聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

大山誠一「序論 『日本書紀』の解明に向けて」「記紀の編纂と<聖徳太子>」(3)

2011年06月28日 | 大山誠一「聖徳太子虚構説」への批判
 さて、大山氏が今回、『古事記』の背後には長屋王がおり、「安万侶は長屋王のブレーンとして、その意向を代弁していたとすることも可能なのではなかろうか」(66頁)と説くようになったのは、「道慈が718年に帰国してから<聖徳太子>創作を始めたとすると、720年の『日本書紀』完成まで時間がなさすぎる」という批判に応えるため、というのが理由の一つのようです。

 その少し後の頁では、<聖徳太子>を創作した場合の『日本書紀』編纂について、「もちろん、関連する人物にも目配りをする必要があるから、複雑な編纂作業だったはずで、それには多くの人材が参加したことであろう」(68頁)と書かれているのは、その証拠であって、それまでの『日本書紀』最終編纂時創作説がいかに現実離れしていたかを示すものですが、「学問的」な批判を受けて説を変えたとは書いてないですね。

 あるいは、大山説では、『聖徳太子の真実』(2003年)所載の「『日本書紀』の構想」論文あたりから、蘇我馬子こそが大王だったのであって『日本書紀』はそれを隠蔽しているのだと主張するようになったため、その場合は系譜の調整など編纂作業がさらに複雑となって時間がかかったはずだから、という事情もあるのかもしれません。

 それはともかく、上の安万侶ブレーン説によると、『古事記』作成、とりわけ「上宮之厩戸豊聡耳命」の部分の作成を主導したのは長屋王ということになります。実際、大山氏は、厩戸王は即位していないにもかかわらず、『古事記』末尾には「上宮之厩戸豊聡耳命」とあって天皇なみに「命」の敬称を付けて呼ばれているのは、「この人物を、偉大な文化人として構想すべきという長屋王側の問題提起だったのではないか」(66頁)と書いています。

 ところが、その少し前の頁では、「現在の記紀の神話は、天皇を利用しやすくするために不比等が主導して作ったものだったと言ってよい」(59頁)と書かれています。これだと、『日本書紀』だけでなく、『古事記』も不比等が主導したことになりますね。『古事記』は長屋王が安万侶に書かせたという話は、どうなるんでしょう?

 さらに、もう少し後の頁では、『日本書紀』の編纂が進む途上で、不比等は『古事記』を長屋王につきつけられ、それを考慮せざるを得ず、「そういう中で、上宮之厩戸豊聡耳命の人物像としての肉付けが進行したのではないだろうか。中心は、やはり、不比等と長屋王であったと思う」(68頁)とあります。不比等は、長屋王が安万侶に書かせた『古事記』完成版を長屋王につきつけられ、以後、長屋王と協力して『日本書紀』編纂に努めたのか、草稿をつきつけられて長屋王で協力して『古事記』を作り『日本書紀』も編纂したのか、あるいは59頁にあるように『古事記』と『日本書紀』の両方を「不比等が主導して作った」のか、一体どれなんでしょう? 

 大山氏の意図がそのいずれであるにせよ、長屋王と不比等が『古事記』作成に深く関わったことを示す具体的な史料はありませんが、それは『日本書紀』最終編纂段階で不比等・長屋王・道慈が<聖徳太子>を創作したとするこれまでの大山説の場合も同じです。つまり、今回は批判を考慮して説を多少変えたものの、具体的な文献に基づかずに想像だけで書くやり方は、一貫しているのです。

 そうした想像の結果、大山説は、今回の論文では、道慈の帰国以前に不比等と長屋王が中心となって<聖徳太子>像やその系譜などをある程度準備していたからこそ、道慈は短期間でそれを完成することが可能だったのだ、という主張に変わりました。<聖徳太子>は『日本書紀』最終編纂段階で一気に創作された、という批判の多かった部分は改めたものの、長屋王と不比等が創作したという点は何とかして守ろうとしたのですね。

 しかし、今回のように、長屋王と不比等が<聖徳太子>の源像を早くから準備していたなどと書くと、大山『聖徳太子と日本人』(風媒社、2001年)で、

「道慈は、『日本書紀』編纂の最終段階で、その実質的責任者に抜擢されたのである。……もちろん、聖徳太子関係の記事のほとんどが彼によって記されたことだろう。ということは、不比等や長屋王の意向を受けつつも、実質的に聖徳太子を創造したのは道慈だったということになる」(124頁)

と言われるほど高く評価されていた道慈が、「自分の功績を軽視された」と名誉毀損で訴えるのではないかと心配になってしまいます。研究の進展によって説が変わるのは当然ですが、大幅に変えた際は、そのことを明記するのが研究者の義務ではないでしょうか。

 ともかく、これまでの大山説では、理想の聖人としての<聖徳太子>については、儒教面を不比等、道教面を長屋王、仏教面を道慈が担当したとし、長屋王がいかに空想的で現実感覚がなく、道教に心を寄せていたかを強調していました。ところが、今度の論文では、その長屋王がきわめて政治色の強い国家神話を説く『古事記』を太安万侶に作らせ、厩戸皇子の神格化も少しさせておいたという話になっています。

 ただ、資料に見えないことについてはこのように想像がいろいろ述べられるものの、長屋王邸跡から出土した木簡によれば、長屋王は写経所や造寺造塔のための工房を所有しており、また長屋王は「山川異域 風月同天 寄諸仏子 共結来縁」という句を縁に刺繍した袈裟千枚を唐の僧侶たちに送ったと鑑真が語って評価したことが『唐大和上東征伝』に見えるなど、確実な資料にあって長屋王の人物像について考えるうえで重要な事柄については、大山氏は長屋王邸木簡の専門家でありながら著書・論文で触れたことがありません。

 上記のように、『古事記』については不比等が主導したとも、長屋王が主導したとも書かれていたわけですが、いずれにせよ、不比等が本当に『日本書紀』の神話作りを主導したとしたら、大山説によれば儒教担当の不比等の意向によって書かれたとされる『日本書紀』の「憲法十七条」は、なぜ神話によって天皇を権威付けようとしないのでしょう?この点は、以前、このブログで書いた通りです。
 
 大山氏は今回の論文の結論では、天皇を「宝器」として頂くのが「天皇制」というシステムであり、その「宝器」たる天皇を輝かせるためには、「現実から遠く遊離した天孫降臨神話などでは不十分で、儒仏道の中国思想により磨き上げねばならなかった。それが<聖徳太子>だったのである」(69頁)と書いてしめくくっています。

 そうなると、不比等は、天皇制を確立するために、「現実から遠く遊離した天孫降臨神話などでは不十分」と知りつつその作成に心血を注ぎ、模範的な「天皇」像を示そうとして、天皇でなく厩戸皇子という理想的な「皇太子」を創造し、総仕上げとして、その皇太子が自ら作ったということにして、「憲法十七条」を道慈に指示して書かせたというわけですね。「憲法十七条」は神話にまったく触れないばかりか、「天皇」という語も出てこないんですが……。それに、「憲法十七条」に見えることが早くから知られている法家的な要素については、なぜ触れないのでしょう?

