聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

若草伽藍に見える新羅の影響:森郁夫「初期斑鳩文化圏の成立と韓半島の要素」

2010年11月28日 | 論文・研究書紹介
 斑鳩の地は、大和盆地の中小河川が合流し、大和川となって河内に向かう場所にあり、東西・南北の交通路の要衝です。

 森郁夫氏は、斑鳩は物部氏の本貫である河内渋川と物部氏が勢力を有していた大和石上の中間地点に当たることに注目します。そして、天武天皇四年(675)に、風の神を龍田の立野に、大忌神を広瀬の河曲に祭らせたのは、その大和川の左右両岸に水の神と風の神、つまりは農耕の神を国家の祭神として祀ったことになり、朝廷がこの地がいかに重視していたかを示すとします。

 その森氏が、それほど重要な斑鳩の地における様々な建造物について、朝鮮諸国との関係という観点から考えてみたのが、

森郁夫「初期斑鳩文化圏の成立と韓半島の要素」
(『奈良学研究』第10号、2008年1月)

です。詳細な論証ではありませんが、多くの発掘調査に関わった古代瓦研究の第一人者による概説だけに、大きな見通しを得ることができます。

 森氏はまず、若草伽藍は、飛鳥寺の百済系の軒丸瓦を引き継ぎつつも、文様の異なる軒丸瓦も用い、また百済では知られていない軒平瓦を用いていたことに着目し、新羅の影響と見ます。また、地上心楚という点も若草伽藍は七世紀前半としては特異であって、慶州の皇龍寺と共通する点であるとし、新羅の技術も導入されているとするのです。

 日本と新羅は険悪な関係にあった時期が長かったものの、推古十八年(610)に来日した新羅使に対する処遇は丁重なものであることから見て、森氏は、その関係改善には聖徳太子と関係深い秦氏が関わっていた可能性があると推測します。蘇我氏が百済と親密であって新羅と対立しがちであったのに対し、上宮王家は新羅も加えて朝鮮諸国と交流し、その技術を活用したとするのです。

 そして、新羅の影響を受けた若草伽藍の技術は、斑鳩の地を超え、片岡山飢人説話の舞台となった片岡王寺や長林寺の軒丸瓦にも用いられているほか、摂津の四天王寺の創建時期の軒丸瓦には若草伽藍のものと同范品が使われていることから見て、これらの地も上宮王家による斑鳩文化圏と考えることができると論じています。
 
 法隆寺の再建時には、瓦を初めとするその影響はさらに広い範囲に及ぶようになりますが、森氏は、少し前の論文において、それを「第二次斑鳩文化圏の成立」と称していますので、次回はその論文を紹介しましょう。
 

「蓑田狂気」と呼ばれた蓑田胸喜の思想史的位置

2010年11月23日 | 津田左右吉を攻撃した聖徳太子礼讃者たち
 津田左右吉攻撃といえば、その代表は津田が「憲法十七条」や三経義疏の聖徳太子製作を疑うなど『日本書紀』に対して文献批判的研究を行なったことに激高し、不敬罪で告発して裁判にまでもっていった原理日本社の蓑田胸喜(1894-1946)です。

 蓑田たちの津田攻撃については、「津田左右吉を攻撃した超国家主義的な聖徳太子礼讃者たち」において大山説批判とからめて簡単に紹介しておきましたが、昭和思想史における蓑田の位置づけに関するわかりやすい解説が出ました。

植村和秀『昭和の思想』
(講談社選書メチエ483、講談社、2010年11月、1500円)

です。

 既に『「日本」への問いをめぐる闘争--京都学派と原理日本社』(柏書房、2007年)という研究書を著している植村さんは、昭和の思想を論じるには「右翼」対「左翼」といった図式では不十分であるとし、次のような構図を想定します。

             西田幾多郎
                /
    丸山真男 --------- 平泉澄
              /
            蓑田胸喜

 横は「理の軸」であって、政治志向で論理的な人たちです。縦は「気の軸」であって、根源を求め仏教に親和的であり、近代的でない面を持ち、戦略的な政治行動などは不向きとします。

 つまり、左翼知識人の代表のように思われがちな法学部の丸山と、皇国史観を構築して大きな影響を与えた国史学の平泉は、西洋の学問に基づく近代的で明晰な思考法や政治主体を重視する行動様式が似ており、一方、西田やその門下たちにも攻撃の刃を向けていた蓑田は、実際には西田と同様に「東アジア的」であって共通する面があるとするのです。

