山で前世に読誦していた『法華経』を太子自身が青龍車で飛んで取りにいったという伝説が生まれます。

 この二つの話とからんでくるのが、太子が道で飢えて倒れている人を見かけ、憐れんで歌を詠みかけ、衣を与えたところ、その飢人は実は聖人だったという片岡山飢人説話です。宝亀2年(787)に東大寺妙一、あるいは大安寺敬明の作とされる『上宮厩戸豊聡耳皇太子伝』では、この飢人について「蓋し是れ達磨か(蓋是達磨歟:思うに、これは達磨ではないか)」と注記します。

 この注記に飛びついたのが、日本の天台宗でした。最澄は早くから聖徳太子を、南岳慧思の生まれ変わりであって『法華経』を尊重した人物として尊崇していました。つまり、日本天台宗の先駆とみなし、天台宗を広めるために助力してくれる存在とみなしていたのです。さらに、最澄は達摩に始まる禅宗の系譜も受け継いでいました。

 最澄は天台宗の伝法が正当なものであることを証明するため、『天台法華宗付法縁起』を著しました。残念ながら残っていませんが、橘寺の法空の『平氏伝雑勘文』によれば、この『付法縁起』は上記の『上宮厩戸豊聡耳皇太子伝』の全文を載せていた由。

 また、最澄撰と伝えられる『天台法華宗伝法偈』では、太子の南岳慧思後身説を説き、片岡の飢人は菩提達摩かとする伝承を載せたばかりでなく、達摩が慧思に日本に誕生するよう勧めたとも記してあり、二つの伝承が結びつけられるに至ります。

 さらに、光定の『伝述一心戒文』では、関連する多様な「文」を集め、自らの言を加えて示したうえ、嵯峨朝における漢詩文全盛の風潮にさおさし、最澄や光定の漢詩や詩序を「巧妙に布置し解釈を加え、より巨きな因果の環を創りあげた」と阿部さんは評します。つまり、宗教テキストを創出しつつ文学にも踏み込んだものとなったと評価するのです。

 その際、阿部さんが着目するのが、『上宮厩戸豊聡耳皇太子伝』では「蓋し是れ達磨か」としてた注を本文として「達摩也」と断定したことです。9世紀前半に密教が伝わり、新しい顕密体制が生まれていきますが、その時期に「太子を介した諸因縁の結ばれ」として多様な仏教をまとめあげ、最澄の仏教の正統性を強調したのが光定の『伝述一心戒文』だった、というのが結論です

【追記:2023年4月12日】
 聖徳太子信仰に関する阿部さんの研究については、このブログで以前紹介してありましたので、それを冒頭に加えておきました。


早稲田での聖徳太子シンポジウム刊行:石井公成「文献と金石資料から浮かびあがる聖徳太子の人間像」

2023年04月05日 | 論文・研究書紹介

  昨年7月に早稲田大学文化構想学部の多元文化論系の学会である多元文化学会が開催した春期シンポジウム「聖徳太子一四〇〇年遠忌記念 聖徳太子の実像と伝承」が開催され、私を含めた3人が発表したことについては、このブログで紹介しました(こちら)。

 その3人の発表を掲載した雑誌、『多元文化』第12号が刊行されました。奥付は2月刊行となっていますが、実際に刊行されたのは、卒業式での配布に間に合わせるためでしょうが、3月の後半でした。

 このうち、最初に話した私の発表は、

石井公成「文献と金石資料から浮かびあがる聖徳太子の人間像」
(『多元文化』第12号、2023年2月)

です。講演録の形ではなく、論文の形式になっています。researchmapの私のポータルページの「論文」のところににPDFをあげておきました(こちら)。

 出版社が販売している本や雑誌に書いたもの以外、つまり大学の紀要・論集や学会の学術誌などに書いた論文は、なるべくここで公開するようにし、短いものはこのポータルページのMISC(その他)のコーナーに置いてあります。

 今回の論文では、まず、私の母校であってこのシンポジウムが開催された早稲田は、久米邦武、津田左右吉、福井康順と続いて、太子の事績を疑う研究の拠点であったことを述べました。

 それが変わったのは、太子礼賛の立場の研究拠点であった東京大学のうち、印度哲学科で学んで後にその教授となり、高楠順次郎や花山信勝のような熱心な太子信奉者ではなかったものの、三経義疏を太子作としてその意義を認めていた平川彰教授が、定年になって早稲田に移ってきて、大学院で『勝鬘経義疏』を読んでからです。

