聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

聖徳太子虚構論の最新論文 : 吉田一彦「仏教の伝来と流通」

2010年08月30日 | 論文・研究書紹介
 現在、逐次刊行中である『新アジア仏教史』のうち、日本編の最初の巻が本日、出版されました。大手の書店などには、数日前から置かれていたようですが……。その第1章が、大山氏とともに聖徳太子虚構論を推進してきた吉田一彦さんの仏教伝来論、聖徳太子論です。

吉田一彦「仏教の伝来と流通」(末木文美士編『新アジア仏教史11 日本仏教の礎 日本I』第1章、佼成出版社、2010年8月)

 この論文では、神仏習合に関する独自の見方が示され、最近における百済の仏教文物の発掘成果も簡単に紹介されているほか、7世紀後半における地域社会での民衆仏教の存在が指摘されるなど、伝統的な仏教史とは異なる視点が提示されています。全体の立場はこれまでの聖徳太子虚構説ですが、道慈述作説に対する森博達さんの批判など、虚構説に反対する立場の主張も紹介されていることが注目されます。

 私は、この『新アジア仏教史』全体の編集委員の一人ですので、立場上、個々の論文については論評しにくいのですが(この第11巻では、末尾に「恋と仏教」というコラムを書いています)、日本編は末木文美士さんの「編集」、松尾剛次・佐藤弘夫・林淳・大久保良順の諸氏の「編集協力」によって組まれているうえ、各章の具体的な内容は執筆者に任されていますので、勘弁していただき、虚構説に関する部分を中心に紹介してコメントを付させてもらいます。

 吉田さんは、最初の節の末尾で、「自分は日本史研究者であり、日本史という分野の中で仏教史研究に取組んできた。しかし、研究すればするほど、仏教史が日本史という枠組みでは理解しきれないことを痛感するようになった」(18-9頁)と述懐しています。これまでの虚構説では、日本国内の政治状況や中国の文献を主な材料として検討しており、日本に仏教を伝えた朝鮮の寺院や仏教についてはあまり注意してこなかったので、そうした傾向が変わったことは喜ばしいことです。

 吉田論文では、『日本書紀』の仏教伝来記事が、仏教流通に関する中国の仏教史書の記述に基づき、一定の構想のもとで書かれていることを詳しく述べ、日本における仏教受容の中心であった蘇我馬子については、「君主であった」とする大山説を視野に入れて再考すべきであるとしています。

 『日本書紀』の記述が中国の史書の表現を用いているのは事実ですが、問題は、記述そのものもそれらに基づく創作なのか、記述の仕方や個々の表現上での利用なのかという点ですね。あと、馬子君主説については、考古学の成果とどれだけ一致するかが決め手となるでしょう。

 私は蘇我馬子については、孝武帝を擁立して後に殺害し、帝位につかないまま「万機を摂」して西魏の実権を握った鮮卑族の丞相、宇文泰に似た面があると考えています。宇文泰は、「憲法十七条」の種本とも言われる「六条詔書」を作成させ、強引な中国化政策を推し進め、学僧たちと共に大乗仏教を研究し、一時期、帝号を用いずに「天王」と称した北周や南北を統一した隋の基礎となった制度を準備したやり手です。
 
 吉田論文では、津田左右吉の「憲法十七条」偽作説については、「七世紀末から八世紀初頭の律令制定や国史編纂の時代」の創作と考えるべきだとした、と紹介しています。また、「厩戸王[うまやとのみこ]」と呼んで信仰上の聖徳太子と明確に区別すべきだとした小倉豊文の説を紹介し、小倉は『日本書紀』では太子は馬子と共同で政務を見ている以上、「万機を総摂」した「摂政」とみなすことはできないと主張したことも紹介しています。

 さらに、道慈述作説について述べた部分では、森博達さんの『日本書紀』区分論が紹介され、倭習が目立つ「憲法十七条」については中国に長年留学した道慈の作ではないとする森さんの批判も紹介されています。この点、および津田説・小倉説の具体的な紹介という点は、大山氏と大きく違う点です。

 その森説に対して、吉田論文では、道慈は中国に長年留学したとはいえ、日本生まれの日本人である以上、「倭習」がないかどうかは検討する必要があるとし、次のように述べられています。

 正格漢文と変則漢文とが混在するその語法から見ても、一人の述作者によってではなく、複数の述作者によって作成されている可能性が高い。……私は、道慈は憲法十七条の述作に関与していると推定しているが、『日本書紀』の聖徳太子関係記事の述作者については、今後、『日本書紀』全体の構造を解析し、また連関する史料を正しく位置づけて、なお考究していかなければならないだろう。(67頁)

 倭習の問題については、このブログでも前に書きましたが、この点について考えるうえで見逃せないのは、吉田さん自身が仏教伝来記事と神功皇后紀について、「西蕃」「歓喜踊躍」「社稷」「三韓」「群臣」などの用語が共通していると指摘していることでしょう。吉田さんは、神功皇后譚は創作史話であるため、仏教伝来記事も創作であって、その「仏教伝来記事のみならず、仏教伝来にはじまる一連の述作が道慈によるものだと推定している」(40-1頁)と述べています。しかし、神功皇后紀に関する吉田さんのこの指摘はきわめて重要であるだけに、道慈述作説にとってはかえって苦しい材料となります。

 私自身は、聖徳太子関連記述と仁徳天皇紀ほかの倭習を含む語法の類似を指摘しましたが、吉田説に従うと、道慈は聖徳太子関連記述を含む仏教関連記述だけでなく、神功皇后紀や仁徳天皇紀その他にも関わったことになるからです。そうした作業は、『日本書紀』全体の構想の見直しにつながりますし、表記の統一や清書などの期間を考えると、道慈は異様に短い時間のうちに重要かつ膨大な見直しをなしとげたことになります。

 しかし、前回、紹介した平林章仁「天皇の大寺考」では、道慈が帰国した718年については、『日本書紀』の「実質的な編纂作業も一段落し、……あとは別巻で作成されつつある系図と本文の整合作業や錯簡の訂正、さらなる加飾など若干の推敲作業が残される情況に至ったものと思われる」(126頁)という見方が示されていました。実質一年程度のうちに、『日本書紀』の構想の全面的な見直しと書き直しができたのか。

 また、道慈の文章については、中国仏教の文章を過剰なまでに切り貼りし、対句を多用した美文に仕立てるという特徴があることは、小島憲之とほかならぬ吉田さん自身が解明したことです。しかし、そうした道慈の文章と『日本書紀』の仏教関連の記述は、まったく文体が異なります。つまり、吉田さんは、いくつもの重要な解明をしているものの、そうした成果は、実は道慈述作説にとってはかえって不利な材料となっているように思われるのです。

 次に、三経義疏については、吉田論文では藤枝先生の中国撰述説が紹介されたのち、倭習を根拠とした石井の中国撰述否定論が紹介され、それが事実なら、三経義疏は『日本書紀』成立と重なる時期に日本で成立したのか、朝鮮半島やそれ以外の地で「非漢人」によって書かれたかなどの問題が生じるため、「今後、さらに考究していかなければならない」(71頁)とあります。

 この点に関して重要なのは、『勝鬘経義疏』と「憲法十七条」はともに倭習が見られるものの、文体が違うことですね。『日本書紀』の各部分の著者の問題、三経義疏の著者と思想の問題については、今後、さらに踏み込んだ検討が必要でしょう。

 「むすび」では、次のように述べています。

 『日本書紀』から一度離れ、それとは少しく異なる、新しい歴史像の構築を試みようとした。それに際して、また、考古学の研究成果を重視して、最初期の寺院の遺構、遺物を検証し、朝鮮半島の寺院の遺構、遺物と比較対照しながら、その特質について考察した。これらを通じて、ユーラシア大陸東部における仏教の歴史的展開という視角から、日本の仏教伝来の実相を考え、その特質について検討してみた。(81-2頁)

 この「仏教の伝来と流通」の章では、この通りの検討がなされており、最近の研究状況と吉田さん流の新しい視点による受容期の仏教のあり方がまとめられている点で、今後の議論のための整理が手際よくなされていると評価できるでしょう。

 「ユーラシア大陸東部」とありましたので、最後に、もう少し広い見方もあり得ることを指摘しておきます。それは東南アジア諸国の仏教です。カンボジアの前身となる地域では、ヒンドゥー教の神々の祭祀によって国王を権威づけていましたが、仏教信仰の国王が登場すると、その国王は密教的な観音を尊重して大きな像を作らせ、観音との同一化をはかった形跡があります。インド文化に基づくベトナム中部のチャム族系連合国家であるチャンパでも情況は同じで、仏教信者の国王となると、観音と同一視され、密教的な観音像が作られています。聖徳太子については、直接の影響関係は無いとはいえ、太子を救世観音とする信仰については、こうした大きな流れも考慮して考えていく必要があるでしょう。東南アジア諸国は、梁の武帝を「菩薩」と讃えつつ朝貢の形で貿易を行なうとともに、インドからの僧や自国の僧侶を数多く中国に送り込んでおり、仏教文化圏を形作っていました。仏教史は面白いですね。

正宮と寺の対関係、そして道慈述作説の批判: 平林章仁「天皇の大寺考」

2010年08月28日 | 論文・研究書紹介
 前回、法興寺と推古天皇の宮の関係に触れましたので、寺と天皇の宮の問題を真正面から扱った論文を紹介しておきます。

平林章仁「天皇の大寺考」
(松倉文比古編『日本古代の宗教と伝承』、勉誠出版、2009年3月)

です。

 同論文では、この問題を論じるにあたり、『日本書紀』の仏教関連記述は何らかの事実に基づいたうえで文飾されているのか、まったくの捏造なのか、そして、捏造されたとしたら道慈によるものなのか、の検討から始めています。

 そして、皆川完一氏や勝浦令子氏の研究を参照しつつ、当時の叙位の記事などを検討したうえで、道慈が帰国した718年について、「この頃には『日本書紀』の実質的な編纂事業がほぼ終了していたので、この年に養老律令の撰修に着手したと考えられる」(126頁)と述べ、道慈の関与は疑わしいとしています。

