聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

「天寿国繍帳銘は儀鳳暦だから後代の作」と言えるか:北康宏「天寿国繍帳銘文再読」

2021年03月29日 | 論文・研究書紹介
 聖徳太子関連の文物については、すべてに真偽論争があるものの、偽作説は成り立たないとされる場合が増えています。そうした中で、例外的に後代の作で間違いないことを確定した論文として重視されてきたのが、

金沢英之「天寿国繍帳銘の成立年代について-儀鳳暦による計算結果から-」
(『国語と国文学』 78(11)、2001年11月)

です。

 天寿国繍帳の銘文では、「等已刀爾爾乃爾己等(とよとみみのみこと=豊聡耳尊)」、すなわち聖徳太子の母后である「間人公主」が、「歳在辛巳(620)十二月廿一癸酉」の「日入」時に亡くなったと記しています。しかし、当時使われていた元嘉暦では12月21日は「癸酉」ではなく「甲戌」であって、一日のずれが生じていることが早くから知られていました。

 これについては、唐がその直前である618年に採用した戊寅暦によれば、21日は「癸酉」となるので問題ないとする説も出されましたが、提唱者である飯田瑞穂氏自身、可能性は低いと見ていました。

 持統朝では儀鳳暦が採用されたものの、季節によって大陽や月の運行速度が変化することを考慮した複雑な計算法である定朔法は用いられず、年間を通して一定の速度として計算する簡便な平朔法が用いられました。この平朔法によると、十二月廿一日は、元嘉暦と同様に「甲戌」となり、やはりズレが残ります。

 そこで、金沢氏は、より正確ではあるけれど複雑な定朔法で計算してみたところ、ズレは解消され、21日は「癸酉」となりました。このため、金沢氏は、銘文は後になって付加されたとする東野治之氏の説に賛同し、銘文のうち、前半の系譜部分は古い資料に基づくものの、「天皇」などの語が見え、儀鳳暦の定朔法を用いたと思われる日付の表記が見られる後半部分は、儀鳳暦が使われるようになった持統朝以後の作と推定したのです。この説は、根拠のある主張してかなりの支持を得ました。

 その金沢説を疑ったのが、

北康宏『日本古代君主制成立史の研究』「附論三 天寿国繍帳銘文再読」(塙書房、2017年)

です。北氏は、推古天皇の孫娘であって晩年の太子の若い后となった橘大郎女が、太子の死を悲しみ、推古天皇にお願いして作ってもらった天寿国繍帳のこの銘文は、斑鳩近辺の豪族である膳氏出身の妃、菩岐々美郎女に対する強烈な対抗意識に基づくことに注意します。

 菩岐々美郎女は、太子との間に8人の子をもうけており、最後は太子とともに病気で倒れ、一日違いで亡くなっていますので、后妃たちの中でも最も太子との関係が深かったことは疑いありません。法隆寺金堂の釈迦三尊像銘によれば、太子の母后が「辛巳年十二月」に病死してまもなく、菩岐々美郎女は太子とともに枕を並べて病床につき、「二月廿一日癸酉」に亡くなり、太子は翌日に亡くなったと記されています。

 一方、天寿国繍帳銘では、膳妃のことなどは一言も触れず、「十二月二十一日癸酉」に母后が亡くなると、太子は母后と約束していたように後を追って「二月廿二日甲戌」の夜半に亡くなったと述べています。

 北氏は、この母后の没日とされる「十二月二十一日癸酉」は、実は菩岐々美郎女の没日である「二月廿一日癸酉」を転用したのではないか、と見ます。つまり、太子が後を追ったのは、豪族出身の妃などではなく、皇后であった母后なのだと言えるように作為を加えたと推定するのです。

 となれば、当然のことですが、前半で太子と橘大郎女の高貴な系譜が長々と述べられ、後半でそうした主張がなされるような銘文が、聖徳太子の神格化が進んだ後代になって作成されるのは考えがたいことになります。

 北氏は、金沢氏の論文は、儀鳳暦(石井注:その定朔法)で計算すると1日のズレが発生しなくなるということを示しただけであり、儀鳳暦(の定朔法)で計算したとする証明にはなっていないと論じています。

 この問題については、異様に精密な暦換算のフリーソフトとして名高く、LOD関連の賞も受賞している whenの開発者である suchowan (須賀隆)さんが、そのブログで取り上げています(こちら)。suchowanさんは、戊寅暦が伝わっていた可能性を否定したうえで、こう述べます。

日本書紀においても儀鳳暦の遡及的な計算は定朔ではなく平朔で行っており[4]、聖徳太子薨去前後の時期の定朔による朔閏表は作成していない。よって、そのような朔閏表は予め存在しておらず、もし儀鳳暦行用後に儀鳳暦で銘文を創作するとしても、その為に新たに複雑な定朔の計算をする必要があった。

そこまで手間をかけるものだろうか?

