聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

温湯碑が伝える聖徳太子の伊予来訪を疑う:松原弘宣『熟田津と古代伊予国』

2021年07月28日 | 論文・研究書紹介
 少し前に、『伊予国風土記』の佚文に見える湯岡碑文に関する九州王朝説派のトンデモ本を一蹴した論文を紹介しました。湯岡の温泉に来た「法王大王」は聖徳太子ではなく、九州王朝の「法王」と「大王」という兄弟王だという古田武彦の珍説に基づいて空想をくりひろげた本を厳しく批判したものです(こちら)。

 これに対して、太子の伊予来訪を否定する点は同じでも、学術的に検討していて有益な本がありますので、かなり前の出版になりますが、紹介しておきましょう。

松原弘宣『熟田津と古代伊予国』「第三章 神話・伝承にみえる伊予国 第一節 聖徳太子の伊予遊行伝承について、第三節 聖徳太子の伊予来訪伝承の背景について」
(創風社出版、1992年)

です。愛媛大学で瀬戸内を中心とした水上交通史などを専門とする松原氏は、古代における伊予国に関する様々な記述を検討した後、聖徳太子来訪伝承を取り上げます。

 まず、碑文については、後漢時代の張衡の「温泉賦」や北周の王褒の「温泉碑」の文言に基づいていることから、そうした文章がまとめられている文献、つまり、「類書」と呼ばれる用例百科事典を利用していると見ます。そして、その類書として、東アジア諸国で広く用いられた『芸文類聚』を想定するのです。

 『芸文類聚』100巻は、初唐の武徳7年(推古32年、624年)の完成であって太子の没後であり、日本にもたらされたのはそれより後ですので、太子の時代にこうした碑文が書かれるはずはないとします。

 また、舒明天皇の伊予来訪は『日本書紀』に記されるものの、聖徳太子の来訪は『日本書紀』にも『上宮聖徳法王帝説』にも見えないことを重視します。さらに、碑文に記される「法興」という年号については、法隆寺金堂の釈迦三尊像銘に記されるのと同じだが、年号が用いられるのは後代のことであり、この時、23歳である太子が「法王大王」と呼ばれるのは不自然とします。

 そして、このような伝承が生まれた背景として、奈良中期の『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』によれば法隆寺が讃岐・伊予に荘園や倉を多数持っていたこと、またこの地の寺の遺跡から法隆寺式の瓦が出ていることを指摘し、豪族を含めたこの地と法隆寺の結びつきが強まっていく中で、太子の来訪伝説が形成されたと見るのです。

 文献に基づく穏当な見解ですが、問題もいくつかあります。一つは、『芸文類聚』の利用を当然のこととしている点です。美文の詩文を作る場合、百科事典的な類書に収録された詩文を参考にするのは良くあることですが、そうした類書は『芸文類聚』に限りません。

 『芸文類聚』以前に、南朝の梁では『華林遍略』、北朝の北斉では『華林遍略』を修訂した『修文殿御覧』などが編纂されています。この20年ほどでそうした類書の研究が日本・中国で大いに進み、『日本書紀』が利用していた類書についても、池田昌広さんなどが解明しています。

 南北朝期から隋唐にかけては、国家が編纂したこうした大部の類書(『華林遍略』は720巻)とは別に、これらを略抄した簡略版の類書も流行しており、これは仏教類書においても同様であって、一般の類書も仏教類書も、そうした様ざまな類書の断片が敦煌写本から発見されています。

 ですから、厩戸皇子関連の記事を含め、『日本書紀』その他が類書を利用しているのは事実ですが、だからといって湯岡碑文が『芸文類聚』に依っていると断定することはできないのです。

 聖徳太子の場合、『日本書紀』で太子関連記事を書いた編者、ないしその素材となった文献の作者も、類書の「聖」の項目を利用した可能性がありますが、「憲法十七条」自体、その可能性があることは、かつて論文で触れました。

 次に、舒明天皇と違って『日本書紀』に厩戸皇子の伊予来訪が記されていない点ですが、すべての事柄が『日本書紀』に記されているわけではありませんし、舒明天皇の行動は厩戸皇子の事績を受け継ぐ形でおこなわれている場合が多いことは、このブログで取り上げた鈴木明子氏の論文が指摘しています(こちら)。

 また、法興年号を含む釈迦三尊像銘については、釈迦三尊像と一体のものとして作成されたことは、東野治之氏が論証しており、美術史学者も像や光背を推古朝のものとみなすのが通説になっています。

 「法王」という呼称は不自然だとする点については、以前、このブログで湯岡碑文をとりあげ、これは『維摩経』の「法王」に基づくものであり、椿の大木がアーチを作っている光景にふさわしい用法であることを説明しておきました(こちらこちら)。

 という状況ですので、松原氏のこの本は、愛媛大学教授ならではのこの地の歴史や交通史に関する記述は有益であるものの、聖徳太子の伊予来訪説否定については、最新の研究成果からすると確実な論拠を示せていない、ということになります。

【付記:2021年8月13日】
冒頭で、九州王朝説派のトンデモ本を「珍説奇説」コーナーで紹介したと書いたのですが、そのトンデモ本を批判した白方勝氏の論文を「論文・研究書」コーナーで紹介していましたので、訂正します。

遣隋使となった小野妹子およびその小野氏について検討:大橋信弥『小野妹子・毛人・毛野』

2021年07月25日 | 論文・研究書紹介
 倭国の外交を支えた立役者の一人である小野妹子を取り上げ、その一族について検討した研究書が出ています。

大橋信弥『小野妹子・毛人・毛野』
(ミネルヴァ書房、2017年)

です。構成は以下の通り。

 はじめに
 第一章 遣隋使小野妹子-「大徳小野妹子、近江国滋賀郡小野村に家せり」
 第二章 妹子以前の小野-「滋賀郡」の古墳時代
 第三章 小野氏と和邇氏の同族-和邇氏同祖系譜の形成
 第四章 和邇部臣から小野氏へ-「和邇部氏系図」をめぐって
 第五章 妹子の後継者-毛人と毛野
 第六章 古代貴族小野朝臣家の軌跡-奈良・平安時代の小野家の人々
 参考文献 
 おわりに
 小野氏略年譜
 人名・事項索引

以上です。

 第一章では、『隋書』『日本書紀』その他の文献を見直し、隋との外交における妹子の事績が検討されています。その特徴は、妹子以外の当事者であったであろう推古天皇・蘇我馬子・厩戸皇子については、いさぎよいと思えるほど切り捨てており、まったく触れていないことです。

 ただ、本間氏は、文献に即して考えるよう努め、想像はできるだけ控えたと述べているものの、妹子自身については推測している部分も少なくありません。その最大の例は、『隋書』には見えるものの、『日本書紀』には記されていない開皇20年(600)の遣隋使について、「妹子がこの時の使節であった可能性もあるとみている」と述べていることでしょうが、論証はされていません。

 本間氏は、倭国の政治の仕方を隋の文帝に「はなはだ義理無し」と呆れられたというこの時の遣隋使を、「礼」や「楽」を導入するためと見る説を批判します。この派遣がきっかけとなって倭国の政治・制度の改革が進んだのは事実であるものの、それは「結果論」であって、それを目標として派遣したのではないとするのです。

 派遣については、百済の要請による新羅征討を考慮してのものであって、本格的な外交の準備、情報収集のためと見ます。『日本書紀』に記していないのは、文帝に呆れられて訓戒されるという情けない結果となったうえ、新羅征討が中止に追い込まれたためではないかとするのです。

