聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

津田左右吉を不敬罪で告発した蓑田胸喜とその仲間たち:中島岳志「『原理日本』と聖徳太子」

2022年06月29日 | 津田左右吉を攻撃した聖徳太子礼讃者たち

 7月9日に早稲田大学で開催される聖徳太子シンポジウム(こちら)では、太子の事績を疑った津田左右吉の誤りと慧眼について語る予定です。

 それはともかく、津田左右吉を不敬罪で告発した連中については、論文を何本か書きましたが(最初の論文は、こちら)、考えてみたら、私が監修した論文集でも、売れっ子の中島岳志さんがこの問題を論じており、紹介していないままでした。

中島岳志「『原理日本』と聖徳太子ー井上右近・黒上正一郎・蓑田胸喜を中心としてー」

(石井公成監修、近藤俊太郎・名和達宣編『近代の仏教思想と日本主義』、法藏館、2020年)

です。

 中島さんは、『親鸞と日本主義』(新潮社、2017年)で、親鸞崇拝の超国家主義者が登場したのは、親鸞の思想自体にそうした主張を生み出す余地があったからだと論じて衝撃を与えました。その影響は極めて大きく、上記の論文集のうちの多くの論文が、この本に触れています。新たな視点を提示した意義を認めたうえで同書の問題点を指摘した斎藤公太「本居宣長の日本主義ー曉烏敏による思想解釈を通してー」も、この論文集に収録されています。

 さて、中島さんは上記の論文では、三井甲之が一高時代に神経衰弱となり、真宗の近角常観が説教していた求道学舎に通い、親鸞の思想に傾倒していったことから話を始めます。東大国文を出た歌人であった三井は、正岡子規の後継となる和歌の雑誌を編纂するうちに国家主義に染まり、また親鸞と聖徳太子への崇拝を強めるようになり、和歌雑誌でありながら国家主義的な主張を打ち出す『人生と表現』を刊行したのです。

 ここに集まってきた1人が、『人生と表現』に寄稿していた木村卯之の言葉に感動した真宗大谷派の僧、井上右近(1891-?)でした。京都で出逢って木村と交流するようになった井上は、木村が東京勤務となったのを追いかけるように東大に入って宗教学を学びます。木村卯之は、南無阿弥陀仏に代えて「南無日本」と唱えるべきだと説いた人物であることは、私が以前紹介しました(こちら)。

 井上は、東大法学部から文学部に移ってきていた蓑田に影響を与え、蓑田は強烈な超国家主義者となっていきます。

 井上は、1919年に京都に戻って真宗大谷大学で教えるようになりますが、大谷大学が『仏教研究』を刊行すると、日本精神から逸脱していると思われた者たちを激しく攻撃する文章を、同誌に載せるようになります。ただ、大学はまもまく辞職し、枝葉村塾という私塾を開いて若者の指導を始めました。

 この井上に出逢い、三井や蓑田の影響も受けつつ聖徳太子研究に打ち込むようになったのが、黒上正一郎(1900-1930)です。黒上は、聖徳太子が物部氏から仏教を守ろうとしたことを踏まえ、国民精神をそこなう敵たちに対する「永久思想戦」の必要を説き、親鸞はこの太子の立場を継いだと論じるようなりました。

 黒上は若くして亡くなりますが、三経義疏に関する熱烈な解釈は、没後に『聖徳太子の信仰思想と日本文化創業』として刊行され、この仲間たちに大きな影響を与えます(この点については、このブログでも紹介しました。こちら)。

 井上はこれらの人々をつなぐ重要な役割を果たしていたのですが、これまで詳しい研究はなされておらず、中島さんのこの論文がその取り組みの最初です。

 さて、井上は、太子の「世間虚仮、唯仏是真」を「国際世間虚仮、唯日本是真」と言い換えた木村卯之の路線に従い、「社会虚仮、唯真是祖国」と称して次々に太子関連の著作を刊行してゆきます。「祖国」という点を強調するのは、三井の影響ですね。

 井上によれば、太子の仏教のみが大地に根付いた仏教なのであって、インドや中国の仏教は大地を忘れて空ばかり見上げる「亡国的思想」だとし、その日本の正しい仏教とは、天皇への「随順」であるとします。国民を貴賎に関係なく平等に結びつけ、国体そのものである「同一宗教的生命に融会」せしめるのが天皇の「大御心」であるとして、それを妨げる者たちを攻撃する「戦闘的人生観」を説くのです。

 現実の天皇はそうした仏教信仰は持っていませんが、国体尊重、「南無日本」の彼らにとっては、現実の天皇の考えなどどうでもよく、自分たちの理想を体現する存在とみなされるだけなのですね。

 こうした思想を背景として、原理日本社の中心となって『原理日本』を編纂刊行し、思想的な敵とみなした者たちを罵倒攻撃するばかりか、時には告発までして大学などから追放していったのが、蓑田胸喜(1894-1946)でした。蓑田は他の仲間たちと同様、「自力のはからい」を捨て、現実の社会に生きた親鸞を釈尊よりも上位に置き、その先駆が聖徳太子だとするのです。

 中島さんは、「蓑田にとって、民主主義とは国民の平等な合一化である。それは皇化による融合によって成し遂げられる」とし、これこそが親鸞の説く「自然法爾」の世界だったと説きます。彼らは、「民族共同体の中に「融合」することで、疎外感を克服しようとした」とするのです。

 つまり、原理日本社は民主主義者や自由主義者を激しく攻撃したものの、自分たちこそが天皇のもとでの民の真の平等を目指す者だと考えていたとするのですね。また、中島さんは、そうした蓑田は、しばしばスピノザを引用するとし、「神即自然」を説いて一元的汎神論を説いたスピノザと蓑田との意外な共通点に注目します。

 これは重要な指摘ですね。三井は、民族心理を探求したドイツのヴントを高く評価していましたし、「ドイツ国民に告ぐ」を著してドイツ語の意義を強調したフィヒテも尊重していました。ナショナリズムは、実は海外の影響を受けている場合が多いのです。

 この中島論文のもう一つの特徴は、上記の人々が手紙と和歌雑誌への投稿を通じて一体感を得ていたことに注意している点です。不安な世相の中で、人とのつながりを得て同志として共感しあうという点が彼らの結びつきを強め、思想の敵たちに対する一体となっての攻撃に駆り立てたのです。

 それにしても、聖徳太子は本当に「自分の願望を投影しやすい存在」であるということを、改めて痛感させられますね。


法隆寺の歴史の集大成:法隆寺編『法隆寺史 上-古代・中世-』(7)法隆寺と播磨国

2022年06月26日 | 論文・研究書紹介

 今回は、岩本次郎氏の執筆になる

「第二章 第五節 法隆寺と播磨国」

です。

 岩本氏は、『日本書紀』推古14年(606)7月条では、聖徳太子が『勝鬘経』を3日で説き終えたとしており、続く是歳条では、『法華経』を岡本宮で講義したため、播磨国の水田百丁がに布施され、太子はこれを斑鳩寺に納めたとということから話を始めます。『日本書紀』のこの部分での呼称は「皇太子」ですが。

 そして、『法隆寺伽藍縁起并流記資材帳』の冒頭部分では、戊午年(推古6年:598)4月15日に、推古天皇が太子に依頼して『法華経』と『勝鬘経』を講義させたところ、その講義は僧侶のように立派であり、一堂の者皆な喜ぶという状況であったため、天皇は播磨国佐西地五十万代を太子に布施したため、太子はこれを斑鳩本寺(法隆寺)、中宮尼寺、片岡僧寺の三寺に分けて施入したとします。

 岩本氏は、これらはあくまでも『資材帳』作成当時の認識であることに注意したうえで、この地は16世紀まで法隆寺の根本莊園となっていたと述べます。ただ、『資材帳』は有名であるものの、作成当時の認識と述べておりながら、その作成年代に触れていないのは不親切ですね。むろん、天平18年(746)に大安寺、法隆寺、西大寺などの大寺に出された資材報告命令に基づき、翌年、提出されたものです。また推古6年には中宮寺も片岡僧寺も造営されていないことにも触れておいてほしかったところです。

 それはともかく、「五十万代」という記述については、大宝令(701)以前の単位である「代(しろ)」を用いているところが、寺側の誇張ないし作為が見られるという説があるとしたうえで、五十万代だと1000町となりますので無理があるとします。

 ただ、冒頭部分のこの記述と違い、所有する水田を示した箇所では、播磨国揖保郡のところで、「二一九町一段」があると記している点は事実と理解されていると説きます。というのは、1000町より大幅に少ないものの、かなりの量であることは事実であるうえ、嘉暦4年(1329)に作成された鵤荘絵図では、鵤荘とともに片岡僧寺に関わると思われる片岡荘の範囲が描かれており、現在も小字に「中宮寺」があることが注目されるためです。いつからかは明確でないものの、この播磨の地が中宮寺・片岡王僧寺を支えていたのは事実でしょう。

 なお、平安初期の『日本霊異記』では273町5段、『法王帝説』では300町としており、これはその時期の開墾面積として理解できるとします。

 この鵤の地は、『資材帳』が記載する寺領の水田のうち、ここの水田が全体の48%も占めているだけでなく、山や池も含め、様ざまな寺領があることが注目されます。つまり、土地の開発をやっているのです。