以上です。

 suchowanさんは結論は保留していますが、太子の母后の没日だけ複雑な定朔法をもちいて計算したというのは無理そうですね。

 漢字文献情報処理研究会の仲間である suchowanさんには、何度かご教示いただきましたが(有り難うございます)、平朔法を用いると、大の月が続く場合、二か月隔たった同じ日の干支は同じになり、大の月と小の月、または小の月と大の月が続く場合は一日違いになるため(同じになることは稀であるそうですが)、厳密に計算をしないのであれば、二か月前の廿一日をそのまま「癸酉」としてしまっても不思議ではないそうです。

 そうなると、北氏の推測どおりである可能性もあることになりますね。いずれにしても、「天寿国繍帳銘は儀鳳暦を用いているから持統朝以後」とは確定できないことになります。

『播磨国風土記』「聖徳王御世」に作られた石屋:荊木美行「石宝殿小考」

2021年03月25日 | 論文・研究書紹介
 先に『播磨国風土記』印南郡大国里条に見える「聖徳王の御世」という言葉に関する荊木美行氏の論文を紹介しました(こちら)。大国里条の該当部分では、「聖徳王の御世」に家のような巨大な石を「弓削大連」、つまり物部守屋が造ったという伝承が記されています。守屋の関与が史実かどうか、大石は何のために加工されたのかについては様々な説がありますが、荊木氏の最近の論文がこの問題を論じています。

 荊木美行「石宝殿小考-『播磨国風土記』の大石伝承との関聯-」
 (『史聚』53号、2020年3月)

です。

 大国里条では、美保山の西にある池之原という地について、「原の南に作石有り。形、屋の如し。長二丈、広一丈五尺、高亦た之の如し。名づけて大石と曰う。伝に云く、聖徳王の御世に、弓削大連の造る所の石なり」と述べています。「作石」とは、加工した石のことです。

 荊木氏は、美保山は竜山石の産地であり、4・5世紀の畿内や周辺の大型古墳には竜山石製長持形石棺が用いられており、この付近はヤマト政権の直轄する石材の供給地であって、石作連氏が管轄していたと見られるとします。

 上記の「大石」については、最大幅6.45メートル、奧行5.48メートル、最大高5.7メートルの直方体です。この巨大さのため、当時の権力者であった守屋が生前に寿陵に用いるために加工させたものの、途中で馬子との合戦で死亡したためそのままになったとする説や、守屋とは関係ないとする説など、様々な説があります。

 荊木氏は、そうした諸説を簡単に紹介したうえで、石棺ならその形に合わせて切り出すのが普通であり、棺でなく石室にするにせよ、約500トンとも推定される巨大な石を山中から畿内まで運ぶのは困難と説きます。また、畿内のこの時期の石棺はいずれも二上山の凝灰岩であって、竜山石は使われておらず、竜山石がまた用いられるようになるのは守屋が打倒された後であるとする説を紹介します。

 ただ、『先代旧事本紀』巻三「天神本紀」では饒連日尊の天下りに随行する天物部二十五部のうちに「播磨国物部」が見え、『延喜神名式』播磨国条には物部神社があり、『日本三大実録』貞観6年(864)には播磨国の陰陽師として弓削連安人、その子の弓削連是雄の名が見えることなど、播磨国と物部氏(母方の姓から弓削とも称した)を結ぶ史料があることに注意します。守屋に関わる伝承をまったく否定することもできないのです。

 その他、いろいろと検討したのち、明確な結論は示しえないとしたうえで、巨大な石をこの地にすえる「一種のモニュメント」と見る研究者たちの意見を評価して論文を閉じています。

「聖徳太子の仏教の師たちは三論宗だった」というのは凝然の創作:石井公成「凝然の聖徳太子信仰と三経義疏研究」

2021年03月21日 | 論文・研究書紹介
 三経義疏を疑う研究者たちの根拠の一つは、聖徳太子の仏教の師とされる高句麗の慧慈や百済の慧聡は三論宗の僧であったと伝えられているのに、三経義疏は、その三論宗に批判された系統の学風であったことです。

 この問題に取り組み、「聖徳太子の師たちは三論宗僧だった」というのは鎌倉時代の凝然の創作であって史実ではないと論じたのが、凝然の700年遠忌記念で刊行された論文集(こちら)に載っている以下の拙論です。



石井公成「凝然の聖徳太子信仰と三経義疏研究」
(法藏館、律宗戒学院編『唐招提寺第二十八世凝然大徳御忌記念 凝然教学の形成と展開』、2021年3月)

 執筆者には既に届けていただきましたが、一般読者への発売は3月末以後になる由(ご配慮いただいた唐招提寺の西山明彦長老、編集を担当された龍大の野呂さん・大谷さん、法藏館の大山さん、有り難うございました)。

 さて、六朝の半ばすぎ頃の江南の僧たちの多くは、釈尊の最後の説法であって、すべての命あるものには「仏性」が有って仏になれると説く大乗の『涅槃経』を最も尊重し、「仏性」を説かない『法華経』をその下に位置づけていました。そして、経典を解釈する際は、小乗仏教の論書でありながら「空」を強調するなど大乗に近い面のある『成実論(じょうじつろん)』の法の分類を用いていました。

 こうした主流派を「成実涅槃学派」と呼んでおきます。三経義疏の種本となった注釈を書いた梁の三大法師たちは、いずれもこの学派であって、中でも『法華義疏』の種本となった『法華義記』の光宅寺法雲は、その代表です。

 北地からそうした江南の地にやって来た三論宗には、修禅派その他、いろいろな系統がありましたが、興皇寺で活動した法朗の門下たちは過激な論争家揃いであって、『成実論』は小乗であることを強調し、成実涅槃学派の解釈を強く批判していました。居士の傅縡などは、とりわけ激しく攻撃して反発をくらっており、仏教以外の面でも反対しまくった結果、最後は獄中で皇帝にも逆らって獄死させられたほどです。

