仏教公伝をめぐる史実と厩戸皇子の仏教受容の意味を考えるには、当時の寺院建立の状況を知る必要があります。そのためには、考古学の最近の成果に注意しなければなりませんが、そうした成果の一つが、
大脇潔「飛鳥・藤原京の寺院」
(木下正史・佐藤信編『飛鳥から藤原京へ』、吉川弘文館、2010年)
です。ここでは、この論文のうち、聖徳太子に関わる部分だけ紹介しておきます。
大脇論文では、飛鳥寺が画期的な建築物であったことを強調する一方で、その前史として、捨宅寺院に注目します。捨宅寺院とは、自宅を喜捨して寺としたものです。北魏では、皇帝自身が熱烈な仏教信者だったため、王侯貴族から役人・庶民に至るまで競って自宅を喜捨しており、「国家大寺四十七所、其王侯貴室五等諸侯寺八百三十九所、百姓造寺三万余所」に至った由。
『日本書紀』にも、そうした捨宅寺院の記事が見えており、それらのいくつかは後に本格寺院になっていったことが知られています。檜隈寺跡からは北魏後半から北斉にかけての小金銅仏の断片が出土しており、前身施設の古さがうかがわれます。
他にも、和田廃寺などからも下層遺構が発見されており、こちらも捨宅寺院であったことが、小笠原好彦「古代寺院に先行する掘立柱建物集落」(『考古学研究』111号、1981年12月)によって示されていると述べています。
(大脇論文は、「100号、1979」と記してますが、これは題名と内容が似た小笠原「畿内および周辺地域における掘立柱建物集落の展開」の方であって、誤りです)
ここで注目されるのは、そうした捨宅寺院は、蘇我氏および彼らとつながりの深い渡来系氏族の居宅に営まれていたことです。つまり、守屋合戦の前から、仏教は蘇我氏とその周辺にかなり広まっていたのです。
ただし、それらの捨宅寺院はすべて掘立柱で茅葺きか檜皮葺きによる旧来の建物であったのに対して、巨大な金堂や塔などの建物が居並ぶ全面瓦葺きの飛鳥寺の存在はきわめて特異であることに大脇論文は注意しています。飛鳥寺については、捨宅寺院でなく、他の氏族の家を立ち退かせ、巨大な伽藍を当時としてはきわめて短期間で完成させているのだから、いよいよ異例ということになります。
大脇論文は、この土地に固執した理由として、蘇我氏および蘇我氏系の氏族の諸寺が、飛鳥寺を扇の要とする形で半円状に分布し、また南方には蘇我氏と関係深い渡来系氏族の寺が丸く囲んでいることに注目します。こうした遺跡から、逆に諸氏族の居住地域や勢力も分かるのです。
なお、大脇論文では触れられていないが、既にある自分の邸を寺にするのでない点は、斑鳩寺も同様であることが注意されるでしょう。斑鳩寺は、規模はやや小さいが、飛鳥寺に通じる性格を持っていたのです。
さて、その蘇我氏を圧倒するかのように、舒明天皇は天皇としては最初となる壮大な百済寺の建立を命じ、九重塔を建てようとします。スカイツリーのように異様に巨大な北魏の永寧寺の九重塔を初め、百済も弥勒寺(639年)に、新羅も皇龍寺(645年)に九重塔を建てている以上、日本も追随せざるを得なかったのです。
大脇論文では、百済大寺→高市大寺→大官大寺・大安寺という流れに注目しますが、その遺構と思われる吉備池廃寺では、金堂と九重塔が東西に並んでおり、それぞれ中門があります。日本独自と思われるこの配置は、かつては聖徳太子の発案とされていましたが、斑鳩寺は四天王寺式であったことが明らかかになった以上、その説は成立しないのです。
ただ、これは逆に言うと、再建法隆寺の伽藍配置は、この舒明天皇の官寺の伽藍配置に基づいていることになり、再建法隆寺と天皇家の関係、あるいは、舒明天皇と厩戸皇子の関係について考え直す必要があることを示しているように見えます。
『日本書紀』その他の記述をそのまま信じることはできない場合が多いですが、だからと言って後代の造作として否定して終わりにするのでなく、最新の研究成果に基づいて見直していくことが、今後の課題でしょう。
