聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

『教化研究』聖徳太子特集で小倉豊文の太子研究を検討

2020年08月07日 | 小倉豊文の批判的聖徳太子研究
親鸞が熱烈な太子信仰を抱いていたため、真宗は太子信仰が強く、研究も盛んです。来年は太子1400年遠忌ということで、真宗ではいろいろな行事が予定されているようですが、そうした中で、多角的な視点から太子と太子研究を見直す特集が刊行されました。

真宗大谷派の教学研究所が出している『教化研究』の166号です。



私の講義録は、太子について語るのは自分を語ることであって実は怖い行為であることについて説明した後、「厩戸王」という表現を戦後に作った小倉豊文の太子研究を戦前・戦中・戦後と時代順に検討し、誠実でひたむきな小倉の太子研究が、いかに時代の影響を受け、揺れ動いていたかについて述べたものです。

『教化研究』の表紙を見ればおわかりのように、太子いなかった派の吉田一彦さんも講義を載せてますが、私の「いなかった派」批判のうち、三経義疏は和習がたくさんあるため中国成立を説く藤枝説は成り立たないと私が指摘したことなど、自説にとって都合の悪い確定部分は無視したうえで、決択がついていない箇所だけとりあげ、石井反論は論証が不十分と言ってすませている感じがします。

吉田さんの太子論は、『日本書紀』の太子関連記述は様々な系統の資料、それも和習だらけの資料の寄せ集めであることに気づかず、唐に16年も留学した博学な道慈が書いたとする説を展開するなど、勇み足が目立ったものの(いなかった派は、その点を指摘されると、道慈は筆者ではなくプロデューサーだった説に切り替えましたが、文章チェックをしないプロデューサーって何なんでしょう?)、資料に基づく着実で有益な検討もかなりなされていただけに、上記のような論法は残念です。

今回の聖徳太子特集は、名和さんの「ブックガイド」を初めとして、聖徳太子研究・聖徳太子信仰研究を知りたい、始めたいという人には有益な論考が並んでいますので、お勧めです。

刊行されたばかりでまだ掲示されてませんでしたが、東本願寺出版のサイトで購入できるはずです(こちら)。

戦時中の小倉豊文の聖徳太子信仰研究

2010年09月09日 | 小倉豊文の批判的聖徳太子研究
 昭和15年に姫路高等学校教授となった小倉は、四天王寺が刊行していた雑誌『四天王寺』に昭和16年頃から寄稿するようになりました。まとまった論考は、「聖徳太子像の種々相(一)」(『四天王寺』1941年8月号)に始まり、翌年まで続いた 4回の連載です。この掲載の時期、小倉は「太子像集成」と題して巻頭に様々な太子像の写真と簡単な解説を掲載し始めています。むろん、太子礼讃の立場でなされているのですが、伝承を無批判に信じて絶讃するばかりの寄稿者たちの中で、何とか学術性を保とうと努めていることが目につきます。

 この『四天王寺』誌にしても、時局を反映して軍国主義の傾向を強めており、すぐれた仏教学者であった京都大学の羽渓了諦教授なども、昭和14年に連載された「背私向公の実践」と題する「憲法十七条」講演においては、欧米の軍人と違い、必ず死ぬと分かっていながら突撃するのが日本軍の強さの理由であり、これこそ「憲法十七条」の「背私向公」の精神に基づく大乗仏教の感化のおかげだ、などと主張しています。

 また、『四天王寺』の昭和16年3月号では、東條英機陸軍大臣が将兵に通達した「戦陣訓」を、すべての人の座右に置いてもらうためという理由で「特別付録」として全文掲載し、大阪国防館長である陸軍大佐の「戦陣訓」解説を載せるに至っています。

 小倉の「聖徳太子像の種々相(一)」は、そうした時期に連載されたにもかかわらず、聖徳太子の像が作られたというのは、初期の「確実な文献の伝ふるところ」でないと明言し、法隆寺金堂釈迦像は太子等身と言われているとはいえ、その像の顔つきから太子の面相を推定し、長めの「馬顔」だから「厩戸」と呼ばれたとする推定などは「科学的迷信」に過ぎない、として切り捨てています。

 つまり、太子については「大宗教家であり、大政治家であり、大外交家であつて、……恩威兼備の大人格であらせられた」(「聖徳太子像の種々相(四)」、『四天王寺』昭和17年4月号)などと礼讃しつつも、個々の太子関連の伝承や文物については、片端から『聖徳太子伝暦』など後代の信仰の中で生まれたものと判定していったのです。小倉は、太子像の彫刻のうち現存する最古のものは平安後期であるとし、それも「純粋の肖像」ではなく「神像的性格のもの」だと論じていました。