 法朗の弟子の代表であって三論宗の教理を大成した吉蔵も批判的な学風で知られており、三大法師のことを「成実師・成論師・成実論師」などと呼び、「仏性」の理解や、大乗の諸経論の解釈が誤っているとして厳しく批判していました。つまり、小乗の法相に縛られていて大乗仏教の理解が不十分だというのです。

 以前の記事で書いたように、吉蔵は『法華経』を重視しており、『法華経』は「仏性」に相当する内容をきちんと説いているにもかかわらず、その説法を聞いても分からなかった理解力が劣る者たちのために、釈尊は補足として「仏性」を強調した『涅槃経』説いたのだ、というのが吉蔵の見解です。これ対し、『法華義疏』は、「本義」である法雲の『法華義記』と同様、「仏性」という語を一度も用いていません。吉蔵とは立場がまったく違うのです。

 しかし、これだと聖徳太子は、法雲と同様に大乗としては不十分な「成実論師」ということになってしまいます。それを懸念したのが、「宗」を単位とした仏教史の枠組みを打ち立てた鎌倉時代の大学僧、凝然(1240~1321)です。
 
 東大寺で学んで華厳と律を柱とし、唐招提寺の長老をも勤めた凝然は、若い頃から三経義疏の研究を始め、後には「三経学士」と名乗るほど三経義疏に打ち込んでいました。注釈である『勝鬘経疏詳玄記』18巻はおそらく64歳、『法華疏慧光記』60巻は75歳の時に完成しており、『維摩経疏菴羅記』30巻に至っては亡くなる前年である81歳の正月に書き始めて何とか完成させています。

 凝然は当時としては稀なほど客観的に判断する学僧でしたので、研究の結果として、『法華義疏』だけでなく、三経義疏はすべて光宅寺法雲の学風が見られると結論づけています。

 しかし、上記の三経義疏の注釈では、三論宗の吉蔵などの大乗の学僧の解釈と一致する点を不要なほど数多く指摘していたうえ、『八宗綱要』や『三国仏法伝通縁起』などでは、慧慈や慧聡は三論宗の僧であって『成実論』にも通じていたのだと説いていました。だから、彼らが指導してできた三経義疏は成実師風なのだが、思想の基本は純粋な大乗だというのです。

 凝然の師匠である東大寺の宗性は、『法華義疏』の研究に励んでその注釈を書いており、『法華義疏』は「本義」である光宅寺法雲の『法華義記』に依拠していると指摘しつつも、『法華義疏』は時に『法華義記』の説を的確に批判しているため、中国の『法華義記』よりはるかに優れていると論じていました。

 凝然はそうした評価をさらに進め、三教義疏がいかに吉蔵や慧遠や基などの解釈と一致する場合が多いかを強調し、聖徳太子の師は三論宗が主であったが『成実論』にも通じており、太子は『法華義記』を手本としたため、三経義疏は「成実師」風になったのだとしたのです。

 これは、奈良朝に南都六宗の一つとして設置された宗(実態は研究組織)である成実宗は、次第に衰えて三論宗の付宗となり、三論宗の僧が『成実論』も学ぶようになっていったことも背景の一つですが、それだけではありません。大乗と小乗が混在し、小乗仏教が優勢であったインドや、小乗の影響が残っている中国と違い、日本は、聖徳太子が最初から大乗仏教を広め、大乗仏教の国になったのだ、ということに凝然はしたかったのですね。

 しかも、三論宗は龍樹の『中論』『百論』とその弟子の提婆の『十二門論』(これは疑義有り)に基づいており、龍樹は八宗の祖とされていましたから、その三論宗によって日本仏教が始まったというのは、誇るべき歴史ということになります。

 しかし、これは無理な議論です。慧慈や慧聡は三論宗だとする古い資料はありません。三教義疏は、梁の三大法師の注釈に基づいて書かれており、隋の三大法師である地論宗南道派の浄影寺慧遠、天台宗の天台智顗、三論宗の吉蔵の教学の影響は見られない以上、聖徳太子の師となった僧たちは、梁の仏教、あるいはその影響を受けた次の陳朝あたりの教学に基づいていたのであって、隋代の最新の教学には通じていなかったと考えるべきでしょう。論文では詳しく論じる余裕がありませんでしたが、北朝の教学が少し入っていた可能性はありますが。

 凝然はきわめて重要な人物です。我々が学んでいる仏教史は、凝然が作った「宗」中心の枠組みの仏教史を多少訂正したものにすぎません。明治時代には、中国・韓国でも『八宗綱要』その他がかなり読まれ、それぞれの国の仏教史研究に影響を与えています。

 私の恩師である平川彰先生は、三聚浄戒について自分が諸国語の文献をあれこれ調べてようやく発見したと思っていたことが、凝然を読んだら書いてあったということで、凝然の学識を賞賛していました。ただ、凝然は単なる祖述者ではなく、自分の価値基準に基づいて書いていますので、その仏教史の図式については、警戒する必要があるのです。