 播磨国に次いで寺領が多いのは、平群郡です。法隆寺は夜摩郡にあり、夜摩郡は元は山部郡ですが、桓武天皇の諱である山部を避けて改正させられたものです。

 法隆寺が所蔵する命過幡には、山部氏が献納したのものがいくつも見られることが知られており、関係の深さが知られます。この山部連は、地元の山部を統括するだけでなく、地方の伴造である山部直や山君(山公)らを通して山部を統括していたのであって、播磨国でも、平群郡斑鳩を本拠とする山部連が山部直→山部という形で押さえていただろうと、岩本氏は推測します。

 このように、推古朝時の詳細な状況は把握できないものの、上宮王家が亡んだ後になってから、再建された法隆寺だけの力で地方に寺領を伸ばしていくことは考えにくいことです。聖徳太子・山背大兄の時代において、既にかなり播磨その他の地を法隆寺が自らおよび関連する寺々の所領として確保しており、それに基づいて、各地の豪族と結びつく形で勢力を伸ばしていったと見るべきなんでしょう。


法隆寺の歴史の集大成:法隆寺編『法隆寺史 上-古代・中世-』(6)法隆寺系の地方寺院

2022年06月23日 | 論文・研究書紹介

 連載の続きです。今回は、

「第二章 第四節 法隆寺系の地方寺院」

であって、森郁夫氏担当分の最後です。

 さて、7世紀後半となる第Ⅲ四半期には、寺院の軒丸瓦の文様に大きな変化が起きます。複弁蓮華文の出現であって、外縁に面違いの鋸歯文がめぐらされ、瓦当そのものもひと回り大きくなって、直径18センチ以上となります。そのためか、中房が大きくなり、蓮子が中央の1個を中心に二重にめぐらされます。

 こうした文様は、天智天皇が母の斉明天皇の追善のため、近江遷都の前に発願したと伝えられる川原寺の創建時に考案されました。時代としては、660年代前半です。

 これの次に現れる複弁蓮華文の軒丸瓦は、670年の若草伽藍焼失後に造営された現在の法隆寺西院伽藍のものです。瓦当の直径は19.9センチもあります。こうした法隆寺式軒瓦は、先の記事で触れた中宮寺、法起寺、法輪寺などで使われたほか、やや西に位置する平群氏の平隆寺でも使われます。つまり、斑鳩の地で一斉に用いられるようになるのです。

 法隆寺と大和川を隔てた地には、長林寺と額安寺があり、さらに飛鳥寄りの地に醍醐廃寺があります。長林寺については、創建の事情を伝える史料はありませんが、法隆寺式よりさらに古い時期の単弁無子葉蓮華文の軒丸瓦が2種出土しているため、創建は7世紀前半であることが推測されています。

 そのタイプの瓦は、大和では法隆寺、片岡王寺のみ、河内でも新堂廃寺に見られる程度である由。

 額安寺は、 『大安寺伽藍縁起并流記資材帳』によれば、聖徳太子の熊凝道場を、太子の遺志を継いだ舒明天皇が改めて大寺にしたのであって、それが百済大寺であり、それが天武朝に移築されて高市大寺となり、さらに名が大官大寺と改められ、平城遷都にともなって奈良の地に移されて大安寺となったとされます。

 熊凝道場の伝承については疑われてきましたが、森氏は、瓦から見て、「聖徳太子との関係がまったくなかったとはいえないように感じられる」(107頁)と述べています。実際、舒明天皇には聖徳太子の事業を受け継ごうとする面があったことなどが、鈴木明子さんの論文その他によって明らかにされています(こちら)。こうした伝承は、史実に基づく面と、誇張して語っている面と、後世の創作による面があり、それが混じりがちなので、慎重に扱う必要がありますね。そのまま信じたり、逆にすべて否定したりするのは危険です。

 額安寺については、塔が回廊の外に置かれていたことが知られています。額安寺という名は、この地の豪族であった額田氏に基づきますが、大安寺の造営を主導した道慈は額田氏の出身ですので、大安寺では東西の両塔が金堂院の南に独立して建立されたことから見て、森氏はそれが額安寺にも反映しているとします。

 ともかく、森氏は7世紀後半とそれに続く時期の斑鳩では、寺が続々と建て替えられ、しかも揃って法隆寺式軒瓦が使われたのは、「斑鳩再開発とでも言うような一大事業が行われたからにちがいない」(107頁)と論じます。

 森氏が注目するのは、7世紀第Ⅳ四半期における大和側の両岸の動きで注目されるのは、天武天皇が祭らせて以来、竜田の神、広瀬の神に毎年、幣帛を捧げていることだとし、壬申の乱でからくも勝利した天武朝としては、重要な交通の要所だったことに注意します。

 大和では他には山村廃寺が法隆寺式軒瓦を使っていますが、このように広く用いられる瓦については、山田寺式、川原寺式、紀寺式などがあり、何らかの形で官に関わっていると指摘します。

 そして、法隆寺式軒瓦の地方分布については、『法隆寺資材帳』に記された水田、庄倉などの所在地と一致することが早くに指摘されています。これは、その地の豪族が法隆寺および官と関わりを持っていたことを示すとされます。

 特に目立つのは伊予と讃岐と播磨です。『資材帳』によれば、伊予の庄・庄倉は14箇所であって、松山市内には、法隆寺式軒瓦が出土する寺跡が7箇所もある由。森氏は、特に播磨では多様な所領が目立つと述べていますが、この点は別の節を紹介する際、扱います。
 
 法隆寺式軒瓦の普及と並んで注目されるのは、法隆寺式伽藍配置です。この配置は、舒明天皇の百済大寺の跡とされる吉備池廃寺が最初ですが、この遺跡では、金堂は東西37メートル、南北28メートルという異例の大きさであり、塔についても、一辺が約30メートル、高さ2メートルを大きく越える基壇を築いていたことが知られています。

 森氏は、吉備池廃寺の地は、阿倍氏の地と膳氏の地のちょうど中間にあたることに着目します。大夫を出す家系であった膳氏の傾子(かたぶこ)は、娘の菩岐岐美郎女を太子の妃としていたうえ、吉備池廃寺出土の軒瓦の中には、若草伽藍で用いられていたスタンプ文が用いられているのは、両方に関わった膳氏の存在を考えざるをえないとします。こうした地方の豪族の研究が重要ですね。
 
 額安寺については、国立歴史民俗博物館が共同研究をして報告集を出しています(こちら)。 


法隆寺の歴史の集大成:法隆寺編『法隆寺史 上-古代・中世-』(5) 『法華経』講経の岡本宮の後身が法起寺

2022年06月20日 | 論文・研究書紹介

 今回も森郁夫氏の執筆分であって、

「第二章第三節 中宮寺・法起寺・法輪寺と法隆寺」

です。内容を紹介していきます。

 中宮寺・法起寺・法輪寺はいずれも法隆寺と関係が深く、軒丸瓦も軒平瓦も7世紀後半に再建された法隆寺の瓦、つまり、法隆寺式軒瓦が出土している寺ですね。

 このうち、中宮寺は『法隆寺資材帳』では「中宮尼寺」と記されています。これが正式名称であったかどうかは不明ですが、早い時期の太子伝である『七代記』では「鵤(いかるが)尼寺」と記されています。僧寺である飛鳥寺と尼寺の豊浦寺のように、僧寺である法隆寺と対になるように計画されたとしたら、聖徳太子の生前に造営が始まった可能性が出てきます。

 ただ、森氏は、『聖徳太子伝暦』では、太子の母である間人皇后の宮を皇后の没後に寺としたとしていると述べるに止まっています。中宮寺からは創建時の若草伽藍と同じ瓦も少しだけ出ていますので、考えられるのは、間人皇后が住んでいた宮に、小さな仏堂を作って若草伽藍と同じ瓦を葺いて仏を安置しており、間人皇后と太子が続いて亡くなった後に、皇后の宮を改めて本格伽藍である中宮寺を造営したという流れですね。

 当初の中宮寺は、現在の場所の東方約500メートルあたりの地にあり、昭和38年度の調査で、南北の建物の跡が発見されて南が塔、北が金堂であって四天王寺式の配置であったことが判明しています。基壇周辺に凝灰岩の粉が発見されたため、壇上積み基壇であったことが判明しました。

 塔は二重基壇であって、面から2.5メートルの深さに心礎上面があり、金環、金の延べ板、ガラス玉、水晶角材などが発見されています。

 創建時の軒丸瓦は、先端が角ばり幅広の蓮弁を8弁置いた百済式のものと、中央に一条の凸線を持つ細長い蓮弁をおき、蓮弁の間に珠点をひとつづつ置いたものです。後者は豊浦寺創建時の瓦の系統のものであって、かつては高句麗系と呼ばれていたものですが、森氏は古新羅系とします。豊浦寺は尼寺ですので、その瓦が使われるのは自然ですね。

 面白いことに、この二種の瓦は、中宮寺跡の西4キロあたりに造営された四天王寺式伽藍配置の寺である平隆寺でも用いられており、その平隆寺の北方丘陵に作られた今池瓦窯でこれらの軒丸瓦が発見されています。平隆寺は平群寺とも称することが示すように、この地に居住していた平群氏の寺ですね。

 中宮寺の創建時に続く第二期(630年代)の軒瓦は、六弁の蓮弁の中にパルメットを置いた軒丸瓦と、均整忍冬唐草文の軒片瓦であって、これらは塔の屋根に葺かれたと森氏は推測します。しかも、軒平瓦の同笵品が斑鳩宮跡からも発見されていますので、斑鳩宮が皇極2年(643)に焼き討ちにされる前の時期の建立ということになります。

