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聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

「お客様は神様です」の三波春夫が偽作版「憲法十七条」の礼賛本を書いた

2021年05月31日 | 偽作の『五憲法』と『先代旧事本紀大成経』関連

 伝説化されすぎた聖徳太子のイメージに縛られず、一人の人間としての聖徳太子の真実の姿を解明するため、文献に出てこない「厩戸王」という名を仮に想定して研究を進めた小倉豊文が最も危険視し、強く批判したのは、太子は神道も重視する『聖徳太子五憲法』を作ったという伝説でした。

 なにしろ、「篤く三宝を敬え。三宝とは仏・法・僧なり」と説いて仏教を強調するのみである「憲法十七条」は、神道家が最も重視する天孫降臨説に触れないどころか、「神」という言葉さえ一度も出てこないのですから、江戸時代に国学者やその影響を受けた儒学者たちから激しく攻撃されたのは当然でしょう。

 そうした中で、17世紀半ばすぎに登場したのが、通常の「憲法十七条」の順序と言葉を多少変え、末尾の第十七条で「篤く三法を敬え」と説いて、「三法とは、儒・仏・神なり」と断言した「通蒙憲法」、そしてそれぞれ17条ある「政家憲法」「儒士憲法」「神職憲法」「釈氏憲法」という五つの憲法から成る『聖徳太子五憲法』でした。これらは、『日本書紀』の推古紀に相当する『大成経』の「帝皇本紀 下之上」で上宮太子が説いたとする内容を示した巻70の「憲法本紀」に収録されていました。

 これは、伊勢神宮の内宮の別宮でありながら、経済支援がとどこおって困窮した伊雑宮(いざわのみや)の神職たちが、伊雑宮の権威を内宮同様に高める運動をしており、内宮の抗議を受けるという流れの中で、儒教・仏教・道教の三教一致説の影響を受けつつ伊雑宮を内宮より上位に位置づけた偽作文書の『先代旧事本紀大成経』がでっちあげられたものです。

 その伊雑宮の関係者(たち)は、偽作文書の引用文で満たした注釈を付し、『首書五憲法』という名で「聖徳太子五憲法」を延宝3年(1675)に木版で刊行します。さらに、『聖徳太子五憲法』を巻70に収録した『先代旧事本紀大成経』72巻が延宝7年(1679)に刊行されると大騒動になり、天和元年(1681)には幕府の命令で絶版とされて版木は焼かれ、関係者は流罪や所払いに処せられました。

 しかし、国学が広まるとまた注目を集め、特に仏教を攻撃した平田篤胤流の国学の影響で廃仏毀釈までおこなわれた幕末から明治初めの時期には、評価されて様々な版や註釈書が刊行されました(篤胤の神道理論は、実際には、仏教や道教に加え、漢訳されたキリシタン書の影響も受けています)。明治初年には、普通の「憲法十七条」より、この偽作の『聖徳太子五憲法』の注釈の方が数多く刊行されているほどです。

 神国日本を誇り、天皇崇拝のナショナリズムが高まった戦前・戦中時期には、「承詔必謹」を説く「憲法十七条」が重視されただけでなく、『聖徳太子五憲法』も一部の者たちが持ち上げ、アジア諸国を指導するための理論としようとしました。小倉はそうした傾向を警戒したのです。

 戦後になると、そのような動きはさすがにおさまっていました。ただ、信奉者は僅かながらいて関連本もが出されていましたが、平成の世になって、この『聖徳太子五憲法』を礼賛し、解説本を出した人物が出てきました。なんと、あの三波春夫です。

 親しかった永六輔が推薦し、瀬戸内寂聴も末尾に高く評価する解説を載せているのが、この本です。

三波春夫『聖徳太子憲法は生きている』
(小学館、1998年)



 明治後半から昭和初期にかけて最も人気があった芸能は、義理人情・忠君愛国の倫理と娯楽性・音楽性を巧みに結びつけた浪曲です。若き浪曲師としてスタートし、歌謡浪曲を得意とする演歌歌手に転じて大成功した三波は、実際には生真面目な人物であってかなりの読書家でした。

 有名な「お客様は神様です」という言葉にしても、客にこびて言っているのでなく、偉大な力を感じ、神前に手を合わせるような思いで歌っているという意味であるとこの本では述べており、当人の公式サイトにも説明があります(こちら)。

 この本では、三波は『大成経』を真作だとし、貴重な書物であるのに迫害を受けたと述べています。そして『大成経』を解明するために、永六輔と各地を旅したとして、聖徳太子や古代史についてあれこれ書いています。

 『聖徳太子五憲法』については、「今の社会に当てはまることが多く、現在の日本に大切なことばかりだったのです」(序)というのが三波の評価であり、「通蒙憲法」については全体を、他の憲法については要所を解説しています。

 ただ、善意と自分なりの責任感に基づいて生真面目に研究しているとはいえ、批判的な文献研究の訓練を受けておらず、どんな本や論文を読んでも、またどの土地を調査しても、自説に都合良く解釈する傾向から免れていません。

 つまり、漢文や古文の資料をきちんと読解する力、資料を文献学の立ち場で批判的に扱う力がないまま、玉石混交の歴史本や論文などを大量に読んであこれれ推測を重ねたあげく、「邪馬台国は、どこどこにあった! 私がついに発見した!」などという本を私家版で出す古代史マニアと同じようなことをやっているのです。

 それにしても、小学館はこういう本を出すなら、「本書はあくまでも著者の個人的な見解です。当社はその学問的な価値を保証するものではありません」などと記さないとまずいのでは……。

【追記:2021年6月3日】
末尾の文章を少しだけ変えました。
【追記:2021年11月26日】
『大成経』の成立に關ル説明の文章を少し訂正しました。

【追記:2023年11月10日】
この記事は、『大成経』や『五憲法』に関して調べ始めたばかりの頃に書いたため、古い説に基づいており、訂正すべき箇所がたくさんあります。たとえば、「その伊雑宮の関係者(たち)は、偽作文書の引用文で満たした注釈を付し、『首書五憲法』という名で「聖徳太子五憲法」を延宝3年(1675)に木版で刊行します」は誤りで、『首書五憲法』を著したのは、伊雑宮の直接の関係者ではなく、黄檗僧の潮音道海です。昨年あたりから『大成経』は『五憲法』を本格的に調べて論文や講演・学会発表などで扱うようになり、このブログでもいくつか記事を書いています(こちらや、こちら)。この問題は重要なので、新しくコーナーを作るようにします。


聖徳太子・山背大兄王と周辺の近親結婚:荒木敏夫『古代天皇家の婚姻戦略』

2021年05月28日 | 論文・研究書紹介
 聖徳太子周辺の近親結婚については、このブログでも記事を書いたつもりになっていましたが、検索したら見当たりませんでした。拙著を刊行した翌年に学内の講演会で話しただけのようです(こちら)。

 そこでは、太子の前後の時代は皇族の近親結婚が多いことに触れ、山本一也氏の論文、「日本古代の近親婚と皇位継承ー異母兄弟婚を素材としてー(下)」(『古代文化』53巻9号、2001年9月)を紹介しておきました。

 山本氏は、直系相続がまだ確立しておらず、皇位継承制度が未成熟であった時期において、皇子の異母兄弟婚が目立つとし、天皇の娘と結婚していることが天皇候補者となるための一つの重要な要素だった面もあるとします。

 そして、『日本書紀』で「大兄」と呼ばれている人々のうち、天皇の皇子でない唯一の存在でありながら天皇になりたがっていた山背大兄王が、腹違いの妹、つまり聖徳太子の娘と結婚していたことは、皇子・皇女でない異母兄弟婚の唯一の例として注目すべきことであり、これは「厩戸皇子の政治的立ち場の問題に関わるものかもしれない」(15頁右)と述べています。つまり、厩戸皇子が天皇に準ずる存在とされていた可能性を示す、ということですね。

 私がこの講演をおこなったのは、2017年だったのですから、近親婚について触れるなら、山本氏の論文の後に出た本にも触れるべきでした。それは、

荒木敏夫『古代天皇家の婚姻戦略』
(吉川弘文館、2013年)

です。

 古代における皇太子の研究で知られる荒木氏は、異母兄弟姉妹婚に加え、山本氏が考慮すべきだと説いていた皇族の「オバーオイ」「オジーメイ」婚についても検討し、そうした皇族女性は独自の家産を持っていたことを推測しています。氏が検討したのは、以下の例です。

 異母兄弟姉妹婚の例
敏達天皇 = 推古天皇
用明天皇 = 穴穂部間人皇女
山背大兄 = 舂米女王

 「オバーオイ」婚の例は、
蘇我石寸名 = 用明天皇
穴穂部間人皇女(厩戸母) = 田目皇子(用明天皇の長子)
田眼皇女(敏達・推古天皇の皇女) = 舒明天皇
佐富女王(間人皇女・田目皇子の子) = 長谷皇子(厩戸の子)

 「オジーメイ」婚の例は、
厩戸皇子 = 橘大郎女(推古天皇の孫娘)
舒明天皇 = 宝皇女(皇極天皇)
孝徳天皇 = 間人皇女(厩戸の母とは別人)

いかがでしょう。天皇の皇子でなく、敏達天皇の孫であった田村皇子(舒明天皇)は敏達天皇と推古天皇の間に生まれた田眼皇女と結婚してますが、田眼皇女は田村皇子よりかなりの年上なのですから、天皇候補としての資格を得るための政略結婚のように見えますね。

 敏達天皇・推古天皇の皇女である菟道貝蛸皇女と結婚していた厩戸皇子が、晩年になって叔母にあたる推古天皇の孫娘であってかなり年下の橘大郎女と結婚したのは、菟道貝蛸皇女が亡くなっていたためとする説もあります。

 後に舒明天皇が天皇の皇女や孫娘でなく、敏達天皇の孫の娘である宝皇女を后としたのは、田眼皇女が亡くなっていて、少しでも皇族の血を引く女性と結婚しておく必要があったためかもしれません。

