聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

聖徳太子が即位せず皇太子となった理由と田村皇子の位置づけ:河内祥輔「六世紀型の皇統形成原理」

2023年10月29日 | 論文・研究書紹介

 前の記事で田村皇子(舒明天皇)と聖徳太子の関係を論じた論文を紹介しました。今回はその続きとして、聖徳太子が即位しなかった理由とその頃の田村皇子の位置づけに関する論文をとりあげます。 

 律令制で定められた「天皇」「皇太子」という呼称はまだ用いられていなかったにせよ、聖徳太子が天皇の後継ぎの立場にあったこと、また程度はともかく、天皇の政務の補助者の位置にあったことは、近年、認められるようになってきています。

 即位しなかった理由としては、年齢が理由とされることが多いのですが、これに反対したのが、

河内祥輔『古代政治史における天皇制の論理(増訂版)』「六世紀型の皇統形成原理」
(吉川弘文館、2014年)

です。

 河内氏は、この論文では、聖徳太子という呼び方を使っており、天皇後継者は実質は皇太子だからということで「皇太子」という言葉を用いています。そして、皇太子になったということは、いつでも皇位に即きうるという資格を認められたことを意味しているため、若かったから天皇にならなかったとする説は誤りだとし、別の事情を検討しています。

 ただ、増補にあたって付された「補注」では、推古天皇の即位のすぐ後に皇太子(次期王位継承者の地位)についたとする『日本書紀』の記述の信憑性を確認することはできないため、年齢が聖徳太子がすぐ即位しなかった一因であった可能性も考慮したうえで別の事情について述べるべきだった、と訂正しています。

 この論文では、『日本書紀』の立后の記事は作為が目立ち、信頼できないため、天皇の妻の名と出自に関する記述は史料として用いるが、立后に関する記述は採用せず、天皇の妻であったという点だけを認める、という方針で検討すると宣言しています。

 というのは、『日本書紀』では、(イ) 生んだ子が皇位についていること、(ロ)皇女である、という条件のどちらかを満たせば「皇后」とされているからです。ただ、(イ)であっても即位した子が一代限りで皇統を形成しない場合は「皇后」とはされず、また自らの子は天皇になっていなくても、その子孫が皇統をつくっていれば「皇后」とされている、と指摘します。

 そして、妻に皇女がいない場合は、皇族であれば「皇后」とすることもあり、また、(イ)の妻を最初の皇后と記し、その死去後に (ロ)の妻を皇后に立てるという形がこうした事例の記述に共通しているとし、これらの条件が満たされない場合は、立后記事は置かれていないと指摘します。

 河内氏は、『日本書紀』はこのように一定の方針に基づいて皇后記事を書いているのであり、それはおそらく『日本書紀』の最終編纂時に整備されたのだろうと、推測します。つまり、『日本書紀』の皇后記事は史実である保証はないのであって、その妻が妻たちの中で特に重視された地位にあったかどうかも分からないとするのです。

 面白いのは、皇統が何代も受け継がれたのは欽明天皇と敏達天皇のみであって、この二人の生母は皇女であるのに対し、他の天皇はそうではない、という点ですね。河内氏は、前者の皇女の系統を「直系」と呼び、後者の系統を「傍系」と呼びます。

 直系を続けていくため、この時期にしばしば行われたのが近親結婚だった、と河内氏は説きます。敏達・推古の時代で言えば、その直系を受け継ぐのは、欽明天皇の長子であった敏達とその腹違いの妹であった皇女の推古の間に生まれた竹田皇子ということになるのですが、竹田皇子は若くして亡くなったらしいことが知られています。

 河内氏は、傍系である安閑・宣化・用明天皇はいずれも在位期間も短いため、高齢だったり病弱だったりして長期化しない人物が選ばれているようだとし、崇峻天皇が殺されたのは在位が長引きそうだったという視点から考えてみる必要もあるとします。そして、傍系が即位した場合は、後継者選びをめぐって殺戮が行われがちであることに注意します。

 そうした中で、初の女帝となる推古が即位したとされますが、『日本書紀』は推古紀即位前紀では18才で敏達天皇の皇后となったとしており、それだと敏達の即位の時に立后されたことになります。

 一方、敏達紀では敏達は即位4年に広姫を皇后としたが、年内に死去したため、翌年に推古を皇后に立てたとしています。そして、広姫の子である忍坂彦人皇子が「太子」となったと記しているうえ、『古事記』でも、彦人は「太子」とされており、その妻と男女の子たちの名が列記されるなど、天皇に準じた扱いをされています。

 河内氏は、推古は欽明天皇の皇女であるのに対し、広姫の父の息長真手王は皇族とされているものの系譜は明確でなく、皇后の資格としては推古の方が上でありながら広姫が皇后とされ、その子である彦人が「太子」とされたのは、彦人の子が舒明天皇であり、舒明からその子である天智・天武天皇と続く系譜を直系だとみなすための造作と推測します。

 さて、直系中の第一候補だった竹田皇子が亡くなった以上、多数の傍系の中から一人が選ばれて皇位を継ぎ、新しい直系を創造するほかなかったとする河内氏は、そうした状況で選ばれたのが聖徳だったとし、崇峻が殺害されたのもそれを関係があるとします。

 その結果、実現したのが、推古が即位し、甥の聖徳が皇太子につくというものであって、傍系である聖徳の皇位継承を正当化するため、皇太子として実績をあげる必要があったとします。このため、推古が即位して聖徳が皇太子となったのは、一方では、聖徳による直系の創造がはかられてそれを叔母の推古が擁護したものであり、一方では聖徳のただちの即位を妨げ、試練を課すものだったと推測するのです。

 ただ、譲位の制度がなく、推古が長生きしたため、聖徳は即位せずに亡くなり、直系の創造はできなくなりました。しかし、『日本書紀』では聖徳に代わって皇太子ないしそれに当たる候補者の選定がなされたとする記事がありません。それどころか、推古が没した後も、後継者はすぐには決まらなかったとしています。

 河内氏が、田村皇子であった頃の舒明は立太子していなかったとし、だからこそ殺戮が始まり、それが終わると舒明系内部で殺戮が始まった、と述べていることは重要です。河内氏は、さらに『日本書紀』が天智天皇を最初から直系として描いているのは、作為によると説きます。

 河内氏は、皇太子として長く活動した点で聖徳に似ているのは、中大兄、すなわち天智天皇であることに注意します。これは前から指摘されていることであって、だからこそ、『日本書紀』では中大兄のモデルとして聖徳太子が理想的な皇太子として描かれたとする説もあったくらいですが、河内氏はその説はとらないのです。

 以上のように、河内氏のこの論文は、推測の多さが目立ちますが、この時期の皇統は男性主義であったものの、母の位置づけも大事だったとするなど、いくつかの興味深い指摘をしており、検討に値します。