 その不比等について、大山論文では、天武10年(681)に律令と歴史書の編纂が始まったと述べた箇所において、「権力の核は持統と不比等だった」(51頁)と述べており、不比等の役割を強調しています。しかし、不比等はこの時はまだ若く、律令作成や国史編纂をリードする政治力があったことを示す資料はありません。

 それにもかかわわらず、<聖徳太子>が若い頃から超人的な活躍をしたとする記事を『日本書紀』の創作として否定する大山氏は、その<聖徳太子>を作り出した政治的天才とみなす不比等については、「二○代の若輩に過ぎなかった」のに常識を越えた活躍をしていたとするのです。しかも、推定ではなく、「権力の核は持統と不比等だった」と断定しています。

 なぜそう断定できるのか? 「日本書紀の謎」よりもっと「謎」ですね。現存文献からは考えられないことを、そこまで断定して強調するのであれば、いっそエクスクラメーションマークをたくさん付けて、

「天武天皇の詔によって律令と歴史書の編纂を開始した際、『権力の核』は編纂を命じた天武天皇ではなく、持統皇后と、まだ23歳で官位も低く、天武天皇が史書作成を命じた12人のメンバーのうちに名前が見えない不比等だった!!!!!」

などと書いてほしかったところです。学界が大山説を相手にしないのは当然です。

 こうした例が示しているように、史料の扱いが厳密でなく、都合の良いところだけ恣意的に用いて想像を重ねていながら断定的に述べるのが大山氏の学風です。ですから、そうした問題点を指摘した論文であれば、「聖徳太子」と書かれた墓誌や「上宮太子」の活躍を示す木簡などが出ようが出まいが関係なく、それは大山説に対する「学問的反論」として成立し、大山説は否定されるのです。実際、そうして否定されてきたからこそ、冒頭で書いたような学界の評価となっている次第です。

 『日本書紀』は全体として聖徳太子をどのような人物として描こうとしていたか、という点に注意を向けさせ、議論を呼び起こしたのは、確かに大山氏の功績でしょう。ただ、大山氏は、自分の様々な批判が実は自分自身にも当てはまることを十分自覚しておらず、また、自分がどのような点で批判されているのかが、よく分かっておられないように見えます。

 あるいは、すべて承知したうえで、敢えてあのような資料無視の新説提示や断定的な物言いを続けておられるのでしょうか。また、『日本書紀』には「聖徳太子」という語は見えないこと、「厩戸王」は現存文献には出て来ず、本名かどうか不明であることについて、今後もまったく触れないまま、<聖徳太子>と「厩戸王」について語り続けていくのでしょうか。

 大山説については、問題提起としての役割は大きかったですし、行動力を発揮して多くの研究者を集め、共同研究を進めて学界に賛否の議論をまきおこし、聖徳太子研究を盛んにした功績は認めてよいでしょう。私自身、大山説のでたらめさに呆れ、反論するために聖徳太子研究に本格的に復帰していろいろ調べるうちに、いくつもの発見をすることができました。大山説のおかげです。

 しかし、大山説はマスコミを通じて広まっており、専門家でない人たちがこの想像説を学界の通説と信じてしまうことが懸念されます。そのため、私はこのブログを始めたのですが、今回の『日本書紀の謎と聖徳太子』で大山説がさらに想像頼りになっているのを見るにつけ、次の言葉をお贈りせずにはおれません。「聖徳太子非実在説」論争を、明治・大正・昭和の法隆寺論争のように学問的で実り豊かなものにするためには、この心構えが必要であろうと思われますので。

●「過ちて改めざる、是を過ちといふ」
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大山誠一「序論 『日本書紀』の解明に向けて」「記紀の編纂と<聖徳太子>」(2)

2011年06月28日 | 大山誠一「聖徳太子虚構説」への批判
 序論における大山氏の諸論文紹介には、前稿で書いた点以外にも問題がいくつかあるのですが、そうした問題点は、大山氏が今回の本でもまた「私見に対する学問的反論は皆無である」(7頁)と力説していることと無関係ではないように思われます。

 前著の『天孫降臨の夢』(NHK出版、2009年)でも、「学問的な根拠をあげた反論は皆無であり、すでに<聖徳太子は実在しない>という理解は学界内外に定着したと言ってよいと思う」(4頁)とあり、「聖徳太子非実在論」に加え、「学問的反論非実在論」が説かれていました。本当にそうでしょうか。

 学界の動向をよく示すのは歴史講座ものや通史のシリーズなどでしょう。2000年刊行の講談社「日本の歴史」シリーズの第3巻、熊谷公男『大王から天皇へ』では、聖徳太子は『日本書紀』の最終編纂段階で不比等・長屋王・道慈が創造したとする大山氏の新説を紹介し、批判が述べられていましたが、この5~6年のうちに出たそうした書物の古代の章で、大山説について言及したものは無いように思われます。

 ごく最近の例をあげると、昨年11月刊行の岩波書店「天皇の歴史シリーズ」第1巻、大津透『神話から歴史へ』の推古朝の部分では、大山説にはまったく触れていません。また、岩波新書の古代史シリーズの第3巻として今年の4月に刊行された、吉川真司『飛鳥の都』の参考文献表では、大山誠一『古代国家と大化改新』(吉川弘文館、1988年)があげられている一方、大山氏の聖徳太子関連の本は一冊も載っていないのです。少し前に出た、吉川弘文館「戦争の日本史」シリーズの第1巻、森公章『東アジアの動乱と倭国』(2006年)でも、山川出版社「新体系日本史」シリーズの第1巻、『国家史』(2006年)でも、推古朝を扱っているにもかかわらず、参考文献にあげられている大山氏の著作は、『日本古代の外交と地方行政』(1999年)のみです。

 つまり、大山氏の古代史研究で評価されているのはその頃までなのであって、これが「聖徳太子非実在論」に対する現在の学界の評価と言って良いでしょう。学説の当否や意義と学界の評価は別ものであることは言うまでもありませんが、少なくとも、大山氏の断言とは違い、大山説が学界に定着して通説となっているという事実はありません。大山氏にとって学問的な反論が皆無に見える主な理由は、学界であまり問題にされないためであり、また直木孝次(*)・上田正昭(*)・佐伯有清(*)・山尾幸久(*)・田中嗣人(*)・森博達(*)・本間満(*)・森田悌・遠山美都男・平林章仁・曾根正人・石井公成その他の研究者によって大山説全体あるいは一部に対する批判がなされたにもかかわらず、大山氏がそうした批判を「学問的」とみなさないためです。

 大山説が発表されてしばらくの間は、上記の人々のうち*印の方々を含む賛否の論を集めた梅原・黒岩・上田他『聖徳太子の実像と幻像』(大和書房、2002年)が刊行されたり、テレビや新聞や週刊誌で取り上げられたりしましましたので、「発表して数年の間は学界内外で話題になったが、学界では次第に問題にされなくなっていった。最近では、かつて賛同していた人も、大山説に距離を置こうとする例が増えており、変わった話題が欲しいテレビ・新聞・週刊誌などがたまにとりあげる程度」というあたりが妥当なところではないでしょうか。

 推古朝に関する研究書や論文では、かつてのように「推古朝は摂政であった聖徳太子の時代」などとすることは無くなり、また「聖徳太子」という呼称は確かに減っています。しかし、古代史学界は、大山説が登場する前から厩戸皇子の事績とされるものを疑う方向に動いていたうえ、律令以前については「天皇」を「大王」、「日本」を「倭国」と書くなど、できるだけ古い表記を用いようとする傾向が強まっていました。

 だからこそ、死後になってから「聖徳太子」と称され、神格化が進んでいった人物を否定する大山説が登場した際は注目を集め、反対する研究者も多く出た一方、賛同する人、説の一部を評価して認める人、反対ながらその意気や良しとして今後の研究の進展に期待する人など、いろいろだったものの、論証の強引さが知られるようになるにつれて、次第に顧みられなくなっていった、というのが実情でしょう。

 そもそも、『日本書紀』の聖徳太子関連記述はすべて事実なのか、それとも聖徳太子は実在せず『日本書紀』がすべて創りだしたのか、という二者択一で考えること自体、おかしいのではないでしょうか。いや、そのように極度に理想化された人物が<聖徳太子>なのであって、そうでければ<聖徳太子>ではないと大山氏は見るようですが、7世紀後半に法隆寺が再建され、同時期に斑鳩で太子ゆかりと称される寺々の造営が盛んになるのは、太子敬慕の風潮の高まりを示すとする説などについては、どう考えるのでしょう。

 その段階では聖人としての理想化が十分でなく、<聖徳太子>とまでは呼べないなら、<やや聖徳太子>、<かなり聖徳太子>、<ほとんど聖徳太子>とか? そうした段階的な神格化の形成過程を跡づけていくのが歴史研究だと思うのですが、大山氏は、そのような段階的形成を考慮せず、不比等らの策謀による創作、中国の事情を知っている道慈がまとめあげた創作という点をひたすら強調し、『日本書紀』以後に行信と光明皇后によって<聖徳太子>神話化が完成されたとするのみなのです。実際には、行信や光明皇后関連の資料にも「聖徳太子」という語は見えず、「上宮聖徳法王」とか「聖徳尊霊」などとあるだけなのですが。

