聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

法大王も法皇も基本は「法主王」であって講経の巧みな皇子:法隆寺夏期大学での講義

2022年07月30日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報

 7月29日に4回目のワクチン接種を予約してあったのですが、27日の法隆寺夏期大学での講義には間に合わず、ちょっと前にコロナに感染してしまいました。2日ほどで平熱に戻ったものの、隔離期間中ですので、奈良に行くことができなくなり、Zoomでしゃべって録画したものを流してもらう形になったのは残念なことでした。

 講義の内容は、「聖徳太子は「海東の菩薩天子」たらんとしたか」(こちら)など、これまで書いてきたことを概略したものです。ただ、自分の研究について紹介する講演でも、尊敬する高崎直道先生は必ず一つ二つは新しい情報を加えておられました。遠く及ばないながらも、私もそれを模範とさせていただいているため、少々加えたことがあります。

 その一つは、『日本書紀』用明紀が厩戸皇子の異称として「法主王」と記していることの意味です。この点については、これまでは三経義疏の学風である中国江南の成実涅槃学派の僧であって、「無忤」の振る舞いで知られ、朝鮮諸国から尊崇されていた梁・陳の宝瓊が若くして南㵎寺の「法主」となったことを例にあげていました。

 つまり、「法主」とは講経の担当者、責任者を指すのであって、「法主王」のそうした「法主」である「王(みこ=皇子)」、講経の巧みな皇子という意味だと説明してきたのです。

 用明紀で「法主王」と並んで記されている「法大王」という語にしても、実質は同じであって、講経の巧みな「大王(おおきみ)」ということですね。

 「法王」の語も、これとほぼ同じであり、「法王」である釈尊のイメージが重ねられている場合も、「仏」とみなしているのではなく、やがて釈尊のような存在になるお方、といった意味だろうと説いてきました。「法皇」も発音は「法王」と同じであって意味も同様でしょう。ただ、「天皇」に準じる立場となっていたため、敬意をこめて「皇」の語を用いたものですね。

 今回、加えたのは、『勝鬘経』講義で名高く、恐らく『勝鬘経義疏』の種本となる注釈を書いたと推測されている荘厳寺僧旻の例です。唐の道宣の『続高僧伝』僧旻伝によれば、

永元元年(四九九)、僧に勅し、局(かぎ)りて三十僧に請い、華林園にて夏に講ぜしむ。僧正、旻を法主為らしめんと擬すも、旻、之を止む。或ひと曰く、何が故ぞ。答えて曰く、此れ乃ち內、法師を潤すも、外、学士を益すあたわず。講者と謂うに非ず。

とあります。南斉の皇帝が30人の僧侶を招き、皇帝の御苑である華林園で講経をおこなわせた際、時の僧正はその中の荘厳寺僧旻を法主、すなわち、講経担当者としようとしたところ、僧旻はやめさせました。理由は僧侶相手に講義するだけであって、僧侶以外の知識人たちには無益なので、本当の「講者」とは呼べないから、というものでした。

 この用例を重視すると、「法主」は、僧侶と在家信者を相手とし、感心させるような有益な講経ができる人、ということになります。なお、僧旻は『勝鬘経』の講義で名高く、聖徳太子の『勝鬘経義疏』は僧旻の注釈(現存せず、佚文のみ)を「本義」としたと推定されています。

 『勝鬘経』はかなり理論的な経典であって、仏教学の専門家にとっても難しいものですので、推古朝当時、この講経を聞いて理解できた人が何人いたか疑問です。

 ただ、『勝鬘経』は、国王夫妻の娘であって他国の王の妃となっている勝鬘夫人が仏を讃え、大乗仏教の教理を説いて釈尊から賞賛され、将来、王となり仏となると預言される経典ですので、欽明天皇の皇女であって、異母兄である敏達天皇の皇后となり、ついには天皇となって仏教を興隆した推古天皇は勝鬘夫人とイメージが見事に重なります。

 また、『勝鬘経』は太子が手本とした中国南朝仏教が重視した経典です。その南朝仏教を代表する宝亮は、『涅槃経』を84回(題名解説だけなども含むか)、『勝鬘経』を42回、『維摩経』を20回、『大品般若』ないし『小品般若』を10回、『法華経』や『優婆塞戒経』その他の経典もほぼ10回講義してますが、南朝で最も尊重された『涅槃経』は36巻、『大品般若経』は20巻もあります。

 つまり、『勝鬘経』と『法華経』の講経にせよ、三経義疏にせよ、上記の経典のうち、短いものを取り上げているのです。また、『優婆塞戒経』が「憲法十七条」や『勝鬘経義疏』で用いられていたことは、これまでブログで書いてきた通りです。

 こうした点に注意しないと、『日本書紀』用明紀の「法大王」と「法主王」という言葉の意味は分からないのです。


天皇は唯一絶対の尊称ではないうえ、長期間にわたって使われず:新川登亀男「二度つくられた「天皇」号」

2022年07月26日 | 論文・研究書紹介

 早稲田開催の聖徳太子シンポジウムでの発表資料では、新川登亀男『聖徳太子の歴史学』(講談社、2007年)をあげておきました。新川氏とは、意見が合わない点がいくつかあるのですが、この本は有益であってお勧めです。

 その新川氏が、まさにこの本のような視点で天皇号について検討した最近の論文が、

新川登亀男「二度つくられた「天皇」号」(『日本史攷究』(44号、2020年12月)

です。

 新川氏は、天皇号は実際には2度つくられており、2度目は江戸末期からの近現代だと説きます。というのは、天皇号は古代に出現したものの、平安時代以来、「~院」という呼び方がなされており、1840年11月に亡くなった兼仁上皇に対して「光格天皇」が贈られるまで、長らく使用されていなかったからです。

 その証拠に、1603年に本編、翌年に補遺篇が出されたイエズス会の『日葡辞書』には「テンノウ」という項目がなく、あるのは「ミカド(帝)」「テンシ(天子」などだけなのです。また、幕末から明治にかけて普及したヘボンの『和英語林集成』でも、「Ten-nō(テンノヲ・テンノウ)が登場するのは1872年の再版の時からである由。