 一方、天皇の仏教拒否という点については、御歳神の信仰と祭儀が海外かもたらされたこと、今木神とともに祭られた渡来系の竈神である久度神の祭祀(平野祭)などが示すように、外国の神信仰と祭儀を国家が受け入れている例もある以上、外国の神だからというだけの理由で倭国王が仏教を拒否するとは考えにくいとし、輝かしい仏像への礼拝などを初めとする仏教の異質性に着目すべきだとします。これは、渡来神を含む神が宮中で祭られていることについて考えるうえでも、重要な指摘ですね。

 天皇と仏教の関係については、百済大宮と百済大寺を同時に造営した舒明天皇の役割を重視し、

 百済大寺・高市大寺・大官大寺・大安寺は倭国王(天皇)家の大寺として法灯を継承する寺院であり、常に倭国王(天皇)の正宮と対で存在・移動したことは重くみなければならない。(144頁)

と述べます。そして、大宮と官寺の関係について検討していますが、吉備池廃寺を百済大寺跡とする説については疑って様々な可能性を探り、皇極天皇の造営した大寺である可能性を示唆しつつ、別の可能性もあるとします。

 舒明天皇が大宮と寺を対の形で造営したことについて、「これは多分に、廏戸皇子の斑鳩宮・斑鳩寺のあり方を意識してのことであったに違いない」(134頁)と述べ、『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』が、田村皇子(舒明天皇)が病気の厩戸皇子を見舞った際、厩戸皇子から熊凝村の道場を付与され云々と記し、これが百済大寺となったとしているのは、まったくの虚構ではなかったかもしれない、としています。

 大安寺の伝承は多分に潤色されたものであるにしても、厩戸皇子が斑鳩宮と斑鳩寺を同時に造営したことは事実と認められているのですから、舒明天皇が厩戸皇子の事業の一部を何らかの形で受け継いでいても不思議はありません。

 「おわりに」では、藤原鎌足の病気平癒を願って建てられた山階寺が、遷都のたびに移動して高市の厩坂寺となり、平城京の興福寺となったことを指摘し、古代寺院の遷移は倭国王家の大寺に限らないことに注意し、地域共同体や氏族集団に奉斎された神(神社)は、分祀や勧請はあっても基本的には本来の地を動かないことと対比しています。

 欽明ほかの天皇の仏教に対する態度などに関する推測については、三橋正さんの説を含め、いろいろな角度から考え直してみる余地はあると思いますが、上記のように様々な問題が互いに関わる形で論じられており、多くの検討すべき問題を明らかにしている論考と思われました。

飛鳥を発掘する第一線研究者たちの報告 : 『蘇我三代と二つの飛鳥』

2010年08月26日 | 論文・研究書紹介
 石舞台の西側で蘇我馬子の邸宅とされる島庄遺跡が発掘され、また甘樫丘で蝦夷・入鹿の邸宅跡とされるものが発掘されたという報道は、まだ記憶に新しいですね。ただ、そうした発掘作業に関わった人たちは、その時代頃と思われる邸宅跡とするにとどまっており、馬子の邸宅を発見したなどとは「一言も言っていません」とのことです。そうした第一線の研究者たちの講演を補訂したものが、昨年、出版されました。

西川寿勝・相原嘉之・西光慎治『蘇我三代と二つの飛鳥--近つ飛鳥と遠つ飛鳥--』(新泉社、2009年6月、2300円)

です。構成は以下の通りです。

 はじめに
 第1章 近つ飛鳥の古墳と寺院(西川)
  コラム1 飛鳥時代の寺院の諸問題(鹿野塁)
 第2章 蘇我三代の遺跡を掘る--邸宅・古墳・寺院--(相原嘉之)
  コラム2 世界遺産暫定登録資産と飛鳥文化(相原)
 第3章 飛鳥、四つの皇統譜--梅山古墳、カナヅカ古墳、鬼ノ俎・雪隠古墳、野口王墓古墳--(西光慎治)
  コラム3 飛鳥時代の史学と考古学(山中鹿次)
 対談 蘇我氏の邸宅・墳墓について--追検証 (西川寿勝・相原嘉之)
  コラム4 高松塚古墳の解体修理(西川寿勝)
 あとがき

 その「はしがき」において、西川氏は、

 報告書や博物館などで示される調査成果の結論より、もっとたいせつなことは、論証の過程だと思います。……考古学の成果が古代の史料に整合する、といった重要な論証は一朝一夕には確定しません。(4頁)

と述べていますが、これは重要な指摘です。このことは、古代の文献史料を研究する側にとっても同様でしょう。

 西川氏らのこの本は、市民向けの講演を再構成したものを柱としており、一般向けの読みやすい作りになっていますが、発掘現場ならでは情報が豊富に盛り込まれているほか、写真や地図、石室の構造図なども多く、きわめて有益な本です。

 興味深い箇所はいくつもありますが、面白かったのは、相原氏が、

 都が先にできて飛鳥時代がはじまるのではなく、飛鳥寺が先にできて、すべてがはじまるのです。……象徴的に飛鳥寺がつくられ、天皇がよび寄せられるという図式です。そして、都が整備されていったということです。
(207頁)

と述べていることでしょうか。宮と寺の並置が新しい時代の都の特徴となるわけですが、宮より寺が先行したというのは摸索期なればこそです。当時における仏教の重要性、それも政治面での重要性が分かりますね。

 相原氏は、これに続けて、蘇我氏がこの地を都に選んだ理由について、「東漢氏など、渡来系の人びとが数多くこの地にいたから」だとしています。「それを支配下にした蘇我氏がこの地を本拠地にしたという図式だと思います」というのが、氏の推測です。

 ただ、そうなると、「飛鳥寺がなぜ、現在知られているところに創建されたのかは、まったく説明できません。……実際は、飛鳥寺から離れた、寺とは関係ない地に稲目や馬子は住んでいたのです」(29頁)という西川氏の指摘をどう考えるか。豊浦宮跡や小墾田宮跡を初めとする発掘調査が進むことを願うばかりです。

光明皇后捏造説の前提となる「聖徳尊霊」の解釈の誤り(2)

2010年08月24日 | 大山誠一「聖徳太子虚構説」への批判
 大山氏の長屋王道教傾倒説の根拠、また光明皇后による聖徳太子関連文物捏造説の背景の一つは、『神亀経』と称される長屋王の願文に対する新川登亀男さんの解釈でしたが、その解釈を誤りとする最近の研究については、先に紹介した通りです。

  このたび、その願文の注釈が「上代文献を読む会」によってなされましたので、紹介しておきます。



上代文献を読む会「上代写経識語注釈(その二) 大般若経巻二百六十七」
(『続日本紀研究』第386号、2010年6月)



です。

 有意義な試みであり、情報豊かで勉強になりましたが、仏教用語の説明には、仏教辞典の説明をそのまま紹介したもの、それもズレた用法を示したものなども見られます。また、願文の定型句である「無願不~(願として~ざる無し=願えば実現しない誓願はない)」の句を「願をおこすことなく~」などと正反対の意味にとっているなど、訓読も間違いがいくつか目につきました。

 新川さんが道教との関連で理解しようとしていた「百霊」の語の解釈についても、上の注釈では大山氏の説明が紹介され、そちらに引きずられた面もあるのか明確でない書き方になってます。ただ、この「上代文献を読む会」のメンバーである「稲城正己氏による批判」が紹介されており、その論文はいろいろな面で有益なものです。

稲城正己「8~9世紀の経典書写と転輪聖王観」
((財)元興寺文化財研究所・元興寺文化財研究所民俗文化保存会編『元興寺文化財研究所創立40周年記念論文集』、クバプロ、2007年)



です。

  稲城氏は、「百霊」に関する国内の関連表現の用例をいろいろ紹介した後、「百霊」の語は仏教の護法神などの意に解釈すべきであるとし、


長屋王願経には道教的な言葉が散りばめられているにしても、長屋王が構築しようとした世界は、けっして道教的な世界ではない。長屋王願経から見えてくるのは、大宝律令制定直後、儒教に基づく礼的秩序の構築に邁進していた長屋王は、その一方で、当時の中華帝国でさかんであった仏教をも組み込んだ秩序の構築を目指していたということである。(121頁)

と述べています。これによれば、不比等は儒教、長屋王は道教、道慈は仏教、といった役割分担を説く大山説は、割り切りすぎであり、特に長屋王道教傾倒説は根拠が弱い、ということになります。その点は、私も賛成です。

 当時は、儒教は基本教養、仏教は誰もが頼る国教のような存在、神仙思想や老荘思想は早くから流行っていたうえ、道教的な表現も時代の流行として主に仏教文献に取り込まれた形で中国から伝わってきて歓迎されていたのであって、人によってそれぞれ程度は違っているものの、いずれにも関わっていたと見るのが自然でしょう。

  ただ、この稲城論文では、「上代文献を読む会」の注釈と同様、「無願不~」を「願を立てていない」という方向で解釈したり、「百霊」の用例の一つとして観音の変幻自在な変身を意味すると説くなど、仏教関連用語の解釈の誤りが目立つのが惜しまれます。

「上代文献を読む会」の注釈は、この稲城論文に基づいた点が多いようですね。

 なお、「無願不~」の語法に関連するものとして、『日本書紀』の守屋合戦の場面に見える「非願難成(願に非ずは成し難けむ)」という厩戸御子の言葉があるので、触れておきます。これについて、森博達さんの「聖徳太子聖徳太子伝説と用明・崇峻紀の成立過程--日本書紀劄記・その一--」(『東アジアの古代文化』122号、2005年2月)では、「非願不成(願に非ずば成らず)」という対応が正格であり、「「非~難~」は倭習と疑われる」(68頁下)と書いておられます。

 しかし、『無畏三蔵禅要』「梵漢殊隔、非訳難通(梵語と漢語は全く異なっているため、訳を用いなければ通じさせることは難しい)」(大正18・946a)とか、『新訳華厳経七処九会頌釈章』「非通難知(神通によらなければ知るのは困難だ)」(大正36・711b)のような中国仏教文献の用例もありますので、倭習というよりは、仏教漢文の語法と見るべきなのでしょう。

