聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

倭国の群臣会議と比較すべき古代韓国における合議制の展開:倉本一宏「朝鮮三国における権力集中」

2022年02月10日 | 論文・研究書紹介
 古代の日本について語るには、同時代や少し前の時代の韓国や中国の状況と比較する必要があります。

 「憲法十七条」の「和」の背景となる群臣の合議については、少し前に新羅の「和白」にも触れた鈴木明子氏の合議制論文を紹介しましたが(こちら)、古代韓国三国における合議制と王への権力集中の過程を論じたのが、

倉本一宏『日本古代国家成立の政権構造』「第二章 朝鮮三国における権力集中」
(吉川弘文館、1997年)

です。

 倉本氏は、まず次のような石母田正氏の類型説(1971年)を提示します。

 ・国王自身に支配階級の権力が集中される百済類型
 ・宰臣が国政を集中的に独占し、国王は名目的な地位にとどまる高句麗類型
 ・支配階級の権力が王位に就く資格のある王族の一人に集中され、王位には女性が即き国権をもたない政治的首長の役割を果たし、これらとは別に貴族の首長の評議によって国家の大事を決定する機関を持つという新羅類型

 倉本氏は、この分類を評価しつつも、これはあくまでも七世紀中葉のある時期の一側面を述べたものであり、これが長い伝統ではなかったことに注意します。そして、どの国でも軍国体制であって、権力集中はいつの時代も課題となっていたとして、

 A 貴族合議体の成立
 B 合議体主催者の成立
 C 国王近侍官の成立
 D 合議体構成員による国政諸部門の分掌
 E 官司制の成立と合議体の地位の低下

という発展経過を想定し、ABCについて論じてゆきます。

 まず、高句麗については、3世紀に自立的な貴族である対盧によって国政を議する合議体が成立、4世紀以降、対盧の上位にあって国政をつかさどる大対盧が成立、6世紀前半までに国王に近侍して機密をつかさどる国王直属官僚群として中裏制が成立したとし、大対盧は「大臣」と称され、対盧は「臣」と称されて浮いた可能性があるとします。

 百済については、6世紀以前に、それ以前の官位の上に佐平という官位が置かれ、6世紀前半に佐平が身分呼称化して合議体を構成、その一部は合議体を統括する上(大)・中・下の三佐平となり、官司を統括さうる六佐平(そのうちに内臣佐平は国王近侍官)に就いた、と見ます。

 そして、新羅については、『隋書』に「其有大事、則聚群官而定之」、『新唐書』に「事必与衆議、号和白。一人異則罷」とあって、和白と称される合議体が全会一致を原則として国事を議したことがわかるとします。

 その和白の構成員は、大等という貴族階層であり、ある時期になって大等の上に和白会議を主催・統括する上大等が設置されたとし、複数の大等に一定の職掌を担当させ、中代以降にその上部に長官(令)を置き、官司を成立させたとし、『日本書紀』では新羅は大臣を「上臣」と称するとしていることを指摘します。

 倉本氏は、古代朝鮮諸国でこうした政治体制が確立していく時期、中国の魏晋南朝では皇帝と宰相以下の貴族が国事を担当する貴族制がおこなわれいたため、これが「観念的な政治理念として」朝鮮、特に百済に伝えられた可能性は十分にあると述べ、この章をしめくくっています。

 読めば明らかなように、倭国の状況との類似が目につきますね。実際、倉本氏は、この前の第一章で倭国の合議制を論じた際、朝鮮諸国の影響に触れています。

 この第二章は、1990年に発表した論文に基づいたものです。30年も前にこうした論文が出されていたのであって、石母田氏の論文とともに、その国際的な視野の広さと先見性に感心させられます。こうした研究をせずに古代の日本の特色を論じることはできないでしょう。

 ただ、この時期の論文としては無理ないことながら、古代朝鮮の状況に関する韓国の研究者の研究については、日本語訳が出ているかなり前の論文を用いています。近年の韓国では、日本留学組や中国留学組を含め、若い研究者たちによってアジア諸国での最新の研究状況を踏まえた研究が急激に進みました。私も少し前に科研費で変格漢文の国際共同研究をやった際は、韓国・中国・日本の研究者に参加していただいています。その際にも痛感したのですが、今後は国際的な共同研究がいよいよ重要になることでしょう。
この記事についてブログを書く
« 『日本書紀』β群の筆者は日本... | トップ | 太子虚構説に全面賛成も全否... »

論文・研究書紹介」カテゴリの最新記事