 大山氏は、大山説への批判は聖徳太子信仰という迷信にしがみつきたい人たちが感情的に反発しているだけだ、といった言い方をよくしており、今回の論文でも「理屈ではなく、ともかく反対だ。一○○○年を超える聖徳太子信仰の夢を覚まさないでくれということなのであろうか」(26頁)と述べています。

 しかし、大山説に反発する老齢の太子信奉者などは多いにせよ、実際に論文や著書中で大山説を批判している研究者たちについて言えば、聖徳太子を昔風に礼賛している人は少数です。多くの研究者は、程度の違いはあるにせよ、『日本書紀』その他の文献が厩戸皇子を理想化して描いていることを認め、また『日本書紀』以前から太子信仰とおぼしき風潮が見られることに注目したうえで、大山説における「史料の恣意的な用い方」「論証の不備」「美術史等の成果を無視した常識外れの断定」などの点を問題にしているのです。

 実際、今回の大山氏の序論では、「その当時の日本は、まだ未開であった。……『日本書紀』の中で聖徳太子が登場したのはこのような時代であった」(6頁)とありますが、一般読者向けの本でありながら、『日本書紀』には「聖徳太子」という呼称が登場しないことがまたしても説明されておらず、『日本書紀』という基本史料を無視した主張になっています。

 というより、大山氏は、『日本書紀』には「聖徳太子」という呼称が見えないことを、著書や論文の中で明記したことがこれまで全く無いのです。今回の論文では、8頁になると「 <聖徳太子>像成立」 という言葉が登場するため、読者は、『日本書紀』が創作した理想的な人物のことを大山氏は <聖徳太子> と表記するのだな、と理解できますが、それでも、そうした表記だけでは、『日本書紀』や750年頃までの史料には「聖徳太子」という呼称が見られないことを読者は知ることはできないままです。

 なぜ説明しないのでしょう? 「聖徳太子」という呼称そのものは8世紀半ばの『懐風藻』序が初見であるものの、『日本書紀』には厩戸皇子を神格化した記事が多く、「聖徳」の語と「太子」の語も見えているため、聖人としての<聖徳太子>は実質的には『日本書紀』において誕生したと見ることができる、と書けばよいだけのことではないでしょうか?

 また大山氏は、今回の論文では、「『書紀』によれば用明、推古、その夫の敏達、さらには厩戸王(聖徳太子)やその弟の来目王など、みな西の方、山を越えた河内に運ばれて葬られている」(32頁)と書いています。しかし、これまで私が何度も指摘してきたように、「厩戸王」という呼称は、小倉豊文が戦後になって本名として推定したものの論証できずに終わったものを、田村圓澄『聖徳太子』(1964年)が検証抜きで用いて世間に広まったものです。つまり、どの文献にも見えない呼び名なのですが、大山氏は今回の論文でもそのことを説明しておらず、『日本書紀』が「厩戸王」と記していて、それが本名であるように受け取れる書き方を続けています。

 なぜ説明しないのでしょう? この本(論文)では、後世の尊称である「聖徳太子」や「皇」の字が疑われる「厩戸皇子」といった呼び方を用いず、信仰の対象としての「聖徳太子」と史実としての「聖徳太子」を区別しようとした小倉豊文に従い、文献には見えないものの、小倉が本名と推定した「厩戸王」という名によって呼ぶことにする、と書けばよいだけの話です。どうしてそうしないのか。

 大山氏は、1996年3月に刊行された最初の関連論文「『聖徳太子』研究の再検討(上)」(『弘前大学国史研究』100号)が刊行された際、抜刷を先輩や知人に送ったところを、その聖徳太子論を大変喜ばれた京都の上山春平先生が大山氏の研究室に電話をかけてこられ、「これからは厩戸王を肯定するものを書かなければいけないね」と言われたと、思い出を記しています(大山「聖徳太子關係史料の再検討(一)」、『聖徳太子の実像と幻像』352頁)。

 実に的確な助言と感心させられますが、大山氏はそれから15年たった今日に至るまで、その助言に応えていません。「厩戸王」が実際に本名なのかどうか、文献や発掘資料などを用いて検討することを怠ってきたか、検討しておりながらその成果を発表せずにきたか、のいずれかです。

 このように資料を尊重せず、助言や批判に耳をかたむけない大山氏が書くのですから当然ですが、本書の論文「記紀の編纂と<聖徳太子>」では、『古事記』の背後には長屋王がおり、「安万侶は長屋王のブレーンとして、その意向を代弁していたとすることも可能なのではなかろうか」(66頁)などと、例によって大山氏にとって状況証拠と思われたものだけに基づく想像が述べられています。

 これは、712年に献上された『古事記』末尾には、「上宮之厩戸豊聡耳命」という「相当の『神格化』がほどこされている」敬称が見えており、『日本書紀』が説く聖徳太子説話が既にかなり準備されているとする、鎌田東二「聖徳太子の現像とその信仰」(梅原・黒岩・上田他『聖徳太子の実像と幻像』79頁)などの指摘に応えるためでしょう。鎌田論文は、大山説の問題提起の意義を認めたうえでの指摘であり、建設的な提言でしたが、これまで大山氏はこれに応えずにきました。

 それがようやく考慮されるようになり、大山氏は、『古事記』のその記述は、実は不比等・長屋王・道慈という<聖徳太子>創作トリオのうちの一人である長屋王が書かせたのだろう、と説くようになったのです。これは、今回初めて登場した説明です。ただし、鎌田論文を考慮したなどとは書かれていません。

 1996年の最初の大山論文では、『古事記』のこの「上宮之厩戸豊聡耳命」という部分については、「まだ『聖徳』でも『太子』でもないのである」(16頁下)と述べるのみで神格化は不十分とし、一方、「『書紀』の描く聖徳太子像」(5頁下)といった言い方を何度もしていました。聖人としての聖徳太子が誕生したのは、あくまでも『日本書紀』においてのことなのだと強調していたのです。

 ただ、大山氏は、その時点では、『日本書紀』には「聖徳太子」という語そのものは登場しないこと、また行信や光明皇后関連文献にも「聖徳太子」の語は見えないことに気づかないまま、あるいは、つい忘れたまま書いているように見えます。大山氏は、そのような状態で、1996年の最初の論文を書き、ついで、その論文を収録した研究書、『長屋王家木簡と金石文』(1998年)を出版した後、次々と著書を出していっており、その中には『<聖徳太子>の誕生』(1999年)や『聖徳太子と日本人』(2001年)などのような一般向けの本も含まれていました。

 その結果、大山氏は、聖徳太子研究者、それも存在したのは「厩戸王」であって<聖徳太子>は実在せず、<聖徳太子>は『日本書紀』によって創作された架空人物にすぎないとする衝撃的な説の提唱者として有名になってしまったため、『日本書紀』に「聖徳太子」という語は見えず、また「厩戸王」という呼称には文献の裏付けがないことなどについては、誰に何と言われようと、触れないようにしてきたのではないか、というのが私の考えです。

 ただ、これはあくまでも推定にすぎません。私は、この問題を調べて『大山説の謎と聖徳太子』といった本を書く予定はありませんので、推測が間違っているなら、訂正してくださるよう大山氏にお願いしたいところです。

 なお、「厩戸王」という呼称の成立背景を明らかにしたのは、小倉豊文を高く評価していろいろ調べていた私がおそらく最初だと思います(詳細は、来年5月刊行の『近代仏教』19号掲載予定)。田村圓澄先生の本や大山説に追従し、検証しないまま「厩戸王」の語を用いるようになった史学者たちは反省してもらいたいですね。

【付記:2011年6月29日】
大山説の批判者や大山説に触れない書物などについて、少し追加しました。

大山誠一「序論 『日本書紀』の解明に向けて」「記紀の編纂と<聖徳太子>」(1)

2011年06月25日 | 大山誠一「聖徳太子虚構説」への批判
 大山誠一編『日本書紀の謎と聖徳太子』(平凡社、2011年)の冒頭をかざる序論の最初の2頁では、百済から来た僧侶や寺工たちが飛鳥寺の建立を始めた意義を強調し、仏教は「中国から朝鮮へは、思想としての伝来であったと言ってよい」が、日本の場合は「技術移転の問題だった」と述べています。