大山氏の著作に対する史料批判(1):小倉豊文に対する冷遇

2010年08月21日 | 大山誠一「聖徳太子虚構説」への批判

 『日本書紀』の記述について研究するには、厳密な史料批判が必要であることは、津田左右吉を初めとする近代の歴史学者たちが強調してきたことであり、大山氏自身もその必要性について、しばしば説いています。そこで、その大山氏の著作そのものに対して史料批判を試みてみたところ、いろいろなことが分かってきました。

 「津田左右吉説の歪曲」および「津田左右吉説の歪曲(2)」で見たように、大山氏は、「憲法十七条」を偽作とした津田の主張に関しては、出典を詳しく記しておらず、津田の主張のうち自説に近い箇所、それもおそらくは孫引きで目にした箇所にだけ着目し、それを自説に都合良く解釈したうえで聖徳太子架空人物説の裏付けとしていました。

 出典を正しく記載せず、先学の説をきちんと紹介しない点は、実は、津田に続いて聖徳太子の様々な事蹟を疑った小倉豊文の説に対しても同様でした。つまり、大山氏は、早くから批判的な聖徳太子研究を進めていた津田左右吉と小倉豊文、すなわち、聖徳太子架空人物説論者たる大山氏が最も尊重すべき二人の先学に関して、そうした扱いをしていたのです。

 たとえば、大山「聖徳太子関係史料の再検討(二)」(梅原・黒岩・上田他『実像と幻像』、大和書房、2002年)の冒頭では、自著の『<聖徳太子>の誕生』に触れたのち、聖徳太子非実在説について、

 先の拙著の「あとがき」でも述べておいたように、これは私の説ではなく、久米邦武より始まる近代史学の展開の中で、津田左右吉・福山敏男・小倉豊文・藤枝晃を始めとする研究者たちが築いてきた成果を、ただまとめて結論を明確に示しただけだからである。(376-7頁)

と述べていますが、これは事実と異なります。

 『<聖徳太子>の誕生』(吉川弘文館、1999年)の「あとがき」で名をあげてその説が簡単に紹介されている近代の学者は、久米邦武、津田左右吉、福山敏男、藤枝晃のみです。小倉豊文は、まったく言及されていません。この本に限らず、聖徳太子の生前の名は「厩戸王」であったろうと最初に推測した小倉は、聖徳太子は架空の存在であって実在したのは「廏戸王」だと断言する大山氏の著作にあっては、初めから冷遇されていました。

 聖徳太子架空人物説の出発点となった大山氏の最初の論文、「「聖徳太子」研究の再検討(上)」(『弘前大学国史研究』100号、1996年3月)の冒頭では、「最近において、田村圓澄氏は、廏戸王という実在の人物と、信仰の対象となった聖徳太子を区別し、次のような理解を示された(2)」(4頁)として田村氏の説を評価して紹介しており、末尾の註(2)では、出典として、田村円澄『飛鳥・白鳳仏教史 上・下』(吉川弘文館、一九九四年)をあげています。そして、上の文の少し後で、

 小倉豊文氏の先駆的業績を始め(3)、これまでも廏戸王と聖徳太子を区別してこなかったわけではないが、これほど明確に論じられたことはなかったのではなかろうか。(5頁)

と述べます。「先駆的業績」と称しているものの、実際には小倉の提唱した「厩戸王」という称呼を論証なしで用いた田村説の方を高く評価しているのです。そして、天武朝に「日本の釈迦」としての聖徳太子という信仰が成立したとする田村説に批判を加えた後、次のように説いています。

 小倉豊文氏以来(5)、漠然と天武朝を聖徳太子信仰の画期とする見解が少なくないが、実は天武朝に聖徳太子信仰が成立したという証拠は皆無なのである。(5頁)

 小倉説批判です。同論文において、小倉説に言及しているのは、これがすべてです。同論文を一部修正して収録した大山『長屋王家木簡と金石文』(吉川弘文館、1998年)でも、これらの部分は同じです。「小倉豊文氏以来(5)、漠然と天武朝を聖徳太子信仰の画期とする見解が少なくない」と評していますが、註(5)で参照されている小倉の『聖徳太子と聖徳太子信仰』(綜芸舎、1963年)では、聖徳太子が執政したという『日本書紀』の記事について、

 天武天皇の朝は周知のごとく日本書紀の編纂がはじまった時であります。また後述するように聖徳太子信仰の盛んになり始めた頃であります。とすると、日本書紀の編者たちが、現実に草壁皇子が皇太子として万記を摂せよとの詔を受けたのを見ており……(30~31頁)

と説いているものの、これはあくまでも太子執政の記述に関する考察であり、聖徳太子信仰の発生時期については、

 実証的には明らかに致し難く、前述の憶説が当たらずとするも、天武朝前後頃のいわゆる白鳳時代から聖徳太子信仰が興ったことは、ほぼ疑いないでありましょう。(60頁)

と述べているだけです。天武朝が「画期」などとは言っていません。また、大山氏は「漠然と……」という表現を用いることによって小倉説を批判していますが、聖徳太子信仰の解明に研究者人生をかけ、膨大な資料を収集してきた小倉が、聖徳太子信仰が生まれた時期について「天武朝前後頃のいわゆる白鳳時代から」と述べるのみでそれ以上特定していないのは、「実証的には明らかに致し難」いからです。道慈が帰国した718年から『日本書紀』が完成した720年までの間に「聖徳太子」が誕生した、などと述べれば明確かもしれませんが、直接資料が無いまま推測に推測を重ねてそうした結論を打ち出すのは、「実証的」な研究態度からほど遠いものです。

 これ以後、現在に至るまで、大山氏の著書・論文においては、小倉の個々の説が詳しく紹介されて評価されたり批判されたりした箇所は、全くありません。しかも、小倉説に言及したこの論文では、小倉の説の出典表記に誤りが見られます。その注は、次のようになっています。

 (1) 家永三郎「歴史上の人物としての聖徳太子」(『原典日本仏教の思想 1』岩波書店、一九九一年)
 (2) 田村圓澄『飛鳥・白鳳仏教史 上・下』吉川弘文館、一九九四年。
 (3) 小倉豊文『聖徳太子と聖徳太子信仰』綜芸舎、一九六三年。
 (4) 大山「『野中寺弥勒像』の年代について」(『弘前大学国史研究』第九五号、一九九三年)
 (5) 小倉豊文、註(2)前掲書。

以上です。これが、同論文を修正して収録した『長屋王家木簡と金石文』の註になると、

 (1) 家永三郎「歴史上の人物としての聖徳太子」(『日本思想大系2 聖徳太子集』岩波書店、一九七五年)
 (2) 田村圓澄『飛鳥・白鳳仏教史 上・下』(吉川弘文館、一九九四年)。
 (3) 小倉豊文『聖徳太子と聖徳太子信仰』(綜芸舎、一九六三年)。
 (4) 拙稿「『野中寺弥勒像』の年代について」本書所収)
 (5) 小倉註(2)前掲書。

となっています。家永論文の出典を、再刊時のものから初出時の書名と刊行年に直したほか(これはいろいろな意味で恥ずかしい間違いの訂正です)、論文の註(5)では「小倉豊文、註(2)前掲書」とあったものを、『長屋王家木簡と金石文』では「小倉註(2)前掲書」と修正していますが、論文の註(5)では、(3)とすべき箇所を(2)と誤記しているうえ、表記を修正した『長屋王家木簡と金石文』でもその誤記はそのままになっています。

 つまり、小倉説については具体的に紹介して評価することはなく、触れる場合は名をあげるだけだったり、まれに触れても小倉の主張を歪めたうえで批判するだけだったり、言及していないのに言及したと述べたり、小倉の本を引用する際に註番号を間違えたりしているのです。

 さらに重要なのは、最初の大山論文においては、「廏戸王であるが、歴史的事実として確認できるのは、次の三点であろう」と述べ、第二として「その実名が「ウマヤド(廏戸)であること」を挙げ、生年の干支である「午(うま)」に基づく可能性が高いとしている(6頁)ことです。

 しかし、『聖徳太子と聖徳太子信仰』において「歴史的真実としての聖徳太子と、伝説的信仰上の聖徳太子とは、出来る限り明確に峻別しなければなりません」(1963年版、16頁)と説いた小倉は、「私は「厩戸王」というのが生前の呼称ではなかったかと思いますが」(同、22頁)と述べるにとどめています。「廏戸王」というのは資料には全く見えず、小倉が推定した呼び方であるのに、いつ「実名」として確定し、「歴史的事実」になったんでしょう。

(大山氏は、「ウマヤド」と表記しますが、「ウマヤト」と澄むのが通説であり、また「うま」というのは生年の干支によるという点は、佐伯有清「聖徳太子の実名「厩戸」について」[前掲『聖徳太子の実像と幻像』所収]で批判されています)

 論文で註番号を誤記し、本に収録した際も直っていないのは、単純ミスでしょうが、前に指摘したように、大山氏が津田の主張を紹介する際も、内容を歪めて紹介していたうえ、孫引きくさかったり、出典の表記がなされていなかったり、表記してあっても不十分だったり、論文の註の不備が本になってもそのまま引き継がれていたりしていたことと、妙に似ていますね。そうした人が、『日本書紀』や他の古代文献について厳密な史料批判を行えるのでしょうか。

 大山「聖徳太子関係史料の再検討(一)」(前掲、『聖徳太子の実像と幻像』)では、聖徳太子に関する資料が信頼できないことが広く知られていることについて、

 それは、津田左右吉、福山敏男、小倉豊文、藤枝晃をはじめとする研究者たちの、時には国家権力を敵に回してまで信念を貫いた研究の蓄積そのものといってよいと思う。(343頁)

と述べて評価しているものの、その津田と小倉の説の扱いは、上に述べたような杜撰なものでした。国家主義体制のもとでの聖徳太子礼讃の風潮に流されず、『日本書紀』の史料批判に努めた津田と小倉という尊敬すべき先学の著作を、大山氏がどれほどしっかり読んだのか、本当に敬意をもって著作にあたっているのか、疑わしく思われます。

 特に小倉の場合は、他の人たちと違って説の具体的な内容が紹介されないのですから、小倉がどのような主張をしたのか、大山説とどれほど一致しているのか、読者はまったく分りません。