 そして、大業3年(607)の二度目の遣隋使に応え、翌年に来日した隋使がもたらした国書が、倭国を朝貢国扱いして「朝貢」とか「徳化」といった言葉を用いているにもかかわらず、『日本書紀』推古紀がそのまま載せているのは、それが推古朝時の認識だったためであって、対等の外交などは考えていなかったのではないかとしています。

 これは興味深い指摘ですね。これが事実なら、推古朝期に既にそうした立場で事柄をまとめて記録したものがあり、『日本書紀』の推古紀における外交記事はそれを潤色して日本の位置を高める形で編集し直したものの、そのまま残って使われている部分もあるということになります。

 氏は、「日出処天子」「日没処天子」「恙無きや」といった表現で問題となったこの時の倭国の国書については、外交に関する生半可な知識に基づいて作成したためではないかとしています。

 これについては、私が先日の学会発表で示したように、「仏教復興をやっている菩薩天子仲間」といった意識に基づいてのものであったことも考慮すべきですが(こちら)、戦前の教科書が説いていたような、対等ないし対等以上の気概を示したといった解釈が当たらないことは、このブログでも以前紹介した通りです(こちら)。

 小野妹子が遣隋使に選ばれたことについては、本間氏は、近江で育ったことが関係していると説きます。最初の遣唐使となった犬上御田鋤も、近江北東部の豪族であり、それ以前の継体朝の末年に百済と新羅の加耶国介入を阻止するため安羅加耶に派遣された近江臣毛野も、名が示すように近江育ちで滋賀の坂本あたりを本拠としていたことに注目するのです。

 つまり、近江の諸地方に進出して志賀漢人(あやひと)と総称される渡来人集団との関係を重視するのであって、このことは、第2回の遣隋学問僧の中に志賀漢人恵遠がいることによって立証されるとします。これは説得力がありますね。

 そこで、本間氏は、小野氏の来歴、および妹子の後継者と子孫の動向からそうした背景を検討していきます。着実な方法と言えるでしょう。 

 なお、第一章では厩戸皇子や馬子にほとんど触れていませんでしたが、妹子の後継者を論じた第五章では、「推古朝の政府は、推古の主導の下、次期の王位を約束されていた厩戸皇子と馬子の二人が動かしていたとみられる」と簡単に述べています。

 また、本間氏は、妹子は「大礼」の身分で隋に派遣されて役目を果たして以後は、『日本書紀』には登場しなくなるものの、天武朝に仕えて677年に亡くなった孫の毛人の金銅製の墓誌が京都の祟道神社の裏山の石室から出土しており、「大徳冠(律令制の正四位上に相当)妹子」としていてこれが妹子の最高位と思われるため、妹子は隋から帰国後は大夫(まえつきみ)の一員として政府の中枢で外交政策に関与し、晩年は故郷の近江にもどって小野村で余生を終えたと推定しています。

 となると、『日本書紀』では国書紛失問題が大きく取り上げられていますが、ここには記述の混乱か『日本書紀』編者の意図的な歪曲があるのであって、実際には、多少の問題はあったにせよ、妹子は使者の役割をきちんと果したとして評価されていたということになりますね。

 遣隋使の時は「大礼」であって冠位十二階の第五位ですから、没後に加階されたものだとしても、生前にかなり上位に任じられていないと、いきなり最上位の「大徳」にするのは無理でしょう。

 今回はほんの一部しか紹介できませんでしたが、本間氏のこの本は、推古朝について、さらには古代日本の外交を考えるうえでの基礎作業として有益な本です。

Wikipedia「聖徳太子」記事における石井説記述の誤りの数々(訂正版)

2021年07月23日 | その他
 Wikipediaの「聖徳太子」記事は、研究者ではない古代史ファンの人たちが書いているようで、学術的でなく問題だらけであって、最新の研究状況を反映していない点は変わっていませんが、論調はこの10年ほどでかなり変化しました。

 当初は、「聖徳太子はいなかった、実在したのは厩戸王だ」説が正しいとする立場を柱としていたものの、最近は虚構説には反論が多いこともとりあげており、ネット上で読むことのできる私の説も紹介してくれています。

 たとえば、2021年7月22日現在のWiki記事では、

用明天皇紀では「豊耳聡聖徳[注釈 1]」や「豊聡耳大王」という表記も見られる[7]。『厩戸王』という名の初出は更に30年下った『懐風藻』であり[5]、歴史学者の小倉豊文が1963年 の論文で「生前の名であると思うが論証は省略する」として仮の名としてこの名称を用いたが、以降も論証することはなく……

と書かれており、注7と注5で出典として私の発表をあげています。

 しかし、問題が多いですね。まず、「豊聡耳大王」ではなく、「豊聡耳法大王」です。また、書名ではなくて人名なのですから、厩戸王を二重括弧でくくって『厩戸王』と記するのはおかしいでしょう。

 そのうえ、注7では出典として、

石井公成「藝林会第五回 学術大会「聖徳太子をめぐる諸問題」 問題提起 聖徳太子研究の問題点」『藝林』第61巻、藝林会、2012年。


と記していますが、論題表記がおかしいです。

石井公成「問題提起 聖徳太子研究の問題点」、『藝林』第61巻、2012年。

などとすべきでしょう(researchmapにあげてあるPDFは、こちら)。

 また、「厩戸王」は『懐風藻』が初出とあるのは、「「聖徳太子」の語は『懐風藻』の序に見えるのが初出」の誤りです。つまり、『懐風藻』の編者と推測され、歴代の天皇たちの漢字諡號を定めたとされている淡海三船が用いたのが現存文献では最初であることは講演で述べ(その講演録の紹介は、こちら)、このブログでも簡単に触れました(こちら)。

 そもそも、「厩戸王」というのは、従来のイメージに縛られまいとして小倉が戦後になって仮に想定した呼称であって、現存する古代の文献には見えないということは、Wikiが出典としてあげているその発表やこのブログを初めとして、私があちこちで強調してきたことです。

 どう評価するかは人それぞれでかまいませんが、こうした重要な事実について石井の説として間違ったことを書かれるのは、研究者としての信用に関わります。まして、前回の記事で、聖徳太子の事績を疑うこれまでの研究の全面的な見直しを迫る諸発見を報告したばかりですので(こちら)、このような間違いは大迷惑です。

 Wikipedia は、自分自身に関する記事の執筆や訂正はできないはずですので、記事作成や訂正に関わっている人がおられたら、訂正をお願いします。

【付記】
2021年7月22日に「Wikipedia「聖徳太子」記事における石井説記述の誤り」という題名で公開し、その後で説明不足の点を修正しましたが、Wikipediaの記事を読み直したら、不適切な箇所が他にもあったため、大幅に書き換えて訂正版を再公開することにしました。私の研究者としての信用に関わると書きましたが、Wikipediaそのものの信用にも関わる誤りです。
【付記:2021年7月30日】
上記の記事で指摘した Wikipedia記事における誤りが修正されていました。訂正してくださった方に感謝します。まだ問題点は多いのですが、この太子記事については、全体の統一をはかる中心メンバーがおらず、複数の人たちがバラバラに追加訂正しているようですね。

【重要】「憲法十七条」の基調となる経典を発見、「憲法十七条」も三経義疏も遣隋使も聖徳太子の作成・主導で確定

2021年07月19日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報

 この3月に駒澤大学仏教学部を定年退職しましたが、コロナ禍ということもあって最終講義はやらず、感染がおさまってきたところで学部の公開講演会での講演という形でやることになっていました。

 しかし、いつになっても感染者が減らず、また他の事情も重なったため、Web会議の形でやらざるをえなくなりました。そこで、本日19日に、学部の仏教学会の第2回定例研究会でのリモート発表という形で聖徳太子に関する重要な発見の紹介をおこない、資料をPDFで配布した次第です。

