吉田一彦「仏教の伝来と流通」(末木文美士編『新アジア仏教史11 日本仏教の礎 日本I』第1章、佼成出版社、2010年8月)
この論文では、神仏習合に関する独自の見方が示され、最近における百済の仏教文物の発掘成果も簡単に紹介されているほか、7世紀後半における地域社会での民衆仏教の存在が指摘されるなど、伝統的な仏教史とは異なる視点が提示されています。全体の立場はこれまでの聖徳太子虚構説ですが、道慈述作説に対する森博達さんの批判など、虚構説に反対する立場の主張も紹介されていることが注目されます。
私は、この『新アジア仏教史』全体の編集委員の一人ですので、立場上、個々の論文については論評しにくいのですが(この第11巻では、末尾に「恋と仏教」というコラムを書いています)、日本編は末木文美士さんの「編集」、松尾剛次・佐藤弘夫・林淳・大久保良順の諸氏の「編集協力」によって組まれているうえ、各章の具体的な内容は執筆者に任されていますので、勘弁していただき、虚構説に関する部分を中心に紹介してコメントを付させてもらいます。
吉田さんは、最初の節の末尾で、「自分は日本史研究者であり、日本史という分野の中で仏教史研究に取組んできた。しかし、研究すればするほど、仏教史が日本史という枠組みでは理解しきれないことを痛感するようになった」(18-9頁)と述懐しています。これまでの虚構説では、日本国内の政治状況や中国の文献を主な材料として検討しており、日本に仏教を伝えた朝鮮の寺院や仏教についてはあまり注意してこなかったので、そうした傾向が変わったことは喜ばしいことです。
吉田論文では、『日本書紀』の仏教伝来記事が、仏教流通に関する中国の仏教史書の記述に基づき、一定の構想のもとで書かれていることを詳しく述べ、日本における仏教受容の中心であった蘇我馬子については、「君主であった」とする大山説を視野に入れて再考すべきであるとしています。
『日本書紀』の記述が中国の史書の表現を用いているのは事実ですが、問題は、記述そのものもそれらに基づく創作なのか、記述の仕方や個々の表現上での利用なのかという点ですね。あと、馬子君主説については、考古学の成果とどれだけ一致するかが決め手となるでしょう。
私は蘇我馬子については、孝武帝を擁立して後に殺害し、帝位につかないまま「万機を摂」して西魏の実権を握った鮮卑族の丞相、宇文泰に似た面があると考えています。宇文泰は、「憲法十七条」の種本とも言われる「六条詔書」を作成させ、強引な中国化政策を推し進め、学僧たちと共に大乗仏教を研究し、一時期、帝号を用いずに「天王」と称した北周や南北を統一した隋の基礎となった制度を準備したやり手です。
吉田論文では、津田左右吉の「憲法十七条」偽作説については、「七世紀末から八世紀初頭の律令制定や国史編纂の時代」の創作と考えるべきだとした、と紹介しています。また、「厩戸王[うまやとのみこ]」と呼んで信仰上の聖徳太子と明確に区別すべきだとした小倉豊文の説を紹介し、小倉は『日本書紀』では太子は馬子と共同で政務を見ている以上、「万機を総摂」した「摂政」とみなすことはできないと主張したことも紹介しています。
さらに、道慈述作説について述べた部分では、森博達さんの『日本書紀』区分論が紹介され、倭習が目立つ「憲法十七条」については中国に長年留学した道慈の作ではないとする森さんの批判も紹介されています。この点、および津田説・小倉説の具体的な紹介という点は、大山氏と大きく違う点です。
その森説に対して、吉田論文では、道慈は中国に長年留学したとはいえ、日本生まれの日本人である以上、「倭習」がないかどうかは検討する必要があるとし、次のように述べられています。
正格漢文と変則漢文とが混在するその語法から見ても、一人の述作者によってではなく、複数の述作者によって作成されている可能性が高い。……私は、道慈は憲法十七条の述作に関与していると推定しているが、『日本書紀』の聖徳太子関係記事の述作者については、今後、『日本書紀』全体の構造を解析し、また連関する史料を正しく位置づけて、なお考究していかなければならないだろう。(67頁)