 公式面で「天皇」が登場するのは、やはり1889年の日本帝国憲法だそうです。ただ、当時の様々な草案では「皇帝」「国帝」「帝王」などもあげられており、帝国憲法制定後も外交文書の「和公文」では「皇帝」を用いるなど確定しておらず、天皇号が公式のいろいろな場で使われるのが1936年だとか。

 また、天皇にしても、重要なのは「皇室」であり、個人ではなく、万世一系の継承者であることが重視されたと見られるそうです。

 その他、興味深い検討がなされたうえで、天皇号の研究史が振り返られます。最初の代表は、隋以前の中国の書籍に見える用例を検討した津田左右吉の「天皇考」です。津田は、推古朝始用説ですが、当時はまだ公式なものではなかったと見ます。

 津田が触れた道教面を強調したのが、福永光司説です。新川さんは、福永説の多くは、道教用語と日本の例の共通点を抽象的に結びつける傾向があり、コンテキストの考慮が十分でないと指摘していますが、かつてはかなり福永説寄りで本や論文を書いてましたね。

 漢語ではなく、「スメラミコト」という和語に注目したのが、津田を批判した西郷信綱です。「スメラ」は「統(す)ぶ」由来でなく、宗教的・呪術的な状態を示したものだとし、「オオキミ」は日常でも和歌でも用いられるのに対し、「スメラミコト」はそうでないのは、純粋に制度上の符号だからだとし、天皇というのは、スメラミコトを漢語化したものだと見るのです。

 新川氏は、大宝令・養老令における天皇号について検討し、日本の令における規定は、唐令にならったものの、引き写しではなく、「天皇」を加えた点に特徴があるとします。

 そして『令義解』『令集解』などの古注釈では、令における「天子・天皇・皇帝」などの呼称は用途に応じていろいろであるものの、口頭で述べる場合は、「スメミマノミコト」「スメラミコト」である点に注意します。そして「スメミマノミコト」は注釈所引の「古記」では、「スメミマノミコト」は祭祀をとりおこなう君主の称であって漢語の「天子」に相当し、「スメラミコト」は1人である「君」、つまり天皇を指すとなっている点に注意します。

 その「スメミマノミコト」は「皇御孫命」とも書かれ、『常陸国風土記』久慈郡条では、天より下る「珠売美万命(すめみまのみこと)」とされ、また玄宗の「日本国王」宛の勅書に、「日本国王主明楽美御徳」とあって、「スメラミコト」が好字で音写されています。

 このように、天皇という称号は、けっして唯一絶対のものとして長く使われてきたものではなかったのです。このことは、天皇という語が見える古代の資料について考える際も有益でしょう。

 ただ、「スメラミコト」は仏教の須彌山に基づくと論じた森田悌氏の研究に触れておいてほしかったですね。このブログでは、このことは何度か触れているものの、検索してみたら、森田氏のその本や論文をとりあげた記事は書いていないことが分かりました。かなり前の作だからでしょうが、重要なので、近いうちに取り上げることにします。

 


叡福寺北古墳は聖徳太子の墓所であってその夾紵棺は最も精巧:安村俊史「安福寺所蔵の夾紵棺」

2022年07月22日 | 論文・研究書紹介

 聖徳太子の墓については、真偽を含め、これまで盛んな論争がありました。これに対して、太子の墓所とされてきた叡福寺北古墳で間違いなく、また大阪市柏原市の浄土宗安福寺が所蔵する夾紵棺の破片は、その玄室に安置されていた太子の棺の一部と推測される、と説く論文が出ています。

安村俊史「安福寺所蔵の夾紵棺」
(白石太一郎先生傘寿記念論文集編集委員会編『古墳と国家形成期の諸問題』、山川出版社、2019年)

です。

 この夾紵棺の破片については、猪熊兼勝「夾紵棺」(森浩一編『論集 終末期古墳』、塙書房、1973年)が早くに着目し、聖徳太子の棺である可能性を指摘していましたが、2010年に柏原市立歴史資料館が一般公開して以来、注目されるようになってきたものです。

 その破片は長さ94センチ、幅47.5センチ、厚さ3センチの板状であって、小口面と考えられる由。

(同論文125頁。原載は柏原市立歴史資料館『群集墳から火葬墓へ』2010年)

 夾紵、つまり布を貼り合わせて漆を塗る技術は、乾漆の仏像を作るために用いられるものですが、棺に用いられていることが分かっているこれまでの例は、斉明天皇(661没)の墓と推測される牽牛子塚古墳のもの、そして天武天皇(683没)の墓と推測される野口王古墳のものであって、いずれも7世後半のものです。

 しかも、牽牛子塚古墳の棺でも荢麻35枚であって、安村氏が藤原鎌足(669没)の墓と推測する阿武山古墳の夾紵棺は麻20枚以上となっているのに対し、安福寺の破片は絹布を45枚貼り重ね、両面を黒漆で仕上げており、これまで発見された夾紵棺の中で最も豪華で精巧な造りになっているのです。

 大きさもきわだっています。阿武山古墳の夾紵棺の身幅は62センチ、牽牛子塚古墳の棺台幅が78センチ、野口王墓古墳の棺台幅は75センチですが、安福寺の夾紵棺は幅97センチもあります。

 3基の棺台がある叡福寺北古墳の玄室では、太子の母のものとされる棺台幅は78センチ、妃のものとされる棺台幅は91センチ、そして太子のものとされる棺台幅は111センチもある巨大なものであって、この棺台なら、安福寺夾紵棺が両側に7センチの空間を残して見事に収まるのです。

 問題は叡福寺北古墳の年代ですが、花崗岩切石による横口式石槨が作られるのは6世紀末あたりからであり、これが横穴式石室に採用されたのが羽曳野市塚穴古墳だろうと安村氏は推測します。

 この古墳は、聖徳太子の弟の来目皇子(603没)の墓と推定されているものであって、石材の大きさは不均等です。叡福寺北古墳はこれを均等にして左右対称にしたと考えられるため、622年に没した聖徳太子の墓とみて良いと安村氏は説きます。

 問題は、その夾紵棺の破片がなぜ安福寺に伝えられているかです。1875年(明治12年)に叡福寺北古墳を調査した際は、石室内に「二斗」の夾紵片があった由。「二斗」とあるため、かなりの小片が大量に残っていたことになり、安福寺の大きな破片はそれよりかなり前に持ち出されたことになります。