 小倉の『聖徳太子と聖徳太子信仰』は、一般向けの概説であって細かい論証はされていませんが、本書は膨大な資料と原稿を空襲で焼かれてしまい、被爆もして病気がちとなった小倉が、広島大学退官の記念として、「頭脳労働や執筆を禁じられている現状に於て、口述筆記や旧稿抄録の代筆に手を入れて、寝たり起きたりしながら牛歩遅々としてまとめたもの」(初版「はしがき」)であることを考慮すべきでしょう。

 小倉がいろいろな雑誌に発表してきた個別の論文には、立ち入った議論をしたものもあります。どうして、それらを紹介しないのか。しかも、不比等・長屋王・道慈創造説を除けば、太子の多くの事蹟を疑い、行信の役割を重視した点などで、大山説は小倉説と一致している場合が多いのですから、なおさらのことです。
 
 なお、大山氏とともに太子虚構説・道慈述作説を推進してきた吉田一彦さんの「近代歴史学と聖徳太子研究」(大山誠一編『聖徳太子の真実』、平凡社、2003年)は、わかりやすい研究史になっていて有益であり、小倉についても簡単な説明がなされています。ただ、小倉の著書を紹介するにあたり、

 『聖徳太子と聖徳太子信仰』(私家版、一九六三年、のち『増訂 聖徳太子と聖徳太子信仰』<綜芸舎、一九七二年>として再刊)

と書いている(35頁)のは、適切ではありません。

 確かに、同書は定年退官記念として綜芸舎で印刷して私家版として知友に配布されたものの、学術出版社であるその綜芸舎を創設すると同時に古代研究者としても活躍していて小倉を評価していた藪田嘉一郎の勧めにより、印刷したもののうちの一部は綜芸舎(当時の社主は、嘉一郎の息子の夏雄)から発売しています。

 国会図書館や複数の大学図書館にもその市販版が収蔵されており、また、つい最近まで古本市場でも購入できたのですから、出典として一つだけあげるのであれば、「私家版」とせずに「綜芸舎」とすべきでしょう(大山氏は、この点は正しく表記しています)。吉田さんは、同書の最初の版の「はしがき」と増訂版の「はしがき」を、比較しながらしっかり読むべきでした。


生前の呼び名は「厩戸王」だったろうと説いた誠実な研究者:小倉豊文(1)

2010年08月19日 | 小倉豊文の批判的聖徳太子研究
 津田左右吉に続いて、聖徳太子の事蹟を疑った学者は、小倉豊文(おぐら・とよふみ) (1899-1996) です。

 千葉に生まれ、兵隊になるのが嫌で千葉県師範学校に入った小倉は、以後、広島高等師範学校・広島文理科大学で学び、旧制姫路高校教授、広島文理科大学の助教授等を歴任、戦後には同大学が改組した広島大学文学部及び大学院で教授を務めました。研究の対象は、精神的な悩みを抱えていた際に「世間虚仮、唯仏是真」の語に出会い、心惹かれて調べ始めた聖徳太子と、現代の菩薩と思われた宮沢賢治でした。

 この間、終戦直前の昭和20年6月には、出版が決まっていて原稿用紙3300枚以上あった『聖徳太子信仰の歴史的研究』の原稿、写真集『聖徳太子--像及び絵伝--』の300枚を超えていた原稿すべてが、空襲による火災で焼けてしまったうえ、8月には広島原爆によって妻を亡くし、自らも被爆します。

 津田左右吉の疑義には共感しつつも、その論証の仕方に不満を抱いていた小倉は、戦時中にあっても、時局に便乗して太子礼讃を繰り返していた研究者たちに同調せず、聖徳太子を敬愛しながら種々の伝承について厳密な史料批判を行ない、真実の姿を明らかにしようと努めていました。

 小倉の発表、「聖徳太子の御事蹟御教学に就いて」は、文部省教学局が編纂し、文部大臣の「挨拶」を付して昭和17年12月に刊行された『日本諸学研究報告 第十七篇(歴史学)』に掲載されたものですが、そこでは、「大東亜共栄圏への聖徳太子顕揚の可能性に就て」という項目を設けておりながら、資料が集まらなかったという理由で「ここでは全然省略いたすことにいたしました」(9頁)と述べ、避けています。そして、『旧事大成経』や五憲法など太子に仮託された偽書の多さを指摘したうえで、「かゝる偽書、俗信仰の出現した事実そのものを、思想史的にも社会史的にも相当重要な問題としなければならぬかと思ひます」(12頁)と論じています。偽書や後代の俗信仰であることを明確にしつつも、そうしたものだからこそ重要であって研究すべきだとしているのは、非常に先進的ですね。

 さらに、小倉は、「又性急に太子を常人として過小評価することも、或ひは又非凡人として過大評価することも、何れも慎まなければなりません」(17頁)と言い切っています。これは、当時、太子を超絶的な天才として絶讃していた金子大栄や白井成允や花山信勝その他の学者たちとは全く異なる姿勢です。

 小倉は、太子関連の資料のうち疑問に思われる点について「何か深い思召しがあつての事である」といった「安易な態度で太子讃仰に急ぐが如きは、歴史学の自殺であるばかりでなく、真に太子を顕揚する所以ではないと思ひます」とまで明言します。そして、三経を講讃したとか、隋との外交にあたって対等の文辞を用いたといった事柄について慎重に検証せず、そのまま信じて礼讃ばかりするのであれば、それは「太子の顕揚」ではなく、「我を顕揚する滑稽に堕するもの」だと断言しています(17頁)。津田事件の後で、それも文部省教学局編纂の研究発表集で、よくここまで言えたものです。

 その小倉は、戦後になると、「聖徳太子」(『現代仏教講座』第五巻、角川書店、昭和30年)では、聖徳太子の本名について、「私は厩戸皇子がそれであり、上宮王とも通称されたのではないかと考へてゐるが、それとて確証のある訳ではない」(82頁)と述べています。さらに、広島大学での定年退職を前にした講演を原稿化した「聖徳太子流芳録--「聖徳太子信仰」資料研究中間報告--」(『広島大学文学部紀要』22巻2号、昭和38年3月)になると、

 私は厩戸王なる称呼が彼の生前の名であると思うが、その論証はここでは省略する(拙著「聖徳太子--厩戸王とその時代--」参照)。しかし本論では最も広く通行している聖徳太子なる称呼を用いることにしておく。(1頁)

とあり、「厩戸王」という名が登場しています。天皇という称号が確定する前である以上、「皇子」の語も使えないということで、「厩戸王」としたのでしょう。ただ、その論証を含むとされた「拙著」は、小倉の病気と完全志向のために、改稿を何度も繰り返したのち、ついに出版が断念されました。同年9月に刊行された『聖徳太子と聖徳太子信仰』(綜芸舎)でも、上と似た説明がなされています(22頁)。

 一方、上の本の翌年に中公新書の一冊として刊行され、広く読まれた田村円澄『聖徳太子』では、説明なしで「ともあれ、上宮王・厩戸王と豊聡耳王の名前が、比較的古いと考えられる」(9頁)と言われています。この本は、参考文献で小倉の『聖徳太子と聖徳太子信仰』をあげていますので、小倉の説を参考にしたものと思われます。田村氏は、以後の著作でも、信仰の対象としての聖徳太子と区別するために、歴史的人物としての太子について「厩戸王」の呼称を用いるようになり、これが世間に広まっていきます。

 さらに、大山誠一氏になると、聖徳太子は架空の人物であって、実在したのは「厩戸王」だと断言し、「厩戸王」は「実名」であるとしています。しかし、「厩戸王」という称呼は、『日本書紀』や『法王帝説』を初めとした諸文献には全く見えず、小倉が推測したものです。その小倉は、『日本書紀』などに見える聖徳太子の事蹟の多くについて疑い、摂政というのは事実でなく当時の第一の権力者は馬子であったとし、三経義疏を太子作としたのは行信だろうとするなど、大山説のうちのかなりの部分を既に説いていました。

 しかし、大山氏は、津田左右吉や藤枝晃先生などについては、その主張を詳しく紹介しているものの(津田説については自説に有利なように歪めた形でしたが)、小倉の主張については、個々の説を具体的に紹介してその意義を評価したことが全くないのです。大山氏の一般向けの著書しか読んでいない読者は、大山説が小倉説にかなり一致していることを知らずに終わるでしょう。しかも、大山氏の著作では、津田説の出典の記載が不備であったのと同様、ごく稀に小倉について言及した場合、出典の記載が不備なのです。これについては、改めて書くことにします。

【追記 2010年9月28日】
被爆後、小倉は「後遺症に苦しむようになった」と書きましたが、広島大学定年前に過労で持病の胃と肝臓が悪化し、寝たり起きたりの状況となって頭脳労働や執筆を禁止され、退官後しばらくは療養に努めたものの、被爆の後遺症そのものではなかったため、後遺症の箇所は削除しました。

戦前・戦中に文部省や教学局等が刊行した聖徳太子関係の小冊子(2)

2010年08月17日 | 津田左右吉を攻撃した聖徳太子礼讃者たち
 先の記事(こちら)で、「あと1冊か2冊あったように思うのですが、見あたりません」と書いたところ、1冊出てきました。聖徳太子関連のコーナーではなく、隣部屋の近代国家主義関連コーナーに置いてありました。もう1冊くらい、どこかにあるかもしれません。見つけたのは、

 花山信勝『日本の仏教』(教学局編纂、国体の本義解説叢書、内閣印刷局、昭和17年5月、販売所:内閣印刷局発行課・全国各地官報販売所・全国各地主要書店、定価二十銭)

です。またしても、またしても花山信勝です。「本編は東京帝国大学助教授花山信勝氏に委嘱して執筆を煩はしたものである。 昭和十七年三月 教学局」とあります。三経義疏研究を一生の使命とした花山の著作ですので、当然ながら聖徳太子に関する記述が多く、全体の四分の一ほどを占めてます。この時期の特徴である最上級の敬語を用いて太子の仏教を礼讃しています。

 この本が「国体の本義解説叢書」として刊行されていることを見れば、教学局や文部省がどれほど聖徳太子を日本の「国体」なるものと重ね合わせてとらえていたか、東京帝国大学印度哲学科の日本仏教担当であった花山信勝がいかにその意向に応えていたかが、良くわかりますね。

