聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

「憲法十七条」に関する最良の論考は戦時中の村岡典嗣の講義ノート

2024年01月28日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報

 現在、「憲法十七条」の本を執筆中のため、いろいろ読み直してますが、最良の注釈は、やはり、村岡典嗣(1884-1946)が戦時中に東北大や東大で講義した際の講義ノートですね。 

村岡典嗣『日本思想史上の諸問題(日本思想史研究Ⅱ)』「憲法十七条の研究」
(村岡典嗣著作刊行会編、創文社、1957年)

です。理系と違い、文科系、特に古典に関する研究では、最新の論考より、幅広い学識を備えていた戦前の学者の著作の方がすぐれている場合もあるのです。特に、研究者としての訓練を受けていない人の書いた「憲法十七条」論は、東洋の伝統や推古朝当時の状況を無視し、自分の思い込みを反映させただけの粗雑な解釈が目立ちます。

 研究者でなければ駄目というわけではありません。研究者にしても最近の人は、昔の学者が備えていた漢籍・仏典・日本古典の素養が無く、狭い専門だけやっている人が多いのが実状です。

 また、大学院などで専門教育を受けていなくても、すぐれた業績をあげた人はいくらでもいます。私が尊敬する幸田露伴などは、小説で有名となった後、中年時に京都大学に迎えられて国文学の講師となり、和漢の素養に基づ講義によって学生の人気は高かったものの(すぐ退職しており、理由については、京都では魚釣りができないためだと冗談を言ってます)、学歴としては、中学校中退で電信技師の学校を出ただけです。

 東北帝国大学に設置された日本最初の「日本思想史学科」の教授となり、日本思想史学を確立した村岡にしても、同様です。村岡は、早稲田の哲学科を卒業した後、独逸新教神学校に進み、外字新聞の記者となって活動するうちに日本思想史の研究を始め、評価されるようになって広島高等師範の教授となり、さらに東北大に迎えられた、という異色の経歴の持ち主なのです。

 上記の本は、その村岡の没後にその知友や弟子が講義ノートを編集したもので、このうち、「憲法十七条の研究」は、戦争のさなかの昭和18年(1943)における東北帝国大学法文学部日本思想史特殊講義、および東京帝国大学文学部倫理学科における講義ノートです。

 第一節 憲法十七条の本文と研究文献
 第二節 憲法十七条の問題
 第三節 憲法十七条本文の解釈
 第四節 憲法十七条の日本思想史上の意義

の四節から成っています。昭和になると聖徳太子を持ち上げ、「憲法十七条」を明治憲法の先駆ということで「十七条憲法」と呼ぶことが増えていましたが、村岡は『日本書紀』に出る通りの「憲法十七条」という表記を用いています。

 刊行会の編集後記によれば、第四節の「日本思想史上の意義」の部分は、それ以前に書かれたものを挟み込んであり、この部分の成立年代は不明である由。

 戦時中のことですので、国家主義・軍国主義が吹き荒れていた時代ですが、村岡は、「憲法十七条の研究」の冒頭では、「憲法十七条」が「神」に触れていないことについて、平田篤胤が神道をないがしろにするものであって「余りといへば御不埒でござる」と批判したことなどを紹介した後、「日本思想史上の意義」では、「憲法の作者は真に日本国家の為に教化を考へた有識者であつたので、所謂日本主義の宣伝家ではなかつたのである」と言い切ってます。

 「所謂日本主義」については、石井公成監修、近藤俊太郎・名和達宣編『近代の仏教思想と日本主義』(法藏館、2020年)の「総論 日本主義と仏教」でその歴史について概説しておきましたが、愛国を唱えるものの  ~ism の訳語である「主義」の語を用いていることが示すように、実際には西洋の影響を受けた近代的なものなのです。

 村岡は、日本の神々を世界の創造神と位置づけた篤胤の思想は、実は中国で出版された漢文のキリスト教文献の影響を受けていることを指摘した研究者ですので、偏狭な「日本主義」は本当の日本の伝統に基づくものでないことを知っていたのですね。 

 「日本思想史上の意義」は著書の一部、あるいは論文として公開されたものではなかったとはいえ、この当時、こうしたことを言えば、津田左右吉が講師として東大法学部に出向いておこなった講義に右翼学生たちが集まって質問を重ね、授業後も部屋におしかけて長時間論難したような事態がおこりかねませんでした。

 村岡のこの論述は、国家主義を推進していた文部省主導の研究会で、「性急に聖徳太子を常人として過小評価することも、或ひは又非凡人として過大評価することも、何れも慎まなければなりません」と述べた小倉豊文の発言(こちら)とともに、学問の立場を守った言明として高く評価すべきでしょう。 

 他にも驚くのは、冒頭で「憲法十七条」の注釈書について概説する際、篤胤などによる批判を紹介した後、そうした批判に対する弁護として「一種の両部神道の立場からして太子神道ともいふべき」立場から「憲法十七条」を改竄した『先代旧事本紀大成経』にも触れ、その特質について説明していることです。

 「憲法十七条」を考証した文献を列挙する際、このブログでも紹介した徧無為(こちら)の『通蒙憲法』の解釈もあげてあります。

 津田左右吉の後代作説については、『日本書紀』の他の部分は中国文献を抜き書して書き換えたような箇所もあるが、「憲法十七条」はいろいろな文献の言葉を用いて独自の主張をしているため、独自の作品と見るほかないとして反対します。

 そして、「憲法十七条」には儒教の言葉が多いことを認め、また法家の影響があることを認めたうえで、基調は仏教だとします。これは見識ですね。ただし、太子信奉者の僧侶のような礼賛はしません。むろん、法家の影響にも触れています。

 太子研究が進んだ現在にあっても、読んでいて違和感を感じることがないのは、さすがと言うほかありません。バランスがとれている点で出色の出来です。61才で亡くなったのは本当に残念なことでした。


公伝以外のルートを含む大和や北九州などにおける朝鮮半島からの造瓦技術の導入:亀田修一「考古学からみた仏教の多元的伝播」

2024年01月24日 | 論文・研究書紹介

 前回の記事を含め、このブログで時々、寺院の瓦に関する考古学の論文を紹介しているのは、瓦葺きの本格寺院の建立は、百済などの最新技術に基づく大事業であり、政治・経済・外交・交通路整備などの重要問題と密接に関わっていたためです。

 そこで、以前紹介した新川登亀男編『仏教文明の展開と表現-文字・言語・造形と思想』からもう一篇、瓦に関する論文を紹介しておきましょう。

亀田修一「考古学からみた仏教の多元的伝播」
(新川登亀男編『仏教文明の展開と表現-文字・言語・造形と思想』、勉誠出版、2015年)

です。

 亀田氏は、朝鮮半島などとの関係を重視しつつ日本各地の古代遺跡や瓦などの研究を進めており、この論文も、考古学の成果と文献に基づいて、朝鮮半島から日本列島への仏教の多様な伝播と受容の様子についてまとめたものです。

 亀田氏は、まず仏教公伝以前の仏教伝播の記録に注意します。『扶桑略記』欽明天皇13年(552)十月条で引かれている『日吉山薬恒法師法華験記』に見える『延暦寺僧禅岑記』によれば、継体16年(522)に、「大唐漢人の案部村主達止が大和国高市郡坂田原に草堂を結び、本尊を安置して帰依礼拝したが、皆はこれを大唐神と言った」という記事があります。

