聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

石井公成『聖徳太子:実像と伝説の間』(春秋社)の予約受付開始

2015年12月21日 | 論文・研究書紹介
 一般向けに「です・ます調」の読みやすい形で書いてあるものの、最近の諸分野の研究成果と私自身の発見を盛り込んだ聖徳太子本が1月20日に刊行されることになり、一部のオンラインショップで予約受付が始まりました。

石井公成『聖徳太子:実像と伝説の間』(春秋社、2016年、264頁、本体価格2200円)

です。

 初めに、太子を研究するには、現代人の常識で判断するのではなく、まず古代の人々の発想や習慣を尊重して資料を正確に読まねばならないとした後、古代から現代に至る聖徳太子観の変遷について概説してあります。

 戦時中の文部省や真宗における太子の扱いなど、この変遷の部分だけでも目からウロコの記述がかなりあるはずです。これを読むと、現在の研究状況の背景が分かるでしょう。

 続いて、「<聖徳太子>はいなかった。理想的な聖徳太子像を創りあげたのは、藤原不比等・長屋王・道慈の三人であって、モデルとなったのは、斑鳩宮と法隆寺を建てた有力な王族であったものの、国政に関わるような勢力はなく、聖人でもなかった厩戸王だ」とする大山誠一氏の太子聖徳太子虚構説への批判です。

 そもそも「厩戸王」というのは、戦後になって推定で作られた表記であって、どの時代の資料にも出てこないことを初め、これまでこのブログで書いてきたことをまとめ、さらに複数の弱点の指摘を加えてありますが、表現は軟らかくしてあります。

 虚構説論者が目についた用語に基づいてあれこれ想像するばかりで、変格漢文に関する研究成果や、飛鳥寺→豊浦寺→法隆寺→四天王寺という瓦の影響関係を初めとする考古学などの成果を無視したのは致命的でした。

 以下、『日本書紀』に描かれている順序にほぼ基づきながら、いろいろな問題について検討してあります。太子礼賛でもなければ、全否定でもありません。

 【目次】
はじめに
第一章 聖徳太子観の変遷
     (一) 聖徳太子観の変遷
     (二) 聖徳太子虚構説の問題点
第二章 誕生と少年時代
     (一) 呼び名の多様さ
     (二) 誕生と名前の由来
     (三) 教育
     (四) 父の死、母の再婚
     (五) 物部守屋との合戦
     (六) 結婚
第三章 蘇我馬子との共同執政と仏教興隆
     (一) 立太子記事の検証
     (二) 三宝興隆の詔
     (三) 慧慈・恵聡の来朝と伊予湯岡碑文
     (四) 斑鳩宮の建設
     (五) 新羅問題
     (六) 小墾田宮での改革と冠位十二階
     (七) 「憲法十七条」
     (八) 改革と仏教
第四章 斑鳩移住とその後
     (一) 斑鳩移住と法隆寺・四天王寺の建立
     (二) 支える氏族
     (三)『勝鬘経』『法華経』の講経と三経義疏
     (四) 壬生部の設置
     (五) 神祇信仰の変化
     (六) 隋および朝鮮諸国との外交
     (七) 活動が記されない期間
     (八) 片岡山飢人説話
     (九) 天皇記・国記・氏族の本記の編集
第五章 病死、そして残された人々
     (一) 病死と慧慈の嘆き
     (二) 法隆寺金堂釈迦三尊像銘
     (三) 天寿国繍帳とその銘
     (四) 上宮王家の滅亡
     (五) 太子の娘による金銅潅頂幡の法隆寺施入
おわりに
 聖徳太子図とその解説
 聖徳太子関連系図
 聖徳太子関連地図
 参考文献
あとがき

 以上です。amazonのページでは、12月20日の時点では、まだ表紙も詳細な内容も出てませんが、表紙は、早稲田大学図書館所蔵の江戸期の模写図を使わせていただきました。許可してくださった早稲田大学図書館に感謝します。衣裳や持ち物について考証を書き込んであるため、この図を選びました(こちら)。