 この研究会は会員中心ですが、一般にも公開されていましたので、聖徳太子研究に関わっている他大学の研究者の方たちや、太子関連の特集をしている新聞、関連番組を作成しているテレビ局の方なども、多少参加されていました。ただ、リモート会議室は入れる人数の制限があるため、このブログでは告知していませんでした。

 発表の題名は、

  聖徳太子は「海東の菩薩天子」たらんとしたか
   ー「憲法十七条」と『勝鬘経義疏』の共通部分を手がかりとしてー

です。本日の発表内容より詳しい版が、『駒澤大学仏教学部論集』第52号に掲載される予定であって、刊行日程の都合上、既に印刷工程に入っています。

 さて、「憲法十七条」第一条冒頭の「和を以て貴しと為し、忤うこと無きを宗と為せ(以和為貴、無忤為宗)」のうち、前半については『礼記』や『論語』などが典拠とされていましたが、後半の典拠は知られていませんでした。

 しかし、「無忤」については、三経義疏が種本としていた中国の南朝仏教の主流であった成実涅槃学派(小乗ながら大乗に似た面がある『成実論』の法相に基づいて『涅槃経』その他の大乗経典を研究する学派)の僧尼たちが重視していた徳目であり、特に朝鮮諸国から尊敬されていた陳の宝瓊の伝記に見えることは、かなり前に私が発見して論文で指摘しておきました(こちら)。

 その後、「憲法十七条」の典拠に関する研究は進んでいませんでした。法家の影響もあることは早くから指摘されていましたが、富国強兵と臣民統治の策略を説き、雑家的とも言われる法家の『管子』に基づいている箇所が多く、むしろ『管子』が基調とも見られることを、山下洋平氏が明らかにしたため、このブログでも紹介しておきました(こちら)。

 実は、山下氏が指摘したもの以外にも重要な箇所で『管子』が用いられており、確かに『管子』が「憲法十七条」の構成において重要な役割を果たしていました。しかも、『管子』のその箇所のすぐ後では、爵位とそれに相当する衣を尊重させるべきことを説いています。

 「憲法十七条」がその直前に出された冠位十二階と密接な関係にあることは、多くの研究者が認めていることです。そもそも、十七条の教誡を「(憲)法」という形で示すこと自体、道徳重視の儒教ではなく、法による統治を説く『管子』の影響によると見るべきですし、それを裏付ける箇所も発見しました。

 ただ、それでも残っている最大の問題は、「憲法十七条」全体の基調となる第二条はどの文献に基づいているかということでした。第二条は「篤く三宝を敬え」で始まり、末尾では、「尤悪(きわめて悪い)」の者は少ないため「よく教えれば従う」ものだとしつつ、「三宝に帰依しなければ、どうして曲がったことを直すことができようか」と強調しています。

 以後の条ではこれに基づいて、「曲がったこと」に当たるやってはいけない事柄、おこなうべき事柄が説かれているのですから、「憲法十七条」全体を支えているのは、この第二条ということになります。

 しかし、「三宝を敬え」というのは、一般的な言葉すぎるためか、岩波の日本思想大系『聖徳太子』を初めとするこれまで注釈書では、出典は示されてきませんでした。また不思議なのは、その第二条の冒頭では「三宝を信じよ」とか「三宝に帰依せよ」などと命じておらず、「敬え」となっていることです。

 これについては、国家統治は「礼」が根本であり、「礼」とは「敬」にほかならず、上に立つ1人を「敬」すればその下の多くの人が喜ぶと説く『孝経』広要道章に基づくことは、以前の論文で指摘しました(こちら)。『孝経』では、その1人とは「父」や「兄」や「君」なのですが、「憲法十七条」では、それを「万国」で敬われている「三宝(=仏)」としたのです。

 仏教を尊重すれば、南朝の梁を初めとする仏教を奉ずる大国との外交・交易の道も開けることは、河上麻由子さんの画期的な『古代アジア世界の対外交渉と仏教』( 山川出版社、2011年)が示している通りです。

 このようにして、典拠が少しづつ明らかになってきたのですが、このたび、その第二条の根拠となった文献、つまりは「憲法十七条」全体を支える役割を果たしているのは、在家の大乗信者が守るべき事柄を説いた曇無讖訳『優婆塞戒経』であることを発見しました。

 この『優婆塞戒経』は、大乗の信者すべてを「菩薩」と呼んで「在家菩薩」と「出家菩薩」に分け、「在家菩薩」の特質とやるべきことを述べた経典です。この『優婆塞戒経』では、「三宝に帰依しないで受戒しても、その戒は堅固でない」と説いていました。

 この部分については、国王妃であって在家菩薩である勝鬘夫人が説法する『勝鬘経』を注釈した『勝鬘経義疏』でも、『優婆塞戒経』の名をあげて引用していました。それも、まさに勝鬘夫人が仏に「帰依」する場面を説明する箇所で、『優婆塞戒経』が三宝帰依を説いている部分を引用していたのです。

 このことは戦前から指摘されており、何人かが論文で「憲法十七条」の「篤敬三宝」は『優婆塞戒経』が説く帰依三宝のことだとしていましたが、三宝の解釈に関する繁雑な教理論議をして太子の理解の深さを賞賛するばかりであって、『優婆塞戒経』全体を読んでみて「憲法十七条」との関係を検討する作業はなされていませんでした。

 そこで、この『優婆塞戒経』全体を精読してみたところ、「三宝に帰依しないで受戒しても、その戒は堅固でない」という部分の直後で、三宝に帰依しない教誡は世俗の道徳にすぎず、「三宝に帰依しなければ悪業を滅することはできない」とも説いていました。

 「三宝に帰依しないと悪業を滅することはできない」というのは、第二条が「三宝に帰せずんば、何を以て枉(まが)れるを直くせん」と述べているのと同じです。「まがったものを直す」というのは『論語』に基づく言葉ですが。

 しかも、『優婆塞戒経』の別の箇所では、己より勝る者への嫉妬の禁止を説いていました。己より勝る者を見ても嫉妬しないというのは、「憲法十七条」のうち、嫉妬の害を説いた第十四条が述べていることです。しかも、『優婆塞戒経』のその箇所では、「在家菩薩」が「大国主」となった場合、人々を「教え」て「悪」から離れさせなければならないとしたうえで、その教誡のひとつとして、己より勝る者を見ても嫉妬しないことをあげていたのです。

 このうち、「教え」て「悪」から離れさせるというのは、「憲法十七条」第二条の後半が、極「悪」の者は少ないため、「よく教えれば」は人々は従うものだという箇所と一致します。つまり、三宝に帰依しないと悪を除くことはできないとする「憲法十七条」は、『優婆塞戒経』に基づき、「在家菩薩」が国王となった場合におこなうべき教誡を述べていたのです。

 そのうえ、「憲法十七条」が基づいている『優婆塞戒経』の箇所を引用する『勝鬘経義疏』は、仏教経典の注釈でありながら、冒頭で上で見た「憲法十七条」第二条が基づく『孝経』広要道章のすぐ前の句を引用しており(『法華義疏』も『維摩経義疏』も同様です)、また「憲法十七条」が重視する『管子』の引用もおこなっていました。

 『優婆塞戒経』は仏教、『孝経』は儒教、そしてともに引いている『管子』は法による臣民統治を説く法家です。ここまで一致するものでしょうか。『論語』と『法華経』をともに引用しているといった程度の一致なら、よくあることですが。

 『勝鬘経義疏』と「憲法十七条」は同じ人が作成したとしか考えられません。むろん、両方とも百済・高句麗から来た儒教の学者や仏教僧の手助けを得て作成したことでしょうが。なお、その『勝鬘経義疏』を初めとする三経義疏は、独自の用語・語法が共通していて同じ人物が書いていること、しかも変格語法が目立つため中国撰述でないことは、論文をいくつも書き、このブログでも紹介してきました(たとえば、こちら)。