聖徳太子が田村皇子に熊凝精舎を託したとする伝承の可能性:上原真人「熊凝精舎と額田寺」

2023年10月24日 | 論文・研究書紹介

 前々回にとりあげた門脇氏の聖徳太子=天皇説では、田村皇子(舒明天皇)が当時の太子であったとし、二人の関係深さが強調されていました。田村皇子を当時の太子とするのは無理ですが、聖徳太子の子である山背大兄との競争に打ち勝って即位した舒明天皇について、聖徳太子との関係深さがいくつかの資料に見えることは事実ですし、聖徳太子の事績を手本にしたと見る論文を紹介したこともあります(こちらや、こちら)。 

 天平19年(747)に勅命で編纂された『大安寺伽藍縁起并流記資材帳』によれば、大安寺は聖徳太子の遺言に基づき、舒明、皇極(斉明)、天智、天武、文武など代々の天皇が造営・維持に努力した寺とされていますが、不自然な点がいくつもあります。そこで、この縁起を検討し、考古学の成果と比べてみたのが、

上原真人「二 熊凝精舎と額田寺」
(『古代寺院の資産と経営-寺院資材帳の考古学-』「第一章 縁起と考古学が語る大安寺前史」、すいれん舎、2014年)

です。上原氏は、歴史学者でありながら考古学も扱える数少ない一人です。

 さて、『大安寺縁起』の原本は現存せず、現在残っているのは奈良の正暦寺に伝えられてきた写本ですが、原本を忠実に写そうとしており、文献の価値は高いとされています。

 それによれば、推古天皇が田村皇子(後の舒明天皇)に命じ、病気になった聖徳太子を飽波葦墻宮に派遣すると、太子は、自分は熊凝村に道場を建てたが、これを過去・現在・未来の天皇のための大寺としたいと願っていると述べ、田村皇子がこれを推古天皇に伝えた。その三日後、田村皇子が個人的にまた太子を見舞うと、喜んだ太子は、熊凝寺を田村皇子に託した。

 田村皇子は舒明天皇として即位すると、百済川のかたわらに九重塔を建て百済大寺としたが、焼失したため後事を皇后(皇極天皇)に託した。皇極天皇は造営を始めたが完成せず、後事を天智天皇と仲天皇に託した。天武天皇が寺の土地を高市に移し、678年に寺の名を高市大事から大官大寺に改めた。持統天皇が鐘を鋳造させ、孫の文武天皇が九重塔と金銅と本尊を造った。聖武天皇が広大な墾田地を施入した、となっています。

 上原氏は、まず、大安寺の縁起であるのに平城京の大安寺の名が出てこないことに注意します。大安寺という名自体は、藤原京時代の大宝元年(701)の記事が『続日本紀』に見えており、大官大寺をそう呼んでいるものの、天平19年当時は平城京の大安寺は造営が始まったばかりであって、塔の着工すらなされていなかったと上原氏は指摘します。そのため、大安寺に関する記述を控え目にしたのだというのが上原氏の推測です。

 ここでは聖徳太子に関わる熊凝精舎に関する上原氏の説明を見ていきましょう。まず、「熊凝村」にあったと記されているものの、古代の行政区画では、「郷・里」はあっても「村」はありません。ただ、「村」の語はこの当時の文献には多少見えているため、行政区画でない実質的な地域のまとまりを「村」と呼んでいたとする説に賛同します。

 そして、飽波宮と同じ斑鳩文化圏にあった額田寺を熊凝精舎の後身と見る説が有力であるとし、その理由は、大安寺造営に尽力した道慈が額田氏の出身だったためとし、額田寺の検討に移ります。額田寺については、奈良時代の描かれた絵図である「額田寺伽藍並条里図」が残っており、現在は大和郡山市の額安寺となっており、絵図に描かれた地形の一部がよく残っています。

 そして、額安寺付近で採取された古代の瓦から、その変遷が推定できるのです。上原氏は、自らその瓦の整理をおこなっており、①創建期(7世紀前半から中葉)、②充実期(7世紀末から8世紀前葉)、③再整備期(8世紀中葉)、④存続期(8世紀末以降)に分けます。

 創建期の瓦は、古新羅系と言われていたのですが、橿原市の和田廃寺(葛城寺)の瓦と類似するものがある由。また、1点だけですが、7世紀初頭にさかのぼる法隆寺若草伽藍で用いられた手彫唐草文軒平瓦が出土しています。

 また、充実期である②の瓦には、法隆寺再建の際に用いられた法隆寺式軒瓦が数多く出ています。このタイプは、関連する法輪寺・法起寺などが7世紀後半に整備されていく際に用いられたものですが、同笵のものが見当たらないため、額田寺が独自に制作したものと上原氏は説きます。

 上原氏は、熊凝精舎が額田寺となった直接の証拠はないとしつつ、こうした瓦の検討結果から見て、『大安寺縁起』が記している伝承は、「まったく否定すべき伝承ともいいきれない微かな可能性と残す」と述べます。

 一方、百済大寺・大官大寺の建物と瓦については、額田寺との接点はほとんど認められないとし、『大安寺縁起』を見ても、熊凝精舎の法灯が百済大寺に受け継がれたとは読み取れないとします。

 となると、額田寺と聖徳太子・法隆寺の関係は認められても、太子の熊凝精舎から舒明天皇の百済大寺へという流れはあやしいということになるでしょう。


推古天皇は実力で皇位について統治したとする話題の書に対する評価と批判:遠藤みどり「書評 義江明子『推古天皇』」

2023年10月20日 | 論文・研究書紹介

 前々回、推古天皇の役割を重視しない半沢英一氏の論文を紹介し、前回は同様な門脇氏の主張を紹介しましたが、以後、推古天皇を含め、古代の女帝に関する研究が進んでいます。その一例が、このブログで3回にわたってとりあげた義江明子『推古天皇』(こちら)です。

 この話題の書に対する書評が、女帝研究を深めた遠藤みどり氏(こちら)による、

遠藤みどり「書評 義江明子『推古天皇』」
(『ヒストリア』第297号、2023年4月)

であって、半沢氏の論文に対する私のコメントの補足になる内容が説かれています。

 このブログでは、これまで書評をとりあげたことはないと思いますが、義江氏の『推古天皇』については3回にわたって紹介記事を書いたうえ、遠藤氏のこの書評は7頁もあり、かなり詳しい内容になっているため、紹介する次第です。

 遠藤氏はまず「一、本書の内容」で、簡単な評を加えつつ本書の内容を簡単にまとめています。本書の第二章については、義江氏は、敏達天皇の殯の期間が長く、敏達の母である石姫の磯長の墓に追葬されるまで時間がかかったのは、この時期に繰り広げられた激しい政争による「仮葬」を経たためとします。

