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【重要】『日本書紀』中で「憲法十七条」だけが重要箇所で2度用いた語法が三経義疏すべてに!:岡田高志「「憲法十七條」の表現と思索」

2024年05月15日 | 論文・研究書紹介

 「憲法十七条」と『勝鬘経義疏』が『優婆塞戒経』の利用その他の面で似ている点が多く、同じ人物によって書かれたらしいことは、私が以前指摘しました(こちら)。

 今回は、タイトルにあるように、『日本書紀』中で「憲法十七条」だけが、それも重要な箇所で2度用いている語法が、実は三経義疏すべてに見えることを指摘した画期的な論文が刊行されました。

岡田高志「「憲法十七條」の表現と思索-前漢~六朝の「詔書」・諸典籍との比較を通して」
(『古事記年報』第66号、2024年3月)

です。この発見は、数年前に古事記学会の研究会での発表で報告されたため、その論文化が期待されていたものです。私が昨年から『憲法十七条を読む』の原稿を書いておりながら、それが進んでいなかったのは、この論文が出るのを待っていたため、というのも一因です。

 その発表の後、私がリモートでやっていた『勝鬘経義疏』の読書会にも参加してくれた岡田さんは、研究を重ねて発表内容をさらに深め、この論文では、「憲法十七条」と中国の前漢から六朝時代の箇条書きの詔書と比較し、「憲法十七条」が典故に基づきつつ独自の思索をおこなっている点を検討、そして「憲法十七条」独自の語法を三経義疏と較べるという作業をしています。

 岡田さんはまず、「憲法」の語を中国の古典や史書で調べます。『国語』では賞罰を正しくおこなうことが国家の「憲法」であると述べており、また法家の『管子』では、君臣一体で統治すれば、「号令」を通じて「憲法」を明らかにすることができ、国内の風紀を正すことができる、と説いていることに注目します。これはまさに「憲法十七条」の内容と合致しますね。

 そこで、「号令」の例として、これまで「憲法十七条」との類似が指摘されてきた北周の蘇綽起草の「六条詔書」以外に、前漢の「六条詔書」、西晋の「五條詔書」についても比較します。これらは、地方の官吏を対象とし、口頭での伝達や冊書・尺牘の形で頒布されたことが知られています。

 岡田さんは、「六条詔書」の第二条が民に「仁順」を教えて「和睦せしめる」としている点が「憲法十七条」第一条の「上和下睦」と一致すること、前漢の「六条詔書」が「公」に背いて「私」に向かうことを戒めているのは、「憲法十七条」第十五条が「背私向公」を命じているのと共通すること、これらの詔書と「憲法十七条」は似ている面がかなりあること、また、「憲法十七条」は嫉妬の害を説くが中国の詔書にはそうした点はないことなどを指摘します。

 つまり、「憲法十七条」は役人あてに出された中国の箇条書きの詔書とかなり共通する面と、独自な面があるとするのです。その独自の面の一つは、「憲法十七条」がしきりに「聖」に言及してその意義を説いていることです。

 『日本書紀』では、「聖」の語は神、天皇、皇太子を指しており、官人に「聖」になるよう促すのは「憲法十七条」のみです。また、推古紀では、行路の死人を「聖」と呼び、慧慈を「聖」としていますが、これらの用法は「憲法十七条」を含めて厩戸皇子関連に限られることに岡田さんは注意します。

 このように、「憲法十七条」は『日本書紀』中で異質なのですが、その例の一つが、「憲法十七条」のが第四条では、民をおさめる根本は「要在乎礼」と述べて「礼」が根本であることを強調し、第九条では事業がうまくいくか失敗するかは「要在于信」と述べて「信」が大事であることを強調していることです。『日本書紀』ではこの二例を除いて、「~は、要は~に在り」という語法は見られません。

 岡田さんは、「の要は~に在り」といった形の用例は、法家の文献である『管子』や儒教とは異なる独自の思想を説いた『荀子』、鳩摩羅什の弟子である僧肇の『注維摩』などに見えることを指摘します。

 「憲法十七条」が法家の思想、特に『管子』に頼っていることは、山下洋平さんが指摘したことですし(こちら)、『注維摩』は、僧肇の注釈を柱として羅什その他の『維摩経』の注釈を編纂した書物であって、岡田さんは触れていませんが、『維摩経義疏』が用いた注釈ですね。

 ここで驚くことに、岡田さんは、「憲法十七条」が重要な箇所で強調するために用いている「要在~」の語法が、『勝鬘経義疏』に4例、『法華義疏』に1例、『維摩経義疏』に2例見えることを指摘します。

 つまり、『勝鬘経義疏』と「憲法十七条」が内容面で共通する点が多いことは、私が以前指摘したことですが、それが語法の面でも立証されたことになるのです。しかも、私の前回の論文では、「憲法十七条」と『勝鬘経義疏』の類似を指摘しただけだったものが、岡田論文では、「憲法十七条」が重要な箇所で用いている語法、それも『日本書紀』で「憲法十七条」だけに見えている語法が、三経義疏すべてに登場することを明らかにしたのです。

 三経義疏はいずれも語法がきわめて類似してることは、花山信勝などが戦前から論じていましたが、そうした人たちは熱烈な聖徳太子信仰を有する僧侶学者がほとんどだったため、古代史学界からは信用されない面もありました。

 それと違い、僧侶ではない一般研究者の私がNGSMシステムを用い、変革語法も含めた多くの例を示して三経義疏の語法の類似を論証しましたが(こちらなど)、今回はまた一般研究者の岡田さんよって研究がさらに進んだことになります。

 『日本書紀』における厩戸皇子の事績については、編集段階でかなり潤色されていることが指摘されていたうえ、『勝鬘経』や『法華経』の講経は記されていても三経義疏には触れられていなかったため、三経義疏は懐疑的な史学者たちによって疑われてきました。また、朝鮮の書物だとか、百済・高句麗から来た僧侶などによって書かれたとする説もありました。

 しかし、三経義疏は6世紀初め頃の梁の三大法師の注釈を基調としており、太子当時は、中国でも朝鮮でも時代遅れになっていたうえ、変革漢文が目立つものの、古代朝鮮の変格漢文とは違っていることも私が指摘しました(こちら)。

 今回の岡田さんの論文は、これまでのこうした指摘の決定打となるものです。聖徳太子に関する伝承には後代に創作されたり、誇張されたりしたものが多いことは事実であるものの、「憲法十七条」については、『日本書紀』編纂時の多少の潤色はあるにせよ、基本は推古朝と見てよい、というのが現在の学界では主流の見方となりつつありますが、その点はこの論文で確定すると思われます。

 また、「憲法十七条」と三経義疏については、百済や高句麗から来た僧や学者が支援したにせよ、書いているのは同じ日本人であるらしい可能性も、これで非常に高まりました。

 ただ、律令が作成された後、天孫降臨神話によって天皇の権威を説いた『日本書紀』の編者が潤色するなら、なぜ「天皇」の語や「神」の語を用いなかったのかという疑問があるうえ、守屋合戦の記述の後に付された忠犬伝承を見ても、『日本書紀』が原史料をそのまま貼り込んだ部分があることは明らかですので(こちら)、「憲法十七条」についても大幅な潤色はなかったものと私は考えています。

【追記:2024年5月19日】
雑誌の刊行を5月と書きましたが、奥付を見たら3月刊となっていたので訂正しました。実際に出たのhは5月ですが、年度内に刊行したことにするというよくある事情によるものです。

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