 さて、荒木氏は、当時は大王宮の近くに「キサキノミヤ」もあって個別の財産を背景としていたとし、『日本書紀』における山背大兄一家の滅亡も、そうした文脈で眺めます。つまり、蘇我蝦夷が自分自身と息子の入鹿のために壮大な寿墓を建設した際、上宮の乳部(みぶ=壬生)の民を動員したため、君でもないのに国政を我がものとしていると「上宮大娘姫王」が怒り、これが蘇我氏に滅ぼされるきっかけだったという記事に着目するのです。

 そして、厩戸皇子の後継者である山背大兄王ではなく、山背大兄王と異母兄弟結婚をしていた舂米女王と思われる「上宮大娘郎女」が怒ったことから見て、この「上宮大娘郎女」が上宮の乳部の民を駆使する権利を持っていたのであって、厩戸皇子の後継者である山背大兄とともに斑鳩宮に住んでいたとしても、独自の家産を有する宮を営んでいたと推測します。

 荒木氏は、皇位を争った山背大兄と田村皇子(舒明天皇)のうち、田村皇子は蘇我蝦夷の娘と婚姻関係にありつつ皇族と「オジーメイ」婚をしていることに注意しています。この二重の条件が天皇後継者として有利に働いたのであって、蝦夷の娘をめとっていない山背大兄は不利になったのでしょう。

 ただ、厩戸皇子が天皇に準ずる存在とされていたなら、山背大兄がその厩戸皇子の娘(自分とは腹違いの妹)と結婚していることは、後継候補としての資格を補強するものとなりえます。蝦夷が独断で娘婿である田村皇子を天皇としたというのは、山背大兄がなって当然とする群臣が多かったことを示しています。

 ここは『日本書紀』としては、書くのが難しいところですね。『日本書紀』編纂当時の天皇たちの父方である天智天皇も天武天皇も舒明天皇の子であるのに、その舒明天皇を即位させてくれた蘇我蝦夷を、皇室を軽んじる悪人に仕立てなければいけないので。

 『日本書紀』については、山背大兄王の即位失敗と滅亡事件、大化の改新、壬申の乱が、虚構を含む舞文曲筆をもたらした要因であり、厩戸皇子関連の記事もその流れの中で見ていく必要がありそうです。厩戸皇子関連記事については、『日本書紀』編集以前に既に伝記本があってそれを利用したのだという坂本太郎説に賛成ですが。

【追記:2021年5月29日】
最後の段落を追記しました。

「法王」は地位でなく、『日本書紀』では日本仏法の最初は蘇我馬子:兼子恵順「初期太子観の形態について」

2021年05月25日 | 論文・研究書紹介
 このブログは、「聖徳太子研究の最前線」と名乗っているため、ここ数年から10年以内くらいの最新の研究成果を主に紹介しています。ただ、最近の論文やネット記事を見ていると、ずっと前に、時には数十年も前に指摘されていることを知らずに同じ誤りを繰り返し述べている例が目につきます。

 花山信勝・望月一憲・渡部孝順・金治勇などのように、聖徳太子を崇拝して生涯をその研究に捧げるようなタイプの学者がいなくなった現在、聖徳太子や法隆寺に関わる史学・仏教学・美術史・建築史・考古学などの諸分野の論文を最も幅広く読んでいるのは、熱烈礼賛派でも完全否定志向派でもなく、距離を置いたうえで客観的に検討しようとしている私でないかと思います。このブログでも200以上の論文や本を紹介してきました。

 ただ、その私にしても、太子研究だけを専門としているわけではなく、アジア諸国の仏教と文化を中心としてあれこれやっており(こちら)、雑多なことに首をつっこんでいるからこそ聖徳太子関連で気づく場合もしばしばあるものの、様々な分野にわたる太子関連研究の状況を完璧に把握するなどというのは、まったく不可能です。

 読んでいるのは数多い論文や本の一部にすぎないうえ、読んだ場合でも内容を完全に忘れてしまった論文や、うろ覚えしてはいるもののコピーが紛失していて見当たらない論文などもたくさんあります。そうした中には、重要な事実を指摘していたり、興味深い見方を提示していたりするものがかなりあるのです。

 今回はそうした一例として、先の記事で取り上げたように(こちら)、古市晃氏が没後の呼称と決めつけていた仏教系の名号に関する論文を紹介します。なんと、40年以上前に発表された、

兼子恵順「初期太子観の形態についてー「法皇」「法王」に関する田村圓澄氏説の検討ー」
(『仏教史研究』14号、1980年11月)

です。

 兼子氏は、「厩戸王」と「聖徳太子」の語を使い分け、聖徳太子研究に大きな影響を与えた田村圓澄氏が、「法皇」や「法王」などは太子没後しばらくして神格化が進んでからの呼称であって、太子を「日本の釈迦」とみなしたものだと説いていることに異論を唱えています。

 田村氏のそうした見方は、親鸞の和讃の「和国の教主、聖徳皇」などに引きずられたものですね。「法王」は確かに釈尊を意味することが多いのですが、アショカ王を描いた『阿育王経』では、多くの塔を建立して「仏法を守護」した阿育王のことを、世間の人が「法王」と称したと記されています。そうした用法もかなりあると兼子氏は指摘するのです。

 そして、『日本書紀』にしても『法王帝説』にしても、太子を日本の釈迦、日本仏教の開祖のような存在として描いておらず、推古天皇のもとで馬子とともに仏法興隆に努めた存在として位置づけているとします。そして、『日本書紀』の敏達13年条では、「馬子宿爾、亦た石川の宅において、仏殿を修治す。仏法の初め、これより作(おこ)る」と記しており、太子ではなく馬子を日本仏法の最初と明記していることに注意をうながします。

 この記述などは、馬子を賞賛した伝記が既に書かれていてそれを利用したかと思われる箇所ですね。「横暴な豪族馬子 対 皇室の権威を守る聖徳太子」といった戦前風な図式では説明がつかないところです。

 このブログでも再々書いてきたように、六世紀後半から七世紀の初めにかけては蘇我氏の時代であって、蘇我稲目の血を引いていない天皇(大王)は出ていないうえ、聖徳太子は父方も母方も蘇我氏の血を引いている初めての天皇候補者でした。しかも、蘇我馬子の娘を妃としており、馬子から見れば太子は義理の息子です。

 兼子氏は、「法皇」については「仏教界における天皇」と見る説があることに触れたうえで、「四天皇寺」といった表記が示すように、「王」と「皇」は通用する場合が多いとします。

 ただ、釈迦三尊像銘では、太子を「法皇」としつつその妻子を「王后」「王子」と呼んでいるため、特別な用法である可能性も検討する余地はあると認めています。なお、兼子氏は、釈迦三尊像銘については、金堂再建時に国家の支援を得るためと見ていますので、成立は天武朝から持統朝頃と考えています。

 さらに氏は、太子の病気に際して誓願された法隆寺金堂の釈迦三尊像銘では、釈迦の像を造ることによって太子の病気が治ることを願っており、太子は釈迦のような威力ある存在とされていないことに注意します。

 釈迦三尊像銘の成立時期以外は、いずれも穏当な見解ですね。三尊像銘では「上宮法皇」とありますが、そのすぐ後に「尺寸王身」とあって「王」の字を用いていますし、「法主王」については、先のブログ記事で、中国では講経に巧みで担当する人、責任者を「法主」と称する事例を紹介し、そうした「法主」である「王(みこ)」という意味であることを論じました(こちら)。「法王」も同じような意味でしょう。

 『日本書紀』敏達紀が「東宮聖徳」と称しているうち、「東宮(皇太子)」は地位ですが、「法王」「法皇」「法主王」などは地位を示す語でなく尊んだ呼び方であることは、用明紀が「廐戸皇子。更名豊耳聡聖徳。或名豊聡耳法大王。或云法主王」と記し、異称として扱っていることからも明らかです。「法大王」の「大王」にしても、当時は上位の皇族を指して呼ぶ場合がしばしば見られます。

 また、中国の史書や漢訳経典を見れば、皇帝のことを尊重して「聖皇」などと呼んでいる例を良く見かけますが、これは聖人である皇帝、聖人のような素晴らしい皇帝という意味での尊敬した呼び方であって、「聖皇」という地位についていたわけではありません。

 「法皇」「法王」「法主王」などの称号を、ローマ法皇の「法皇」のような特別な地位とみなしたうえで、太子はそうした地位にあったとか、そんな地位に就任したはずがないからこうした呼称は後代に生まれたものだなどと論じるのは、そろそろやめにしてほしいですね。

 なお、中国の北朝では「皇帝=如来」とされた時期もありましたし、南朝では梁の武帝以来、「菩薩天子」の伝統が続きました。南アジアや東南アジアでは、deva-rāja(神王)、すなわち、ヒンドゥー教の神と同一視された国王 はたくさん出ていますし、カンボジアやベトナム中部のチャンパのように仏教も広まっていた地域では、密教系の観音を崇拝し、そうした観音と同一視された国王も出ています。国王ないしその後継者が生前からそうした見方をされたり、そのような表現でたたえられても不思議はありません。

 太子がこの先、何度か生まれ代わったのちに釈迦のような仏となる存在と見なしている法隆寺釈迦三尊像銘の場合、「法皇」は、説法に巧みなことで有名な「天皇に準ずる」存在のことであり、湯岡碑文の「我法王大王」は、「我が」で親しみを示し、『維摩経』が説く奇跡を起こす「法王(釈尊)」のような存在と誇張して称えている(こちら)、というあたりが実際のところでしょう。 