 ただ、花山は、原理日本社のように、津田左右吉を激しく論難することはありませんでした。津田などの批判に応えるため、全力をあげて三経義疏の太子撰述を学問的に論証すべく一生を捧げたと言うべきでしょうか。そこら辺はさすがに文献学者です。ただ、時流に流される面があり、戦時中はやはり軍国主義に引き寄せた三経義疏解釈を説いて太子礼讃に努めていました。

 そうした人物である以上、当然のことながら、時流が変われば太子の意義付けも変化します。花山信勝校訳『勝鬘経義疏』(吉川弘文館、1977年)の「はしがき」では、

 終戦の詔勅によって、明治以来の武の日本が崩壊した。新しい日本の基盤は文でなければならぬと考えた。そこで終戦の翌日から、わたしはわが国最初の著書である勝鬘経義疏の校訳に微力を傾倒し始めた。三ケ月の後に終わり、原稿を岩波書店の当時の主人である岩波茂雄氏のもとに持参した。東都はほとんど壊滅して印刷所もなければ、紙もない。しかしあなたの趣旨は了承したから、何とかしましょう、との返事であった(1頁)

とあります。戦時中は日本精神の宣揚、「国体の本義」発揚のために聖徳太子の意義を説いていたものが、終戦の翌日(!)から文化日本の建設のために、文化国家日本の象徴と思われた『勝鬘経義疏』の校訂と訓読に打ち込んだのであって、常に真面目なのです。そして、完成すると、5年前に津田事件で起訴された岩波書店主に出版を依頼し、岩波はそれを了承したのです。岩波書店は、戦争末期の昭和19年に、花山の『勝鬘經義疏の上宮王撰に関する研究』を刊行していました。『勝鬘経義疏』の校訳は、昭和23年8月に岩波文庫として刊行されています。

 上記の吉川弘文館版は、藤枝先生らの敦煌本研究を踏まえたうえで岩波文庫版を補訂したものであり、訓読に少々問題があるものの、長年読んできた花山ならではの訓読と注記がなされているうえ、末尾に宝治版の写真版もそのまま掲載されており、『勝鬘経義疏』研究には必須の本です。

片岡山説話を仏教説話として見る : 頼住光子「聖徳太子の片岡山説話についての一考察」

2010年08月15日 | 論文・研究書紹介
 この論文の著者は、「倫理学、日本思想史、比較宗教哲学」などが専門ということもあって、日本史学でも仏教史学でもない独特な観点からの考察です。

頼住 光子「聖徳太子の片岡山説話についての一考察(日本思想学部会報告, 第4回 国際日本学コンソーシアム)」
(大学院教育改革支援プログラム「日本文化研究の国際的情報伝達スキルの育成」活動報告書、平成21年度 学内教育事業編 )

ネット上で見ただけで報告書そのものの奥付は目にしていませんが、論文で引用する場合、どういう形で表記するのか困る出典名ですね。

 さて、頼住氏は、片岡山説話については、「皇太子、遊行於片岡」とあって、「遊行[ゆぎょう]」という仏教用語で始まることが示すように、仏教説話として考察すべきだとします。そして、斑鳩から太子の墓のある磯長に至る途中に片岡山があることに注意し、この説話は、やがて来る太子の死も実は「単なる人間の死ではなくて、聖の死であり、それ故に、この世における応化身としての役割を終えて、色形をこえた法身へと還帰することに他ならないと、『日本書紀』は主張しているのである」(241頁左)と見ます。つまり、片岡山の飢人が死ぬのは、「聖徳太子の死を先取りしたものだといえよう」(242頁)という立場です。

 また、結論の少し前では、「慧慈が自由に自分の死ぬ日を選び、聖徳太子の一年後の命日に死んだように、聖徳太子もまた自由に生死輪廻に出入りし、生死を自由に使いこなせる存在なのである」(242頁左)とあります。

 確かに、片岡山の地理的な位置、推古紀中において片岡山説話が置かれている位置から見て、太子の死と関連するものとして提示されていると見るのは、一つの有効な考え方でしょう。ただ、「生死を自由に使いこなせる存在」といった説き方は、後代の伝承に引きずられすぎている点があるようにも見えます。

 もし、太子は生死を自在に扱える存在なのだ、ということを『日本書紀』が強調しようとしていたのであれば、太子の誕生の場面も、釈尊の前身である菩薩が天から白象の姿で降って摩耶夫人の胎内に宿ったといった類の経典を意識し、太子が自らの意思によってあのように生まれた、ということが強調されて描かれそうなものですし、亡くなる場面も、もっと方便としての涅槃を思わせる描き方になるのではないでしょうか。『日本書紀』の太子関連記述や法隆寺金堂釈迦三尊像銘には、太子を釈尊になぞらえる意識がうかがわれることは確かですが、素朴な程度にとどまっているように見えます。

 なお、慧慈の死について、大山誠一氏は、「翌年の同じ日に自ら命を絶ったというのである」(『長屋王家木簡と金石文』、256頁)としていますが、それは無理です。推古紀のその記事は、予言した通りの日に死んだため「聖」だと分かった、という文脈です。自殺なら、預言した日に死ぬのは当たり前です。

 頼住論文は、その大山説を引用してあるものの、「『日本書紀』の聖徳太子像は分裂しており、その分裂は、複数の『日本書紀』作者たちが、それぞれの思惑に従って自分勝手に聖徳太子に関する叙述を作り上げたことによるとする説も提示されている」(237頁)としています。しかし、「自分勝手に」というのは、大山説の意図するところとは、ずれているように思われます。

 頼住氏がこのように書くのは、大山氏が、著書によって、不比等と長屋王の意向を受けて道慈がほとんど書いたと読めるような書き方をするだけでなく、不比等が儒教部分(つまり「憲法十七条」)を書き、長屋王が道教部分を書き、道慈が仏教関連部分を書いた、と受け取れるような書き方をしている場合もあることが一因となっているのかもしれません。

 なお、頼住氏は、飢人は「異人」であって神の面影をやどしているとし、飢人に与えられた飲食物や衣服は「神に捧げられる神饌であり神衣であるということになる」(238頁右)とも論じています。そうなると、『日本書紀』の聖徳太子関連記述は、カミに関する在来信仰まで含んでいることになりますが、推古紀の原文から果たしてそこまで言えるのか。もし、そうした要素が実際に盛り込まれているのだとしたら、国家の起源を説くために作られた政治色が強い他の様々な神話との関係はどうなっているのか。

 ともかく、賛成・反対の意見は様々でしょうが、いろいろなアイディアが振りまかれている試論でした。

戦前・戦中に文部省や教学局等が刊行した聖徳太子関係の小冊子

2010年08月13日 | 津田左右吉を攻撃した聖徳太子礼讃者たち

 今回は、国家主義的な聖徳太子礼讃者の一例として、文部省を取り上げてみます。

 昭和10年代になって国家主義が強まると、神道系国家主義者による仏教攻撃が激しくなります。仏教などは外国の教えであって、神国日本には不用だとする議論です。

 これに対して、仏教界は聖徳太子を持ち出し、必死になって防戦に努めました。日本では、皇太子である聖徳太子が仏教を盛んにしたうえ、「憲法十七条」では天皇の命令に必ず従うよう命じていることが示すように、日本仏教はもともと皇室と縁が深く、出世間をめざす他国の仏教と違って、国家と一体になった独自の大乗仏教であったのだ、と強調したのです。

 文部省やその外局であって後に文部省内に吸収された教学局も、聖徳太子尊重でした。文部省は青少年の間に社会主義や自由主義が広まることを恐れ、国家主義教育に全力をあげていたものの、近代的な科学を推進して軍事力を高めなければならない立場としては、海外の文化や技術の取り入れをすべて否定する極端な排外主義に賛同するわけにはいかなかったのでしょう。

 そこで、文部省や教学局は、昭和10年代になると、聖徳太子に関する国家主義的な小冊子を次々に刊行し始めました。現在、手元にあるものだけ並べると、以下のようになります(あと1冊か2冊あったように思うのですが、見あたりません)。実際には、表紙に「文部省」とか「教学局編纂」などとあるのみで執筆者の名が印刷されておらず、前書きのところで「本篇は、広島文理科大学講師国民精神文化研究所嘱託金子大栄氏に委嘱し、執筆を煩したものである」などと記しているだけの場合も含まれていますが、以下では執筆者の名前を先に出しておきます。昭和15年の夏から秋にかけて3冊続けて刊行されているのは、津田左右吉事件を意識してのことでしょう。

1.辻善之助『聖徳太子十七條憲法』(日本思想叢書 第1編、文部省社会教育局、 昭和6年3月)  

 *日本仏教史の大家であった辻の詳細な解説、本文、簡単な注記から成っており、割とおだやかなものです。

2.花山信勝『聖徳太子と日本文化』(文部省思想局編、日本精神叢書、日本文化協会出版部、昭和12年2月)

 *この本の末尾では、明治以後、すぐれた研究をした人々の名を列挙していますが、聖徳太子の事跡をかなり否定した津田左右吉の名はあげられていません。

3.佐伯定胤『十七条憲法と大乗仏教』(教学叢書第六輯、教学局、昭和14年3月)

 *法隆寺管長で、性相学の大家であった佐伯定胤の解説です。もちろん、国家主義的な太子礼讃ですが、仏教的な解釈の部分はさすがにしっかりしています。以上の3冊は、いずれも大きめの版で大きめの活字で刊行されています。

4.白井成允『聖徳太子の十七条憲法』(文部省教学局編纂、日本精神叢書(二十五)、印刷局、 昭15年8月)

 *京城大学教授であって、聖徳太子礼讃専門の人です。

5.金子大栄『三経義疏と日本仏教』(教学局編纂、日本精神叢書(四十四)、内閣印刷局、 昭15年9月)

 *東大出身でない金子大栄が加わっているのは、大栄がこの少し前から国家主義色を強めており、文部省のシンクタンク的存在であった国民精神文化研究所の嘱託となっていたためでしょう。大栄は、「太子の出現に依りて、仏教は異国のものでないことが証明されたのである」(11頁)、「太子は神の子孫に在す限り、その御言行が悉く神ながらの道の顕現であることを何うして拒むことが出来よう」と述べ、「篤敬三宝」と説く「憲法十七条」も「悉く神ながらの道である」(13-14頁)と断言しています。
 