 そして、政争の終結後、敏達を河内を中心とした旧王系勢力を基盤とした母の石姫(宣化天皇女)の墓へ埋葬し、その後、この地に蘇我系の用明天皇も改葬したのは、蘇我系王統に非蘇我系王統を取り込んで融合する推古天皇の婚姻策と結び着いているとしていますが、遠藤氏はこの指摘を評価します。

 第三章では、敏達の后であった推古が蘇我系王族の女性長老となって実権を握り、穴穂部皇子の殺害、また守屋合戦においても推古(炊屋姫尊)の「詔」によって軍団を発動しており、乱の後の崇峻擁立についても主導的な立場を担うなどし、実力をつけて即位したという新たな推古像を提唱したとまとめます。

 そして、「卓見」として評価したのが、蘇我氏の本拠地である「向原家」に稻目の娘であって欽明天皇の妃の宮が置かれ、そこで生まれ育った推古は、叔父とはいっても年があまり変わらない馬子とともに幼少期を過ごしていて親密であり、その関係が推古即位後の馬子との緊密な連携につながった、とする推測です。

 第四章については、厩戸は次代をになう蘇我系王族の一人にすぎないという見解に基づき、大王のために造られていた前方後円墳を用明天皇から方墳に改めたのも、推古・馬子の主導だとし、母である堅塩媛を父である欽明天皇の陵に改葬することを通じて、蘇我氏との結びつきの強さを示したとします。

 ただ、それを言うなら、自分の腹違いの弟であって、父方・母方とも蘇我氏の血を引く初めての天皇である用明の息子である廐戸皇子を補佐役とし、娘を嫁がせ、さらに孫まで嫁がせたのですから、もう少し厩戸を重視すべきでしたし、後年になって疎遠になったのかどうかなど、詳しく論じるべきだった、といったコメントが欲しいところです。義江氏は、従来の見方に反発して推古の役割を強調するため、馬子や太子の役割の検討が十分でないように見えますので。

 なお、内容のまとめの最後では、本書は、推古は生涯をかけて「三宝興隆」に尽くし、仏教を軸にして王権の強化をなしとげたが、後には聖徳太子が目立つようになって推古の功績が目立たなくなった、と見ていることを紹介します。そして、こうした姿勢で貫かれた本書について、「摂政聖徳太子」の時代とされてきた時代を見直させる役割が期待されています。

 ただ、女帝研究者である遠藤氏は、疑問も呈します。最初は、当時のキサキはどのような存在だったかという点です。従来は、女帝即位の前提として「大后」なる存在があったとされてきましたが、遠藤氏は律令制以前に大后制と呼べるような制度はなかったことを明らかにしました。

 そのためか、義江氏は前著では大王の多くの妻の中から一人が選ばれて「国政共治者の地位」にあったとされていたのが、本書ではそうした制度は言及されていないものの、推古を敏達のキサキたちの間の「最有力者」と述べるなど、女帝となるためにキサキ中で序列が上であることが必要であるようか記述が見られると指摘します。

 しかし、遠藤氏は、当時は夫婦はともに居住せず、男が妻の家に通う妻問婚であって、結びつきは弱く、簡単に離合を繰り返していた以上、キサキが大王の妻として政治的な役割を果たしていたかどうかは疑問とするのです。

 それに代えて遠藤氏が重視するのは、律令制下の8世紀になっても、キサキは天皇の妻というより、天皇の子の「母」として遇されていたことです。遠藤氏は、史料から見て、「后」や「妃」は王族・氏族関係なく、大王との配偶者にのみ用いられているとします。

 「天寿国繍帳」では「太子」の配偶者を「王后」と呼んでますが、これは聖徳が太子でありながら「大王」に準ずる存在だったということになるんでしょうかね。

 それはともかく、遠藤氏が推古を「敏達キサキ中の最有力者」とする義江氏の説を批判するのは、推古の実力を強調する義江説と方向が同じであるためであり、「キサキ」という点にこだわると、推古は功績・経験によって大王として衰退されたという義江氏の主張が弱くなってしまうためでもあります。

 遠藤氏がもう一点疑問を呈したのが、皇極天皇を「反蘇我本宗家の立場を鮮明に」したという義江氏の捉え方です。皇極の母、吉備姫王は推古の同母弟である桜井皇子の娘であって、馬子の嶋宅の一部を譲られた可能性がある蘇我系の王族であるうえ、皇極・斉明朝では、蘇我本宗家の本拠地であった飛鳥を拠点とし続けています。

 こうした点から見て、皇極は敏達と広姫の間に生まれた彦人皇子の系統の中でも蘇我氏寄りだったのではないか、そうした皇極と非蘇我系である舒明が結婚したのも、推古による蘇我系と非蘇我系王族の融合の試みとして見ることができるのではないか、というのが遠藤氏の推測です。

 この是非はともかく、乙巳の変で倒されたのは、あくまでも蘇我本宗家であって、蘇我氏自体はその後も長く大臣として重要な地位を占めたことは注意しておくべきことですね。

 ともかく、時期によって結びつきの強さが変わったり、分野によって主導者が入れ替わったりしたにせよ、推古朝は、推古、馬子、厩戸皇子の連立体制と見るのが自然と思われます。

 つまり、聖徳太子を極度に神格化していない『法王帝説』が述べたように、推古朝は、推古天皇のもとで、「上宮厩戸豊聡耳命」が島大臣(馬子)と共に「天下の政を輔けて三宝を興隆」した時代というのが、世間の常識であって、それが史実に近かったと考えられるのです。当初の主導者は馬子だったと思いますが。


聖徳太子は天皇だった?:門脇禎二「聖徳太子ー斑鳩の大王ー」

2023年10月16日 | 論文・研究書紹介

 前回、半沢英一氏の聖徳太子倭王論を紹介しました。半沢氏が自説の先行例としてあげたのが、聖徳太子は大王(天皇)だったと説いた、

門脇禎二「聖徳太子ー斑鳩の大王ー」
(門脇禎二・鎌田元一・亀田隆之・栄原永遠男・坂本義種『知られざる古代の天皇』、学生社、1995年)

でした。半沢氏はこれを「卓見」と評価しつつ、天皇とは異なる「倭王」の存在に気づいていなかったのは残念と述べています。その門脇説について紹介しておきましょう。

 門脇氏は、「大化改新」論』「第一章第四節 推古朝における田村皇子」(徳間書店、1969年)の段階で、『隋書』倭国伝が描く倭王と『日本書紀』の記述の違いに注意しており、当時の倭王は男性であって厩戸皇子(聖徳太子)だったとしています。

 共産党の雑誌、『文化評論』197号(1977年)での菊地康明氏との対談「聖徳太子と蘇我一族」でも、この点をわかりやすく説いていますので、これらを合わせた形で説明していきましょう。