 安福寺を復興した阿憶上人(1635-1708)は太子尊崇の念が強く、四天王寺や叡福寺への寄進を惜しまなかったことが伝えられています。特に、叡福寺の南にある西法院という子院との関わりが強く、西法院の額も阿憶の筆に成ります。

 また、阿憶が額安寺の仏舎利二粒を「太子御廟」に寄贈した際、叡福寺の僧が送った礼状が残っていることから見て、そうした行為の見返りとして、夾紵棺の一部が贈られたのではないかというのが安村氏の推測です。氏は安福寺所蔵の資料を調査中とのことですので、状況が明らかになるのとを待ちたいところです。


追善のための造寺と戦勝祈願による造寺:門田誠一「百済王室祈願寺と飛鳥寺の造寺思想」

2022年07月19日 | 論文・研究書紹介

 法隆寺(斑鳩寺)について考えるには、その先行寺院であって日本最初の本格寺院である飛鳥寺について検討しておく必要があります。しかも、飛鳥寺を建立したのは、聖徳太子の義理の父である蘇我馬子ですので、影響がないはずがありません。

 その飛鳥寺について、百済や中国の例と比較して検討したのが、

門田誠一「百済王室祈願寺と飛鳥寺の造寺思想」
(『鷹陵史学』39号、2013年9月)

です。

 朝鮮史を中心とした古代アジア史の専門家である門田氏は、まず百済最後の都である扶余の王陵とされる陵山寺古墳の西側で遺跡が発見された陵山寺に着目します。この遺跡からは、工房の跡や技術の粋を凝らした見事な金銅の香炉などが出ており、木塔心楚石の周囲から、威徳王の代の567年に「妹兄公主」が舎利を供養した銘文が刻された花崗岩製の舎利龕が発見され、話題になりました。

 同じく扶余に建立されたのが、木塔・金堂・講堂が南北に並ぶ、つまり四天王寺式の先行例である王興寺であって、この遺跡から出土した舎利容器に刻された銘文によれば、丁酉2年(577)に「百済王昌」が亡き王子のために刹を立てた際、舎利が神変を起こしたとされています。王興寺の造塔は亡き父王のためのものであり、下で述べる梁武帝の亡父のための造寺と一致することは、既に指摘されています。

 扶余以外の地では、益山の弥勒寺跡では、「百済王后」が己亥の年(639)に夫の武王と王后の長寿、子孫の福利、仏道成就を祈って伽藍を造成し、舎利を奉安したことを記す金製の奉安記が発見されています。

 これらの王室の祈願寺では、亡父や亡くなった息子の追福、王と王后の長寿や子孫の繁栄などが願われているわけですが、ここで門田氏は中国南北朝の王族の例を見ます。すると、やはり多いのは、身内の追福のための造寺です。百済が手本とした南朝の梁の場合、武帝は父のために皇基寺を建て、さらに父母のために大愛敬寺と大智度寺を建てています。

 北朝の追福の例としては、北魏の廃仏を改めて仏教を復興した孝文帝が、先帝の追善のために永寧寺で100人の僧侶を得度させたことが知られています。ただ、門田氏は「自らも剃髪し、僧服を施与した」(5頁)と述べていますが、原文の「為剃髪」は「剃髪を為す」ではなく、「為(ため)に剃髪す」であって、孝文帝が得度を許した者たちのために、相撲の断髪式のような形で100人の髪をちょっとだけ切ったということですね。

 その孝文帝は、母の追善のために報徳寺があり、孝文帝の后は自らの母のために秦太上君という号を送り、秦太上君寺を建てています。

 北魏では、『洛陽伽藍記』が示すように、王族が死んだ際、その邸宅を改めて寺とした例がいくつもあるほか、邸宅を寺とする「捨宅為寺」の風が盛んであって、様ざまなタイプがあった由。そこで門田氏は、南北朝の捨宅寺院の例を多くあげています。

 一方、日本の場合、最初の寺は、蘇我稲目が「向原の家を浄捨して寺と為」した向原寺ですね。向原は、「元興寺縁起」では「牟久原(むくはら)」と記されています。この「元興寺縁起」については、疑われることが多かったのですが、最近では史実を反映した部分もあることが認められるようになりつつあります。

 問題は、『日本書紀』によれば、飛鳥寺(法興寺)と四天王寺は、守屋との合戦に際して、厩戸皇子と馬子が戦勝を願って誓願し、勝ったために建立したとされていることです。門屋氏は、この誓願については私の誓願論文(こちら)を引いて説明していました(有難うございます)。

 そこで門田氏は、飛鳥寺と四天王寺は、百済や中国南北朝の寺と建立の性格が違うとするのですが、さてどうでしょう。

 『日本書紀』の問題点は、四天王寺系の資料に依ったため、斑鳩寺を無視していることです。斑鳩寺は、父の用明天皇の追善のための寺であって、百済や中国の例と違っていません。また、飛鳥寺がいかに百済の王興寺の影響を受けていたかは、この15年ほどでかなり明らかになってきています。

 そうでありながら、その飛鳥寺の建立の目的が戦勝のための誓願を果たすためだったとは考えにくいところです。また、飛鳥寺は蘇我氏が建てたとはいえ、稻目の追善のための寺とする記録がなく、また、蘇我氏の仏教信仰と寺院建立は、蘇我氏が担当した職務の一つであったことを考えると、天皇の長寿を祈るためという点が大きかったのではないでしょうか。

 つまり、いわゆる氏寺ではなく、氏族が建立した公的な寺という過渡期の性格を持っていたように思われるのです。『日本書紀』のこの時期の仏教関連記事は、四天王寺系の資料が重視されているということを考慮したうえで検討していくべきであるように思われます。

 むろん、『日本霊異記』日本霊異記』上巻「亀の命を贖ひて放生し現報を得て亀に助けらえし縁」では、百済を救うために派遣されることになった備後の豪族が、無事に帰れたら神々のために寺を建てますと誓って出かけたところ、無事に帰国できたので寺を作って盛大な供養をしたとされており、そうしたことがありえることが私も論文を書いています。

 ただ、『日本書紀』の物部合戦時における誓願の記述は、あまりにも劇的であって、四天王寺で語られていた縁起に基づく点が多いように思われるのです。飛鳥寺の建立と四天王寺の建立は、分けて考えるべきだろうというのが私の見通しです。