 大栄は、さらに、「真宗の教こそ全面的に国家理念と思ひ合はすべきものといふを得るであらう」(104頁)と述べるにまで至っており、法然および親鸞を含むその弟子たちを流刑に処したことについて、「主上臣下、法に背き義に違い」と評した親鸞とは別の道を歩んでいます。大栄のように、すぐれた仏教学者であって、信仰の深さによって敬愛されていた真宗の僧が、これほど簡単に時流に流されてしまうのは、恐ろしいほどです。真宗では、真宗の改革運動に打ち込んだ真面目な信仰者からこうした国家主義者に転じた人が何人も出ています。

6.花山信勝『聖徳太子と日本文化』(教学局編纂、日本精神叢書(三)、日本文化協会、昭15年10月)  
 
 *先に刊行されたものとほぼ同じですが、この頃になると、物資不足になってきたためか、文庫本の形式であり、紙質もかなり落ちてます。日本精神叢書を文庫本型にしたのは、岩波文庫に対抗しようとしたのかもしれません。原理日本社では、津田左右吉攻撃の際は、岩波書店攻撃も盛んにやっており、岩波茂雄も津田とともに起訴されています。

 これ以外に、文部省教学局編の「日本諸学研究報告」シリーズの歴史学篇などにも、聖徳太子関連の論文が載っており、津田左右吉に続いて聖徳太子の批判的研究を行った小倉豊文も書いています。ただ、小倉は、「大東亜新秩序の建設」を使命として聖徳太子を礼讃しつつも、史料批判の必要性を強調して史実と伝承の区別に努め、学問の自立を守ろうとしていたため、別にとりあげることにします。

【8月14日 追記】

文部省や教学局が津田左右吉事件を強く意識していたことは、

武内義雄『支那思想と日本』(教学叢書第十一輯、教学局、昭和16年9月)

からも伺われます。すなわち、原理日本社の攻撃のきっかけとなった津田の『支那思想と日本』(岩波新書、昭和13年11月)とまったく同じ名の本を出したわけです。当時、東北帝大教授であった武内義雄のこの本は、学術的かつ穏健な内容であってむやみに愛国主義をあおるようなことはしていません。ただ、末尾で、

 日本も最初は漢唐の儒教をとり入れ、後に宋明の儒教に改めたが、いつも支那思想を鵜呑みにするやうなことがなく、日本の独自性が発揮せられてゐ る。さうして支那儒教と日本儒教とを比較考究することいよつて吾人は支那と日本との共通性と特異点を明瞭に認めることができる。(27頁)

と述べられているのを見ると、日本は最初は模倣ばかりであって、以後も儒教受容も表面的なものにとどまっており、中国と日本は文化が違うため、儒教は真の意味では日本に影響を与えていないとする津田説を批判するために、教学局が、中国思想研究の代表者の一人で津田とはかなり学説が異なっていた武内義雄に執筆を委嘱したことが 推測されます。





光明皇后捏造説の前提となる「聖徳尊霊」の解釈の誤り

2010年08月11日 | 大山誠一「聖徳太子虚構説」への批判
 大山誠一氏は、複数の著作の中で、疫病が流行していた天平七年(735)の十二月に、阿倍内親王(後の孝謙天皇)が「聖徳尊霊及今見天朝」のために『法華経』講読の法会を催したという伝承に着目し、実際には聖徳太子を自らの守護神としようとした光明皇后の意向によるものと説いています。
 
 『法隆寺東院縁起』、つまり、斑鳩宮跡の荒廃ぶりを歎いた行信の奏上によって、阿倍内親王が斑鳩宮跡に建てさせたとされる法隆寺東院の縁起では、法会の翌年、「令旨」によって行信が皇后宮職の安宿倍真人らを率い、道慈ほか三百余人もの僧尼を請じて二月二十二日に『法華経』講読の大がかりな法会を行ったとあります。聖霊会の起源ですね。

 大山氏は、記事は阿倍内親王を中心に書いてあるものの、実際にはこれらの催しは母親である光明皇后の意向であったとし、「聖徳尊霊」の「霊」には「神」の意味もあるため、「尊霊」というのは光明皇后が「聖徳太子を神として扱」い、加護を祈ったことを示すとし、「聖徳太子の背後にいるのは、父不比等だったに違いない」(『長屋王木簡と金石文』、280頁)と述べています。

 長屋王の意向によって道教色を帯びていた『日本書紀』の聖徳太子像はこれによって変貌し、光明皇后は行信とともに『天寿国繍帳』その他の聖徳太子関連文物を捏造し始めたというのですから、この「尊霊」の解釈はきわめて重要です。

 この解釈が、長屋王願経の跋に見える「登仙二尊神霊」、特に「神霊」という語を特別視した新川登亀男さんの論文に基づくことは言うまでもないでしょう。新川さんは、これは道教に基づく表現であり、「二尊」、つまり長屋王の亡くなった父母、高市皇子とその妃の「神霊」こそが道教的な霊の秩序の頂点に立って「百霊」を率いるのであり、天皇ですらそれらに守られる存在なのであって、長屋王は生前は長寿と繁栄を保ち、死後は登仙してそうした父母の「神霊」が統括する世界に赴こうとしていた、とされていました。

 大山氏は、この「登仙二尊神霊」に関する新川説を「聖徳尊霊」に応用し、仏教的な守護神としたわけです。新川説では父の高市皇子、大山説では父の不比等の役割が重視されています。この前提となる新川論文が間違っていたことは、前に論文で指摘した通りですが、新川説の誤りに関して、最近、私と同じ見方が出されていることに気づきましたので紹介します。

東京女子大学古代史研究会編『聖武天皇宸翰『雑集』「釈霊実集」研究』
(汲古書店、2010年1月)

です。聖武天皇が自ら謹直な書体で書き写した中国の仏教関連の詩文のうち、越州法華寺の霊実の文章に対する注釈であり、きわめて有意義な研究です。ただ、僧侶の文章に関する共同研究でありながら、史学や文学の研究者中心であって仏教研究者が誰も参加していないことが残念に思われます。

 このうち、ある人が父の「亡霊」のために設けた斎会用に霊実が頼まれて書いた「為人父忌設斎文」の注釈を担当した稲川やよい氏は、長屋王願経跋にも触れています。稲川氏は、跋文のうち、道教的であるとされてきた「百霊影衛」などの句については、敦煌文献中の「為宰相病患開道場文」(P2974)に「百霊影衛」とあるように、敦煌文献に数例見えるほか、『釈霊実集』でも「為人妻祥設斎文」に「万霊符衛」、「大善寺造像文」に「天龍鬼之影衛」とあるなど、似たような言い回しが見られることを指摘します。そして、いずれも仏教文献中で用いられていることから、唐代仏教では道教・儒教の用語を混在したうえで仏教的な文脈で用いていたと論じています(406頁)。

 すなわち、長屋王の「道教思想への接近」説を否定し、長屋王願経の表現は、「そのころ最新の唐代仏教文学を瞬時に反映している」(407頁)ものと見るべきだ、とするのです。妥当な見解でしょう。

 長屋王と仏教の関係について言えば、長屋王家木簡の中には、長屋王が写経所や造寺造塔のための工房を所有していたことを示すものがあることが知られています。奈良国立文化財研究所編『長屋王家・二条大路木簡を読む』(吉川弘文館、2001年)所載の、金子裕之「長屋王の造寺活動」や堀池春峰「大般若経信仰とその展開」などの論文がそうした木簡に論究していますが、大山氏は、長屋王家木簡の専門家でありながら、不比等は儒教志向、長屋王は道教好み、道慈は儒教・道教にも通じた僧侶で仏教担当という役割分担を強調するのみで、こうした論文を引いて長屋王の仏教信仰について論じたことは全くありません。

 なお、光明皇后による聖徳太子関連文物捏造説については、東大寺で開催される東大寺現代仏教講演会(10月30日午後)で、その問題点について詳しく話す予定です。

【8月12日 追記】
史料の名を『法隆寺東院縁起』に改めました。



伝言ゲームで増幅される誤り : 宮脇淳子「つくられた聖徳太子」

2010年08月09日 | 三経義疏
 モンゴル史を中心とする東洋史家である宮脇淳子氏は、一般向けの歴史講座の連載第一回目を、聖徳太子に関する意外な話の紹介で始めました。

宮脇淳子「(淳子先生の歴史講座--こんなの常識!)日本誕生① つくられた聖徳太子」(『歴史通 WiLL別冊』7月号、2009年7月)

です。誤りが目立ちますが、論文ではなく、気楽に読める歴史娯楽読み物といった感じで書かれていますので、内容は紹介しません。気になったのは次の発言です。

「日本人が仏教学上の本を書くようになるのは、仏教を導入した聖徳太子の時代から、二百年近くたった弘法大師が初めてでした」(162頁)

だから、三経義疏が太子の作であるはずがないというのですが、これは史実と全く異なります。朝鮮三国に比べて大幅に遅れていた日本の仏教学も、奈良時代中期あたりになると、玉石混淆ながら注釈がいろいろ書かれるようになっており、中でも三論宗の智光や華厳宗の寿霊などは、多くの文献を引用し論評するまともな注釈を書いていて、今日まで伝えられています。また、奈良末から平安初めにかけて活躍した三論宗の安澄の注釈などは、学術的価値の高い立派な著作です。

 それなのに、なぜ宮脇氏のような断言がなされるのか。これは、「京都大学東洋史学科に進級したときから可愛がっていただいた、藤枝晃先生の研究に基づいています」(161頁)という発言から分かるように、藤枝先生の困った断言癖に基づいているようです。

 藤枝先生が、一般市民向けに語った内容を編集した藤枝晃『敦煌学とその周辺』(なにわ塾叢書51、大阪府「なにわ塾」編、ブレーンセンター、1999年)では、藤枝先生は次のように述べています。