【追記:2021年5月26日】
釈迦三尊像銘が「法皇」「王身」と記しているのは、「法皇」が「ほうこう」でなく「ほうおう」と呉音で訓まれていたためでしょう。律令制で定められた「皇后」「皇太子」などは「こうごう」「こうたいし」であって「皇」は漢音の「こう」で訓まれているため、「てんのう(おう)」と呉音で訓まれる「天皇」の語は律令制以前に成立していたとする森田悌氏の『推古朝と聖徳太子』 (岩田書院、二〇〇五年)などの指摘を考慮すべきですね。

「憲法十七条」ならぬ、「へそ曲がり」な萩谷朴の「学問をする者の心構え十七条」

2021年05月21日 | その他
 「憲法十七条」については、立派な文章だと賞賛する人が多かったのですが、そう言えるのは、典拠となった中国古典などを抜き出した部分だけです。森博達さんは、実際には変格語法が目立つとして、十七条に合わせて17の和習の箇所を指摘した論文を発表したりしました。
 
 とにかく、正確に読むことが第一ですが、国文学研究を素材としつつ文献を扱うすべての学問にあてはまる17条を提唱しているのが、

萩谷朴『本文解釈学』「第一部 緒論 学問をする者の心構え十七条」
(河出書房新社、1994年)

です。

 萩谷朴(1917 -2009)氏は、平安文学を専門とする著名な国文学者であって、私の進路を変えさせた1人です。私は高校の終り頃から、浪人時代、大学入りたての頃にかけて、いろいろな分野に手を出してましたが、かなり打ち込んでいた一つが平安文学、とりわけ『紫式部日記』の研究であって、素人なりに論文を書いたりしていました。

 ところが、1971年に氏の『紫式部日記全注釈』上巻が刊行されたのです。『紫式部日記』は薄い作品ですが、氏の注釈は上巻だけで522頁もあって異様に詳しい考証がなされており、私が発見したと自負していたことがかなり書かれていました。

 しかも、氏は早くから研究を始めていたものの、東大国文科での師であって『源氏物語』研究の権威であった池田亀鑑も『紫式部日記』研究に取り組んでいたため、師が亡くなるまでは平安文学に関する師の広範な仕事をひたすら手伝うのみで、自らは『紫式部日記』に関する論文を発表しなかった由。

 そうした鬱憤をかかえながら長年原稿を書きためていて、この調子でぶ厚い下巻を出すのか思うと、『紫式部日記』の研究を続ける気力が薄れました。ただ、既に仏教書も読み始めていた身からすると、仏教面の解釈はまだ不十分に思われました。

 早稲田大学の文学部に入学していて、3年次に進むにあたって専攻を選ぶ際、既にある程度読んでいた国文学や東洋近代史などではなく、手をつけ始め始めてはいたものの苦手な仏教や儒教を基礎教養として学んでおこうと思い、東洋哲学専修を選んだのは、それも一因となっています(学問回顧は、こちら)。私も数十年たって仏教がらみで『紫式部日記』論文を書きましたが。

 その荻谷氏は、かなりの頑固者、変わり者だったようで、自らも「へそ曲がり」を自認していました。ただ、氏があげた17条は、聖徳太子研究にもよく当てはまりますので、紹介しておきます。氏が提唱する個々の条目はかなり長いため、直接の引用は「 」で示し、それ以外は略抄した形で示します。

1.「学問とは、解釈の実践とその方法論の追求とである」

2.解釈の基礎となる観察と好奇心が大事

3.「経験は疑問に答え、疑問は経験を素早くキャッチする」

4.「解釈には常識の涵養が肝要」

5.雑務が大事。「時は命なり」

6.「目的と手段とを顛倒すべからず」

7.徒弟制度は問題。「自分のことは自分で」「他人の所為にするな」

8.徒弟制度の良い面を活用せよ

9.共同研究が大事。「学問間の交流をこそ」

10.「自他の所説の区分を明確にせよ。思考のプロセスを明らかにする為に。まして他人の諸説を歪めて引用」してはならぬ。

11.「剽窃・盗用は論外。孫引きも学究としての資格放棄」

12.当面の研究課題以外の不純な目的をまぜるべからず

13.「他説を否定し、それに替えて新たに自説を提示しようとする時には、他説を否定するのに用いた証拠・論理を先ず自説に適用して、その当否を験試し、猶且つ、他説の論旨を可能な限り弁護して然る後に、肯定否定の態度を決すべし。……他人のふり見て我がふり直せ」

14.「初心忘れるべからず。……常に、前人未踏の処女地に足を踏み入れるパイオニア精神を忘れるな。正論は常に少数意見に始まる」

15.独自の結論をだしたら、「先人の業績を参看して、自説を厳密に反省吟味せよ。自信が過信であってはならぬ」

16.「即戦即決。……明日ありと思うな」

17.本質と現象、演繹と帰納、普遍と特殊、総合と分析、全体と個体その他「一見両極に位置するものの帰一するところに真理あり。……学問の目的は、要するに自己の人間形成にある」

以上です。偏執狂的とすら思われる追求をする萩谷氏だけに、この17条の説明だけで94頁あり、細かな考証やら批判やら回想やら提言やらが詰め込まれています。いつ死ぬか分からない戦時下の学徒として名を残しておきたいと焦って論文を発表したところ、すぐ誤りを指摘されて「萩谷一代の不覚」となり、「不純な動機の挟雑が、そのまま論者本人に不名誉な恥辱となって撥ね返って来」たという失敗論文についても率直に書かれています。

 そうした反省に基づいて得られた上記17条の姿勢を心がけるようになった萩谷氏は、『紫式部の蛇足 貫之の勇み足』 (新潮選書、 2000年)では、なぜ『紫式部日記』や『土佐日記』のそうした文が書かれたかについて、諸説を批判的に検討し、紫式部や紀貫之当時の状況、また彼らの心理にまで踏み込んで説明しており、原文の語を現代語に置き換えるだけでは解釈にならないという実例を示しています。

 13条などは、耳が痛いですね。また11条の「孫引き」はやってしまいがちですが、原文全体は無理でも、少なくともその原文の前後の文章を読んで確かめておかないと、自説に都合の良い引用をしがちです。

 あと怖いのは、上記の17条のうちの複数の条目とからみますが、自分が政治的・道徳的な正義の立ち場に立っていると思い込むと、そうでないと思われた相手の説や相手自身を論証不足のまま非難攻撃しておりながら、自分は正しいことをしていている(してやっている)と思いがちなことですね。こうした事態はネットの書き込みにはよく見られますが、聖徳太子研究でも状況は同様ですし、私自身もやっているので反省……。

 とにかく、漢文であれ和文であれ、古典や資料を時代背景に注意しつつ正確に読むというのは、文系の学問の基本です。私自身、大学院生たちの研究誌に巻頭言を頼まれたため、「笑い」という語とやや見下した感じがある「お笑い」の語のニュアンスの違い、「お笑いタレント」と「お笑い芸人」の違いがどうして生まれたかなどについて歴史的に考察し、仏教文献を読む際もそうした微妙な点に注意すべきだと論じておきました(「お笑い芸人」という言葉を広めたのは、浅草出身のひねくれ芸人だったビートたけしです)。

 仏教の方面では、「微笑」という言葉は漢訳経典が仏について用いることによって広まったのですが、仏像の表情は国や時代によって異なる以上、この語が見える仏教文献を読んでいてそれぞれの人が思い描く「微笑」は異なる云々と述べ、仏教文獻をそんな風に注意して読んでいるかとお説教の形にしたのです。その雑誌は、つい先日、刊行されましたので、その文章をresearchmapにあげておきました(こちら)。

 もっとも、院生たちは、「公成先生は、ものまね芸の歴史の本や言葉遊びの論文書いたり、日本笑い史年表を作ったりするほどの芸能好き、笑い好きであって、その方面で書きたくてたまらないため、無理やり仏教学に結びつけたな」と見抜くでしょう。そのように背景を読む重要さを知らせるために書いたのです(などと言い訳……)。

【追記:2021年5月23日】
冒頭で「憲法十七条」は和習に満ちていることに触れましたが、これは価値がないという意味ではありません。中国思想には見られない独自な部分の多くは、そうした文体で書かれています。これは、日本語で思索することの試行錯誤と見ることもできます。ただ、そうして示された思想が、現代において手本と出来るものかどうかは、また別な話です。

古代史学の主流派による最新の聖徳太子説は馬子につぐ活動をした天皇候補:佐藤信『列島の古代』

2021年05月19日 | 論文・研究書紹介
 「厩戸王」という語を使っているからといって、最近の学界では支持者が皆無に近い大山誠一氏の太子虚構説を支持しているとは限らないということが、一般読者には理解できていないようですが、そのような実例の最新のものを紹介しておきましょう。

佐藤信『列島の古代』「三 飛鳥の朝廷」
(『日本古代の歴史6 列島の古代』、吉川弘文館、2019年)

です。

 佐藤氏は、聖徳太子を尊崇してその意義を強調する古代史パラダイムを打ち立てた黒板勝美・坂本太郎、そして客観的に見ようとした井上光貞などが活躍した東京大学の文学部や大学院で日本古代史を教えてきた主流派です。高校の日本史教科書中で圧倒的なシェアを誇り、「厩戸王(聖徳太子)」という表記を用いていることで知られる山川出版社の『詳説日本史B(改訂版)』にも編者として関わっています。

 その佐藤氏の最新の著作が、上記の本であって、「飛鳥の朝廷」の章の冒頭となる「1 飛鳥の宮々」では、馬子の活動に触れたのち、次のように書かれています。

この推古天皇の時代には、国際的緊張を背景に、大臣の蘇我馬子を中心に、推古の甥の厩戸王[うまやどおう](聖徳太子)も力を合わせて、国家組織の形成が進められた。六〇三年には冠位十二階、翌六〇四年には憲法十七条が定められたという。……ともに、王権のもとに官司制の政治機構が形成されることに対応している。(52-53頁)