 「憲法十七条」は国王となった在家菩薩の立場で書かれていたことが分かると、大業3年の遣隋使が隋の煬帝に対して、「海西の菩薩天子が仏教を重ねて復興していると聞きました」と述べ、「こちらは海東の菩薩天子です。よろしく」といった感じでの言上をしていた背景が理解されます。仏教を復興した推古天皇は、そうした菩薩天子の仲間ということになり、厩戸皇子はその後継予定者であって職務の一部代行者ということになるからです。

 「憲法十七条」は推古12年、『勝鬘経』の講経は推古14年、そして遣隋使派遣は推古15年であって、これらは一連の出来事であり、密接に関連していたことが明らかになりました(『法王帝説』だと年立てが多少違っており、『勝鬘経』講経が最初となります)。「憲法十七条」の前年における冠位十二階制定も、「憲法十七条」が重視していた『管子』では、「憲法十七条」第四条に関わる内容を説いた箇所で、法を立てて爵位と衣をきちんと定めるべきことを説いていましたので、同じ流れに位置づけられます。

 そもそも、梁の前の王朝であって梁の武帝に仏教面で大きな影響を与えた南斉では、仏教信者で仏教に関する著作をたくさん著し、太宰(宰相)をつとめて皇帝を補佐していた皇子の竟陵王(梁の武帝の親しい親戚です)が、当時を代表する成実涅槃学派の学僧であって『勝鬘経』を42回、『優婆塞戒経』を10回近く講義していた宝亮を尊崇して師事していました。

 また、竟陵王は、「無忤」と「和顔」で知られていて人々が「宗とし(根本の立場として尊ぶ)」ていた尼の妙智を支援していました。妙智は、宮中に招かれて皇帝の前で『勝鬘経』と『維摩経』の講義をしています。

 つまり、皇帝を補佐する仏教に通じた皇子、国王となった在家菩薩の心得を説いている『優婆塞戒経』の重視、「無忤」「和」「宗とする」、そして『勝鬘経』講経と揃っているのです。

 なお、「憲法十七条」第二条は、三宝は「万国の極宗」だと説いています。この「極宗」という言葉は早い時期の中国古典には見えず、これまで典拠が指摘されていませんが、これも実は竟陵王と知識人の臣下との仏教問答の中で用いられていた言葉でした。

 推古朝における「憲法十七条」や『勝鬘経』講経が、こうした南朝仏教を手本としていたことは明らかでしょう。しかも、その竟陵王が師事したり後援したりしていた学僧たちは、まさに三経義疏が手本としていた江南の成実涅槃学派の僧たちであり、梁の三大法師の1人、僧旻も含まれていました。『勝鬘経義疏』の種本となった注釈は僧旻の作と推定されていますし、『法華義疏』の種本である『法華義記』を書いた光宅寺法雲は、上記の宝亮の弟子です。

 大乗戒については、梁代以後は『梵網経』が主流となったため、『優婆塞戒経』は次第に読まれなくなっていきます。また、天台大師や三論宗の吉蔵など、隋を代表する三大法師たちは、梁の三大法師を代表とする成実涅槃学派の仏教解釈を批判して新しい仏教を打ち立てていました。特に吉蔵は厳しく批判しています。さらに、唐代になって645年に玄奘がインドから帰国し、新しい訳語を用いて最新の経論を次々に訳すと大論争となり、隋代の仏教を乗り越える形で唐代仏教が展開されます。

 そうした時代、特に神話を強調して天皇を権威づけようとした七世紀後半の天武朝以後になって、梁代以後はあまり読まれなくなる『優婆塞戒経』を重視し、「篤敬三宝」を強調するのみで「神」にひと言も触れず、古くさい南朝の学風の『勝鬘経義疏』と共通する部分の多い「憲法十七条」を偽作するでしょうか。

 戦後の古代史学は、聖徳太子と大化の改新を疑うことによって進展してきました。大化の改新は確かにあやしいですし、『日本書紀』の厩戸皇子関連記事が神格化された伝承で色づけられ、「皇太子」と呼ばれていることが示すように『日本書紀』編纂段階で潤色されていることは事実です。

 しかし、「憲法十七条」と『勝鬘経義疏』は、仏教に通じていて南朝の仏教信者の皇帝・皇子と学僧たちの仏教を手本とし、在家菩薩が国王になった場合に教えるべき事柄を説く『優婆塞戒経』を尊び、儒教の『孝経』や法家の『管子』に親しんでいてこの両書が説く国家統治の方法に関心を持っていた人物が作成・主導したと見て間違いありません。そんな『勝鬘経義疏』を、寺にこもって学問と修行に励む僧侶が書くでしょうか。

 ちなみに、「憲法十七条」も『勝鬘経義疏』も『法華義疏』も和風の変格漢文で書かれているうえ、『法華義疏』で使われている紙は、当時としてはきわめて貴重な隋の紙であると推測されています。唐との交流が盛んとなり、国内でも紙が大量に造られるようになった時代に希少な隋の紙など使うでしょうか。

 そうした人物として考えられるのは、南朝仏教を模範としていた百済の学僧などについて学び、講経が巧みという意味の「法主」とみなされ「法主王(のりのぬしのみこ/おおきみ)と呼ばれたただ一人に限られるのではないでしょうか。「無忤」で有名であった南朝の宝瓊も、教学に通じていて説法に巧みであったため、若くして寺の「法主」、つまり講経の担当者(責任者)となっています。

 津田左右吉が『日本上代史研究』(岩波書店、1930年)で「憲法十七条」と三経義疏を疑ったことによって始まった聖徳太子の事績を疑う研究については、「振り出しにもどって検討し直し」ということになるでしょう(津田がなぜそうした論文を発表したかについては、こちら)。

 ただ、津田は上記の本では、太子の講経は「多分梁の武帝などの故事を想ひ浮かべて仏家の造作したもことであらう」(196頁)と述べていたものの、戦後の改訂版である『日本古典の研究(下)』(岩波書店、1950年)では、「多分、斉の竟陵王や梁の武帝など……」として竟陵王を加えていました。

 実際には後の僧が「斉の竟陵王や梁の武帝など」を思い浮かべて造作したのではなく、聖徳太子自身が「斉の竟陵王」や、家僧(家庭教師役の学僧)の支援を得て講経して注釈を作り、周辺国に下賜していた「梁の武帝」などを模範としてそれにならおうとしていたことが今回明らかになったわけですが、さすがは津田左右吉。視野の広い博学な東洋学の大学者は、目のつけどころが違います。 

 なお、「憲法十七条」については、校注本と一般向けの解説本を別々の出版社から出すことになっており、既に準備を始めています。

【付記:2021年7月24日】
今回の発表の核心となった『優婆塞戒経』利用や「菩薩天子」の自覚などについては、本年4月21日版の『中外日報』紙に掲載された、三経義疏の研究状況について書いた記事で簡単に触れており、その記事は4月27日にネット公開されています(こちら)。
【追記:2022年4月19日】
ここで触れた講演録が刊行され、PDF公開もしたのに紹介するのを忘れてました。記事は、こちらで、PDFは、こちらです。


「聖徳太子と法隆寺」展の図録が示す最新研究状況(1):東野治之「聖徳太子ー史実と信仰ー」

2021年07月16日 | 論文・研究書紹介
 奈良の国立博物館で開催されていた「聖徳太子と法隆寺」展が、東京に移り、13日から上野の東京国立博物館で開催されています。こうした場合の常として、カラー写真をふんだんに用いた学術的な図録が会場で販売されていますが、前の記事で書いたように、今回はとりわけ充実しており、大判で厚さ3センチ、重さ1.5キロです。