 私は、拙論「仏教受容期の国家と仏教--朝鮮・日本の場合--」(高崎直道・木村清孝編『東アジア社会と仏教文化』、春秋社、1996年)において、仏教公伝を原子力発電の技術供与にたとえたこともありますので、大山氏の言いたいことは分かりますが、上の発言はやや極端すぎますね。百済でも、遺跡から見る限りでは最も壮麗な建設物は王宮でなく寺院であり、現存の法隆寺より古い山田寺の回廊の調査報告が示すように、日本に技術者を送った百済が中国江南の新しい技術を熱心に取り入れていたことが知られています。

 つまり、日本やチベットほどではないにせよ、朝鮮においても仏教導入は種種の技術導入と結びついていたのです。特に、日本と同様に文化後進国であった新羅では、技術移植は切実な問題でした。古代を考える場合、現在の国境にとらわれるべきではありません。中国と言っても、仏教と儒教を取り入れた北方の遊牧民国家などは、日本や新羅と似た面を有しています。つまり、

中国1:漢族国家(たち)
中国2:非漢族国家(漢語化)・非漢族国家(漢語化せず)・交州(越南)
周辺1:高句麗・百済
周辺2:新羅・日本

といったような分類(たとえばですよ)の方が適切な場合もあるのです。

 さて、大山氏の序論では、本書に収録された諸氏の論文の趣旨と意義を説明していますが、気になる点がいくつかあります。たとえば、井上論文は、森博達『日本書紀の謎を解く』に対してつっかかるような口調で論難していますが、序論は、その井上論文の趣旨を説明するにあたり、次のように述べています。

「今回の井上氏の論考は、『書紀』の謎と解いたと自称する森説のほとんど全論点を否定したものとなっており、結果として森氏の理解が皮相にして粗雑だったということにならざるを得ないものである。しかし、そうであればこそ、われわれは、安易に「謎は解けた」などと言うことはなく、”『書紀』の謎”の大きさと深さを確かめながら、一歩一歩前進せねばならないのである」(12頁)

 しかし、大山説を「妄想」として厳しく批判した森博達「日本書紀の研究方法と今後の課題」(『東アジアの古代文化』106号[2001年]。後に、梅原・黒岩・上田他『聖徳太子の実像と幻像』大和書房[2002年]に収録)を目にするまでは、大山氏は森説を高く評価し、推古紀などは山田史御方が書いたβ群であるとする森説に基づいたうえで、「憲法の撰述者に関しては、私は御方が書いた推古紀に道慈が手を入れたものと考えている」と述べていました(『東アジアと古代文化』106号。後に『聖徳太子の実像と幻像』344頁)。

 すなわち、これによれば、大山氏自身、森説が「皮相にして粗雑」であることに気づかず、「安易」に森説を採用していたことになりますが、大山氏にそういう自覚はあるのでしょうか。また、「謎は解けた」などと安易に言ってはいけないそうですが、大山氏自身は、<聖徳太子>が実在しないことは自分の説で決定ずみなので、以後は「新たな課題」に取り組みたいなどと書いたりしてこなかったでしょうか。

(*井上論文では、森説のうち上代日本語の音価推定については「未曽有の業績」(109頁)として賞賛し、区分論を発展させた功績も認める一方、誰が執筆したかその他の点については誤りだらけとして激烈にこきおろしています。しかし、大山氏の序論では、井上氏が評価している点をきちんと紹介しておらず、フェアでない書き方になっています。井上氏の主張については、井上論文を個別に取り上げる際、検討します)
 
 また、『日本書紀』の聖徳太子関連記事は倭習だらけだから唐に長年留学した道慈の筆のはずがないとする森博達さんの主張は、α群中国人作者説などに対する井上氏の批判とは無関係であって、今も大山説を根底から突き崩す強力な批判であり続けています。大山・吉田説では、唐に16年留学した道慈は儒仏道関する卓絶した学識を有していて文章に巧みだったことを再三強調していますが、そうした秀才が『日本書紀』の守屋合戦や片岡山飢人説話や太子没後の慧慈に関する記事のような倭習だらけの拙い漢文を書くか、ということです。

 儒仏道に通じていて文章に巧みな僧といえば、空海が第一でしょう。空海の入唐期間は短かったものの、その華麗な文章と『日本書紀』の太子関連記事を読み比べてみれば、空海より文才はかなり劣るにしても入唐経験の長い道慈が、ああした倭習だらけの文章を書くはずがないことが分かるはずです。

 あと、細かな点について言えば、瀬間論文の趣旨を説明したところで、百済の弥勒寺址から出土した舎利法安記について、「梁の法雲や隋の智、吉蔵らの影響を指摘し」(17頁)とあるのは問題です。瀬間さんは、法雲の影響は指摘しているものの、智と吉蔵については、江南仏教を受け継いだ百済の「舎利法安記」と共通する言い回しが見られ、吉蔵とその師の著作、智の師の著作などが参照された可能性があることを示唆しているだけです。智の影響があるとまでは明言していません。ここら辺は微妙なところであって、639年段階の百済で天台の影響が強かったとなると、これは朝鮮仏教史そのものの問題、その朝鮮仏教を移植して始まった日本仏教そのものの問題となり、三経義疏の著者についての議論に関わります。

 なお、私が強調してきた三経義疏における変則語法と江南・百済仏教の影響という点については、瀬間論文も曾根論文も重視しているところですが、瀬間論文が検討している新発見の百済の金石文の文句と三経義疏の類似について、大山氏の序論では「すでに石井公成氏の先駆的な研究もあり、『書紀』や<聖徳太子>関連の文献が、百済仏教の大きな影響をうけて成立したことが明確になってきたと言えそうである」(18頁)と書かれています。私の主張を大山氏に認めてもらったのは初めてですね。

 3年前の『アリーナ 2008』の大山論文では、三経義疏については、藤枝晃が「中国北朝の成立と考証し……中国製であることを鮮やかに証明した」(152頁)と断じていたうえ、三経義疏は「輸入品」であって行信が太子作だと宣伝した僞作にすぎない以上、そんな三経義疏については詳しく論ずるまでもないといった扱いでした。

 ところが今回は、瀬間論文や曾根論文によって「謎のかたまりのような『三経義疏』にも具体的な手がかりが得られつつあるのかもしれない」(18~19頁)と書かれており、三経義疏は「謎だらけ」ということになっています。いやあ、この変化は大きいですね。

 今後は、これまで鉄案としてきた藤枝先生の三経義疏中国撰述説から、百済撰述説に移るのでしょうか。もう一歩進んで、百済・高句麗からの渡来僧たちの作成といった方向に移ったなら、それはまさに、大山氏の師であった井上光貞先生の説となりますね。井上先生は、太子の主宰のもとでと付け加えていましたが。

 ともかく、井上先生は、三経義疏を光宅寺法雲や敦煌出土の『勝鬘経』注釈など中国の注釈と比較しながら綿密に読んでおり、御物本の複製も手元に置いて見たうえで論文を書いていましたので、私はその研究を高く評価しています。

研究の進展と微妙な方向転換: 大山誠一編『日本書紀の謎と聖徳太子』

2011年06月21日 | 論文・研究書紹介
 予告されていた本が刊行され、本日、「著者」よりの献呈ということで、平凡社から届けられました。編者からなのか、著者のうちのお一人からなのか、何名かの共同献呈なのか分かりませんが、有り難うございます。

大山誠一編『日本書紀の謎と聖徳太子』
(平凡社、2011年6月、2400円)

です。

 驚いたのは、宣伝用の帯に「厩戸皇子はなぜ<聖徳太子>になったのか?」と書かれていたことですね。実在したのは「厩戸王」であって聖徳太子は架空の存在だ、というのが大山説のはずですが、今回は様々な立場の人が書いているためなのか、「厩戸皇子」となってます。こういうものは、出版社側でつけるものですが。
 
 まず、目次をあげておきましょう。今回の本は、中部大学国際人間学研究所編『アリーナ 2008』(2008年3月)の「天翔る皇子、聖徳太子」という、内容にそぐわない梅原猛風な名の特集を一般読者向けにする企画だったようですが、その特集の原稿とほぼ同じ内容の人もいれば、大幅に改めた人、また全く別な論文を書いた人など、様々です。◯は前回の『アリーナ』特集の執筆者、◎は大山誠一編『聖徳太子の真実』(平凡社、2003年)の執筆者です。