 上にあげた凝然の論文集は、その700回遠忌の記念として、唐招提寺が企画したものであり、凝然の伝記や思想や活動に関する有益な諸論文が収録されています。

「物部氏は寺を建てていたので守屋合戦は仏教をめぐる争いでない」は誤り:山本昭「河内竜華寺と渋川寺」

2021年03月17日 | 論文・研究書紹介

 蘇我馬子と厩戸皇子などの軍勢が、仏教導入に反対する物部守屋などの軍勢と戦った際、負けそうになったため、厩戸皇子が木を削って四天王像を作り、戦いに勝ったら四天王のために寺を建てますと誓願したところ、戦いに勝利して四天王寺を建てた、というのが『日本書紀』の記述です。しかし、現在では、これはあくまでも四天王寺で語られた伝承に基づくものとし、史実としては認めない研究者が少なくありません。

 つまり、実際には天皇の後継者などをめぐる争いだったのであって、仏教は関係ないとするのです。確かに、天皇の後継者をめぐる争いが中心であったでしょうし、戦いのさなかに木を削って四天王像を作ったといった部分は、後になって生まれた伝承と思われます。

 しかし、仏教導入という点が蘇我氏と物部氏の対立の「一因」となっていた可能性は考えられます。また、古代にあっては誓願は強烈なパワーがあると信じられていましたので、戦いにあたって仏教信者が誓願すること自体は十分ありうることです(こちら)。『日本霊異記』上巻第七縁には、百済を救う軍勢として派遣されることになった備後の豪族が、無事に帰ってこれたら寺を建てますと誓願した話も見えています(こちら)。

 それにもかかわらず、仏教をめぐる対立ではなかったと主張されるのは、聖徳太子に関する記述はすべて後代の伝説・作り話とみなすのが近代の客観的な研究姿勢だと考えられがちであったためでしょう。そうした立場の研究者が自説のよりどころとしたのが、物部氏も氏寺を所有していたのであって、仏教そのものに反対していたのではないとする論文です。

 その論文とは、物部氏の本拠であった渋川にある廃寺の前身は、物部の守屋が建てた草堂的な寺だと推測した安井良三氏の論文、「物部氏と仏教」(三品彰英編『日本書紀研究 第3冊』塙書房、1968年)です。

 しかし、渋川廃寺の調査に関わった山本昭氏は、それに反論します。それが、

山本昭「河内国渋川寺について」(『帝塚山考古学』No.6、1986年1月)
同  「河内竜華寺と渋川寺」(古代を考える会編『藤澤一夫先生古稀記念 古文化論叢』、
藤澤一夫先生古稀記念論集刊行会、1983年)

です。

 山本氏は、廃寺跡から出た僅かな瓦を豊浦寺の瓦の編年と比べると、推古11年(603)頃に当たるとし、またこのあたりは四天王寺領となっている土地が多いため、守屋の田や奴の一部が渋川寺建立にあてられたと考えられるとします。そして、渋川は上宮家にとっては軍事目的も持った斑鳩寺と四天王寺を結ぶ道の中間にあるため、そこに寺を建てたのであって、「聖徳太子の計画的造寺の一つ」であり、『玉林抄』が推古天皇御願・聖徳太子建立とするのは史実を反映していると説くのです。

 なお、古代における「誓願」や「奉為(おんため)の仏教」については、私が早い時期にいろいろ論文を書いてますが(なるべくresearchmapにPDFをアップするようにしています。こちら)、「推古天皇御願」などと言われるのは、推古天皇や聖徳太子の「奉為(おんため)」と称して建立した寺が、次第に「推古天皇の御願」「聖徳太子の御願」などとされるようになっていくためです。

 ともかく、四天王寺などが、物部氏を神祇尊重の仏教反対派として位置づけたうえで、仏教を広めた聖徳太子の業績を誇張して語るようになった結果、『日本書紀』のような記述になった可能性は高いですが、少なくとも、早い時期に物部氏が本格的な寺を建てていたという証拠はないのです。自宅の一部を改造して仏像を置いた程度であれば、寺の遺跡は残りませんが。
 
 なお、平林章仁氏の『物部氏と石上神宮の古代史』「第五章 物部氏と仏教崇廃抗争の真相」(和泉書院、2019年)では、八尾市文化財調査研究会『渋川廃寺』第2次調査・第3次調査(2004年)が示す廃寺の新しさにより、山本氏と同様、物部氏が仏教信者であって寺を建てていたとする説を否定しています。

【追記:2023年3月19日】
小笠原好彦『日本古代寺院造営氏族の研究』(東京堂出版、2005年)も、「創建瓦として上宮王家と関係の深い秦氏系の軒瓦が使用されていることから見て、上宮王家の発願によって立てられた可能性が高い」(240頁注43)としています。

 


『日本書紀』は4群が独立して述作され、複数の原撰史書を整理統合して成立:葛西太一『日本書紀段階編修論』

2021年03月13日 | 論文・研究書紹介
 前の記事では、戒律に関する『日本書紀』の記述の仕方をとりあげました。『日本書紀』に基づいて何かを主張するには、『日本書紀』の記述の仕方に注意したうえで述べないと危ないのです。

 これは全体の編纂についても当てはまります。聖徳太子虚構論を唱えた大山誠一氏の著書・論文で重要なのは、遠山美都男氏が指摘したように、『日本書紀』の個々の「厩戸皇子」関連記述の真偽を個別に検討するのではなく、『日本書紀』全体は「厩戸皇子」をどのように描こうとしているかに着目し、それを明らかにしようとした点でした。これ自体は有意義な試みであったのに、結論が陰謀論になってしまったのが惜しまれます。