 高市郡は渡来人が多数住んでいた地域であって、司馬達止(達等)は蘇我馬子のもとで仏教興隆に尽くし、娘の嶋が最初の出家者となり、息子の多須奈も出家して南淵の坂田寺を発願してしており、その在俗時の子が鞍作鳥です。

 坂田寺(金剛寺)は、創建時の遺構は不明ですが、飛鳥寺の創建瓦とよく似た瓦が出土しており、7世紀初頭には瓦葺きの堂があったことは確実とされています。その少し後になると、他に例がない坂田寺独自の瓦が用いられていますので、朝鮮半島との独自のつながりがあったことが推測されるとします。

 馬子によって飛鳥に飛鳥寺が建立され、推古天皇の宮を改めた豊浦寺、斑鳩の法隆寺(若草伽藍)、摂津の四天王寺といった政権中枢の有力者たちの本格寺院が次々に建立され、百済から招いた工人やその指導を受けた者たちがすぐれた瓦を造って葺いていきます。他には、坂田寺や、東漢氏による大和の檜隈寺、秦氏による山背の広隆寺など、蘇我氏と関係深い渡来系氏族の寺も建てられていきます。

 『日本書紀』の推古32年(624)による寺院監査によれば、46の寺があったとされ、これは7世紀前半の古代寺院跡とほぼ一致していますが、そのほとんどは畿内の寺です。地方の寺については、瓦を使用していないか、使用していても小さな仏堂だけであった可能性が考えられます。

 初期の瓦は蘇我氏や聖徳太子関連の大きな寺で用いられたものであり、亀田氏はこれらを「畿内主流派瓦」と呼びます。一方、中小氏族の寺で用いられ、朝鮮半島との独自のつながりを推測させる一群の瓦を「畿内非主流派瓦(非主流派朝鮮系瓦)」と呼びます。

 その代表的な例は、河内高井戸廃寺で用いられていた古新羅系、百済系、高句麗系の瓦であり、一部、独自のつながりが山背の寺院に見られるものです。これらは、その寺の周辺でだけ使われており、百済の王権から派遣されてきたエリート工人たちを指導者とする主流派とは事なり、渡来系の人々が独自のルートで造瓦技術者を招いたものと、亀田氏は推測します。

 このように、初期には瓦が葺かれた本格的な寺は畿内ばかりでしたが、地方でも小さな仏堂だけといった程度の簡単な寺ができはじめたことが推測されます。以後、大化の改新時の詔や天武天皇の支援策もあって、7世紀半ばすぎから地方でも爆発的に寺院が増えていっており、『扶桑略記』によれば持統天皇6年(692)には545寺が存在したとされ、これは、これまで確認されている全国の古代寺院の遺跡の数とほぼ合致しています。

 ここで注目されるのが北九州です。というのは、用明天皇2年(587)に天皇が病気になった際、「豊国法師」が招かれており、これが九州の「豊」の地の出身であれば、この地は仏教がある程度広がっていたことになるからです。

 ただ、豊前と筑前地方の初期瓦と言われているものは、だいたい7世紀前半のものであって、畿内のものとは作り方が異なっており、独自に朝鮮半島から学んだか影響を受けて造られたと考えられている由。

 その豊前では、伊藤田踊ケ迫一号窯跡、筑前では牛頸窯跡郡などで出土しており、その瓦の使用先は豊前では中桑野遺跡、筑前では那珂・比恵遺跡などです。いずれも朝廷の屯倉(官家)との関わりが推測される遺跡であり、屯倉の建物群の中に小さな仏堂があった可能性が推測される、と亀田氏は述べます。

 北九州では、古代寺院は一部には7世紀中頃までさかのぼるものもありますが、基本的には7世紀後半から末頃に本格的な造営が開始されており、瓦の系譜は畿内系と朝鮮半島系の両者があると亀田氏は述べます。

 なお、亀田氏は述べていませんが、技術が圧倒的にすぐれているのは、百済王が送ってきた工人が作成した飛鳥寺の瓦などであって、北九州の7世紀中頃以前の早い時期には、そうした瓦は発見されていません。

 亀田氏は、初期の瓦が畿内の瓦とつながっているのは、吉備の遺跡だと述べます。吉備においても、7世紀後半に造営されている寺院が多いものの、一部には7世紀前半にさかのぼる瓦が知られています。

 しかも、加茂政所遺跡、津寺遺跡、川入中撫川遺跡、総社市末ノ億窯跡などからは、大和の奥山久米寺式軒丸瓦(畿内主流派)とのその関連瓦が出ています。同笵ではないものの、きわめて似ている点が注目されるところです。早いものは、7世紀第1四半期後半から第2四半期前半と推測されています。

 また末ノ奧窯跡で生産された蓮華文を飾る鬼板は、大和の豊浦寺と関連する平吉遺跡に運ばれていることが確認されています。このため、末ノ奧窯跡は、蘇我氏、白猪屯倉・児島屯倉が関与していると亀田氏は推測します。畿内主流派との関係が深いのです。

 さらに、吉備における最古の寺院は総社市秦原廃寺であって、7世紀前半の造営とされていますが、山背の広隆寺の瓦と類例があることが知られています。寺自体は7世紀後半に整備されているものの、7世紀前半には仏堂のみであったにせよ、秦氏と関係深い寺であることが注目されます。

 一方、備前地域で最古の寺と考えられている岡山市賞田廃寺については、7世紀中頃の創建時の瓦と考えられているものは、畿内主流派のものでなはい由。亀田氏は、これも当初は仏堂のみであったと推測しています。亀田氏は、さらに備後その他の寺院遺跡とその瓦について検討していますが、省略します。

 いずれにしても、日本では本格的な瓦葺きの寺院は、蘇我氏、そして蘇我氏と関係深い皇族や渡来系氏族が、馬子が百済から招いた工人たちや彼らが育てた日本の工人たちを用いて建立されたのです。

 朝鮮半島と独自の関係を持っていた各地の氏族や渡来系氏族の中には、それ以外のルートを通じて造瓦技術を導入していた氏族もあるものの、それによって早い時期に建立されたのは仏堂程度であって、それらが本格寺院になっていくのは7世紀半ばすぎあたりからということになります。 


難波宮下層と四天王寺から出る瓦を作ったのは飛鳥寺や斑鳩寺で用いられて范傷が進んだ笵:谷崎仁美「難波における古代寺院造営」

2024年01月20日 | 論文・研究書紹介

 『日本書紀』は、編纂時に多少書き換えているものの、蘇我氏の業績を強調した史料を用いているため、蘇我氏が仏教を最初に受容したことを強調し、また法隆寺系でなく四天王寺の資料を用いているため、四天王寺が飛鳥寺にも勝る最古の本格的な寺であったかのように描いています。

 四天王寺が造営された時期の前後の難波の状況は、実際にはどうだったのか。この問題を、自らの調査も含めた考古学の成果と文献によって時代ごとに検討したのが、

谷崎仁美「難波における古代寺院造営」
(『都城制研究』8,2014年3月)

です。

 まず、谷崎氏が難波プレⅠ期と称する欽明朝から推古朝までです。『日本書紀』によれば、欽明天皇13年(552)に百済王から仏像が送られてきたため、蘇我稻目が向原の家を寺として安置したものの、疫病が起きたのはそのせいだとして物部尾輿と中臣鎌子が廃棄するよう奏上した結果、仏像を難波の堀江に流し捨て、向原の伽藍を焼いたとあります。