 つまり、額田部皇女(推古)がある時期に天皇のような地位についていたことは否定しないが、崇峻天皇の後は厩戸王子が実は大王であって、推古は「先の大后」として宮廷にあったと考えて良いのではないか、と述べるのです。

 そして、倭国伝が倭王と呼んでいるのは厩戸王子、妻は「鶏弥(きみ)」と呼ばれているので皇族、つまりは莬道貝蛸皇女であり、「太子を名づけて、利(和)歌弥多弗利となす」の部分は、ワカ(稚・若)・ミ(美)・タフリ[ル](田村)であって、幼い田村皇子と解釈できるとします。

 そして、「天皇」の称号を受け入れたのは後にせよ、前の大后と子どもの大王、あるいは一族の首長的な女性と次の大王の執政形態、つまり「共治」がなされていたのではないかという菊地氏の言葉に賛成します。

 蘇我氏については、蘇我氏内部でも本拠地が様ざまであるとし、本宗家は畝傍から飛鳥に行くあたり、その西には馬子の弟と言われる境部臣氏、竹内街道から河内に向かうあたり、つまり蘇我氏の墓が集中している地域は稻目の娘で欽明の妃であった堅塩媛につながる人々、山田道のあたりに蘇我氏一族の山田臣家、その東北の三輪山付近は稻目の娘で欽明天皇の妃であった小姉君につながる人々という具合で、広い地域の中に蘇我氏の有力なグループが散在しており、蘇我氏系である聖徳太子が斑鳩に移ったのもその一環と説きます。

 そして、天皇家が蘇我氏・大伴氏・物部氏のように経済的基盤や軍事的基礎をもった有力氏族の一つであれば、早くに抗争で潰れていたはずでありながら、天皇を支えて娘を送り込む豪族が次々に交替しても天皇の地位が続いているのは、天皇家が他の氏族と別の性格を持っていたからとします。

 また、聖徳太子は父方母方ともに蘇我氏系である初めての天皇候補であるのに、『日本書紀』はあくまでも皇親という面を強調している、と論じています。これは重要な指摘ですね。

 門脇氏の議論のうちで明らかに無理なのは、一語である「和歌弥多弗利」の「多弗利」を田村皇子(舒明)としたことですね。「村」を「フリ」とか「フル」と訓む例は記紀や『万葉集』の写本の古訓に多く見られると門脇氏は説くのですが、隋の役人に日本の制度を説明する際、固有名詞を出すでしょうか。

 実際、倭王の妻を指すという「キミ」は固有名詞ではなく、皇族であることを意味すると門脇氏は説いているのですから、続く「太子」の説明も、固有名詞ではなく、倭王の跡継ぎとなる子供(たち)を指す一般名詞と見るべきでしょう。

 しかも、600年の遣使の際、田村皇子はまだ8歳です。摂関家や上皇が政治を牛耳り、思うままになる幼帝を立てるような時代ならともかく、推古朝頃に幼児を「太子」と認定するような制度があったとは考えられません。

 門脇氏は、日本語には語頭がラ行で始まる単語はないため、「利歌弥多弗利」は「和歌弥多弗利」で良いとしたうえで、『源氏物語』では、若くて由緒正しい人を「わかんとほり」と呼んでいるため「和歌弥多弗利」はその意味だとした国語学の渡辺三男氏の説(こちら)を紹介し、それだと「太子のことを日本ではワカミタフリ」と呼んだという意味になって落ち着かない述べています。

 渡辺説の後、「わかんとほり」は王族の意であるとする指摘がなされているため、別に落ち着かないことはないと思いますね。この前の時代は、欽明天皇の子供たちのうち、欽明天皇と先帝の皇女である広姫との間に生まれた敏達がまず即位し、次に、欽明と蘇我稻目の娘である堅塩媛の間に生まれた用明、ついで欽明と稻目の娘の小姉君の間に生まれた崇峻が即位し、その後で欽明と堅塩媛の間に生まれ、用明の妹となった推古が即位しています。

 つまり、その世代の皇族のうちの適任者がほぼ年齢順に即位し、その世代で適任者がいなくなると、次の世代に移るというシステムでした。大王の子供たちが後継候補者たちなのですから、王族を指す「わかんとほり」の語が「太子」にあたる存在とされても、別に不思議はありません。

 門脇氏は、「大安寺縁起」によれば、聖徳太子は臨終時に田村皇子に自分の熊凝精舎を与え、寺として守っていくよう遺言したとあるほど信頼していたことを強調し、『隋書』が描く倭王は聖徳太子、その妻は莬道貝蛸皇女、太子は田村皇子だと説くのですが、『日本書紀』では、推古天皇の後継者は明確になっておらず、山背大兄が自薦して運動しており、境部摩理勢などもそれを支持していたことが、はっきり書かれています。

 『日本書紀』編纂当時の天皇は、田村皇子(舒明)の系統ですので、書こうと思えば、推古天皇は田村皇子を厩戸皇子の後継者としてはっきり決めていたとか、皇太子となった厩戸皇子は、次は自分の子の山背大兄でなく田村皇子だと宣言した、などと書けたはずですが、実際には、『日本書紀』は推古天皇が亡くなった時ですら、後継者は明確に決まっていなかった状況を描いています。それに、当時は、大王は群臣会議で決定して推挙する形でしたし。

 門脇氏が聖徳太子天皇説の根拠としてあげているもう一つは、未婚の皇族が伊勢の神に奉仕する斎王です。門脇氏は、皇極(斉明)と持統という女帝の時は斎王は出ていないとし、『日本書紀』用明天皇即位前紀に、酢香手姫皇女を伊勢の神宮に送って奉仕させたとあり、注に、37年間、日神に奉仕して退いて亡くなったとあるが、これだと女帝である推古朝にも斎王であり続けたことになるとします。

 そして、斎王は親が亡くなったり、男性貴族と男女関係になったりするなどの事故がなければ退くことはないが、37年目の年は聖徳太子が崩じた年であり、男帝であった聖徳太子が亡くなった時に斎王も退下したのであれば、つじつまがつくと説きます。

 このため、門脇氏は、推古が小墾田宮で活動したことは認めるものの、大王は聖徳太子であったと見るか、内政は飛鳥の大后であった推古が担当し、対外関係・軍事関係は斑鳩の聖徳太子が大王として担当したのであって、推古が天皇となったとしても、それは聖徳太子没後のことだろう、と述べるのです。

 ここら辺は、推測が重なっていますね。門脇氏の主張のうち、蘇我氏を逆臣とする見方に反対した部分などは納得できるものの、この聖徳太子大王説は、無理があるように思えます。門脇氏は、この説については20年ほど前に発表したのに、反論を含め、反応がまったくないと残念がっています。

 反論が出て論争となり、それによって研究が進めば、どちらが勝っても良いと述べており、これは本気の言葉でしょうが、太子=田村皇子説と斎王退下説だけでは、やはり論争をまきおこすには弱いですね。 