 縦の軸では、西田がいる上部が創造的、蓑田のいる下部は否定的とされます。西田は苦闘しつつ東西を統合した新たな思想を生み出そうとしますが、聖徳太子と親鸞を礼讃しつつ「原理日本」を絶叫する蓑田は、激しい表現を用いた攻撃文書をまき散らし、軍部や貴族院などにまで働きかけて狙った相手を大学から追放するなど、異様なエネルギーで活動したものの、ひたすら罵詈讒謗を加えるばかりであって、長期にわたる見通しや冷静な戦略などはないのです。これは、西田が社会に関心を持ちつつも、思弁的すぎたため、政治に対して現実的な働きかけができなかったのと同様とされます。

 植村さんは、国体に反すると思われた教授達を猛烈に攻撃しまくった蓑田について、その旧友であった細川隆元の思い出を紹介しています。新聞記者であった細川が、「では一体政治や経済を何うすればよいのか」と尋ねると、蓑田は「叩くんだ、ただ叩くんだ。悪いものを叩けば必ずいいものほんたうのものが生まれるにきまっている」と答え、具体的な政治状況について話そうとすると、蓑田は「そんな実際政治の内幕などどうでもいいですよ、原理日本に徹しなければ何事も駄目ですネ。みんな馬鹿許[ばか]りですよ。だから僕は悪いものを叩くんです」と言うのみだったそうです。

 こうしたほとんど宗教的な思考法は、今でも一部の人たちに見られますが、これだと全面否定か全面肯定しかありえませんので、このような人たちは虚々実々の粘り強い駆け引きを必要とする外交などには向きませんし、聖徳太子関連の個々の記述や文物について、是々非々で厳密に検討するのも無理ですね。実際、蓑田は聖徳太子については、仲間である井上右近や黒上正一郎などの礼讃解釈を感激して引くばかりで、自分独自の解釈はありませんでした。

中国で偽作された聖徳太子書写と称する『維摩経』: 韓昇「聖徳太子写経真偽考」

2010年11月18日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報
【11月17日にアップしましたが、間違いや説明不足の箇所があったため、カテゴリーを変えたうえで、訂正版を掲載します】

 本業である中国仏教関連の仕事に追われ、なかなか更新できずにいるため、ここらで現実逃避のため、気楽な紹介をやっておきます。聖徳太子が書写した経典が、なんと、敦煌文書とされるものの中に存在するというので、その真偽を検証してみた試みです。

韓 昇「聖徳太子写経真偽考」(簡体字による中国語論文)
(藤善真澄編著『東と西の文化交流(関西大学東西学術研究所創立50周年記念国際シンポジウム'01報告書)』(関西大学出版部、2004年3月)

 1995年に上海で刊行された『北京大学図書館蔵敦煌文献』第二冊には、聖徳太子が書写したという鳩摩羅什訳『維摩詰経』巻下の残巻が収録されています。明治13年に清国の駐日公使の随員として来日した書家で蔵書家の学者、楊守敬(1839-1915)が中国では失われてしまった珍しい書物を収集してもち帰ったうちの一つという扱いです。楊守敬は、教育の仕事から離れた晩年には書を売って生活していましたので、コレクションのうちの貴重な古文書が世間に出回っていても不思議はありません。

 その図録の写真によれば、問題の写経は白麻紙に一行17字で書かれたものが127行だけ残っており、末尾は次のようになっています。

  経蔵法興寺
  定居元年歳在辛未上宮厩戸写

 そして、この部分の前には「始興中慧師聡信奉震旦善本観勤深就篤敬三宝」という文が見えていますが、韓氏は、「慧師聡」とは、慧慈とともに三宝の棟梁となったという慧聡を尊敬した表現であるとします。

 凄いですね。法興寺(飛鳥寺)の経蔵に納められていたものであって、慧聡がもたらした震旦(中国)の善本のテキストを、私年号である定居元年(611)に「上宮厩戸」が書写したというのです。しかも、敦煌文書にはお馴染みの「浄土寺蔵経印」も押してあるのですから、太子の書写した経典が中国に渡って西端の敦煌にまで至ったということになります。

