聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

天武天皇7年(678)には既に用いられていた「日本」国号: 王連龍「百済人《禰軍墓誌》考論」

2011年10月23日 | 論文・研究書紹介
 本日、10月23日(日)の「朝日新聞」朝刊には、儀鳳3年(678)に没した百済人将軍「祢軍」の墓誌に「日本」という国名が見えており、早い例だとする記事が載ってましたね。元になった中国の論文が刊行されてすぐ話題になったため、その号が図書館に届いた際にコピーして簡単なメモをとっておいたのですが、7月刊行の雑誌記事が今頃になって報道されたので驚きました。入唐留学生であった井真成の墓誌騒ぎの余波なんでしょうか。

 その墓誌は、聖徳太子と直接の関係はないのですが、『日本書紀』の外交記事の信頼性に関わるものですし、私が数日前まで滞在していた西安(長安)から出たものですので、その縁で簡単に紹介しておきます。吉林大学古籍研究所副教授であって、古代文献と石刻の研究者である王連龍氏の論文、

王連龍「百済人《禰軍墓誌》考論」(『社会科学戦線』2011年第7期)

です。原文は簡体字ですが、日本の通行の字体に改めます。

 論文によれば、墓誌は正確には「大唐故右威衛将軍上柱國禰公墓誌銘并序」であって、最近、西安で発見されたそうです。墓誌は高さ59センチ、厚さ10センチ、銘文は31行で約30字、総計884字。日本へ使者として派遣されたことが、典拠を用いた美文で詳しく書かれており、この件が功績として重視されていたことを示すと、王氏は書いています。

 銘文では、唐の将軍となった百済人の禰軍の祖先は中国人であったものの、戦乱が続いた西晋の永嘉年間(307-313)の末に百済に移った由。曾祖の祢福、祖父の祢誉、父の祢善は、百済ではいずれも一品の位にあり、「佐平」の官となっていたとあります。その百済が660年に唐に滅ぼされ、禰軍が唐に渡ると、皇帝は喜んで栄達させ、右武衛滻川府折冲都尉に任じたとか。

 その頃は、「日本余噍、据扶桑以逋誅」、つまり、百済で唐(と新羅の連合)軍と戦って敗れた「日本」の残党は、「扶桑(大陽が昇るという中国伝統の東方海上の島国=唐代には日本と同一視されるようになった)」に立てこもって唐による誅罰を逃れているという状況であったため、禰軍は唐皇帝の命令によって日本に派遣されることになります。以後、唐と敵対するようになった新羅との交渉も含め、外交成果をあげたことによって、宗の咸亨3年(672)には右衛将軍に任じられ、儀鳳3年(678)2月に長安県で66歳で没した際は、皇帝は絹布300段などを下賜して厚く葬らせたとあります。同年の10月に葬ったと記されているのは、墓の工事などが終わったためでしょうから、墓誌銘はこの間の時期に書かれたことになります。

 禰軍の来日は『日本書紀』本文には記されていませんが、天智天皇3年(664)夏五月条には、唐が鎮圧のために百済に送り込んだ将軍劉仁徳が、朝散大夫の郭務悰等を派遣して表函と献物を進上して来た、と記されています。むろん、『日本書紀』が描くような表敬訪問ではなく、倭国を叱責して敗戦処理をさせるための交渉であったことは言うまでもありません。

 王論文は、『善隣国宝記』が引く『海外国記』には、郭務悰の随員の一人として「百済佐平禰軍」と記されているため、これと対応する墓誌銘の記述は信用できると論じています。また、『日本書紀』天智天皇4年九月条に見える唐からの使者に関する記事の注に「右戎衛郎将上柱国百済禰軍」とあることも注意されています。

 ここで問題になるのは、墓誌銘に見える「日本」です。王論文は、 『三国史記』新羅本紀第六の「文武王十年(670)十二月、倭国更号日本。自言近日所出、以為名(倭国、更[あらた]めて日本と号す。自ら言う、日出ずる所に近し、以て名となす)」という有名な記述を引いた後、678年に記された禰軍の墓誌銘に「日本」という国名が見えるため、『三国史記』のこの記述を認めて良いとし、734年に死んだ井真成の墓誌に見える「日本」の用例より早い例だと説いています。

