聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

漢文訓読とその周辺の研究に関する最新成果:麗澤大学言語研究センター『日・韓訓読シンポジウム』

2012年03月16日 | 論文・研究書紹介

 『日本書紀』研究にしても、三教義疏研究にしても、日本風な漢文に関する研究、広くはアジア諸国における漢文の読み方に関する研究を踏まえなければ、細かい議論はできません。この問題に関する最新成果が昨日、郵送されてきましたので、ご紹介しておきます。

麗澤大学言語研究センター編(代表者:藤本幸夫・千葉庄寿)『日・韓訓読シンポジウム--平成21年~23年 開催報告書--』
(麗澤大学言語研究センター、2012年2月)

です(藤本先生、有難うございます)。

 論文部分だけで251頁あります。その内容は、

【第1回(平成21年11月21日開催)】
「日本の訓点・訓読の源と古代韓国語との関係」
  広島大学名誉教授・小林芳規
「東アジア学術交流史から見た漢籍訓読の問題」
  富山大学教授・小助川貞次
「江戸時代の訓読について--『詩経』「言」「薄」の訓読をめぐって--」
  二松学舎大学教授・佐藤進
「角筆口訣の解読方法と実際」
  ソウル大学校教授・李承宰
「韓国の口訣資料および口訣研究の現況」
  崇実大学校教授・呉美寧

【第2回(平成22年12月11日開催)】
「宋版一切経に書き入れられた中国の角筆点--醍醐寺蔵本を基に東アジア経典読誦法を探る--」
  広島大学名誉教授・小林芳規
「日本語表記における音訓交用の精錬史」
  愛知県立大学教授・犬飼隆
「歌の表記--木簡と正倉院文書の事例から--」
  大阪市立大学名誉教授・栄原永遠男
「周本『華厳経』点吐口訣解読の成果と課題」
  ソウル大学校助教授・朴鎮浩
「木簡に見られる古代韓国語表記法--吏読の発達史を中心に--」
  ソウル市立大学校教授・金永旭

【第3回(平成23年10月29日開催)】
「韓国の借字表記法の発達と日本の訓点の起源について」
  檀国大学校名誉教授・南豊鉉
「日韓の漢文訓読(釈読)の歴史--その言語観と世界観--」
  京都大学教授・金文京
「ウイグル漢字音と漢文訓読」
  京都大学名誉教授・庄垣内正弘
「朝鮮吏文の形成と吏読--口訣の起源を模索しながら--」
  高麗大学校名誉教授・鄭 光
「日本所在の八・九世紀の『華厳経』とその注釈書の加点(再考)」
  広島大学名誉教授・小林芳規

以上です。

 この10年で研究が大幅に進み、日本、および日本に影響を与えた韓国のみならず、中国自体を含めたアジア諸国における漢文訓読法がどんどん明らかになっているのですから、驚くばかりです。最大の牽引役は、角筆を発見して解明し、またヲコト点の源流にあたる古代韓国の表記法の発見に努められた小林芳規先生でしょう。

 小林先生が韓国の研究者たちと協力しあって2000年にそうした例を発見して以来、韓国と日本で研究が急激に進んでいきますが、重要なのは、序にあたる「日・韓訓読シンポジウムを終えて」で藤本幸夫先生が、この分野ほど日韓の学会が緊密に交流し合って研究を進めている分野は稀だろうと書いている点です。

 このブログで扱っている聖徳太子研究についても、そうあらねばならないでしょう。もちろん、中国の研究者との協力も必要ですし、それ以外の諸国の研究者の参加も望まれます。

 今回の報告集のうち、犬飼論文は、日本と韓国における表記の精錬度を問題にしています。『古事記』の用字は、一字一訓、一字一義方式であるのに対し、長屋王家の木簡では字体と訓の対応が「多」対「多」である一方、一つの字体を複数の訓にあてている、といった事実に着目し、変化のパターンを探っていくのです。

 この変化について、最近次々に発見されつつある韓国の木簡の用例との対比研究が重要となるでしょう。こうなってくると、日韓双方における木簡のカラー画像とその釈文を容易に検索して眺めることができ、また関連論文を知ることができるような体制が、いよいよ必要となってきます。

 『日本書紀』研究や三教義疏研究が、そうした基礎に基づいて進められる時代が早く来るよう願いたいですね。そうした基礎データの一部である変格漢文用例データベースについては、計画もあるのですが、はたして実現できるかどうか。

大安寺の聖徳太子信仰が重要:山口哲史「『聖徳太子伝暦』所引「四節文」の成立と四天王寺」

2012年03月07日 | 論文・研究書紹介
 「四節文」とは、『聖徳太子伝暦』に引用されている「四節意願」の文であって、病床の聖徳太子が推古天皇の詔問に答えて述べたとされる以下の四条の願いを指します。

(1) 天皇たちの奉為に造営した法隆寺・四天王寺など七箇寺を加護してほしい
(2) 法隆寺僧は、毎年、90日間にわたって三経の講経をおこなうべし
(3) 七箇寺の財物を犯し用い、伽藍を破損すれば悪報があり、後代の子孫にまで災難が及ぶ
(4) 熊凝村に作った道場を官の大寺にしてほしい

以上です。これについて、新たな視点から検討を加えたのが、

山口哲史「『聖徳太子伝暦』所引「四節文」の成立と四天王寺」
(『日本歴史』2011年10月号)

です。山口氏は、聖徳太子信仰について独自の立場から研究を進めている若手研究者であり、関連論文が複数あります。

 『聖徳太子伝暦』に引かれているこの「四節文」については、成立年代などを含め、分からないことばかりです。このブログでは、四天王寺と法隆寺の争いの中で生まれたとする榊原史子氏の論文を紹介しました。

 今回の山口論文は、その榊原論文を批判し、この「四節文」は、法隆寺資料と大安寺資料を一体化したような性格を持っていると主張します。

 まず氏が指摘するのが、宝亀2年(771)に、大安寺僧でもあった四天王寺三綱の敬明らによって著された『七代記』の逸文に、(1)と(4)に当たる内容が見えている点です。ただし、こちらでは(1)は、「四天王寺・法隆寺……」という順序になっています。

 そして、山口氏は、(3)における禁止事項と警告が、大安寺など十二箇寺に対して、聖武天皇が経典読誦を命じて発した詔書の記述と似ていることに着目します。ここでも、大安寺が関わっています。

 そこで、氏は、「四節文」の原形は『七代記』所載の形でまず作成され、第二段階として、法隆寺僧が「四天王寺・法隆寺……」の順であった太子造営七箇寺を「法隆寺・四天王寺……」に変え、法隆寺僧への三経講読を指示した部分を追加し、現在の形ができたと推測します。

 四天王寺と法隆寺が聖徳太子信仰を競い合っていたことは事実であり、四天王寺の伽藍が整備されるのは、法隆寺僧行信や大安寺道慈らによって法隆寺での聖徳太子信仰が強められる時期であり、太子を祀る法隆寺東院が造営されると、その影響を受けて四天王寺でも太子を祀る聖霊院が造営されています。ここでも、大安寺が出てきます。

 このように、道慈や敬明が大安寺僧であったことから見て、奈良時代における聖徳太子信仰の発展には、大安寺が重要な役割を果たしたことが考えられるというのが、氏の結論です。

 こうして見ると、実際の展開はどうであったにせよ、大安寺の前身が、法隆寺の隣接地域であって道慈の出身氏族の本拠地、熊凝の道場であったと伝えられていることは、やはり無視できないですね。
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