序論: 『日本書紀』の解明に向けて           大山誠一
第Ⅰ部:『日本書紀』の謎をめぐって
      記紀の編纂と<聖徳太子>           大山誠一 ◯◎
      『日本書紀』の謎は解けたか         井上 亘
第Ⅱ部:中国諸文獻と『日本書紀』
      『隋書』倭国伝について           榎本淳一 ◯
      『日本書紀』の文章表現における典拠の一例
        --「唐実録」の利用について--      原口耕一郎
      『日本書紀』と祟咎
        --「仏神の心に祟れり」に至る言説史   北條勝貴 ◯
      上宮王家滅亡の物語と『六度集経』      八重樫直比古◯
第Ⅲ部:<聖徳太子の虚実>
      四天王寺と難波吉士             加藤謙吉◯◎
      百済弥勒寺「金製舎利奉安記」と<聖徳太子>  瀬間正之◯◎
      飛鳥仏教と厩戸皇子の仏教と『三経義疏』   曾根正人◯
      天寿国曼荼羅繍帳の成立           野見山由佳◯
あとがき  (執筆者全員による小文)

 大学の役職で忙しかったのか、聖徳太子非実在説の闘将である吉田一彦さん(◯◎)が書いていないのは残念ですね。『アリーナ』の特集論文のうち、榎本氏の論文、そして曾根さんの論文は既にこのブログで紹介してあります。

 また、瀬間さんの論文は、『アリーナ』特集ではなく、『上代文学』所載論文の増補版ですね。その論文については、執筆段階で瀬間さんとメールで盛んにやりとりをし、このブログの第一回目の記事でとりあげたものだけに、こうして更に追求が深められているのを見ると感慨深いです。

 大山氏の序論は、『日本書紀』において<聖徳太子>像が成立したとする自説を概観し、『日本書紀』を研究するうえでの注意点に触れたのち、本書の構成を説明し、それぞれの論文の趣旨と意義を説いたものです。大山論文の方では、『古事記』に関する新説や『日本書紀』編纂における豪族の関与などが説かれていますが、今回の本では、不比等・長屋王・道慈が実在の「厩戸王」を元にして<聖徳太子>を創作した、という立場を明確に打ち出して書いているのは、大山氏だけですね。

 井上論文は森博達さんの『日本書紀』区分論に対する激しい批判、原口論文は題名通りで、特に詔勅における利用に注意したもの。北條論文は、「仏神の心に祟れり」という問題を中心として崇仏の是非をめぐる争いの記事は中国の図式に基づく創作物語とし、道慈については何らかの形で『日本書紀』関与したとしつつも、述作者個人を明らかにするのは困難と述べます。八重樫論文は、上宮王家滅亡物語は旧訳経典に基づく可能性が高いため、『日本書紀』編纂の最終段階での創作とする推定は成り立たないだろうとします。加藤論文では、四天王寺は新羅・任那との交渉を担当した難波吉士氏が「厩戸王子」とは無関係に創建したとし、四天王寺を支えた勢力を明らかにしたものですが、推古15年前後の10年間は「廐戸王子が王族を代表して蘇我馬子と共同執政を行っていた」という以前の自説をそのまま用いてます。

 瀬間論文は、新発見の百済の金石文と三経義疏や推古朝遺文の関係の深さを指摘する一方、推古朝遺文は七世紀末以降の成立と説き、曾根論文はかつての三経義疏中国撰述説賛成の立場を改め、「厩戸皇子」の仏教の師の学系を検討して三経義疏百済僧作の可能性を示唆し、野見山論文は「天寿国繍帳」銘文は8世紀末以降であり、太子伝風な外区はさらに10世紀以後に加えられた可能性があるとしています。

 このように、聖徳太子関連の事績と言われるものを否定する論文も多いものの、立場は様々であり、『聖徳太子の真実』や『アリーナ』の頃と比べ、何人もの著者がいろいろな面で少しづつ変わってきています。以下、大山氏の序論を初めとして、いくつかの論文について、個別にとりあげていきます。

【追記 2011年7月6日】
加藤論文のところで、四天王寺を厩戸王子追善の寺と書いてありましたが、それは田村圓澄説であって、加藤論文はそれをある程度評価しつつ、批判していますので、訂正しました。加藤論文については、2度に分けて詳説してあります。
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漢字表記が喚起するイメージとその時代背景: 新川登亀男「『飛鳥寺』表記の出現と『飛鳥』の意味」

2011年06月18日 | 論文・研究書紹介

 前回は、「厩戸王」に導かれて時代が見えてきたとする田村圓澄先生の『飛鳥時代 倭から日本へ』を取り上げ、「厩戸王=善玉」というとらえ方には問題があり、そもそも「厩戸王」という呼び方は文献に見えないことを論じました。そこでその続きとして、今回は、同書の題名に見える「飛鳥」について考えてみます。この「飛鳥」という漢字表記については、新川登亀男さんの論文、

新川登亀男「『飛鳥寺』表記の出現と『飛鳥』の意味」
(『古代文学』第49号、2010年3月)

が検討を加えているからです。

 天平勝宝4年(752)の東大寺大仏開眼供養の際、元興寺から献上された複数の歌のうちに、「美那毛度乃、々利乃於古利之……」で始まる一首があります。

 「ミナモトノ、ノリノオコリシ、トフヤトリ、アスカノテラノ、ウタタテマツル」と読めますが、「ノリノオコリシ」は「法興」、「トフヤトリ」は「飛ぶや鳥」で「飛鳥の寺の……」へとつながっていきます。新川さんは、「ミナモト」が「元」に通じるなら、「元興」も想定されていることになるとします。

 また、この時に献上された他の歌に「乃利乃裳度(ノリノモト)」とあって、仏法流布の根元であることが強調されています。つまり、元興寺の僧は、「飛ぶ鳥の飛鳥」の寺である元興寺は、日本最初の寺であるとして伝統を誇ったのですが、このように様々な呼称が歌の中で用いられています。

 そこで、新川さんは『日本書紀』における元興寺の呼び方に目を向けます。創建の背景を記す崇峻即位前紀から推古・皇極・孝徳・天智の各紀は「法興寺」、斉明・天武・持統の各紀は「飛鳥寺」と記し、推古紀だけ「元興寺」の呼称も見えるからです。
  
 ついで、『続日本紀』では、養老2年(718)九月甲寅条のみ「法興寺」としていて平城京移建のことを記録し、それ以外は「元興寺」がほとんどであり、「飛鳥寺」の表記はわずか2例のみだそうです。

 「飛鳥寺」表記は、甲午(持統8年、694)銘の法隆寺銅版造像記に用例があり、7世紀末と推測される飛鳥池遺跡北地区出土木簡にも見えているほか、七世紀末の金石文にもしばしば見えているため、この時期に用いられていたことは明らかです。そこで留意されるのは、『日本書紀』朱鳥元年(686)七月における「朱鳥」への改元と、「飛鳥浄御原宮」の命名です。これを画期として、木簡にも「鳥」や「飛鳥」の表記が増えていくと、新川さんは説きます。

 そもそも、『古事記』『日本書紀』では「飛鳥」表記が基本であるものの、『万葉集』では「明日香」が圧倒的に多く、「飛鳥」は僅かしか用いられていません。例外としては、『日本書紀』斉明4年5月条に「阿須箇我播(飛鳥川)」、『万葉集』に「阿須可河」、船王後墓誌に「阿須迦宮」「阿須迦 天皇」という表記が見えます。船王後墓誌は議論のあるものですけど。

 これらに関して、新川さんはいろいろ考証していますが、重要なのは、やや多様な表記がなされていた「アスカ」が、天武天皇の頃に「飛鳥」と「明日香」に固定していったのではないか、という推定です。これにより、異質であった斉明朝の「飛鳥」表記は、天武・持統期の用例に基づきつつ、その先例を斉明天皇時の事として記した結果ではないか、と新川さんは推定します。

 いろいろな考え方があるでしょうが、いずれにせよ、現代の我々が「飛鳥」地方とか、「飛鳥」時代と言う場合は、瑞祥を尊んだ飛鳥浄御原宮の時代に確立した表記、イメージによってとらえている、ということになります。「アスカ」の音を表すのに「飛鳥」「明日香」以外の表記を用いていたら、その時代や地方に対する我々のイメージも異なっていることでしょう。怖いですね。