倭習の問題については、このブログでも前に書きましたが、この点について考えるうえで見逃せないのは、吉田さん自身が仏教伝来記事と神功皇后紀について、「西蕃」「歓喜踊躍」「社稷」「三韓」「群臣」などの用語が共通していると指摘していることでしょう。吉田さんは、神功皇后譚は創作史話であるため、仏教伝来記事も創作であって、その「仏教伝来記事のみならず、仏教伝来にはじまる一連の述作が道慈によるものだと推定している」(40-1頁)と述べています。しかし、神功皇后紀に関する吉田さんのこの指摘はきわめて重要であるだけに、道慈述作説にとってはかえって苦しい材料となります。
私自身は、聖徳太子関連記述と仁徳天皇紀ほかの倭習を含む語法の類似を指摘しましたが、吉田説に従うと、道慈は聖徳太子関連記述を含む仏教関連記述だけでなく、神功皇后紀や仁徳天皇紀その他にも関わったことになるからです。そうした作業は、『日本書紀』全体の構想の見直しにつながりますし、表記の統一や清書などの期間を考えると、道慈は異様に短い時間のうちに重要かつ膨大な見直しをなしとげたことになります。
しかし、前回、紹介した平林章仁「天皇の大寺考」では、道慈が帰国した718年については、『日本書紀』の「実質的な編纂作業も一段落し、……あとは別巻で作成されつつある系図と本文の整合作業や錯簡の訂正、さらなる加飾など若干の推敲作業が残される情況に至ったものと思われる」(126頁)という見方が示されていました。実質一年程度のうちに、『日本書紀』の構想の全面的な見直しと書き直しができたのか。
また、道慈の文章については、中国仏教の文章を過剰なまでに切り貼りし、対句を多用した美文に仕立てるという特徴があることは、小島憲之とほかならぬ吉田さん自身が解明したことです。しかし、そうした道慈の文章と『日本書紀』の仏教関連の記述は、まったく文体が異なります。つまり、吉田さんは、いくつもの重要な解明をしているものの、そうした成果は、実は道慈述作説にとってはかえって不利な材料となっているように思われるのです。
次に、三経義疏については、吉田論文では藤枝先生の中国撰述説が紹介されたのち、倭習を根拠とした石井の中国撰述否定論が紹介され、それが事実なら、三経義疏は『日本書紀』成立と重なる時期に日本で成立したのか、朝鮮半島やそれ以外の地で「非漢人」によって書かれたかなどの問題が生じるため、「今後、さらに考究していかなければならない」(71頁)とあります。
この点に関して重要なのは、『勝鬘経義疏』と「憲法十七条」はともに倭習が見られるものの、文体が違うことですね。『日本書紀』の各部分の著者の問題、三経義疏の著者と思想の問題については、今後、さらに踏み込んだ検討が必要でしょう。
「むすび」では、次のように述べています。
『日本書紀』から一度離れ、それとは少しく異なる、新しい歴史像の構築を試みようとした。それに際して、また、考古学の研究成果を重視して、最初期の寺院の遺構、遺物を検証し、朝鮮半島の寺院の遺構、遺物と比較対照しながら、その特質について考察した。これらを通じて、ユーラシア大陸東部における仏教の歴史的展開という視角から、日本の仏教伝来の実相を考え、その特質について検討してみた。(81-2頁)
この「仏教の伝来と流通」の章では、この通りの検討がなされており、最近の研究状況と吉田さん流の新しい視点による受容期の仏教のあり方がまとめられている点で、今後の議論のための整理が手際よくなされていると評価できるでしょう。
「ユーラシア大陸東部」とありましたので、最後に、もう少し広い見方もあり得ることを指摘しておきます。それは東南アジア諸国の仏教です。カンボジアの前身となる地域では、ヒンドゥー教の神々の祭祀によって国王を権威づけていましたが、仏教信仰の国王が登場すると、その国王は密教的な観音を尊重して大きな像を作らせ、観音との同一化をはかった形跡があります。インド文化に基づくベトナム中部のチャム族系連合国家であるチャンパでも情況は同じで、仏教信者の国王となると、観音と同一視され、密教的な観音像が作られています。聖徳太子については、直接の影響関係は無いとはいえ、太子を救世観音とする信仰については、こうした大きな流れも考慮して考えていく必要があるでしょう。東南アジア諸国は、梁の武帝を「菩薩」と讃えつつ朝貢の形で貿易を行なうとともに、インドからの僧や自国の僧侶を数多く中国に送り込んでおり、仏教文化圏を形作っていました。仏教史は面白いですね。