 小倉は、聖徳太子自身についての解明は資料不足で困難であるとして、このような文物から伺われる聖徳太子信仰の成立と展開の研究に力を注いでいました。それには、津田事件の影響もあったことと思われます。小倉は津田と違って聖徳太子大好き人間でしたが、『日本書紀』の太子関連の記述の真偽を追求するような危険な研究は避け、太子を礼讃しつつ、後代の太子信仰にテーマを限定して厳密な批判的研究を行なう道を選んだのでしょう。

 当時は、学生の勤労動員が多くなった結果、付き添う数名の教員以外はやることがないのを利用して調査を重ね、入りびたっていた四天王寺の事務所などは「私の研究室の分室」のようになっていたそうです(小倉「わが心の自叙伝<11>」、『神戸新聞』90年5月15日)。

 そのため、小倉は『四天王寺』の編集にも関わるようになり、「太子鑚仰」の組織も主導するようになったようです。『四天王寺』が『太子鑚仰』と名を変えていた昭和19年9月号の裏表紙を見ると、顧問には法隆寺貫首で唯識学の権威であった佐伯定胤、昭和天皇に「憲法十七条」の外国語訳に関するご進講をした宗教学者の姉崎正治などが名を連ねているほか、「東部」の「企画」担当者は、「石田茂作、花山信勝、坂本太郎、家永三郎、増永吉次郎」、「西部」の担当者は、「禿氏祐祥、小倉豊文、望月信成、藤島達朗、出口常順」という豪華メンバーになっています(小倉と同様、聖徳太子大好き派である家永三郎の名が見えるのが興味深いですね。家永の戦時中の研究については、別に書きます)。

 末尾の「鑚仰だより」では、四天王寺が陸軍に献納した軍用機のうち、「四天王号」と「如意輪号」の命名式が行われたことなどを伝えています。そうした時期だけに、その号に小倉が書いた「太子鑚仰の現在と将来」は、さすがに当時の国家主義的太子観に近づいているように見えます。そこでは、国内国外の様々な太子讃仰運動が列挙されており、東京戦時生活局が都民の精神作興のため「十七条憲法及び其の解説」を七百万都民に印刷配布する計画を昭和18年2月に発表したことなども紹介されています。

 ただ、小倉は、偽書である『大成経』や『五憲法』に基づく太子顕彰運動などについては「深思反省」をうながしており、讃仰の運動・事業だけでなく「諸研究」にも「深甚なる反省を要する」と、述べています。つまり、太子礼讃の度合いを強めつつも、太子の真の偉大さを明らかにするためにこそ、史実と後代の伝承を区別する批判的な研究を進める必要があるのだ、という姿勢は何とか保っていたのです。

 この点では、小倉は、否定傾向が強い津田左右吉よりも、史実を明らかにすることによって聖徳太子を偉大な政治家・外交家として顕彰しようとした久米邦武に近い面があります。小倉が心惹かれていたのは、苦悩する人間としての太子、という面だったようですが…。小倉の聖徳太子研究は、同じ時期に力を傾けていた宮沢賢治研究と共通する性格を持っていました。

生前の呼び名は「厩戸王」だったろうと説いた誠実な研究者:小倉豊文(1)

2010年08月19日 | 小倉豊文の批判的聖徳太子研究
 津田左右吉に続いて、聖徳太子の事蹟を疑った学者は、小倉豊文(おぐら・とよふみ) (1899-1996) です。

 千葉に生まれ、兵隊になるのが嫌で千葉県師範学校に入った小倉は、以後、広島高等師範学校・広島文理科大学で学び、旧制姫路高校教授、広島文理科大学の助教授等を歴任、戦後には同大学が改組した広島大学文学部及び大学院で教授を務めました。研究の対象は、精神的な悩みを抱えていた際に「世間虚仮、唯仏是真」の語に出会い、心惹かれて調べ始めた聖徳太子と、現代の菩薩と思われた宮沢賢治でした。

 この間、終戦直前の昭和20年6月には、出版が決まっていて原稿用紙3300枚以上あった『聖徳太子信仰の歴史的研究』の原稿、写真集『聖徳太子--像及び絵伝--』の300枚を超えていた原稿すべてが、空襲による火災で焼けてしまったうえ、8月には広島原爆によって妻を亡くし、自らも被爆します。

 津田左右吉の疑義には共感しつつも、その論証の仕方に不満を抱いていた小倉は、戦時中にあっても、時局に便乗して太子礼讃を繰り返していた研究者たちに同調せず、聖徳太子を敬愛しながら種々の伝承について厳密な史料批判を行ない、真実の姿を明らかにしようと努めていました。