 これまで見てきたことによれば、『日本書紀』の外交記事は、編纂時の為政者たちに都合良く改められて書かれているものの、神功皇后関連記事のような作文ばかりでなく、個々の事柄については、予想以上に事実に基づいている場合がある、と言ってよさそうです。また、「天皇」と「日本」の誕生は天武朝から、あるいは大宝律令(701年)からとする説はあやしくなりましたね。というか、何かの表現が見えることと、その表現を律令において正式名称として規定することとは区別して考えるべきだ、という当たり前のことを、もう一度確認すべきなんでしょう。

【追記:2011年10月25日】
論文通り「祢軍」と簡体字(日本では俗字・新字)で表記してましたが、『日本書紀』を見て検索する人のことも考え、「禰軍」と改めたほか、数カ所、文言を訂正しました。
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新羅の服制と冠位十二階の同異: 山本孝文「新羅古墳出土土俑の服飾と官位制」

2011年10月17日 | 論文・研究書紹介
 帰国してからと考えていたのですが、現在滞在中のところはネットが使えるため、西安にいるうちにアップしておきます。

 冠位十二階については、最近また研究が進んできたようですが、冠位十二階を考えるうえで見逃せないのは、直接の影響を及ぼしたと思われる古代朝鮮諸国の服制でしょう。そのうち、新羅の服制について考察した論考が、

山本孝文「新羅古墳出土土俑の服飾と官位制」
(『朝鮮学報』第204輯、2007年7月)

です。

 韓国の高麗大学考古環境研究所研究教授である山本氏のこの論文は、慶州龍江洞および隍城洞古墳から出土した人物形の土俑などを材料として、新羅において官制が整備される時期の様相を考察したものです。冠位十二階については言及していませんが、比較が有益です。

 まず、新羅の遺跡から出土する土偶や騎馬人物像は、5~6世紀のものは素朴すぎるため、服飾はほとんど判断できない由。ところが、ある時期からは、顔や服や髪型などまで急に写実的に造形されるようになります。これは外部の影響、つまりは中国の技術の導入としか考えられません。

 そうした好例である慶州隍城洞からの出土品には、文官と武人の人物像の他に、牛や車輪なども含まれており、唐の墓の副葬品を真似たのか、胡人のような人物像が見られるのが興味深いところです。そうした人物像と対比すべき文献のうち、山本氏が注目するのが、『三国史記』に見える記事です。

 それよれば、新羅の法興王7年(520)春正月に律令を頒布し、初めて「百官公服」の秩序を定めた、とあります。官ごとの具体的な色は記されていませんが、『三国史記』の後の記事によれば、最上位の服の色は紫、次が緋、次が青、次が黄、最下位の平人は白衣、となっており、さらに冠などの違いで細分化されていたようです。

 中国の服制を真似た部分もあるのでしょうが、「猶お是れ夷俗」であるとして、真徳王2年(648)に入唐した金春秋が唐の太宗に衣帯の下賜を請い、翌年、中国風に改めたという記事が見えています。そこで、山本氏は、7世紀初めまでは完全な中国式の服制は浸透していなかったと推定します。中国の服制をきちんと認識した後には、皇室の色である黄色を中・下級官僚の服色には使わなかったであろうというのが、山本氏の見解です。

 山本氏がもう一点、注目するのが、1位の伊伐湌から5位の阿湌までの官位の者、すなわち、「真骨大等」の骨品である者は紫、7位の一吉湌から9位の級伐湌までの官位のもの、つまり「六頭品」の骨品である者は緋、などとなっていることが示すように、十七階制であった官位の違いよりも血統・家系による伝統的な骨品の方が重視されており、そちらの区分が服装の違いの基準となっていることです。

 新羅の服制については、唐に関する行事の際は唐風な服を着し、新羅の伝統行事の際は伝統的な服装をしたとする説もありますが、山本氏は、墳墓の出土品にはが唐風な服飾のものしか見えないことから、それに反対します。

 ただ、女性の服装が唐風に変わるのは、男性の場合よりもやや遅れるようです。隍城洞古墳から出土した土俑は、男性の像は唐風な服飾であるのに対して、女性はそうなっていないため、文武王4年(664)に女性の服装も唐式に変える以前の様子を反映していると、山本氏は説いています。

