聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

捨宅寺院から飛鳥寺へ、そして官寺へ:大脇潔「飛鳥・藤原京の寺院」

2012年02月29日 | 論文・研究書紹介
 仏教公伝をめぐる史実と厩戸皇子の仏教受容の意味を考えるには、当時の寺院建立の状況を知る必要があります。そのためには、考古学の最近の成果に注意しなければなりませんが、そうした成果の一つが、

大脇潔「飛鳥・藤原京の寺院」
(木下正史・佐藤信編『飛鳥から藤原京へ』、吉川弘文館、2010年)

です。ここでは、この論文のうち、聖徳太子に関わる部分だけ紹介しておきます。

 大脇論文では、飛鳥寺が画期的な建築物であったことを強調する一方で、その前史として、捨宅寺院に注目します。捨宅寺院とは、自宅を喜捨して寺としたものです。北魏では、皇帝自身が熱烈な仏教信者だったため、王侯貴族から役人・庶民に至るまで競って自宅を喜捨しており、「国家大寺四十七所、其王侯貴室五等諸侯寺八百三十九所、百姓造寺三万余所」に至った由。

 『日本書紀』にも、そうした捨宅寺院の記事が見えており、それらのいくつかは後に本格寺院になっていったことが知られています。檜隈寺跡からは北魏後半から北斉にかけての小金銅仏の断片が出土しており、前身施設の古さがうかがわれます。

 他にも、和田廃寺などからも下層遺構が発見されており、こちらも捨宅寺院であったことが、小笠原好彦「古代寺院に先行する掘立柱建物集落」(『考古学研究』111号、1981年12月)によって示されていると述べています。
(大脇論文は、「100号、1979」と記してますが、これは題名と内容が似た小笠原「畿内および周辺地域における掘立柱建物集落の展開」の方であって、誤りです)

 ここで注目されるのは、そうした捨宅寺院は、蘇我氏および彼らとつながりの深い渡来系氏族の居宅に営まれていたことです。つまり、守屋合戦の前から、仏教は蘇我氏とその周辺にかなり広まっていたのです。

 ただし、それらの捨宅寺院はすべて掘立柱で茅葺きか檜皮葺きによる旧来の建物であったのに対して、巨大な金堂や塔などの建物が居並ぶ全面瓦葺きの飛鳥寺の存在はきわめて特異であることに大脇論文は注意しています。飛鳥寺については、捨宅寺院でなく、他の氏族の家を立ち退かせ、巨大な伽藍を当時としてはきわめて短期間で完成させているのだから、いよいよ異例ということになります。

 大脇論文は、この土地に固執した理由として、蘇我氏および蘇我氏系の氏族の諸寺が、飛鳥寺を扇の要とする形で半円状に分布し、また南方には蘇我氏と関係深い渡来系氏族の寺が丸く囲んでいることに注目します。こうした遺跡から、逆に諸氏族の居住地域や勢力も分かるのです。

 なお、大脇論文では触れられていないが、既にある自分の邸を寺にするのでない点は、斑鳩寺も同様であることが注意されるでしょう。斑鳩寺は、規模はやや小さいが、飛鳥寺に通じる性格を持っていたのです。

 さて、その蘇我氏を圧倒するかのように、舒明天皇は天皇としては最初となる壮大な百済寺の建立を命じ、九重塔を建てようとします。スカイツリーのように異様に巨大な北魏の永寧寺の九重塔を初め、百済も弥勒寺(639年)に、新羅も皇龍寺(645年)に九重塔を建てている以上、日本も追随せざるを得なかったのです。

 大脇論文では、百済大寺→高市大寺→大官大寺・大安寺という流れに注目しますが、その遺構と思われる吉備池廃寺では、金堂と九重塔が東西に並んでおり、それぞれ中門があります。日本独自と思われるこの配置は、かつては聖徳太子の発案とされていましたが、斑鳩寺は四天王寺式であったことが明らかかになった以上、その説は成立しないのです。

 ただ、これは逆に言うと、再建法隆寺の伽藍配置は、この舒明天皇の官寺の伽藍配置に基づいていることになり、再建法隆寺と天皇家の関係、あるいは、舒明天皇と厩戸皇子の関係について考え直す必要があることを示しているように見えます。

 『日本書紀』その他の記述をそのまま信じることはできない場合が多いですが、だからと言って後代の造作として否定して終わりにするのでなく、最新の研究成果に基づいて見直していくことが、今後の課題でしょう。
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『日本書紀』の最終編纂時期における唐の政教策:手島一真「政教の教化と仏教の風化」

2012年02月19日 | 論文・研究書紹介
 「憲法十七条」については、地方長官たちに遵守が命じられた西魏の「六条詔書」などが手本とされることが多いのですが、「憲法十七条」の成立時期をめぐって論争が続いていることはよく知られています。

 「憲法十七条」が『日本書紀』編集の最終段階において、つまり、710年代後半に作成されたのであれば、当時は唐にならって律令制を強化しようとしていたのですがから、唐の似た規定がある程度考慮された可能性があります。

 その当時の唐の規定として注目されるのは、則天武后が685年に学者たちに編纂させて公表した『臣軌』でしょう。実質的な最高権力者であった武后は、当時は皇帝や皇太子や官僚その他に関する様々な書物の編纂を命じていますが、その中核とされる『臣軌』について論じたのが、

手島一真「政教の教化と仏教の風化--則天武后の『臣軌』撰述を通じて見る比較考察--」
(『日本仏教学会年報』第74号、2009年7月)