 かなり伝承化されている話であって、当時、「伽藍」と呼ばれるような壮大な寺があったはずものなく、遺跡はもちろん発見されていません。

 敏達6年(577)、百済王が帰国する大別王に経論と律師・禅師・比丘尼・呪禁師・造仏工・造寺工の6人を託して送ってきたため、難波の大別王の寺に置いたと記されてます。この記述の真偽はともかく、『日本書紀』は蘇我氏の役割を強調しすぎであるため、私はこのように蘇我氏以外のルートでも仏教が導入されていた可能性はあると考えています。

 谷崎氏はこの大別王の記事について、現在の豊川稲荷の境内にある堂ヶ芝廃寺が大別王の寺だとする説があるが、その当時のものと考えられる瓦は出ていないと述べ、以下、時代ごとに難波の寺院やその遺跡を検討していきます。

 法円坂に位置する難波宮やその周辺から飛鳥寺の創建瓦のⅠ型式と同じ文様を有する瓦が出土することは有名です。このため、孝徳天皇による難波宮造営以前に瓦葺きの寺院があったと想定され、法円坂廃寺と称されていますが、難波宮下層出土の桜花形素弁蓮華文軒丸瓦を調査した経験を持つ谷崎氏は、寺院で用いられたとするには量が少なく、寺院の遺構も無いとします。

 ただ、飛鳥寺の創建瓦と同じ文様であっても、使われている土が飛鳥寺とは同じでないとする説もあるほか、飛鳥寺の創建瓦のⅠ型式よりやや後出である飛鳥寺A型式と同笵の瓦も出ているものの、笵傷がいちじるしく進んでいることに注意し、寺院でないにしても何らかの瓦葺きの施設があった可能性はあると説きます。

 谷崎氏は、難波宮朝堂南門跡の南西部で宮の造営前の地層から「宿世」という仏教語が書かれた木簡が出ていることに触れていますので、小さな仏堂など、仏教に関連する施設はあった可能性があると見ているのでしょうか。

 次は、氏が難波Ⅰ期と称する推古朝から難波遷都までの時期についてです。四天王寺の場合は、四天王寺の前身が玉造に造営されたのであってそれが法円坂廃寺だと説く説については、考えられないとし、玉造は瓦の作成場所ないし建築材料の保管場所とする説については、瓦窯の跡はないものの、可能性はないではないとします。

 そして、推古31年(623)に新羅の使者がもたらした金塔・舎利・灌頂幡などを四天王寺に納めたとあるため、その時期には寺院として機能していたとします。この時期の瓦としては、若草伽藍の創建時に金堂で用いられた4A型式の瓦笵で作られた瓦が出ていますが、范傷が進んでいるため、若草伽藍造営に用いられて痛んだ瓦当笵によって作成されていることは有名です。

 上町大地の東斜面、難波宮の南方2キロのところに位置する細工谷遺跡からは、四天王寺Ⅰa型式と同笵であって范傷が進んだ瓦が出ており、百済寺に当たるとする説もあるが、瓦の出土が少ないため、谷崎氏は寺院というより小規模な仏堂があった可能性があるとします。

 この時期の法円坂廃寺については、四天王寺Ⅰa型式と同笵の軒丸瓦が出土するものの、范傷がきわめて進んだ第五段階やそれ以上のものについては、7世紀第2四半期のものと推察されるとします。

 次は、難波Ⅱ期と称する孝徳朝大化元年(645)の難波遷都から天智朝までです。7世紀中葉に難波宮が造営されるにともない、それ以前から難波にあった寺々の整備が進みます。四天王寺の場合、Ⅱa型式は、日本最初の天皇の勅願寺であって、舒明11年(639)に創建された百済大寺と推定される吉備池廃寺の瓦笵がもたらされて作成されたものです。

 飛鳥の山田寺でも、Ⅱa型式をモデルにした軒丸瓦が中心として使われ、この文様の系統が全国に広まりますが、皇極3年(643)創建と伝えられる山田寺の瓦より四天王寺のものの方に早い要素が見られると谷崎氏は説きます。これは、当時は難波がいかに重視されていたかを示すものですね。

 そして、大化4年(648)に阿倍大臣(内麻呂)が四天王寺の塔に仏像四躯を安置したとあるため、この頃には、四天王寺の整備はあらかた落ち着いていたと見られるとします。内麻呂は翌年没していますが、谷崎氏は、この内麻呂は孝徳朝の仏教政策に深く関与していたとし、その系統の人物が持統朝になって氏寺として安倍寺を造営していったと推定します。

 そして、百済寺の南方400メートルの場所に位置する堂ヶ芝廃寺は、四天王寺Ⅱa型式の退化型であるⅡc型式によって創建されるため、7世紀第3四半世紀頃と見ます。

 以下、谷崎氏は、これより後の時代の四天王寺、百済寺、阿倍寺の瓦、そして難波宮跡から出土した瓦などについて検討していきます。四天王寺は、この時期の史料は少ないものの、『続日本紀』の大宝3年(703)の記事では、四大寺(大安寺、薬師寺、元興寺、弘福寺)に次いで記されているため、大寺として扱われていたと説きます。

 谷崎氏は、瓦を運搬する道路についても考慮し、寺院の造営の増加とインフラ整備は平行していることに注意するなど、きわめて重要な指摘をしています。こうして見ると、大和政権と難波の結びつきの強さ、外交・交易の拠点となる港としての難波の重要さが改めて確認できますね。

 それまで蘇我氏が技術を独占していた寺院造営が、飛鳥の都と外交の入り口である難波の中間にある斑鳩、そしてその難波そのものに、父母とも蘇我系の血を引き、馬子の娘をめとっているとはいえ、聖徳太子によって寺が建てられているのですから、これは外交政策と無関係であったとは考えられません。


聖徳太子の墓は本当に分からなくなっていたのか:山口哲史「平安後期の聖徳太子墓と四天王寺」

2024年01月16日 | 論文・研究書紹介

 前の記事で、磯長の地は埋葬者が分からない小さな墓がたくさんあり、聖徳太子の墓も分からなくなっていたと述べた大山誠一氏の講演に触れました。

 この件については、少し前の記事で紹介した東野治之『法隆寺と聖徳太子:一四〇〇年の史実と信仰』(岩波書店、2023年。こちら)が、「第Ⅱ部 聖徳太子信仰の展開」の「第二章 磯長墓-太子はどこに葬られたのか」で扱っていました。

 間人皇后を含めた「三骨一廟」説について検討することを主としており、聖徳太子そのものではなく、聖徳太子信仰史に関する部分が柱となっていたので取り上げて説明してませんでしたが、解説しておくべきでした。

 東野氏は、まず『日本書紀』、『上宮聖徳法王帝説』、『異本上宮太子伝』、『上宮聖徳太子伝補闕記』などは、太子が磯長(しなが=志奈我、科長)に葬られたとし、天皇陵などの祭祀状況を記した10世紀初めの『延喜式』「諸陵寮」の部に、

磯長の墓(橘豊日天皇の皇太子。名は聖徳と云う。河内国の石川郡に在り。兆域は東西三町、南北二町。守戸は三烟)

とあると述べます。ここで補足しておくと、天皇陵の場合は管理専門の家柄として「陵戸」が置かれ、補助として交替で管理する班田農民、つまり「守戸」がいくつか割り当てられる場合と、「陵戸」無しで「守戸」だけが指定される場合があります。磯長では、敏達陵は守戸五烟、推古陵は陵戸一烟・守戸四烟、用明陵は守戸三烟、孝徳陵は守戸三烟であって、太子の陵は用明・孝徳と同じ扱いです。