以上です。

 「厩戸王」の語を用いるなら、せめて「うまやとのみこ」という訓にしてほしかったですが、「うまやどおう」となってますね。それはともかく、冠位十二階も「憲法十七条」も、馬子が主導して厩戸王が助力したような書き方になってます。つまり、聖徳太子主導説を否定しており、「皇太子」という言葉は用いていないものの、馬子につぐ権勢の持ち主として描いています。

 佐藤氏は、これに続けて外交などについても概説したのち、宮の説明に移り、皇子宮については、次のように書きます。

推古天皇の時代に、天皇の甥で有力な皇位継承候補であった厩戸王(奈良時代には「聖徳太子」として神格化される)は、飛鳥から西北に二〇キロほど離れた斑鳩の地に皇子宮(みこみや)である斑鳩宮を営んで、そこから斜行する太子道を使って飛鳥の大王宮に通ったのであった。……斑鳩寺宮と斑鳩寺(若草伽藍)は、仏法を信仰する厩戸王によって一体として営まれたのであった。斑鳩宮は、もし厩戸王が即位したならば、大王宮になったことと思われる。(55頁)

いかがでしょう。「厩戸王」の語は用いているものの、国政に関与する力のないぱっとしない王族にすぎなかったとする大山説とは大変な違いです。

 佐藤氏は、沖森卓也・佐藤信・矢嶋泉『上宮聖徳法王帝説:注釈と研究』の仏教関係の注釈には不適切なものが目立つことが示すように、仏教についても詳しく研究されていた井上光貞氏の学風は継いでおらず、仏教関連の事柄について自らの説を示すことはできないためか、「憲法十七条」の仏教尊重の立ち場、あるいは三経義疏の真偽などについては触れられていません。

 それはそれで見識ですが、物部守屋と蘇我馬子の争いについては、仏教受容の是非だけが問題点ではなかったらしいと述べた箇所で、「近年は、物部氏の地盤の地にも寺院遺跡がみつかり、物部氏が仏教排除一辺倒ではなかった可能性も指摘されるようになった」(57頁)という箇所は、適切でないですね。このブログで書いたように、「~指摘されていたが、近年は物部氏が建てた寺ではないことが明らかになっている」とすべきところです(こちら)。

 さらに驚くのは、次の記述です。

この蘇我・物部戦争(「丁未の乱」)は、五八七年に、蘇我馬子が、厩戸王の活躍もあって、激戦のすえ物部守屋を河内国渋川郡の居館に滅ぼして決着した。(58頁)

これだと、『日本書紀』に見える守屋合戦の場面が説くような太子のはなばなしい活躍を認めないまでも、太子がかなり重要な役割を果たしたように見えます。

 しかし、『日本書紀』の守屋合戦の記事では、14歳の太子は、有力な皇子たちの三番目に記され、それも軍勢の最後に従っていたと書かれているだけです。穏健派としては、行き過ぎではないでしょうかね。ありうるとしたら、太子の配下の軍勢がそれなりの働きをしたあたりでしょう。斑鳩寺のすぐ西の平隆寺は平群臣神手が発願した寺と伝えられ、『日本書紀』では馬子・太子の側の軍勢の中に神手の名が見えており、『上宮聖徳太子伝補闕記』では、神手は厩戸皇子の近臣とされています。

 私は、太子については周辺では釈尊に近い存在として尊崇されており、生前から神格化が始まっていたと考えていますが、守屋合戦での太子の働きぶりの記述は、四天王寺お得意の太子伝説と見ています。

 ただ、古代の東アジア諸国にあっては仏教の誓願は威力ある最新技術であって、古代日本では大勢でやるほど威力がますと考えられていたようであるため(この問題については、いくつも論文を書いてます)、拙著の『聖徳太子ー実像と伝説の間ー』では、太子が仏教信者である馬子やその他の者たちとともに戦勝を願って仏教式の誓願をしたとしても不思議はないと述べましたが、「活躍」したなどとは書きませんでした。

 という状況であって、佐藤氏は全体的には『法王帝説』が記していたような太子・馬子共同補弼説を穏健にしたような立ち場に戻ったという感じです。

【追記:2021年5月21日】
太子自身の大活躍ではないとしても、太子の近臣の軍勢が重要な役割を果たした程度であれば考えられるとする部分を付け加えました。

聖徳太子が出会った片岡山の飢人が禅宗の達摩とされた理由:伊吹敦「聖徳太子慧思後身説の変化とその意味」

2021年05月17日 | 聖徳太子信仰の歴史
 前回の記事では、「片岡山の飢人伝承」に関するシンポジウム(こちら)に参加していた平田政彦氏の論文を紹介しました。太子が片岡山で出会ったという飢人については、実は禅宗の開祖である菩提達摩(Bodhidharma)だという説が後に生まれますので、その点に関する最近の論文を紹介しておきましょう。

 なお、その飢人の墓を寺にしたとされる達磨寺の名が示すように、一般には「達磨」という表記が広く使われていますが、この表記は、中国で唐代後半あたりから見えるようになり、伝説化が進んだ宋代に広まったものであって、中国でも日本でも、早い文献では「達摩」と記しています。

 このため、禅宗史研究では、実在人物ないし禅宗史の初期の伝承に見えるインド僧については「達摩」と記し、唐代以後になって伝説化された禅宗開祖は「達磨」と表記する習慣になっています。 

 さて、聖徳太子に関する伝説のうち、初期で重要なのは、天台宗の開祖とされる天台智顗の師、南岳慧思(515-577)が転生して日本の王家に生まれたのが太子だとする慧思後身説です。この伝説については、多くの論文が書かれていますが、研究をさらに深め、「飢人=達摩」伝説の成立過程の解明に取り組んだのが、

伊吹敦「聖徳太子慧思後身説の変化とその意味」
(『東洋学研究』52号、2015年)

です。私の大学の後輩である伊吹さんは、若い頃は朝から晩まで敦煌写本中の禅宗文献を眺めており、写本の破片を見ると、某国の某図書館が所蔵する某破片がこの破片に接続する片割れだと分かるといった、すさまじい敦煌写本オタクでした。現在は、世界でも有名な禅宗史研究者です。

 その伊吹さんが、この数年、聖徳太子研究についてもかなりの数の論文を書くようになっています。これは、片岡山で太子が出会った飢人は達摩だとする伝説の成立時期が、日本で禅宗のことが知られるようになった時期はいつかという問題と関わるからです。

 上記の論文によれば、この伝説の展開順序は以下の通りです。

 鑑真(688-763)は受戒師として日本に招かれ、754年に弟子の思託ら(生没年不明)とともに来日したものの、彼らは戒律以上に天台宗の布教を目的としており、思託は鑑真没後に、慧思が六代にわたって転生したという伝承を利用し、七度めには日本の王家に生まれたのであって、それが聖徳太子だとする説を広めた。

 唐から渡来した北宗禅の僧である道璿に師事していた大安寺の敬明は、『慧思七代記』を編集する際、慧思後身説を採用しつつも、天台宗に対する禅宗の優位を説くため、慧思を超える聖者として菩提達摩を登場させ、慧思が日本に転生したのは達摩の指示によるものだったと主張した。

 『慧思七代記』に接した鑑真門下は、その内容を否定するため、『延暦僧録』「上宮太子菩薩伝」では六代転生説を改めて三代説とし、それを示す碑文が中国にあると主張した。

 しかし、『慧思七代記』は魅力的であったため、明一の『異本上宮太子伝』その他に取り込まれて広まり、『異本上宮太子伝』は、最澄にも影響を与えた。

 平安時代に歴史の考察が進むと、慧思は聖徳太子が生まれた後になって亡くなっていることが明らかになり、太子の前世を、慧思以外の南岳の僧に求めるようになった。

 ただ、天台教義を柱としつつ、北宗禅の系譜も受け継いでいて、禅や大乗戒や密教なども含む総合的な天台教学を構築しようとしていた最澄が固執したのは、達摩が登場する『慧思七代記』だった。

 こうした状況のため、慧思後身説は次第に消えていった。

以上です。

 伊吹さんはこの論文では触れていませんが、現存資料で見る限り、最も早い時期に「聖徳太子」の語を用いたのは、思託と親しくしていて思託が提供した資料に基づいて鑑真の伝記を書いた淡海三船(722-785)であり、三船は慧思後身説を強調しつつ「聖徳太子」の語を用いていたことは、私が昨年出た講演録で詳しく説明しておきました(こちら)。つまり、聖徳太子という呼称は、太子の慧思後身説と結びついていたのです。

 還俗僧であって大学頭となり、奈良時代中期から後期にかけて文人の筆頭と称された三船は、歴代の天皇の漢字諡號を定めたとされる人物ですので、太子研究にとってはきわめて重要な存在です。

 三船が聖徳太子を尊崇したのは、太子が三船と同様、在俗の居士だったからというのも一因ですね。三船は、還俗して居士となって活躍した新羅の元暁(617 - 686)を敬愛しており、その孫が外交使節として日本に来た際は、大歓迎しており、その孫は帰国すると三船の礼賛の言葉を刻んだ元暁の碑を建てています。

 この元暁の著作と唐・新羅の華厳宗の文献の影響を受けて、龍樹作と称する『釈摩訶衍論』が新羅で作られ、日本に持ち込まれた際、偽作だとして厳しく批判したのが、仏教の素養に富んでいた三船でした。最澄なども偽作としています。ところが、空海は何も言わず、顕教と密教を区別する重要な論拠としてこの『釈摩訶衍論』を用いました。その空海について、聖徳太子の生まれ代わりとする説が中世に生まれるのですから、歴史は面白いものです。

聖徳太子が亡くなった飽波葦牆宮の旧跡に建てられた飽波宮:平田政彦「称徳朝飽波宮の所在地に関する考察」

2021年05月14日 | 論文・研究書紹介
 前回の記事では、伊予の温泉から帰ってきた舒明天皇が仮住まいした厩坂宮は、斑鳩宮に移る前に厩戸皇子が住み、その名の由来となった厩坂の宮を改修したものだろうとする古市晃氏の説を取り上げました(こちら)。