 次に斑鳩町岡本字池尻にある法起寺は、岡本寺とも呼ばれ、池尻寺とも呼ばれており、森氏は二つの名の寺は多いが三つの名の寺は珍しいとします。法起寺は、「法起寺塔露盤銘」によれば、亡くなる直前の太子が山背大兄に「山本宮」の建物を寺にするよう託し、大和や近江に水田を入れ、舒明10年(638)に福亮僧正が弥勒像を造って金堂を建立し、それから40年を経た天武14年(685)に恵施僧正「堂塔」を建て、慶雲3年(706)に露盤をあげたとされています。

 いろいろ議論のある資料ですが、「山本宮」は太子が『法華経』を講じたとされる岡本宮、「堂塔」は「宝塔」の誤りとする説が有力となっており、これほど間隔が開いたことについては、やはり斑鳩宮が焼かれて山背大兄一族が亡んだことが原因とする説に森氏も賛同します。

 法起寺境内から出土した軒瓦には、外縁に圏線をめぐらしてあるものがあり、皇極2年(643)と推定されている山田寺の軒丸瓦と共通であって、しかも山田寺より素朴であるため、法起寺金堂が舒明10年に造営されたという伝承が認めて良いとします。

 法起寺については、下層の発掘がおこなわれており、金堂推定地の西では、方位が真北から20度西に振れた玉石組の溝が検出されており、この方位の振れは、若草伽藍や太子道と同じですね。周辺地域では、この振れた方位と同じ方位で掘立柱遺構が発見されており、岡本宮の遺構である可能性があるとします。

 現在の法起寺における古代の建物は三重塔だけです。三重塔としては我が国最古であって、その初重、二重、三重は、法隆寺五重塔の初重、三重、五重とほとんど同じであって、法隆寺の五重塔にならって制作されたことが知られています。

 斑鳩町三井(みい)にある法輪寺については、創立の事情は明確ではありません。『太子伝私記』では、太子の病気平癒を祈って山背大兄とその子である「弓義(弓削)王」が発願したとされていますが、弓削王は当時は10歳以下ほどでしかありません。

 また『補闕記』『聖徳太子伝暦』などでは、斑鳩寺が天智9年(670)に火災にあい、再建のための寺地が定まらなかった際、百済の聞法師(一説では開法師)、円明法師、下氷雑物の三人が衆人を率いて太秦の蜂岡寺(広隆寺)、川内の高井寺を造り、三井の地に寺を建てたとする記述が見えますが、広隆寺は七世紀の第1四半期(601-625)に造営が始められており、高井寺は第2四半期に造営が始まったことが明らかになっています。

 一方、法輪寺に関して昭和19年(1944)に雷で焼失した三重塔を復興するため、昭和47年(1972)に調査がおこなわれた際、基壇の周辺からは再建した法隆寺式軒瓦が出土したのに反し、塔基壇の版築土の中からは、それより古式の軒瓦が出土しています。

 つまり、基壇を築成する際、先行する建物で使用されていた軒瓦が埋め込まれていたのです。その軒瓦は、単弁蓮華文のものと重弧文のものがあり、これらが創建時の金堂に用いられていたのであって、これに近いのは山田寺のものですので、森氏は、650年年代前後に造営が始められていたことが分かるとしています。


【番外編】久留米大学の九州王朝論講座は、自ら「聞きかじりの知識」に基づく「我田引水の歴史学」と称する経済学部教授が推進

2022年06月16日 | 聖徳太子をめぐる珍説奇説

 久留米大学が何年も九州王朝説に関する公開講座をやっていることは、以前の記事で触れ、旧石器発見ブームにとびついて町おこしをしようとし、後で捏造とわかって撤退した地方自治体の二の舞にならないよう望む、と書いておきました(こちら)。

 その後、調べてみたら、この公開講座は、まさに久留米の町おこしと結びついていたことがわかりました。そのことを良く示しているのが、この『壬申の乱の舞台を歩くー九州王朝説』(梓書院、2013年)という本です。



 壬申の乱の舞台は九州だというトンデモ本であって、著者は、久留米大学経済学部の教授でケインズ経済学や地方創生などの研究者である大矢野栄次氏。

 衆議院議員の鳩山邦夫氏が推薦文を書いているため、鳩山氏は東京生まれで東大出身のはずだがと不思議に思ったところ、東京を選挙区としていた鳩山氏は、2005年に、母方の祖父であってブリヂストンの創業者である石橋正二郎の出身地、久留米市を中心とする福岡6区へ移っていたんですね。

 鳩山氏は、宣伝の帯の裏表紙側では、

経済学がご専門で、私の指南役でもある大矢野先生がすばらしい歴史本を書かれました。……
「天智天皇、さらには持統天皇までもが九州の菊池や久留米で活躍をした、ということは飛鳥宮や藤原京までもがこの地である。」
この説には非常に興味があり、改めて歴史の奥深さを感じました。
「これぞ歴史」ですね!!

と書いています。「これぞ真実の歴史」と断言するのではなく、「興味があり」、「歴史の奥深さを感じ」ると書いており、「こうした見方もできるところが歴史の面白さだ」という表現にしてあるのは賢いやり方です。そうではあるものの、結局は、久留米が歴史上、重要な地であったとする本を推薦し、選挙地盤である久留米の人たちアピールしているのです。

(難波宮や飛鳥宮や藤原宮については考古学の発掘研究が進んでいます。この本が出される前にそうした研究状況をわかりやすく説き、PDFも公開されていて読める一例は、こちら

 大矢野氏は、この本の「プロローグ 『古事記』と『日本書紀』」の冒頭で、

考古学者はこの二つの書を無視しているのである。国語学者は……読むのである。しかし、……無いのである。そして、歴史学者は……無視するのである。
 神道の世界においては……が全てである。
『古事記』は……命じたものである。壬申の乱(六七二)の九年後である。
(1頁)

と記しており、「である」の7連発、それもアジ演説のような調子の断定続きとなっています。これだけ見てもこの本のレベルが推察されますね。

 ただ、理系では論文は英語で書くのが普通である分野も多く、日本語で書くのは苦手という研究者もいますので、ケインズ経済学などを専門とする大矢野氏も、海外の学術誌に英語論文ばかり書いているタイプなのかと思い、論文サイトである CiNiiで検索したところ、英語論文は1985年と1986年に国内の雑誌に書いていただけでしたので、日本語で書くのは不慣れというわけではなさそうです。

 それはともかく、問題は「あとがき」です。氏は、九州新幹線が開通するにあたり、久留米駅にとまるか鳥栖駅にとまるか議論された際、長崎本線との乗り換え駅である鳥栖駅に比べて久留米駅は不利であるため、「久留米の魅力を発信し、久留米に観光客が沢山来るように久留米の観光資源を創るべきだと考えた」そうです。

 しかし、久留米には有名人もおり名所もあるものの「何か物足りない思いがあった」という氏は、菊池川流域には装飾古墳が多く、築後平野には奈良にある地名と良く似た地名が無数にあるという「聞きかじりの知識を元に、我田引水の歴史学をやろうと思いついたのである」(185頁)と告白しています。正直ですね。こういう表現は普通は謙遜の言葉ですが、読んでみたら、氏の本はまさにこの言葉通りの内容になっていました。

 ともかく、氏はそうした状況で「古事記を築後で読む」という公開講座を始めた由。何年も研究してからならともかく、いきなり講座で講義し始めるのですから、凄い度胸ですね。「そんなおり文学部の大家教授から古田武彦氏を呼んで公開講座『邪馬台国九州説』をやるから『お前も何か話せ」と言われ」たものの、古田武彦については知らず、本も読んでいなかったそうです。

 好評であって毎年やることになったこの講座は、多くの古代史ファンを集め、3年続いたところ、「隠し撮り・隠し録音」をネットで公開している人がいるのはけしからん、という理由で古田氏は登壇しなくなった由。

 古田氏の九州王朝説に接して刺激を受けた大矢野氏は、いよいよ熱心になったようです。ただ、菊池を始めとする九州の地を調べていた九州王朝説論者の講座参加者、「秀島哲夫さん」から「先生も調べてくだい」ということで資料をもらったものの、「興味深い内容だったが、とんでもない話だと思った」程度だったとか。

 ところが、「秀島哲夫さんは、ネット上で私を近畿派のスパイとして攻撃」するようになったと書いています。大矢野氏は九州王朝説ではあるが、「九州王朝の歴史を近畿王朝が盗ったというような関係ではないというのが私の考え」だからだそうです(187-188頁)。

 つまり、679年の筑後の大地震などの災害が続いて九州から近畿へ移る人々が増え、政治の中心も移らざるを得なくなった結果、近畿王朝(奈良朝)が成立し、「その自然災害の責任を為政者として神に言挙げして、九州王朝を再建しようとしたのが『日本書紀』であるというのが私の歴史観」であって、「天武天皇と持統天皇の再建計画は尺の許すところとならず、希望は叶わなかった」が、「近畿に移った人々が、先に奈良に入っていた藤原不比等を中心として、新しい日本国(やまとのくに)を創るために平城京を始めた」由(同)。