 もう一つ注意すべきは、『日本書紀』は蘇我氏が仏教を受容したという点を強調しているため、百済に派遣された大別王が、また蘇我氏が奉仏の最初であることを強調するため、敏達6年(577)に百済に派遣された大別王が百済王から「経論若干巻、律師・禅師・比丘尼・呪禁師・造仏工・造寺工六人」を与えられ、「難波の大別王の寺」に安置したことが重視されていないことです。

 なお、造寺造像は近親の追福のためである場合が多いのは確かですが、北朝の碑文では、まず皇帝などの長寿を祈った後、家族の追福を願う形が多いことも考えるべきですね。北朝のそうした碑文については、倉本尚徳さんが詳細な研究をしてますので、いずれ紹介しましょう。


煬帝への親書は書簡マニュアルの用語を利用:高松寿夫「『日本書紀』「推古天皇紀」に見える外交文書」

2022年07月15日 | 論文・研究書紹介

 前回紹介したシンポジウムは、発表者である阿部泰郎さんと吉原浩人の2人が編者を務め、司会の河野貴美子さんも書いている論文集、『南岳衡山と聖徳太子信仰』(勉誠社、2018年)の延長版という面もありました。

 中世の太子信仰については膨大な資料があるうえ、おどろおどろしいタイプも多く、また研究も積み重ねられていて踏み込むと泥沼なので、このブログでは、明治から戦時中あたりまでの国家主義的な太子信仰は扱うものの、聖徳太子その人に関する論文や研究書を優先し、中世の太子信仰は敬遠してきました。上記の本の中で、太子の時代を扱った唯一の論文が、

高松寿夫「『日本書紀』「推古天皇紀」に見える外交文書」

です。

 高松氏は、『日本書紀』に掲載されている煬帝が推古に当てた親書が、蔵書家として知られた清朝の学者、陸心源の『唐文拾遺』(1888年)に「玄宗遺文」として収録されていることから話を始めます。『日本書紀』では隋のことを「唐」とか「大唐」と記していますので、陸心源はそれを真に受け、「戊辰」という干支を608年でなく、2巡くりさげた玄宗の開元16年(728)と判断したのだろう、というのが高松氏の推測です。

 高松氏は、煬帝の「皇帝敬問~」という書き出しは、中村裕一『唐代制勅研究』が指摘するように「慰労詔書」の形式であるとし、隋代におけるその例として、智顗禅師あての書と慧則禅師宛の親書をあげます。

 そして、二例とも最後が使いに託して述べさせるという意味である「指宣往意」の句で終わっているのは、推古紀所載の煬帝の書の末尾近くに見える「稍宣往意」と類似することに注意します。同じ親書を掲載している『善隣国宝記』では、これが「指宣往意」となっているため、そちらが『日本書紀』の本来の形だろうとします。

 また、唐の道宣の『続高僧伝』の釈智舜伝にも、「皇帝敬問~」で始まり、末尾近くに「指宣往意」とあると述べます。慰労詔書の形式は唐代にもほぼそのまま継承されたようですが、唐代の慰労詔書の遺文には文末の「指宣往意」の句は見えないため、高松氏は、推古紀の煬帝の親書は隋代の特徴をとどめている可能性が高いとします。

 次に、「東天皇敬白西皇帝」で始まる推古の返書のうち、「天皇」の語の是非はともかく、慰労詔書の形にのっとろうとしているものの、慰労詔書では冒頭で「啓白」の語を用いた例はないとします。

 ただ、梁の武帝の「断酒肉文」其一に「弟子蕭衍、敬白諸大徳僧尼」とあり、隋文帝の「懺悔文」が「菩薩戒仏弟子皇帝某、敬白三世一切諸仏~」とあることに注意します。

 つまり、いずれも仏教関連の内容であり、推古の返書はこれに近いのであって、「敬白」を用いているのは隋の天子を仏菩薩に近いものとして敬意を表したものと見ることができ、これは遣隋使が煬帝のことを「海西菩薩天子」と述べたことに通じると説きます。

 いずれにしても、推古の返書は形式的な挨拶にとどまっており、そこで用いられている句は、王羲之・王献之父子のものが多い書簡によく見られるものだとします。返書のうち、「想清悆(ご清栄でいらっしゃいますでしょう)」については他の用例を見いだしていないが、「勝悆」や「康悆」は書簡冒頭で相手の健勝を祝う表現として用いられる常套表現と思われるとしています。

 こうした検討から見て、推古の返書は、当時の書簡の学習に基づいて書かれており、煬帝への推古の返書は、形としては慰労詔書であるものの、実際には一般の書簡の決まり文句を踏まえたものであり、何らかの「書儀」、つまり当時の書簡マニュアルを学習して作文している可能性が高いと論じてしめくくっています。

 いや、おもしろいですね。隋代の表現を用い、また書儀を利用しているという点が重要です。敦煌文書を見ても分かりますが、南北朝から隋唐にかけては、仏教でも名文句集や願文のマニュアルなどが盛んに書写されており、当時の人はそれらを利用して書いていたのですね。

 願文集には、父母が亡くなった場合に読み上げる願文とか、子供が亡くなった場合の願文などだけでなく、犬が死んだ場合、「忠犬であって、家をよく守った」と誉めるなど、いろいろな場合の手本となる願文が揃っており、まさにマニュアルです。


早稲田で聖徳太子シンポジウムが開催されました

2022年07月11日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報

 先にお知らせしてあった早稲田大でのシンポジウムが7月9日に、大隈記念タワーの多目的会議室で開催されました。

早稲田大学多元文化学会 春期大会シンポジウム 聖徳太子1400年遠忌記念
「聖徳太子の実像と伝承」

です。参加者は人数を制限した会場組とリモートで公開したZoom参加組、合わせて100名ほどだった由。司会は、河野貴美子(早稲田大学文学学術院教授)さん。発表者と題目は、