 ただ、門脇氏の議論には、興味深い指摘がいくつも含まれていますので、これはまた別に紹介しましょう。理系と違い、文科系、特に古典や歴史に関する学問の場合、何十年も前の論文が意外に重要だったりしますので。


九州王朝説から転じた理系の古代史研究家による強引な聖徳太子論:半沢英一「聖徳太子法皇倭王論」

2023年10月10日 | 論文・研究書紹介

 聖徳太子は天皇だったという説は、古代史ライターの本などでたまに見かけますが、歴史学者では、門脇禎二氏が唱えていました。2007年に亡くなった門脇氏は、『日本書紀』の史料批判と大化の改新否定論で知られており、その著『蘇我蝦夷・入鹿』でも逆臣のイメージをくつがえそうとするなど、従来の見方を大胆に疑うタイプの研究者でした。

 ただ、この門脇説は、学界ではまったく支持されていません。当時は聖徳太子の活動を疑う傾向が強かったうえ、その役割を重視する場合でも、『日本書紀』の用明紀では「位居東宮、総摂万機、行天皇事」と述べていますので、「東宮」とか「皇太子」といった呼称は律令制になってからのものにせよ、初の女帝であって制約が多かったであろう推古天皇の政務を、甥かつ娘婿であった聖徳太子がかなり代行したのだ、ということで説明がついてしまうからでしょう。

 『天寿国繍帳銘』でも『法王帝説』でも、「太子」と呼んでいることを無視できませんし、7世紀後半の作であることが確実な法隆寺薬師三尊像銘にしても「太子」「東宮聖王」と呼んでいます。

 ところが、この門脇説をさらに進め、聖徳太子こそが仏教的な「倭王」であったとし、その倭王を軸とする「法興革命」なるものを説いたのが、

半沢英一「聖徳太子法皇倭王論」
(『日本書紀研究』第24冊、2002年)

であって、79頁もあります。半沢氏は東北大学数学科卒の数学者であり、この論文を書いた当時は金沢大学工学部助教授としてその分野で活動していました。

 ただ、早い時期から古代史に興味を持ち、初めは古田武彦氏の九州王朝説に賛同していた由。その頃、古田氏の人気は高く、歴史ファンの市民たちによって氏を囲む研究会が組織され、盛んに活動していましたが、研究会メンバーたち自身の研究が進むにつれ、九州王朝説を真実とみなすか、学説の一つと見て研究してゆくかで意見が分かれるようになったそうです。

 さらに、古田説に都合の良い部分を含む現代の偽書である『東日流外三郡誌』を真作と認めるかどうかという問題も加わり、研究会が分裂していきます(真作説を支持する「古田史学の会」の幹部たちが書き続けている「珍説奇説」のレベルについては、こちらや、こちらや、こちら)。

 その後、古田説に対して批判的になっていった側の人たちが刊行していた『市民の古代』誌が、いろいろな経緯で『古代史の海』誌に受け継がれますが、半沢氏はこの『古代史の海』に精力的に書いていた一人であって、九州王朝説批判の論文も発表しています。

 この「聖徳太子法皇倭王論」の元となる論考も同誌に掲載されたのですが、影響力の大きかった歴史学者の横田健一氏が編纂する学術シリーズ『日本書紀研究』の母体である日本書紀研究会で改訂した内容を発表した結果、『日本書紀研究』に掲載されるに至ったという事情だそうです。

 上述のように、半沢氏は理系の研究者であって歴史学出身ではないため、歴史論文としてはやや素人くさい書き方になっているうえ、かなり強引な推測・断定が目立ちます。ただ、いくつかの創見も含まれており、学術誌に掲載されたものですので、論文としてコメントしつつ紹介してゆくことにします。なお、半沢氏はこの論文の内容を増訂し、書物として刊行していますが、ここでは『日本書紀研究』所載の論文だけを扱います。

 さて、半沢氏は、古墳王権と律令制国家の間に社会的断絶があると述べ、また『隋書』倭国伝が描く倭王と『日本書紀』が描く主権者の違いを重視して、「主権者矛盾」と呼んで検討し、いくつかの結論を導きだしますが、要約すると以下のようになります。

 聖徳太子は仏教的権威に基づく「法皇」なる倭王だった

 その倭王は、古墳時代から律令制に移る時期の「法興革命」の中で生まれた

 天皇推古は、名誉職的な神祇祭祀王であって実際の統治は「法皇」に委ねた

 法興革命以後は一系神裔王「天皇」が支配イデオロギーとなった

 そのため、法興革命と「法皇倭王」の存在は隠さねばならなかった

以上です。そして、聖徳太子に関する基礎資料について検討していっています。

 強引な推測が目立つ半沢氏の主張のうち、評価できるのは、鎌倉時代の「天寿国繍帳」の注釈によれば、銘文では橘郎女は夫のことを「我大皇」と呼んでいたにもかかわらず、校訂テキストを出した飯田瑞穂氏が『法王帝説』所載の本文に基づいて「我大王」としているのは不適切、と批判したことですね。半沢氏は、『法王帝説』は原物が残っている釈迦三尊像銘が「法皇」としている部分も「法王」として掲載していることを指摘しています。

 ただ、「大皇」や「法皇」と呼ばれているからといって、「倭王」であったとすることには無理があります。「大皇」の訓は「大王」と同じで「おおきみ」であり、「皇」の字を用いて尊敬を強めた形でしょう。

 道鏡が任じられたような「法王」という位があったとか、聖徳太子がそうした位に即いたといった記録はありません。これも「天皇事」をしたから天皇に準ずる存在とされ、晩年には周囲の人が「皇」の字を用いることもあった、ということで説明がついてしまいます。そもそも、「天寿国繍帳」などでは「天皇」の語を用いているものの、「天皇」は対外的に正式な称号となっていませんし。

 『日本書紀』では、厩戸皇子については「法王」「法主王」という呼称も紹介していますが、これは太子が若かった頃は、おそらく「のりのみこ」「のりのぬしのみこ」であって、「講経が巧みな皇子」という意味であったと思われることは、中国の「法主」の例をあげて拙著や論文で指摘しました(このブログでは、たとえば、こちら)。

 ただ、成人してからかなりたてば、「のりのおおきみ」「のりのぬしのおおきみ」と呼ばれた可能性もあります。「おおきみ」は、「天寿国繍帳」では橘大郎女の父のことを「尾張王」とも「尾張大王」とも呼んでいることが示すように、当時は皇族で尊重される人のことを、特に身内の人は「おおきみ」と呼んでいました。これを漢字表記にすれば「王」や「大王」です。やや後になりますが、万葉歌人である皇族の額田王も、慣用の呼びかたは「ぬかたのおおきみ」ですね。