 この説については文献の扱いについて批判が多かったのですが、厩戸皇子が晩年に住んでいた宮について、発掘による考古学的な調査に基づいて論じた研究があります。先に紹介した聖徳太子シンポジウム(こちら)に参加していた平田政彦氏の論文です。

 26年も前のものですが、以後は継続しておこなわれている発掘調査に関する簡単な報告しか発表されておらず、基本的な考え方は変化していないようですので、紹介しておきます。

平田政彦「称徳朝飽波宮の所在地に関する考察ー斑鳩町上宮遺跡の発掘調査からー」
(『歴史研究』33号、1995年)

です。

 上宮(かみや)遺跡は、法隆寺の東南方向に約1.2キロ行ったあたりの遺跡で、古墳時代から江戸時代に至る遺物が出ているところです。平田氏は、「カミヤ」は、おそらく「カミツミヤ」がつづまったものであり、かつての地名も「大字法隆寺 字上宮」となっていることが示すように、聖徳太子と関係が深い土地であったとします。平田論文がかかげている下の図を見ると、そのことがよくわかります。



 この図の斜め左上が法隆寺です。駒塚古墳は、先のシンポジウムで平田氏が語っていた太子の愛馬を埋葬したという伝承がある古墳、その右下が、その愛馬を世話して太子にお仕えしたという伝承が後に生まれた調子丸の墓と伝えられる調子丸古墳です。

 このあたりは、中世になって太子の神格化の動きの中で強調されるようになった伝承の世界ですが、問題は図のうち、上宮遺跡とその左下に位置する成福寺であって、ここは太子が子を八人も生んだ愛妃の膳菩岐岐美郎女とともに過ごし、ともに病気となって1日違いで亡くなった「飽波葦牆宮」(『大安寺伽藍縁起』)の旧跡に建てられたとする伝承を持つ寺です。

 平田氏は、称徳天皇が飽波宮に行幸した際、法隆寺のたちに賞を与えていることから見て、上宮遺跡は称徳天皇の行宮であった飽波宮だと推測し、その発掘調査の結果を報告したのち、成福寺の飽波葦牆宮の伝承について検討していきます。

 まず、この土地で発見された柱穴は、奈良時代の上宮遺跡の遺構と違い、北から西に20度触れており、これは斑鳩宮や斑鳩寺と同じであって、古い土器も発掘されており、しかも焼けた跡も発見されていると述べます。

 そこで平田氏は、太子と妃とその子たちが住んでいた飽波葦牆宮は、太子と妃が亡くなった後、子の長谷王によって管理がなされていたと見ます。そして、蘇我氏の一員でありながら山背大兄の天皇即位を支持して蘇我蝦夷と対立した境部摩理勢は、飛鳥を離れて斑鳩の「泊瀬王宮」に移り住んだものの、泊瀬王が亡くなると蝦夷の攻撃を受けて自殺したと『日本書紀』にあるのは、この長谷王の飽波葦牆宮だったと推測するのです。

 また、蘇我入鹿の軍勢が斑鳩を襲って斑鳩宮が焼失した際、その玄関となる飽波葦牆宮も燃やされたのであって、それがこの焼け跡だろうと氏は説きます。

 氏は、以上については文字資料が出ていないため、「考古学サイドからは断定できず、推定の域を出ない」(26頁)としつつも、「近い将来必ず明らかになるものと信じ」ると述べて終わってます。これは発掘調査によって飛鳥時代から奈良時代の遺構・遺品を多数目にしたうえでの発言ですので重みがあります。

【追記】
平田氏の名を誤記してましたので、訂正しました。

法大王・法主王・上宮・豊聡耳・厩戸など聖徳太子の名号に関する論証不足の説:古市晃「聖徳太子の名号と王宮ー上宮・豊聡耳・厩戸ー」

2021年05月11日 | 論文・研究書紹介
 前々回の記事では、河合敦氏が聖徳太子の研究状況について概説する際、その種々の名号について論じた古市晃氏の論文を引用して紹介していることに触れました(こちら)。

 河合氏は、古市氏の「聖徳太子の名号と王宮」(『日本歴史』第768巻、2012年5月)を取り上げ、「上宮は生前の太子に対して冠せられる名号」ではなく、「太子の逝去を契機として、太子とその遺族に対する一種の名号」であり、「豊聡耳は聡敏な人を指す名号一般と理解せざるを得ず、それ以上の意味を求めることは、現状では困難」であって、生前の個人名としては「厩戸」が用いられていた可能性が高いいとする古市氏の説を紹介しています。

 これに続く後半の論調から見て、河合氏は、「聖徳太子」や「上宮」は太子没後の呼称であり、「豊聡耳」も一般的な名称であって個人名ではないのに対し、「厩戸」は太子の宮が置かれた厩坂の地名に基づくものであって生前の名であるとする古市氏説を評価しているように思われます。

 しかし、この古市説については、先の記事で「学界では賛同者は見かけないように思います」と書いたように、批判が目立つのです。たとえば、渡里恒信氏は、「上宮と厩戸ー古市晃氏の新説へ疑問と私見ー」(『古代史の研究』第18号、2013年3月)という論文を書き、「氏の史料批判・分析の仕方」そのものを批判しています。この論文については、かつてこのブログで紹介しました(こちら)。

 今回は、こうした批判を受けてその後、補訂されているかと思い、『日本歴史』所載の論文ではなく、最新の古市氏の著書の該当部分を取り上げて検討してみることにします。

古市晃『国家形成期の王宮と地域社会ー記紀・風土記の再解釈ー』(塙書房、2019年)の「第九章 聖徳太子の名号と王宮ー上宮・豊聡耳・厩戸ー」

です。

 古市氏は「はじめに」の3行目で、

また「法大王」「法主王(『上宮聖徳法王帝説』、『日本書紀』用明元年(五八六)正月壬子朔条)などの仏教に基づく名号が、太子が仏教興隆策を主導したとする伝承にちなんだ没後の名号であることは疑いない。(295頁)

と断言しています。仏教系の名号が生前に用いられていなかったことについては、「没後の名号であることは疑いない」の一言で終りであって、以後も論証していません。

 むろん、没後の呼称である可能性もありますが、氏は「上宮」「豊聡耳」「厩戸」については、いろいろな文献を引いて独自の解釈を示しており、「厩戸」については地名に基づく生前の名であると論じてその由来を説いているのですから、仏教系の名号についても何らかの検討が必要でしょう。

 「疑いない」と切り捨てたのは、「法大王」や「法主王」といった名号を、ローマ法皇の「法皇」などのような公的な地位を示すものと解釈したためと思われます。しかし、古訓から見て「法大王」は「のりのおおきみ」であって、説法する上位の皇族といった程度、「法主王」は「のりのぬしのみこ(皇子)」であり、経典講義が巧みな皇子という程度の意味でしょう。

 「法主」は、漢訳経典では釈尊を指すことが多く、また中世以後の日本では巨大宗派の頂点に立つ「法主(ほっす)」のイメージが強いですが、中国の僧伝や史書では、『続高僧伝』僧旻伝が「僧に勅して三十僧に局(かぎ)り、華林園に入りて夏に講ぜしむ。僧正の旻(梁の三大法師の1人である僧旻)を法主と為す」と記していることが示すように、講経に巧みである者で「講経の責任者、担当者」といった意味での用例が目立ちます。

 厩戸皇子は、『日本書紀』では『勝鬘経』と『法華経』を講義したとされ、その作と伝えられる『勝鬘経義疏』と『法華義疏』が伝えられており、この二部は梁の三大法師の注釈を種本としていて古くさい釈風であることが知られていました。さらに、諸説あった三経義疏はきわめて似ていること、花山信勝氏が多少指摘していた和習が実際には非常に多いことは私が指摘しました。

 古市氏が、講経は史実でない証拠を示し、『勝鬘経義疏』と『法華義疏』が厩戸皇子の作でないことを論証するなら良いですが、「疑いない」ですますのでは議論にならないですね。

 こうした断定がなされるのは、「神格化」は没後になっておこなわれるという現代風な思い込みがあるためではないでしょうか。中国の史書を読んでもらいたいのですが、皇帝権力が強かった北魏では、僧の法果が皇帝を礼拝して「当今の如来」と称していたことは有名ですし、皇帝の顔に似せた仏像がいくつも作られており、南朝でも崇仏皇帝として知られた梁の武帝は「菩薩天子」と呼ばれていました。

 前の記事で触れたように(こちら)、廃仏の後に出て仏教を復興した隋の文帝も、自らの出生を仏教にまつわる奇跡の話で飾り、インドのアショカ王と自分を重ね合わせる演出をやっています。また、東南アジアの国王たちは、ヒンドゥー教の神や密教系の観音などを守護神とし、さらに自らをそうした神や観音と同一視させることによって権威を得ていました。古代はそれが普通なのです。

 なお、「上宮」については、古市氏は、『日本書紀』推古紀が、父の用明天皇が厩戸皇子を愛して「宮南上殿」に住まわせたためそう称すると記しているのを否定し、「上宮」とは斑鳩宮を指すのであって、太子の生前は太子に関する名号ではなく、没後になって太子と斑鳩宮に住むその遺族を指すようになったとしています。

 ただ、氏は、「上宮」は仏典に見える皇帝の居場所、あるいは東宮を指すとする説を批判したものの、斑鳩の宮がその地名通りに斑鳩宮と呼ばれず、「上宮」と呼ばれたことを説明できず、「説得的な見解を提示することは難しい」(300頁)と認めたうえで、斑鳩寺の東に位置するため「上=東」と考えられると述べています。

 これは苦しいですね。普通、住む宮の建築を始めてから横に寺を建てるんじゃないですか? あるいは同時に建設に取り組んだとしても、なぜ寺の方が方位の基準となり、しかも北でなく東が「上」になるのか。古市氏の議論は、こうした根拠の弱い推測が目立ちます。