 小倉の発表、「聖徳太子の御事蹟御教学に就いて」は、文部省教学局が編纂し、文部大臣の「挨拶」を付して昭和17年12月に刊行された『日本諸学研究報告 第十七篇(歴史学)』に掲載されたものですが、そこでは、「大東亜共栄圏への聖徳太子顕揚の可能性に就て」という項目を設けておりながら、資料が集まらなかったという理由で「ここでは全然省略いたすことにいたしました」(9頁)と述べ、避けています。そして、『旧事大成経』や五憲法など太子に仮託された偽書の多さを指摘したうえで、「かゝる偽書、俗信仰の出現した事実そのものを、思想史的にも社会史的にも相当重要な問題としなければならぬかと思ひます」(12頁)と論じています。偽書や後代の俗信仰であることを明確にしつつも、そうしたものだからこそ重要であって研究すべきだとしているのは、非常に先進的ですね。

 さらに、小倉は、「又性急に太子を常人として過小評価することも、或ひは又非凡人として過大評価することも、何れも慎まなければなりません」(17頁)と言い切っています。これは、当時、太子を超絶的な天才として絶讃していた金子大栄や白井成允や花山信勝その他の学者たちとは全く異なる姿勢です。

 小倉は、太子関連の資料のうち疑問に思われる点について「何か深い思召しがあつての事である」といった「安易な態度で太子讃仰に急ぐが如きは、歴史学の自殺であるばかりでなく、真に太子を顕揚する所以ではないと思ひます」とまで明言します。そして、三経を講讃したとか、隋との外交にあたって対等の文辞を用いたといった事柄について慎重に検証せず、そのまま信じて礼讃ばかりするのであれば、それは「太子の顕揚」ではなく、「我を顕揚する滑稽に堕するもの」だと断言しています(17頁)。津田事件の後で、それも文部省教学局編纂の研究発表集で、よくここまで言えたものです。

 その小倉は、戦後になると、「聖徳太子」(『現代仏教講座』第五巻、角川書店、昭和30年)では、聖徳太子の本名について、「私は厩戸皇子がそれであり、上宮王とも通称されたのではないかと考へてゐるが、それとて確証のある訳ではない」(82頁)と述べています。さらに、広島大学での定年退職を前にした講演を原稿化した「聖徳太子流芳録--「聖徳太子信仰」資料研究中間報告--」(『広島大学文学部紀要』22巻2号、昭和38年3月)になると、

 私は厩戸王なる称呼が彼の生前の名であると思うが、その論証はここでは省略する(拙著「聖徳太子--厩戸王とその時代--」参照)。しかし本論では最も広く通行している聖徳太子なる称呼を用いることにしておく。(1頁)

とあり、「厩戸王」という名が登場しています。天皇という称号が確定する前である以上、「皇子」の語も使えないということで、「厩戸王」としたのでしょう。ただ、その論証を含むとされた「拙著」は、小倉の病気と完全志向のために、改稿を何度も繰り返したのち、ついに出版が断念されました。同年9月に刊行された『聖徳太子と聖徳太子信仰』(綜芸舎)でも、上と似た説明がなされています(22頁)。

 一方、上の本の翌年に中公新書の一冊として刊行され、広く読まれた田村円澄『聖徳太子』では、説明なしで「ともあれ、上宮王・厩戸王と豊聡耳王の名前が、比較的古いと考えられる」(9頁)と言われています。この本は、参考文献で小倉の『聖徳太子と聖徳太子信仰』をあげていますので、小倉の説を参考にしたものと思われます。田村氏は、以後の著作でも、信仰の対象としての聖徳太子と区別するために、歴史的人物としての太子について「厩戸王」の呼称を用いるようになり、これが世間に広まっていきます。

 さらに、大山誠一氏になると、聖徳太子は架空の人物であって、実在したのは「厩戸王」だと断言し、「厩戸王」は「実名」であるとしています。しかし、「厩戸王」という称呼は、『日本書紀』や『法王帝説』を初めとした諸文献には全く見えず、小倉が推測したものです。その小倉は、『日本書紀』などに見える聖徳太子の事蹟の多くについて疑い、摂政というのは事実でなく当時の第一の権力者は馬子であったとし、三経義疏を太子作としたのは行信だろうとするなど、大山説のうちのかなりの部分を既に説いていました。

 しかし、大山氏は、津田左右吉や藤枝晃先生などについては、その主張を詳しく紹介しているものの(津田説については自説に有利なように歪めた形でしたが)、小倉の主張については、個々の説を具体的に紹介してその意義を評価したことが全くないのです。大山氏の一般向けの著書しか読んでいない読者は、大山説が小倉説にかなり一致していることを知らずに終わるでしょう。しかも、大山氏の著作では、津田説の出典の記載が不備であったのと同様、ごく稀に小倉について言及した場合、出典の記載が不備なのです。これについては、改めて書くことにします。

【追記 2010年9月28日】
被爆後、小倉は「後遺症に苦しむようになった」と書きましたが、広島大学定年前に過労で持病の胃と肝臓が悪化し、寝たり起きたりの状況となって頭脳労働や執筆を禁止され、退官後しばらくは療養に努めたものの、被爆の後遺症そのものではなかったため、後遺症の箇所は削除しました。