大脇潔「飛鳥・藤原京の寺院」
(木下正史・佐藤信編『飛鳥から藤原京へ』、吉川弘文館、2010年)
です。ここでは、この論文のうち、聖徳太子に関わる部分だけ紹介しておきます。
大脇論文では、飛鳥寺が画期的な建築物であったことを強調する一方で、その前史として、捨宅寺院に注目します。捨宅寺院とは、自宅を喜捨して寺としたものです。北魏では、皇帝自身が熱烈な仏教信者だったため、王侯貴族から役人・庶民に至るまで競って自宅を喜捨しており、「国家大寺四十七所、其王侯貴室五等諸侯寺八百三十九所、百姓造寺三万余所」に至った由。
『日本書紀』にも、そうした捨宅寺院の記事が見えており、それらのいくつかは後に本格寺院になっていったことが知られています。檜隈寺跡からは北魏後半から北斉にかけての小金銅仏の断片が出土しており、前身施設の古さがうかがわれます。
他にも、和田廃寺などからも下層遺構が発見されており、こちらも捨宅寺院であったことが、小笠原好彦「古代寺院に先行する掘立柱建物集落」(『考古学研究』111号、1981年12月)によって示されていると述べています。
(大脇論文は、「100号、1979」と記してますが、これは題名と内容が似た小笠原「畿内および周辺地域における掘立柱建物集落の展開」の方であって、誤りです)
ここで注目されるのは、そうした捨宅寺院は、蘇我氏および彼らとつながりの深い渡来系氏族の居宅に営まれていたことです。つまり、守屋合戦の前から、仏教は蘇我氏とその周辺にかなり広まっていたのです。
ただし、それらの捨宅寺院はすべて掘立柱で茅葺きか檜皮葺きによる旧来の建物であったのに対して、巨大な金堂や塔などの建物が居並ぶ全面瓦葺きの飛鳥寺の存在はきわめて特異であることに大脇論文は注意しています。飛鳥寺については、捨宅寺院でなく、他の氏族の家を立ち退かせ、巨大な伽藍を当時としてはきわめて短期間で完成させているのだから、いよいよ異例ということになります。
大脇論文は、この土地に固執した理由として、蘇我氏および蘇我氏系の氏族の諸寺が、飛鳥寺を扇の要とする形で半円状に分布し、また南方には蘇我氏と関係深い渡来系氏族の寺が丸く囲んでいることに注目します。こうした遺跡から、逆に諸氏族の居住地域や勢力も分かるのです。
なお、大脇論文では触れられていないが、既にある自分の邸を寺にするのでない点は、斑鳩寺も同様であることが注意されるでしょう。斑鳩寺は、規模はやや小さいが、飛鳥寺に通じる性格を持っていたのです。
さて、その蘇我氏を圧倒するかのように、舒明天皇は天皇としては最初となる壮大な百済寺の建立を命じ、九重塔を建てようとします。スカイツリーのように異様に巨大な北魏の永寧寺の九重塔を初め、百済も弥勒寺(639年)に、新羅も皇龍寺(645年)に九重塔を建てている以上、日本も追随せざるを得なかったのです。
大脇論文では、百済大寺→高市大寺→大官大寺・大安寺という流れに注目しますが、その遺構と思われる吉備池廃寺では、金堂と九重塔が東西に並んでおり、それぞれ中門があります。日本独自と思われるこの配置は、かつては聖徳太子の発案とされていましたが、斑鳩寺は四天王寺式であったことが明らかかになった以上、その説は成立しないのです。
ただ、これは逆に言うと、再建法隆寺の伽藍配置は、この舒明天皇の官寺の伽藍配置に基づいていることになり、再建法隆寺と天皇家の関係、あるいは、舒明天皇と厩戸皇子の関係について考え直す必要があることを示しているように見えます。
『日本書紀』その他の記述をそのまま信じることはできない場合が多いですが、だからと言って後代の造作として否定して終わりにするのでなく、最新の研究成果に基づいて見直していくことが、今後の課題でしょう。