 『日本書紀』の記述の仕方に注意するには、どのように編集されたのかを明らかにしなければなりません。その際、基礎となるのは、筆者の違いなどによる巻ごとの特色によって成立過程を解明しようとする区分論です。

 この区分論を画期的に進めたのは、中国人が正音・正格漢文によって記したα群(巻14~21、巻24~27)、非中国人によって日本漢字音・和化漢文で書かれたβ群(巻1~13、巻22~23、28・29)、それ以外(巻30)に分類し、α群でも最初に着手された巻14~21と、巻24~27では筆者が違うとした森博達さんであり、『日本書紀の謎を解く』(中公新書、1999年)は学界に衝撃を与えました。

 その森さんの研究成果を高く評価したうえで、別の視点から編纂区分の問題に取り組み、森説の有効性を再確認して補強しつつ、森説とは異なる新たな指摘もするに至ったのが、

葛西太一『日本書紀段階編修論-文体・注記・語法からみた多様性と多層性-』
(花鳥社、2021年)

です。

 葛西さんは、早くからコンピュータを活用して『風土記』における仏典の利用状況などを明らかにしてきた瀬間正之さん(こちら)の指導を受けたうえ、幅広い研究者に学んでおり、上記の書物は、上智大学に提出された博士論文を増補したものです。

 面白いことに、その博士論文審査に加わった一人は、大山氏とともに聖徳太子虚構論を展開し、道慈の役割を強調した吉田一彦さんです。ただ、宗教を奉じるかのように虚構説は無謬だと主張し続け、次第にトンデモ説を展開するようになった大山氏と違い、吉田さんは道慈説以外の面では着実な文献研究をやってきていました。

 最近では、長く打ち込んできた神仏習合説について、従来の研究を大幅に進めた編著、『神仏融合の東アジア史』(名古屋大学出版会、2021年)を刊行したばかりです。吉田さんは葛西さんの研究を認めて励ましてきた由。

 さて、『日本書紀』については、特定の語彙、助詞の使い方、日本語の歌謡を漢字で表記する際の特徴などに基づく様々な区分説が提示されていました。これによって多くの点が明らかになってきたのですが、こうした方法だと、歌謡がとりあげられていない巻、特定の語彙が用いられる事態が起きていない巻などについては、判定が難しくなります。このため、どの巻にも共通する要素であって、しかも巻ごとの特色を判断できるものを検討する必要があります。

 そこで葛西さんが着目したのが、文の最初に置かれる句頭辞、「~也」など最後に置かれる句末辞、四字句を連続させているかどうかといった同字数句の用い方、などでした。近代以前は、句読点が打たれませんので、どこで文が始まり、どこで切れていて、どこで終わっているか分かりやすい書き方を工夫する必要があり、しかもそれは人によって違いが出る部分だからです。

 それらを検討した結果、葛西さんは、次の4区分を提示します。

  甲群(巻14~21) *句頭辞の使用に消極的、同字数句の使用に積極的
  乙群(巻24~27) *句頭辞の使用に消極的、同字数句の使用に消極的
  丙群(巻1~3、5~13、22・23・28)
           *句頭辞の使用に積極的、同字数句の使用に消極的
  丁群(巻4・29・30) *句頭辞の使用に消極的、同字数句の使用にきわめ
              て消極的。ただし、丁群の3巻は甲・乙・丙群と異
              なるというだけであって、同じ特徴を持った同一
              人物が書いたことにはならない。

 以上です。葛西さんは、森さんとは異なる要素に着目して検討したものの、結果としては森説の区分とほぼ一致するものでした。森説と違ってありうる述作者の名をあげることは控えていますが、甲群と乙群は異なる中国人によって書かれたとする森説が正しい可能性は高いとします。また、森説ではともに和習の多いβ群とされている巻28と巻29は筆者が異なるとするなど、新しい発見をしています。

 葛西さんは、他にも様々な視点から検討を加えた結果、丙群は「漢語本来の用法でも和語に由来する語法でもない」(350頁)ため、漢語に不慣れな人たちに理解しやすいような文体を模索したものと見ます。また、『日本書紀』はゼロから書かれたのではなく、「複数の原撰史書がいくつかの段階を経て整理統合され、さらに同一文献としての体裁を整えるべく加筆修正が行われ、あるいは、空白が生じないように新規書き下ろし部分も加えられることによって、はじめて現在の姿へと編修されたものだと考えられる」(348頁)と論じています。
  
 ただ、丙群に位置する巻22の推古紀などの編纂順序を初めとして不明な点が残っているとし、推古紀のうち文体が異なる「憲法十七条」、また乙群ながら問題の多い孝徳紀の詔勅など、論じ残したものがあると述べています。

 以上、内容のごく一部しか紹介できませんでしたが、森さんの区分論を補強し、さらに新しい指摘がなされています。想像ばかりの論義ではなく、こうした着実な検討によって少しづつ『日本書紀』が明らかになっていくことは喜ばしい限りです。

 課題としては、新羅など古代韓国の変格漢文との比較、仏教用語ないし仏教用語に基づいて日本で生まれた表現にも注意すべきだという点でしょうか。ただ、葛西さんは1985年生まれでまだ若いため、これからさらに研究を深め、優れた業績を次々に発表していってくれるでしょう。