 考古学や歴史学の研究成果を無視したトンデモ説であるうえ、「その自然災害の責任を為政者として神に言挙げして、九州王朝を再建しようとした」などと、わけのわからないことを書いています。この「珍説奇説」コーナーの第1回目にとりあげた「法隆寺の五重塔は送電塔がモデル」と主張した某大学の某先生が思い出されます(こちら)。

 そもそも、「言挙げ」の意味が分かって書いているのかどうか。「言挙げ」については、このブログでもイグナシオ・キロスさんの「コトアゲ」と「憲法十七条」に関する論文を紹介したことがありますが(こちら)、キロスさんは先行研究をしっかり押さえたうえで論じてますよ。

 大矢野氏の主張は、古田史学の会と良い勝負のトンデモ説であって、粗雑なところも良く似ています。たとえば、「文学部の大家教授」とありますが、「久留米大学文学部 大家教授」で検索するとヒットしないため、これは、久留米大学をアピールしようとしていろいろな催しをやり、盛んに活動した法学部の大家重夫教授でしょう。大家氏の場合も、著作権法などを専門としており、古代史の専門家でなかったのは大矢野氏と同様です。

 また、「秀島哲夫さん」という名前が2度出ており、九州王朝論者であった受講者の秀島さんから「先生も調べてください」ということで資料を渡されたと書いてありますが、秀島氏がネットにあげている記事では、秀島氏が既に調査した内容を「壬申の乱は九州」と題したプリントにし、大矢野氏や他の受講者たちに渡したというのが事実であるうえ、「哲夫」とあるのは正しくは「哲雄」だそうです。秀島氏は、公開講座を推進する大矢野氏の古代史の知識は受講生以下と酷評しています(こちら)。

 なお、「尺の許すところとならず」とは、「天の許すところ」の誤植でしょうか。

 とにかく、こんな調子の記述の連続です。立場が違うので古田氏の系統の九州王朝説論者とは意見が合わないはずですが、九州王朝説の公開講座に熱を入れる大矢野氏は、地域活性化のためならどの説でも良いのか、あるいはそちらに近づいたのか、古田史学系の歴史ファンも講師として招き続けているようです。

 しかも、九州王朝説に立つ久留米地名研究会の会員が2014年8月6日に公開した「久留米大学公開講座(九州王朝論)の拡大」という記事によれば、氏は以下のような力の入れぶりであった由。

 最終日、経済学部の大矢野教授が「来年度は夏と冬の6講座に倍増さ  せ、バス・ハイクやエクスカーションを入れて行く構想を持っている」ことを明らかにしました。
 実現するかどうかは分かりませんが、もし、そうなれば、九州王朝論の立場からの研究発表30セッションが実現することになるわけで、最低でも在野の研究者20人が登壇することになるのです。
 ここまでくると、事実上の椅子取りゲームとなっていた在野の研究者の発表の場が倍増することになり、文字通り、久留米大学は九州王朝研究のメッカ、不抜の拠点となってくる可能性が出てきたのです(こちら)。

 以上です。こんなことが出来るのも、久留米大学文学部には、日本史や考古学の学科がなく、公開講座には久留米大学の教員も参加していないといけないものの、別な分野を専門としていて古代史については素人の先生たちが登場しており、また玉石混淆の「在野の研究者」たちを招いて講座を担当させているからですね。

 「九州王朝研究のメッカ」か……。九州王朝説でも騎馬民族王朝説でも良いですから、きちんと研究して学問的なレベルの論文を発表してもらいたいところです。そう言えば、自分で管理できる公式業績サイトである researchmapで大矢野氏のコーナーを見たら、九州王朝関連で書いたものは「論文」の項目には入っておらず、「MISC」、つまり、「その他、雑」の項目に入っていました(こちら)。

 ちなみに、聖徳太子論文の多くをPDFで公開している私の researchmapのサイトは、こちら。太子に関する講演録も、学術的な内容のものについては、論文の方に入れて公開しています。

 大矢野氏の本と同じ梓書院からは、橿原考古学研究所に務め、大和の遺跡・古墳の発掘に長年携わってきた関川尚功氏が邪馬台国について書いた『考古学から見た邪馬台国大和説 畿内ではありえぬ邪馬台国』(2020年)が出ています。関川氏は、中国の青銅器の出土状況などから見て邪馬台国=大和説が成り立たないことを論じており、説得力がありました。どのような立場の説であれ、こうした実証的な研究であれば歓迎なんですけどね。

 町おこしについて、私の経験を書いておきましょう。かなり前に、中国の四川で生まれた唐代の有名な禅僧、馬祖道一(709-788)に関する国際シンポジウムがその誕生した町で開催され、欧米と日本の禅研究者たちが招かれました。

 ホテルから会場まではパトカーが先導し、次に黒塗りの高級車に県知事にあたる省長と共産党の宗教管轄のお偉方が乗り、我々研究者たちはその後の立派なリムジンバスに乗ったのですが、十字路ではパトカーがサイレンを鳴らして赤信号をぶっちぎりで突破。要所には銃をかまえた兵士だか警官だかが配置され、会場につけば赤いカーペットが敷かれており、ブラスバンドの演奏で迎えられました。ホテルに戻ってテレビをつけると、この地方のニュースでシンポジウムの様子が流されてました。

 町の人は、馬祖のことなどほとんど知らなかったのに、この年から、馬祖の誕生日が町の祝日とされたそうです。古びてこじんまりしていた馬祖ゆかりの寺は、この地方出身の欧米の華僑たちを中心として資金を集め、改装するとのことでしたので、現在は金ピカのお堂になっているのではないかと想像しています。

 この場合は、馬祖は実在人物であって、中国禅宗を確立した大立て者ですので、顕彰するのは良いのですが、聞いた話では、中国では省ごとの愛郷心・対抗心がすごいため、隣の省でもその省出身の禅僧を持ち上げ、その寺を観光と結びつける試みがなされることになったとか。

 こうした催しの中には、史実でない後代の伝承に基づくものもあります。菩提達磨ゆかりの熊耳山空相寺などは、倉庫に使っていた古い小屋と数本の石碑が残っていただけであったのを、調査した小島岱山氏が、達磨が没した直後に梁武帝が賞賛の文章を書いてそれを刻させたと記してある石碑は本物だと発表し、ニュースとなりました。

 小島氏からその話を聞いた私がこの石碑をとりあげ、論文を数本書いたことが中国を含めた諸国でこの寺と石碑が有名になる一因だったのに、寺の盛大な再建式には私は呼ばれませんでした。著名ではあるものの、この方面の専門家ではない研究者たちが呼ばれたようです。高速道路からその寺に至る道路も整備されたそうで、元になる絵も何もないまま寺が「再建」され、観光名所となっています。

 私が呼ばれなかったのは、梁の武帝が自ら書いた碑文を刻んだ石碑を建てさせたとされているものの、そうした史実はなく、碑銘は実際には唐代になって偽作されたものであって、石碑は後代に建てられたものだと書いたのがまずかったのでしょう(この石碑の画像やこの騒動については、こちら)。

 そうしたこともあったため、私は中国の大学や研究所が開催する学問的なシンポジウムや講演は引き受けていますが、寺や地方が主催して観光狙いで派手にやる催しはすべて断るようにしています。

 しかし、大学や研究所には予算が無く、仏教を排撃した文革が終わってから復興して裕福になったお寺や、政治的野心を持った財界人の居士などがシンポジウムの資金を出している場合もあります。そうした状況は行ってみないとわからないこともあるため、最近は古くから知っていてつきあいのある大学や研究所の催しにしか行かなくなり、その数も減りました。

 ともかく、久留米大は「九州王朝研究のメッカ」だそうですので、今年も九州王朝論の公開講座が開催され、大矢野氏(現在は名誉教授)やら古田史学の会の代表やら事務局長やらも講義をし、善男善女が九州の意義を強調した有り難いお話を聞くのでしょう。

 九州北部では、青銅器その他の中国の文物が大和など問題にならないほど多数出土しており、古代にあっては海外と盛んに交流していた先進地域であったことは間違いないのですから、そうした資料に基づく着実な内容の講座を望みたいところです。

【追加】
久留米大学の公開講座について何か書いていないかと思い、古田史学の会の代表氏のブログ「洛中洛外日記」をのぞいてみたら、

「第2759話 2022/06/11
古賀達也「神籠石山城 鬼ノ城西門と北魏永寧寺九重塔の造営尺」

という記事で、永寧寺について説明する際、『洛陽伽藍記』の文書を示していました。

「時に西域の沙門で菩提達摩という者有り、波斯国(ペルシア)の胡人也。起ちて荒裔なる自り中土に来遊す。(永寧寺塔の)金盤日に荽き、光は雲表に照り、宝鐸の風を含みて天外に響出するを見て、歌を詠じて実に是れ神功なりと讚歎す。自ら年一百五十歳なりとて諸国を歴渉し、遍く周らざる靡く、而して此の寺精麗にして閻浮所にも無い也、極物・境界にも亦た未だ有らざると云えり。此の口に南無と唱え、連日合掌す。」『洛陽伽藍記』巻一