石井公成(駒澤大学名誉教授)
 「文献と金石史料から浮かびあがる聖徳太子の人間像」

阿部泰郎(龍谷大学教授・早稲田大学日本宗教文化研究所招聘研究員)
 「聖徳太子と達磨の再誕邂逅伝承再考―光定『伝述一心戒文』が創る仏教 神話の系譜―」

吉原浩人(早稲田大学文学学術院教授・同日本宗教文化研究所所長)
 「磯長聖徳太子廟と「廟崛偈」をめぐる言説」

です。内容は、来春刊行の『多元文化』12号に掲載される予定です。

 私は、まず早稲田における太子研究の歴史を振り返り、津田左右吉・福井康順という太子の事績を疑う研究がなされたところに、太子尊重の東大を定年になって早稲田に来られた平川彰先生が、藤枝晃先生の『勝鬘経義疏』=中国の二流の注釈説に反発して大学院で『勝鬘経義疏』の講義をされ、それがきっかけで私も太子研究に踏み込んだことなどから話を始めました。 

 そして、聖徳太子は「法王・法王大王・法皇」などと呼ばれているものの、原義は『日本書紀』に見える「法主王」であって、「法主」は中国ではその寺の講経の担当者ないし責任者を指すため、「法主王」は「講経が巧みな皇子」ということであり、「王」は最初は「みこ(皇子)」だろうが、次第に「おおきみ」と呼ばるようになっただろうと推測しました。

 「法王」や「法皇」をローマ法王のような存在と考えるから、「この若さでそんな地位につくはずがない」などという空しい議論になるわけです。ただ、伊予温湯碑文に見える「法王大王」は、『維摩経』における「法王=釈尊」が神通力でおこした奇跡(こちら)を踏まえているため、釈迦のようだということで、そのイメージが重ねられていると説きました。

 そして、「聖徳太子は「海東の菩薩天子」たらんとしたか」で論じたこと(こちら)を概説しました。ただ、このブログで紹介した「仏教タイムス」の連載記事では、「憲法十七条」第1条の「あるいは君父に順わず、また隣里に違う」の部分は『史記』楽書に基づくと論じたのは、その元となった『礼記』楽記の間違いであったと訂正しました。

 それにしても、「憲法十七条」は『礼記』の楽記に基づいていながら、礼とならんで儒教教育の二本柱である「楽」に触れず、また『孝経』の言葉を用いていながら「孝」にも触れずに、それを仏教で代用しようとしており、とても儒教などと言えたものではないと説きました。

 次に、『勝鬘経義疏』における勝鬘夫人絶讃は、太子の叔母かつ義理の母である推古天皇のイメージを重ねているためだとしたうえで、『勝鬘経義疏』がその勝鬘夫人を「謙虚でありながらかなり自信を持っている人物」として描いているのは、三経義疏における注釈の態度と同じだと論じました。三経義疏は、「自分の愚かな心では判断しにくい」などと謙遜しておりながら、「本義の解釈はちょっとすっきりしない」とか、「これでもまあ良いが」などと言いだしますので。

 そして、「憲法十七条」も三経義疏も、民については思いやるべき存在、身を捨ててでも救うべき存在としつつも、努力・向上は期待しておらず、態度してはイギリスの貴族が、戦争などでは率先して最も危険な場所で戦うノブレス・オブリージュの心構えと同じだと論じました。

 その次は、太子一族の近親結婚の傾向に触れ、これが山背大兄滅亡の一因となったと推測しました。これは昨年12月の浅草寺講演で詳しく語ったことであり、その講演録は浅草寺の雑誌に掲載予定です。

 最後は、「世間虚仮、唯仏是真」の言葉をとりあげ、おそらく南朝の涅槃学の系統の言葉を言い換えたものでだろうと推測して終わりました。

 次に阿部さんと吉原さんの発表は、論文化される前の発表ですし、ともに膨大な資料集を用意してのものであって多様な内容となっていましたので、細かい紹介はしません、というより、できません。

 阿部さんは、最澄の弟子である光定の『伝述一心戒文』が、聖徳太子は天台大師の師である南岳慧思の後身だとする説と、聖徳太子が片岡山で出逢った飢人は実は菩提達摩だという伝承を結びつけ、最澄に始まる日本天台宗は、中国の禅宗と天台宗の系譜を継いでいることに着目し、独自の宗教テキスト論を展開しました。

 吉原さんの発表は、吉原さんが発見したものも含め、太子の葬送や御廟に関する大量の太子絵伝の画像を駆使し、「廟崛偈」や墓所に関する様々な言説がいかに生まれて展開していったかを示したものです。

 3人の発表が終わって総合討論となり、私は、吉原さんがあげた伝説のうち、太子が観音、妃の膳菩岐岐美郎女が勢至菩薩、太子の母后が阿弥陀如来とする伝承が広まっていっておりながら、キリスト教のマリア信仰やインド仏教で釈尊の母の摩耶夫人が安産の神などとして信仰されたようにならなかったのではないかと尋ねました。これに対しては、太子の御廟は三骨一廟として宣伝され信仰を集めたものの、母后である間人皇后だけが信仰された形跡はないとのことでした。

 また、阿部さんには、『伝述一心戒文』は真偽を含めて様々な論争があるが、『伝述一心戒文』の文体を分析し、ここは中国の資料、ここは最澄の言葉、ここは光定の言葉、ここは後代の追補などというように分けられないかといった質問をしました。回答は、全体として光定の思いが強く出た特徴のある文体となっており、光定の作と見て良いと思うが、そうした学説史についてはこれから検討したいとのことでした。大久保良峻さんが同じ趣旨の質問をしていましたね。

 ということで、私の発表は太子その人、阿部さんの発表は平安初期の天台宗における太子観、吉原さんの発表は中世に到る太子の墓所をめぐる信仰の展開、ということで、太子と太子信仰のあり方を時代順に検討したシンポジウムとなりました。


儒教と近代日本の図式に縛られず、古訓を重視した「憲法十七条」解釈:保坂俊司「歴史的情報としての聖徳太子」

2022年07月08日 | 論文・研究書紹介

 少し前に、儒教を中心とする中国古典の立場で「憲法十七条」を解釈しようとした永崎氏の本を取り上げました(こちら)。そこで、今回は逆に、第一条の「和」を「ワ」と漢字音で訓んで中国風に解釈する方法を批判し、和語による古訓を重視すべきだとする「憲法十七条」論を紹介しましょう。

保坂俊司「歴史的情報としての聖徳太子ー日本的寛容思想の基礎的研究ー(1)」(『国際情報学研究』創刊号、2021年3月)

です。

 保坂さんは、私の早稲田大学大学院東洋哲学専攻の後輩ですが、儒教・仏教・道教の三教思想を中心としていた東洋哲学専攻にあって、インド中世の宗教思想を専門とするという変わり者ぶりであって、当時からマイペースで淡々飄々と研究してましたね。 