 なお、葛西さんは、早い時期からの文系パソコン仲間の集まりである漢字文献情報処理研究会のメンバーであった瀬間さんが、私が主催した変格語法の国際研究プロジェクトにも参加してくれていた関係で、そのプロジェクトの研究会に何度か顔を出していました。以後も、私が開発に関わった N-gramによる比較分析(紹介は、こちら)の講習にも出てくれており、その成果の一部がこの本に含まれています。N-gramは強力ですよ。

『日本書紀』の戒律記述から見て道慈関与を否定:直林不退「日本における戒律受容の始原」

2021年03月09日 | 論文・研究書紹介
 少し前の記事では、『日本書紀』の最終編纂段階において道慈が筆をとって聖人としての聖徳太子を創り出したとする大山説を更に進め、道慈はそれ以後も聖徳太子像を創り出す「総合プロデューサー」の役割を果たし続けたとする本を紹介しました。聖徳太子の臨終の様子と周囲の祈願を記した法隆寺の釈迦三尊像銘は、道慈が太子の死に託して長屋王一家の悲劇を描いたものだとする珍説奇説です(こちら)。

 その道慈の『日本書紀』関与を、戒律関連の記述を検討して明確に否定しているのが、

直林不退『日本三学受容史研究』「Ⅱ 日本における戒律受容の始原 第三章 古代史史料と戒律」
(同朋社、2012年)

です。

 直林氏は、仏教の基本となる戒(律)・(禅)定・(智)慧の三学、とりわけ戒律が日本でどのように受容されたかを調査してきた研究者です。

直林氏は、『日本書紀』の仏教関連記事を検討し、戒律に関する記述は少ないものの、戒律が広がっていく様子を描こうとする姿勢が見られると説きます。ただ、伝統的な具足戒(=律)と大乗仏教の理念的な菩薩戒の全体象を把握していた『続日本紀』に比べ、『日本書紀』の仏教記事を書いた人の戒律理解は不十分であって、日本における戒律軽視の状況に対する批判も見られないと論じます。

 むろん、中国でもインドの戒律は正しく理解されていませんでした。そもそも、良き習慣・心構えである「戒(シーラ)」と、教団の罰則規定である「律(ヴィナヤ)」は別のものですが、中国ではこれがきちんと区別されずに「戒律」という言葉が生まれ、律と共通する性格を持つ戒経が作られ、また戒も律も正しく守らない仏教徒がかなりいました。そうした状況を厳しく批判したのが、長いインド旅行から帰国して『根本有部律』を新たに訳した義浄(635-713)です。

 問題の道慈は、長安における国際仏教センターであって義浄も身を置いていた西明寺に留学しており、しかもそれは『根本有部律』が訳された直後の時期でした。『続日本紀』の道慈伝によれば、道慈は唐から帰国した後、『愚志』を著し、現在の日本の仏法のあり方は唐の仏教と全く異なっており、これでは仏教の力は発揮されないと、厳しく批判していました。

 これは義浄の姿勢と一致しています。このため、直林氏は、『日本書紀』に見える戒律関連の記述の特色と道慈の立場は「全く符合していないといえる」(188-189頁)と断定しています。実際、道慈は長屋王の詩宴の誘いを断った際に送った漢詩の序では、出家と在家は立場が違うと断言しており、漢詩の末尾では「何煩入宴宮(どうしてわざわざ宴会をする宮に入ったりしようか!)」と述べてしめくくっていました。

 小島憲之先生は、この詩と序は道慈が大げさにことわってみせただけで冗談のようなものと見ておられたようですが、三論宗の特徴や道慈の伝記を見る限り、そのようには受け取れません。

 道慈については、義浄が訳したばかりの『金光明最勝王経』を日本にもたらし、この新訳を用いて『日本書紀』を潤色したという井上薰氏の説があります。これが大山氏や吉田一彦氏の道慈重視の根拠となっているのですが、直林氏は、井上説に反対する朝枝善照氏などの主張に賛同しており、『金光明最勝王経』の利用は道慈とは関係ないとしています(196頁)。

 そもそも、『日本書紀』で『金光明最勝王経』を利用している箇所は、既に複数の研究者によって明らかにされていますが、肝心の推古紀では利用されていないことが知られています。道慈が最新の『金光明最勝王経』を用いて仏教記事を潤色したのであれば、どうして厩戸皇子を聖人として描く最も重要な推古紀で、最新の『金光明最勝王経』の表現を用いなかったのか。不思議ですね。

 大山氏は、こうした点については指摘されても応答していませんが、実際には、変格漢文の多さという点だけでなく、戒律面でも道慈の『日本書紀』関与は否定されているのです。

【付記:2021年3月20日】
直林氏について、働き盛りで亡くなった朝枝善照氏と混同して誤ったことを記していたため、訂正しました。申し訳ありませんでした。

聖徳太子を演じる芸人:百面相の波多野栄一と1人コントの脳みそ夫

2021年03月05日 | その他
 聖徳太子はいろいろなものの元祖とされており、芸能でも尺八は太子が元祖とされ、能も太子が秦河勝に命じて始めさせたと伝えられています。どちらも後代になって生まれた伝承ですが、その太子を主人公とした芸能もたくさんあります。

 この点については、3年ほど前に「聖徳太子と芸能」シンポジウムの企画を任された際、研究者を集め、基調講演をやりました(こちら)。そのうち、活字にしましょう。私は「日本笑い史年表」(こちら)を作ったくらいであって、これが本業と言っても良いくらいの芸能好きであり、その方面で書いたものも多いです。