 問題は、その新羅は、唐王朝に何度か服の下賜を要請し、唐から王や王族や高級官僚用に各種の服や高級な布をしばしば送られているにもかわわらず、九品を正と従に分けた唐の十八階制を採用せず、新羅風な官位名による十七階制としていたことです。これは、唐にならって九位を正と従に分けた十八階制を用いるようになった日本との違いです。

 この点について、山本氏は、「日本が唐の律令を体系的に受容したのに対し、新羅は従来の官等制に基礎を置いて唐制を部分的に導入した」(23頁)と述べています。つまり、新羅は、東アジアの大きな流れである中国の制度を受け入れたものの、服制についてはその一部だけを取り入れたのです。それだけ、骨品制という伝統の制約が強かったということですね。
 
 むろん、日本の律令受容も、神祇関連の規定など唐の律令と大幅に違っている面があるわけですが、服制に関してはそうならなかったのは、家柄や官位を明確に服や色で区分するという習慣がもともとなかったことを示すものなのでしょう。

 日本の場合は、徳・礼・信・義・智という6つの位を大・小に開いた冠位十二階以降、官位と服装に関する規定は次々に変更され、上記のような唐風な九位制に至りますが、伝統に基づかず、また実状とぴったり合わない形式優先の規定であったからこそ、そうした再々の変更と唐の官位区分の採用が可能になったということなのでしょうか。

厩戸皇子は馬子との共同輔政にとどまる:古市晃「統合中枢の成立と変遷--王宮と寺院--」

2011年10月11日 | 論文・研究書紹介
 このブログでは4月から原則として週二回の定期更新でやってきましたが、10月は中国、11月は韓国、12月はベトナム出張があるため、その間は更新が不定期になります。本日はこれから成田に向かい、北京・西安へと出かけるところですので、その前にアップしておきます。

 厩戸皇子の活動をどの程度のものと見るかについては、議論百出ですが、最近の若手の史学者には、昔と違って非常にさめた論じ方をする人たちが増えているように見えます。つまり、厩戸皇子については、その役割を画期的だとして高く評価するのでもなく、また『日本書紀』の厩戸皇子関連の記述はすべて怪しいと否定するのでもなく、いわば「そこそこ」の活動を認める立場です。

古市晃『日本古代王権の支配論理』第三章「統合中枢の成立と変遷--王宮と寺院--」
(塙書房、2009年)

も、そうした一例でしょうか。

 古市氏は、まず、王宮と密接な関連のもとで造営された寺院は、「王権の統合儀礼が行われる統合中枢として機能した可能性」(81頁)があるとします。
 
 集まった臣下たちによる儀礼を意識して設計された小墾田宮が史料に見えるのは、推古11年(603)からです。ところが、飛鳥にはそれ以前から集合した臣下たちがそろって国家関連の儀礼に参加できる場所がありました。推古4年(596)に造営がほぼ完成した飛鳥寺です。つまり、飛鳥寺は、最初から「従来とは異なる儀礼空間としての役割を期待されていた」(82頁)というのが、古市氏の主張です。

 『扶桑略記』によれば、推古元年(593)に飛鳥寺で塔の柱が建てられた際は、大臣馬子を初めとする参列者100余人がみな百済の服を着たとされています。つまり、この時点では、倭国には独自の服制は存在せず、服装の統制が仏教儀礼において初めてなされたことになります。

 10月に小墾田宮に移ると、11月に大楯と靫が制作され、12月には冠位十二階が定められており、そうした準備を経て正月に冠位十二階が定める服制で元日朝賀の儀が行われたようですが、小墾田宮では元日朝賀以外に定期的な儀礼が行われた形跡がないと、古市氏は指摘します。ただ、南庭には須弥山が設置されているため、斉明朝の時のように異民族に対する饗宴のために用いられたかどうかは不明であるものの、そこで儀礼が行われたとしたら、それもまた仏教関連のものであったことになると見るのです。

 ところが、推古17年(609)以来、飛鳥寺を中心として寺ごとに行われていたのが四月八日と七月十五日の斎会です。前者は釈尊生誕を祝うもの、後者は盆であって祖霊供養のためですが、いずれもその功徳によって君主への報恩を願うものでした。このため、古市氏はこれらの斎会は「君と臣との関係を規定する統合儀礼として機能したものと考えられる」(84頁)としています。日本の初期の仏教は、こういうものですね。