 後にデリー大学に留学して、以前はシーク教と読ばれていたシク教もやイスラム教などの研究を深め、インドの諸宗教と仏教との関連、現在の宗教事情などにも注意する珍しいタイプの研究者となりました。

 東哲の仏教は、東大印哲を定年退職された平川彰先生が教授として来られていたこともあって、厳密な文献学志向でしたが、保坂さんは、インド哲学研究者でありながら世界の諸思想を比較検討した中村元先生を尊敬し、中村先生が創設した東方学院の理事となったのも、保坂さんらしいところです(私は平川門下でありながら、東方学院の理事長となった先輩の藤井教公さんに講座を担当するよう頼まれ、この4月からお茶の水の東方学院で「中国仏教研究」担当ということで中国禅宗の形成史を教えています。来年あたりに出す本の準備です)。

 保坂さんは現在は中央大学教授であって、新たに創設された国際情報学部の中心の一人となっているためか、その立場からの研究も進めており、今回の「憲法十七条」論文もその一つのようです。私の『聖徳太子ー実像と伝説の間ー』(春秋社)も読んでくれたようですが、注には「石井前掲書」とあるものの、書名表示がないですね。

 それはともかく、保坂さんは、「初春令月、気淑風和」という『万葉集』の歌の序からとられた「令和」という年号の奇妙さから話を始めます。この年号については、歴史を読まず、漢文古文にうといのに、年号を日本の古典からとりたいと願い、「憲法十七条」が好きだという安倍元首相の意向に沿うように強引に切り貼りし、鶴のひと声でこれに決定したと私は考えており、安倍体質を良く反映し、漢語としては「和せしめる(仲良く同調しろ。しないと殴るぞ)」という意味となっているものと考えています。

 保坂氏も、同調圧力を嫌っているようで、そうした「和」は文部省の『国体の本義』における国家主義的な「憲法十七条」利用が影響を与えた面が大きく、保守主義的な人がそうした「和」を尊重し、それに反対する人が「憲法十七条」を批判することになっていると見るようです(『国体の本義』の「和」解釈の張本人である紀平正美については、以前、論文を書いてあります。こちら)。

 それは良いのですが、「五族協和」すべき帝国日本の状況に基づき、その源流として「憲法十七条」の「和」が注目されたとするのは、少し遅すぎますね。それ以前の時期から、植民地などのことは意識されずに「和」の国家主義利用は始まっていますので。

 保坂さんは、『日本書紀』には「憲法十七条」とあるのに、「十七条憲法」という言い方が増えるのは、明治憲法ができてからと説き、日本にも西洋に負けない憲法が早くからあるという主張と結びついているとします。そして、「憲法」という訳語を明治初期に確立した箕作麟祥は「憲法十七条」に親しんでいたと指摘します。

 これはそうですが、明治憲法に関する初期の本は、意外に「憲法十七条」に触れないものが多いことは、以前、オリオン・クラウタウさんのシンポジウム発表の紹介で触れました(こちら)。

 さて、保坂さんは、『日本書紀』岩崎本に見える平安時代の古訓によれば、「憲法十七条」は「うつくしきみのりとおあまりなな」であり、これを重視すれば、上記のようなナショナリズムに基づく「憲法」解釈に縛られずにすむと説きます。

 そして、「和」についても、「やわはぐをもてたふとし、さかふることなきをむねとせよ」という古訓に従えば、全員一致の「和」を強調する同調圧力的な解釈から逃れることができるとします。

 ここで問題なのは、「憲法十七条」の「和」は実は儒教とはかなり違っていることです。これについては、断章取義的な用法だと論じた論文を紹介しました(こちら)。また、最近の私の発見によれば、「憲法十七条」第1条は、礼楽を重んじ、孝を重んじる儒教文献の言葉を用いながら、「楽」を外し、「孝」を外しており、とても儒教とは言えないことが明らかになっています。

 このように、保坂さんのこの論文は、面白い視点から問題提示をしており、続篇の刊行が待たれます。


「聖徳太子はいなかった」説を否定する珍しい歴史番組が放送されました(現在も視聴可能)

2022年07月04日 | 論文・研究書紹介

 タイトル通りの番組が7月3日夜9時から1時間にわたって放送されました。フリーアナウンサーでタレントでもある岡副麻希さん(ご結婚、おめでとうございます)と、歴史家の河合敦さんが進行役をつとめるBS松竹東急の歴史番組、「号外!日本史スクープ砲」です。

 文春砲のような扱いで、日本史に関する意外な事実をわかりやすく伝えていくという番組ですね。

 今回は、「やはり聖徳太子は実在した?!太子研究最前線」という題名が示すように、私の本を読み、この「聖徳太子研究の最前線」ブログを見てくれたディレクターの方が大学経由で連絡してきてくださり、あれこれ話しあって企画がスタートしました。

 ただ、笑いや芸能について盛んに書いていることが示すように、私は冗談好きなお調子者であり、テレビに出るようになったらはしゃいでしまって研究しなくなるであろうことを見抜いていた恩師の平川彰先生から、「石井君、テレビには出ない方がいいぞ」と釘をさされていたため、以後もご命令を守ってテレビ出演はすべて断ってきました(平川門下で、テレビの宗教番組などによく出るようになって有名になり、謝金が高い講演ばかりやるようになって研究しなくなった先輩が当時いたのが原因でしょう)。

 そのため、バラエティ番組を含む数多くの聖徳太子関連番組では、出演はせず、研究状況の説明や資料の提供をしたり、出演者の人選の相談に乗ったり、太子クイズのチェックなどをしてきただけです。今回も同様ですが、SATによる検索のところでは、ちょっとだけ私の研究の紹介がなされ、写真も出ています。

 さて、河合氏については、教科書における聖徳太子の名の表記の変化について説明する際、大山氏の太子虚構説の影響であるとしてそれが最新の学説であるように語っていたため、このブログで批判し、ご当人に伝えていただいたことがあります。

 そうでありながら、今回はこうした番組を担当してくれていますので、感謝したいところです。研究の進展によって学説は変化しますし。なお、この番組はネットで無料で配信されていますので、今回の放送も2023年1月2日まで公式版(権利関係により、一部の画像はカット)を見ることができます(こちら)。