 私の本の末尾では、この図の全体が白黒で掲載されていますが、「実像と伝説の間」という題名なので、表紙ではカラーで薄くもやっとした感じになる予定です。

 図の説明では、かつては別人説があったものの、それは間違いであることが判明しており、奈良時代に中国の人物図の形式で聖徳太子として(想像で)描かれたことについて、最近の説を紹介しておきました。

 この肖像画も、それぞれの時代の社会、それぞれの人が、自分にとって好ましい聖徳太子像を描いてきた一例です。

 一般向けの読みやすい本ですが、日本古代史の研究者、それも聖徳太子に関する本や論文を書いている人が読んでも、初めて知ることが多い本になっていると思います。

 厩戸誕生伝説にしても、一度に十人の言うことを聞いたといった伝説などにしても、仏教経典の記述を利用して理想化した書き方をしていることを明らかにしておきました。

 ただし、太子が病いで倒れた際、周辺の人が太子と等身の釈迦像を作って治癒を願ったことなどは、事実と見ていますし、太子が仏に準ずる存在とみなされたことも事実としています。菩薩扱いされ、自らも菩薩という自覚を持ってそう名乗っていた中国の皇帝などが手本ですので、そうした例と比較してあります。

 5年前の私がこの本を読んだら、おそらく自分でも知らなかったことが多くて驚くことでしょう。授業で教える際に困っていた、中学・高校の歴史の先生などにも役立つはずです。聖徳太子というのは、生前の名ではないものの、「厩戸王(聖徳太子)」などと表記してある教科書は、数年のうちに改めることになるでしょう。

 日本史研究者の場合は、『日本書紀』の太子関連記述や法隆寺の初期資料について、これまでは仏教の要素に対する注意が不十分で正確に読めていなかったことを指摘した部分を読むとショックを受けると思います。

 これまで、多くの研究者が地道に研究してくれてきたおかげで、我々は現在、研究できるようになっているのですが、資料の読解、特に仏教との関連の解明はまだまだ不十分であるのが実状です。つまり、従来は、資料を正確に読めないまま、太子関連記述の内容の真偽を論じてきたのです。

 「憲法十七条」も、法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘も、天寿国繍帳銘も、伊予湯岡碑文もそうです。太子関連記述は、仏教に関するものが多いのですから、これは深刻な事態でしょう。今回の本では、新たに発見した出典に基づく読み方を提示しておきました。すると、太子のイメージが変わってきます。

 こうした例は他にも多く、大正大蔵経などが電子化され、検索可能になったことによって発見できたものですが、私は、その電子化作業に10年以上関わってきた人間ですので、「検索ばかり利用して……」などという批判は当たらないはずです。データベースを作成したからこそ出来る検索もあるのです。

 また、寺の瓦に関する考古学の成果なども、太子のイメージを変えるうえで役立つでしょう。蘇我氏内部の勢力争いとの関係など、けっこう生々しいものがありますね。

 「あとがき」では、「憲法十七条」や三経義疏の聖徳太子撰述を疑った津田左右吉が創設した早稲田の東洋哲学研究室で学び、一方、聖徳太子礼賛の拠点の一つであった東大の印度哲学科の教授で定年後に早稲田の教授となった仏教学の第一人者、平川彰先生を指導教授とした私の立場について述べておきました(いろいろな分野に浮気ばかりしており、平川先生の学風は少しも継げませんでしたが……)。