 この611年というのは、『補闕記』によれば、太子が『維摩経』の疏を執筆し始めた壬申(612年)と完成した癸酉(613年)のまさに直前にあたります。出来すぎですね。韓氏が来日した際、この文書についてともに検討した日本の学者たちは、いずれもおそらく「近世甚至近代」の時期に日本で作られたものと判定した由。そりゃ、そうでしょう。

 しかし、韓氏は、さらに写経の部分を精査したところ、敦煌文書に含まれる唐代の『維摩経』写経と共通する点が多い一方、「浄土寺蔵経印」などは偽印であることを明らかにします。また、「慧師聡」などの表現は中国語に通じた人間でないと書けないとし、日本での偽作を否定します。

 そこで、結論としては、四川省生まれで日本に留学して早稲田大学で学んだ白堅(1883-?)ないしその類の人が、本物の古写経の末尾に上記のような文を載せた紙を付け加え、写本の市場価値をあげようとしたものと推測しています。

 私も、『北京大学図書館蔵敦煌文献』でこの文書の写真を見てみましたが、末尾の紙の部分は、写経部分に似せているものの、素朴な写経本体とは明らかに書体が違っており、達者な人がわざとごつごつした感じで書いたような印象を受けます。

 なお、白堅については、中国帰国後は官吏として働き、職を離れてからは書画の売買などをしていたらしいこと、また藤枝先生の偽作説で知られる李盛鐸の敦煌文書コレクションの日本への売り込みにあたってはブローカー役を務めたらしいことが、高田時雄「李滂と白堅―李盛鐸舊藏敦煌寫本日本流入の背景―」(『敦煌寫本研究年報』創刊號(2007.03)で報告されています。

 こうしてみると、聖徳太子は『勝鬘経義疏』以外でも敦煌文書と因縁が深いことになりますね。そもそも、私自身、敦煌から出た仏教写本の翻刻作業の合間にこうやって聖徳太子研究ブログの記事を書いているわけですし。

 この太子書写と称する写経については、もっと詳しく研究する必要がありますが、いずれにせよ、上記のようなこともあるので、真作偽作という問題は非常に複雑で厄介です。このことは、推古朝遺文を含む聖徳太子関連の文物についても同様でしょう。

「天寿国繍帳」に見える弥勒経典の図柄と太子の名の配置: 三田覚之「天寿国繍帳の原形と主題について」

2010年11月11日 | 論文・研究書紹介
 天寿国繍帳については、美術史に限っても、大橋一章先生を代表とする膨大な研究の蓄積があり、また刺繍の技法に関する澤田むつ代氏の詳細な研究がありますが、この方面で最近きわめて優れた成果をあげたのが、三田覚之(みた・かくゆき)氏の以下の論考です。

三田覚之「技法から見た天寿国繍帳」(『フィロカリア』25号、2008年3月)
同     「天寿国繍帳の原形と主題について」(『美術史』164号、2008年3月)

 前者では、拡大写真を活用することにより、技法と修理状況をこれまで以上に明らかにし、現在は寄せ集めにされている断片が本来はそれぞれどのような方向を向き、全体のどのあたりにあったのかを推定しています。そうした作業のうち、石田茂作が「佛是眞玩」の四字と推測した亀甲断片は、実際には銘文冒頭の「斯帰斯麻」の四字であろうとしていますが、実物を扱う研究というのはこうしたことがあるので恐いですね。

 後者の論文は、図柄と刺繍の形態を検討して繍帳の復元を試みたものであり、画期的と呼ぶべき論考です。まず、古記録によれば、繍帳を実見した人々が天寿国の情景について述べる際は「四重宮殿」を筆頭にあげることが多いため、これこそが繍帳の中心部に配置され、最も目立った重要な図像であったとします。

 そして、繍帳の外区は聖徳太子の伝記を表しているとする説を退け、外区は内区に付属するものである以上、浄土信仰関連の経典に基づくとし、腰の曲がった二人の老人が杖をついて歩む姿に着目します。これは、敦煌の「弥勒下生経変白描粉本」中のよく似た図が示すように、弥勒菩薩が如来となって現れる世には、人々は寿命が非常に長く、その寿命が尽きそうになると人々は自然に山林の墓場に行って安らかに亡くなる(そして生天する)、と記す弥勒経典に基づくとするのです。