 膳菩岐岐美妃との合葬を言うのは、多くの神秘的な伝説を集成して10世紀に成立し、以後の太子伝の根本となった『聖徳太子伝暦』が最初です。それによれば、太子は科長を巡察した際、七年後に死んでこの地に葬られることを予言して墓作りの工人に墓の造成を命じ、墓には「二床」を設けるよう指示し、亡くなった後、その墓に安置された、としています。

 『延喜式』では、膳菩岐岐美妃と合葬されたとは述べていませんが、『延喜式』では、自分のために新しく陵を作らず竹田皇子の墓に合葬せよと命じた推古天皇や、間人皇女と合葬された斉明天皇の陵についても、天皇陵であることしか述べていないため、東野氏は、太子墓も合葬でないとは言えないとします。

 そして、平安末には太子の墓が分からなくなっていたとする小野一之氏の論文、「聖徳太子墓の展開と叡福寺の成立」(『日本史研究』342号、1991年)に触れます。小野氏が発見した図書尞本『諸寺縁起集』中の「天王寺事」では、治安4年(1024)の記として、太子の墓所が誰にも分からなくなっていたが、捜し求めていた河内の普光寺の慈円聖人が、ある家で「諸陵式」と記された古文書、つまり『延喜式』の陵の部分を見いだしたところ、「磯長の墓」とあって太子の墓について記してあった、と書かれていたのです。

 そこで、小野氏は、平安後期には太子の墓は分からなくなっており、その時点では墓前の寺、つまり、今日の叡福寺も、当然存在しなかったとします。
 
 聖徳太子伝説は後代の作であることを強調する大山氏は、小野氏のこの論文を高く評価し、大山誠一編『聖徳太子の真実』(平凡社、2003年)では小野氏の「聖徳太子の墓」、自分が中心となって出した『アリーナ 2008』の聖徳太子特集では小野氏の「聖徳太子<生誕地>の誕生」を載せています。

 小野氏は後者では、太子墓について上記の内容を簡単に紹介したうえで、さらに生誕の地に関する伝承が後代の成立であることを論じています。

 小野氏の最初の論文は、聖徳太子墓とその伝承について詳しく検討した最初の論文であり、きわめて意義のあるものでした。ただ、東野氏は、小野氏の最初の論文のうち、太子の墓が分からなくなっていたという点については反論があったことも紹介します。

 それは、上野勝己「聖徳太子墓を巡る動きと三骨一廟の成立」(『太子町立竹内街道歴史資料館 館報』3号、1997年)と、山口哲文「平安後期の聖徳太子墓と四天王寺」(『史泉』109号、2009年)です。

 東野氏は、山口氏の指摘は特に重要であるため、小野説は成り立たないと論じます。そして、三骨一廟の問題を検討していっており、こちらが主題になっているのですが、ここでは、その山口氏の説を詳しく紹介します。

 山口氏の論文は、中世にたくさん現れた聖徳太子関連の偽作文献の一つである「太子御記文」が四天王寺主体の作成か、太子墓側主体の作成かについて論じ、墓前寺の成立について論じた興味深いものです。

 山口氏は、小野説に触れたのち、上記の上野氏の批判を紹介します。上野氏は、当時は聖徳太子信仰が非常に高まっていた時期であり、特にその聖典とも言える『聖徳太子伝暦』では太子墓についてしばしば言及している以上、太子の墓が行方不明になっていたとは考えがたいとします。

 そして、「天王寺事」のその記事は、冒頭に「愚、誰人記事」と記されているため、典故を示すことができない史料であって信憑性に欠けると述べ、法隆寺と四天王寺が聖徳太子信仰の聖地の筆頭であろうとして、太子墓の支配を争っていた時期であるため、この記事が四天王寺に関する記事の冒頭に置かれたものと推測したのです。

 山口氏はさらに自らの発見として、武田科学振興財団(つまり、杏雨書屋)所蔵の『聖徳太子伝暦』の奧書では、寛弘5年(1008)9月1日から3日まで、河内守であった令宗允亮が公館において、清義・幡慶・光編のために『聖徳太子伝暦』の講義をしたと記されていることを指摘します。

 令宗允亮はその『政事要略』でも普光寺の僧である幡慶との交渉に触れており、普光寺僧と交流があったのです。太子墓について記されている『聖徳太子伝暦』を講義した寛弘5年は、まさにその普光寺の慈円が太子墓を探したという治安4年の僅か16年前のことです。

 そうであれば、当時、太子墓が誰にも分からなくなっており、普光寺の慈円がたまたま『延喜式』の諸陵式を見いだし、ようやく磯長に墓があることを知った、という話はあやしいということになります。こうした劇的な発見があったのだから、ぜひとも復興整備しなければならない、とする大げさな宣伝ですね。

 山口氏は、こうした普光寺の僧たちによって太子墓に対する信仰が高められた結果、国王大臣がその墓に塔を建てるという予言が記された「太子御記文」が作成され、墓前寺が形成されてゆくという流れになったと推測します。

 そして、当初は寺でなく、あくまでも聖徳太子墓と認識されていたのであって、墓前寺の成立は平安後期であり、鎌倉時代に参詣が盛んになったと説きます。
 
 こうした経緯の中で四天王寺と墓前寺の関係が深まっていくようですが、山口氏によると、法隆寺側では、「太子御記文」に関わった忠禅を「誑惑聖」と呼び批判している由。

 山口氏は、そのほかの太子信仰に関わるきわめて興味深い事実を明らかにしているのですが、末尾の「付記」によると、修士論文の一部を改めたものだそうなので、感心させられます。

 なお、上野氏の批判は、『太子町立竹内街道歴史資料館報』という目立たない雑誌に掲載されたため、気づかれにくかったでしょうが、大山氏の講演の2年前に刊行された山口氏の論文は、関西大学の史学・地理学の雑誌であって広く読まれている『史泉』に掲載されたものです。

 検索も簡単にできたことでしょう。大山氏がこの論文のことを知らなかったなら調査不足、知っていて無視したならば、いつものやり方といいうことになります。

【追記:2024年1月25日】
「守戸」の説明を加えました。


「嘘を積み重ねても学問にならないのですよ」と言いつつ嘘を語った講演CD:大山誠一『創作された聖徳太子像と蘇我馬子の王権』(2)

2024年01月12日 | 大山誠一「聖徳太子虚構説」への批判

 続きです。大山誠一氏の講演CDの2枚目では、飛鳥時代の本当の状況について語るに当たって、「歴史学というのはですね、信頼できる資料がないと始まらないんですね」と述べ、信頼できるのは『隋書』だと述べます。

 その『隋書』が信用できる理由として、裴世清がやって来て「倭王と何度も会ってるんですよ」と言うのですが、『隋書』では、裴世清が倭王と会話したという記録はあるものの、何度も会ったとは書かれていません。「何度も会って情報を得ていたと思われます」などと言うべきところを、横で見ていたように「何度も会ってるんですよ」と述べるのです。大山氏お得意の資料捏造です。

 大山氏は、その倭王とは飛鳥の最有力者であった蘇我馬子のことだと説くのですが、馬子の墓誌などは出ていないため、馬子に関する古い資料は『日本書紀』しかありません。つまり、大山氏は、推古が天皇であって聖徳太子が皇太子として活躍したと書く『日本書紀』は信頼できないとしておりながら、『日本書紀』が飛鳥における馬子の権勢について記している部分は信用するのです。