 さて、番組では最初に「いなかった説」が生まれてきた背景が説明され、これがかなりの量(半分近く?)を占めていました。状況を説明したのは、奈良大学の相原嘉之氏。相原氏は、このブログでも取り上げたことがあるように、考古学が専門であって飛鳥などの発掘に関わってきた研究者です。

 なお、釈迦三尊像について説明する際、太子の妻である膳菩岐岐美郎女をCG画像で出し、ナレーションではこの妻が太子の病気回復を願って作ったと語っていましたが、発願したのは一人ではなく、「王后王子等、及び諸臣」ですね。

 また、いなかった説の背景を説明する際、相原氏は、『日本書紀』では太子は三経義疏を書いて広めようとしたと書いてある、と語っていました。考古学が専門なので無理もないのですが、『日本書紀』では『勝鬘経』と『法華経』を講経したとあるだけで、注釈作成には触れていません。

 ついで、このブログで本や論文を紹介したことがある太子実在派の研究者6人が登場し、「いなかった説」に反論していきます。最初は、大平聡氏。

 大平氏は、太子の伝説は信じがたいようだが、ゼロから創作したのではなく、そこには「芯」があり、何らかの実体に基づいて脚色されていった場合も多いはずと論じます。たとえば、『日本書紀』では冠位十二階の制定者について記していないが、古い要素を残す『上宮聖徳法王帝説』では、推古天皇を補弼した上宮厩戸豊聡耳命(太子)と嶋大臣(馬子)が爵位十二級を定めたと記してあるのがその一例だとします。

 次に、仁藤敦史氏が、「憲法十七条」は「国司」という言葉が後のものだとして問題にされてきたが、当時は諸国に派遣される「くにのみこともち」という役職があり、これが後に「国司」と記されたのであって、「憲法十七条」の内容は推古朝に合っているとします。

 次に、「いなかった説」を紹介してきた相原氏が、実在説の立場から語り、釈迦三尊像銘で「法興」とう年号があるのはおかしいという批判に対し、東野治之氏の説を紹介し、古代韓国でも限定的に使われた年号があるので不思議はないとします。そして、斑鳩寺は焼けたのに釈迦三尊像が残るのは不自然とする説については、発願した膳氏の邸か寺にあったのであって、それが再建法隆寺に持ち込まれた可能性を説きます。

 次に、このブログでも三経義疏研究を紹介した木村整民氏(こちら)が、三経義疏には多くの仏教文献の中で三経義疏にだけ共通して出てくる語句があることを、SAT(大正新脩大蔵経テキストデータベース。こちら)を使ってパソコン検索してみせ、同一人物の作である証拠として説明していました。これには岡副さんも「すごい!」と驚いていましたね。

 なお、ナレーションでは、SATについて「駒澤大学の石井公成先生がチームを結成して作った」と述べていましたが、仏教文献の電子化を呼びかけたのは早稲田の大学院の東洋哲学専攻で私の後輩であった清水光幸氏です。彼がいろいろな実験をして宣伝したものの、パソコンでは漢字が少ししか扱えない時期だったため、平川先生が科研費を得て、とりあえず論文データベースから作成にとりかかりました。

 大正新脩大蔵経のテキストデータベース化に取り組んだのは、平川先生の弟子であった東大の江島恵教先生でした(両先生は意見が合わず……)。江島先生が急逝された後は、その弟子であった東大の下田正弘さんが代表となり、苦労してこのプロジェクトを推進しましたが、下田さんと中心メンバーであった私は、このプロジェクトを続けるために、艱難辛苦いかばかりだったか……。奈良康明先生が大変な助力をしてくださった件を含め、いつか裏話を書きましょう。

 ともかく、私がSATチームを組織したのではなく、私はその中心メンバーの1人であったにとどまりますし、かなり前に離れてしまったため、現在のシステムは公開当時のものとはかなり違って高機能になっています。そのデータを自在に検索するシステムであるNGSMについては、私が提案し、SATの技術面のリーダーも務めた師茂樹さんを初めとする漢字文献情報処理研究会の仲間たちで作成した、というのが実際のところです。

 なお、木村氏は、『法華義疏』には訂正が多いため、太子が自分で訂正されていったといった説明をされていましたが、これについては私は別意見でであって、このブログでも書きました。

 次は、早くから大山説を批判していた遠山美都男氏。太子は馬子との権力闘争に敗れて斑鳩に引っ込んだのではなく、外交のために難波の港に近い斑鳩に移住したのであって、外務大臣のような役割をつとめたのであり、政治的に有力な皇子であったと論じます。

 次は、以前、別な太子番組でも私に代わって出演してくれた仏教外交史の河上麻由子さん。遣隋使は太子の仕事ではあるが「対等外交」ではなく、仏教を学ぶためのものであったと論じます。

 こうした6人もの太子研究の代表的な研究者が「よく出てくださったなと思う」と感謝していた河合氏は、このように研究が進んでいるため、教科書も今後は変わっていく可能性があると説いてしめくくっていました。

 画面右上には、健康食品のCMでの「これは個人的な感想です」みたいな注意の感じで、「今回紹介された説には諸説があります。また今後の研究によって変わる可能性もあります」という注意が表記されていましたね。

 私が全面的に内容チェックしたわけではないため、細かいところについては、やや問題のあるナレーションなどもありましたが、「いなかった説」が「意外な最近の新説」とか「近年の定説」として紹介されることが多いテレビ番組で、こうした「いなかった説」批判の最新の研究状況がこれだけ詳しく紹介されたのは画期的なことです。テレビの扱いも教科書の記述も、今後は徐々に変わっていくでしょう。

 なお、守屋との合戦に臨む太子の姿がCGで描かれていましたが、太子が彫って作った四天王の木像を鉢巻で兜にくくりつけたようになっており、これだと八つ墓村になってしまいます。インド仏教の場合、お守りとなる像は小さなものを頭の髪の中に入れておくのが普通ですね。


中国古典の典拠に注意しつつ「和の精神」をお説教する「憲法十七条」本:永崎孝文『「憲法十七条」広義』

2022年07月03日 | 論文・研究書紹介

 「憲法十七条」については、素人のお説教本が目立ちます。つまり、古代史や仏教や日本思想・中国思想などを良く知らない人が、「憲法十七条」の解釈という形をとって自分の社会観、道徳観、歴史観などを述べ、日本はこれこれであるべきだと説教するタイプです。