 また、宮殿については、隋代以降に見られる中国の弥勒の変相図では、弥勒は常に兜率天宮の中に描かれており、野外の蓮華の上に描かれる阿弥陀仏とは異なるとし、その兜率の天宮が繍帳の中心に描かれていたと推測します。

 ほかにもいくつも興味深い指摘がありますが、特に重要なのは、銘文を4字づつ記した100箇の亀甲の配置に関する新説です。繍帳は二張あったことが記録から知られているものの、聖徳太子の名である「等已刀弥弥乃弥己等(とよとみみのみこと)」という部分は、復元本文によれば、亀甲の49箇目から51箇目に相当します(同論文が「五二箇目」とするのは単純ミスでしょう)。そうなると、100箇の亀甲を2等分してそれぞれの画面に50箇づつ配置したら、肝心な太子の名が中央で切れてしまうことになります。

 そこで、三田氏は、繍帳の正面部分について、以下のような亀甲配置を想定します。

  F D | □ A
  G E | C B
  H   :    □
  □   :    □   : は開閉する部分

 つまり、A「……孔部」、B「間人公主」、C「等已刀弥(とよとみ)」、D「々乃弥己(みのみこ)」、E「等娶尾治(と、尾治~をめとり)」、F「大王之女」、G「名多至波(名はたちば)」、H「奈大女郎(な[の]おおいらつめ)」となっており、繍帳正面に聖徳太子の母后である孔部間人公主、豊聡耳皇子(聖徳太子)、橘大女郎の父の尾治生(銘文では「大王[おおきみ]」と尊称)、太子妃の橘大女郎、という四人の名が並んでいたと見るのです。

 これだと、間人皇后、豊聡耳皇子、橘大女郎の名については、皇子を中心として、

      子    母
  橘  □ 太  后
  妃

という、ほぼ対称形に近い綺麗な配置になっていたことになりますね。三田氏は、こうした「母后・太子・太子妃」という三人の強調は、妃の名は異なるものの、母后と太子と膳妃の三人の往生を願う釈迦三尊像銘と同じであることに注意しています。 また、中国の法門寺の白玉霊帳などを例にあげ、この繍帳は仏像を囲うものであったとし、太子の名は繍帳を開いても閉じても、繍帳の正面に位置するように配置されていたと推測します。

 三田氏は慎重であって、繍帳の成立年代については語っていませんが、大橋先生の研究によれば、図柄と亀甲の位置は一体のものとしてデザインされていたと推測されており、また澤田氏の研究では、繍帳の技法は奈良の盛期の刺繍とは異なる素朴なものであることが明らかになっています。美術史側の研究は、「天寿国繍帳」は平安初期から11世紀中頃以前の作とする吉田一彦さんや、繍帳の外区の図様は太子の伝記を鎌倉時代につけ加えた可能性があると説く野見山由佳氏などの後代成立説とぶつかりますので、次回はそうした後代成立説を紹介しましょう。
 

藤原鎌足の人物像には聖徳太子信仰の影響があるか: 谷本啓「興福寺の縁起と聖徳太子信仰」

2010年11月06日 | 論文・研究書紹介
 聖徳太子虚構説が主張され始めた頃は、『日本書紀』における太子関連の記事のほとんどを道慈が書いたとされていましたが、それとはまったく別な観点から、道慈が聖徳太子信仰を弘めるあたって果たした役割を強調する論文が出ています。

谷本啓「興福寺の縁起と聖徳太子信仰」
(『古代文化』61巻1号、2009年6月)

です。

 西大寺の創建は、藤原仲麻呂の乱に際して、天平宝字8年(764)9月11日に孝謙天皇が鎮圧を願って四天王像の造立を誓願したことによります。この誓願には、孝謙天皇の『最勝王金光明経』信仰に加え、聖徳太子の四天王誓願による守屋誅滅の影響も見られるとする谷本氏は、『興福寺流記』中金堂院条に引かれる『宝字記』では、興福寺の前身である山階寺の釈迦・脇侍・四天王像は、藤原鎌足が入鹿誅滅を誓願して創った、とされていることに注目します。

 そして、これもまた太子説話の影響を受けて後代に成立した伝承であることは明らかであるとし、その鎌足に初代維摩会講師として招かれたという福亮は、法起寺塔露盤銘によれば、太子のために法起寺に金堂と弥勒像を造ったとされていることを指摘します。