 京都大学人文科学研究所で私と同僚だった上山春平君が「三経義疏は聖徳太子の作ではないということをうちの研究部で研究しているところで、奈良時代にはこれという仕事はない。だから、日本人の著作らしい著作というのは弘法大師が始まりでしょう」と言いましたら、中村[元]先生が大変に怒られて、大論争になったようです。(120頁)

 上山先生は、西洋哲学出身とはいえ、仏教文献も幅広く読んでおり、空海を特に高く評価していましたので、上のような発言になったのでしょう。「奈良時代にはこれという仕事はない」以下は、「奈良時代の仏教文献は、中国や新羅の注釈を学んで多少自分の意見を加えた程度のものばかりであって、これが日本仏教だと自信を持って世界に紹介できるような思想的著作はない。そうしたすぐれた著作を生み出したのは、空海が最初だろう」という意味です。実際には、最澄もきわめて独自な主張をしているのですが、空海は確かに大物ですので、こうした上山先生のような意見があっても不思議ではありません。

 ところが、藤枝先生は、上山先生の発言を紹介した4頁後で、こう言ってます。

 飛鳥時代にそれだけ高級な注釈ができたとすれば、奈良時代にもないといけないんですが、この時代には仏教的な著作が*全くなくて、やっと伝教大師や弘法大師で本らしいものができるわけですから、そういうことがあり得るのかということですね。(*補訂者注…これは言い過ぎであり、奈良時代後期には日本撰述の注釈書が確実に著作されている。)(124頁)

 先ほどは、上山先生の意見を正しく伝えていたものが、ここでは、奈良時代には仏教的な著作が全くなくて……という言い方になってます。これが「言い過ぎ」であることは、藤枝先生の娘婿であって書誌学の大家である石塚晴通先生が「補訂者注」で記している通りです。宮脇氏は、くだけた場で藤枝先生のこうした放言風な発言だけを聞いて、記憶にとどめたのでしょう。

 また、宮脇氏は、太子が『勝鬘経』を講義して3日で説きおわったとする『日本書紀』の記述について、「何行か大きい声で読んだら、お見事だったということだと、藤枝先生は言っています」(162頁)と述べています。確かに、『聖徳太子集』(岩波書店、1975年)の解説では、藤枝先生は、『日本書紀』における『勝鬘経』講義の記事について、「遣隋使が持ち帰ったばかりの難しい『義疏』を、太子が天皇の前で声高く朗読したのであれば、それは正史に記載するに足る盛事であったに違いなく……」(539頁)と書いてますが、「何行か」とまでは言ってません。それでは3日間持ちませんし……。

 しかし、『敦煌学とその周辺』になると、藤枝先生は、 上の記述について、「これは『日本書紀』に書いてある、太子が『勝鬘経』や『法華経』を講じたという記事を、私がうっかり信用したことによる失敗です」(125頁)と明言して、その解釈を自ら否定しています。つまり、藤枝先生は、後になると、聖徳太子が『勝鬘経』や『法華経』を講義したという『日本書紀』の記述を疑い、講義したというのは事実でない、と考えるようになったということです。

 すなわち、宮脇氏は、歴史講座の第一回目において聖徳太子について語るに当たり、日本仏教史の最近の研究状況を確かめるどころか、師匠である藤枝先生の本もきちんと読まずに、かなり前に聞いた放談を藤枝先生の意外な学説として披露したのです。 

 上山春平 → 藤枝晃 → 宮脇淳子、という順序で、つまり、仏教文献を幅広く読んで思想を追求していた上山先生、数多くの敦煌写本を調査して書誌学の面で画期的な業績をあげたものの、仏教史や教理は専門外でその方面の論文は一本も書いたことがない藤枝先生、モンゴル史などが専門で藤枝先生よりさらに日本仏教を知らない宮脇氏、と話が伝わっていくうちに、どんどん意外で面白おかしい話になっていったわけです。恐いですね。

 なお、『敦煌学とその周辺』は、上記のような「言い過ぎ」がいくつも混じっているものの、全体としてはきわめて面白く、有意義な書物です。また、藤枝先生の『文字の文化史』(岩波書店、1971年。以後、いろいろな版が出ています)は、古い時代の文献を扱う人や文字に関心のある人にとっては必読の名著です。


師の学系から考える三経義疏論 : 曾根正人「厩戸皇子の学んだ教学と『三経義疏』」

2010年08月07日 | 三経義疏

 2008年の田村先生の『法華義疏』論文を紹介しましたので、同年に刊行された曾根正人さんの論文も取り上げておきます。

 曾根さんの『聖徳太子と飛鳥仏教』(吉川弘文館、2007年)は、森田悌『推古朝と聖徳太子』(岩田書院、2005年)の方向を受け継いで大山誠一氏の聖徳太子非実在説を批判し、太子関連の諸資料について是々非々の検討を加えたものです。そのため、「憲法十七条」については、後代の粉飾や改変の可能性を認めつつも基本としては真作とする一方、三経義疏については中国撰述と見て太子撰述を否定しています。つまり、太子に関する伝承のほとんどを事実と認める立場でもなく、すべて後代の捏造とする立場でもないのです。同書には、『日本書紀』の記述は「蘇我氏顕彰譚」を利用して書かれた部分がある(105頁)、といった重要な指摘も見られます。

 同書の三経義疏に関する議論に少しだけ手を加えたのが、

 曾根正人「厩戸皇子の学んだ教学と『三経義疏』」
 (『アリーナ 2008』第5号(中部大学国際人間学研究所編、2008年3月)

です。
 
 曾根さんは、藤枝先生の説を支持し、『勝鬘経義疏』が中国撰述であることは確実としたうえで、「以前のように『三経義疏』をセットで厩戸皇子撰とするのは不可能である。そして『勝鬘経義疏』が中国成立だとしたら、法隆寺においてセットで伝来して来た三疏のなかで、他の二疏のみが倭国成立という可能性は低い」(192頁下)と述べています。しかし、藤枝説が誤りであることが判明した現在、状況はまったく変わってしまいました。

 法隆寺がセットとして伝承してきただけでなく、実際に三経義疏がきわめて似ており、セットとなっていることは、次の一覧表を見れば明らかでしょう。Sは『勝鬘経義疏』、Hは『法華義疏』、Yは『維摩経義疏』であって、 :  の後の数字は用例数です。

  中亦有二。第一正  (S:5 H:11 Y:6)     *他には『法華義記』1例のみ
  中亦有二。第一先  (S:1 H:8  Y:5)       *他には『法華義記』2例のみ
  中開為二。第一    (S:3  H:5   Y:10)     *三経義疏のみ
  中開為三。第     (S:2  H:2   Y:9)       *三経義疏のみ
  中開為五重。第一    (S:1  H:1   Y:1)     *三経義疏のみ
  中初開為二。第一従初訖  (S:2   H:4  Y:1) *三経義疏のみ

 いかがでしょう。これは、三経義疏中の共通部分をNGSMというプログラムで自動的に比較表示し、さらにその共通部分について大正大蔵経全体と続蔵の中国部の文献すべてを検索した結果を加えたものであって、12月刊行予定の拙論掲載リストの一部です。

 つまり、「中亦有二。第一正(~の中に亦た二有り。第一は正しく~)」という言い方は、中国・朝鮮・日本の何百という経典注釈の中で、三経義疏と、『法華義疏』の種本である光宅寺法雲の『法華義記』にしか見えないのです。『法華義記』は南朝である梁の主流であったため、その影響を受けた注釈は、中国でも朝鮮でもかなりあったはずですが、隋唐の新しい仏教が盛んになるとそれらは消え去ってしまい、シルクロードや唐の名宝が正倉院に残されているように、三経義疏という形で日本に残るだけになったのでしょう。

 さらに、「中初開為二。第一従初訖(~の中、初めに開きて二と為す。第一に初めより~訖[まで]は」という経典解釈の際の分け方は、三経義疏にしか出てこないことが知られます。こんな長ったらしい表現が一致するのは、偶然ではありえません。

 たとえば、皆さんが諸国の留学生を含んだ250人の学生を相手にレポートを課したとしましょう。法雲さんという年配の実力者である中国人学生と国籍不明の3人だけが、「の部分の中はまた二つに分かれます。第一は先ず~」と書いており、さらに、その国籍不明の3人だけが「~の部分のうち、初めの部分は二つに分けられます。第一に最初のところから~までは」と書いていて、他にも3人だけが似たような類似表現をいくつも使っていたらどうします?

 しかも、法雲さんや他の何十人もの中国人留学生たちの答案には全く出てこず、関西出身の日本人学生たちの答案だけに良く見える関西風な言い回しが、その国籍不明の3人の答案にたくさん見えていたらどう考えます? 

 おそらく、法雲さんのノートのコピーを関西仲間の日本人学生3人が入手し、一緒に話しながら勉強したのだろう、と考えるのが普通でしょう。学生は3人でなく、2人か1人であって、その学生(たち)が法雲さんのノートを見ながら、同じような形式で仲間の分を書いてやった可能性もあります。あるいは、慧慈さんとか慧聡さんなど、中国の状況を多少知っていて関西弁がまじる韓国人学生たちが、法雲さんのコピーを渡して説明してくれたうえ、レポート書きもかなり手伝ってくれたのかもしれません。

 正確なところは分かりませんが、ともかく、三経義疏は法雲『法華義記』の系統の注釈であり、非常に関係深いものであることは確かです。中国成立の全くばらばらな三部の注釈をよせ集めたものではありません。

 曾根さんは、作者問題を考えるに当たって、『上宮聖徳法王帝説』『三国仏法伝通縁起』その他の記述から聖徳太子の師の学系を推定する、という方法をとりました。そして、太子を教えたとされる高句麗の慧慈や百済の慧聡は吉蔵系の攻撃的三論宗ではなく、『成実論』を主として三論を従とする折衷的な成実・三論学派だったのではないかとする拙論「朝鮮仏教における三論教学」(平井俊榮監修『三論教学の研究』、春秋社、1990年)を引いたうえで、「三論・成実兼学で成実教学が柱になるとは考えにくい」(195頁)と述べています。

 拙論を参照してくださったのは有り難いのですが、「考えにくい」と言われても、中国江南では、実際に『成実論』中心の人や『成実論』を主として三論も少しだけ学ぶ折衷的な人々の方が主流だったのですから、仕方ありません。三論を大乗の精華として強調する一方で『成実論』などは小乗だと非難し、その『成実論』に基づいて大乗経典を解釈している法雲たちを激しく攻撃した三論師は、吉蔵や慧均その他、法朗門下の一握りの人たちに限られていました。