 このように宮と寺が並立することは、厩戸皇子の斑鳩宮と斑鳩寺にも見られます。ただ、古市氏は、斑鳩寺は蘇我氏が建立した飛鳥寺系の瓦笵を二次的に利用したにすぎないのに対し、蘇我氏と血縁関係がない舒明天皇時には、百済宮と百済寺を同時に壮大な規模で建立し、瓦も従来とは大幅に異なる新しい型が採用されたことを重視します。百済寺の塔は、北魏の永寧寺の九重塔や新羅の皇龍寺の九重塔を意識した巨大な九重塔でした。

 つまり、推古朝において「厩戸皇子が果たした政治上の役割は大きかったとしても」、それは『法王帝説』や『元興寺伽藍縁起』などが描いているように「推古や蘇我馬子らとの共同輔政の枠を超えるものではなく」(85頁)、『日本書紀』が前提としている厩戸皇子の「主導的地位」は考えられないとするのです。

 「輔政」とは君主の政治を助けることのですので、「馬子との共同輔政」と書くべきところですが、古市氏は推古天皇は単なる傀儡ではなく、政治判断もかなりしていたと見るのでしょうから、これは推古・馬子・厩戸による三頭体制論の立場ですね。そうなると、初期は馬子主導だとしても、三頭体制は以後も一貫していたのか、時期によって勢力関係が多少変わっていったのかが気になります。この辺は史料不足なのが困ったところです。

 いずれにせよ、受容期の倭国の仏教というのはこうしたものだったのですが、これを政治狙いのための手段という見方をすると、実状からずれてしまうでしょう。勝海舟が、銅銭獲得などを目的とした日宋貿易にしても仏教信仰と重なっていたことを指摘していた通りです。私は、以前、『日本霊異記』などでは「信」という動詞は礼仏などの儀礼を熱心に行なうことを意味していたと指摘したことがあります。宗教は内面の信仰が大事であり、現実的な利益を願うことや荘厳な儀礼は不純で外面的なものにすぎないとするのは、鎌倉仏教の一部や、プロテスタンティズム以後の近代的な宗教観ですね。
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隋唐における皇帝と「等身」の仏像: 肥田路美「隋・唐前期の一州一寺制と造像」

2011年10月07日 | 論文・研究書紹介
隋唐における皇帝と「等身」の仏像: 肥田路美「隋・唐前期の一州一寺制と造像」

 偶然このブログを知って来られる人は、「釈迦三尊像」の語を検索したらヒットしたという場合が多いようです。法隆寺金堂の釈迦三尊像は、それだけ注目されているということですが、関心を呼ぶ理由の一つはやはり「尺寸王身」という点でしょう。つまり、上宮王と「等身」ということです。その「等身」についてこれまで論文で触れてきた美術史の肥田路美氏が、「等身」像について詳細に論じた最新論文が、

肥田路美「隋・唐前期の一州一寺制と造像
(『早稲田早稲田大学大学院文学研究科紀要 第3分冊(日本語日本文学・演劇映像学・美術史学・日本語日本文化)』55号、2010年2月)

です。この論文では、一州一寺制と皇帝等身像との関係を取り上げ、玄宗に重点を置いて検討していますが、ここでは、「等身」像の早い例に関する議論の部分だけを紹介させてもらいます。

 等身の像については、唐の玄宗が開元26年(738)に諸州ごとに一寺を選んで開元寺と改称させ、官寺としたうえで、自分と「等身」の仏像を設置させたことが有名です。このため、「尺寸王身」と記す法隆寺金堂釈迦三尊像銘は、そうした事例に基づいて奈良時代に刻まれたのだとする説もありました。しかし、肥田氏は皇帝やそれに近い人物の等身像を作ることは、唐代初期にあるばかりか、隋代から始まっていたことを明らかにしています。