 その講演の冒頭でツカミとして紹介したのが、聖徳太子のものまねをやっている2人の芸人です。1人は、爆笑問題や私の大好きな日本エレキテル連合(最初の単独ライブや以後のライブにも行きました)が所属する芸能事務所であるタイタンの芸人、脳みそ夫です。1年半ほど前、タイタン・シネマライブに出かけた際は、結婚直後であって、奥さんが作ってくれた衣装を着て登場していました。

 脳みそ夫は、聖徳太子が女性になって現代に生きていたらという設定で、いろいろな状況を1人コントで演じてくれます。修学旅行に行った飛鳥中学3年2組の女子中学生という設定では、「行き先は奈良。法隆寺観光? あたし造った」などと言って笑わせ、「おったま遣隋使」といったギャグも飛ばします。

 飛鳥商事のOLだったらという設定のコントでは、受付で10人もの言葉を同時に聞き分ける聖徳太子OLが休憩で給湯室に行くと、蘇我馬子が隠れてエロ本を読んでおり、とがめると馬子は「これ『魏志倭人伝』」と言い訳します。太子OLが、物部守屋がこの数日出勤していないと言うと、馬子は「守屋? オレ、滅ぼした」と答える、といった調子で楽しませてくれます。

 この二つは、タイタンの公式サイトであるタイタンチャンネルにライブ動画がアップされています(こちらと、こちら)。これ以外の聖徳太子ネタもありますし、モーツァルトが給食当番をやるコントなど、面白いものが多いです。

 もう一人の太子ものまね芸人は、百面相の波多野栄一(1900-1993)です。Wikipedeiaに記事があがってますが、書きかけのままであって簡単すぎますね。波多野の著書や波多野をモデルにした小説なども紹介されてないし。

 東京で生まれた波多野は、子供の頃から芸能好きであったため新劇の世界に入り、田谷力三らの浅草オペラに加わった後、漫才などもやり、吉本興業に入って活躍しますが、戦後、やることがなくなります。

 そこで、進駐軍のキャンプ回りの声がかかった際、アメリカ人でも見てすぐ分かる百面相をやることとし、ボール紙を切り貼りしたり布でざっとこしらえたりした雑な衣装や背景を作って、チャップリン、カウボーイが撃ち合う場面、マダムバタフライなどを演じてみせると受けたため、以後、この芸で生きることになります。

 百面相というのは、江戸時代から寄席で演じられていた芸であって、落語家の三笑亭可上が、目かつらという簡単なマスクのようなものを次々に取り替えつつ物真似を「百眼」と称してやったのが元祖と言われています(物真似芸の歴史については、本を書いてます。こちら)。

 波多野が演じてみせるのは、そっくりに似せることを最初から放棄した学芸会のような芸ですが、暖かい笑いが起きるのは、飄々とした人柄ととぼけた表情のベテランなればこそです。このため、落語の名人たちに好まれ、独演会などではその前座をよくつとめていました。

 カウボーイのネタ以外には、『金色夜叉』の貫一とお宮の別れの場面を一人で演じるネタが何とも珍妙で人気でした。もう一つ有名だったのが、聖徳太子のものまねです。有名な肖像を真似るために、白いワイシャツ姿で黒い冠のようなものをかぶってヒゲをつけ、笏めいたものを手にするだけですが、最後にサービスとして、一万円札を拡大して肖像の部分をくりぬいたものを持ち出し、そこから顔を出すという演出になっていました。

 そうしたゆる~い芸がおさめられているDVDの表紙がこちらです。上述の講演会の際は、DVDの中身を動画でなく画像で少しだけお見せしましたが、販売しているNHKソフトウェアに事前に連絡し、学術利用ということで許可を得ておきました。



 波多野については、相撲取りから演芸評論に転じた小島貞二が聞き取りによる伝記、『ぼくの人生、百面相―波多野栄一芸界私史』(学芸書林、1991年)を出しています。他には、晩年の味のある芸が魅力的だったため、内海隆一郎が老齢の波多野夫婦とその娘夫婦をモデルにした小説、『百面相』(講談社、1995年)を書いており、また芸人を扱った吉川潮の短編小説集、『本牧亭の鳶』(新潮社、2001年)のうち、「カラスの死に場」は、最晩年の波多野が舞台で演じながら死のうとしてうまくいかない様子を描いています。

 波多野は、浅草での活動が出発点だったため、『今昔浅草物語 附東京風物詩 』と言う本を私家版で1971年に出し、その当時の浅草の状況を描いています。意外な事実が多く書かれており、参考になります。

 あと、ものまねではないものの、聖徳太子をネタにしている有名な例では、ナイツの「言い間違いによる日本史」ネタがありますね。ナイツの独演会にもしばらく行けていないのは残念です。私の願いとしては、新撰組に関するネタが面白いラバーガールに聖徳太子ネタもやってもらいたいところです。