と書いているものの、これだけ短い文章のうちに10箇所以上の不適切なところがあります。そもそも、訓読では古文の形にするのが通例なのに、「沙門で(→「で」は不要)」とか「にも無い也(→に無き也)」などのように現代口語の表現が混じっているうえ、「有らざると云えり(→有らずと云う)」と記すなど、古文めかした妙ちきりんな言い方になっています。古文の基礎ができてないですね。また、「起ちて荒裔なる自り」としてますが、「起自」は「起ちて~より」ではなく、この2語で「~から(始まり)」の意であって、訓としては「荒裔より中土に来遊す」で可。「荒裔なる自(よ)り」もおかしいです。「荽」は俀国みたいだけど、正しくは「炫」。しかも、原文の「自云(みずから云う)」の「云」が抜けてるし、「閻浮所にも無い也」は「閻浮(閻浮提=この世界。特にインドを指す)に無き所なり」の間違い。それに「響出する」って何なんだ? 「風鐸、風を含み、響き、天外に出づるを見」でしょ。また、「歌を詠じて」だと、そうした歌があるようだけど、正しくは「詠歌して」であって、「詠歌」は、節を付けて唱えることです。「未だ有らざると云えり。此の口に南無と唱え」としてるけど、口について前に何も記してないのに、「此の口」とするのはおかしいです。これは句読が間違っているのであって、「未有此。口唱南無(未だ此[これ=こんな素晴らしい寺]有らず。口に南無と唱え)」に決まってるでしょ。ネットで見た? 原文の句読の誤りを直せていないし、そもそも漢文の構造を理解してませんね。他にも問題がありますが、もうやめます。ああ、くたびれた。よくここまで間違えられますね。学界が相手にしないのは当然です。
 古文・漢文がこれほどできないからこそ、『東日流外三郡誌』は学の無い雑知識だけの現代人が文法に合わない古文もどきで書いていることに気づかず、本物だと信じ込み、また漢文史料についても誤読して大発見と称するトンデモ解釈を自信満々提示できるわけです。それにしても、この人たちは漢文が読めないのに、自信がない場合は「注釈や現代語訳がある文献についてはそれを参照する」という作業をなぜやらないのか。『洛陽伽藍記』などは、訳や注付きの本が何種も出てるのに。
 久留米大学の伝統ある九州王朝講座に参加し、質問して論旨に関わる資料の読み間違いを片っ端から指摘させてもらおうかな……。代表氏によれば、「学問は批判を歓迎し、真摯な論争は研究を深化発展させ」るそうなので。それにしても、事務局長氏も編集長氏も同様でしたが、古田史学の会の幹部たちは、長年あれこれ調べて書いておりながら、ここまで漢文が読めず、訓読もできないままでいられるというのは不思議です。これも「古代のロマン」の一つでしょうか。

【再追記】九州王朝論者がこの記事だけ見た場合、石井は神話重視の皇国史観寄りの立場で九州王朝説を批判しているのではないかと思うかもしれませんので、書いておきます。前の「古田史学の会」批判の記事にも書いたように、私は『日本書紀』や『古事記』を批判的に検討した津田左右吉のひ孫弟子であり、アジア諸国のナショナリズム、特に近代アジア諸国における仏教とナショナリズムの結びつきについて批判的に検討している研究者の一人です。このブログは一歩距離を置いた客観的な研究をめざしているため、梅原猛、井沢元彦その他のトンデモ説や、史実を無視して聖徳太子を無暗に礼賛する国家主義系の人達についても批判しています。

【追記:2022年6月18日】難波宮や藤原宮に関する考古学の研究成果をリンクで示しておきました。他にも、文章を多少訂正してあります。

【追記:2022年11月3日】「古田史学の会」の主要メンバーの書くものは、漢文が読めず、論文の書き方も分からない大学1年生たちがオカルト同好会の雑誌に書くような内容ばかりであることは、このブログの「珍説奇説」コーナーで指摘しておきました(こちらや、こちらや、こちら)。


法隆寺の歴史の集大成:法隆寺編『法隆寺史 上ー古代・中世ー』(4) 若草伽藍は飛鳥寺より多様な系統の技術で造営

2022年06月13日 | 論文・研究書紹介
 順序が前後しますが、今回紹介するのは、考古学者の森郁夫氏が担当した、

「第二章 法隆寺の創建」のうちの「第一節 法隆寺の創建」

です。編纂委員長の鈴木嘉吉氏の「編纂にあたって」によれば、『法隆寺史』の編纂は、百済観音堂新宝藏が完成したことを機に平成11年(1999)に管長交代となり、新管長に就任した大野玄妙師が寺史編纂に熱心に取り組んだ結果、各巻の執筆者も確定し、資料整理の進行状況を相互に確認できる体制が整えられ、企画が進んだ由。

 鈴木氏は、「刊行が大幅に遅れてその間に早くに念校まで目を通した森郁夫氏が逝去される非運も生じた」と(4頁)と述べています。森氏は2013年に75歳で亡くなっておらるため、この第二章第一節は、考古学の大家が晩年に書いた今から10数年以前の原稿であって、新進気鋭の若手研究者による最新の論稿でなないことになりますが、その当時の研究成果を反映したまとまりの良い内容になっていて有益です。

 「1 法隆寺再建・非再建論争」については、良く知られているため、略します。「2 若草伽藍の発掘」では、昭和14年の調査について、建物の基壇部分である掘込地業が南北2箇所で確認されたと述べます。瓦葺きの寺は相当な重量となるため、地面の不均等な沈下を防ぐため、建物の基盤とほぼ同じ範囲を掘り下げ、よく締まる土と入れ替え、少しづつ入れては棒で突いて固めていくのです。

 これを版築と呼びますが、こうした作業により、土層の断面が縞状になります。この掘込地業の跡が南北2箇所で発見され、基壇の大きさが確認されたうえ、金堂のための整地がおこなわれた後に、塔のための整地がおこなわれたこと、つまり金堂を先に建ててから塔の建設を始めたことが明らかになったのです。

 さらに昭和53年度からの防災工事をした際、若草伽藍を造営するにあたっては旧地形を大幅に変え、大規模な整地作業がなされていたことが判明しました。斑鳩宮の西側の外堀と判断される幅3メートルほどの溝も発見されましたので、その西側に斑鳩寺の東側を限る施設があることになりますが、平成19年度におこなわれた東面大垣の解体修理工事で、大垣の下層から3時期にわたる柱穴が検出され、斑鳩寺の北を画する施設と推定されました。

 こうした調査によって、斑鳩寺の寺域は、南北170メートル、東西150メートルと判明したのです。壮大な規模ですね。

 また、平成16年度におこなわれた西院南大門前の発掘調査では、火災を受けたことが明らかな瓦が出土しています。その中には、金堂の屋根に葺かれた手彫り忍冬文軒平瓦、塔の屋根に葺かれた単弁蓮華文軒丸瓦があり、斑鳩寺が火災を受けたことは確実になりました。

 さらに話題になったのは、火災を受けた金堂の壁画(画甎)の断片が多数出土したことです(ちなみに、日本最古の飛鳥寺やその次に建立された豊浦寺では、壁画の破片は発見されておらず、若草伽藍が最初と思われます)。

 さて、先に触れた基壇の調査によって、金堂は東西約22メートル、南北約19メートルと判明したのですが、これは現在の西院伽藍金堂の、東西21.8メートル、南北18.7メートルとほぼ同じであり、同じ規模で再建したことがわかります。

 これは塔についても同様であり、塔の掘り込み基壇の1辺が15.85メーターという大きさは、現在の西院伽藍の五重塔の下成基壇の規模と一致します。

 その西院伽藍金堂は、上成基壇は凝灰岩を用いた壇正積みであり、石材は一枚岩だけでなく、継ぎ足しした石がかなり使われています。そうした石は、焼失した若草伽藍の金堂のものが再利用されたものであり、若草伽藍も基壇は壇正積であったことが推測されると森氏は述べます。

 現在の法隆寺は再建ですが、太子信仰の高まりの中で、できるだけ前身である若草伽藍を受け継ごうとしていたのですね。現在の法隆寺金堂には、年輪測定法によって若草伽藍が焼失するすこし前に伐採されたことがわかる木材が一部で使用された部分もあるのですが、これはそうした木材を利用したということであって、焼失前に造営が始まったことにはなりません。

 さて、森氏は、若草伽藍の瓦について、軒平丸瓦が13種、軒平瓦が22種出土しており、創建時の軒丸瓦は、飛鳥寺の瓦を作るのに用いた瓦当笵が豊浦寺の瓦を作るために用いられ、そこで多少作成された後に蓮子が彫り加えられ、その瓦当笵で若干の瓦が作られた後に、若草伽藍造営工房に移され、そこで創建時の瓦が作成されたと述べます。

 ただ、百済の王興寺を作った工人たちを招いて造営した飛鳥寺では、文様を施した軒平瓦は見つかっておらず、若草伽藍のそうした瓦は、別の系統によるとされています。従来は高句麗系とされてきたのですが、森氏は、七葉や三葉のパルメット(先端が扇状に開いた文様)唐草文は、高句麗の壁画にも、また中国南朝末期か初唐の墓室の画像磚にも見えると指摘します。

 日本では七葉の文様が若草伽藍で用いられ、三葉の文様が渡来系氏族であって仏像作成にも携わった鞍作氏の寺である坂田寺で用いられているとし、系統は不明ながら、若草伽藍には飛鳥寺の造営グループと異なる集団も来て活動したと推測します。

 そして、若草伽藍では手彫りから瓦当笵に変わり段階的に変化していくのに対し、坂田寺では、手彫り唐草文軒平瓦が作られて以後、重弧文軒平瓦が登場するまで軒平瓦は作られていないため、この種の軒平瓦は若草伽藍造営時に考案されたと見るのです。