 最近では、派手な題名で宣伝された長谷川七重『「十七条の憲法」から読み解く日本文明(上) ―これを読めば日本人が解る―』 (幻冬舎、2021年)などもそうであって、素人によるお説教本の一例ですね。

 「憲法十七条」を文献的に研究して成果をあげた研究は、最近はきわめて稀であって、かつて紹介した法家思想の影響を重視した山下洋平氏の研究(こちら)など、ごく少数に限られます。

 そうした中で異例なのが、

永崎孝文『「憲法十七条」広義ー”和魂””漢才”の出あいと現代的意義ー』(奈良新聞社、2016年)

です。

 永崎氏は、本書末尾のプロフィールによれば、大学の経済学部を出て紡績会社や薬品会社に勤めたのち、京都大学文学部中国哲学研究室に在籍し、東洋思想を学んだ由。2005年に「憲法十七条」に接し、以後、「憲法十七条」の普及に努めているそうです。

 実際、この本でも道徳教育の必要性を説き、そのテキストとなりうる「憲法十七条」のこころ、すなわち「和の精神」を学んで、この「大和の地」から発信していくべきことを力説しているため、いわゆるプロの研究者ではないものの、中国思想の素養を持った人物が説くお説教本ということになります。

 良く分からないのは、研究室に6年間在籍という書き方です。大学か大学院に入学して学んだのか、研究員やそれに準ずる資格で学んでいたのか。また、東洋思想を学んだとありますが、本書を読んでみると、仏教に関しては踏み込んだ説明がありませんので、そちらについては大学院レベルで研究したことはなさそうに思われます。

 実際、「跋文」では、「市井の素人道楽家の”私的考察”と位置づけてお読みいただきたいとと思います」(356頁)と書いておられます。ただ、このような自覚を述べるのは、「太子の真意を見抜いた」などと大言壮語するど素人たちと違い、古典に関して学問的な訓練を受けたことがある人ならではです。自分の解釈の学問レベルがどの程度であるのか分からず、大発見したと思いこむのが素人というものなので。

 そうした例の一つである九州王朝説については、永崎氏は本書に12回載せられている「問題余話」というコラムの最初で、写本や版本のあり方をわきまえない強引な議論であり、「憲法十七条」を九州王朝の憲法とするのは、「短絡的で科学的な根拠に乏しい説」として切り捨てています。

 さて、永崎氏は、「憲法十七条」を貴重な教えと見て、その普及に努めているわけですが、太子を無暗に礼賛しないのは学問的なところです。太子の仏教理解にしても、早い時期は梁の武帝や隋の文帝を真似たものであって、『勝鬘経』や『法華経』の講経の頃は、仏教による統治という面が強かったと説いています。

 そして、『日本書紀』の仏教興隆については、欽明天皇、蘇我稻目、蘇我馬子、推古天皇などであって、「厩戸王子」は出てこないことに注意し、仏教とのからみで描かれることが多すぎると述べます。

 また、「冠位十二階」については、その対象者、つまり任官可能な人は実際には多くなかったとし、その「冠位十二階」と「憲法十七条」は「同一思想を持った人の制作」だと論じ、「冠位十二階」は革命的だったが、それまでの氏族制も存続しており、「冠位十二階」によって一転したのではないとします。

 「憲法十七条」には日本国民に対して道徳を教えたものであり、「冠位十二階」は氏族制を打破したなど主張する素人たちが多いのですが、永崎氏は、その点、文献に忠実に解釈しており、客観的です。

 「憲法十七条」の「憲法」については、法家の『管子』では軍律の意で用いられていることに注意したうえで、『詩経』では、文武を備えた名将を「万邦、憲と為す(多くの国々が手本とした)」とあること、また、「法」についても『管子』や『中庸』では「道理・規範」などの意で用いていることから、「憲法十七条」の「憲法」は「てほん、規範」の意味だとしており、これは納得のいくものです。

 永崎氏は、「憲法十七条」偽作説については複数の根拠をあげて反論しています。重要なのは、「冠位十二階」は『隋書』に記されていて確実であるため、それと共通する要素がある「憲法十七条」は、その付則的な規範であった可能性が高いというものです。

 その共通点とは、儒教の通常の仁・義・礼・智・信という順序とは異なり、徳・仁・礼・信・義・智の順となっており、「憲法十七条」では礼と信を重視しており、「冠位十二階」と一致する点です。

 そして、永崎氏は、「憲法十七条」で冒頭に「和」が来ているのは、「冠位十二階」では仁・義・礼・智・信という儒教の五常の上に「徳」を置いているのと同様であり、第二条で「篤く三宝を敬え」とあるのは、「和の精神」を生かすための手段として提唱されているものだと説きます。

 「徳」と「和」が対応しているというのは賛成しがたいですが、「篤敬三宝」が「和」を実現するための手段となっているという指摘はおもしろいですね。その点は私も賛成ですが、「和」が「篤敬三宝」より前に来ているのは、群臣たちの「和」が「篤敬三宝」を実施するための前提となっていたためだと、前の講演録で説いてあります(こちら)。

 永崎氏は、以下、「憲法十七条」の個々の条について検討していきますが、類似しているだけで、典拠とは言えないような用例も見受けられます。また、全体としては穏健な解釈となっているものの、「憲法十七条」を尊重し、現代の道徳として生かそうとしますので、ところどころで推古朝の状況からすると不自然と思われる解釈が出てきます。

 そうした面はあるものの、仏教系寄りの人が「憲法十七条」を解釈すると、中村元先生のように仏教を中心とした見方になりすぎる傾向があるため、永崎氏のように仏教に距離を置き、中国思想とのつながりを検証しようとするのは、これはこれで有益でしょう。

 なお、末尾の「参考文献」では、中国思想との関係に注意した学術的な村岡典嗣の研究があげられていないのに対して、『いかに生くべきか(東洋倫理学概論)』を初めとする安岡正篤の本が3冊もあげられたり、山田無文老師の『臨済録 上』や山田済斎編『西郷南州遺訓』など、「憲法十七条」とは無関係な本が多数あげられており、現代版の「修身」のような形で東洋の道徳を説きたい人なんだな、ということが良くわかります。