 私は早くから津田左右吉を尊敬しつつも、国文学や聖徳太子に関する津田説については反対していました。

 そうしたことを述べた後、文献や金石資料に基づいて太子の人間像を明らかにしていきました。たとえば、三経義疏では、種本である南朝の注釈の解釈に反対する際は、「少し~だ」と述べたところが多く、謙虚な面もあるものの、実際にはかなり自信を持っていることが分かると説きました。

 この点は以前から指摘されていたことですが、これまでは単に承認しているとされてきた表現、たとえば「好則好矣(好きことは則ち好し)」についても、中国の用例を示して、「これもまあ悪くはないが」といった上から目線で批判していることを明らかにしています。

 また、『法華義疏』が「愚心、及びがたし」と述べ、「いわゆる『明らかならざる所を闕[か]く』なり」と記していることについては、謙虚さの現れとされていましたが、「良く知らないことは記さないでおく」というのは、『春秋』における孔子の態度を示す言い回しとして当時知られていたようであって、自分も同様に、不案内なまま不十分な解釈はしないのだという見識を誇った表現と見られることを指摘しました。

 三経義疏には、解釈にあたって「私~」という形で自分の意見を述べていることが多く、学団による共同製作とは考えがたいことは早くから指摘されていました。今回は、「(それは奥深い解釈でしょうが)私が考えるところでは」と謙虚気味に言う際、「私意」などでなく、中国の注釈ではそうした意味では用いられない「私懐」という表現を使ったりしており、しかも、三経義疏の中で一つだけ異質とされる『維摩経義疏』にもそうした用例が見えることを指摘してあります。

 こうした点に注意して読むと、教理を説いた堅苦しそうな漢文から、著者の性格が見えてくるのです。三経義疏については、原文でそのまま読む人は稀であって、花山信勝の書き下し文で読む人がほとんどと思いますが、太子信奉者である花山は、できるだけ自然に読めるように強引な訓読をしており、これで読んだのでは原文の文章の特徴はわかりません。

 「私は東京に行きます」「おいら、東京なら行くぜ」「あたし、東京も行ったことあるのよ」という文章は大違いであって、書いた人の立場や性格が出ています。この場合、大事なのは、「東京なら」の「なら」や「東京も」の「も」ですが、「東京」「行」という漢字だけ拾って読む人、あるいは「我、東京に行かん」と「私、東京、行くです」の文体の違いが分からないと、少し前の記事で触れた吉田一彦氏の概論のようなことになるのです(こちら)。

 なお、戦前は『日本書紀』の記述通りに、「天皇家(を代表する聖徳太子)vs横暴な蘇我氏」といいう対立の図式が強調されていました。今回の拙論では、かつては天皇後継争いは「物部氏←→蘇我氏」という対立だったものが、蘇我氏が強大になった結果、蘇我氏内部の「本宗家←→本宗家以外(境部摩理勢など)」という対立が天皇後継争いの要因となり、上宮王家はその争いに巻き込まれたのではないか、と推測してあります。

 自民党もそうですが、ある勢力が他の勢力との抗争に打ち勝って一極支配となると、今度は内部抗争が始まるものですからね。上宮王家もその図式に乗って自立しようとした面はなかったのか。ともかく、戦前の図式とその変型は疑ってかかる必要があります。


ものまね番組で芸人が聖徳太子ものまねをやっていたら、ご本人が登場!(4月1日限定:特別記事)

2023年04月01日 | その他

 「2022年度も終わりか」と思いつつ深夜テレビを見ていたら、4月1日に日付が変わった途端、画面に「ものまねグランプリフール 聖徳太子のご本人が登場!」と表示されました。

 私の場合、4月1日には意外なことが起きることが多いのですが(たとえば、こちらや、こちらや、こちら)、そんな番組が放送されるとは知りませんでしたので、見始めたところ、驚くべき内容でした。

 ものまね番組で「ご本人登場」と言えば、普通は、ものまね芸人がその人のものまねをやっていると、背後からご本人が登場して驚かせるというパターンですね。

 この番組の場合、まず出てきたのは、髭をはやした女子中学生の姿をした芸人の脳みそ夫であって、「聖徳太子だって、修学旅行、行くっつうの! あたし、聖徳太子。飛鳥中学3年2組」と自己紹介を始めました。