 『日本書紀』は蝦夷と入鹿、とりわけ入鹿のことを皇室をないがしろにする悪逆の者になっていったように描こうとしていますが、推古天皇の叔父である馬子については、「大臣は……武略が有り、弁才も有った。三宝を敬い……」と賞賛し、飛鳥川のほとりの邸宅中に池を作って小さな嶋を中に築いたため、「時の人は、嶋大臣と称した」と述べており、馬子が天皇だったことを嫌って隠そうとしているようには見えないんですけどね。

 また、『隋書』倭国伝では、倭王には妻がいたとし、後宮には女が六七百人いたと書いてあるとして、女性の推古天皇が倭王だったはずはないと述べ、『日本書紀』の記述はあやしいと説きます。

 『隋書』の記述が信頼できるのなら、後宮に女が六七百人いたという記述も事実ということになりますが、大山氏は、「話半分だとしてもたいしたものですね」として、その倭王とは石舞台に葬られた蘇我馬子だと述べます。

 これだと、『隋書』の記述は史実そのものでなく、「話半分」と受け止めなければならない大げさな書き方をしているとことになりますが、大山氏はそれには触れず、蘇我氏がいかに強大であったかを述べていきます。

 しかし、六七百人の半分もの女がいる広い後宮があったなら、その前に置かれた本来の宮(大殿)はそれとバランスがとれる程度には大きかったはずです。しかし、そんな巨大な宮の遺跡は飛鳥や斑鳩では発見されていません。

 唐代の白楽天の「長恨歌」は、各地から美女を献上させた玄宗当時の宮殿を想定し、「後宮の佳麗、三千人」と中国流の表現で詠っていますが、そもそも、古代日本の宮殿に「後宮」なるものが存在したのか。それらしい遺構は発見されていません。

 『隋書』には信頼できる部分と、異国の状況を中国風に受け止めて大げさに書いている部分があることを認めるべきでしょう。実際、そのことは、大山氏が編纂し、この講演録音の3年前に刊行された雑誌の聖徳太子特集に寄稿した榎本淳一氏が注意していたことでした(こちら)。

 大山氏は、文献をそのように慎重に扱うことをせず、自説に合わない部分は後世の捏造だとし、自説に都合の良い箇所だけ無批判に使うのです。

 馬子の権勢を強調する大山氏は、飛鳥寺については「蘇我馬子の氏寺なんです」と述べます。しかし、飛鳥寺が単なる氏寺ではないことは、天武9年(680)に諸寺院の食封を制限した際、飛鳥寺は天皇勅願の寺でないにもかかわらず国の大寺の一つとして尊重されてきたという理由で「官治」扱いにしたと、『日本書紀』が述べている通りです。

 飛鳥寺が建てられた頃は、官司制を整備しようとし始める時期であって、国家の様々な職務のほとんどは特定の氏族が担当していた時代ですので、外来の仏教は多くの渡来氏族を配下に置いていた蘇我氏が担当し、国家のための寺も建てたと見るのが学界の通説です。つまり、飛鳥寺が建てられたのは過渡期なのであって、いわゆる「氏寺」が建立されていくのはもう少し後になってからなのです。
 
 大山氏は、巨大な見瀬丸山古墳は蘇我稻目の墓らしいとし、石舞台の側の島庄に馬子の邸宅があり、甘樫の岡に馬子の子である蝦夷とその子の入鹿が住む邸宅があったと述べ、飛鳥の主人公は蘇我氏だったとして、馬子が大王だったと論じます。

 これは私の好きな作家である坂口安吾が、飛鳥の主人公は蘇我氏であって、蝦夷か入鹿が天皇だったろうと述べた説(こちら)をさらに前に持って来たものですね。

 大山氏は、稻目の墓である見瀬丸山古墳を起点として北に直進する下ツ道が建設され、それと直交する横大路も建設されたとし、蘇我氏の強大さを説くのですが、それ以前に建設され、飛鳥から斑鳩まで斜め一直線に伸びていた太子道には触れません。自説に都合が悪いことには触れないというやり方の一例です。見瀬丸山古墳(現在は五条野丸山古墳という呼び方が定着)については、欽明天皇の墓とする説も有力です。

 そして、飛鳥に墓が集中している蘇我氏と違い、推古天皇やその兄弟である用明天皇、そして聖徳太子の墓は飛鳥にはなく、磯長にかたまっていると指摘し、この地域は小さな墓がたくさんあって誰の墓だか分からず、聖徳太子の墓にしても、ある時期に聖徳太子の墓と定められたと説きます。

 これも事実と違います。聖徳太子の墓については平安後期には場所が分からなくなっていたとする史料がありますが、その史料はかなりの誇張ないし潤色があることが判明していますし、この磯長の地を自分と関係深い皇族の墓域としたのは推古天皇であって、夫の敏達天皇も兄弟の用明天皇もこの地に築陵されており、これも妹である推古天皇の指図でしょう。

 用明の子で推古の甥かつ娘婿であった聖徳太子の墓がこの地にあって不思議はないのであって、『日本書紀』も『法王帝説』も墓は「磯長(志奈我)」の地だとしており、10世紀初めの『延喜式』諸陵寮でも、推古天皇の皇太子で聖徳という名の皇子の墓が磯長にあって兆域は東西三町、南北二町とし、墓を守る守戸が三烟、指定されています。

 いずれにしても、磯長は小さな墓がたくさんあって誰の墓だか分からない、という状況ではありません。誰が埋葬されているのか分からない墓が多いのは、欽明天皇、天武・持統天皇・文武天皇などの陵が築かれた檜隈の地です。ここには岩屋山古墳、牽牛子塚、高松塚、マルコ山古墳、キトラ古墳、束明神古墳、中尾山古墳など、埋葬者不明の7世紀の古墳が集中しています。

 大山氏は最後に、『日本書紀』はなぜ聖徳太子を創作したか、また、後に法隆寺がどのように別のイメージの聖徳太子を作りだしたかについて述べていくに当たって、大化の改新がいかに大きな変革であったかを強調します。そして、蝦夷・入鹿が渡来人を活用して進めていた改革を、中大兄と中臣(藤原)鎌足がのっとったのだと説くのです。

 そのことを隠すために、中大兄と鎌足の子孫であって『日本書紀』を編纂した藤原不比等と長屋王が、蘇我氏以外の立派な人物、つまり聖徳太子や山背大兄王が改革を進めていたのを蘇我氏が邪魔し、山背大兄を殺したとして、蘇我氏を悪者に仕立てたのだと述べます。
 
 しかし、『日本書紀』では山背大兄が改革を進めていたことは全く記されていません。最後は民のことを思って戦わずして死んだと賞賛されていますが、それ以前の部分では、天皇になりたくて騒いだ未熟な人物として描かれています。

 一方、大臣の蝦夷は、そうした山背大兄ではなく、中大兄の父である田村皇子(舒明天皇)を皇位につけようとし、ひどく苦労したことが詳しく描かれているのです。時期は不明ですが、舒明天皇は蘇我馬子の娘である法堤郎女を妃として古人皇子を設けており、入鹿はこの古人を皇位につかせようとして山背大兄を殺害したとされています。これが、蘇我氏が立派な山背大兄の改革を邪魔したことになるんですか?