 まず、唐の高祖李淵が武徳元年(618)に即位すると、祖父と両親のために旃檀の等身仏を三躯造っています。これは仏像です。ついで即位した太宗は、建国時の戦乱における戦死者たちのために、交戦地に寺院を建てたほか、長安近くの終南山にあって父帝が行香した太和宮を貞観初年(627)に龍田寺として建てかえ、父である高祖と自分自身の「等身」像を造っていますが、肥田氏は、これは両皇帝の肖像ではなく、両皇帝と「等身」の仏像と推定します。

 肥田氏は、こうした造像は隋にも見られるとし、文帝は開皇元年(581)に即位すると、父が戦功を立てた地域を初めとして、全国に寺院を造営し、さらに晩年の仁寿元年(601)以降、三次にわたって全国百十一個所に舎利塔を立てさせた際、舍利塔に「神尼」の像が安置されたという点に着目します。神尼とは、幼い文帝を養育し、将来、廃仏が行われるものの、この子がやがて皇帝となり「重ねて仏法を興す」と預言したとされる尼僧の智仙のことです。

 文帝は、その恩義に感じて、各地の舍利塔内に智仙の像を置かせたのですが、肥田氏は、山西省の「大隋河東郡首山栖巌道場舎利塔之碑」によれば、文帝誕生時に「智僊」という天女が来臨して預言をしたとし、文帝が匠人を召して「等身像」を鋳造させ、また「僊尼」の画を描かせて帝の傍らに置き、これを四方にわかつことによって「紹興三宝」し、天下に「日角(文帝の額にあった神秘的な突起)」と「龍顔(天子のお顔)」を知らしめたとあることに注目します。これは、顔まで似せた文帝等身の像が造られたことを意味するためです。

 しかも、中央から「造様(作成モデル)」を各地に送って同一設計で舎利塔を建立させ、第一次は十月十五日という文帝の誕生日の正午、第二・第三次は釈尊降誕日である四月八日の正午に、全国一斉で舎利を地下の石函に埋納させたのです。肥田氏は、文帝は自らを釈尊になぞらえたのではなく、「護法の転輪聖王たらんとした」(74頁下)と推測しています。

 こうして肥田論文を読んでくると、やはり隋の文帝の役割が重要ですね。文帝が「菩薩天子」と呼ばれたのは、菩薩戒を受けて仏教復興に努めたからであって、北朝の皇帝のように「皇帝即如来」と主張することはなかったようですが、菩薩というのは次に仏になる存在でもありますので、文帝がそうした菩薩として位置づけられていたとしたら、結果としては仏のイメージが重ねられていることになります。

 このように、倭国の仏法興隆の手本となった隋では、皇帝の「等身」像が神尼の画像とセットにされ、「紹興三宝」のために作成モデルが諸州に頒布されていたのです。隋におけるこうした崇仏事業の情報は、北周の廃仏以後、「重ねて仏法を興」した活動の具体例として、朝鮮諸国や倭国にも伝えられたことでしょう。

【補記:2011年12月13日】
上では「第一次は十月十五日という文帝の誕生日の正午」とありますが、これは上記論文の誤りであって、「この仁寿舎利塔の第一次の建立の宣布が、文帝の誕生日である六月十三日になされ、十月十五日の正午」と訂正すべきであり、近く刊行される肥田路美『初唐仏教美術の研究』では大幅に書き直された論文が収録されると、肥田さんから知らせていただきました。

厩戸皇子・蘇我馬子・秦河勝の関係: 林芳幸「高句麗系軒丸瓦採用寺院の造営氏族とその性格」

2011年10月04日 | 論文・研究書紹介
 日本仏教は、百済の支援で始まっており、最初の本格伽藍として蘇我氏が造営した飛鳥寺の瓦は、百済の瓦工が担当しました。ただ、続いて蘇我氏が建立した豊浦寺の跡からは、高句麗系とされる瓦が出ています。そうした高句麗瓦の分布状況から、寺院の造営氏族について考えてみたのが、

林芳幸「高句麗系軒丸瓦採用寺院の造営氏族とその性格----」
(『滋賀県史学界誌』第14号、2004年3月)

です。

 なお、「高句麗系軒丸瓦」というのは、高句麗の軒丸瓦に似ていて、そちらに起源を求めることができるということであって、高句麗から直接、型や技術が伝えられたのではなく、百済経由と見るのが通説です。これは、日本への伝播の過程をかなり具体的に追うことができる百済瓦とは大きな違いです。このため、実際にはこの形は日本で作られたとする見解もあります。