 「蛙」の音も「ア」ですが、「鳴くや蛙、蛙須迦の寺に……」とか、「蛙須迦浄御原宮」じゃ、田んぼの中みたいで、のんびりしすぎかも。

【追記】
◯などの位置がずれていたのを直すなど、何箇所か訂正しました。
【追記 6月19日】
ずれてしまうため、図を削除しました。

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厩戸王を善玉、馬子を悪玉とする歴史小説風な聖徳太子論: 田村圓澄『飛鳥時代 倭から日本へ』

2011年06月14日 | 論文・研究書紹介
 田村圓澄先生の『聖徳太子』(中公新書、1964年)は印象深い本でした。大学に入ってしばらくした頃に読んだのですが、太子を悩む人間として描いているうえ、三経義疏については偽作説もあると述べるのみで全くとりあげていないので驚きました。聖徳太子に関する学術的な本を読むのは初めてだったため、非常に新鮮に思われたことを覚えています。そうした斬新な内容が中公新書という手軽な形のうちに程よくまとめられていたのですから、数十版を重ねる人気となり、研究者と一般読者たちに大きな影響を与えたのは当然です。

 田村先生は、50代半ばから日本古代史と韓国仏教の関係の深さに気づいて盛んに研究を発表するようになり、平成11年には、蔵書を韓国に寄贈されています。日本古代史研究者が韓国仏教に着目するようになった原因の一つは、田村先生の著作でしょう。その他にも、先生の功績は多大なものがあります。

 ただ、先駆者には先駆者ならでは問題点もあります。田村先生の場合、その主なものは、氏族仏教から国家仏教へという図式を打ち出したこと、そして、聖徳太子に共感し、また韓国仏教の影響を重視するあまり、花郎や弥勒信仰を中心にした新羅仏教が太子や以後の日本仏教に与えた影響を過度に強調したことでしょうか。

 1917年生まれである先生の飛鳥時代研究の総結といった感じで書かれている今回の『飛鳥時代 倭から日本へ』では、末尾の「おわりに」は、次のように結ばれています。

「厩戸王に導かれ、厩戸王に学び、『飛鳥時代』の『歴史』像を見出す因縁に恵まれたことは、私にとって、かけがえのない仕合わせであり、悦びである」(167頁)

 困りましたね。第四章の節も「厩戸王の実像」となっていことが示すように、「厩戸王」の語が当然のこととして用いられており、神格化された「聖徳太子」と対比されています。しかし、「厩戸王」というのは、小倉豊文が戦後になって太子の本名として想定したものであって、古代以来、どの文献にも見えないこと、小倉の本の翌年に刊行された『聖徳太子』以来、田村先生はその「厩戸王」という語を論証なしで用いていることは、このブログで指摘した通りです

 資料収集の鬼であった小倉が、文献に見えない「厩戸王」という呼称を敢えて打ち出した背景については、6月4日の日本近代仏教史研究会大会の発表で詳しく論じました(活字になるのは来年です)。それは、天皇の人間宣言を伴う民主主義の時代になった後、「逆コース」と称される社会風潮の中で、戦時中と同様に聖徳太子を神格化し、国家主義的な目的で利用しようとする動きが起きてきたことに反対するためでした。

 そこで、早くから「世間虚仮、唯仏是真」という言葉を人間的な述懐として高く評価してきた小倉は、歴史事実としての「人間厩戸王」、悩み苦しむ一人の人間としての「人間厩戸王」に関する学術的な本を書こうとしたものの、何度も何度も書き直したすえ、結局、断念するに至りました。小倉は、三経義疏については、行信が太子作と宣伝したものだろうとして否定してしまっていたため、文献に厳密であった小倉としては、「人間厩戸王」について書きたくても資料不足で無理だったのです。

 しかし、田村先生は「厩戸王の実像」を柱として飛鳥時代の歴史に関する本を出版されました。なぜ、それが可能になったのか。『飛鳥時代 倭から日本へ』は、史料批判に基づく嚴密な研究書というより、大幅に想像に頼った歴史小説に近いものだったからです。

 この本では、百済と結びつき、百済仏教を導入した蘇我氏は、新羅侵攻派であるのに対し、百姓を思いやる厩戸王は新羅征討に反対であって新羅仏教を受容した人物であり、山背大兄も同様であったから、新羅侵攻派である残忍な入鹿に滅ぼされたという図式です。しかも、中国南朝の仏教を導入した百済仏教と違い、中国北朝系の新羅仏教こそ漢訳仏教の「本流」だという主張が何度も繰り返されています。

 しかし、その新羅仏教に厩戸王を導いたのは慧慈だった、というのですから、驚きです。慧慈は高句麗の僧、すなわち、新羅としばしば争っていた国家から公式に派遣されてきた僧です。田村先生は、以下のように述べます。

「厩戸王は、師である高句麗僧の慧慈とともに、推古政権による新羅攻略に反対しており」(30頁)
「ともあれ高句麗の慧慈は、隋=唐-高句麗の、『北朝仏教』を倭に伝えた。そして厩戸王は『新羅仏教』を受容した」(33頁)

 わけが分かりせんね。そもそも、慧慈が来朝した時、唐はまだ成立していません。高句麗の慧慈が「北朝仏教」を伝えると、厩戸王はそれを「新羅仏教」として受け取るのでしょうか。それとも、田村先生が新羅系渡来氏族だと強調する秦氏や難波吉士氏などから仏教教理を習ったのでしょうか。

 田村先生は、今回の本でも三経義疏の内容に触れていませんが、南朝の梁の仏教に基づく三経義疏をどう位置づけるのでしょう? 藤枝説に従って中国北朝の作と見るのか、伝統説を裏付けた花山信勝・金治勇などの研究に基づいて南朝の注釈に基づく太子の作と見るのか、井上光貞説のように太子のもとでの朝鮮渡来僧たちの作と見るのか、合作と考えるのか、太子没後の日本僧の作とするのか。どのような説でも良いですが、自分なりの見解を示す必要があるはずなのに、何も言われていません。
 
 また、田村先生は、厩戸王や山背大兄は百姓を大切にしてみだりに徴用せず、新羅侵攻に反対であったという点を強調します。しかし、斑鳩宮とセットで建てられた若草伽藍、そして斑鳩の地に次々に建てられた寺、そして斑鳩宮前の広大な直線道路や斑鳩と飛鳥を結ぶ直線道路(筋違い道)をどう考えるのでしょう。仮に農繁期の強制的な徴用は避けたとしても、上宮王家が盛んに建設事業を行ったのは事実です。また、新羅征討の将軍として、厩戸王の実弟と異母兄弟が続けて任命されたことをどう考えるのか。説得力のある説明はなされていません。

 この本では、百済地域における最近の発掘の成果なども、全く触れられていません。「厩戸王に導かれ、厩戸王に学び、『飛鳥時代』の『歴史』像を見出す因縁に恵まれた」とは、要するに、「史料を無視してそのように想像したら、説明がつくように思われた」というのが実際のところではないでしょうか。

 本書には、天照大神と『金光明経』の関係の深さを強調した点その他、有益な記述がいくつも含まれています。しかし、かなりの部分は、上で述べたように、「厩戸王・山背大兄=慈悲=新羅侵攻反対=新羅仏教(仏教本流)」「馬子・入鹿=残忍=新羅侵攻派=百済仏教」といった善玉・悪玉史観に基づく想像です。この図式は、後の天武天皇の事績の説明などにも影響を及ぼしています。しかし、新羅は護国的な仏教信仰に基づいて勇猛に戦い、朝鮮三国を統一したというのが通説であり、田村先生がそうした面を知らないはずはないのですが、「新羅仏教=仏教本流=平和主義 → 厩戸王 」としたい気持が勝ったということでしょうか。

 むろん、研究においては推定するほかない場合が少なくありません。ただ、その際は、推定であることを示すべきでしょう。推古23年に遣隋使が隋から倭の留学僧を一人も連れ帰らずに戻った際、「落胆し、絶望したのは慧慈であった」(35頁)といった断定調の書き方は、梅原猛の著作などと同様、小説の文体です。その時の慧慈の言動を示す資料はまったくありません。歴史書出版の老舗である吉川弘文館から刊行されたこの本は、著名な歴史研究者が書いた歴史小説として読むべきなんでしょう。もっとも、私が一番好きな文学作品は、幸田露伴の晩年の歴史小説なんですが……。