 そもそも、不比等が律令制作に関わっていたことは記録にありますが、不比等と長屋王が『日本書紀』編纂に関わったとする史料はありません。「~と考えられる」とか「~の可能性もある」と言うべきところを、氏は横で見ていたように「編纂しました」と述べるのです。

 それに、『<聖徳太子>の誕生』を書いた1999年頃は、大山氏は、不比等と長屋王と道慈が協同し、律令制における理想の天皇像を示すために、不比等が儒教面、長屋王が道教面、道慈が仏教面を担当して儒教・道教・仏教の聖人である<聖徳太子>を作り出し、唐に長く留学していた博学な道慈が『日本書紀』中の太子関連の記事を執筆したと述べていました。

 しかし、こうした主張については、皇太子のままで死んだ人がなぜ理想の天皇像となるのかとか、「憲法十七条」を含め、『日本書紀』の太子関連記述は初歩的な誤りを含む和習だらけであり、唐で16年も学んだ道慈が書いたはずがない、その他いろいろな批判を受けたせいか、2011年のこの講演CDでは、上記のような基軸となる主張はきれいさっぱり消えてしまっています。
 
 大山氏は、最後に、「真実は本当は苦いものかもしれない。私はそれを隠さず明らかにしたわけであります」と自信たっぷりに述べていますが、文献に書いてないことを史実であるかのように語り、自説に都合の悪いことには知らん顔をするのが大山氏のやり方であることは歴然としています。

 こうしたやり口が徐々に知られるようになったうえ、根拠に基づく批判がいろいろなされたため、自分の主張をこっそり訂正しているにもかかわらず、「私の説には反論がない」「私の説は学界に定着した」などと豪語し続けた結果、賛同する論文どころか、言及して批判する論文さえこの10年ほどは出なくなり、学界ではまったく相手にされなくなったということこそが、大山氏が直視すべき「苦い真実」ではないでしょうか。

 なお、平安時代には聖徳太子の墓が分からなくなっていたとする『諸寺縁起集』の記述が信頼できないことは、大山氏のこの講演の前から指摘されていましたし、聖徳太子の墓とされる叡福寺北古墳から持ち出されたと推定される夾紵棺の破片は、当時としてはきわだって豪華で精緻な作りになっていたことが報告されています(こちら)。太子の墓に関する研究状況は、近いうちに紹介します。

【追記】
聖徳太子の墓に関する部分や大山説批判に関する記述を一部改め、末尾で補足説明を加えておきました。

【追記:2024年1月14日】
太子の磯長の墓に関する文献について補足しておきました。

【追記:2024年1月16日】
蘇我氏が中大兄の父であって蘇我馬子の娘を妃とした舒明天皇やその間に生まれた皇子をいかに応援していたかが分かるように、蝦夷と入鹿の行動に関する記述を付け加えました。山背大兄は蘇我氏の血を引いてますが、蘇我氏の女性を妃としておらず、異母妹、つまり父である聖徳太子の娘を妃としており、上宮王家内で婚姻が完結していました。豪族の娘など、他にも妻はいたでしょうが。

【追記:2024年1月25日】
磯長の墓に関する記述を訂正しました。推古陵について、最愛の息子である竹田皇子の墓に合葬するよう命じたと書きましたが、『古事記』ではその墓は大野岡にあり、後に磯長に改装したとあって現代でも異説もあるため、この地の古墳に関する論文を紹介する別記事で説明します。


「嘘を積み重ねても学問にならないのですよ」と言いつつ嘘を語った講演CD:大山誠一『創作された聖徳太子像と蘇我馬子の王権』(1)

2024年01月08日 | 大山誠一「聖徳太子虚構説」への批判

 「<聖徳太子>はいなかった」という大山説が学界でまったく相手にされなくなって10年以上たちますが、面白いものを入手しました。

大山誠一『創作された聖徳太子像と蘇我馬子の王権』
(CD2枚組:アートデイズ、2011年)

 こんな講演CDが出ていたとは知りませんでした。聞いてみたら、聖徳太子に関する資料は後代に捏造されたものばかりだが、学問というのは「真実を追求するもの」であるため、「嘘を積み重ねてもですね、学問にはならないのですよ」と言いながら、嘘をいくつも語っていました。

 ある文献を610年頃と見るか、630年頃と見るか、650年頃と見るかというのは意見の違いであって、いろいろな説がありえます。ただ、一人だけ720年頃と主張する人がいたら、かなり強引な説ということになりますが、まったくあり得ないわけではありません。

 しかし、文献に書いてないこと、それも学界の常識と異なることを「この文献は~と述べてます」などと語ったら、それは説の違いではないですし、自分の説の証拠として語っていたなら、嘘としか言いようがありません。

 大山氏は、この講演の冒頭で例によって「本名は厩戸王(うまやどおう)」だと断言しています。『日本書紀』にも『古事記』にも『上宮聖徳法王帝説』にも見えず、戦後に小倉豊文がそう推測したものの論証できなかった名であることは、これまで論文やこのブログで何度も書いてきたことです(こちらや、こちら)。大山氏はどうしてそれが本名だと断定できるのか。

 大山氏は、聖徳太子に関する伝承は、斑鳩に宮と寺を建てたこと以外はすべてあやしいと述べ、「宮殿と言っても、要するにそういう邸宅を作ってですね、そして近くにお寺を作る、まあそういう人物は厩戸以外にもたくさんいたわけであります」と説きますが、これは事実と異なります。

 宮と呼ばれるような邸宅と平行して寺を建てた最初の人物は聖徳太子です。蘇我馬子にしても、島庄の邸宅と飛鳥寺は離れていました。斑鳩寺の造営が始まった後、飛鳥周辺で蘇我氏の一族や蘇我氏に近い渡来系氏族が次々に寺を建てていきますが、自分の邸宅の側に壮大な寺を建てたことが明らかな人物は、太子以後は舒明天皇のみであって、それ以前の時期には知られていません。

 そもそも、宮殿すら掘立柱式であった推古朝において、版築で地固めして礎石の上に太い柱を立て、屋根を重い瓦で葺いた壮麗な寺は、馬子の飛鳥寺→馬子が姪である推古天皇のためにその宮を改めて建てた豊浦寺→馬子の娘婿である聖徳太子の斑鳩寺、の順序で建立されたのであって、寺を建てるというのは、百済から招請した技術者たちによって初めて可能になった大事業でした。

 自分の邸宅の一部を改装して小型の仏像を置いたり、小さな仏堂を建てたりするのとは規模が違うのです。つまり、「たくさんいたわけです」というのは、聖徳太子を勢力の無い人物に見せようとして述べた嘘です。

 次に、「憲法十七条」について大山氏は、「立派な文章であります」と評価し、中国の古典を切り貼りして「それなりに高度な文章となっております」と述べ、当時、そんな文章を書けたはずがないと論じます。

 しかし、この録音がなされた2年前には、「憲法十七条」は和習だらけで、初歩的な間違いが多いことを論証した森博達さんの『日本書紀の謎を解く』(中公新書、1999年)が刊行され、話題になっていました。

 それどころか森さんは、この本が出る前から「十七条憲法の倭習」(『同志社大学考古学シリーズⅣ 考古学と技術』、1988年)などで「憲法十七条」の和習を指摘し、『日本書紀』の他の部分の和習と共通する点から見て後代の作としていました。

 大山氏は、森さんのこうした主張を初めは自説の味方として歓迎し、学会の際に森さんのところに挨拶に行ったことすらあるものの、森さんが大山説を妄想だと批判すると、一転して無視したり批判したりするようになったのです。