 古市氏は三経義疏には触れていませんでしたが、梁の武帝の時代の三大法師の注釈を種本として書かれた三経義疏のうち、『法華義疏』の冒頭では、奈良時代頃の別人の筆で「上宮王」の「私集」と記されていました。この三大法師たちは、大乗に似た面のある小乗仏教の『成実論』の法相を用いて『涅槃経』などの大乗経典を解釈する僧たちであって、いわば成実涅槃学派とも呼ぶべき人たちです。

 そして、「憲法十七条」の第一条に見える「無忤(さからわない)」というのは、この成実涅槃学派の系統の僧尼の間で尊重されていた徳目だということを、私は早くに指摘しました(こちら)。つまり、「憲法十七条」と『法華義疏』は、ともに梁代ないしそれに続く陳など江南の仏教の影響下にあったのです。

 日本に仏教を伝えた百済は、この梁や陳などの中国南朝を手本とし、仏教教理や造寺造像の技術を導入していたのですから、「上宮」という言葉についても、南朝の用例を調べてみるべきでしょう。その南朝における皇太子の地位を論じ、「上宮」に触れているのが、

岡部毅史「梁簡文帝立太子前夜ー南朝皇太子の歴史的位置に関する一考察ー」
(『史学雑誌』第118編第1号、2009年1月)

です。この論文については、このブログの2011年8月30日の記事(こちら)で紹介してあります。

 岡部氏は、南朝における皇太子のあり方について検討し、『宋書』巻17・礼志四によれば、「大明三年(459)」において、皇帝がおこなうべき太廟と皇太后廟の祭祀を皇太子が代行することと、第八皇女の服喪期間中に祭祀をおこなうことの可否を皇帝が礼官に諮問した際、服喪期に「皇太子の入りて上宮に住するは、事において疑いあり」と記され、皇太子が皇帝が住すべき「上宮」で執務するとされている点に注意します(23頁)。また、六朝期において「上宮」の語が「皇帝の所在を示す語として用いられる例」として、『南斉書』巻21の文恵太子伝をあげています(注21、32頁下)。

 さらに、梁の武帝の長子で皇太子となった昭明太子については、『梁書』巻8、昭明太子伝に「太子元服を加えてより、高祖(武帝)すなわち万機を省せしめ、内外百官の事を奏せし者は前を墳塞す。太子は庶事に明るく繊毫といえども必ず暁(さと)し。奏する処の謬誤および巧妄あるごとに、みなすなわち就きて弁析し、その可否を示して……」と記されているとします。

 武帝は、経典の講義をし、家僧(家庭教師の学僧)に支援されつつ注釈を多数著したことで有名であり、昭明太子も若いころから秀才として知られ、文人や僧たちに囲まれており、経典の見事な講義をしたほか、仏教教理について多くの僧や知識人と問答のやりとりをして三大法師の光宅寺法雲に絶讃されていたことは、拙著で簡単に触れました。

 『日本書紀』などに記される厩戸皇子のあり方が、こうした南朝の皇太子のあり方に似ていることは事実ですね(近いうちに、ブログで書きます)。日本の史料だけであれこれ推測するのではなく、どこまでが編集の際の中国史書などによる文飾なのか、それとも実際に厩戸皇子が南朝のそうしたあり方を真似ようとしていたのかを、検討していく必要があるでしょう。

 なお、「豊聡耳」については、古市氏は「聡敏な人を指す名号一般と理解せざるを得ず、それ以上の意味を求めることは、現状では困難」(303頁)と述べますが、それを言うなら、妃が太子をこの語で呼んでいる「天寿国繍帳銘」は後代の作であることを論証する必要があるのに、触れてないですね。

 問題の「厩戸」については、古市氏は「ト」と「サカ」の語は通用するとし、「厩戸」は「ウマヤサカ」と同じだとし、「大和国古市郡の厩坂に他ならないと考える」(309頁)と述べ、さらに次のように論じます。

蘇我氏の影響力が強く及ぶ軽の地に、斑鳩宮移転以前の太子の王宮が存したとする推定は、一定の説得力を有すると考える。厩坂の王宮はまた、太子の生育の地としても考えることができるであろう。(313頁)

 これも論証不足ですね。太子の名号について論文を発表している仁藤敦史氏(このブログでも紹介しました。こちら)は、この本の書評(『歴史評論』838号、2020年2月)でこの部分を疑問視して反例をあげているほか、溝口優樹氏の書評(『日本歴史』862号、2020年3月)でも批判的に評しており、佐藤長門氏の書評(『日本史研究』697号、2020年9月)では「ウマヤサカがウマヤトと呼ばれた史料的事例があるわけではないし、すべてのサカがトに入れ替わるわけでもない以上、この説明だけで納得するのは難しい」(54頁)と率直に述べています。

 古市氏は、上記の部分に続けて、『日本書紀』では、舒明天皇は舒明11年(639)7月から百済宮の造営に着手し、12月に伊予温湯宮に行幸して翌年4月に帰還して厩坂宮に居し、10月に百済宮に移っていることに注意します。古市氏は、これは岡本宮が火事になった際、田中宮に仮住まいしたのと同じ状況だとし、厩坂宮は既存の宮を改修して利用した可能性があり、それが太子の宮だったと想定するのです。

 しかし、そのように論じるのであれば、古市氏は太子の伊予温湯行きとその碑文(かつてこのブログでとりあげました。こちらと、こちら)をどう考えるのか、また伊予には法隆寺の荘園が多いことなどにも触れるべきでしたね。舒明天皇は、太子の長男である山背大兄との競争に勝って即位しているものの、意外にも聖徳太子とのつながりがあることは、このブログで鈴木明子氏の論文を紹介した通りです(こちら)。

 なお、古市氏は「舒明すなわち田村王は……非蘇我系の王族である」(313頁)と述べていますが、それは『日本書紀』がそのように描いているだけであって、実際には蘇我氏の血が入っているとする説も出ています。

 古市氏のこの本は、地名の検討に力を入れた点に関しては学界である程度の評価を得ている部分もありますが、これまで見てきたように、聖徳太子の名号に関する氏の主張は根拠が弱くて問題が多いです。

聖徳太子シンポジウムのネット公開:森博達氏の「憲法十七条」は飛鳥時代の原形をβ群作者が「潤色修文」した説ほか

2021年05月08日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報
 ふたつの聖徳太子シンポジウムが奈良県文化資源活用課のサイトでネット公開されていました。コロナ禍なので、こうした形にしたのでしょう。最初は、2020年12月18日に開催された「2021年聖徳太子1400年御遠忌 聖徳太子の実像と片岡の飢人伝承」であって、最初は、同課が共催した、

奈良県王寺町観光PR歴史講座
「聖徳太子の実像と片岡の飢人伝承」 
第1部 基調講演:「聖徳太子の実像と片岡の飢人伝承」 
講師 明治大学名誉教授 吉村武彦氏(動画は、こちら

第3部 パネルディスカッション:「聖徳太子の実像と伝承」
<パネリスト>
吉村 武彦 氏
澤田 瞳子 氏(小説家)
平田 政彦 氏(斑鳩町教育委員会参事)
岡島 永昌 氏(王寺町文化財学芸員)
<コーディネーター>
関口 和哉 氏(読売新聞大阪本社 橿原支局長)
(動画は、こちら

です。

 吉村氏は、聖徳太子虚構説が世を騒がせ始めた頃である2002年に岩波新書として刊行され、当時の研究成果を踏まえた穏健な聖徳太子像を示した『聖徳太子』の著者です。この本については、東野治之『聖徳太子ーほんとうの姿をもとめて』(岩波ジュニア新書、2017年)がきわめて高く評価していました。東野氏のこの本は、吉村氏も触れて評価していましたが、「ジュニア新書」とはいうものの、実際には学術的な内容であって、最近の研究成果に基づいた好著です。

 吉村氏は、大山誠一氏の聖徳太子虚構説については学説として相手にする必要無しと判断しておられたため、上記の岩波新書でも以後の論文などでも虚構説に対する詳しい反論などはされていません。この講演でも、厩戸皇子について、「法大王」と呼ばれているから天皇のような存在だったとする説や、いなかったとする虚構説などもあるが、両方とも極端すぎて誤りだとひと言触れただけです。なお、「法大王」については、このブログの次の記事でとりあげます。

 厩戸皇子については、「皇太子」は律令制度の語であって、それと同じではないだろうが、「太子」という呼称はあっても良いとし、また、当時の外交儀礼を説明した部分では、隋との交渉については、表に出ない女帝である推古天皇に代わって、厩戸皇子が対応したため、隋は男の王と考えたという立ち場です。

 「憲法十七条」については、君・臣・民の区分を定めたことに意義があり、『日本書紀』の潤色があるとしても、原形は推古朝にあって不思議はないとします。

 穏健でわかりやすい講演ですが、「没後に神格化が始まる」という前提はいかがなものでしょうか。中国で新王朝をおこした皇帝などは、当然ながら生前から神格化した伝説を国内に流して権威を高めており、北周の廃仏の後に仏教を復興して隋を建国した文帝なども、生前から仏教がらみの伝説を流しています。また、東南アジアでは、国王はヒンドゥー教の神や密教系の観音などを守護神とし、それと同一化することによって権威を得ていました。

 古代であれば、権力の頂点、ないしその近くにいて頂点に立とうとしている人であれば、何らかの神格化がなされても不思議はなく、没後にそれがさらに進展すると見て、数段階を考えても良いのではないでしょうか。権力者の神格化は、現代でも諸国で見られますし、日本でも戦前・戦時中はそうであったことを想起すべきでしょう。

 三経義疏については、吉村氏は井上光貞説に従っており、太子学団の共同制作説でした。最近の研究の進展は御存知ないようです。「法大王」や三経義疏に限らず、仏教面に関する踏み込んだ説明はありませんでした。