奈良国立博物館・東京国立博物館・読売新聞社・NHK・NHKプロモーション編『聖徳太子1400年遠忌特別展記念特別展 聖徳太子と法隆寺』
(読売新聞社・NHK・NHKプロモーション、2021年4月)

巻頭は、東野治之「聖徳太子ー史実と信仰ー」(東野先生より、事前にコピーを送っていただきました。有り難うございます。以後、「氏」と記します)。

 後代の作とする説もあった金堂釈迦三尊像光背銘については、間近で明るい照明のもとで調査して知られたこととして、銘文が光背、さらには像と一体のものとして作成されているため、後代の追刻と見る必要はないと説いた部分を初めとして、東野氏がこれまで書いてきた内容をまとめたものですが、銘文にあるように「法皇」としてあがめられていたことは疑いないとするなど、これまでより明確に述べられていた点もかなりあり、新しい発見や見解が示されています。

 この「法皇」については、釈尊その人のような悟った存在ではなく、「のりのおおきみ」であって、説法に巧みな上位皇族といった程度の意であることは、これまで指摘してきました。やがて釈尊のようになる存在、天皇に準ずる存在として崇敬されていたことは事実でしょうが。

 次に『法華義疏』については、手にとって調査した結果、明らかになった点について詳しく述べています。こうした巻子本の場合、表紙は見るたびに広げたり巻いたりするため傷みやすく、長く保存しようとする場合は別の紙や布を表紙として補強するのが普通です。ところが、立派とも豪華とも言えない素朴な体裁の草稿である『法華義疏』は、本文に用いた紙をそのまま表紙とし、別な紙を貼り付けて補強してある由。

 題名部分だけ切り取ったように見えるのは、「補強した紙に窓が開けられ、下の標題がみえるように」してあったためだそうです。つまり、現存の『法華義疏』は、素朴な形の写本であるにもかかわらず元の形を保存しようとする姿勢が強く見られるのであって、これは太子が筆をとった自筆本だという認識があったためであり、実際、そう考えて良いというのが氏の判断です(自作自筆説は三田覚之さんも同様なので、真撰説という点は同じでも側近筆写説である私とは意見が分かれる点です)。

 次に、再建法隆寺については、五重塔の柱の年輪測定の結果、推古2年(594)伐採のヒノキが使われていることに注意します。この年は、推古天皇が太子と馬子に命じて三宝を興隆させた年ですんで、用材の備蓄がなされて不思議はないとするのです

 そして、若草伽藍が670年に焼失すると、上宮王家は滅亡しているうえ、若草伽藍大化3年(647)に施入された食封は天武天皇8年(679)に停止されているため、再建するのは困難だったとするのが通説ですが、氏はこれに反対します。

 法隆寺は多くの資産を持っていたうえ、焼失した若草伽藍と同じ大きさで再建する際、聖徳太子の熊凝精舎を受け継ぐとする伝承のある舒明天皇の寺、百済大寺の寺院配置が採用され、また再建途上であった法隆寺に天武天皇・持統天皇室から寄進がなされ、国家的な法会をおこなう寺の一つとされていたのは、朝廷が支援していた証拠であって、これは薬師寺の造営過程と類似すると説くのです。

 聖徳太子一家は全滅したと思われがちですが、これは伝説が誇大化したためであり、実際に滅んだのは太子の子供のうち、山背大兄の一家だけであって、再建法隆寺のために豪華な幡を寄進したのは、太子の娘である片岡女王であった可能性が高いとします。

 天武天皇も寄進していたとするのは、資財帳に鈴がついた繍帳を寄進したと記される「浄御原御宇天皇」は、天武朝の最後に定まった「飛鳥」の語を冠していないため、「飛鳥浄御原御宇天皇」と称される持統天皇でなく天武天皇と見るためです。

 そしてこの繍帳は、古い繍帳に基づいて高級織物によって新たに作成したものであって、現存の「天寿国繍帳」と想定するのです。これは、銘文に見える「天皇」の号は推古朝以後と見る氏の説とも関わる部分ですが、「天寿国繍帳」は推古朝作とする説も有力ですので、議論が分かれるところです。

 なお、法隆寺再建に少し遅れ、太子ゆかりの法輪寺、中宮寺、法起寺などが同じ様式・同系の瓦当笵によって建立されていくのは、斑鳩の地域ぐるみで「太子の聖蹟化が図られた」ものと見ます。

 上述した点は、720年の『日本書紀』完成よりかなり前のことですので、『日本書紀』の最終編纂段階になって、ぱっとしない皇族の厩戸王を聖人<聖徳太子>としてでっちあげたという虚構説など論外であることが分かります。

 このように、東野氏の研究の特徴は、太子関連の遺物を実際に間近で調査していること、また正倉院の文献などを丹念に調査し、単に「どの文献に出ている」などと説くのではなく、その写本の特徴、背景、欠落部分などに注意して考察していることでしょうか。初めから結論が決まっている目で活字印刷された諸資料だけ見ると、自説に都合の良い部分だけを拾い出しがちですが、東野氏はそうした点に注意するのです。

 今回の東野氏の解説では、「おそくとも亡くなった時点で、すでに神格化されていたおもむきのある太子」と記しています。この「おそくとも」という点が重要ですね。

7月13日から1400遠忌記念特別展「聖徳太子と法隆寺」が東京国立博物館で開幕

2021年07月13日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報
 奈良国立博物館で開催されていた聖徳太子1400遠忌記念特別展「聖徳太子と法隆寺」が、本日(13日)から東京国立博物館の平成館で始まります。非常事態宣言が出ていますが、事前予約制により、人数制限をして開催する由。

 奈良博で開幕早々に見たかったのですが、新型コロナウィルスの感染が下火にならないため、諦めました。幸いに2度目のワクチン接種が7月6日に終わりますので、それから一週間ほどして抗体が出来てきたら、そうした展覧にも注意しつつ出かけようと思っていたところ、まさに一週間目にあたる開幕日の前日におこなわれる内覧会に招いていただいたため、出かけてきました。

 いや、壮観でした。普段の法隆寺その他の寺院や博物館などでは、模写でしか眺められないもの、遠くからしか見えないものなどが、すぐ目の前で見られる形で現物展示されており、感慨深いことでした。

 『法華義疏』の一部はじっくり見させていただきましたし、金堂の薬師如来像や、大潅頂幡などを間近で見ることができたのは幸いでした。ほかにも、法隆寺が明治時代に皇室に献納した宝物のうちにあったという、竹ひごをすだれ状に編んで巻物の経典をくるんだ経帙は初めて見ました。

 このブログで論文をいくつも紹介してきており、今回の特別展を機に詳細な調査をおこなった東京国立博物館の三田覚之主任学芸員の解説によると、『法華義疏』の経帙と同じ規格であるため、それと同じで奈良時代に作成された『勝鬘経義疏』の経帙と考えられる由。

 その三田さんとは、会場でお会いすることができ、少し話せました。三田さんの諸論文については、どれも有益であって教えられることが多かったのですが、『法華義疏』については三田さんはNHKの「日曜美術館」でも語っていたように太子真筆説であって、近いうちにその立場で書いたものが出るそうなので、側近書写説の私とは意見が分かれることになります。いずれにしても、研究が進むことになるでしょう、

 また、「天寿国繍帳」研究で知られ、このブログでも何度か触れた美術史の大橋一章先生にも、会場で久しぶりにお会いして話すことができ、以前、女子美術大学で法隆寺金堂壁画の模写展示を開催された稲木吉一先生にも再会できました。