 これに続くのが、津田左右吉説に関するデタラメ発言です。大山氏は、津田が「憲法十七条」を疑ったことを紹介する際、「編者が聖徳太子の名を借りてですね、奈良時代の役人に訓戒を与える、お前たちもこれを読め」ということで書いたもので、「『日本書紀』は奈良時代の初めの720年に成立したものですから、ちょうどその頃に作られたものである」と津田は論じた、と述べています。

 しかし、津田は、律令や歴史書を企てつつあった頃に政府の誰かが儒臣に命じて作らせたと述べただけであって、これは学界では天武・持統朝頃と受け止められており、大山氏のように、奈良時代になって『日本書紀』編集の最終段階で編者が作ったなどとする人は一人もいません(大山氏が津田説をいろいろ歪曲していることについては、こちら)。

 もっとひどいのは、「天寿国繍帳銘」に関して述べた部分です。大山氏は、橘大郎女が聖徳太子に向かって、「『あなたは死んでどこへ行くの』と聞いたもんですから、『いや、死んでから天寿国に行くんだよ。心配いらないよ』とか言ったらしいですね」と述べ、そこで大郎女は祖母の推古天皇に頼んで繍帳を作ってもらったということになっているが、この時期にはまだ制定されていない「天皇」という称号が銘文に出ているのはおかしいなどと述べ、これも後代の作とします。

 しかし、良く知られているように、「天寿国繍帳銘」では、

わが大王の告げたまいしく、「世間は虚仮にして、ただ仏のみこれ真なり」と。その法を玩味するに、わが大王は天寿国の中に生れたまうべしと謂(おも)えり。

と記されているだけです。太子が「世間虚仮、唯仏是真」とおっしゃっていた言葉から考えて、天寿国に生まれたに違いないと橘大郎女が考えた、とあるのみであって、太子が「私は天寿国に生まれる」などと述べたとは書かれていません。

 大山氏は、どうせ後代の偽作なのだからと思ってか、当時の史料をまともに読んでおらず、古代史小説みたいな調子で想像を述べたてるのです。ここまで来ると資料の捏造であって、嘘としか言いようがありません。

 大山氏は、「天寿国繍帳」を作らせたという橘大郎女は、兄弟たちに次々に病死された光明皇后が、聖徳太子にすがり、情念によって作り出した架空の人物だなどと、まさに古代史小説のような説を主張しており、こうしたやり方を研究と称しているのです。

 三経義疏については、敦煌文書の権威であった藤枝晃先生たちのチームが、『勝鬘経』の注釈類を調査していて『勝鬘経義疏』と7割ほど一致する写本を発見したため、藤枝先生は『勝鬘経義疏』は中国北地の二流の注釈を遣隋使が持ってきたものだと論じました。中身を読んでいる仏教学者たちは反対したのですが、井上光貞先生などを除いては仏教にうとい人が多い古代史学界ではこれが通説となりました。

 藤枝説は誤りであって、『勝鬘経義疏』は「憲法十七条」や 『法華義疏』『維摩経義疏』と同様に変格語法が目立ち、中国人の作ではありえないことは、私が早くから指摘しており、このブログでも何度も説明しています。最近は、韓国の変格漢文ととも異なっており、『源氏物語』のように文が長いため、接続詞が発達していなかった日本の作だと論じるようになりました(こちら)。

 それはともかく、重要なのは、藤枝先生たちは、敦煌文献中の「奈93」という写本が『勝鬘経義疏』と7割ほど一致すると指摘し、その元となった詳しい注釈があったらしいと述べているだけであるのに、大山氏は藤枝説を紹介する際、「三経義疏とそっくりなものが敦煌にいっぱいあるんですね」と話を大げさにし、事実でないことを述べていることです。嘘八百とはこのことですね。

 大山氏の嘘はまだまだ続きます。『日本書紀』では法隆寺系の資料が用いられていないことを紹介した部分では、『日本書紀』では670年に斑鳩寺が全焼したとしているのに対して、法隆寺の側は「火災の記録なんてまったく無いと主張してるんですね」と述べます。

 実際には、四天王寺系の資料を用いた『日本書紀』では斑鳩寺の創建が記されず、670年に全焼したことが書かれており、一方、奈良時代に法隆寺の建物や仏像などについて記録した『法隆寺伽藍并流記資材帳』などでは火災に触れていないというだけのことです。

 法隆寺が「いや、火災には遭っていない」などと主張した文献はありません。そうした主張がなされたのは、明治以後の法隆寺再建・非再建論争でのことであって、法隆寺ではなく、学者たちの議論です。

 CDの1枚目のうち、目立つ部分だけとりあげてもこんな調子です。どう解釈するかということで意見が分かれるというレベルの問題でなく、事実でないことを、自説に都合良く語っているのです。大山説が学界で相手にされなくなったのは当然でしょう。やれやれ。

【追記:2024年1月9日】
三経義疏の和習の説明のところなどを少し追加しました。

【追記:2024年1月15日】
敦煌における『勝鬘経』の注釈について、少しだけ補足しました。


斑鳩宮の瓦の破片をCGで復原し、斑鳩宮の形態も推定:松田真平「斑鳩宮軒丸瓦の正しい花弁数と宮域の方位について」

2024年01月04日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報

 斑鳩宮については、発掘報告以外の研究論文は少ないのですが、興味深い検討をおこなった試論が出ています。

松田真平「斑鳩宮軒丸瓦の正しい花弁数と宮域の方位について」
(『聖徳』第240号、2019年5月)

です。

 コンピュータによる文化財復原などを専門とする松田氏の論文については、以前もこのブログでとりあげたことがありましたが、今回は、斑鳩宮の創建時の軒丸瓦の蓮華文が七葉であったという発見に関する報告です。

 破片だけが残っているこの瓦の蓮華文については、これまでは当時多かった六葉と推測されていました。しかし、破片の柄から見てその説に違和感を感じていた松田氏は、残っている花弁の部分をコンピュータ・グラフィックによって瓦の欠けている部分に埋めていくと、七葉でないと合わないことを明らかにしたのです。

 松田氏は、飛鳥時代の瓦文様で七葉という例は少なく、想起されるのは坂田寺の「有稜素弁七葉蓮華紋軒丸瓦」であると述べます。そして、この瓦は、測り方の違いなのか、図録によって数値が多少違うものの、直径14.8cmと記しているデータを採用すると、14.2cmである斑鳩宮の瓦とほぼ同サイズとなるとします。

 松田氏は、両者の制作年代は近い可能性があると述べたうえで、坂田寺付近は太子が幼少・青年期を過ごしたという伝承があることに注目します。

 次に、斑鳩宮の瓦は、坂田寺のものよりやや小さいとはいえ、屋内の厨子に葺くには大きいため、小仏堂の屋根などでなく、普通の仏殿やその門や塀の屋根に葺かれていたと推測します。そこで、正方位でなく西に20度ほど傾いた斑鳩寺と平行して建てられていた斑鳩宮のどのあたりにそうした建物があったかを検討します。

 斑鳩宮の西側は広い空き地であって、その真ん中の道路は、現在では法隆寺西院伽藍から斑鳩宮跡に建てられた東院伽藍の夢殿へ続く道となっていますが、昔はこれが斑鳩宮の正面に向かう道であったと推測します。

 そして、斑鳩宮の東側は、現在と違って大溝によって南北に分けられていたことに注意し、北側の区画の南端で大溝と近い場所にあった正方形の建物跡を、上記の瓦が葺かれていた仏殿と見て、その仏殿とつながった形で北に延びている細長い建物を、仏教関連の作業をするための作業建物と推定します。興味深いことに、その西側には井戸の跡があるのです。