 漢字の「王」は、「~国王」の場合もありますが、中国の皇帝は皇子たちを諸地域に「~王」として送り込んでおり、この場合は「王」は皇子です。古代の文献が示すように、日本では、天皇の子については、男性にも女性にも「王」の語が使われていました。どちらも「みこ」だったからであって、「皇子」「皇女」として区別するようになったのは律令制以後でしょうし、律令制以後も、『万葉集』などが示すように、皇族の女性を「~王」とか「~女王」などと記している例があります。

 厩戸皇子が『日本書紀』では「天皇事」をしたとされている点に関して思い出されるのは、五大十六国時代の胡族国家の一つであった後趙の石勒が、皇帝の号を献上されたものの断り、「趙天王」と名乗って「皇帝事を行」ない、後に帝位についたという『十六国春秋』などの記述です。この「天王」を天皇の起源とする説もありますね。日本の当時の漢字音では、「天王」も「天皇」も同じ発音ですし。

 これだと半沢氏の主張と合いそうですが、「皇帝事を行な」った時期の石勒は皇帝ではありませんし、また半沢氏が真作とみなす「天寿国繍帳」は、「大皇」である「とよとみみのみこと」のことを「太子」と呼んでいます。

 そこで半沢氏は、「法王」は釈尊を指すため、太子関連文献に見える「法王」「法皇」は聖徳太子を釈迦の化身とみなした称号であり、「天寿国繍帳」に見える「太子」は、出家前の釈尊である「悉達太子」になぞらえたものであって、普通の「皇太子」とは異なると説きます。

 しかし、釈迦の出家前の姿である「太子」になぞらえられたという説を認めたとしても、太子は太子であって国王ではありません。また、聖徳太子が釈尊の化身であるなら、なぜ太子が重病になった際、釈迦像を造る功徳によって病気が平癒するよう祈り、無理な場合は「浄土に登り、早く妙果(修行の結果としての素晴らしい悟り)に昇」るよう願うなどして釈尊にすがるのでしょう。

 釈迦三尊像銘のうち、「浄土に登り~」の部分は、没後になっての追加でしょうが、私の見解は、当時の太子の周辺の者たちは、太子のことを、何度か生まれかわった後、釈尊のように悟って人々を導くようになるお方、つまり次の釈尊候補とみなしていたのであって、釈尊のようなすぐれた存在として尊崇はしていても、釈尊の化身とまでは考えていなかった、というものです。

 また、半沢氏は「法王」を釈尊と決めつけていますが、梁武帝などとともに聖徳太子の模範の一人であったと思われる隋の文帝に対して、臨終間近の僧が「法王御世」にめぐりあえたと述べて遺言を記した手紙を送ったことを、道宣の『続高僧伝』が伝えています。

 この場合の「法王御世」は、仏法を保護したアショカ王のような聖王の治世、という意味ですね。実際、世界各地に仏塔を建設させたアショカ王にならい、文帝は中国各地と近隣の支配地に仁寿舎利塔と呼ばれる塔を建てさせたことで有名です。「法王」は釈尊とは限りません。

 ただ、湯岡碑文に見える「法王」は、巨大な椿が作るトンネルを『維摩経』において「法王」たる釈尊が神通力で作った天を覆う幡蓋になぞらえたものであって(こちら)、これは文章上のお世辞と見るべきものです。こうした大げさな賞賛は、中国でも仏教信者の皇帝にはなされています。

 また、半沢氏は、敏達天皇にはそれまでのような大型古墳が作られず、母の陵に591年に合葬されたことを重視し、これを古墳王権の終わりと呼び、この年は釈迦三尊像光背銘や湯岡碑文に見える法興という年紀の元年に当たることを強調します。

 しかし、この年、太子は17歳であって、推古天皇もまだ即位していません。この年を法興革命の始まりとみなすなら、その革命の中心人物は聖徳太子ではなく、蘇我馬子でしょう。この論文では馬子の役割について詳しく論じないのはなぜなのか。

 聖徳太子を重視する半沢氏は、蘇我物部戦争において衆望を得た聖徳太子が「法皇」として即位したのであって、法興元年は「法皇」即位の年であるとし、推古は「天皇」だが、仏教では「天」は神を意味するのであって、仏より格下であるため、実際の「倭王」は「法皇」たる聖徳太子であり、推古天皇は名誉職的な神祇王だと説いています。

 これは、四天王寺が宣伝する『日本書紀』の物部合戦の記述を信じたことによりますが、守屋合戦の後で太子の叔父である崇峻天皇が即位しているのは、なぜなんでしょう。崇峻天皇の短い治世は、馬子が推し進めた仏教推進事業ばかりなされており、崇峻天皇が仏教流布に反対したなどの記述はありません。

 半沢氏は、崇峻は馬子に暗殺されたとされるが、実際には「法皇」であって甥でもあった聖徳太子の命によって殺されたと推測します。凄い仏教信者の「法皇」ですね。この時期、亡き敏達の皇后として「詔」を出していた推古は発言権無しですか。

 推古天皇を中継ぎとして即位したとみなす説に反論し、推古は能力があって実力で大王となって活動したとする義江明子氏(こちら)などが聞いたら怒りそうな議論ですね。義江氏は逆に聖徳太子について触れなさすぎる傾向がありますが。

 とにかく、無理な仮定を作ると、それを説明するために次々に無理な推定を重ねないといけなくなるのであって、このあたりは古田風であり、古田説に反対するようになった後も古田流の論証法が影響を及ぼしているように見えます。

 外交上、女帝であることを隠したのだとする「外交偽装説」を批判し、またそれ以外の九州豪族偽称説とならべて九州王朝説を簡単に批判した部分では、古田氏が『隋書』の「阿毎多利思比孤」を仏教的王者という点で釈迦三尊像光背銘の「法皇」と同一人物だとしたことについて、「卓見と思う」と述べます。

 ただ、そのうえで、これらはいずれも大和王権の聖徳太子と見て良いとして批判し、九州王朝説が成り立たない理由を述べていますが、古田氏の図式が形を変えて影響を及ぼしていますね。

 『隋書』と『日本書紀』の違いを「主権者矛盾」と称し、「絶対矛盾」と「相対矛盾」とに分けて論じるなど、もの言いも古田氏に似ています。

 その他にもいろいろ問題は多いのですが、これくらいにしておきます。

【付記】
 以上のような形で公開しましたが、半沢氏が「太子」を特別な存在と見た理由に触れていませんでした。半沢氏は、鎌倉時代に発見された「天寿国繍帳」の銘に関して、卜部兼文が著した注釈、『天寿國曼荼羅繍帳縁起勘点文』(飯田瑞穂『聖徳太子伝の研究』所載)が引く「或書」に、「石寸池辺宮治天下等与比橘太子王」とある点に注目し、これは用明天皇のことであるのに、「太子王」と呼ばれているとして、聖徳太子の場合も「太子」でかつ倭王なのだと論じます。

