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三経義疏中国撰述説は終わり

2010年05月30日 | 三経義疏

 藤枝晃先生は、1975年に刊行された『聖徳太子集』(日本思想大系2、岩波書店)中の『勝鬘経義疏』の解説で、敦煌文書中の写本との類似を強調し、『勝鬘経義疏』は、手本となった中国の注釈書の「できのよくない」節略本、「凡庸な注釈書」であって、遣隋使が持ち帰ったものだと主張されました。このため、仏教学の方面では大論争が巻き起こり、現在も決着がついていません。藤枝先生は、以後も講義録である『敦煌学とその周辺』(ブレーンセンター、1999年)などで、同じ主張を展開されたせいか、日本史学の方面では、藤枝説を支持する研究者が多いようです。

 藤枝先生は敦煌写本研究の権威であって、私も敦煌出土の地論宗写本を研究した際には先生の研究を利用させていただき、大変感謝していますが、三経義疏が中国製だというのは誤りです。というのは、いわゆる倭習(和習)が多く、中国人なら書くはずがない表現がたくさん有るからです。

 この点については、早くから花山信勝先生が主張されていましたが、花山先生は強烈な聖徳太子礼讃者であったうえ、倭習としてあげた例が少なく、論証が十分でなかったため、倭習説の部分については仏教学界内部でもそれほど評価されていません。そこで、私は、近藤泰弘氏や師茂樹氏など漢字文献情報処理研究会の仲間と一緒に開発したNGSMというコンピュータ処理の方法を使って分析したところ、三経義疏は同じ語法、それも三経義疏にしか見られない語法を多く用いている非常に似通った注釈群であり、倭習がきわめて多いことが明らかになりました。(三経義疏の共通性については、花山信勝・金治勇などの研究者がすぐれた研究をしていますが、表現が共通していることを指摘することが主でした。ある表現が他の文献にはまったく出てこないことが言えるようになったのは、筆者も最初期から関わってきた大蔵経電子化のおかげです)

  これについては、2008年の日本印度学仏教学会の学術大会で発表しました。大会では、A4で10数枚にわたる用例の資料を配付したのですが、同年12月に刊行された拙論「三経義疏の語法」では、紙数の関係でごく一部を紹介するにとどまりました。以後も、用例は増え続けているため、二回に分けて所属先の論集と紀要に発表する予定です。ここでは、その代表的な例をご紹介します。

  まず、三経義疏の冒頭部分のうち、「経」というのは不変なものだと説明した箇所を見てください。

『勝鬘経義疏』
「経者、訓法訓常。聖人之教、雖復時移易俗、不能改其是非。故云常。」

『法華義疏』
「経義者、訓法訓常。聖人之教、雖復時移改俗、前主後賢不能改其是非。故称常。」

『維摩経義疏』
「経者、訓法訓常。聖人之教、雖復時移易俗、先聖後賢不能改其是非。故称常。」

 一見して分かるように、非常に似ていますね。このうち、「雖復時移易俗(また時移り俗を易[か]へると雖も)」という表現と、「不能改其是非(其の是非を改むるあたはず)」という表現は、現存する中国・朝鮮の文献には見えず、三経義疏に出るだけです。似たような言い方はもちろん中国古典にあり、中国仏教文献も用いているのですが、上記の表現が三経義疏だけとなった理由は、簡単です。 「時代が移り、風俗が変わっても」と言いたいなら、「時移俗易(時移り、俗易はる)」とすべきですし、「(王たちがそれぞれの)時代の風俗をかえても」という文にしたいなら、「移風易俗(風を移し、俗を易へる)」などとすべきなのに、この二つを合わせて「時代が移り、風俗を変えても」という文にしてしまっているからです。

 実際、中国の代表的な『維摩経』注釈であって『維摩経義疏』もしばしば引用している『注維摩』では、「時移俗易」となっていますし、天台大師の『摩訶止観』その他、中国の複数の文献では、「移風易俗」となっています。つまり、そうした二つの言い方を中途半端に合わせてしまったため、三経義疏独自の表現となってしまったということです。中国の知識人は、このようなバランスの悪い文章は書きません。 三経義疏は、梁代の成実師たちが書いた種本と数少ない参考文献を要約しつつ自分の解釈を加えていったものであり、その際、漢文としてはおかしい表現が混じってしまっているのです。

  三経義疏では、こうした例はいくらでもあります。藤枝先生は、敦煌写本研究を一つの学問分野として確立された大学者でしたが、写本や版本に関する書誌学の専門家であって仏教学者ではなく、また漢文の語法の研究者でもありませんでしたので、こうした点を見逃してきたのです。三経義疏中国撰述説は終わりです。ただ、これは、三経義疏は中国人が書いたものではない、ということを示すだけであって、それ以上でもそれ以下でもありません。三経義疏は朝鮮成立なのか、朝鮮渡来僧が日本で書いたのか、聖徳太子がそれに少しだけ自分の意見を加えたのか、聖徳太子が自分で書いたのか、別な日本人(たち)が書いたのか、といった問題は、また別な話です。

 なお、付け加えておきますが、三経義疏はかなり特殊な注釈です。七割方は種本の要約であり、中国第一流の注釈に比べれば、素朴で素人くさいものですが、儒教的な立場から独自な解釈がされている箇所が少々あり、単なる要約ではありません。また、種本を抄出しつつ注釈を書いていくのは、中国も同様であり、三論宗の確立者である吉蔵の注釈にも、半分くらいは種本そのままという著作が見られます。

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