 これは脳みそ夫自身が、所属するタイタンの公式ホームページ(こちら)で公開している彼の人気ネタですね。脳みそ夫については、ライブを何度も見ています。結婚直後のライブでは、奥さんが縫ってくれたという衣装を着てました。

 私は昔から芸能好き、とりわけものまね芸が大好きで、『<ものまね>の歴史ー仏教・笑い・芸能ー』(吉川弘文館、2017年)という本まで出しているくらいですので、この方面は詳しいのです。

 となると、ご本人登場というのはどういう形にするんだろうと思っていたら、背後から登場したのは、中国の南北朝末あたりの姿をした威厳に満ちた僧侶です。その僧侶は、「我是南岳慧思,因转世为日本的圣徳太子而闻名」と現代の北京語の発音で語り、画面の下に、「私は南岳慧思です。生まれ変わって日本の聖徳太子となったことで有名です」とテロップが出ました。

 いや、たまげました。日本に転生して聖徳太子となったという伝承で知られる南岳慧思を、他のものまね芸人が演じているのではなく、本物の慧思が登場したようです。まさに、「ご本人登場」です。

 ただ、慧思禅師は、聖徳太子が生まれた3年後あたりに亡くなっており、生まれ代わりはありえないのですが、昔のことですので、その辺のことは忘れているのでしょう。あるいは、これが古代のロマンというものなのか。

 脳みそ夫が驚きのあまり何も言えずに固まっていると、慧思禅師の後ろからさらにもう一人、インド人僧侶風な僧が車椅子に乗って現れました。こちらはカーキ色の衣を身につけた非常に高齢の僧で、車椅子の上に坐禅姿で座っており、片腕がない中国僧が、その車椅子を片腕だけで押して登場したのです。

 眼光鋭いその老僧は、無言のまま、手にしていたスケッチブックをめくりました。そこには、“मैं बोधिहर्म हूं” といったような文字が書かれていました。まったく読めません。

 ただ、フロアーにいたテレビ局の誰かが外語大のヒンディー語学科出身か何かだったのか、「ダルマだ!」と叫んでいる声が聞こえましたので、おそらく、禅宗の開祖である菩提達磨が「わしが菩提達磨じゃ」といったフィリップを見せているのでしょう。

 菩提達磨は沈黙を守っていたことで有名ですからね。となると、弟子らしい片腕がない僧は、自ら腕を切って決意を示し、達磨に弟子にしてもらった二祖の恵可ということになります。

 しかし、聖徳太子が片岡山で出逢った飢人は実は菩提達磨だったという伝承はあるものの、逢っただけですので、「ご本人登場」とは言えません。ただ、達磨が慧思と出会って日本に生まれるよう勧めたという伝説もありますので、老齢のダルマ師は、「昔の恩人と涙で再会」といった番組と間違えて出てきたのではないでしょうか。

 そう思った人は他にもいたようで、今度は優雅なサリー姿の若くて美しいインド女性が登場し、ダルマ師にインドの言葉で話しかけました。やんわりとたしなめているようです。

 聡明そうなその女性は、スマホを取り出してパシパシと入力し、ポンとクリックしました。インドの言葉を日本語に換える翻訳アプリを使ったようです。

 その女性はスマホの画面をカメラに向けたため、カメラが寄っていくと、その画面には「私は勝鬘夫人です」と表示されており、読み上げ機能によって日本語でなめらなかに読み上げられました。

 いやあ、驚きました。前世の太子と転生後の太子に会っただけの菩提達磨と違い、『勝鬘経』の勝鬘夫人なら聖徳太子に生まれ変わったと言われており、寛弘4年(1007)に四天王寺で発見されたという「御手印縁起」では、太子は「皇太子仏子勝鬘」と署名して朱で手印を押されていますので、これなら過去世のご本人登場と言って良いでしょう。

 すると、ここで画面の下に、「コンプライアンス上、この放送は4月1日限定です」というテロップが流れ、番組が終了しました。今日だけとはいえ、私はお気に入りの聖徳太子ものまね芸人の芸だけでなく、「前世のご本人」登場まで見ることができ、幸いなことでした。

 放送もこの記事も、本日、4月1日限定ですが、ブログに書いた脳みそ夫の記事は、以後もずっと見られますのでどうぞ(こちら)。