 なお、法隆寺金堂の釈迦三尊像の台座の木材の裏に書かれていた「尻官」と「書屋」のうち、「書屋」についてはあるいは図書館の最初かと述べておられました。その可能性もありますが、古い時代の資料に見える「酒屋」などの用例からすると、製作所と見るのが妥当であって、「書屋」は紙の製造所か、紙を綴じて巻物にする工房などではないでしょうか。

 第三部のパネルディスカッションでは、大学院では古代史を専攻して文献批判をたたき込まれたという歴史小説作家の澤田氏が、イメージが広まっている聖徳太子の書きにくさについて語りました。考古学調査をしていて太子の宮についても論文を書いている平田氏は、太子が愛したと伝えられる黒駒を埋葬したという伝承がある斑鳩町の駒塚古墳と太子が亡くなったとされる飽波宮の関係などについて語り、岡島氏は片岡山の飢人伝説や太子の愛犬その他の伝承について語ってます。

 平田氏と岡島氏は、伝承と実像を分けるべきことを説きつつ、太子や山背大兄王の時代の遺物が次々に発見されていることに触れ(入鹿の軍勢に襲われて焼失した斑鳩宮の跡では焼けた壁土が出ており、太子建立とされる西安寺遺跡では、若草伽藍と同笵の瓦が数年前に出ています)、実像があるからこそ伝承がふくらんでいくとして、伝承の重要さ、伝承を後代のものとして切り捨てずに検討していく必要性を語っています。

 この催しに続くのが、奈良県文化資源活用課が毎年開催しているシンポジウムであって、令和2年度は、2021年2月28日に「聖徳太子シンポジウム─聖徳太子信仰と伝承─」(こちら)という形で開催されており、内容は、

基調講演:
聖徳太子のこころと信仰  古谷正覚(法隆寺管長)

【パネリスト】
武田佐知子氏(大阪大学名誉教授)
森 博達氏(京都産業大学名誉教授)
瀨谷貴之氏(神奈川県立金沢文庫主任学芸員)
【コーディネーター】
毛利和雄氏(元NHK解説委員)

です(動画は、こちら)。

 武田氏(かなり前に、ある聖徳太子シンポジウムでご一緒しました)の発表は、「唐本の御影」に関するものであって、このブログで少し前に紹介した内容です(こちら)。森さんの発表は「憲法十七条」の和習の問題、瀨谷氏の発表は中世の様々な聖徳太子信仰についてであって、このブログと特に関係深いのは、森さんの発表です。

 なお、コーディネーターの毛利氏は、数年前に上記と同様に奈良県庁主催で同じ企画会社が担当し、私がパネリストを人選した太子と芸能のシンポジウム(こちら)でも、コーディネーター役を務めておられました。今回も、司会進行にあたっていて私の本の内容を紹介してくださっていましたが、「いしい…きみなりせんせい」と言ってましたね。コウセイです。

 さて、『日本書紀』研究を画期的に進展させた森さんの『日本書紀の謎を解く』(中公新書、2013年)では、「憲法十七条」は倭習だらけであって、その倭習は推古紀を含めた『日本書紀』のβ郡の倭習と一致しているため、「憲法十七条」の制作時期は「少なくとも、書紀の編纂が開始された天武朝以後」(196頁)としていました。

 その後、森さんの研究に衝撃を受けて聖徳太子関連文献の変格語法を調べ始め、三経義疏の和習論文も発表するようになった私が、科研費による変格漢文の国際共同研究プロジェクトを始めた際、森さんに中心メンバーとしてご参加いただき、4年間、共同研究を重ねた結果、森さんの研究がさらに細かくなっていきました。

 つまり、私が三経義疏の和習を指摘したため、森さんも三経義疏の和習を調べるようになって、「憲法十七条」の和習や『日本書紀』全体の和習との共通性と違いに注意するようになり、いろいろな発見をされたのです。その結果、今回のシンポジウムでは、「憲法十七条」の原形は推古朝の作成であって、それをβ群の筆者が「潤色修文」したと説かれるようになりました。

 そうしたことについて、森さんがわかりやすく解説していますので、このシンポジウムの発表は必見であって、その内容が論文化されるのが楽しみです。 
【追記】
最初の講座のうちのパネルディスカッションについては、後で気づきましたが、動画を見たところ、何度やっても途中でとまってしまうため、紹介は書かずにいました。先ほど見直したら、最後まで見ることができたので追記しましたが、やはり動画が安定してないですね。

現代における聖徳太子信仰の諸相を取材:小滝ちひろ「聖徳太子信仰のタテヨコ」連載

2021年05月05日 | 聖徳太子信仰の歴史
 聖徳太子に関する論文は多いですが、現在、太子信仰がどのような形で続いているかは、あまり知られていません。この点に取り組み、近代から現在に至る状況を取材してネットに連載をあげているのが、朝日新聞の奈良支局に長くいて古社寺・文化財関連の記事の執筆が多く、法隆寺の亡き髙田良信管長とも親しくしていて、『高田長老の法隆寺いま昔』などを編集して刊行した小滝ちひろ氏です。

 氏は現在はフリーの記者として活動しており、「note」とい題する自分のサイトを立ち上げ、そこで「聖徳太子信仰のタテヨコ」という連載を始めています(こちら)。

 その連載の内容は、以下の通り。記事の末尾のリンクをたどって順に読んでいくことができます。

聖徳太子信仰のタテヨコその1 渋沢栄一は太子が大嫌いだった?
聖徳太子信仰のタテヨコその2 法隆寺のカキアゲってなに?
聖徳太子信仰のタテヨコその3 茨城を太子王国にしたのは黄門さま?
聖徳太子信仰のタテヨコその4 消えかかるのか? 岩手のマイリノホトケ
聖徳太子信仰のタテヨコその5 太子像はオウム事件に揺れた?
聖徳太子信仰のタテヨコその6 商売繁盛? 平成の太子講
聖徳太子信仰のタテヨコその7 東京物語のお寺が見つけた観音様との抱合
聖徳太子信仰のタテヨコその8 太子は道後温泉に逗留したか?
聖徳太子信仰のタテヨコその9 太子が歩いた?道をたどって見れば
聖徳太子信仰のタテヨコその10 聖徳か厩戸か 揺れた戦中戦後のとらえ方
聖徳太子信仰のタテヨコその11 太子は尾ひれか? 理想か?

 このうち、「その10」で小倉豊文と花山信勝を扱った回については、昨年、取材を受け、いろいろな資料をお渡ししました。

 性急な判断を避け、まず事実を押さえようという態度で書かれており、「その9」で取り上げられた、もう一つの太子道の記事を初めとして、私も知らないことが多数ありました。

河合敦氏は方針変換したものの残る問題:河合敦「聖徳太子はいなかったというのは本当か?」

2021年05月02日 | その他

 多くの歴史本を著し、また「世界一受けたい授業」などテレビ番組でもおなじみの歴史家、河合敦氏の聖徳太子に関する説明については、このブログで、大山誠一氏の太子虚構説を好意的に紹介するのみであって最近の研究状況を考慮していない、とする記事を今年の1月19日に公開しました(こちら)。

 そのことを、河合氏の講演依頼の仲介などを引き受けている方にお伝えしておいたところ、氏もブログを読んでくださったようで、私のその記事を考慮した文章が刊行されました。

河合敦「日本史学び直し 第4回 聖徳太子はいなかったというのは本当か?」
(『Best Partner』第33巻第4号[通巻388号]、2021年4月)

です。この雑誌は、浜松銀行の浜銀総合研究所が出している雑誌であって、会員はネットで読めるようですが、歴史研究者や一般読者の目には入りにくいものです。私は大学図書館に頼んでコピーを取り寄せてもらいました。

 私の記事を強く意識していることは、私の名をあげて見解を紹介してくださっているものの(有り難うございます)、 他の研究者たちについては「○○大学教授の○○氏」と記しているのに対し、私だけ「駒澤大学の石井公成教授」となっていることからも推測できます。ただ、

一方で、駒澤大学の石井公成教授のように、『厩戸王』の名称は、古代の史料には登場せず、太平洋戦争後になって想定された仮称だと主張する論もある。
 このあたり学者の間では、いろいろ議論があるようだ。(37頁下)


と書くのは、どうでしょうかね。「主張」だといろいろな立ち場があって、私の「議論」はその一つということになります。しかし、私は、伝説的な聖徳太子のイメージから離れて研究するため、戦後になって太子生前の呼称であった可能性があるとして「厩戸王」の語を用いたという小倉豊文自身の言明を指摘しただけです(本に書いた内容をまとめたのは、こちら)。

 太子の実名がどうであったかについては、研究者によって説は様々であるものの、「厩戸王」という名称は現存する古代の史料には見えず、戦後になって小倉豊文が想定して用いたというのは「事実」であって、この点を批判・否定した研究者はおらず、議論・論争にはなってはいないのですが……。

 どうも私の批判を気にしすぎながら急いで書かれたようで、他にも形式や内容の面で不備な点が目立ちます。たとえば、河合氏は、上の引用部分の少し前で、「古市晃著「聖徳太子の名号と王宮」『日本歴史第768号 2012年5月号』吉川弘文館より」として古市氏の記述を引いたのち、次のように書いています。

「上宮は生前の太子に対して冠せられる名号」ではなく、また<豊聡耳は聡敏な人を指す名号一般と理解せざるを得ず、それ以上の意味を求めることは、現状では困難>(前掲書)とする。(同)


 こうした古市説は学界では賛同者は見かけないように思いますし、「『日本歴史第768号 2012年5月号』より」という書名表記・引用表記はおかしいです。しかも、前半では引用部分が 「 」となっており、同じ文章中なのに後半では < > でくくられていて不自然です。そのうえ、古市氏のこの論文は研究雑誌に掲載されたものであるのに、書物のように「古市晃著」とあるうえ、「前掲論文」ではなく、「前掲書」となっています。