です。「憲法十七条」については触れていませんが、「憲法十七条」について考える際は、『臣軌』はきわめて重要です。

 武后は690年に皇帝位について国号を周と改めると、693年には『老子』に代えて『臣軌』を科挙の科目としました。705年1月に退位させられて国号が唐に戻されると、『臣軌』に代わって『老子』が再び科挙の科目に指定されています。

 『臣軌』は唐の太宗が編纂させた『帝範』を意識したものとされており、臣下の倫理を十章に分けて説いたものです。手島氏の要約に基づいて条目を列挙すると、以下の通りです。

 一 同体章 君臣は父子以上に同体であれ
 二 至忠章 至公の精神で忠義に努めよ
 三 守道章 臣下の分を守り、職務に励め
 四 公正章 公正無私であれ
 五 匡諌章 諌言に努めよ
 六 誠真章 誠実信義を重んじよ
 七 慎密章 機密を漏らさず、慎重に行動せよ
 八 廉潔章 清廉潔白であれ
 九 良将章 上には忠、下には愛の優れた将であれ
 十 利人章 農を勧め、民の生活を安心ならしめよ

 内容の詳細な検討は、

渡邊信一郎「『臣軌』小論--唐代前半期の国家と国家イデオロギー--」
(礪波護編『中国中世の文物』、京都大学人文科学研究所、1993年)

がおこなっています。手島論文では、この渡邊論文によりつつ論じており、右の十章には仏教によるものは全く無く、儒教が多いほか、道家やその他の諸家の主張も取り入れていることに注意しています。

 この『臣軌』は、門閥貴族を押さえ、父子関係より君臣関係の方が上であることを示し、皇帝へ権力を集中させようとするものです。手島氏は、武后は帝位につくために仏教を用いて様々な神秘的な宣伝を行う一方、こうした儒教的君臣共同体論によって行政機能の理想型を示したとし、武后は仏教・儒教という二つの「教」によって、統治を行ったと論じています。

 さて、この『臣軌』と「憲法十七条」は、どの点が似ており、どの点が違っているでしょうか。慶雲元年(704)と養老2年(718)に帰国した遣唐使たちのうち、前者は『臣軌』ないし、その方針にそった文献類を持ち帰った可能性がありますが。

 なお、4月刊行予定の『藝林』誌に掲載したシンポジウム発表では、「憲法十七条」について、これまで知られていなかった仏教経典の典拠などを少々指摘してあります。

家永三郎が書いた聖徳太子小説

2012年02月10日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報
 昨年9月に藝林会の聖徳太子シンポジウムで発表した「問題提起 聖徳太子研究の問題点」は、再校まで終りました。4月に刊行される予定です。近代仏教史研究会で発表した「『人間聖徳太子』の誕生--戦中から戦後にかけての聖徳太子観の変遷--」も原稿は提出済みであるため、5月には出るでしょう。

 後者では、発表後に気づいた資料をいくつか付け加えてありますが、一番の驚きは、家永三郎が聖徳太子に関する小説を書いていたことですね。

 その小説というのは、毎日新聞社編『日本文化を築いた十偉人』(毎日新聞社、昭和26年3月。定価180円)に掲載されている家永の「聖徳太子」です。企画したのは、「毎日小学生新聞」「毎日中学生新聞」の編集長である植竹円次のようで、「まえがき」も書いています。

 敗戦後の「文化国家日本の建設」ブームの一環として、「大きな志をたて励む少年たち」向けに出されたこの本では、「聖徳太子」は冒頭に置かれており、その次は紫式部となっています。軍人を取り上げることの多かった戦時中の少年向け読みものとは、その点が違っています。

 家永の「聖徳太子」では、太子についてごく簡単に説明した後、いっしょに法隆寺を尋ねてみようと読者に呼びかけ、

国鉄の列車を法隆寺駅で降りて、……法隆寺の門前に到着する。正面の山のふもとの小高いところにそびえるのが法隆寺である。南大門をくぐると、すでに自分たちは何百年も前の古い時代に生きているような気がする。白い土塀のつづく参道のつきあたりが……

というように話を進めていきます。そして、

いつしか自分のからだが二十世紀の日本から迷い出して、七世紀の昔のありさまを目の前に見るような気持ちになるのであった。

とことわったうえで、

  斑鳩宮も、しだいに夕やみのとばりにかくされていった。
  宮の奥まった建物にほんのりと灯火がさす。そこは、……聖徳太子のおへやである。
  ……
  「殿下。お呼びでございますか。」
  太子は、慧慈のはいって来たことにさえ気がつかないほど夢中になって、考えごとにふけっておられたのである。慧慈の声に、太子ははっと顔をあげられた。

と小説風に転じており、『法華義疏』を執筆していてわからない箇所を慧慈に尋ねるという場面が描かれています。

 家永は、これだけでは飽きたらず、教科書裁判の最中である昭和50年10月には、『歴史文学』第四号に「新編上宮太子未来記」を発表しています。これは、倉田百三『出家とその弟子』の結末における親鸞と善鸞との対話を、臨終時の聖徳太子と山代大兄王に置き換えたような戲曲です。率直に言って、いかにも素人くさい作品です。

 家永は、一方では『上宮聖徳法王帝説の研究』に結実する研究を戦時中から進めていました。そうした厳密に文献学的なものを書いていると、やはり限られた資料に縛られず、想像を働かせて自分の考える聖徳太子を自由に書きたいと思うようになるのでしょう。

 このように、家永は研究と想像を分けようとしたのですが、ごっちゃにして書いた代表が、梅原猛と大山誠一でしょうか。
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