疑われる「和国の教主聖徳皇」: 遠藤美保子「親鸞本人に聖徳太子信仰はあったか」

2011年06月11日 | 聖徳太子信仰の歴史
 6月4日の日本近代仏教史研究会大会は、非常に充実したものでした。今回は、シンポジウム「十五年戦争と近代仏教」だけでなく、個人発表でも戦争と仏教の関係に関する発表が多かったため、当時の国家主義解的な聖徳太子解釈に触れた人が何人もいました。

 こうした問題を論ずる場合、決まって出てくるのが、「和国の教主聖徳皇」で始まる親鸞の和讃ですが、これを親鸞自身の作ではないと説いたのが、

遠藤美保子「親鸞本人に聖徳太子信仰はあったか」
(『日本宗教文化史研究』第12巻2号[通巻第24号]、2008年11月)

です。

 真宗の通説では、親鸞は比叡山にいた若い頃から聖徳太子信仰を抱いており、悩みがつのった際、太子ゆかりの六角堂に参籠して観音(太子)から法然のもとにおもむくよう夢告を受け、法然に師事して浄土信仰を確立し、晩年には『皇太子聖徳奉讃』『大日本国粟散王聖徳太子奉賛』などの太子和讃を作成したほか、太子関連の文献を書写したとされています。

 ところが、親鸞の思想や研究史の見直し、書翰の語法の分析などに携わってきた遠藤氏は、親鸞自身は六角堂参詣には言及していないうえ、親鸞の著作とされるもののうち、聖徳太子に言及する文献は「非常に偏りがある」ことを指摘します。

 そこで、氏は六角堂参詣があったかなかったは一旦置き、あったと仮定したうえでそれが親鸞自身の太子信仰でしか説明できないかどうか検討します。早くから太子信仰が強く、初期真宗教団のうちで勢力があった高田派系の親鸞伝ですら、観音の夢告に触れていないことに着目するのです。

 そして、そうした高田派の親鸞伝では、火災後の六角堂再建に尽力するなど六角堂と関係が深く、親鸞の参籠・夢告を指導したという説もある聖覚との関係のみが説かれていることに注意し、六角堂参詣は太子信仰を持ち出さなくても、親鸞が属していた天台の系統の寺であって、夢告で有名な観音霊験所であり、聖覚ゆかりの寺であった、ということで説明できるとします。

 太子和讃については、親鸞自筆のものがなく、親鸞の高弟である真仏の写本にしても、「愚禿親鸞」という署名部分は「後の書き入れの可能性」があると見ます。また、和讃自体も、漢文の誤読や親鸞の主著に見える語法との違いが目立つとします。特に「和国教主聖徳皇……奉讃不退ならしめよ」という有名な和讃で始まる『大日本国粟散王聖徳太子奉讃』が、直接体験を示す過去の助動詞「き」をきわだって多用し、しかも「動詞+り+き」という語法を13回も用いているのは、親鸞とは別人である「作者の癖」ではないかと推測するのです。

 これ以外にも氏は疑う理由をあげていますが、『皇太子聖徳奉讃』と『粟散王聖徳太子奉賛』とは、作者が異なっているのではないかと疑われるばかりか、両方とも親鸞作でない可能性があり、真蹟が残る『尊号真像銘文』などは、晩年になって高田派の太子信仰と太子伝収集に興味を抱いたための書写と見ることもでき、「親鸞に特筆すべきほどの太子信仰はなかったといえる」というのが、氏の結論です。

 遠藤氏本人も「今後は中世の太子信仰の実態を視野に入れながら、太子和讃の語句の用法や背景を考察する」作業を行っていくと述べているように、今回の論文は親鸞の太子信仰を否定するのに急であって、論証がもう少し必要なように思われました。親鸞が三経義疏を引用することは無く、読んでないらしいことは確かですが。

 ただ、一休作とされる狂歌・道歌が江戸時代にどんどん作られ、また別人の和歌や逸話が一休のものとされるようになった場合が多いように、和讃のような親しみやすくて教化に有効なものは、後代になって創作されたり既存のものを少し変えて宗祖作と仮託する場合も多いため、今回のように、親鸞の太子和讃に関して伝統説とは異なる視点から考察してみるのは、有意義でしょう。
 
 なお、遠藤氏は親鸞の書翰や『歎異抄』の語法を分析するに当たって、Nグラム統計を用いており、その「親鸞消息集、内容・用語・文体からの再検討」(『仏教史研究』第42号、2006年3月)では、処理結果を「色彩パターン化」する手法を、その開発者の一人である群馬大・大澤研二氏の指導を得て行なった由。漢字文献情報処理研究会の仲間たちと開発し、私自身は三経義疏研究に用いている比較分析表示法であるNGSM(N-Gram based System for Multiple document comparison and analysis)も、Nグラム統計に基づいている点は同じです。遠藤氏も強調しているように、Nグラム統計は著者問題を考える際、きわめて強力な補助ツールとなりうるものです。
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仙人としての聖徳太子?: 馬耀「『本朝神仙伝』の「上宮太子」条をめぐって」

2011年06月07日 | 論文・研究書紹介
 聖徳太子は、様々な分野の人々によって神格化されていきますが、道教の面を代表するのは、院政期を代表する学者である大江匡房(1041-1111)の『本朝神仙伝』の記述でしょう。その記述を中心にして、太子を仙人とみなそうとする歴史を検討したのが、

馬耀「『本朝神仙伝』の「上宮太子」条をめぐって--太子尸解説及び穆王・黄帝説話との関連から--」
(『日本語と日本文学』第46号、2008年2月)

です。

 『本朝神仙伝』の諸テキストのうち、「倭武命」条に続いて「上宮太子」条を載せるのは、大東急文庫本だけですが、この写本では「又た甲斐の黒駒に乗り、白日昇天し、俄頃の間(あっという間に)、千里を往還す。『十七條憲法』を作り……」と述べているものの、死の記述に続いて多くの人が悲しむ描写の途中で切れており、以下が失われています。

 ただ、鎌倉時代の『上宮太子拾遺記』に引かれる佚文によって、ある程度復元することが可能です。多少問題もあるのですが、その佚文によれば、太子の没後、盗人が墓を掘ったところ、「尸骸、見えず。猶お尸解の類なり」とあり、遺体が消えていた点は仙人の尸解と同様であるとされています。

 この描写が、天喜2年(1054)の聖徳太子墓盗掘事件に基づくことは、言うまでもありません。聖を名乗る僧が墓に押し入ったため、太子の舎利が破損していないか調査したところ、三つの棺のうち、一つには頭蓋骨があったが他の二つには無かったという説と、東の棺の中に太子が生前の姿そのままで横たわっていて異香がただよっていたという説があるが、後者が正しい、というのが『聖徳太子伝私記』の記述です。

 ところが、太子の神格化が進んでいて神秘的な記述が多い『聖徳太子伝暦』『三宝絵』『極楽記』『法華験記』などには、尸解仙を思わせる記述はあるものの、「尸解」という言葉そのものは見あたらないことに馬氏は注意します。つまり、それらは尸解に関する「表現を借りて往生を伝えるものと理解した方が無難」なのであって、明確に太子を尸解仙とみなしたのは『本朝神仙伝』が最初と、馬氏は見るのです。

 ただ、先に見たように、『本朝神仙伝』では太子は「白日昇天」したとも書かれていました。これは、尸解仙や地仙の上に位置する天仙の登仙法です。

 ここでの「白日昇天」は、ただ黒駒に乗って空を飛んだことを大げさに表現したもので、馬に乗って天を飛び、渾崙山で西王母と詩を唱和しあったとする中国の穆天子説話を換骨奪胎したものとする指摘もありますが、馬氏は、それだけではないとします。それは、『史記』などでは聖人として描かれていた黄帝が、六朝初期の道教書、『抱朴子』などになると、龍に乗って天を飛び、尸解する黄帝に変わっているためです。