 この本の全体の立場は、冒頭に掲げた小倉豊文の次の言葉の通りです。

「又性急に太子を常人として過小評価することも、或ひは又非凡人として過大評価することも、何れも慎まなければなりません」

2015年度の変格漢文研究プロジェクトの国際研究集会

2015年12月19日 | その他
 古代東アジアの変格漢文に関する科研費研究の国際研究集会が開催されました。これで四年目、回数としては五回目です。

12月19日  研究発表(駒澤大学会館246) 
1.共同研究の状況説明……………………………………………………………… 石井公成(駒澤大学教授)
2.「智雲『妙経文句私志記』『妙経文句私志諸品要義』の変則漢文」……… 石井公成(駒澤大学教授)
*コメンテーター:師 茂樹(花園大学教授)   
<昼食>
3.「声律から見た「古事記序」と「懷風藻序」 …………………………… 金文京(鶴見大学教授)
    *コメンテーター:崔植(韓国・東国大学准教授)
4.「『古事記』の接続詞「尓」の来源」…………………………………… 瀬間正之(上智大学教授) 
    *コメンテーター:崔植(韓国・東国大学准教授)
5.「『日本書紀』所引書の変格漢文――「百済三書」を中心に」……… 馬 駿(中国・対外経済貿易大学教授)
    *コメンテーター:鄭在永(韓国・韓国技術教育大学校教授)
6.「『日本書紀』の特殊な言語現象探源」………………………… 董志翹(中国・南京師範大学教授)
    *コメンテーター:鄭在永(韓国・韓国技術教育大学校教授)

以上です。

 仏教学である私の発表は、唐の石皷寺の僧侶と伝えられてきた智雲の著作は、中止形の「之」を使ったりするなど、古代韓国・古代日本の変格漢文の用法が見られるため、智雲は新羅僧だろうと推測したものです。智雲は、唐代天台宗の再興の祖とされる湛然(711-782)の弟子らしいため、8世紀終わりか9世紀初め頃の新羅僧ということになります。新羅の場合、初期の天台宗の資料は少ないため、仏教史の面でも語法の面でも注目すべき資料の発見となりました。

 中国文学の金文京さんの発表は、平仄の面から「古事記序」と「懷風藻序」を比較したものであって、『古事記』序の著者問題に新たな視点を加える発表でした。意外かつ有益な指摘が多く、漢文である古代の資料を読むには、漢文学の知識が必須であることを痛感させられたことでした。

 国語学の瀬間さんの発表は、昨年の崔{金公}植さんの発表を承け、『古事記』の接続詞「尓」の来源について検討したものです。「尓」の字体の違いによる意味や用法の違いが検討され、新羅の金石文との綿密な対比がなされました。一つの活字本だけに頼っておこなう議論の危うさがよく分かりました。また、鄭在永さんが今回、韓国から来日する飛行機の中で読んだ新聞で知ったという、発見されたばかりの新羅の金石文の紹介もされており、情報が早いと皆が感心したことでした。

 古代日本の変格漢文の専門家である馬 駿さんの発表は、『日本書紀』中の基礎資料としてきわめて重要な百済三書を検討し、正格漢文、変格漢文、仏格漢文(仏教漢文)の三つに分けて語法を検討したものです。百済三書は、意外にも仏教漢文の用法が多いなど、興味深い指摘がたくさんありました。これについては、仏教漢文に取り入れられた口語の問題も考慮すべきだなとする意見も出されました。ともかく、百済三書を、こうした視点から細かく検討したのは初めてでしょう。

 円仁の在唐日記における倭習の研究で知られ、唐代俗語研究の大家である董志翹さんは、古代朝鮮特有の表現として知られている「~月中」といった言い方は、漢代の中国にはかなり見られることを指摘しました。また、「噵」についても、中国の早い例を示し、「これこれは古代新羅特有の変格語法」などと簡単に決めつけられないことを明らかにされました。
 
 コメンテーターのうち、日本の仏教学・仏教史学の成果を考慮しつつ、古代から現代までの幅広い韓国仏教史研究をされ、新羅僧の変格漢文に関する論文もある崔植さんは、通訳も兼ね、有益なコメントをされていました。

 日本の訓点語学会に当たる韓国の口訣学会会長である鄭在永さんは、変格漢文の語法に関して実に豊富な知識を有しており、次から次へと用例をあげつつ、コメントをされていました。

 プロジェクトのメンバーである森博達さんが用事で出席できなかったのは残念でしたが、日本語、韓国語、中国語を駆使して時には通訳も担当してくださった金文京さんを筆頭に、会議場では諸国語が飛び交い、非常に熱心な討議がなされました。

 『日本書紀』を理解するには、こうした語法などの面に注意を払い、最新の金石文研究の成果を含め、百済・新羅、また中国の用例を考慮しながら読み進めていかねばならないことを痛感させられた密度の濃い7時間半のワークショップでした。