 しかし、「或書」のその前の部分では、「広庭王」、すなわち欽明天皇が蘇我稻目の娘の堅塩媛を娶って「橘太子(用明天皇)」、次に「等与弥希加志支移比売(豊御食炊屋姫=推古)を生み、また堅塩媛の妹を娶って「間人孔部女王」を生んだとしていました。

 欽明天皇とか用明天皇といった漢字諡号がまだ定められていない時期のことですので、欽明天皇を「広庭王」と呼ぶなど過渡期風な表記をしており、皇位についた用明天皇についても、その直前の部分で用いられた「橘太子」に「王(おおきみ/みこと?)」を付けたと見るべきでしょう。「太子」のまま即位した例とは認められません。そのうえ、半沢説によると、「太子王」である用明天皇も仏の化身とみなされていたことになってしまいます。

 なお、「或書」では、橘太子と間人孔部王の間に生まれた聖徳太子について、「坐伊加留我宮共治天下等已刀弥ゝ法大王」と記しています。斑鳩の宮で天下を治めたとなれば天皇ということになりそうですが、「共に」とありますので飛鳥の推古天皇と共に、ということでしょう。「或書」のこの箇所への着目はすぐれたものだっただけに、半沢氏は聖徳太子=倭王説を唱えるなら、むしろこの「治天下」の部分を強調すべきでした。

 ただ、ここでは聖徳太子は「太子」と呼ばれておらず、「法大王」と呼ばれていますので、やはり、「太子でありつつ倭王」という図式は成り立たないことになります。

 この「或書」について、飯田氏は、『上宮記』のようだが別の書であった可能性もあるとしています。

 書き忘れてましたが、半沢氏は、聖徳太子を天皇と見る門脇禎二「聖徳太子ー斑鳩の大王ー」(門脇禎二・鎌田元一・亀田隆之・栄原永遠男・坂本義種『知られざる古代の天皇』、学生社、1995年)に触れ、「卓見」としつつtも、「天皇」とは異なる「倭王」という存在に気づいていなかったと述べています。その門脇氏はその20年ほど前からこの説を主張されていました。これについては、次回紹介しましょう。

【付記:2023年10月11日】
本文と付記を多少訂正しました。半沢氏の古代史研究は、URCレコードを立ち上げるなど多彩な経歴を経てきた秦政明氏の古代史研究の歩みとかなり重なっており、影響を与え合っています。

 古田氏を囲む市民の会以来の経緯や、秦氏・半沢氏の研究の特徴については、半沢「秦政明氏さんとその古代史学」(『古代史の海』第32号、2003年6月)に詳しく記されており、同世代の音楽好きである私にとってはきわめて感慨深い文章になっています。この号の「秦政明追悼特集」の部分に治められた若井敏明氏などの追悼文も、読む価値があります。

 問題意識に富んだ市民研究者となった秦氏がアマチュアの甘え・独善性とプロのおごり・偏狭さを厳しく批判していたといった部分は、私自身、ちょっとこたえるものがありますね。私は仏教学を中心とした東洋思想や文学・芸能の研究者であって、古代史の基礎訓練を受けたわけではなく、中途半端な身なので。


法隆寺金堂の釈迦三尊像は若草伽藍の本尊ではなく、救世観音は莬道貝蛸皇女の建立?:大橋一章「飛鳥白鳳彫刻と造仏工の系統」

2023年10月06日 | 論文・研究書紹介

 今年の2月に亡くなった新川登亀男さんは数冊の有益な論文集を編集していました。そのうちの一つに掲載された美術史の論文が、

大橋一章「飛鳥白鳳彫刻と造仏工の系統」
(新川登亀男編『仏教文明の展開と表現-文字・言語・造形と思想』、勉誠出版、2015年)

です。日頃のように「大橋先生」と呼ぶのが自然なのですが、ここでは「大橋氏」でいきます。

 この論文は、これまでの大橋氏の見解を集成し、さらに造仏工の系統、その変化についていくつかの新説を提示したものです。論争になってきた法隆寺の小金銅仏、また野中寺の弥勒仏などもとりあげていますが、ここでは聖徳太子とその妃に関わるとされる仏像だけを扱います。

 敏達6年(577)に百済から造仏工と造寺工の2人が派遣されてきてから10年後の用明2年(587)になって、我が国最初の本格伽藍である飛鳥寺が発願されたことに注意します。造仏工・造寺工が来た以上、見習いたちが弟子入りしたはずであり、その者たちが一人前になったであろう10年後に、寺造りが始まるのです。

 一人前になった第一世代の造仏工たちの中に鞍作止利がいたのであって、彼らの目的は飛鳥寺の本尊として丈六の金銅仏をつくることでした。当然ながら、当時の百済の様式であって、正面観が強く、横から見ることを考慮していない角張った古風な作例です。「止利式」と呼ばれるものですね。

 推古30年(622)正月に聖徳太子が発病し、王后(菩岐岐美郎女)も病床につきました。大橋氏は、そこで「別の王后、王子と諸臣」が病気平癒を願って釈迦像作成を誓ったものの、王后も太子も2月に続けて亡くなってしまったため、翌年完成した像には、元の病気平癒の願に浄土往生の願いが追加されたとします。

 発願した王后が菩岐岐美郎女と「別の王后」であるかどうかは議論のあるところですが、大橋氏は、その「別の王后」とは、蘇我馬子の娘であって山背大兄を生んだ刀自古郎女太子と見ます。

 また、それ以前のこととして、太子が推古15年(607)に発願していた法隆寺は、推古23年(615)くらいには五重塔が完成し、推古27年(619)頃には金堂と本尊が完成していたと推察します。これが若草伽藍ですね。

 となると、現在、金堂に安置されている釈迦三尊像は、創建時の若草伽藍の本尊ではないことになります。実際、若草伽藍は、『日本書紀』によれば天智9年(670)に雷のために全焼したとされています。そこで大橋氏は、釈迦三尊像は、若草伽藍ではなく、斑鳩宮の一画に建てられていた仏殿に安置されていたものと推察します。

 というのは、火災の後で再建された現在の金堂は、若草伽藍の金堂と同じ規模であって、しかもそれは飛鳥寺の金堂とほぼ同じ大きさであるからです。その飛鳥寺の金堂の本尊は丈六の座像です。丈六とは、釈尊は立てば一丈六尺(4.8メートル)あったとされる伝承に基づくものであって、座像の場合は半分の2.4メートルの高さになります。

 若草伽藍の金堂は、飛鳥寺の金堂とほぼ同じ大きさである以上、そこには飛鳥寺と同様に丈六の座像が安置されたはずです。しかし、現在の金堂に安置された釈迦三尊像は高さが88センチほどしかなく、金堂の大きさに比べると不自然に小さいため、巨大な台座が造られ、また天井から巨大屋根型の幡蓋がつるされて空間を埋めているのだと、大橋氏は説きます。その釈迦三尊像も、正面観が強い止利式の仏像でした。