【付記:2021年4月25日】
波多野は洒落た芸人だったため、『風流艶笑一夕話』という艶笑ジョーク集を出しています。ただ、ガリ版による私家版であって、「波多野栄一篇」とあるのみで、出版社も刊行年月も記されていません。末尾には「あとがき 私の芸歴書」なる2頁の略歴が付されており、最後は「昭和39年6月12日」であり、「神田明神会館にて、舞台生活四十五年起念パーティを開催し、恩師・先輩、友人、百数十余名の来支援を得て盛大に行う」という記事で終わっているため、そのやや後に記念に出したか、当日の引き出物として配ったかですね。
【付記:2021年4月29日】
もう一つ忘れてました。波多野は、昔のいろいろな番付を集め、また自分で作ったりしたものをガリ版で出してます。波多野栄一作並びに編『今昔浮世萬番附』であって、ガリ版の「あとがき」によれば、「昭和六十一年八月盛夏」となっており、近所の新栄印刷さんのご尽力を得たとあります。番付の最後が、「艶笑替唄番附」であるのは、波多野らしくて良いですが、艶笑というより、単なる春歌です。

【新発見】聖徳太子は「海東の菩薩天子」の自覚があったか:「憲法十七条」と『勝鬘経義疏』の共通箇所

2021年03月01日 | 論文・研究書紹介
 「浄土真宗聖典の学習誌」という副題で本願寺派が出している『季刊 せいてん』誌の134号(「聖徳太子と親鸞聖人」特集)が本日刊行され、そこに私の小文、「聖徳太子研究の最新動向-菩薩天子としての自覚-」が掲載されています(2021年3月1日刊、53頁)。

 1頁のコラムですので、詳細な説明はできなかったのですが、「憲法十七条」の第二条が、三宝に依らなければ悪を是正することができないと説いているのは、大乗の在家向けの戒経である曇無讖訳『優婆塞戒経』に基づいており、『優婆塞戒経』のまさにその箇所を『勝鬘経義疏』が「優婆塞戒経に云く」と経名をあげて引用していることを紹介しました。

 これは、実はかなり前に数人の研究者が指摘していたことです。ただ、その人たちは「憲法十七条」も『勝鬘経義疏』も太子の御作だと主張してひたすら賞賛する鑚仰派であったため、我田引水の主張とみなされたのか、これまで注目されてきませんでした。

 私自身、似ているだけのものを強引に結びつけてるなと思い、気にかけていなかった次第です。上記の鑚仰派の研究者たちにしても、共通性を指摘しただけであって、それ以上の踏み込んだ議論はしていませんでしたし。ところが、昨年の暮になって、これは真剣に見直さねばならない問題であることに気づきました。

 「憲法十七条」第二条が三宝への「信」でなく「敬」を説いていることについては、拙論「傳聖德太子『憲法十七條』「和」の源流」(こちら)において、儒教の『孝経』に基づくことを指摘してありました。そこに『優婆塞戒経』に基づく記述が加わるとなると、「憲法十七条」は重要な第二条で用いるほど『優婆塞戒経』と『孝経』を重視していたことになりますが、実は『勝鬘経義疏』も『優婆塞戒経』と『孝経』を重視して冒頭で用いており、その点が「憲法十七条」と一致していたのです。
 
 そのうえ、「憲法十七条」第十四条が嫉妬をいさめている箇所も、『優婆塞戒経』のある箇所に基づいていました。しかも、その箇所は、菩薩が「大国主」(マハーラージャ)になった際、人民を教誡すべきだとして述べられている箇所でした。

 「憲法十七条」は、前の記事で紹介したように、法家の影響の強い文献ですが(こちら)、その第十四条で述べられている訓戒には、大乗の在家向けの戒経が、菩薩が国王となった際に教化すべきこととして述べている項目が含まれていたのです。
 
 『勝鬘経義疏』は『日本書紀』が説く『勝鬘経』講説の際の内容とは思えませんが、「憲法十七条」作成は推古12年、『勝鬘経』講説は推古14年と記されており、両者の類似を考えると、『日本書紀』のこうした記述を一概に疑うことはできなくなります。

 となると、「憲法十七条」を作った人は、国王である菩薩の立場で書いたか、あるいは、自分を国王となる予定の菩薩とみなしていた可能性が出てきます。

 推古16年に倭国が隋に送った使者は、口上では仏教を復興した隋の皇帝のことを「海西の菩薩天子」と呼んで賞賛する一方で、自らを「日出処の天子」と称し、近い関係の間のやりとりで用いられる「致書」形式の国書を提示したため、煬帝の不興を買ったことは有名です。

 「日出処の天子」で始まる国書は、日本のナショナリズム高揚期には、対等とか対等以上の気構えによって国威を示したものなどとされがちでしたが(こちら)、上記の『優婆塞戒経』の文句の用い方を見ると、弟分にあたる「海東の菩薩天子」から敬愛する兄貴分である「海西の菩薩天子」にあてた親しみをこめたご挨拶、といったものであったことも十分考えられます。実際、面倒を見てくださいということで留学僧を送っているわけですし。ただ、南北朝を統一した隋の中華意識と当時の倭国との国力差を考えれば、いずれにしても無謀で危険な表現だったわけですが。

 この「憲法十七条」と『勝鬘経義疏』の共通箇所、および「菩薩天子」の自覚の可能性件については、上記の発見・推測を補強するいくつかの補足材料を見出してあるため、勤務先の学部の『論集』に詳しく論じた論文を掲載する予定です。

【付記:2021年3月2日】
『勝鬘経』講説を『日本書紀』によって推古14年と書きましたが、天平19年(747)の『法隆寺資財帳』では「戊午年(推古6年=598)四月十五日」とし、『法王帝説』でも同様になっており、これが法隆寺の伝承であったことが知られています。