 なお、飛鳥寺は、推古14年に鞍作止利が作成した本尊が安置された頃は、中心部はほぼ完成していたであろうし、推古17年(609)に百済から漂着した僧俗85人を送り返す際、日本逗留を希望する僧侶10人を飛鳥寺に住まわせているため、その時期には飛鳥寺は整っていただろうから、その数年前、つまり、法隆寺金堂の薬師如来像銘が造営の年とする607年に工事が始まったとしてもおかしくないとします。

 森氏は、蓮弁が六弁であって中央に一条の筋が入っている瓦当文様は、百済では用いられておらず、統一前の新羅の特徴であるため、それとよく似た文様が若草伽藍の瓦に見えるのは、古新羅の技術も入っていた証拠と説きます。

 これと同じ系統の瓦が見えるのは、中宮寺の創建時の瓦です。類例は豊浦寺の瓦にも見え、従来は高句麗系と言われていたのですが、森氏は、高句麗の影響を受けた古新羅の系統と見るのです。

 こうした点について、森氏は、「若草伽藍造営時に多様な技術が導入されていたことを示している」と説いてこの節をしめくくっています。

 以上のように、若草伽藍は壮大な規模の寺であって、百済の技術によって建立された飛鳥寺よりも多様な系統の技術を用いて造営されており、壁画も備えた最新の寺だったのです。

 ところが、虚構説の大山誠一氏は、厩戸王は国政に関わるほどの勢力はなく、斑鳩寺は推古朝に46もあった寺の一つを都から離れた地に建てたにすぎない、といった言い方をしていました。

 しかし、当時の倭国における瓦葺きの本格寺院については、(1)蘇我馬子大臣の飛鳥寺→(2)馬子の姪である推古天皇の宮を改めた豊浦寺→(3)馬子・推古の血縁かつ両者の娘婿であった厩戸皇子の斑鳩寺、という順序で建立されたうえ、斑鳩は都の飛鳥と斜め一直線に結んだ太子道でつながっていました。しかも、寺が46あったというのは、推古朝の最後の頃のことであって、それらの中には仏像を安置した草堂程度のものも含まれていたでしょう。

 大山氏が虚構説を唱え始めた頃は、森氏の上記の論稿の内容のうちの7割くらいは既に明らかになっていました。大山氏の主張は厳密な文献批判に基づくものではなく、考古学の成果を無視し、意図的に厩戸皇子と斑鳩寺の矮小化をねらったものだったのです。

法隆寺の歴史の集大成:法隆寺編『法隆寺史 上ー古代・中世ー』(3)初期の法隆寺資料と「干食王后」

2022年06月10日 | 論文・研究書紹介
 本書のすべての内容を紹介することはできませんので、聖徳太子の時代やその少し後の時代を扱った節を中心に見ていくことにします。今回取り上げるのは、金堂の薬師如来像銘・釈迦三尊像銘・命過幡など、重要な初期の資料を扱った節、

「第三章第六節 初期の法隆寺関係史料」

です。担当は精密・着実な文献考証で知られる東野治之氏。

 まず、いろいろと議論がある薬師如来像の光背銘については、整った楷書であるものの、各行の字数は16~19字と不揃いであり、字画の端々にタガネで刻んだ際のメクレが残ると述べ、文章については、和文を漢字に置き換えた形と評します。

 この銘文は、津田左右吉が本物と見て「天皇」の語の最古の例としたものの、福山敏男が批判した結果、現在は7世紀後半の作と見るのが通説になっています(銘文はともかく、像自体はもう少し早く、7世紀半ばではないかとする三田覚之氏の新説については、このブログで紹介しました。こちら)。

 東野氏は、重病となった用明天皇の遺命を受けて推古天皇と聖徳太子が建立したというのは、7世紀後半の追刻であろうが、丁卯の年、つまり推古15年(607)に造ったという点は、創建に関わる重要な年として伝えられてきたものとして認めて良いとします。これだと、推古9年に斑鳩宮の建設を始め、13年に移住したとする『日本書紀』の記述とも合いますしね。

 銘文が推古天皇を指して「大王天皇」と呼んでいることについては、大王から天皇に移る過渡期の表現とする竹内理三の説もあるものの、東野氏は、宣命では天皇のことを「我皇天皇(わがおおきみすめらみこと)」と称しているため、この「大王天皇」はその別表記と見ればよいと説きます。

 次に釈迦三尊像銘については、14字で14行となっており、しかも例を見ない名筆で行書まじりの楷書で書かれていることに注意します。1行の字数と行数を同じに揃えるのは中国南北朝時代のの墓誌にも例が多いが、日本の古代の金石文でその通りの構成で刻まれたのはこの銘だけであり、しかも四字・六字を基本とする漢文となっており、和文色が濃い薬師像銘とは好対照だと説くのです。

 重要な人物のうち、間人皇女は「鬼前太后」、聖徳太子は「上宮法皇」、膳菩岐岐美郎女は「干食王后」とあって4字で表記されており、太子については「上宮法皇」以外では、「王身」などとすべて「王」で統一して呼ばれていると指摘します。

 膳菩岐岐美郎女(かしわでのほききみのいらつめ)を指す「干食王后」については、伝染病にかかり、「野干(ジャッカル)」に「食」われる地獄の亡者のように苦しんで死んだため、「干食」という諡号/法号がつけられたという九州王朝説信者のトンデモ妄想を前に紹介しました(こちら)。緻密な文献学者である東野氏はそうした悪い冗談は言わず、木簡に着目します。

 つまり、飛鳥の石神遺跡から

  大鳥連淡佐充干食

  □卩白干食

などの記載を持つ衛士ないし仕丁関係の木簡群が発見されており、人名は衛士か仕丁、「干食」はこれと組になって使役される廝(かしわで)を指すと考えられるため、「干食」は「カシワデ」を表記したものであることが明らかになったとするのです。膳氏の「カシワデ」ですね。

 正倉院文書では、廝のことを「干」と記すことが多く、謎だったが、「干食」の省略形であったとすれば納得できるとします。そして、8世紀以前のウジの名の表記には「青衣」と書いて「采女(うねめ)」と読ませるなど、難解なものが多く、しかも木簡に見えるため、実際に使われていたことが分かるが、「干食」は「食に干(かか)わる」ことに源があるかもしれないと推測します。

 「鬼前太后」の「鬼前」についても、これと同様に「ハシヒト」の特異な表記である可能性が高いとしています。

 そして、この銘については、実際に光背を間近で観察したところ、銘が刻まれている部分よりひと回り大きな範囲が他と違ってあらかじめ平坦に仕上げられており、しかも、光背に施された鍍金が裏側にまで飛んでいて銘の部分にまで及んでいるため、光背と一体のものとして作成されたと見るほかないとしています。これらは、以前の論文に基づく記述です。

 となると、「法皇」という記述も認めるほかなく、「王」と「皇」は古代には通じて用いられており、意味の違いはないため、「ノリノミコ」あるいは「ノリノオオキミ」と読まれていたとし、少なくとも晩年にはそのように呼ばれていたと見ます。

 「王」と「皇」は同音であり、「法皇」も「法王」も「ノリノオオキミ」と呼ばれただろうというのは、私も同意見です。ただ、私の場合は、『日本書紀』が掲げる異称の「法主王」に注目し、「法主」は中国では講経に巧みで寺の講経を担当する僧、ないし責任者の僧を指すため、「法王」「法皇」はそうした意味であって、「法王」は釈尊のイメージを投影した場合もあったろうと論じたのですが(こちら)、「法皇」で「皇」の字が使われたのは、やはり天皇に準ずる存在だったから、ということでしょうね。

 次に、三尊像の台座については、扉などの部材を転用したことが早くに知られていたうえ、裏側の墨書が発見され

  辛巳歳八月九月作□□□□

  留保分七段
   書屋一段
   尻官三段 ツ支与三段

と記されていたことで話題になりました。律令制における官司の前段階となる官が成立していたことになりますので。なお、「書屋」というのは、本を作る工房のことです。奈良時代にかけて、寺の内部や外部には「瓦屋」のように、「~屋」と呼ばれる建物が設置されており、それらを造る場所でした。「酒屋」の場合も同様であることは、毎月連載しているお気楽エッセイで触れておきました(こちら)。何しろ私は、酒と仏教の関係の専門家なので。

三尊像と同じ頃の制作であることが明らかになっているため、辛巳は太子が亡くなる前年の推古30年ということになり、これも矛盾しません。東野氏は、三尊像は膳氏が主導したため、この部材を用いた建物は膳氏の建物であったと推測し、三尊像についても、法輪寺など膳氏ゆかりの寺に安置されていた可能性が高いとします。これは、火災の時に持ち出せたか、という問題を解決しうる推測ですね。

 その斑鳩寺の天智9年(670)の火災については、『日本書紀』では天智八年と九年に記されていることが知られています。別の寺の火事、あるいは火災が2度起きたと見る説もありますが、この時期は干支の計算法によって一年のずれがあるのは良くあることであって、東野氏は、同じ事件だとします。壬申の乱の前は、前徴として災異や異常現象の記事が多く記されているため、そうした例として二つの記事があげられたという考えです。

 なお、『補闕記』では火災の後で奴婢の身分の確定が行われたとしていますが、東野氏は、これは天智9年に始めて戸籍作成が行われた庚午年籍に登録するためであろうから、火災の年は天智9年で間違いないとします。