 その高句麗系軒丸瓦研究が一気に進展したのは、1982年に京都府宇治市隼上り瓦窯跡を調査した際、大量の瓦や土器が出土したのがきっかけでした。これによって、この瓦窯で焼かれた高句麗系軒丸瓦が、かなり離れた飛鳥にまで運ばれて豊浦寺で用いられたことが明らかになったのです。豊浦寺では、最初に建立されたと推定される金堂は、飛鳥寺で用いられた瓦と同笵のものが採用されており、高句麗系軒丸瓦は金堂の後で建立された塔か中門に用いられたと考えられています。

 高句麗系瓦のうち、豊浦寺IV型と呼ばれるタイプの瓦は、豊浦寺すぐ傍の蘇我系と思われる和田廃寺と奥山廃寺からも出土しており、斑鳩では中宮寺・平群寺とすぐ近くの今池瓦窯から出土しています。中河内からは、衣縫廃寺・船橋廃寺・渋川廃寺・西琳寺・大県廃寺・土師寺から出ています。いずれも蘇我氏と関係が深い氏族の寺ばかりです。

 また、隼上り瓦窯では、豊浦寺に供給された瓦と異なるタイプである隼上り瓦窯D型と呼ばれる高句麗系軒丸瓦が出土し、山背・近江・河内などの寺に供給されていたことが知られました。北山背では北野廃寺と広隆寺に供給されています。以前とりあげたように、北野廃寺は山背を本拠地とする秦氏の寺であって広隆寺の前身とされるものですので、蘇我氏と秦氏の関係の深さがうかがわれます。

 ここで林氏が着目するのが、中河内では、高句麗系瓦を採用する寺が圧倒的に多く、大和川と石川が合流する辺りを中心に造営されていることです。このうち、渋川廃寺はやや離れており、その瓦は豊浦寺より少し遅れて620~30年頃に作られたと推定されています。

 この渋川廃寺については、安井良三氏が、廃仏派とされる物部氏の氏寺と見て、物部氏は仏教を信仰していたと論じたことは有名です。これによれば、守屋と馬子の合戦は、廃仏・崇仏をめぐる戦争ではなかったことになります。しかし、亀井輝一郎氏は、「アト」という地名が大和川に沿って河内と大和の両方に存在することに注目し、物部氏の同族であって水上交通を握っていた阿刀氏が渋川廃寺を建立したと推測されました。

 これに対して林氏が注目するのが、渋川廃寺では豊浦寺と共通する高句麗系軒瓦が出土しているだけでなく、時代が遅れるものの白鳳期の法隆寺式軒平瓦も出土することです。つまり、渋川廃寺は法隆寺と接点を持っていたのです。その法隆寺式軒平瓦については、山陽道東半から、南海道、さらに西海道の一部にかけて分布しており、『法隆寺資財帳』に見える法隆寺の庄倉の分布と対応することが知られています。

 そこで、林氏は、渋川廃寺は、上宮王家と関係が深くて水上交通に関わっていた船氏やその一族である利苅村主氏のいずれかによって建立された可能性があると説きます。

 林氏がもう一つ注目するのは、このように、高句麗系の豊浦寺IV系の軒丸瓦を採用した寺院は、大和川沿いに多いにもかかわらず、若草伽藍や四天王寺といった大和川の交通の要衝にある上宮王家の寺院には採用されていないことです(中宮寺は、当初は現在の位置よりさらに数百メートル東にありました)。このため、林氏は、この瓦は王権に従う氏族の寺院のみに採用され、大和川から飛鳥に入ってくる海外の使者などに権威を見せつけるものではなかったかと、推測します。そして、そこに秦氏の介在を想定するのです。

 本論文は、大和川の水運を握り、また対外政策を兼ねて大和側沿いの関係深い氏族の寺に高句麗系瓦を供給したとして、厩戸皇子の役割を重視し、秦氏の支援を考慮しているのが特徴です。自ら「推論に推論を重ねた」と述べているように推測の多い論考ですが、瓦の供給関係を見る限り、蘇我氏と上宮王家と秦氏の結び付き、秦氏の勢力を利用した上宮王家の勢力進展は、否定しがたいものがあります。