 内容面でも問題はかなりあり、たとえば、大山氏の虚構論に関する学界の反応を記した部分がそうです。

この大山説に関して遠山美都男氏や山尾幸久氏、直木孝次郞氏などが賛意を表明し、虚構論を補足するような論文も次々と発表されていった。(39頁上)


とありますが、遠山氏は、大山説についてはいろいろな文章で批判しており、『聖徳太子の謎』「迷走?ー厩戸皇子否定説とその問題点ー」(宝島社、2013年)では問題点をまとめて論じ、「大きな誤り、明らかな読み間違い」(197頁)を指摘しています。ただ、これまでのように、『日本書紀』における太子関連の個々の記述をとりあげてその真偽を論じるのではなく、『日本書紀』全体が厩戸皇子をどのように描こうとしているかを問題にしたという点だけは意義があると評価した、というのが実際のところです。

 次に山尾氏は、梅原猛・黒岩重吾・上田正昭他『聖徳太子の実像と幻像』(大和書房、2002年)所載の「信仰的聖徳太子像の史的再吟味ー大山誠一氏の近業に寄せてー」の結論で、

大山氏の創見に与することはできないのだが、しかし『書紀』の国家史の構想、その批判の一環として、信仰的「聖徳太子」像批判の主意には賛同するものである。(71頁)


と述べています。つまり、大山説の具体的な主張には反対だが、信仰的な聖徳太子像批判の姿勢には賛同する、というものです。これでは、大山説に「賛意を表明し」たとは言えないでしょう。

 最後の直木孝次郞氏も、同書の「厩戸王の政治的地位についてー大山誠一著『<聖徳太子の誕生>』読後感ー」では、大山氏が聖徳太子の批判的研究に取り組んでいることを評価し、賛成する点が多いと述べつつも、「氏の論すべてに同意するのではない」として、「異論の一端」として厩戸王はぱっとしない王族にすぎなかったという大山氏の主張を批判する理由を述べ、結論において、

厩戸王が推古天皇の治下、皇族のなかでもっとも有力な皇子で、太子の地位に近かったという私見の根拠は、以上でほぼ説き終わった。(14-15頁)


と述べています。これは虚構説の根幹に関わる異論です。直木氏は、「聖徳皇の成立年代について(上) 大山誠一氏に答える--法起寺露盤銘は偽作か」(『東アジアの古代文化 』110号、2002年)でも、『日本書紀』以前から太子は「聖徳」という名称で呼ばれて尊重されていたと説き、大山説に反対しています。これも虚構説の根幹に関わる反論です。

 大山説が登場した際、強く反対したり、無視したりする研究者が多かった一方で、山尾氏や直木氏のように、好意的に迎える研究者もかなりいたのは、戦時中は「承詔必謹」を説く「憲法十七条」が国家主義の元祖とされて宣伝され、歴史学者もその片棒をかついで聖徳太子礼賛をやっていたことに対する反省があったため、戦後も続く「聖徳太子偉かった」路線に大山氏が真っ向から反対した点が評価された面が大きいように思われます。ただ、そうした人たちの間でさえ、大山説の個々の主張には無理があるとする指摘が、このように当初から多かったのです。

 それが時間にたつにつれ、虚構説の個々の主張の無理さが次々に明らかになってきたうえ、「私の説には学問的な反論はない」といった大山氏のもの言いが反発を呼び、大山説に対する批判が高まっていった結果、大山説は相手にされなくなり、この10年ほどは虚構説の盟友である吉田一彦氏を除けば、賛同する論文をほぼまったく目にしなくなった、というのが実状でしょう。

 聖徳太子の政治主導を疑う傾向は、古代史学界には前からありました。高校の教科書が「厩戸王」の語を用いたり、太子の事績を強調しないものが増えていることを、河合氏が大山説の影響だけで説明するのは不適切です。

 河合氏は、上記の部分に続けていろいろな説をあげる際、谷沢永一の『聖徳太子はいなかった』(新潮社、2004年)をあげて内容を紹介していたので驚きました。谷沢氏は、近代日本文学、特に書誌を専門とする研究者であって高名ですが、「あとがき」で自分は古代史は「素人」であって、この問題について書くなど「身のほどしらずの話」だと自ら述べているように、この本は、このブログの「珍説奇説」コーナーで紹介しようかと思ったほど粗雑で間違いが多い本です。そのことは、少し読めばわかるはずですが。

 河合氏は、これまでの虚構説紹介一本槍の姿勢を初めて変え、仁藤敦史氏は大山説は行き過ぎだとしていることを紹介するなど、大山説に反対する学者もいることに言及しています。これは好ましい方針変換です。ただ、

聖徳太子実在論争が過熱するなかで、小倉豊文氏や吉村武彦氏などは、歴史上で実在した厩戸皇子と伝説化・聖人化した聖徳太子を分けて考えるべきだと述べている。(39頁)

などとも書いています。これだと、大山氏の虚構説以後、論争が熱くなる中で小倉豊文が上記のように述べたように見えますが、戦後になって「厩戸王」という仮称を想定して用いた小倉は、大山説が登場する前の1996年に亡くなってます。

 それに、上記のような区別を明確に説いたのは、私が本やブログで書いたように、小倉が想定した「厩戸王」と「聖徳太子」の名号を使い分け、ロングセラーとなった1964年の田村圓澄『聖徳太子』(中公新書)が最初です。この本と以後の田村の著書や論文が、そうした区分を定着させていったのです。

 その呼称について、河合氏は、「私としては、歴史上の人物の呼称については、聖徳太子でも厩戸王でも、どちらでもかまわないと思っている」(38頁)と述べていますが、これは歴史家の発言としては問題ですね。「厩戸王」は、古代・中世の文献に見えないにもかかわらず、それを実名であるかのように教えることになりますので。

 上記の部分に続く聖徳太子の肖像に関する説明は、私のブログ記事をほぼそのまま採用してもらっているようですが、それはともかく、河合氏は「以上のように、聖徳太子の呼称も業績も肖像も怪しくなってしまったわけだが」と話をまとめ、「聖徳太子が日本人に大きな影響を与えてきたのは間違いない」(40頁)という方向に向かいます。つまり、
 

法隆寺や四天王寺を創建したのは聖徳太子だとされるが、それが史実だとする決定的な根拠は存在しない。とはいえ、その死後まもなく仏教の聖人としてあがめられ、やがて信仰にまで発展していったのは研究上、間違いないようだ。(40頁上)


という形で、太子信仰の意義を説くのです。しかし、法隆寺の創建を疑うというのは、大山氏以上の太子否定論です。大山氏は、厩戸王は都からはずれた斑鳩に宮と寺を建てた程度であって、斑鳩寺は推古朝に46の寺があったうちの一つにすぎない、などというように矮小化するものの、法隆寺の創建を否定するまではしないので。

 しかし、そこまで否定するなら、推古天皇も蘇我馬子も、存在を示す名入りの墓碑などの物的証拠はないため、いたかどうか決定的な証拠はないということになりますよ。寺については、瓦の研究によれば、(蘇我馬子の)飛鳥寺→(馬子の姪である推古天皇の旧宮を馬子が尼寺とした)豊浦寺→(推古天皇の甥であって馬子の義理の息子である厩戸皇子の)斑鳩寺→(厩戸皇子の)四天王寺、という順序で建設されたことが分かっていますが(こちら)。

 普通に考えれば、これが当時の権力者ベスト3でしょう。自宅の庭に小さな仏堂を建てたとか、自宅の一部を改装して仏像を安置したとかいうならともかく、宮殿でさえ掘立柱式であった時代に、楚石の上に太い柱を立て、瓦葺きの壮麗な大伽藍を建立するのは、今日で言えば最先端の巨大な原子力発電所を建てるようなものです。

 百済から来た技術者たちは、馬子が独占していましたので、推古朝初期には豪族であっても瓦葺きの寺をそう簡単に建てることはできませんでした。初期に本格的な寺を建立したのは、蘇我氏の一族(推古天皇も聖徳太子も蘇我氏系です)と蘇我氏に仕える渡来系氏族だけでした。

 いずれにせよ、斑鳩と都を飛鳥を斜め一直線に結ぶ太子道は幅20メートルもある広壮なものであり、斑鳩寺は我が国初の彩色壁画で飾られた最先端の大寺であったといった最近の考古学上の発見は、大山氏と同様に無視されており、太子いなかった説を保持したいという気持が伝わってきます。

 河合氏は、平安時代以後の聖徳太子信仰の盛んさについて触れたのち、結論で、「このように、聖徳太子はその後の日本文化に大きな影響を与えてきたのである」(41頁下)と述べていますが、それなら、学校で「聖徳太子」という名称を教えないのはまずいでしょう。これは没後につけられた名だとつけ加えれば良いだけのことですので。

 実は、他にも不備がありますが、急いで書いたためでしょう。次に聖徳太子について書く場合は、もう少し慎重に書くことを希望しておきます。氏の温和な風貌とわかりやすく説くおだやかな語り口については、私は好ましく思ってきましたし、歴史の解釈については諸説それぞれあって良いのですが、事実に関する記述の当否は別な話ですので。

【付記】
「厩戸王」という名称は「古代の史料には見えず、戦後になって想定された」と書きましたが、ブログでは初めは「いかなる史料にも見えない」と書いていたところ、江戸後期の『甲斐国志』に見えることを指摘していただきました(こちらの「付記」)。探せば近世にはまだあるかもしれませんが、少なくとも、古代や中世の有名な現存史料には出てこないことは確かであり、用例は報告されていません。

【追記:2022年7月4日】 河合氏が進行役を務めるテレビの歴史番組の聖徳太子特集で、「いなかった説」を批判する最近の研究状況が詳しく紹介されました。今後は、こうした状況を紹介してくれるでしょう(こちら)。