 最後に、法隆寺に寄贈されている命過幡については、『灌頂経』に基づく死者儀礼と関連するものと見る説に賛同し、飽波・山部・大窪など、中小の氏族によって献呈されていることに注意し、女性の供養のためのものが多いのは元は尼寺に寄進されたかとします。

 以上、東野氏の着実な考察を紹介しました。

追記

法隆寺の歴史の集大成:法隆寺編『法隆寺史 上ー古代・中世ー』(2)斑鳩宮と太子道

2022年06月07日 | 論文・研究書紹介
 第一回目(こちら)の続きです。

 第二節「斑鳩宮の造営」では、まず太子が育った用明天皇の「宮の南の上殿」らしき場所として桜井市上之宮が紹介されます。この地で発見された遺構は、掘立柱建物を中心として園池遺構をともなうものであって、石組みの池の遺構から北に50メートルに及ぶ石組みの溝が発掘されており、正殿風な建物の東に掘立柱の南北柵があって中枢部を区切っているため、宮殿風となっています。

 これらは主に8世紀のものですが、7世紀に遡るものもあり、調査が必要とされています。ただ、用明天皇の磐余池辺双槻宮の遺跡が確認されていないため、阿倍氏の邸宅群とする説もあり、確定はしないままです。

 ただ、『続日本紀』神護景雲元年(767)4月26日条によれば、称徳天皇が飽波宮に行幸した際、法隆寺の奴婢27人に爵を賜ったとされており、この地と法隆寺の関係深さが示されています。また上宮遺跡の西南150メートルに位置する成福寺は、聖徳太子の宮であった地に建立されたもので、俗には「神屋寺(かみやでら)」と言われるなどしています。

 このため、森氏は、「この近辺に聖徳太子生誕の宮が存在した可能性もある」と述べるのですが、この推定は論証不足ですね。

 次に蝦夷の軍勢によって焼かれたとされる斑鳩宮については、東院伽藍の解体修理工事にともなって発掘調査がおこなわ、南北の方位で建てられている東院伽藍と違い、西に触れた方位で造営されてた建物の遺構が発見されています。焼けた壁土が散乱していたうえ、柱を抜き取った穴に焼け土が入れられていたため、火災後の後始末がおこなわれたことを示すという判断がなされた由。 

 建物の遺構については、小規模のものは早い段階で建てられており、大規模建物群はその後の時期に建てられたことが明らかになっています。この大規模建物群は、山背大兄の宮の一部であった可能性はあるとしつつも、発掘されたこれらの遺構は、推定される斑鳩宮全体のうち、東端に位置するため、宮の中枢部ではなかった可能性もあるとします。

 森氏は、大嘗宮は正殿が南北棟で妻入りであり、付属舎は左右対称でなく、これは神社にも見られる配置であって、斑鳩宮の遺構はこれに似ているとします。

 そして、瓦が少し発見されていますが、宮に瓦を葺くのは持統天皇の時が最初ですので、この瓦は宮のうちの瓦葺きの小堂、あるいは大型の廚子などの設けられていたと推測します。宮殿施設で瓦が発見されている例としては最古であり、仏教信仰が篤い上宮王家らしいというのです。

 『日本書紀』では厩戸皇子は斑鳩宮で亡くなったと記されていますが、『大安寺伽藍縁起并流記資材帳』その他では、飽波葦牆宮で亡くなったとしており、『日本書紀』が言う「斑鳩宮」は広い意味での呼び方とする見解もあるとします。

 そして、飽波については、生駒郡安堵村(現在は安堵町)東安堵に「飽波」という垣内名が見えるうえ、村内を筋違道(太子道)が通っていることに注意します。


(同書、47頁)

 第三節では、岩本氏がその太子道について解説しています。法隆寺の東の高安の地で竜田道と直交し、東南に向かっており、そのまま延長すると推古天皇の小墾田宮に向うのが太子道です。弥生時代に集落間を結ぶ自然道を利用したとする説もあるこの太子道は、ところどころで遺構が発見されているものの、下ツ道と接続するあたりでは痕跡が皆無なのは、官道である下ツ道が成立するとそれに取って代わられたためと見ます。

 太子道には、西南に向い、現在の王寺町を経て、馬見丘陵の西側、片岡の地を経て二上山の北麓を越え、太子の廟所とされる叡福寺がある河内磯長へと続く道もあります。片岡は、飢人説話で有名な場所ですね。岩本氏は、この道は、太子信仰の高まりとともに太子ゆかりの地を巡礼する人々が通ったことから太子道とされるに至ったと推測します。

 斑鳩宮の遺構も太子道も方位が西に振れていましたが、法隆寺周辺には、その西に振れた方位と同方向の道、ないしそれと直行する道が多い由。このことから、斑鳩では方格地割がなされていたと推定されていますが、その単位に関しては論争になっており、大別すると3種になります。

 第一は、当時の高麗尺(1尺=0,353m前後)により、300尺=1町(106m)を基本としたとする岩本氏の説です。第二は、250尺=1町(88m)を単位としたとする千田稔氏の説です。第三は、千田説は実際の道とは差があると批判し、岩本説については、飛鳥寺・川原寺・山田寺・若草伽藍では高麗尺300尺が基本単位だが、その四つ割である75尺、またはその倍数や√2 なども用いられることが多く、斑鳩では寺院や宮殿をその単位で区画した結果、周囲でも随所に300尺単位の遺構が残ったとする井上和人説です。

 岩本氏は、本書は「論争の場」ではないがと断ったうえで、これらに反論し、さらに、西に振れた偏向地割でも南北の地割でも説明できない複雑な様相が見られるとする見解を紹介したうえで、それは斑鳩が方格地割されていたことを全面否定することにはならないと論じます。

 最後に、尾根筋の先端を削り、谷筋を梅、一定の計画性のある地割設定をおこない、大道や水路を通じさせ、そこに宮と寺院を並立させるというのは大土木作業であり、上宮王家の勢力が高かった時でなければ考えられないとします。聖徳太子を中心とし、妃を出したこの地の膳臣などが中心となり、飛鳥に対抗して仏教を柱とする「一大文化圏」が形成されていたと結論づけるのです。

 これは、大臣馬子や推古天皇を無視した議論のように思われます。外交政策などの面で意見が合わなくなっていった可能性はあるものの、寺院建築の工人たちは馬子大臣が握っていた以上、当初は馬子の絶大な支援のもとでなされたでしょうし、義理の母である推古天皇の承認なしに、飛鳥の都とつながるそんな大規模な土木事業がなされたとは考えにくいです。  

7月9日に早稲田で「聖徳太子の実像と伝承」シンポジウム

2022年06月04日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報

 7月に早稲田で聖徳太子シンポジウムが開催されます。人数制限のある対面参加は事前申込が必要ですが、ネットでの視聴は自由である由(こちら)。



 発表者と司会者は、私以外は、

阿部泰郎・吉原浩人編『南岳衡山と聖徳太子信仰』(勉誠出版、2018年)

のメンバーですね。この本も、前回から紹介し始めた法隆寺編『法隆寺史 上 ー古代・中世ー』(思文閣出版、2018年)と同様、私がブログを休んでいた時期に出ており、紹介し忘れていた本の一つです。

 河野さんは、古代の日本文学に与えた中国の影響などについて研究しており、私とは『日本霊異記』の研究仲間です(と私は勝手に考えてます)。太子信仰の代表的な研究者で中世の宗教テキスト全般について精力的に研究している阿部さんとも古いつきあいであって、東方学会の「願文」パネルやパリで開催された「論義」シンポジウムその他でご一緒しており、駒大にお招きして講演してもらったこともあります。

 大学院の後輩である吉原さんについては、古田史学の会のメンバーたちが「九州年号を用いているため、九州王朝の王である多利思北孤の太子、利歌彌多弗利が重病になった際、善光寺如来にすがろうとして出した手紙だ」と力説している善光寺如来あての「斑鳩厩戸勝鬘」の手紙(むろん、中世の偽文献)に関する吉原論文をこのブログで紹介しました(こちら)。

 吉原さんに、このブログでもとりあげた(こちらと、こちら)聖徳太子関連の論文もどきがいくつも掲載されている古田史学の会編『古代に真実を求めて:古田史学論集』第二十五集について尋ねたら、「抱腹絶倒もの」との返事でした。

 私の発表内容は、主催者である吉原さんの要望によるものです。聖徳太子は、謙虚な面があるものの実はかなりの自信家であり、民衆のために身を投げ出すべきだと確信しているものの、やや上から目線であって「ノブレス・オブリージュ」の性格が強い、といったことを話す予定です。

 7月は早稲田のエクステンションセンターでも聖徳太子について4回講義する予定ですし(こちら)、27日の法隆寺夏期大学でも講義する予定なので、内容が重ならないようにするのがひと苦労です。新しいネタを入れないといけないし。

 「憲法十七条」の現存最古の注釈は、小倉豊文が発見したものですが、これについては、5月に京都の国際日本文化研究センターでインドと中国と日本の「無常」の違いについて講演した際、その前日に広島大学図書館に寄って撮影させていただきました。

 無常講演で sabbe saṅkhārā aniccāを「諸行無常」と漢訳したのは五行思想の影響だと論じた点については、9月にパリで開催される翻訳シンポジウムで詳細な補足をつけて発表する予定です。初期の漢訳の原典は、むろん梵語でもパーリ語でもなく、インド西北部のガンダーラあたりの言葉であるガンダーリーかその西域訛りの言葉だったわけですが。