 展示については、何度かに分けて紹介していこうと思いますが、帰り際に頂いたカラー写真満載の図録もまた壮観でした。大判で厚さ3センチで、重さ1.5キロです! 有益な解説と論考が含まれていますので、これもこのブログで紹介していきます。

 会場横の売り場では、聖徳太子や法隆寺関連の絵葉書その他、こうした展示の際によく販売されるもの以外に、聖徳太子グッズとも言うべき品が売られていました。その一例をあげておきます。聖徳太子はこれまで何度も漫画化されてきましたが、太子伝承がある寺院地域の観光推進をねらってキャラクター化された愛犬、雪丸などと同様に、今後は太子のキャラクター化が進むのか。


津田左右吉が憲法十七条や三経義疏を疑った背景:大井健輔『津田左右吉、大日本帝国との対決』

2021年07月12日 | 津田左右吉を攻撃した聖徳太子礼讃者たち
 「憲法十七条」の聖徳太子撰述を疑った最初は、江戸の狩谷掖斎であって、近代になってこれを推し進めたのは津田左右吉であることは、良く知られています。

 津田は、『日本書紀』の神話や伝説には中国文献を切り貼りして作った部分や、後になって机上で創作した部分が多いことを指摘し、聖徳太子の事績も疑いました。その結果、このブログの「津田左右吉を攻撃した聖徳太子礼讃者たち」コーナーで紹介している熱狂的な聖徳太子礼賛者である国家主義者たちによって非難攻撃され、起訴までされて裁判となり、大学をやめざるをえなくなったのです。

 その津田のことを、津田裁判と戦後の主張を詳細に検討することによって、時世に流されない学者、「真の愛国者」として描いたのが、

大井健輔 『津田左右吉、大日本帝国との対決ー天皇の軍服を脱がせた男』
(勉誠出版、1915年)

です。大井氏は、ハノイ在住の若い日本思想史家であって、日本の大学や研究所などに属していないためか、この本の書評は書かれていないようです。

 私は、ベトナム仏教研究者でもあり、ベトナム独自の文字である字喃(チュノム)とダラニの音写文字の関係を指摘した論文がベトナム語に訳されたことがきっかけで、ハノイ大学に招かれて日本文化について集中講義したこともあるため、ハノイ在住を選んでその地から日本の思想について考えている大井氏には何となく親しみを感じます。

 国内で考える日本と外から見る日本は大きく違います。私が社会判断の手本として仰いできた中江丑吉は、北京の地から日本の動向を見つめ続けた人物でした(こちら)。

 さて、津田は上記のように記紀の神話を大胆に疑ったのですが、実際は明治人らしいナショナリストであって、皇室に対する強い敬愛の念を持っていました。ただ、日本の皇室は他の東西の多くの国と違い、武力で征服して王となったのではなく、また圧政をしいて民衆に恨まれ反乱を起こされることなどなく、親しまれ愛されてきたと考えていたのです。

 このため、天照大神の天壌無窮の詔勅を日本の国体の根本とし、東征をおこなったとされる神武天皇に始まる皇室の伝統を強調して、天皇のことを軍隊を率いる「大元帥陛下」に仕立て、軍国主義を推し進めようとする傾向に早くから反対していました。

 大井氏は、その点について、裁判時の津田の言葉、「虚偽なことに依つて日本の皇室の起源が語られて居ると云ふことは、これはただ知識の上において疑ひを抱かしめるのみならず、もつと深いところにおいて人心を不安ならしめるものと私は考えました」という言葉に注目しています。中国文献を切り貼りして机上で作られた「虚偽」の神話を疑うべからざるものとして押しつけるのは、日本人に日本人としての本当の自信を与えることにならないというのです。

 さらに津田は、日本の文化は独自であって、インドや中国とは文化がまったく異なるため、東洋文化などとひとくくりにするのは誤りだと説いた『支那思想と日本』を、昭和13年(1938)に一般の人が手にしやすい岩波新書の形で刊行しました。
 
 この時期は、精神的・道徳的な文化を共有する東洋諸国を、東洋文化の精華を誇る大日本帝国が領導して西洋列強諸国と対決するのだと称して進められていた日中戦争のさなかの時期にほかなりません。まさに、国策を批判する勇気ある著作です。こうした姿勢が聖徳太子を尊崇する狂信的な国家主義者たちの怒りを買ったのです。

 津田は、このように大胆な時局批判をおこない、裁判においても自説をまったく曲げませんでした。大井氏は、陪席判事として裁判にあたった山下判事が、戦後になって津田について述べた言葉を紹介しています。

立派な人であつた。温厚篤学というのが、同氏の全体から受ける印象であるが、しかしまた、真理の探究のための勇気と気概にも燃えており、どうしてこうした人が刑事被告人として、われらの前に立たされたのかと、慨嘆したことであつた。

 津田は、皇室に対する不敬罪で告発されたものの、そうした意図はないが結果的に皇室の尊厳をそこなうことになったということで、出版法違反の罪に問われました。

 その結果、非公開でおこなわれたこの裁判は、こんこんと語る津田の講義のような形で長らく続いたうえ、昭和19年(1944)に「時効完成により免訴」ということになりました。要するに、裁判所側は結論を出さずに寝かしておき、うやむやのうちに終わらせたのです。

 ただ、津田は記紀の神話・伝承を政治的な創作と見て史実ではないと主張し続けましたが、大井氏が注意しているように、そうして創作された内容を「物語」とみなし、「物語」はそれを作り出した人々の心情・特性を反映しているとして、その価値を認めていました。中国の単純な模倣や明らかに政治的な作為は好まなかったものの、民衆の生活・心情が反映したような「物語」については重視していたのです。

 また、天皇制を擁護したとはいえ、津田は「愛国、愛国」と騒ぎたてて実際には日本を危うくするような狂信的な天皇崇拝者を嫌っていました。津田は大正15年の段階で、「我々は皇室の仁政のおかげによつて、即ちおなさけによつて生活してゐるとは思はぬ。我々は我々自身で、我々の自分の力、我々の独立の意志で生活してゐる。またしようとしている」と言い切っています。

 皇室については、無闇にあがめたてるのではなく、あくまでも国民団結の中心点であったというところに意義を見いだしていたのです。津田の皇室観は史実とは異なる点もありますが、皇室崇拝を進めようとする政府とそれに乗ってあおっていた人たちへの反発として評価する必要があるでしょう。

 ところが、戦後、マルクス主義が盛んになって天皇制否定の動きが出てくると、津田は、学会の指導的な立場についてもらおうとした左派の知識人たちの期待を裏切り、意外にも天皇制擁護を強く打ち出し、左派を攻撃し始めます。

 その結果、『古事記』『日本書紀』を批判的に検討する研究方法は史学に大きな影響を与えたものの、左派からは厳しく批判されるようになったのです。津田の著作から大きな影響を受けた家永三郎なども、戦後は津田の天皇制擁護の主張を思想的後退と見て批判的に検討した本を出しています。実際、津田自身も意見を多少変えている場合がありますが。

 その津田については、私は傑出した東洋学者として早くから尊敬してきました。そもそも私が学んだのは、津田が創設した早稲田大学の東洋哲学研究室であり、津田だけを手本としてきたわけではありませんが、津田を含め、幸田露伴、南方熊楠、内藤湖南のような東洋の文学・歴史に通じた学者になりたいと願ってきたのです。

 平安文学研究をしていた関係で、最初に読んだのは『文学に現はれたる我が国民思想の研究』、大学院の東洋哲学専攻に入ってからきちんと読んだのは必読書とみなされていた『道家の思想とその開展』であって、記紀研究を読んだのは博士課程になってからです。