 吉蔵の著作は百済に持ち込まれているうえ、慧均は中国に留学した百済僧であることが最近判明しており、日本でも、後にはそうした吉蔵系の三論宗が有力になっていきますが、この問題については、曾根さんが、日本の三論宗は慧灌を始祖とするのみで「慧灌より先に来朝した慧慈がなぜ始祖とされなかったか」(196頁)という点に注意していることが重要です。

 曾根さんは、慧慈については太子を教えたことしか伝えられておらず、活動範囲が狭かったためと推測するのですが、慧慈が実際に吉蔵系でなかったから、と考える方が自然でしょう。

 また、曾根さんは、三車・四車説をめぐる『法華義疏』の解釈は、三論宗のものとは違って法雲の解釈と一致しているため、『法華義疏』は三論宗の慧慈に習った聖徳太子の作ではあり得ないとされます。これは重要な指摘であり、『法華義疏』の解釈が三論宗と異なっていることは確かですが、慧慈を太子の師と認めるのであれば、その慧慈は吉蔵系の三論宗ではなく法雲系であったから、と考える方が自然でしょう。つまり、曾根さんの指摘は、別な結論の根拠にもなりうるのです。

 慧慈や慧聡は三論宗の僧だと明言した鎌倉時代の学僧、凝然は、日本仏教は小乗に属する『成実論』に基づく学派で始まったのでなく、大乗の三論宗で始まったのだ、日本は最初から大乗仏教の国だったのだ、と主張するために、「慧慈・慧聡=三論宗説」を述べたというのが、私の考えです。

 凝然の主張が史実でないらしいことは、その凝然が、「慧慈や慧聡は三論宗だったが、『成実論』にも通じていたため、三経義疏は成実師である法雲風な解釈の仕方になったのだ」という苦しい説明をしていることからも明らかです(石井「仏教の朝鮮的変容」、鎌田茂雄編『講座 仏教の受容と変容5 韓国篇』、佼成出版社、1991年。同「聖徳太子像の再検討--中国仏教と朝鮮仏教の視点から--」、『仏教史学研究』50巻1号、2007年12月)。

 論文の末尾で、曾根さんは、『法華義疏』は「倭国には、慧慈が立脚する吉蔵系三論教学と対比させるテキストとしてもたらされたと考えられる。そして『勝鬘経義疏』などと共に厩戸皇子周辺に置かれ、『三経義疏』の神話を形成していったのである」(196頁下)と結論づけていますが、太子の師匠たちが吉蔵系の攻撃的な三論師であったなら、その厳しい批判の対象となっていた成実師系の『法華義疏』が、太子の作とされて尊重されるようになった、というのは不自然ではないでしょうか。

 以上のように、曾根さんの説は、『法華義疏』やその他の史料から曾根さん自身が読み取った内容と藤枝説との板挟みになっているため、苦しい解釈になっているように見えます。藤枝説を外してゼロから考え直すなら、曾根さんが読みとった内容は別の形で生かすことができるのではないでしょうか。藤枝先生の『勝鬘経義疏』中国撰述説は、実力者である藤枝先生の勇み足であったこと、藤枝先生は敦煌文書偽作説に関しても勇み足をしており、行きすぎが訂正されつつあることは、既にご紹介した通りです。


救世観音と法隆寺金堂四天王像の工人たちは重複している? : 岩田茂樹「法隆寺金堂四天王立像・補遺」

2010年08月05日 | 論文・研究書紹介
 法隆寺の聖徳太子関係文物は、行信の奏上によって天平十一年(739)に建てられた法隆寺東院に、太子の遺品と称されるものを次々に奉納し、新たな聖徳太子信仰を作り上げた光明皇后と行信らによって捏造されたとする大山誠一氏は、聖徳太子等身と伝えられる救世観音像について、「飛鳥仏とするのは見当違いもはなはだしい。この時に、光明皇后や行信らによって作られたものである」(「<聖徳太子>誕生の時代背景」、『アリーナ』第5号、2008年3月、156頁下)と断言しています。東院が完成した739年に近い頃の作だという主張であって、美術史学の常識を全く無視した説です。

 一方、2008年に「国宝 法隆寺金堂展」を開催するにあたり、X線透過撮影を行うなどして四天王像を詳しく調査した奈良国立博物館学芸部長補佐の岩田茂樹氏は、救世観音は「飛鳥彫刻の代表作」と述べ、聖徳太子が没した622年から山背大兄王一族が滅んだ643年の間の成立とする通説を支持し、650年頃に作成された金堂の四天王像との類似を指摘する論文を発表しています。

岩田茂樹「法隆寺金堂四天王立像・補遺」
(『MUSEUM 東京国立博物館研究誌』623号、2009年12月)

です。

 岩田氏は、邪鬼と岩座の組み合わせの不自然さを指摘し、広目天像と多聞天像とで岩座が入れ替わっているものと推測します。そして、持ち物などから見て、十四世紀には、持国天・増長天像の尊名が現在とは逆であったらしいとして、持ち物の復原を試みています。

 興味深いのは、四天王像は四体とも作風が似ているものの、広目天光背の裏面には「山口大口費」と「木{門<牛}」の二人が作ったと刻され、多聞天光背には「薬師徳保」と妙な名のもう一人が作ったと記されていることから見て、あとの二体についても、この二人組が一体づつ作成したと考え、その組み合わせを推測したことです。

 そして最後に来ているのが、救世観音像との関係の考察です。氏は、樟の一材からの丸彫りに近い構造で、木心を籠め、別材を補助的に矧ぐという点、宝髻を表現せず、頭頂は平彫りである点などにおいて、救世観音像と金堂四天王像は類似していることに注意します。そして、救世観音像の方が正面観照性を保っていて年代が古いと考えられること、また宝冠が似ているものの、650年頃の作成と推測される四天王像ほど形式化していないことから、岩田氏は、これらを作成した工人は同一とまでは言えないまでも断絶があるとか無関係とか見ることもできないとし、聖徳太子が没した622年から山背大兄王一族が滅んだ643年の間の成立と見てよい救世観音像と、650年前後の作成と思われる四天王像については、「工人たちのうち、一部が重複している蓋然性はありえよう」(42頁)と結論づけています。

 実地に詳細な調査を行った専門家ならではの報告であり、聖徳太子、および聖徳太子信仰について考えるうえで、きわめて重要な論文です。

『法華義疏』に関する最新の研究 : 田村晃祐「飛鳥時代の仏教と百済・高句麗の僧」

2010年08月03日 | 三経義疏

  前回の記事で田村晃祐先生の『法華義疏』研究に触れたので、最近のわかりやすい論文を紹介しておきます。

田村晃祐「飛鳥時代の仏教と百済・高句麗の僧」
( 『仏教学レビュー』第4号、韓国、2008年)

です(PDFは、こちら)。韓国・金剛大学校の仏教文化研究所が出している雑誌ですが、ここは海外の研究成果を紹介することを任務の一つとしているため、しばしば国際シンポジウムを開催したり研究会に諸国の学者を招いたりしており、これも田村先生をお招きして行なった講演です。日本語版と韓国語版が研究所のサイトで公開されています。以前、「もろ式:読書日記」でも、刊行されたことが紹介されていましたね。

 田村先生の研究の特徴は、『法華義疏』を御物本で綿密に読み、訂正の仕方などを初めとする写本の形態面と、経典解釈の仕方やその系統など内容面の両方に注意していることです。これは、師匠の花山信勝譲りですが、花山以上に細かい研究をされています。

 『法華義疏』については、本格的に研究しようと思ったら、活字本ではなく、御物本に取り組む必要があります。私も、大学院の演習で1年間、『法華義疏』を講読した際は、四天王寺会本版と御物本(もちろん、複製版の中古品です。書道史の研究者が所蔵していたらしく、異体字にやたら印や付箋を付けてあったため、市価の半額以下で購入できました)とを比べながら読みました。その御物本を調べるどころか、活字本すらきちんと読まず、「当時の日本の水準から考えて、中国撰述に間違いない」などと想像だけで書いたりするのは、論外です。中国撰述だと自信を持って断定したいなら、形式と内容の両面から論証すべきでしょう。

 なお、藤枝晃先生は、『法華義疏』程度の訂正をした写本は、敦煌にはいくらでもあると言われてましたが、これも断言癖の一例であって、事実ではありません。『法華義疏』は、かなり特徴のある訂正の仕方を大量にやっています。

 田村先生の論文で注目されるのは、『法華義疏』が江南の古い学問に基づいていることを、これまで以上に明らかにしていることです。『法華義疏』が、「本義」と称する種本である光宅寺法雲の『法華義記』に頼っていることは良く知られていますが、『法華義疏』は「本義」の説に反対する場合は、『法華義記』以前の説を採用し、時にはそれを簡略化し、あるいは簡明化して用いることによって、『法華義記』と異なる考え方を展開しているのです。つまり、『法華義疏』は、中国南地の古い材料を用いて、独自さを出していることになります。

 田村論文で最も興味深いのは、『法華義疏』にはかなり混乱している箇所があること、それも訂正している箇所にそれが見えることを指摘した部分でしょう。一人の人間、つまりは聖徳太子が、複数の系統の学術顧問たちの意見を聞きながらまとめたためそうなった、というのが田村先生の判断です。

 井上光貞先生の三教義疏講演や三経義疏論文は力作であって必読ですが、井上説では、三経義疏は太子の周辺にいた朝鮮渡来の学僧たちがまとめあげたものが太子の著作とされた、と推測していました。貴人の著作とされるものは、そうしたものが多いのです。しかし、田村先生は、それに反対しており、一人の人が書いたからこそ、統一が保たれつつ、上記のような混乱が時に生じたのだ、という意見です。

 私は、田村先生とは意見がかなり一致しつつ、異なる点も少しあるのですが、何と言っても、今日、『法華義疏』を最も綿密に読んでおられるのは田村先生なのですから、この研究が本になって秋か冬に刊行されるのを、わくわくしながら待っているところです。