 さて、飛鳥寺に続いて、若草伽藍、四天王寺、中宮寺などが建設されていきますが、そうした間に止利などの第一世代に続く第二世代が育っていきます。隋との交流も始まりますので、隋の最新の仏像も知らるようになるでしょうし、隋は北朝の北斉・北周を受けついだ北朝系の統一国家ですので、最新でない北斉・北周の仏像も日本に持ち込まれたと、大橋氏は推測します。

 そして、止利たち第一世代は当初の正面観が強い百済様式から外れることはなかったのに対し、第二世代は北周・北斉・隋の仏像の影響も受けるようになったと推察します。また中国南朝では、インドの壇木製の仏像の影響もあって木像も造られていたため、木材が豊かである日本で育ち、それらの性質に通じていた第二世代は、クスノキなどによる木像、それも止利式とやや異なる像を造り始めたと見ます。

 その最も古い例が、漆箔仕上げによる法隆寺の救世観音像です。この像は、正面観が強い止利式でありながら、角張った釈迦三尊像と違い、不十分ながら側面も考慮されてやや曲線的に造られており、顔の表情もリアルになって気味悪さがただようようになっているのです。

 この像について、大橋氏は、釈迦三尊像と同じ時期の作であるため、釈迦三尊像を造った王后や天寿国繍帳を造った王后とは別な王后による造立と説きます。そして、その候補として、大橋氏は、敏達天皇と推古天皇の間に生まれた莬道貝蛸皇女を想定し、彼女の宮の一部に安置していたと推定するのです。

 これはどうでしょうかね。推古天皇が、孫娘である橘大郎女を厩戸皇子に嫁がせたのは、莬道貝蛸皇女が亡くなっていたためだろうと考えるのが有力な説であるように思いますが。

 莬道貝蛸皇女には子はいなかったらしいことは、太子の子や孫たちを記した『法王帝説』からも分かりますので、推古は天皇候補である廐戸皇子とのつながりを確保し、自分の血をひく者が将来即位できるように、貝蛸皇女の出産が期待できなくなった時点で、若い孫娘を送り込んだ、ということになるのか。

 その救世漢音についで古いと思われるのが、彩色仕上げの木像である百済観音であって、救世観音像より人体観察が進んでいて柔らかさが増しているとします。近いのは中宮寺の菩薩半跏像であるとし、いずれも止利式の古い要素をあわせもっており、曲線的なのは上半身だけであって、下半身は直線的であるうえ、造形も平板であるとします。

 この点は、人体各部の観察が進み、造形も進歩した白鳳彫刻とは違うのです。初唐の写実的な仏像の影響をうけた白鳳彫刻を作り出したのは、さらに次の世代の工人だと、大橋氏は見ます。ただ、そうなると、誰が造像したのかが気になりますね。

 なお、大橋氏は、仏像の特徴の変化を上のように見るものの、第一世代の工人の影響を強く受けた工人も7世紀半ば頃まで活動しますので、実際には複数のタイプの仏像が平行して造り続けられたとし、また、中心となる止利やその直系のエリート工人と、その周辺にいた工人の作風の違いもあったと説きます。

 これによって、太子生存中や没後あまりたっていない頃の小金銅仏、たとえば推古36年(628)に亡き蘇我馬子のためにつくられた小型の釈迦三尊像が、止利式のようでありながら柔和な感じがあるなどの作風の違いを説明するのです。一直線の進化はありえないですし、同じ工房内でも作者が違えば微妙に違った風になりますからね。


飛鳥に関する一般向け最新情報、三経義疏に関する私の説も:今尾文昭編『飛鳥への招待』

2023年10月01日 | 論文・研究書紹介

 古都飛鳥保存財団では、創設40周年を記念して「飛鳥学冠位叙任試験」を始め、これまで10回続いてきた由(こちら)。その問題を作成してきた研究者たちが、飛鳥に関する最新の研究成果をまとめた本が出てます。

今尾文昭編・飛鳥学冠位叙任試験問題作成委員会『飛鳥への招待』
(中央公論新社、2021年)

です。著者は、橿原考古学研究所調査課長を務めた編者の今尾文昭氏ほか、考古学系の人が多いですが、古代史・『万葉集』・民俗学などの研究者も含まれています。

 前半は、一つの項目を3頁程度で写真入りでわかりやすく説明した辞典のようなもので、後半に相原嘉之・石橋茂登・井上さやか・岡林孝作・今尾文昭氏による「座談会 古都飛鳥の百年 これからの飛鳥」が収録されています。

 聖徳太子関連の項目を見ると、「明らかになってきた聖徳太子の実像」(西本昌弘)では、聖徳太子架空説や『勝鬘経義疏』遣隋使将来説などに触れた後、『日本書紀』の編纂開始は太子の死から59年後にすぎず、また「帝紀」「旧辞」などの古伝もあったのだから、712年という『日本書紀』の完成年だけ強調して不比等らの捏造とするのは無理とされています。

 そして、釈迦三尊像光背銘を本物と見て、太子は死去直後から「法皇「聖徳王」と呼ばれていた可能性が高いとしますが、光背銘を本物と見るのは東野治之説でしょうが、「法皇」はともかく、「法王」や「法主王」は、「のりのみこ(おおきみ)」「のりのぬしのみこ(おおきみ)」として生前から言われていた可能性が高いですね。

 ついで三経義疏については、遣隋使がもたらしたとする説があったことを述べたのち、「南朝・梁(五〇二~五五七)の学僧が著した注釈書を手本に、一部自説を交えながら、和風の漢文で書いたものと確認されました」とあります。これは私の説ですね。

 末尾は、「最新の中国仏教を理解した超人ではありませんが、当時としては並外れた才能をもつ努力の人だったようです」となってます。「最新の中国仏教を理解した超人」というのは妙な書き方ですね。「隋の最新の仏教を知らずに、それを上回るような教義を打ち立てた」なら超人ですが、理解する程度なら秀才でもできるでしょう。

 要するに、そうした最新の書物はまだ入ってきておらず、朝鮮から派遣されてきた僧侶を家庭教師とし、当時の中国からすれば古くさい注釈を略抄しながら、時に素人くさい議論を交えつつ、粘り強い思考力に基づいて解釈をした、といったところでしょう。

 次の「百済・新羅の改革主導者と聖徳太子の呼び名」も西本氏の担当ですが、日本は外交面では百済や新羅が歩んだ道を半世紀遅れて追ったのであって、「女帝の推古天皇や大臣の蘇我馬子を助けて、聖徳太子がこれを主導したということなのでしょう」と述べています。最近の、三者鼎立論、あるいは三者協力で馬子主導とする見方よりは、伝統説に近いですね。