 ただ、東洋全般、それも古代から近代にまでわたる津田の学問の幅広さに感嘆し、記紀神話を大胆に批判する論調に共感しつつも、国民文学論・皇室論・アジア認識その他個別の主張については反対することが多く、それを口にしていたため、「津田先生、津田先生」と持ち上げるばかりであった研究室の先輩たちの顰蹙を買っていました。

 しかし、私は津田を尊敬するのであれば、通説を大胆に疑った津田の学問姿勢をこそ学んで津田説そのものを批判すべきだと考え、論文でも「憲法十七条」と三経義疏は推古朝の作である可能性が高いと論じて津田説に反対してきたのです。

 大井氏は、近代日本思想が専門であるため、津田が訴えられるきっかけの一つであった聖徳太子事績批判などについてはほとんど触れていませんが、津田が「憲法十七条」や三経義疏を疑ったのも、上で述べてきたような背景によるものです。聖徳太子については、様々な伝説を否定して太子の真の姿を描きだすべきだというのが津田の立場でした。単純な「いなかった説」ではありません。

 その「憲法十七条」と『勝鬘経』講経(『勝鬘経義疏』他の三経義疏)、遣隋使について、私は最近、太子の仕事であることの確実な証拠を発見して津田説をひっくり返すに至りました(『駒澤大学仏教学部論集』第52号に掲載予定)。「憲法十七条」については、校注本と一般向けの解説本別々の出版社から出すことになっています。ただ、近代史学を推進した津田の功績は不滅であって、今回批判したのは津田の仕事の一部にすぎません。

 「憲法十七条」や三経義疏、さらには隋との外交も聖徳太子の仕事とみなして良いとする今回の私の発見が広く知られるようになると、聖徳太子礼賛が盛んとなり、津田が懸念していたような事態がまた起きる可能性があります。

 記紀の神話を復活させ、聖徳太子を戦前のような形で持ちあげて国家主義に利用しようとする傾向には、神話に基づく国家主義・軍国主義を日本を破滅させるものとして批判した津田と同様に、粘り強く警告してゆきたいと考えています。

 津田については、同じ勉誠出版から、新川登亀男・早川万年編『史料としての『日本書紀』ー津田左右吉を読みなおす』(2011年)も出されていて有益ですが、こちらと違って大井氏のこの本は書評が書かれていないのが残念です。なお、大井健輔はペンネームであって、論文については本名の「児玉友春」で書いており、CiNiiなどで検索することができます。

救世観音像は釈迦三尊像より古い?:三田覚之「美術から見える聖徳太子とその時代」

2021年07月08日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報
 先の記事では、法隆寺東院の救世観音像に関する五島勉氏のトンデモ説をとりあげ(こちら)、五島氏に影響を与えた梅原猛の有名な『隠された十字架』に触れました。この本でも、救世観音像については、現物を見ていないどころか写真すら見ずに妄想した珍説が説かれていましたね(こちら)。そこで、そうした扱いをされている気の毒な救世観音像に関する最新の美術史の研究成果を紹介しておきましょう。刊行されたばかりの、
 
三田覚之「解説:美術から見える聖徳太子とその時代」
(『芸術新潮』聖徳太子特集、2021年7月号)

です。

 この「解説」はインタビュー記事であって、三田氏は、7月13日から「聖徳太子と法隆寺」展が開催される東京国立博物館の主任研究員です。氏の研究については、このブログでは、これまでも「天寿国繍帳」などに関する優れた論文を紹介してきました(こちらこちら)。

 この「解説」では、三田氏は、真偽や成立年代について論争が多い法隆寺の仏教美術品について、「物を見ている美術史の人間」ならではの立場で説明をしています。仏像は、写真ではカラーでも実物とは印象がかなり違ってしまいますし、造像銘にしても「天寿国繍帳銘」にしても、実物を間近で見ず、印刷本で活字で読むだけ、しかも最初から疑いの目をもって眺めるだけだと、疑問に思われる点ばかり目についてしまうのです。

 三田氏は、若草伽藍で聖徳太子が拝した本尊は救世観音であったかもしれないと説きます。この像は、美術史では、重病となった太子の延命ないし浄土往生を祈願して建立された釈迦三尊像より後の作とされてきましたが、釈迦三尊像より日本最初の仏像である飛鳥寺の釈迦像に近く、小さな金銅仏を手本にして造られたことによる不自然な部分があるのに対し、釈迦三尊像はそうした点が解消されているため、救世観音像の方が先行する可能性があると見るのです。

 また、三田氏は、銘文では重病となった用明天皇自身の誓願に基づいて推古天皇と厩戸皇太子が建立したと銘文で記されているものの7世紀後半の作と推定されてきた薬師如来像については、釈迦三尊像以後の作ではあるものの、あまり時代の違いはないとします。そして、太子の長男であった山背大兄一家が滅亡されているため、その追善のために作成され、後になって寺の権威づけのために、用明天皇の発願だとする銘文が追刻されたのではないかと推測します。

 もしこれらの推定が正しいとなると、またいろいろ考え直さなければならない問題が出てきます。薬師像銘と同様、「天皇」の語が見えることを理由として後代の作とされることの多かった天寿国繍帳銘については、三田氏は既に推古朝のものと見て良いとする論文を発表していました。

 このように、様々な説が出されてそこで止まっているように見えた法隆寺関連の文物についても、現物の精密な調査によって見直しが始まっていることが注目されます。

 近いうちに発表しますが、私自身、「憲法十七条」、『勝鬘経』講経(『勝鬘経義疏』)、遣隋使の関係について、自分でも驚くような発見をしたばかりですので、聖徳太子・法隆寺の研究は、この1400年遠忌の年に大きく変わるかもしれません。 

太子の未来記とユダヤ伝説その他を結びつけたトンデモ予言本:五島勉『聖徳太子「未来記」の秘予言』

2021年07月04日 | 聖徳太子をめぐる珍説奇説
 『日本書紀』の推古紀は、厩戸皇子を神格化した記事で満ちており、その一つが元年条の「兼ねて未然を知る(前もって、まだおきていないことを知っていた)」という記述です。ちなみに、「兼」を「前もって・あらかじめ」の意味で用いるのは、森博達さんが指摘しているように変格語法です。

 このため、中世には聖徳太子に仮託された「未来記」、つまり、予言書がたくさん生まれています。太子の「未来記」を含めたこうした書物については、小峯和明さんが『中世日本の予言書―“未来記”を読む』(岩波新書、2007年)、『予言文学の語る中世: 聖徳太子未来記と野馬台詩』(吉川弘文館、2019年) などで論じ、その時代背景を明らかにしています。戦乱、社会変動、疫病の流行などが続いて不安が高まった時期には、こうした予言書が登場しがちなのです。

 同様に社会不安が高まった平成の世に、梅原猛の珍説(こちら)の刺激を受けてこうした怪しい予言書を復活させ、世界各地に広まっているユダヤ人伝説と結びつけたトンデモ予言本が出ました。

五島勉『聖徳太子「未来記」の秘予言ー1996年世界の大乱、2000年の超変革、2017年日本は』
(青春出版社、1991年)  

です。国会図書館で検索したら、1991年9月刊となってましたが、私の手持ち本は初版であるのに、奥付には刊行年月日が入ってません。

 旅行ガイド本などだと、情報が古いと思われたくないため、奥付には刊行年月を入れず、カバーにだけ印刷したり、カバーでも目立たないところに小さく入れるだけの本がありますが、予言本も同様な状況なので敢えて入れなかったか。

 1973年に、1999年7月に世界は滅亡すると説いた『ノストラダムスの大予言』を刊行し、200万部を超える大ベストセラーにして有名となった五島氏は、友人から梅原の『隠された十字架』に関する上位層の僧侶たちの感想を聞きます。その僧侶たちは、法隆寺や四天王寺などには、太子が建てられた建物に「みらいぞう」があるとする秘伝が伝えられていると語った由。