 谷本氏は、大安寺についても、前身である熊凝寺は聖徳太子に基づくとされるなど、太子と結び付けようとする伝承もあるほか、移建の伝承の面で興福寺の記述が大安寺の記述と似ていることに着目し、こうした類似が見られるのは、興福寺・大安寺と渡り歩いた道慈が興福寺の縁起作成に関わったためではないかと推測します。熊凝寺は、道慈の出身母体である額田氏の氏寺、額安寺の前身とも言われており、道慈と関係があるというのも、推測理由の一つです。

 谷本氏は『家伝』の記述から見て、藤原氏自体が鎌足の人物像を太子に近づけようとしていた可能性もあるとしています。

 上記のように、かなり推測が目立つ論文ですが、道慈の聖徳太子信仰を強調する東野治之氏や星野良史氏の研究を参照しつつ、興福寺の縁起の見直しを試みています。道慈が当時、活躍したことは間違いない事実ですので、その活動については、様々な資料を比較検討して慎重に検討する必要がありますね。

「天寿国繍帳」の「彼の国の形、眼に看がたし」の句の典拠

2010年11月01日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報
 前回の記事では、法隆寺金堂の釈迦三尊像銘は、釈尊が天に昇って亡き母のために説法していた間、地上の弟子たちは釈尊の不在を歎き悲しみ、優填王は恋慕のあまり牛頭旃檀で釈尊の木像を作って礼拝供養したという仏像起源譚を意識し、その箇所の表現を用いていると書きました。

 そして、「天寿国繍帳」にも優填王像の話の影響が見られる可能性があると書いたのですが、「彼の国の形、眼に看がたし(彼国之形、眼所叵看)」がそれでしょう。天寿国については、基本は兜率天であって、それに極楽浄土や神仙世界や太子の伝記や仏伝などのイメージが重なっているように思いますが、極楽も兜率天も「目で見るのは難しい」などとは言われていません。逆に、浄土経典などは、阿弥陀仏や極楽の様子を観想するよう勧めているほどです。

 ところが、優填王に関する話、たとえば釈迦三尊像銘と同様に「愁毒を懐く(懐愁毒)」の句が見られる中国成立経典、『大方便仏報恩経』では、次のように説かれています。

論議品第五
爾時如来為母摩耶夫人并諸天衆、説法九十日。閻浮提中、亦九十日、不知如来所在。大目連神力第一、尽其神力、於十方推求、亦復不知。阿那律陀天眼第一、遍観十方三千大千世界、亦復不見。乃至五百大弟子、不見如來、心懐憂悩。優填大王恋慕如來、心懐愁毒。即以牛頭栴檀、摽像如来所有色身、礼事供養、如仏在時無有異也。(大正蔵3巻、136b24)

 すなわち、釈尊が天に昇り、亡き母、摩耶夫人と天人たちのために、90日にわたって説法している間、弟子たちは釈尊を捜しあてられず、「天眼第一」として知られる阿那律が全世界を千里眼の能力で眺めまわしても「見ず」、他の五百弟子も「如来を見ず」という状態であったため歎き悲しみ、優填大王は「心に愁毒を懐」いて、釈尊の「色身(かたちある姿)」そっくりの像を香木で作り、礼拝供養した、というのです。ここでは、「(天)眼」ですら「見えない」と明言されています。

 天寿国については、極楽浄土、兜率天、霊山浄土、漠然とした天の国、その他様々な説があって論争が続いていましたが、「眼に看がたし」の部分については、おそらくこれが典拠と見て間違いないでしょう。

 このことは何を意味するか。釈迦三尊像銘にしても、天寿国繍帳銘にしても、太子の母である間人皇后が非常に重視されており、その追善が強く願われているということですね。しかも、釈迦三尊像銘では、その二人とならんで干食王后(膳妃)に重点を置いて描いており、一方、天寿国繍帳銘では、橘大女郎が主役とされていて、前半の系譜では間人皇后と太子と橘大女郎の三人がいずれも欽明天皇と蘇我稲目の双方の血を引いていることが長々と説かれています(銘文全体の55%!)。つまり、いずれも太子だけをひたすら崇拝して書かれたものではないのです。