 隣接する斑鳩寺、すなわち若草伽藍は、北から西へ20度ほど傾いた形で、南から門、塔、金堂が並んでおり、仏像を安置した金堂は南面しているため、斑鳩宮も同様に南面していたと考えられてきたものの、松田氏は、斑鳩宮は傾いた形で西面していたと推測します。

 つまり、斑鳩宮から若草伽藍に向かって歩いていき、その東門から伽藍を見ると、左に塔、右に金堂が見えるわけですが、これは、現在の西院伽藍では門から北を見ると左に塔、右に金堂が見えるのと同じ形になる、とするのです。

 松田氏はさらに、斑鳩宮のうち、南半分の現在の夢殿が建てられている地の横に細長い建物の跡があることに注目し、食堂ではないかと推測して、ここにも仏像が安置されていた可能性があるとし、それが現在の法隆寺金堂の本尊となっている釈迦三尊像ではなかったと推測します。

 ただ、僧侶たちが食事をする食堂には、中国でも日本でも聖僧と呼ばれる賓頭盧尊者や文殊などの像が置かれるのが通例であり、釈迦三尊像を置いた食堂などはありません。

 その他の点についても、仏教史からすると考えにくい推定がいくつかなされていますが、松田氏もそれは自覚しているようです。この論考が載った『聖徳』誌は、法隆寺が信者・支援者など向けに出している雑誌ですが、氏は、この論考の末尾で、斑鳩宮軒瓦のすべての実物と拓本を調査することができていないため、この発見と推定を学会誌には投稿しなかったと述べ、「奈良文化財研究所の先生たちと共同で研究を重ねたうえで学会誌に載せたいと述べています。ですから、このブログでも、論文ではなく「情報」のコーナーで紹介した次第です。

 斑鳩宮の瓦と宮全体の構成が、そうした共同研究によって明らかになっていくことを期待します。


四天王寺・小治田寺・百済大寺の瓦を作成した工人集団とミヤケとマエツキミ:新尺雅弘「初期瓦生産における王権の技術労働力編成」

2024年01月01日 | 論文・研究書紹介

 前回、四天王寺を扱った論文を紹介しましたので、その続きとして、四天王寺を含めた初期の寺に関する重要な問題提起をおこなった論文を紹介します。

新尺雅弘「初期瓦生産における王権の技術労働力編成」
(『史林』第106巻第2号、2023年3月)

です。

 推古朝における仏教の興隆は、最新技術による巨大寺院の建築という新たな工業生産をもたらしました。これを支えた人々や組織はどのようなものだったのか。これについて、考古学の成果に基づいて新たな社会像を描きだしたのが、今回の論文です。

 問題となるのは、その最新技術を用いた技術者集団は大王家に隷属していたのか、特定の有力氏族が管理していたのか、その技術者集団は世襲して技術を伝えていったのか、各地で活動した技術者集団はその地の権力者に組織されていたのか、といった点です。

 これについては諸説がありましたが、大きな発見をしたのは、7世紀前半に飛鳥・斑鳩・難波の寺に瓦を供給した瓦窯は、蘇我氏が管理するミヤケ、すなわち朝廷の直轄地にあったことを明らかにした上原真人氏でした(こちら)。

 ただ、技術の伝承などについてはまだまだ不明でしたが、瓦の作成技法を綿密に検証し、当時の状況を明らかにしたのが、今回の新尺氏の論考です。

 日本最初の巨大寺院である飛鳥寺の創建瓦には、花組と星組の2種類があり、百済から来た工人たちの技法の違いに基づくことは良く知られています。新尺氏は、ミヤケとの関係が指摘されている楠葉の平野山窯、宇治の隼上り窯、今井の天神山窯、明石の高岡窯、吉備の末ノ奧窯のうち、まず大阪府枚方市と京都府八幡市にまたがる平野山窯から検討します。

 この瓦窯のⅠ期では、星組の技術によって四天王寺の創建瓦を生産しており、610~620年代と推測されています。瓦の作成には回転台が用いられています。

 続くⅡ期は、小治田寺(奥山廃寺)の創建瓦を生産した瓦窯の一つであって、小治田寺は飛鳥時代には百済大寺に次ぐ大きな金堂を有しており、627年の推古天皇の死去を契機として建立され、以後も長く尼寺の筆頭だったとする吉川真司氏の説を紹介します。回転台を用いていないうえ、成形方法も違っており、Ⅰ期のタイプとは大きく異なっています。

 Ⅲ期は、再び回転台が用いられており、四天王寺のための造瓦活動をしていたのであって、この時期の瓦は百済大寺と同笵の単弁蓮華文です。この瓦は難波遷都にともなって四天王寺が大規模に修繕された際に使用されたと考えられています。639年から645年まで造営された百済大寺の同笵瓦より笵傷が進んでいるため、上限を645年と見ることができます。

 以上のことからも分かるように、この地で世襲によって技術が伝えられているようには見えません。

 天神山窯では、小治田寺創建瓦のうちⅡA型が出ており、制作技術は平野山窯釜のⅡ期とほとんど同じです。川原寺の創建瓦の技法が用いられた瓦も出ているのですが、そちらは星組・花組と異なり、川原寺の創建時に用いられた荒坂組と呼ばれる技法で作られていますが、このタイプは小治田寺からの出土はありません。

 つまり、小治田寺ための造瓦作業の後、川原寺の創建時かそれ以後にまた作業をしているものの、別系統の技法が使われており、技法の一貫性がないのです。

 次に隼上り窯では、四半世紀ほどの間に、4期にわたって技術が変化しており、最初期に活動していた二つの系統の工人たちが途中で作業から離れています。

 以上のように、ミヤケと結びついた瓦窯で生産されているものの、同じ瓦窯でも技術は継承されていないため、それぞれの在地の工人たちの間で世襲されているのではないことが知られます。

 新尺氏はさらに検討を加え、ともに星組に分類される小治田寺と百済大寺においても顕著な違いが見られるため、親子・兄弟のような系譜関係を見いだすことはできないとします。

 そして、川原寺の創建瓦はケズリ調整を多用する点で小治田寺や百済大寺と異なっているとし、それまで瓦生産に携わっていた工人が登用されたと見ます。

 ここで、その工人たちを管理した側について考察しており、初期にはミヤケで瓦が生産されていたものの、技術がその地に定着して伝えられていないため、事業ごとに工人が中央から派遣されたと推測します。

 また、奈良時代の資料となりますが、東大寺造営時には瓦工4人に対して20人の割で関連労働者が配置されていることから、7世紀前半においても、中央から派遣された瓦工と現地の労働力が組み合わされて瓦が生産されたと見ます。

 そして、那津官家へのミヤケの穀類運搬の状況から見て、7世紀前半の造瓦においては、大王の命令が、蘇我氏や物部氏や阿倍氏などのマエツキミ層を介して在地領主層に伝えられ、その地の労働力を活用して造瓦がなされたとします。

 『日本書紀』には「瓦師」という語も見えており、「師」は弟子を育成するものですので、そうした動きも考慮すべきだとしつつ、最先端の造瓦事業であっても、律令制の官司のような体制は整えられておらず、古墳時代以来の部民制のあり方と新しい技術育成のあり方が結び着いた過渡期のものであったと推測するのです。これは説得力がありますね。

 とにかく、瓦の作成の技法に関する研究が進んだ結果、いろいろ見えてきたものがあり、それと文献をどう付き合わせていくかが大事でしょう。