 五島氏は「未来像」「未来蔵」のいずれにせよ、未来を予言するものがあるのだと確信し、『ノストラダムスの大予言』の類と各種の太子の「未来記」を結びつけ、次々に空想をくりひろげていきます。

 その空想を支えたのは、佐伯好郎などが展開していた日本への景教影響説とユダヤ人影響説でした。言葉がちょっとでも似ていると、何でもかんでもその影響とする佐伯は、秦氏の「秦(はた)」は景教では「主教」の意味だったとし、太子の側近であった秦河勝はユダヤ人の宗教家だったとするなど、珍説をくりひろげていました。

 五島氏はその影響を受けたのであって、「類は友を呼ぶ」というか、「トンデモはトンデモを呼ぶ」のです。こうしたこじつけをやれば、何でも好きなように解釈できるでしょう。

 私も、玄奘三蔵がインドで学んだナーランダ寺の滅亡をテーマとした歌が日本に伝えられていると指摘したことがあります。「♪咲いた、咲いた、チューリップの花が、な~らんだ、な~らんだ、赤白黄色」と歌う童謡の「チューリップ」がそうだと説いたのです。

 「咲いた」は本来は「サンヒタ」であってサンスクリット語で「集められた」の意、「チューリップ」の「チユ」は「死ぬ」、「リップ」は「汚す」という意味の動詞であって、偶像崇拝を嫌うイスラム勢力がインドに侵入した際、インド最大の仏教寺院であったナーランダ寺の僧侶たちが集められて虐殺されたことを嘆いた悲惨な歌なのだ、と主張したのです。

 むろん、冗談であって、こんなこじつけをやれば、何でも言えることになります。五島氏はまさにそうしたこじつけを重ねていったあげく、「聖徳太子の黙示録」が存在すると言い出して、1996年の世界大乱が予言されているとします。

 そして、釈迦は自分の死後、2500年後に天界から超ハルマゲドンがもたらされと予言しており、その破滅の危機を救うのが、人類が進化した「超人類」であって、それを形にしたのが法隆寺の救世観音像であり、聖徳太子は人類は2000年に大きな変革を迎えると予言していたと主張するのです。「救世」は未来の救い主であるメシアのような存在を意味すると見るのですね。

 しかし、予言された1996年には大戦争などは起きませんでしたし、2000年も日本で起きたのは、有珠山・三宅島の噴火とか、自民党が敗れて民主党勢力が伸びたとか、旧石器捏造事件の発覚とかであって、人類が生物学的に進化して大きく変わったという話は聞いていません。

 そもそも、五島氏は、「世間虚仮(こけ)」という太子の有名な言葉を紹介する際、「虚仮」に「きょか」とルビを振っており、他にも似たような間違いをやってます。仏教知識がゼロに近いのに、聖徳太子について論じるとは、いい度胸ですね。

 というか、そういう人だからこそ、自分が考えていることを「聖徳太子は憲法十七条でこれこれと説いていた」「太子の未来記が述べているのは、実はこれこれの予言なのだ」などと自信たっぷりに述べるわけです。実際には、中世の未来記などの多くは後づけであって、既に起きたことを「実は大昔に予言されていた」と説くパターンが多いのですが。

 五島氏のこの本では、恐ろしいことがいろいろ予言されているものの、もっと恐ろしいことがあります。本の帯で「ユダヤ、聖書予言を超えた恐るべき宿命! ……封じられた予言がいま的中する」とあおっているこの『聖徳太子「未来記」の予言』の裏表紙に、「キャスター 生島ヒロシ」氏の推薦文に加え、「国学院大学文学部教授・文学博士 中国長春市・東北師範大学客員教授」という長々しい肩書きを名乗る阿部正路氏の推薦文が掲載されていることです。

 阿部氏は「文字暗号の解読など、丹念な調査、大胆な推理と着想には舌を巻く思いだ」と賞賛しています。文学部の教授がそういうことを言うとは、なんと恐ろしいことか!

 そう言えば、この「珍説奇説シリーズ」の第1回でとりあげた「法隆寺の五重塔は送電塔がモデル」というトンデモ説も、大学の教員の論文であって、「秦氏=ユダヤ人」説が説かれてましたね(こちら)。やはり、類は友を呼ぶようであって、大学の教員だからといって安心はできません。

推古天皇の小墾田宮に厩戸皇太子の東宮があったか:西本昌弘『日本古代の王宮と儀礼』

2021年07月01日 | 論文・研究書紹介
 『日本書紀』敏達5年条では、敏達天皇と皇后(推古天皇)の間に生まれた皇子・皇女たちについて記す際、「其一曰菟道貝鮹皇女。更名菟道磯津貝皇女也。是嫁於東宮聖徳」と述べています。長女は「東宮聖徳」、すなわち厩戸皇子に嫁いだとするのです。

 これは議論のある箇所であって(というか、聖徳太子に関わる文献・文物はすべて議論がありますが……)、『日本書紀』は皇太子については、単に「皇太子は~」「皇太子に~」などと記すだけであるのが普通であり、「〇〇皇太子」とか、「皇太子〇〇」などといった呼び方をすることは稀です。

 そもそも『日本書紀』で「東宮」という言葉が見えるのは、ここが初出です。「東宮〇〇」という呼び方は、以後、舒明天皇の崩御記事に「東宮開別皇子、年十六而誄之」とあり(天智天皇ですね)、天智紀では「東宮大皇弟」「東宮太皇帝」(天武天皇)という言葉がそれぞれ1度づつ登場するだけですが、これも議論のある部分です。

 それはともかく、敏達紀のこの記事を重視し、推古天皇の小墾田宮には厩戸皇子が執務する東宮があったと論じたのが、

西本昌弘『日本古代の王宮と儀礼』「第三篇第一章 七世紀の王宮と政務・儀礼」
(塙書房、2008年)

です。氏は、皇極紀の「或本」が「東宮南庭之権宮」への移御と述べ、小墾田宮の東宮の南の仮の宮に移ったとしているのは、小墾田宮には東宮が設置されていて南庭があったことを示すとし、これは東宮であった厩戸皇子の宮であったとして、以下のような造りになっていたと論じます。



 この本については書評がいくつも書かれており、どの書評も西本氏の研究の意義を認めつつ、この東宮論については疑問視しています。

 というのは、小墾田宮が中国風な儀礼をおこなうために建設された画期的な宮であったことは、どの研究者も認めているものの、『日本書紀』に見える宮中での外国使節関連の儀式などに関する記述は簡単であるため、宮がどんな構造になっていたかは諸説様々であり、推古天皇が居した正宮の隣に東宮が並んで設置されていたとする説は無いためです。

 たとえば、皇子宮研究で知られる仁藤敦史の書評(『歴史学研究』856号、2009年8月)では、『日本書紀』の上の記事に見える「東宮」は「東宮開別皇子」、つまり中大兄の皇子宮を指すとします。そして、その場所については不明であるものの、皇極紀では中大兄が嶋大臣、すなわち蘇我馬子の家に接して宮殿を建てたとあることから見て、嶋宮と見るのが妥当と論じています。

 どんなものでしょうか。私は、「東宮」や「皇太子」という言葉は用いられていなかったにせよ、厩戸皇子はそれに相当する役割を果たしていたと考えていますが、小墾田宮に正宮に匹敵するような東宮が並んで設置され、そこで厩戸皇子が政務をとっていたとは考えにくいです。

 所在地がほぼ特定されている小墾田宮の発掘がなされないと結論は出せませんので、発掘に期待しましょう。