 国際日本文化研究センターでの講演は、対面参加者は数人だけであってリモート併用でやり、コロナ禍がまだ続いているため終了後の懇親会もありませんでした。その日はゲストハウスに泊まったところ、コロナ禍中なのにセンターのレストランは某学会が貸し切りにしており、山のふもとであって近くには飲食店もないため、スーパーマーケットまでとことこ歩いていってウーロン茶と弁当を買って帰り、殺風景なゲストハウスの部屋で一人わびしく食べたことでした。

 考えてみると、京都学派が中曽根首相に要望して創設されたこの国際日本文化研究センターの初代所長は、法隆寺は聖徳太子の怨霊封じの寺と論じた『隠された十字架』の梅原猛であって、私はこの怨霊説についてこのブログの「珍説奇説」コーナーで3回にわたって強烈に批判しているため(こちら)、多分、大先生の怨霊の祟りだったのでしょう。


法隆寺の歴史の集大成:法隆寺編『法隆寺史 上ー古代・中世ー』(1)

2022年06月01日 | 論文・研究書紹介
 聖徳太子関連の研究書や論文については、刊行されたらなるべく早くこのブログで紹介したいと思っているのですが、意外な本や論文が脱けていたりします。今回、気がついたのは、このブログを3年ほど休んでいた間に刊行されたこの本です。

法隆寺編『法隆寺史 上 ー古代・中世ー』
(思文閣出版、2018年)

 法隆寺に関する本や論文は山ほど出ているのですが、創建から現在に至るまでの歴史を詳細に記した本は、実はまだ出版されていませんでした。法隆寺史編纂委員長である鈴木嘉吉氏の「編纂にあたって」によれば、その企画が発足したのは、現在の法隆寺のすべてを調査して記録した『昭和資材帳 法隆寺の至宝』全15巻の刊行が最終段階になった平成9年(1997)だった由。

 一貫した詳細な寺史が書かれなかったのは、宝物の異様な多さに比べ、古代・中世の古文書が比較的少なかったほか、中世・近世には著名な僧侶が出ていないことも理由の一つであったようです。そこで、編纂委員会では、通史篇を上(古代・中世)、中(近世)、下(近代)の三巻にまとめることとし、年譜(3巻)、史料篇(3~4巻)で計画した由。

 そして長い経過を経て、ようやく上巻の刊行に至ったわけです。執筆者の顔ぶれを見ると、最先端の若手研究者ではなく、それぞれの分野の大物が多いうえ、刊行が遅れたため、最先端の成果ではなくなった章・節も目立ちます。

 そもそも、この本の性格上、個々の研究者の特色ある最新説を示すのではなく、執筆時における学界の研究成果を紹介するという方向で書かれていますので、それは無理もないことですが、これまで詳細に論じられていなかった面がとりあげられている章や節などもかなりあり、とにかく重要な基礎研究となっています。

 構成は、亡くなった大野玄妙管長の「序文」、鈴木氏の「編纂にあたって」に始まり、

 序章 斑鳩の地理的環境と歴史的環境
 第一章 聖徳太子と斑鳩宮
 第二章 法隆寺の創建
 第三章 西院伽藍と東院伽藍
 第四章 聖徳太子信仰と子院の成立
 第五章 南都の興隆と法隆寺
 第六章 法隆寺の「寺中」と「寺辺」
 第七章 法隆寺の中世的世界
 索引
 図表・略称一覧
 執筆者紹介

となっていて、それぞれの章がさらに細かい節に分かれています。第一章であれば、

 第一節 聖徳太子と太子をめぐる人々
  1 聖徳太子と上宮王家
  2 上宮王家を支えた人々
 第二節 斑鳩宮の造営
  1 聖徳太子の宮
  2 斑鳩宮跡の発見
  3 二時期に分かれる斑鳩宮跡
  4 飽波葦垣宮
 第三節 太子道と斑鳩の地割
  1 河内と斑鳩・飛鳥を結ぶ古道
  2 斑鳩の方格地割と斑鳩寺の立地

といった調子です。こうした節が全部で26もあり、このブログでそれぞれの節の内容を紹介すると26回を要するという、濃密な内容になっています。

 それは無理なので、以後、特定の章、ないし節の内容を紹介していくこととし、今回は序章と第一章前半の内容を簡単にまとめておきます。執筆者は、序章と第一章の第三節は岩本次郎氏、第一章第一節は渡辺晃宏氏、第二節は考古学の森郁夫氏です。

 序章では、岩本氏は、斑鳩は東は富雄川、西は竜田川、南は大和川と馬見丘陵、北は矢田丘陵に囲まれているものの、古くから河内街道と呼ばれる交通路が斜めに走っており、閉ざされた地域ではなかったとします。斑鳩町には60基の古墳と10カ所の古墳時代の遺物散布地がある由。

 このように、近くに川が流れているものの、川から田畑へ水が引かれておらず、中央部は主に溜め池によって灌漑してきたそうです。確かに、このあたりは溜め池が多いですね。

 古墳のうち、法隆寺の背後の寺山の北に延びた小丘陵の先端に位置する仏塚古墳からは、仏教関連の遺物が大量に出土しています。近くには法隆寺別院と称された極楽寺があり、それとの関連が説かれているほか、被葬者としては太子の妃である菩岐岐美郎女を出した膳氏の可能性が指摘されています。

 法隆寺の西南に位置する直径50メートルの大型円墳である藤ノ木古墳は有名ですが、被葬者は馬子に殺された穴穂部皇子と宅部皇子とする説があります。

 法隆寺の東南に位置する東福寺遺跡は、飛鳥時代の掘建柱建物その他の遺構が発見されており、その南の上宮(かみや)遺跡は弥生時代から鎌倉時代にかけての複合遺跡ですが、主要な遺物は飛鳥時代から奈良時代のもので、菩岐岐美郎女がいた宮であって太子が亡くなった飽波葦垣宮とする見方が有力です。

 この近辺については、鎌倉時代の資料には「カシワテ」「カシハテ」「膳手」という表記が見られるため、岩本氏は、膳氏の本拠がこのあたりであって、太子に宮と妃を献上したと推測します。

 第一章第一節では、渡辺氏は、「聖徳」の語は慶雲3年(706)作とされる「法起寺塔露盤銘」に「上宮太子聖徳皇」とあるのが初見で、養老4年(720)の『日本書紀』に「東宮聖徳」とあるのが古い例であることから話を始めます。

 そして、天平10年(738)頃に成立した古記が「一云」として、天皇の諱とは「上宮太子、聖徳王と称する類」と述べているとし、天平10年頃には「聖徳」という呼称が実際におこなわれていたことに注意します。ただ、この段階では「聖徳王」「聖徳皇」が一般的であって、「聖徳太子」という呼称は天平勝宝3年(751)の『懐風藻』序が最古とされていると述べます。

 『懐風藻』は、歴代天皇の漢字諡号を定めた淡海三船の編集のようであり、「聖徳太子」という呼称は、三船が南岳慧思後身説と結びつけた形で用いて広まったらしいことは、私が「聖徳太子といかに向き合うかー小倉豊文の太子研究を手がかりとしてー」と題する講演録(『教化研究』166号、2020年8月)で明らかにし(こちら)、このブログでも紹介した通りです(こちら)。

 第一節で興味深いのは、年輪測定法によって現在の法隆寺五重塔の心柱が594年と判明したことを取り上げていることでしょう。蘇我氏の法興寺は、『日本書紀』によれば推古元年(593)に刹柱を立てており、法隆寺五重塔の伐採年代と近いのです。このため、渡辺氏は、斑鳩寺の建立計画は斑鳩宮造営より前からあったのであって、実際は斑鳩寺の方が斑鳩宮の造営より少し遅れたものの、斑鳩宮と斑鳩寺は一体のものとして進められた可能性があるとします。

 上宮王家を支えた人々という部分では、上宮王家は、他の王臣たちと同様、多数の舎人を従者として抱え、人格的な隷属関係をむすんでいたとし、上宮王家については、その経営に膳氏が深く関わっていたと説いています。

 太子の所領とされた土地の豪族たちが、私的なつながりによって舎人として奉仕し、馬の飼育や水田の管理などの仕事に携わったのです。そして、この人たちが、そのまま官僚として律令制下の王臣の家政機関に組み込まれていったとします。

 この指摘は、大化以後の官司制を反映しているという理由で「憲法十七条」が疑われたことと関連しますね。実際には「憲法十七条」は、私的な従属関係をそのまま官職と呼び換え、官司制整備の方向に移ろうとした移行期の様子を示しているように思われるのですが。

 上宮王家には、舎人のほかに「奴」と呼ばれる人々もおり、律令制では「家人」とか「奴婢」とか呼ばれるが、舎人と明確な違いはなかったろうと推測します。

 『日本書紀』の守屋合戦記事では、物部守屋大連との戦いに勝った後、「大連の奴の半ばと宅とを分け、大寺(四天王寺)の奴と田荘と為す」とありますし、『続日本紀』神護景雲元年(767)4月26日条によれば、太子の飽波宮の地が後に天皇家の行宮とされたようで、称徳天皇が飽波宮に行幸した際、法隆寺の奴婢27人に爵を賜ったとあるため、法隆寺にも奴婢がいたことが分かります。寺に田畑を寄進する場合は、人も一緒に寄進するのが普通ですし。