 つまり、馬氏は、匡房当時は『本朝神仙伝』という題名が示すように、中国の中華主義に対抗する「本朝」意識が強くなっていたため、匡房はそれまでの太子伝に記されている太子葬送の場面を「尸解」と認定して改変したのではないか、また、穆天子と黄帝の伝説に基づいて太子を黄帝に見立て、「尸解」とは両立しないはずの「白日昇天」をも「上宮太子」条に取り込んだのではないか、と見るのです。

 「本朝」という言葉を用いての本朝意識の成立は遅いものの、自国を(小)中華とみなすことは、早くから中国周辺の諸国に見える傾向であって、時期によって強まったり弱まったりするため、『日本書紀』にしても古代朝鮮文献にしても、そうした点に注意して読むことが重要ですね。

橘堂晃一「トユク出土『勝鬘義記』について--トルファン、敦煌そして飛鳥--」

2011年06月04日 | 三経義疏
 このブログのタイトルの制限は「全角50字以内」です。そのため、普段は、こちらで簡単なタイトルを付け、論文や研究書については題名を示すだけにとどめてサブタイトルは記事の中で紹介していたのですが、今回はサブタイトルが面白いため、そちらを優先しました。

橘堂晃一「トユク出土『勝鬘義記』について--トルファン、敦煌そして飛鳥--」
(『仏教文化研究所紀要』第46集、2007年12月)

 うん、なかなか良いですね。橘堂氏は、敦煌写本研究の伝統で知られる龍谷大学西域研究会の研究員です。

 さて、中国の西北端に位置する敦煌の洞窟で発見された膨大な写本に含まれる『勝鬘経』注釈書類のうちに、聖徳太子の作と伝えられる『勝鬘経義疏』とかなり似ている『勝鬘経』注釈書(奈93)が存在することが報道されたのは、1968年のことでした。橘堂氏にならって、以下、この写本を敦煌本と呼びます。

 この敦煌本こそ、『勝鬘経義疏』が「本義」と呼んでいる種本だろうということで、藤枝晃先生はこれを『勝鬘経義疏本義』と名付けました。そして、『勝鬘経義疏』はこの『勝鬘経義疏本義』を抄出してできた出来の悪い注釈であって、遣隋使が持ち帰ったものと説いたため、大論争になった次第です。

 しかし、藤枝先生がひきいる敦煌写本研究班の一員として『勝鬘経』注釈を担当し、最初にこの類似を発見した古泉圓順先生は、敦煌本が『勝鬘経義疏』の直接の種本なのではなく、元になった注釈が別にあって、それを敦煌本と『勝鬘経義疏』がそれぞれのやり方で抄出して作成したのだと論文で主張しました。藤枝先生も、後にそうした成立過程説に変わりましたが、古泉先生とは少し意見が違う点もあります。
 
 ただ、その古泉先生も、敦煌写本の研究をしていた他の研究者も、敦煌本については、中国北地の地論宗の学風を受けた注釈と見ていました。これに対して、金治勇氏は、敦煌本は『成実論』を基礎学として尊重したことで知られる梁の三大法師の一人である僧旻(467-522)の『勝鬘経』注釈、つまり江南に位置した南朝の注釈なのであって、これが『勝鬘経義疏』の「本義」と推定しました。

 金治氏は、三経義疏のうちの『法華義疏』は、梁の三大法師の一人である光宅寺法雲(467-529)の『法華義記』を本義としているように、『維摩経義疏』は、智蔵(454-522)の注に基づくとも主張していました。つまり、三経義疏はそれぞれ梁の三大法師の注釈を手本としており、すべて江南の学風を継いでいると主張したのです。

 金治氏は聖徳太子礼賛者ですが、三経義疏を太子作として誉めたたえるだけの駄作論文を書く人が多い礼賛派の中では、珍しく着実な文献学的研究をしていた研究者です。

 ところが、最近、この問題に関連する西域の資料が発見されました。大谷探検隊が敦煌のさらに西に位置するトルファン地区のトユク(吐{山谷}溝、トヨク)で発掘し、現在は写真だけが残る587年書写の写経断片と同じ写本の一部と思われる断片が、旅順博物館が所蔵する大谷探検隊将来資料のうちに見い出されたのですが、それが敦煌本や『勝鬘経義疏』に類似する『勝鬘経』の注釈だったのです。これを橘堂氏はトユク本と呼んでいます。

 旅順博物館と龍谷大学の共同研究において、この断片を研究した橘堂氏は、断片のうちに見られる「四種生死」と「従識窟出」という文句に着目します。「四種生死」というのは、金治氏が僧旻の説であることを指摘し、敦煌本は僧旻の注釈だと主張する際の根拠とした術語です。その術語が、トユク本のうちにも見られたわけです。
 
 もう一つ橘堂氏が注目したのが、「従識窟出」という句です。橘堂氏は、三論宗の吉蔵が「成論師」や『成実大乗義』の説として「(衆生は)無明識窟」より「流来」してこの世に生まれたとしている箇所を指摘し、吉蔵が「成論師」と言って批判する場合は梁の三大法師を指すとする通説に注意します。すなわち、敦煌本や『勝鬘経義疏』と似ているトユク本は、江南の成実師の注釈が西域のトルファンまで伝わったものであり、金治説が妥当である可能性が強まったとするのです。

 藤枝先生は、敦煌本と『勝鬘経義疏』は良く似ているものの、科段の進行の仕方が違うことを指摘していました。経典を章・大段落・中段落などに分けていく際の分け方は同じなのに、段落の意義の説明と個々の箇所の説明の順序が違っていたのです。藤枝先生は、「本義」は科段進行は敦煌本より『勝鬘経義疏』の方に近かったろうと推測していましたが、今回のトユク本は、まさに『勝鬘経義疏』の科段進行に近いものでした。

 橘堂氏は、敦煌資料における写本の多さから見て、西域ではトユク本より敦煌本のタイプの方が広まっていたと推測していますが、トユク本・敦煌本・『勝鬘経義疏』もすべて、「成論師」と呼ばれた江南の『成実論』尊重派の系統の注釈と見ます。ただ、トユク本が敦煌本と『勝鬘経義疏』の共通の祖本なのか、あるいは『勝鬘経義疏』は敦煌本を「本義」としつつ、トユク本のような注釈も参照した結果、あのような科段進行になったのかについては、現時点では結論は出さずにおくとしています。

 無難な判断でしょう。ただ、私は、敦煌本については、学風が違う面もあるため、梁の三大法師の系統の注釈でなく、それに基づいて北地の解釈を入れたものと見るのが妥当ではないかと考えています。

 『勝鬘経義疏』は変則漢文が多く、中国撰述とは考えられないことは2本の論文で論証した通りですが、以上のように、『勝鬘経義疏』に関する研究状況は変わりつつあります。『勝鬘経義疏』は中国北地で作成された敦煌本に似ているから、『勝鬘経義疏』も中国北地の作だとする説は、成り立たなくなりました。だからといって、聖徳太子の作と論証されたわけではありませんが。

 それにしても、この論文のサブタイトルが「そして飛鳥」となっているのが気になりますね。飛鳥時代の日本という一般的な意味なのか、飛鳥寺での作と見るなどの理由があって「斑鳩」という言葉をわざと避けた意図的なものなのか。

 さて、本日は、近代仏教史研究会で戦中・戦後の聖徳太子像の変化に関する発表です。著名な教学者たちの変節と戦争責任がらみの内容なので気が重い……。これから発表資料の残りを完成させ、コピーして綴じる作業に入ります。「人間聖徳太子」という点を明確に意識した最初は、戦争末期の亀井勝一郎みたいですね。

【追記:2011年8月16日】
吉蔵が『成実大乗義』の説として「(衆生は)無明識窟」より「流来」してこの世に生まれたとしている点については、奈良時代後半に書かれた『東大寺六宗未決』の成実宗の疑問の箇所が、まさにこの無明から生まれて三界に入るという問題で始まっていることからも裏付けられます。
【追記2021年2月3日】
インドや西域の地名の表記は様々ですが、この記事を書いてから10年近くたった本日、題名は「トヨク」でなく「トユク」となっていることに気づきました。美術史の宮治昭先生などは、吐峪溝を「トヨク石窟」と書かれているため、そう思い込んでおりました。橘堂氏には申し訳ない次第です。